File:8 愛をさえずる
新宿警察署。
蕗二がシルバーのセダンで裏口に回りこむと、案の定スーツの男・
形ばかりの敬礼をした舘は蕗二の後ろ、鑑識の服を羽織った芳乃に視線を向けた。帽子を被ってうつむいている為、ほとんど顔は見えない。だからか舘は特に何も言わず、蕗二に視線を戻した。
「本当に気持ちの悪い部署だな。水面下を泳ぐなら、サメの背びれでも付けてくれないかね?」
露骨な皮肉に、蕗二は反射で小さく舌打ちし、誤魔化すように咳こんだ。
「早く解決するのが【うち】のモットーなので」
「で? お前さんらが
「まだホシと決まってない内から、決め付けるのはどうかと」
「優等生の回答ありがとうございます、班長殿」
舘は蕗二を下から睨みつけ、署内に踵を返した。その後に続き、足早に事務所を抜け、人が通れるだけのスペースを残し、書類の詰まっていそうなダンボールや交通安全の看板などが積み上げられた階段を上がる。鉄のドアを荒くノックし、中に顔だけ突っ込むと小声で何か言った。すると、部屋から舘の部下・
睨む舘を横目に、蕗二と芳乃は取り調べ室に足を踏み入れる。
机を挟んだ正面、菊田から受け取った画像のままの
「初めまして。私は警視庁の三輪と申します、こちらは芳乃です」
「初めまして、水戸乃ノ花です」
警戒と疲労の色を一瞬で引っ込め微笑んで見せると、見た目通り洗礼された仕草で軽く頭を下げられる。蕗二は妙な緊張感から姿勢を正した。
「お疲れのところ申し訳ないですが、改めてお話をお伺いします。同じことを聞くかもしれませんが、ご協力お願いします」
蕗二が頭を下げると、突然芳乃が蕗二を無遠慮に指差した。
「この人、顔の割りに意外と常識人なので、さっきの刑事達よりはマシだと思います」
蕗二が視線で黙らせようとしたが、芳乃はあえて無視するように視線を合わそうともせず、言葉を続ける。
「あと、足が無駄に長いので邪魔なら蹴ってもらって構いません」
「……お前、俺が黙ってれば言いたい放題言ってくれるな?」
向けられた指を掴もうとしたが、芳乃はそれよりも早く手を引っ込め、呆れた顔で蕗二を見た。
「事実ですよ。刑事さんのせいで、狭い部屋がさらに狭く感じるじゃないですか」
「おーおー言ってくれたなクソガキ。じゃあ何食ったらそんなチビになるか教えてくれるか?」
芳乃の眉がピクリと動いた。
「これから伸びるので、ほっといてくれますか」
「へえ、じゃあ毎日牛乳でも飲んでるの? かわいいねー? 俺は牛乳飲んでないけどなー」
火花を散らす勢いで睨み合う。と、水戸が笑い声を上げた。蕗二が顔を向けると、慌てて口元を押さえたが、堪え切れていない。顔を真っ赤にして、込み上げる笑いに身体が小刻みに揺れていた。
「あー……すいません」
居た堪れなくなった蕗二が謝ると、水戸は頭を何度も振った。
「私こそごめんなさい、警察の方ってもっと怖いと思ってたのでつい」
溢れた涙を指先で拭った水戸は、緊張が解けたのか、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「三輪さん、私は卓真さんと秀くん、お二人とお付き合いしてました」
蕗二が椅子に座り直すと、水戸は言葉を続ける。
「卓真さんとは一年前からバイト先で知り合ってお付き合いしていましたが、新しい彼女ができたって一ヶ月前、別れを告げられまして……。それから、同じ学科の秀くんとお付き合いしていましたが、一週間前から急に連絡が取れなくなって、講義も出てないからおかしいなって思ってたんです。そしたら……」
震えた語尾を隠すようにうつむいた水戸に、顔を向けたまま蕗二は腕を組み、ちらりと芳乃を盗み見る。目深に被った帽子の奥、黒い目が瞬きもせず水戸を見ている。だが、動く気配はない。蕗二は腕を解き、机に肘を乗せた。
