File:6 別に、どうでも良いじゃないですか



 PM 19:13.


 街の光を受けて、暗い夜空に光る星が何かにおびえるように身を潜めている。

 その下、より暗闇に向かって男が一人、歩いていた。黒いピーコートを羽織った男の足取りは軽く、どこか一定のリズムを刻んでいる。迷うことなく、男の脚は公園を目指していた。銀色の柵を避け、砂利を踏みしめる軽快な音。口笛が、静かな公園に溶けていく。

「こんばんは」

 男が足を止めると自販機の影が動いた。姿勢の悪い影が、砂利をすり潰しながらゆっくりと男に近づく。気配に反応した自販機のライトが影を照らした。その顔にコートの男が目を丸くする。

「あの、どうして……」

 複数の足音。男が振り返ると背後には三人立っていた。眼鏡の男とふくよかな男と若い女が身構えている。視線を戻すと、背の高い男の一歩後ろにもう一人、学ランの少年がいつのまにか立っていた。そしてなぜか、これから水に飛び込むかのように鼻をつまんで、静かに目を閉じている。

「これは、どういうことでしょうか……刑事さん」

 男に問われた三輪蕗二みわふきじがポケットから手を抜く。蕗二の目に、鋭い光がはっきりと見て取れた。

久保聡くぼさとし飯田美穂いいだみほの殺害容疑で、同行願いたい」

 美術教員の久保は何度も瞬きし、困ったように笑った。

「まさか。何かの冗談ですよね?」

「生憎、冗談言う暇なんざ無いくらい、こっちも忙しくてな」

 蕗二の低い声は猛獣のうなりに似ていた。久保は唇を噛み締める。

「なんで、私を疑うんですか」

 わずかに震える声に、今まで微動だにしなかった少年が、水面から顔を出すように大きく息を吸った。鼻から手をはずし、一歩前に進み出る。

「ぼくが、答えます」

 伏せられていた瞼がゆっくりと持ち上がり、その目に久保は息を詰まらせる。

 見開かれた黒い瞳は、何処までも冷たく、久保を射抜くように見つめていた。






 蕗二ふきじは視界の端で芳乃ほうのを捕らえる。

 芳乃から久保の名を聞いたときは正直驚いた。何故そう思うのか追求しても、芳乃はこちらへ指示するだけで、結局答えなかった。

真っ黒な芳乃の瞳は一体何を視たのか、知るよしもない。

 だが、もうここからは芳乃の独壇場どくだんじょう。舞台に上がる芳乃のために、俺たちはただ準備を整えるだけだ。

 眉をひそめ芳乃を見つめる久保に、芳乃が口を開いた。

「飯田さんは、自殺しました」

「は?」

 久保だけでなく、芳乃以外全員が思わず声を上げた。

 芳乃はわざとらしく、胸の前に腕を組んでみせる。

「なぜあの場所で飯田美穂さんが殺されたのか、いろいろ分からないことがありました。ですが、彼女が自らあの場所を選んで死んだんです。これで疑問は消えました」

 手を広げて肩を上下させる芳乃は、ふざけているようにしか見えない。

 久保は呆れたように溜息をついた。

「飯田が自殺なら、なぜ私が犯人なんですか?」

「彼女は自殺しましたが、その後あなたに殺されたからですよ?」

 さも当然のように、さっぱりと芳乃は言った。

「ちょ、ちょっと待ってください! 自殺して死んだ人を殺すって何ですか? それで犯人扱いされるなんて! さっきからデタラメばかり、私に何の恨みがあるって言うんですか!」

「デタラメじゃないですよ? 彼女は二度殺されたんです」

「え?」

野村のむらさん、飯田さんの死体で気がついたことはありますか?」

 突然話を振られた野村が目を丸くした。

「え、うん、あるよぉ。飯田さんの首には、自分で吊ったときの痕とぉ、もう一つ絞まった跡があったんだよねぇ。有名なんだけどぉ、首吊りに見えるように、背中に担いで首を絞めるって方法があるんだけどぉ、ぶっちゃけ見たらわかるんだよねぇ? でもぉ彼女が抵抗した痕がなかったからぁ、たぶん気絶してたんだろうなぁって。とっ、言うことは、自分で首吊って気絶した後、誰かに殺されたってことだと思うよぉ?」

 野村の言葉に、久保がわずかに動揺するのが見て取れた。

「そう、彼女はあなたに誘導されて、あの場所で首を吊ったんです。ひもはあなたが用意したものですよね。その紐は、飯田さんが首を吊っても途中で落ちるように細工をほどこしていた。だから飯田さんは完全に死ねず、気を失って地面に倒れた。そして、あなたが止めを刺した。これでひとつ。彼女はあなたに殺されたことが決定しました」

