File:7 死の矢羽の行方



 本庁。PM14:01。


 竹輔と片岡、そして引っ張ってきたバイヤーの男・山本晋吾やまもとしんごだけで取調室は満員だった。

 圧迫感のある部屋で、山本は不快なほど傲慢ごうまんな態度で竹輔と対話している。

 取調室の隣、透視鏡マジックミラー越しに蕗二ふきじは山本を睨みつけ、盛大に舌打つ。その隣で、芳乃ほうのは小さな溜息をついた。

「そんなにイライラするくらいなら、刑事さんがやったらいいじゃないですか」

「やりたいのは山々だが、段取りがあんだよ」

 芳乃が首を傾げると、派手な音を立ててドアが開く。そこにはあずまが仁王立ちしていた。その後ろから野村が顔を出し、蕗二と芳乃に「じゃじゃーん」と声を張り上げた。

「お待ちかねのー、結果発表だよー!」

 東が一枚の紙を蕗二に見えるように掲げる。

「いい結果と悪い結果があるんだけど、どっちから聞きたい?」

「じゃあ、良い方から」

「まず一つ。高山の遺体を再確認したけど、野村このこの言う通り、注意してみないと分からないくらい、わずかな傷が食道にあったわ。それともう一つ。あんたが連れてきたバイヤーの所持薬だけど、合成麻薬のMDMA、それから睨んでいたシルデナフィル、そしてケタミンだったわ」

 検査結果と書かれた紙を受け取り、文面を視線でなぞる。ケタミンは粉末らしい。蕗二は首を傾げた。

「ケタミン? 栄養剤か?」

「そんな訳ないでしょうが!」

 胸の前で腕を組んだ東に怒鳴られ、蕗二は素直に頭を下げた。

「ケタミンはねー、三輪っち。麻酔でも使われる、安全な薬なんだけどー、一気に注射すると呼吸止まっちゃったりするんだよねぇ」

 どこか楽しげな野村の言葉に、東が満足げに頷く。

「そう。そこにシルデナフィルの過剰摂取オーバードースによる心不全状態になったと考えて、ケタミンの急速投与により副作用を強化すれば、突然死の完成」

 蕗二は頷きながら、紙にもう一度視線を落とす。なるほど、犯人はそれを溶かして注射したのだろう。

蕗二の手元を覗き込んでいた芳乃が、ふと顔を上げた。

「悪い知らせは、なんですか?」

 芳乃の声に顔を上げると、東が柳眉を寄せて唇を引き結んでいた。

「たぶん、同じことを考えてるはずだけど。高山の身体、背中の左腰付近に注射痕らしきものがあった。でも、それがケタミンかどうか分からない……」

「はあ?」

 思わず蕗二は声を上げ、芳乃が眉を寄せた。

「どういう事ですか?」

「ケタミンは麻酔薬と言う性質上、体内に残らない。つまり薬物検出できないの。だから、何を打ったのかは正確にはわからない。それに、最初の被害者・林卓真は事件性がないと処理されて、もうすでに墓の下よ。同じように殺されたのかどうかさえ、調べようがない」

「それにー、犯人は万が一薬を注射したのがバレてもいーように、内臓を見れなくなるような死体加工までしてるんだから、相当だよねぇ?」

 野村の言葉に、蕗二の背筋が粟立った。捜査の全てを見通した完璧な犯行。たとえ疑問を持って事件として挑んでも、野村や片岡が居なければここまで辿り着けなかったかもしれない。いつの間にか握り締めた紙に視線を落とす。

 ギリギリ繋いだ犯人への糸口を、なんとしてでも手繰り寄せなければ。

 東と野村に礼を言い、蕗二は部屋を出てすぐ隣の取調室のドアを叩く。竹輔の返事を聞き、わずかにドアを開け菊田を呼ぶ。

「どうですか?」

 閉めたドアにもたれかかった菊田は、呆れたような溜息を吐いた。

「麻薬の売買については、素直すぎるほど認めている。だが一貫して、水戸乃ノようぎしゃとの接触を否認している」

「わかりました。後は俺が聞いてもいいですか?」

「ああ、構わない」

 取調室のドアをもう一度開け、竹輔に指で指示する。竹輔はすぐに理解し頷くと、席を立つ。入れ替わるように椅子に座った蕗二は竹輔がドアを閉めた瞬間、乱暴に机の上に紙を叩きつける。

