File:9 雀が愛していたのは




 PM19:01。新宿署。


 たちり固まった身体を伸ばしながら、ガラス張りの玄関を抜ける。

 明るい署内から、一歩外に出ると辺りは別世界のように暗い。駅は近いが、オフィスビルが多く人気が少なかった。目の前の六車線道路を横切る車のヘッドライトと、警察署の窓から漏れる光だけが周辺を照らしている。

 闇を吸い込むとほんのりと水気を含んだ空気。明日は雨になるかもしれない、とぼんやり考える。

 後ろのガラス戸が開く気配に振り返ると、椛島かばしまと水戸がガラス戸を潜り抜けたところだった。

「また明日、お宅に伺います。今日は遅いので、お送りしますね」

「いいえ、大丈夫です。迎えが来ますので」

 すると、一台の白いセダンが新宿署の目の前に滑り込んできた。

「あ、お迎え来ましたね」

「……いえ、違います」

「え?」

 動揺する椛島の隣で舘は車を睨んでいた。覆面だと直感する。助手席が開き、降り立つ人物の顔を見た途端、舘は露骨に顔を歪めた。

「偉くタイミングがいいじゃねぇか。なぁ、三輪警部補?」

「優秀な覗き屋がいるもんで」

 今にも唾を吐きそうな舘に蕗二は肩をすくめる。蕗二を降ろした車がゆっくり走り去った。そのテールランプを見つめる水戸は、状況を飲み込めずにただ立ち尽くしている。

「水戸さん、今からお帰りですよね」

「えっ、はい、そうですけど……」

「少しお話したいことがあります」

「待てよ」

 水戸と蕗二の間に割り入った舘が下から睨みつける。

「今日の取調べ時間は終わった。話すなら承諾書しょうだくしょを」

 舘の言葉を遮るように、蕗二は一枚の紙を差し出す。舘は紙をひったくると、隅々まで目を通した。上部に承諾書と書かれたそれには、菊田警部と捜査指揮官の麻田あさだ警視の手書きの署名と捺印がされている。つまり、全ては通っていて、舘に止める権利はないということがありありと記されていた。

「そういうことかよ」

 舘は紙を握りつぶし、蕗二に投げつける。避けることなく素直に当たる様子に、さらに腹を立てた舘は盛大に舌打つと踵を返し、署に戻っていった。蕗二は投げつけられた紙を拾い丁寧に伸ばすと、おろおろと戸惑う椛島に手渡し、署長に渡すように指示する。

 慌てて舘の後を追った椛島の後ろ姿を見送った蕗二は、テレビの前でドラマの行方を見守る観客のように呆然と立ち尽くす水戸に向き直った。

「すみません、見苦しいところを」

「え、ああいえ。でも、どうしてまた?」

 戸惑う水戸に蕗二は口を開いた。直後、乃ノ花、と名前が呼ばれた。声に蕗二と水戸が横を向くと、視線の先に細身の青年が目を見開いて立っていた。水戸を呼ぶ声は高く、そこでやっと青年ではなく女性だとわかる。

