Consider3 繚乱のガーデンストック

連続する全裸の突然死と解決不可能の完全犯罪

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 2032年9月19日。


 暗闇の中、地鳴りがごうごうと響いている。

 しかし、意識が戻るにつれ、地鳴りは別のものに変わっていく。

 悲鳴だ。たくさんの、泣き叫ぶ人の声。

 引きつるまぶたを無理やり開けると、アスファルトの粒がはっきり見えた。頭を動かした瞬間、右こめかみ辺りに強い痛みが走り、呻くことしかできない。

 なんだ、何が起きた……

 蕗二は地面に身を投げ出したまま、必死に記憶を手繰たぐり寄せた。



 穏やかな昼だった。夏の日差しが和らぎ、日陰は少し肌寒いくらいだが過ごしやすい休日だった。だから人も多かったのかもしれない。高く晴れ渡る青空の下、開けた広場では大道芸や屋台で賑わっていた。

「蕗二、ほら見ろよすごいな」

 父が何本ものナイフでジャグリングする大道芸人を指差していた。

「それくらい珍しくないやん、駅前でもやってるし」

「あ、ははは、そうか……」

 父はこめかみを指先でいてみせる。困っているようにも、照れているようにも見えた。

 刑事である父は、休日でも呼び出されることが多かった。楽しみにしていた家族旅行が、突然潰れたことだって何回もある。だから、珍しく長く一緒に居ると、何を話して良いのかまったく分からなかった。母が気を遣ってくれたのか、二人でショッピングモールの縁日に行くことになったが、たぶん父もそうなのだろう。口調は仕事で使っている標準語のままだ。蕗二は必死に話題を探す。だが、結局たどり着いた話題は、ひどく身近なことでしかなかった。

「なあ、おやじ」

「なんだ?」

「おれなぁ、甲子園行った」

「ああ、テレビで見た。生で見たかったな……」

「ボロ負けやったから、ええねん。四番やったのに、かっこ悪いし……」

 ポケットに手を突っ込み、視線を落とす。

 初の甲子園。初戦だった。試合は点取り合戦、七対八。最後の攻撃9回表。

 あと一点、あと一点で同点に追いつく。

 両チームと会場の熱気は最高潮だった。雲ひとつ無い青空に、大音量の応援歌、土と汗の匂い、低く高く波のように押し寄せる歓声に、興奮からか体が震えた。心臓が内側から胸板を激しく叩いている。

 陽炎の揺らめくグラウンドに視線を走らせれば、二塁と三塁には味方が一人ずつ。あの二人をホームまで帰せば、決着は目前だ。

 監督を見れば、球をよく見ろとだけ指示された。自分を信じろ、そう言われた気がした。ヘルメットのつばを握り返事をする。バットを構えると投手が振り被る。投げられた白い球が目に沁みる。全力でバットを振る。その真ん中を、球が食い込んだ。衝撃に手が甘く痺れる。その手ごたえを感じながら、全力で振り切ったバットと心地の良い音。湧く歓声と真っ白い球が青空に吸い込まれた。

 だが、結果は初戦敗退。

 蕗二が勢い良く送り出した球は、高く上がったが途中で失速し、強肩のライトに捕まった。さらに投げ返された球は、起死回生の二人をも刺し殺した。鳴り響く試合終了のサイレンがやけに耳障りだった。促され、やっと整列し、挨拶と共に相手チームと頭を下げあう。相手高校の校歌が流れる中、気丈な主将である先輩が啜り泣いた。せきを切ったように、次々と皆が泣き出すなか、蕗二は顔を上げられず、ただただ歯を食いしばり、涙を堪えた。誰にも責められることは無かったが、自分を許せずにいた。いっそ罵ってくれた方が良かったとまで思う。

 欲張った。ホームランを狙わなければ、もしかしたら……

 そんな後悔ばかり浮かぶ。目頭が熱くなり、思わず鼻が詰まる。圧しのかる自責の重さに、足元から深く沈みかけた時、名前を呼ばれ、肩を強く小突かれた。

「なに言ってんだ蕗二、お前点いれたろ。八回表の、ほら、あれ! あのレフトフライに上がって、蕗二が三塁から、間に合うかどうかってところにスライディングして、セーフやったやつ」