 芳乃は人差し指を立ててみせる。

「まるで、事件を見たように言いますけれど、何を根拠に言っているんですか!」

「見たようにじゃなくて、【視た】んです」

 揺れる久保の目の奥を覗きこむように芳乃は黒い目を細めた。

「ぼくの質問を覚えていますか? 絵が上手いかどうか、聞きましたよね。米屋先生とクラスメイトの苧環さん、鬼灯さんは飯田さんの絵を気持ち悪がっているようでした。ですが、あなただけが飯田さんの絵を好きだ、美しいと感じていた」

「そんなの、当たり前じゃないですか。だって、好みが出るでしょう?」

「そうです。ですが、飯田さんが好んでモチーフにしていたものは、決して万人に受け入れられるようなものじゃありません」

 芳乃は立てた指が動く。それに誘導されるように久保が振り返ると、竹輔が液晶タブレットを起動させていた。画面に映し出されたものに、久保は目を見張る。

 真っ赤なキャンパスだ。そこに赤の濃淡だけで描かれた、荒地に積まれるおびただしい死体の山。そして、その上に立つ真っ黒い人型、この世のものとは思えない地獄のような絵。

「飯田さんと絵の話をしていた、と言っていましたね。彼女とあなたは、死について語り合ったんじゃないですか? 死の何が美しいか、完璧な死とは何か。毒殺や、腹を切り裂いて死ぬなんて、美しくない。一つの傷もつけず、どうやったら、綺麗に死ねるのか……そして、話しているうちに、あなたは飯田さんが自殺しようとしていること、自殺方法について遠まわしに相談されていることに気がついた。それを利用したんです。違いますか?」

 淡々と紡がれる芳乃の言葉に、久保は緊張した表情で聞いていたが、ふと力を抜いた。

「確かに、飯田の絵にかれました。死のモチーフについても、よく話し合っていました。ですが、それだけですよ? 死のうとしている生徒を放っておけるほど、私は非情ではありません」

「では、なぜ彼女は死んだんですか?」

 すくめた肩を跳ね上げさせるほどの鋭い芳乃の声に、久保は青褪あおざめる。だが、それはほんの数秒のことで、片頬を上げて笑ってみせた。

「認めましょう。私が、彼女の首吊り自殺をすすめて、自殺の手伝いもしました。でも、それは彼女が望んだことです。私はただ、彼女を救うために手伝っただけですよ」

「救う? 殺しが救いですか?」

「彼女は同級生から陰湿な嫌がらせを受けていた。陰湿すぎて私も直接確認できませんでした。担任も親も、気のせいだというばかり。心は疲れ果て、日に日に絵が描けなくなっていく。彼女は絵に全てを捧げていました。だから、周囲にも自分にも、絶望していた。死にたがっていた。だから、私に助けてくれと言ってきた。私が救ったんだ」

「まだ、嘘を言いますか」

「事実ですよ。他に、私が嘘を言っている証拠があれば、出してください」

 ねだるように手を出して見せれば、芳乃は息を詰めた。唇を噛み締め視線を落とせば、久保はあからさまに嘲笑った。

「証拠は、ないんですね?」

 そして久保は挑発するように、両手を突き出してみせる。

「さて、刑事さん。言われたとおり同行いたしますので、行きましょう。まあ、自殺幇助くらいにしかならないでしょうけど」

 こめかみの血管が浮き上がる感覚に、蕗二は奥歯を噛み締めた。芳乃の小さな背を見つめる。表情は見えないが、押し黙っている。風の音も虫の声も聞こえてこない。公園は死んだように無音に包まれ、居心地の悪い緊張感が漂う。久保の笑みが深くなった。

「野村さん」

 静かな空気を突如震わせた芳乃の声に、びくりとする。

「飯田さんの死体は、どこかアーティスティックなんですよね?」

 首が傾げられ、わずかに見えた芳乃の横顔は、驚くほど表情を崩していなかった。だが、ゆっくりと瞬く黒い眼は、先ほどよりも温度を下げている。先ほどとは何かが違う気配に、久保は焦ったように野村と芳乃を交互に見る。野村が深く頷くと、芳乃は肩から力を抜いてみせた。

「死体を愛する野村さんなら、死体どうする? やっぱりいじる?」

 年相応の態度で、教室で友達と談笑するように軽い口調だ。つられるように野村は楽な体勢で立つと、指を唇に当てながらいつもの調子でしゃべり出した。

「そうねぇ。私ならもっとぉ、眠り姫みたいにお花で飾ってぇ、死体っぽく見えないようにするかなー?」

「死体っぽく見えないように?」

「うん。だって、死体ってやっぱり、腐っちゃうんだよねぇ。ほら、死に化粧ってあるでしょ? あれって、顔色が悪くなっちゃうのをその人に合わせてお化粧するから、すっごく大変なんだよ! だからぁ、この犯人、同じ死体好きだとしてもセンス無いなぁって? もし、『死体』っていう感じにしようとしてるんだったら、全然死体のよさを生かそうとしないんだもん。浮き出る血管とか、白く濁ってくるおめめとかね? ぶっちゃけ、綺麗な首吊り死体を潰しちゃうなんてぇ」