 蕗二は女性と正面から向き合った。

「貴方をお待ちしていました、市谷さん」

 市谷は茶色い前髪の間から蕗二を睨みつけ、水戸は戸惑いの表情を蕗二へと向けた。

「乃ノ花、この人とちょっと話すけどいい?」

「紫音……!」

 動揺を隠せず、何度も蕗二と市谷へと視線を移す水戸に、市谷は笑いかけた。

「大丈夫よ、乃ノ花」

「でも……」

「乃ノ花、疲れてるでしょ? 中で座ってて」

 強い口調で言われ、しぶしぶ水戸は署へと入っていった。愛想よく手を振っていた市谷は、水戸がガラス戸の向こうに消えた途端、目尻を吊り上げた。

「何の用ですか?」

 青い光が威嚇する。蕗二はスーツの内ポケットに手を差し入れ、先ほどよりも上質な白い紙を取り出した。丁寧に広げて、市谷に掲げて見せた。

「林卓真と高山秀則の殺害容疑で、貴女に逮捕状が出ました」

 市谷は特に驚くことなく、紙に印刷された文章を視線で撫でると首を傾げてみせた。

「ごめんなさい、全く覚えがないんですけど」

「いえ、あなたは犯人です」

 声は市谷の背後から聞こえた。青い光越しに振り返る。市谷の足元から伸びた影の先が動く。闇に身を沈めた体が光に踏み出し、学ランの少年が浮かび上がった。

「あなたが、二人を殺しました」

 闇夜をそのまま閉じ込めた真っ黒い目が、氷を張ったように鋭く冷たい光を帯びて市谷を射抜く。市谷は警戒の色を強くする。

「決め付けないでもらえますか。私は、殺された人たちのこと、何も知りませんので」

「いえ、顔は知っています。知らないのは、お互い踏み込まなかっただけです」

 芳乃は髪を掻き上げる。さらされた耳元で小さな青い光に、市谷は驚きを隠せない。

「あなたは、ぼくと≪同じ≫です。が、逆に≪それ≫を利用して、被害者たちを罠にかけたんですよね?」

 芳乃は何かを覗くように、目を細めた。

「あなたは、一夜限りの行為を名目に、被害者の家に招いてもらった。そして、行為直前に、これを飲んだほうが気持ちいいとでも言って、違法のバイアグラを勧めた。もちろん被害者に怪しまれないように、自分は薬そっくりのフェイクを飲んだ上でです」

 ただ口をつぐんでいた市谷が、不快そうに腕を組む。

「君、ちょっと失礼じゃない?」

「事実です」

 芳乃は垂らしたままの腕を持ち上げた。手には液晶端末が納まっている。指先でいくつか操作をすると、市谷に光る画面を向けた。

「第一被害者の林には、バイト先の客として。第二被害者の高山は、同じ大学院ですから、いくらでも接触できます。証拠として、≪リーダーシステム≫から、あなたが林の働いていた店に訪れていたこと、被害者二人の自宅付近を訪れていたことは確認できました」

 画面には、市谷の≪行動記録≫が日付と住所とともに細かく表示されていた。

眩しそうに画面を見つめていた市谷は、不意に顔を伏せると、笑みを漏らした。

「じゃあ、私はどうやって人を殺したの?」

 顔が上がると、先ほどまでの警戒がなくなり、芳乃の視線に挑むように向き合った。芳乃は一つ瞬くと、わかりましたと冷えた声を放つ。

「あなたは、被害者にバイアグラの副作用が現れたら『ある薬』を注射してトドメを刺した。死んだ被害者から証拠を全て拭き取り、亡くなった被害者の口から管……柔らかいゴムホースですね? それを入れて、胃にお湯を流し込んだ」

「なんでそんな事しないといけないんですか? 手間ですよ」

「いえ。その手間が必要だったんです」

 芳乃は冷たい目のまま、自らの鎖骨の中心から胸、腹を見せ付けるように指で差し下ろす。

「飲んだり打ち込んだ薬物は、胃腸で吸収されて、必ず肝臓で分解されるんですよね。そこを調べられると、犯行がばれてしまう。だから内臓を早く腐らせたかった。でも、人は腐ると強烈な臭いが出ます。異臭で死体が早く発見されてしまうとせっかくの手間が台無しです。だからエアコンを付けて、身体の表面は冷やしたんですよね。身体の表面の腐敗を遅らせて、『天然の袋』を作り出した。そしてあなたの思惑通り、被害者の発見が遅れ、死体は事故死で処理されました。証拠であるゴムホースは刻んで捨てればまず見つかりません」

 芳乃が言葉を切ると、市谷は刑事ドラマの推理を吟味ぎんみするように、楽しげに笑った。

「面白い推理ですね。でも、私はどうやって注射器と薬を手に入れるんですか? 私の家を探してもらって構いませんが、そんな人を殺せるよう薬、ありませんよ? 第一、劇薬や毒薬は手に入れようと思ったら許可が要るんです。警察はそれを見落としたんですか?」

 高慢な悪役のように笑ってみせる。だが、芳乃はゆっくりと首を左右に振った。

「いえ、たった一つだけ。警察に見つからず、正当な方法で薬を手に入れることが、あなたにはできるんです」

「そんなはず……」

 芳乃が市谷の後ろに視線を投げた。その視線を追うと、蕗二が逮捕状をめくり、カルテのコピーを市谷に突き出した。

「病院のカルテを調べさせてもらった。あんたの犬、耳の病気以外にも、もともと糖尿病を患ってるんだってな」

「そう、犯行に使ったのは、糖尿病治療薬のインスリンですよね」

 市谷から余裕が消えた。捕食者が通り過ぎるのを待つように、息を潜める。だが氷の眼は、真っ直ぐに市谷を捕らえた。

「インスリンは医師の指示に従い、量さえ間違わなければ安全です。ですが、大量に投与すれば血糖値を下げて、命を奪うこともできます。それにインスリン自体、元々体内にあるものです。薬物として、まず検査対象にはなりません。だから、死体を見慣れた目を持つ検視官も気付かなかった。さらにインスリンの注射器は、注射針の中でも、特に針が細いものを使うから、注射痕は目立ちません」