 顔を上げると、父が鼻息荒く拳を握り締めていた。

「あれはもう忘れられへんな。捜査してるのも忘れて叫んでもうて。おかげで菊田にごっつ怒られた……」

「なんやそれ、あほやん」

「あほやろ」

 父がへらへらと笑うのを見ながら、自分の頬が緩むのが分かった。不意に父が、くるりと背を向ける。

「蕗二、背ぇ比べへんか?」

「ええけど」

 蕗二は無防備な父の背に、あっと足を止めた。父の背は高い。いつも見送っていた広く大きな背は、時々テレビにも映り込んでいて、少し憧れでもあった。遠く、見上げていたはずのそれが、いつの間にか近くなっていることに気が付き、驚きと嬉しさが込み上げる。

「ほら早よぉ」

 楽しげに急かす父の踵と自分の踵をくっつける。頭の上に置かれた手のひらがじわりと熱い。

「でっかくなったなぁ。もう追いつかれそうや」

 父の声に、ゆっくりと振り返った。

 頭の上に置かれていた手のひらは宙で固定されていて、父の後頭部の真ん中あたりにかざされていた。

「……ちぇ、もうちょい伸びとると思っとったのに」

「これ以上でかくならんでええって。背ぇ高いと苦労するで? 見下げてなくても、見下げるな。とか言われるし、電車の吊り広告は邪魔やし、何や知らんけど高いところの雑用もぜーんぶ回ってくるし。」

「上の窓と電球やろ? あとロッカーの上!」

「それそれ! そんで、服とか貸し借りできひんし?」

「ウエスト入っても足首出るんやろ!」

「ほんまそれ!」

 腹を抱えて笑い合う。久々に声を上げて笑った。そうだ、甲子園以来ちゃんと笑ってなかった。

 蕗二は顔を引き締め、正面から父と向かい合う。

「……来年、おれ三年やん」

「そうやな」

「あと一年、死ぬ気で頑張る。んで、もう一回、甲子園行くから……来てや、絶対」

 語尾はかすれてほとんど声になっていなかった。それでも聞き逃さなかった父は、笑いすぎて溢れた涙をぬぐい、目の前に拳を突き出して見せた。

「ああ、絶対行く」

「絶対やで」

 拳を合わせようと腕を伸ばす。

 突然、後ろで悲鳴が上がった。

 笑っていた父の目が鋭く悲鳴の方を睨む。その視線を追い、振り返った蕗二の目に、信じられないものが飛び込んできた。人が風に吹き上げられるように宙を舞っていた。白い大きな塊が人をね飛ばしながらこちらへ突っ込んでくる。それを車と判別できた直後、強い力で腕が引かれ、引き摺られるように走り出す。気が付けば人の悲鳴と混乱の波に飲み込まれていた。我先にと逃げ惑う人と何度もぶつかり、身体のあちこちが痛む。指先は凍るほど冷たいのに、父に強く掴まれている手首が熱い。父の背中越しに建物の入り口が見えた。助かったと息を吐いた瞬間、押されたのか突き飛ばされたのか、一際大きな衝撃に大きく体がよろめいた。手が離れ、振り返る父の見開かれた目が、人の背に飲み込まれたところで意識は途切れた。



 思い出すうちに頭は冷えてきたが、ゆっくりと頭を持ち上げようと首に力を入れただけで、筋肉が悲鳴を上げた。どこが痛いのか分からないほど体中が痛む。やっとのことで頭を持ち上げ、周りに目を向けた蕗二は言葉を失った。

 まるで別世界に迷い込んだように、荒れ果てた光景が広がっていた。賑やかだった出店は全てなぎ倒され、物は散乱し、大勢に踏み潰されて原型が残っていない。嵐が過ぎ去った直後の、静けさにも似ていた。

 蕗二は腕を身体に引き寄せ、地につけた擦り傷だらけの手を見ながら、上体を起こす。

 高くなった視界に、倒れた何人もの人が映る。皆赤い水溜りの中に、沈んでいる。誰も動かない。

 一瞬目を疑う。だが、見れば見るほど、それは現実だと突きつけられる。

 耳の奥で血の気の引く音が、はっきり聞こえる。冷や汗が全身から吹き出した。

助けを。誰に。死んでる。生きてる。どっちだ。いや、何でもいい。誰かを呼ばなければ。

 頭の中をぐるぐると思考が回る。

 ゆらり。

 目の端で影が動いた。

「助け……」

 とっさに上げた蕗二の声は、喉奥に引っ掛かった。フードを被った男が、こちらに歩いてくる。その右手には、赤錆色に光る刃の長いナイフが握られ、刃先は真っ直ぐ蕗二に向けられていた。