「山本。先に言っとくが、俺はさっきの刑事より優しくねぇぞ」

 猛獣の唸り声に似た低い声と殺気に満ちた鋭い眼で、山本を威嚇する。並の人間なら震え怯え、洗いざらい吐くほどの気迫だった。だが、山本は微塵も驚かないどころか、肩を揺らしけらけらと笑って見せた。

「けぇーじさん。おれはなーんども言ってる通り、きゃわいい女の子はシラねぇよぉ?」

 蕗二は山本を一睨みして、何事もなかったように獰猛な気配を引っ込めた。それには山本も拍子抜け、大げさに首を捻って見せた。蕗二は静かに言葉をつむぐ。

「一応聞くが、自分がなんで逮捕されたか分かってるか?」

「んー? わーかってるってぇ。売っちゃいけないの売ったからでショー??」

「残念だが、それだけじゃない」

 山本が顔を強張らせる。蕗二は前のめりになって山本に顔を近づけた。

「俺たちが別件で追ってる殺人事件で、お前が売ったバイアグラとケタミンが使われていた可能性がある」

 皺の寄った検査結果の紙を、指先で滑らせ山本に差し出す。

「共犯だったら、お前の待遇を変えなきゃいけない」

 山本は紙を視線だけで見下ろす。しばらくして、椅子に座りなおした山本はうかがうように蕗二を見た。

「おれはー、やってねぇぞ……」

「ああ、でも確証が欲しい。嘘はつかないでくれよ。……女は買いに来なかったのか?」

「いーや? 男が多いけど、女も居る」

「5月は?」

「覚えてねぇーよ」

「そうか。ちなみに、バイアグラは何個ずつ売る?」

「ふたーつだけ。それ以上で売ったらもーかんねぇもん」

「まあそうだな。じゃあ、ケタミンはどうやって売る?」

「粉のまーんま、袋に詰めて売ってる」

 蕗二は眉間を寄せる。紙の上、ケタミンの文字を指先で叩く。

「注射器は使わないのか?」

「そんなの渡したら足つくじゃーん。鼻からキメるの、ハ・ナ・か・ら」

 鼻に親指を引っ掛けて穴を広げ見せ付ける。蕗二は眉間の皺をより深くした。

「バイアグラとケタミンを買った女はいたか?」

「バイアグラを買う女は何人かいたぜー? でも、ケタミンと一緒に買う奴はいなかったなぁ?」

 どういうことだ。辻褄が合わなくなった。バイアグラは犯行に使用したのはほぼ確実だ。だが、ケタミンを注射で摂取しないのであれば、なぜ注射痕が見つかる?

「けぇーじさん。おれは正直にみとめたよぉ? もうよくねぇー?」

 交渉は終わった。そう言わんばかりに、山本はだらしなく椅子にもたれかかった。舌打ちしそうになるのを堪え、何かないかと思考を巡らせ始めたその時、控えめなノック音が部屋に響いた。蕗二が返事をすると、竹輔が顔を覗かせた。

「蕗二さん、ちょっと相談が……」

 眉尻を下げた竹輔の脇を黒い影が強引に抜け、入り込んだ。蕗二は目を見開き、思わず立ち上がる。

芳乃ほうの!」

 肩を掴もうとした蕗二の手を芳乃は払い除け、山本をじっと観察し始める。

「なぁに、ぼくちゃーん?」

 山本がからかうように笑うが、芳乃は無表情にそれを一瞥いちべつすると、ふと右手を上げた。その手で顔の下半分を覆うようにかざした。目を瞑ったと思えば潜水するように鼻を摘み、息を止める。

 蕗二は竹輔にドアを閉めるように促した。

 ドアが閉まると、途端に静かになった部屋。蕗二が椅子に腰掛ける音がやけに響く。

「けぇーじさん。彼はなーにしてくれんの?」

 山本の問いに答えるような、大きな呼吸音。

 芳乃は鼻から手がはずし、水面から浮上したように、天を仰ぎ肺一杯に空気を吸い込む。

 伏せられていた瞼がゆっくりと持ち上がった。穏やかに垂れている目は、まだ幼さを残している。だが、そこにまる眼だけが、まるで別物だ。どこまでも冷たい絶対零度に凍った眼が山本を捕らえた。