 芳乃の強い口調に、市谷が諦めたように両手をあげて見せる。が、目は戦意を完全に失っていない。

「そうですね、認めます。モモ……うちの犬は糖尿病です。でも、獣医さんから貰う注射器は使い捨てで、毎回返してます。私が犯人と言う証拠がないですよね?」

 ぎらりと睨まれた芳乃は、小さく息を吐くとズボンのポケットに手を差し入れた。

「実は、友達に獣医さんが一人いまして。その人から聞きましたが、確かにゴミは毎日回収されてしまいます。ですが、それは一般ゴミの話です。注射器のような産業廃棄物の処理は専用の容器一杯になるまで、回収されません」

 ポケットから引き抜いた手には、ビニール袋が掴まれていた。中には細いシリンジ。針と注射器が一体化した、インスリン専用ディスポーザブル注射器が一本入っている。

「これにあなたの指紋と、高山の血が付いていました。もう言い逃れはできません」

 今度こそ市谷から戦意が消えた。肩から力を抜くと前髪を掻き上げ、空を仰いだ。

「あーあ、完璧だと思ってたのに。結構自信あったんだけどな」

 悪戯のばれた子供のように肩をすくめる市谷に、蕗二は痛いぐらい眉間に皺を寄せた。

「なんで殺した。被害者二人とあんたには、接点がほとんどない。なのに、こんな手間までかけて殺した。理由は何だ」

 唸り声のような低い声に、市谷は微笑むと空に向かって大きく笑う。空に吸い込まれる声が止むと、突然ぐりんとこちらを向き、蕗二は心臓を跳ねさせた。

「裁きだから」

「……裁き?」

「そう、裁き。自分の欲望のまま、女を良い様に使い捨てるような低能な生物、生きてる価値なんてない。せっかく≪目印≫まで付いてるのに、なのに誰も目を瞑る。許せない。許せない許せない許せない! だから私が裁いた。それの何が悪いの?」

 首が傾げ、壊れた人形のように頬にかかった髪と、見開き瞬かない目が見つめてくる。

「あなたはわからないでしょうね? そんな扱い、受けたことないでしょうから」

 蕗二は鳥肌を立て、息を呑む。犯人に怒鳴り散らされ、殴りかかって来られることには慣れている。だが、市谷は真逆だ。柔らかい布で首を絞められるような圧迫感に、呼吸が苦しい。

 硬直する蕗二に市谷が間合いを詰める。足を後ろに引いたときには、ネクタイが掴まれ鼻面に殺気に満ちた目があった。

「これが殺した理由。これで満足?」

「本当にですか?」

 呟きに近かったが、冬の空気のようにんで鼓膜を叩く。鋭い視線がそれた。

 芳乃と市谷の視線が絡む。芳乃の氷の眼は変わらず凍えるほどの光を宿しているが、刺すような冷たさはない。

「そうよ、何か文句あるの?」

「あなたは今、嘘をついている」

 静かな声に市谷の身体が大きく震えた。信じられないものを視たように青褪あおざめ、芳乃を凝視する。すると芳乃の口が動いた、「やっぱり」と。

「あなたは、許せなくて殺したんじゃない」

 芳乃が踏み出した。市谷が蕗二のネクタイから手を離し大きく一歩後ずさる。

「手を下さなければならなかった」

 揺れる瞳を芳乃は瞬きもせずに縛り付ける。完全に動きを止めた市谷の怯えた目を覗き込んだ。

「……乃ノ花さんを守り、救うために。そうですよね」

 その声に金縛りが解けたように小さく笑うと、つっと目が伏せられた。顔を覆いうつむいて、涙を零すように小さく呟いた。

「幸せに、なって欲しかった。乃ノ花のためならいくらでも、死体を積もうと思った」

 芳乃が堪えるように下唇を噛むのが見えたが、蕗二は押さえ切れなかった。

「それで、水戸が喜ぶと思ってんのか。確かに最低な野郎たちだ。だからって殺すこと」

「あなたに何が分かるって言うの!」

 突如噛み付くように吼え、蕗二に加減もなく掴みかかる。

「あの子はこんな≪私≫でも、普通に接してくれた。なのにあの子を食い物にするなんて、≪同じ立場≫なのに、乃ノ花だけは違ったのに、あんなの酷すぎる! 私は、あの子だけは守りたかった! 守りたかったの! あんたに私の気持ちが分かって堪るか!」