 全身の産毛が逆立つ。跳ねるように起き上がったが、足が絡まってみっともなく尻餅をつく。それでも必死に立ち上がろうとするが体中が震え、地面から腰を上げることも、後ろに這いずり逃げる力さえ、根こそぎ奪われていた。

 男が目の前で立ち止まる。フードの下、男の口元が歪み、歯を剥いて笑うのがはっきり見えた。

 悲鳴を上げようと開けた口から声は出ず、奥歯がカチカチと不快な音を立てる。

 目の前で真っ赤な刃物が振り上げられた。

「蕗二!!」

 それは父の、聞いたことも無い荒く張られた大声だった。

 気が付いた時には父の大きな背が視界を塞いでいた。

 男と激しく揉み合い、どちらともわからない獣のような叫び声が上がる。血塗れのナイフがアスファルトに落ちた。瞬間、父が全体重をかけ男を突き飛ばす。崩れるように地面に倒れた男の背に、父は素早くまたがり腕を捻り上げた。

「三輪警部補!」

 青い服の警察官が三人駆けて来た。父が押さえた男に手錠がかけられる。まだ落ち着かない呼吸のまま、男を鋭く睨みつけていた父は、ふと蕗二を見ると目元を緩ませ笑ってみせた。

 それを見た途端、じわりと、安心感が身体を満たし、力が抜ける。首が落ちそうなくらい俯いた。靴が片方脱げていることに今ごろになって気がつき、蕗二は力なく笑う。

 スニーカー、結構お気に入りだったのに。いや、そんな事はどうでもいいじゃないか。きっと母が心配してる。この事件はニュースにもなってるはずだ。早く帰って、おやじはすごかったと、言ってやろう。照れるだろうか。構わない。やっと、ちゃんと話ができたんだ。だから早く。

「帰ろ、おやじ」

 顔を上げたその先で、アスファルトに崩れ落ちる父の姿が、やけにゆっくりと見えた。

「おやじ?」

 父のすぐ脇に居た警官が、横たわるその肩を揺するが、反応がない。警官が大声で何かを叫んだ。だが、蕗二には理解できなかった。上手く力の入らない膝を動かし、つまづきながら倒れる父の元に駆け寄る。警官が蕗二の肩を掴み、何か言った。だが、耳が塞がれたように音が篭って聞こえない。かろうじて「救急車」だけが聞き取れた。走り去る警官の気配。ふと、手に生温かな水が触れる。持ち上げた手のひらは真っ赤に染まっていた。覗き込んだ父の腹から、それは染み出しているようだ。とっさにそこを押さえるが、震える指の間から生温かい液体は止まらず流れ続ける。赤黒い血溜まりは父の体と、蕗二を中心に広がっていく。片手で父の腹を強く押さえながら、その肩を揺する。

「おやじ、冗談やめろよ。なあ、救急車が、もう来るから……」

 声が震えた。何度揺すっても、父は動かない。咽返むせかえるほどの鉄臭い匂いが濃くなる。赤色が目に沁みて、頭がくらりとする。息が吸えない。苦しい。父の姿が霞む。蕗二は飛びかけた意識を引き戻すように、頭を強く振り、腹から声を絞り出した。

「おやじ……死ぬな、おい!」

 突如、大きな笑い声が蕗二を飲み込んだ。

 錆びたように軋む首を無理やり上げると、警官二人に拘束された男が、喉奥を晒しながら笑っていた。勝利したとばかりに高らかに響き渡り、容赦なく蕗二の鼓膜を叩く。

 警官が怒鳴り、乱暴に男の首を掴み黙らせようとする。その激しい動きに、上着のフードが男の頭から滑り落ちた。

 乱れた黒い髪の間から小さな青い光が漏れ、蕗二の目の奥に焼きつく。

 ≪ブルーマーク≫

 血が沸騰でもしたかのように、体が一気に熱くなる。感覚が鋭く、研ぎ澄まされていく。

 破壊された風景、冷たい父の体、染み付く血の臭い、眼下に広がる深紅、けたたましいサイレンの音、耳にこびりつく男の嘲笑、小さな青い光。全てが体中に刻み込まれていく。割れるほど強く噛み締めた歯の間から、野獣のような呻き声が漏れる。

 それは歯をこじ開け、咆哮ほうこうへと変わり、蕗二の腹底から喉を突き破った。









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