「大変申し上げにくいのですが、林と高山は同時に複数の女性と交際をしていたようなのですが、それはご存知でしたか?」
水戸は癖のない黒髪を音も無く揺らした。
「卓真さんは、知りませんでした」
「高山の方はご存知だったんですね?」
水戸は紙コップの中身を飲み干すと、困ったように眉を下げた。
「鈴木さんに、怒られまして……」
「鈴木、瞳さんですか?」
蕗二は瞬時に図書館で会った女性を思い浮かべた。それを肯定するように水戸が頷いた。
「はい。秀くんに近寄らないで、≪彼≫を理解できるのは私だけだって……」
蕗二は小さく溜息をついた。あの自信に満ちた態度で愛されてると言ってみせた彼女は、自らの手で邪魔者を排除し、一番を手に入れたのだろう。恐らく、剣道部の稲瀬にも同様の事をしたはずだ。
そこでふと疑問が浮かぶ。
「高山の、その……浮気を知ったのは、いつですか?」
「付き合い始めて、割とすぐに」
「じゃあ、なんで付き合い続けたんですか?」
浮気を知った稲瀬は怒り狂っていた。それが普通の反応だ。が、水戸は高山が亡くなる直前まで連絡をしていたような口ぶりだ。
水戸は手元に視線を落とし、小さく笑った。
「たぶん……信じたくなかっただけ、かもしれません……」
聞き取りづらい、掠れた声にはどこか
「一つ、聞きたいことがあります」
突然の芳乃の声に、蕗二はびくりと肩を跳ねさせた。
「なんで、≪ブルーマーク≫だったんですか?」
芳乃が顔を上げた。温度を下げた黒い瞳に、水戸ははっと息を呑んだ。
「あなたの周りには、『ごく普通』の人もいたはずです。なのになんで、
身に
「言いたいことはわかります。でも、卓真さんも秀くんも、普通の男の人より、ずっと優しかったんです。よく、男の人に絡まれたりするのを、助けてもらって……」
嘘だ、あんたは騙されているんだと、口を突いて出そうになり、蕗二は強く下唇を噛み締める。
癖のないつややかな髪、伏せられた長い睫、緩やかな弧を描く薄桃色の唇。白い肌は触れれば柔らかいだろう。水戸は可憐や清楚、純粋なんて言葉を体現するような女性だ。
なんとも皮肉だ。
芳乃を盗み見ると、何を考えているかは分からない表情をしていた。ただ、眩しげに水戸を見ている。だが、ふいに視線をそらしたかと思うと、帽子を深く被り直しうつむいてしまった。
静かに息を吐いてこめかみを指先で掻く。芳乃の視線から開放され、
「最後に聞かせてください。あなたは本当に、彼らを殺してませんね?」
水戸はゆっくりと瞬き、悲しげに笑った。
「はい、本当に、殺していません」
取調室を後にし、
蕗二は頭を掻きむしる。
水戸は犯人じゃない。何人も犯人を見てきたから分かる。人を殺した人間の中でも、嫉妬や妬み、長年の恨みから計画的に人を殺したのなら、殺すと言う決意の元、それなりに腹を
じゃあ、一体誰が犯人だと言うのか。
「完全にふりだしだな」
半分独り言のように呟いた。何か一言、皮肉でも返ってくるかと思ったが返事はない。助手席に顔を向けると、芳乃は口元に拳をあて、じっと足元を睨んでいる。
「どうした?」
やはり反応しない。それどころか限界まで眉を寄せ、さらに険しい表情を浮かべた。
「おい」
「うるさいですね、聞こえてますよ」
目の端でこちらを睨んだ芳乃は、鑑識の上着を脱ぐと、帽子と共に丸め、後部座席へと投げた。
「おい、畳めよ。一応借りもんなんだぞ」
蕗二を無視し、芳乃は髪を掻き上げる。黒い髪の間から息をつくように青い光が顔を出した。
「刑事さん、なぜ空振りだと思うんですか?」
「なんでって……」
「ぼくが一緒にきたのは、水戸さんを視るためじゃなかったんですか?」
「犯人分かったのか!」
掴みかかる勢いで顔を近づけると、芳乃はあからさまに嫌そうな顔をして「近いですよ」と仰け反った。蕗二は謝りながらも芳乃から視線を外さない。
「やっぱり水戸が犯人なのか?」