 蕗二の襟元を強く握り締め、強く揺する。蕗二は揺すられるまま、ただ黙っていたが、ふと市谷の手を強く掴んだ。離されまいと白む手をゆっくりと撫で、包むように握り直した。吊り上がった目を見つめ、ゆっくりと慎重に口を開いた。

「あんたは、正しい。被害者の野郎たちは、報いを受けても当然だ。でもあんたの行いは、許されたもんじゃない。それに一歩間違えば、水戸が巻き込まれていた。それは、お前の望む結果なのか?」

 市谷の目が限界まで開かれる。瞳が揺れ、力なく口が開くと唇が震えた。

「乃ノ花は、関わってない。………何も知らない」

 膝から力が抜け、蕗二の身体を伝ってしぼむように崩れる。

「全部、私が悪いから、あの子には何も言わないで」

 地面に座り込み、倒れないようにと支えた腕の中で、嫌われたくない、と掠れた声でいた。








 赤く回り、目をチラつけせる光を見送った蕗二は、新宿署のガラス戸に視線を移した。突き破る勢いでドアを開け放ち駆けてくる水戸に頭を下げた。

「ご協力ありがとうございました」

「あの、紫音は……」

「本庁にて、身柄を預からせて頂きます」

 水戸が愕然がくぜんと蕗二を見つめる。動転したように何度も瞬きをして、そうですかと呟いた。水戸の旋毛つむじを見下ろしながら、蕗二はどうしても聞きたかったことを口にする。

「水戸さん。あんたは、市谷が犯人だということを知ってたんだろ?」

 瞬間、蕗二のふくらはぎに強烈な衝撃が走った。

 堪えられず声を上げ、蹴られたであろうふくらはぎをかばうようにうずくまり、蕗二は背後を睨みつける。呆れた顔の芳乃が、蕗二を見下ろしていた。

「あなた馬鹿ですか、どこをどう聞き間違ったら『犯人を知ってる』になるんですか。彼女は何も知りません」

 溜息を大げさにまで吐くと、解けかけていた黒い瞳が再び凍った。

「ですが、気がついていましたよね? 市谷さんが犯人だって」

 芳乃の視線の先で水戸は笑っていた。だが、眼だけが表情を失っている。まるで貼り付けたような笑みだ。

「なんで私が、紫音を犯人だと思うんですか?」

「ぼくが質問した時、あなたはまっさきに市谷さんを思い浮かべて、彼女が捕まるのかどうかを考えていましたね? 具体的な犯行の様子が視えなかったので、気がついているだけで、市谷さんの犯行自体は知らないんだと思いました」

 淡々と告げる芳乃に、水戸は表情を変えることなく、小さく小首を傾げた。

「もしかして、あなた心が読めるの?」

 芳乃は答えない。だが、水戸の笑みが深まった。何も浮かべていなかった瞳がとろりとゆるむ。

「羨ましい。生まれつきなの? そうじゃないなら教えてほしいな」

「質問に答えてください。なぜ気がついていながら、黙っていたんですか」

 指先が凍るほどの冷たい声に構うことなく、水戸は小さく声を出して笑った。

「だって、止める必要ないじゃないですか。私の為にやってくれたんですから」

「ふざけんな!」

 蕗二の喉を突いて出た声は、予想以上に張られていた。

「自首を促すとか、何だってできた。そしたら市谷が犯行を重ねる必要はなかっただろ!」

 構わず言葉を吐き出した蕗二を見つめる水戸の、穏やかな目の奥で、どろりと濁った感情が滲む。それに蕗二が口をつぐむと、芳乃は小さく呟いた。

「やっと、わかりました。あなたは初めから、林さんも高山さんも愛してなかった。あなたは、自分が興味もない男性を異様に引き寄せてしまうことをわかっている。被害者たちはただの盾、他の男性から執拗しつように言い寄られた時の逃げ場所として利用した。でも、本当に愛していたのは、ただ一人。市谷さんですね」

 芳乃の冷たい声に、水戸は満足げに微笑むと髪を優雅な仕草で耳に掛けた。細い指先が耳の縁を撫で、存在しないはずの青い光を撫でるように耳朶じだつまむ。

「ねぇ、刑事さん。≪ブルーマーク≫って何ですか? ≪ブルーマーク≫が付いてても、何も悪いことをしてない人がいるし、裁かれない人がいる。まるで、人が人を見下す為の偏見だと思いませんか?」

 蕗二は水戸の言葉を飲み込めなかった。さらに追い討ちをかけるように水戸は言葉を連ねる。

「でも、私は紫音を愛してる。誰よりも何よりも。犯罪者予備軍ブルーマークだと言われても、たとえ人を殺したとしても、私の想いは変わりません。紫音の全てを愛してるんです……!」

