File:1 焼きつく翡翠の羽色
2042年5月10日、土曜日。PM 12:33.
新宿区、明治神宮外苑付近。
一際目立つ背の高い男が、使い込まれた木製のバットを構える。
ヘルメットの下から覗く吊り上がった目は正面を睨みつけていた。男の視線の先には緑の壁。そこに
映像は男と睨みあい、ふと大きく振り被った。瞬間、画面から硬く白い球体が飛び出した。男は球から視線をそらさないまま腕を振るう。空気を鋭く切る音。重い衝撃を受け止めた腕は
照明で白く
球の軌道を見て、深い眉間の皺をさらに深めた男・
「兄ちゃん、もしかしてサウスポー?」
視線を向けると、バットを肩に担いだ小柄な高齢男性がまじまじと蕗二を見ていた。
「サウス? ああいや、右だ。右投げ左打ち」
「右利きでそこまで打てるなら、だいぶやりこんでるな?」
男の問いに答えず、蕗二は再び構える。バットを握り締めるのと同時に、再びバーチャルの投手が動いた。
「もしかして、甲子園行ったことあるのかい?」
球が発射される。蕗二は右足を浮かせ、踏み込んだ。同時に腰を捻り、バットを強く振る。先ほどよりも澄んだ高い音が響く。球は勢いよく発射台の頭上を飛び越えて、背後の丸いホームランボードのど真ん中に命中した。
隣の男が歓声を上げる。何処からか小さな拍手も聞こえる。
だが、蕗二は眉間に皺を増やし鋭く舌を打つと、バット片手に後ろの扉を押し開け、バッターボックスを出る。すぐ目の前にあったベンチに腰を落とし、ヘルメットを
「ホームラン、おめでとうございます」
店員が去る気配と入れ替わるように後ろでドアが開く音がした。先ほど話しかけてきた高齢男性だ。
「あんた見込みがあるよ。どうだい、うちの
蕗二は視線を上げることなく靴紐を
「仕事があるので」
「土日は休みなんだろ? だから来てるんじゃないのかい?」
「いえ」
「なんだい、野球はゲームをしてこそ野球じゃないか。いいぞ野球は」
蕗二はバットを黒く長いケースに入れ背負い、立ち上がってまだ何か言い出しそうな男性を遮る。
「じいさん、これ使ってください」
『ワンゲーム無料』チケットを押しつけられた男性が顔を上げる前に、蕗二は背を向け歩き出していた。男性の制止を求める声を振り切るように足幅を広げ、バッティングセンターを後にする。
徒歩数分の最寄り駅の改札を抜け、階段を駆け下りる。
人の
朝から最悪の気分だった。
ここ最近、父の死んだ日の夢をよく見る。夜中に何度も起き、酷い日は朝まで眠れないこともある。そのせいか、ホームに滑るように入ってきて、静かに止まった電車の車体に映りこんだ自分の顔は、いつもより人相が悪い気がした。
ドアが音も無くスライドし、人が流れ出る。人波が途切れたと同時に人が車内に吸い込まれていく。その流れに身を任せ、車内に乗り込む。
休日だがそれなりに混んでいる。だが入り口付近から離れると圧迫感はない。電子音と共にドアが閉まり、車体がゆっくりと進む。足裏にわずかな揺れを感じたが、驚くほど身体は揺れない。吊革につかまることもなく、目の前の網棚に乗った紙袋や通勤鞄をぼんやりと眺める。
悪夢の原因は分かっていた。前回の少女殺害事件のせいだ。
犯人の
そのことを、蕗二は同僚であり部下の
通夜だということもあり、黒い服に身を包んだ飯田の両親と顔を合わせた時、思わず言葉を失った。
刑事である蕗二と竹輔にとって、突然事件に巻き込まれ子供を失った遺族と会うことは珍しいことではない。だが、飯田の両親は蕗二たちの予想をはるかに超えて
特に母親は化粧もせずに
蕗二は丁寧に事件の全容を報告し、裁判やマスコミ、被害者支援など今後起こる可能性のあることも詳しく話した。
すると、無表情だった両親は血の気を取り戻し、
娘はもう二度と帰ってこない。心に空いた大きな傷は塞がることなく夫婦二人を一生
そんな感情なんて知らないとばかりに、事件は連日ニュースで報道された。被害者が未成年で、犯人が現役の教師だったこともあり、話題をさらうはずだった有名人のチャリティ活動より大きく取り上げられ、朝昼晩どのチャンネルも飽きることなく似たような内容を繰り返していた。しかし、世間の流れは激流のごとくお構いなしに時を刻んだ。