その言葉に、なぜか芳乃は視線を下げ、膝を見つめる。
「なんで言わない」
じわりと込み上げる怒りに、蕗二の声は低くなる。
水戸が犯人と言うのなら、遠慮なんてするだけ無駄だ。折れるまで問い詰めればいい。
その思考を読んだらしい芳乃は、視線だけを蕗二に向ける。
「何でも力ずくで解決すると思ってるあたり、脳みそ筋肉なんですよ」
「正当法で吐くような相手じゃねぇだろ。このタイプは優しくするだけ付け上がる」
今にも喉元に噛み付きそうな蕗二に、芳乃は盛大な溜息をついてみせた。身体の力を抜き、座席から尻をずらしてだらしなく座ると、呆れてものが言えないとばかりの表情を浮かべる。
「水戸さんではありません。ていうか、警察に捕まったその時点で、まず犯人じゃない。何の為にあんな凝った犯行してると思ってるんですか?」
芳乃の視線と同じ鋭い言葉はストンと胸に落ち、脱力する。かろうじて吐き出した言葉は「そ、そうだな……」なんて、恰好もつかない。
さっき自分で水戸を犯人から除外したところだったのに、芳乃の発言一つで犯人と決め付けた。刑事として、客観的に見なければならないはずなのに。
くそ。芳乃ばかり頼るな。自分で考えろ。声には出さず、自分を罵倒する。
「……てか、お前なんで水戸が犯人じゃないの分かってんのに、もったいぶったんだ?」
首だけで振り向くと、芳乃が体を起こすところだった。座席に片膝を上げたと思ったら、こちら側に身を乗り出し、蕗二と正面から向かい合う。
「なんだよ」
「少し、試したいことがあります」
「その前に俺の質問に」
芳乃の手が顔の前を横切り、言葉を遮った。その向こう、黒い眼が見開かれていた。瞬きさえ許さない威圧感に思わず仰け反りそうになるが、拳を握り締めなんとか堪える。
「あなたが見た容疑者を、思い出せるだけ思い出してください」
その言葉に頷く。黒い眼が蕗二を飲み込もうと、さらに深くなる。
「強く、思い出してください。そこに何がありましたか」
黒い虚の奥に、維新大学での会話を思い出す。
広い芝生、竹輔との会話、図書室の匂い、植物の本、艶やかに弧を描く唇、竹刀の激しくぶつかる音、結い上げられた髪、嗚咽、≪ブルーマーク≫……
不意に黒い瞳が隠れた。はっと意識が引きあがり、目の前の少年に焦点が合う。さっきまでこちらを飲み込もうとしていた姿はまるで幻覚だったように、芳乃はいつのまにか元の位置に戻っていた。今度はこちらから乗り出しその顔を覗きこむ。額を覆う手で表情は見えない。だがどこか苦しげに息を吐き、薄らと首筋に汗が滲んでいる。
「大丈夫か」
その肩に触れるよりも早く、芳乃に手を払われた。顔を覆っていた手が外れると、目を閉じる芳乃が見えた。肺から空気を押し出すように息を吐いた芳乃の、伏せられた睫がゆっくりと持ち上がる。夢から醒めたばかりのような虚ろな目に不安を煽られ、もう一度小さく名前を呼ぶと手が軽く上げられた。眠さに堪えるように強く瞬きを繰り返す。そして、光の戻った黒い眼が鋭くフロントガラスを睨んだ。
「犯人はわかりません」
「はあ!?」
大声を上げた蕗二を、芳乃は煩いとばかりに睨みつける。
「でも、犯人に繋がる証拠が分かりました」
「だから、もったいぶんなよ。どこだ、案内しろ」
座席に座りなおし、車のエンジンを起動させる。明るく点灯するディスプレイから、芳乃に顔を向けると、いつの間にか取り出した液晶端末を耳に当てていた。その横顔は緊張で張り詰めている。
「喜ぶのはまだ早いです。もしかしたら、間に合わないかもしれない。ここからは、半分運です」
「違うな」
芳乃が端末を耳に当てたまま、蕗二を横目に見る。その視線を受けた蕗二はハンドルを強く握った。
「証拠は、掴み取るんだよ」
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