 優しく、幸せそうな笑みは、誰もが息を呑むほど美しかった。

 蕗二は口を動かすが、言葉が出なかった。何を言えばいいのか、思考が混乱する。

「でも、あなたはそれを伝えていません!」

 突然張られた声に、蕗二ははっと視線を向ける。芳乃が震えるほど強く手を握り締めていた。

「市谷さんは、自分が≪ブルーマーク≫であることを恐れていました。それでも、変わらず接してくれたあなたを、救いたいと、守りたいと、自分の手を染めました。でも、同時に事件の発覚を恐れていました。あなたに嫌われたくないから……」

 芳乃が目を伏せた。強く目を瞑ると、溜息と共に声を絞り出した。

「言葉にしなければ、伝わらないこともあるんです」

 水戸が滑らかな頬を透明な一滴が目の縁から伝い、顎から滴った。水戸の顔がくしゃりと崩れる。雨のように雫を次々と足元に落とし、悲痛なまでに泣き声を上げた。







 明かりに照らされた小さな背が、記憶のまま座っていた。隣に腰かけると、額に手をあて眠るように目を瞑っている。蕗二が缶コーヒーのプルタブを立てる音に、伏せられていた瞼が持ち上がった。

 ぼんやりと焦点の合わない視線の前に、カフェオレとラベリングされた小さな缶をかざす。

「お疲れ。それ飲んだら送るぞ」

 芳乃は声に答えないまま缶を受け取ると、蕗二に習って一口飲むと息をついた。

「運が良かったですね。たぶん、あと一歩遅かったら、市谷さんは捕まえられませんでした」

「……ああ、そうだな」

「納得してないみたいですね」

 蕗二はコーヒーを半分ほどあおり、水滴が浮かび始めた缶を握りこむ。

「本気で好きな相手なら、犯罪者になる前に、止めるべきだろ」

 確かに今回は被害者もたいがいだったが、もし最初の犯行で水戸が止めていれば、市谷も罪を重ねる必要はなかったはずだ。

「なぜですか?」

 冷たい声がした。蕗二は芳乃を睨みつけるが、それよりも強い眼光で蕗二を射竦いすくめた。

「それは刑事さんの理想の押し付けです。良いか悪いかは、本人たちだけにしか分からないんです。あなたが決めることではありません」

 冷たい視線がそれ、蕗二はやっと深く息を吸う。芳乃は缶の中身を飲み干すと、暗がりに視線を投げた。

「あまり視たいものではありませんでしたが…………水戸さんは被害者から盾となる代わりに、対価を求められています。お金や、彼女自身を…………もし市谷さんが被害者を殺さなかったら、……いずれ、水戸さんが殺していました。市谷さんは、水戸さんを救ったんです」

 その言葉に腹底が冷え、蕗二は歯を食いしばった。筋が浮き立つほど、缶を握り締める。

 水戸に一線を越えさせない為に、自らが一線を越えたって言うのかよ。

 一体何処でこの殺人を止めることができたというのか。

 水戸に集る男が悪いのか? 殺意を抱く前に、男たちと別れていればよかったのか? 市谷が、いや水戸が市谷に想いを伝えていれば……? 止まる場所はいくつもあったはずなのに、全てがすれ違った。まるでこうなる運命だったと言わんばかりに。

「刑事さん」

 隣で立ち上がる気配がした。顔を上げると、芳乃がこちらを見下ろしている。背に光を受けているせいで、芳乃の顔はかげり表情は見えない。まるで黒い仮面を付けているようだ。芳乃であるはずなのに、まるで違う生き物のようで恐怖に体が強張った。

「あなたは刑事としては、優秀だと思います。ですが、理想を追いすぎる。人は、もっと歪んでいるんです。説得でどうにかなるくらいなら、人殺しは起こらないんですよ」

 青い光が蕗二の網膜を焼こうとしている。蕗二が目を細めると、青い光の奥、黒い瞳が見えた。

 蕗二を見据える黒。そこには光さえも拒絶し、何処までも深く、深淵のような闇があった。

「あなたには、覚悟がない」

 冷たい声は蕗二の体温を奪い、まるで氷漬けにされたかのように身動き一つできず、言葉も思考さえも奪われていた。

 次にはっきりと意識が戻ってきた時には、芳乃は闇夜に溶け消えていた。

 初めから存在しなかったように。

 唯一、隣に置かれた中身のない小さな缶だけが、彼の存在を証明していた。








**繚乱のガーデンストック** 【了】

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