一か月も経たないうちに新たな話題に飲まれたころには、蕗二たちも事件の書類処理が終わり、あとは検察に任せ裁判の行方を見守るばかりとなった。そして、その頃から蕗二は悪夢を見るようになった。
幸い、あれ以来【特殊殺人対策捜査班】が出動するような事件は起こっていない。
新宿駅到着を告げる人工的な車掌の声に、意識を戻す。
ほぼ同時に車体が音もなく止まった。扉が開くそれに合わせ、流れ出す人の波に蕗二は乗り、流れるまま階段を上る。改札を抜けた先でも人混みは減らず、真っ直ぐ歩くのは困難だった。互いに避けながら蕗二は進む。液晶端末をいじりながら歩く女性をかわした視界の端を、フードを被った男が
そのフードの奥に、小さな青い光が見えた気がする。耳の奥に響く、あの日の
逃げるように足先を変え、薄暗い駅構内から飛び出した。
だが、人と車が
蕗二は額を押さえながら、駅へと向かう人々の流れに逆らい、人のいない背の高い建物ばかりが立ち並ぶ無機質なビルの森に足を踏み入れる。
ひたすら足を動かし、やっと喧騒が落ち着いた場所で立ち止まる。蕗二は詰めていた息を無理やり吐き出した。押さえた額に冷汗が
≪ブルーマーク≫を見て、心が荒れることは今まで何度もあった。
悪夢だって何度も見てきた。十年も繰り返し繰り返し、いつも耐えてきた。慣れたものだと思った。
だけど、あの青い光が邪魔をする。目を閉じれば、いつまで経っても
小さな青い光を残らず潰してしまいたい。
≪ブルーマーク≫が憎い。憎い。憎い。
握りしめた手のひらに突然痛みが走った。驚いて手を引っ込める。
いつの間にか握っていたのか、皺の入ったズボンの部分には、ちょうどポケットがあった。中を探ると触り慣れたものが指先に当たった。恐る恐るつまみ、ゆっくりと引き出せば、茶色い皮張りの手帳が顔を出した。汗や雨で少し色褪せている表面を指の腹でなぞる。
しっくりと吸いつくような手触りに促され、手帳を開く。
金と銀で彩られた逆三角形の
中央の
『囚われるな』
不意に思い出した菊田の言葉。
その声に、男の笑い声が止まった。
≪ブルーマーク≫は憎い。今も許すことはできない。
あの日、あっけなく奪い去られた命を、もう二度と奪われたくない。
泣き崩れた母の肩を抱き、父の遺影に一人誓った。
≪ブルーマーク≫に復讐すると。
だから刑事になった。そうだろう。
手帳を丁寧に閉じると、頭痛も落ち着いた気がする。そうだと答えるように腹の虫がのんきに鳴いた。
軽く腹を擦り、ポケットの中で警察手帳と液晶端末を交換し、画面に指先を滑らせて地図を展開する。感情に突き動かされて、足の向くまま歩いてきたが、体感よりも移動していなかったようだ。
まだ一駅分も歩いていないが、自分の家とはまったく正反対の方向へと歩いてしまった。それでよかったかもしれない。帰っても家には
GPSで確認した現在地と地図を合わせると、もう少し進めば次の駅だ。そこまで行けばコンビニでもファミレスでも何でもあるだろう。そこで腹ごしらえをし、夕飯を買って引き返そう。散らかった部屋の荷物を片付ければ、日は暮れる。あとは夕飯を腹に詰めて、シャワーを浴びれば、今日こそしっかりと眠れる気がした。
そうと決まれば、足は自然と前へと動く。
さて何を食べようか、周囲を見渡しながら歩く蕗二の目が、何かに気がついた。
視線の先には古ぼけた雑居ビル。壁のように並ぶ真新しい建物と建物の間、
だが、蕗二は目を離さず足を止める。
ゲーム機の奥に隠れるように小さく光る青い光を見つけたのだ。
ざわりと逆立つ感情を押し殺し、薄暗闇に目を凝らす。青い光が目についたのもあるが、どこか見覚えのある人影だった。
足を踏み込み近づくと、それは確信に変わった。
「よお、
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