「いくつか質問します。好きなように答えてください」

 静かな声が狭い部屋の温度を下げた。錯覚だ。解っているが蕗二は小さく身震いする。

「5月頃、バイアグラを買った女性たちの中に、水戸乃ノ花さんはいましたか?」

 目をそらさなければ。本能的に山本の目が動こうとしているが、瞬かない氷の瞳はそれを許さない。

「し、知らない……本当に知らない……」

「じゃあ質問を変えます、印象に残った女の人は?」

 震え始めた山本を飲み込むように、氷の眼が見開かれる。

「夜ですね」

 びくりと山本の身体が跳ねた。芳乃の声は淡々と続く。

「帽子とマスクで顔は見えなかったんですね。その人は、何を買いたいと?」

「ば、バイアグラを……」

「ケタミンは買わなかったんですね。じゃあ、バイアグラの言い値は? ……千円で売ろうとしたんですね? いえ、二千……その人はその五倍を出してくれましたね。貴方は、やったと思った。だからその人に、連絡先を渡しましたね。次の商売に繋がるように」

 山本が突然派手な音を立てて、椅子から転がり落ちる。蕗二が助け起こそうと腰を上げたが、見開かれた目は芳乃からそれることはない。壁に背中を押し付ける様子は、椅子と繋がる腰紐のせいで繋がれた哀れな犬のようにも見えた。

「な、何なんだお前は!」

 怯え震える声で叫ぶ山本を、芳乃は無表情に男を見下ろす。

「≪マーク付き≫ってこと以外は、普通の一般人ですよ」

 白い息を吐いていると錯覚するほど冷たく言い放ち、踵を返すと唐突にドアを開け、部屋を出て行った。閉まりかけたドアから竹輔が顔を覘かせ、腰を上げた蕗二と、床に這いつくばって震える山本に視線を移した。

「派手な音がしましたが……」

「ああ、何でもない。話は終わった」

 扉を大きく開き、待機していた制服の警察に「拘留所に」と手短に伝える。入れ替わりに取調室を出ると、芳乃がドアの傍らで壁にもたれかかっていた。

 黒い前髪の隙間から覗く氷の眼は、瞬きのたびに解け、温度を取り戻しているようだ。

「あの人、バイアグラを何個売ったとか言ってましたか?」

「え……っと、二錠だ」

「それ、半分嘘です。本当は、その人にだけ一錠追加しました」

「ってことは、薬は三錠、犯行が二回……犯人は、あと一回同じ犯行ができるってことか!」

「はい、水戸さんを視る必要があります。でも……」

 歯切れ悪く言葉を切った芳乃は、視線を爪先に落とした。垂れた目が不快感から歪んでいる。

たちの事か?」

 蕗二の言葉に芳乃は瞬くことで答えた。今、容疑者の水戸を事情聴取しているのは、あのいけ好かない舘が居る新宿警察署だ。本庁所属とはいえ【特殊殺人対策捜査班】という得体の知れない部署の人間を、そう簡単に水戸と面会させてはもらえないだろう。

 しかも、証拠もない今、水戸を長く拘束することはできない。下手をすると、蕗二が面会交渉している間に、釈放されてしまうだろう。一度釈放されれば、黙秘と言う形で聴取を拒否することも可能だ。

 蕗二たちにとっては、最悪の状況。

 だが、蕗二は口角をあげて見せた。芳乃が不審げに蕗二を見上げる。

「なんですか、気持ち悪いですよ」

「気持ち悪いって何だ、気持ち悪いって」

「あんまこっち見ないでください、へんなもの視えそう」

「お前俺がどんな想像してると思ってんだ? 潔白証明させてやるから、こっち見ろよ」

「離してください、あんた無駄に力強いから嫌いです」

「三輪」

 軽く揉み合いになったところで突然低い声で名前を呼ばれ、蕗二は背筋を伸ばした。蕗二が振り返ると、菊田が足早に駆け寄ってくる。

「手筈は取った。後はこっちに任せて、早く行きなさい」

 芳乃がはっと息を呑み、蕗二は笑みを深めた。

 市谷に言われる前から、水戸とは直接会って話すべきだと思っていた。たちのことを見越し、バイヤーの山本を確保しに向かうと同時に、内密に菊田から新宿署へ手を回してもらっていたのだ。

「ありがとうございます、菊田係長」

 蕗二は素早く頭を下げ、芳乃の背を押しながら走り出した。




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