「「もったいないよねぇ?」」

 野村の声に声を被らせた芳乃は、大げさに手を広げてみせる。

「ぼくは芸術とか、美術は苦手なんですよ。建物とか風景画なら少しは興味が湧くんですけど、落書きみたいな絵とか、あれなんですか。あれのどこが良いんですか? ああ、絵だけじゃないですよ、石像も理解できません。特に裸体。アソコは丸出しモロ出しのくせに、それを芸術とかキモイんですよ。露出狂と変わらないじゃないですか。もっと理解できないのは、破壊ですよ。ハンマーで叩いて壊したものをアートだとか言ったり、完璧な作品をわざわざ壊す神経がもう意味不明。なんでわざわざ腕もぎ取ったり頭取っちゃうんですかね? 頭おかしいですよ。私は芸術家だなーんて格好つけてますけど、ただの変態なんじゃないですか?」

「お前に何がわかる!」

 突然怒声が上がった。久保が顔を真っ赤にし、体を震わせていた。

「いいか、芸術は完璧なものほど魅力は減るんだよ。美人は三日で飽きるには理由がある。つまらないんだよ完璧な美は! 完璧なものをあえて崩す、不完全な美、それこそ究極の美だ! 完璧な人の形を欠損させてこそ、美は完成する! 飯田美穂は私の作品だ、たかが凡人のお前に何が解る!」

声が割れるほどの大声でまくし立てるその顔は、もはや教師のものではなかった。

「くくっ」

 唐突な短い笑い声。それに頬を打たれ、久保は我に返える。血の気の引く音が耳元で轟々となる中、視線を向けた先で蕗二が舌先で上唇を舐めてみせた。まるで獲物を追い詰めた肉食獣の仕草に、久保はとっさに手で口を塞ぐ。しかし、蕗二が見せつけるように、スーツの内側から取り出したボイスレコーダで悟った。

 められた! どこから、一体どこからだ。いや、違う。始めから、この公園に足を踏み入れた時からもう……

 怒りから急激に冷えていく身体が震えた。冷や汗が頬を伝い、何かに引かれるように視線を向けると、恐ろしいほど表情を消した芳乃が久保を見据えていた。

「そうですよ。あなたは飯田さんを見殺しにする必要があったんです。片岡かたおかさん」

 久保の後ろ、片岡がすぐさま左人差し指にはまる小型端末を操作し、宙に画像を展開した。久保にも見えるように、左腕を突き出してみせる。

「見えるかな? これは君が≪ブルーマーク≫に指定された時の判定結果マークデータだ。ここにしっかりと、死体への興味について異常と出ている」

 突きつけられた画面から視線をそらしうつむく久保へ、芳乃は大きく一歩踏み出した。

「あなたは、飯田さんを救うために殺したんじゃない」

 冷えた声に顔を上げろと命令される。嫌だと抵抗するが、久保の首はきしみながら上げさせられる。自販機の人工的な青白い光りを背に受け、氷の瞳で射竦いすくめる姿は断罪を下す神そのものだった。

「あなたは、飯田さんの死体が欲しかったんです。飯田美穂の個人なんてどうでもいい。自分のために彼女に自殺を持ちかけ、自らの手で殺して、不完全な美を持つ【芸術品】を完成させるため、いらない顔を潰した。そうですね」

 射抜く冷たく鋭い目に、足元から凍りつかされるような錯覚に襲われる。言葉を紡ぐ芳乃の口から、白い息が吐き出されている気さえした。

「作品が完成して、興奮したでしょうね? 初めて使う死体という素材、それも滅多に手に入らない品物を使い、作り上げた作品ですから。でも、それは手元には置けない。見つかれば逮捕されますし、当然撤去されてしまう。芸術を馬鹿にされて怒り狂うほどのあなたなら、記念となる何かを手元に残したいはずですよね? でも、あなたは簡単に証拠になるようなものを残さない」

 ふと、わざとらしく芳乃は考える素振りを見せた。

「そういえば、あれは何処にあるんでしょう? 現場には無かったんですよね。あなたと美穂さんの指紋がべったりと付いているはずの紐が。ねぇ、坂下さん?」

 芳乃の問いに答え、竹輔がいつの間にか抱えていた、分厚い紙束を宙に投げた。

 留め金の無いそれは暗い空に広がり、雪のように久保の頭上に降り注いだ。

 足元に散らばった白い紙を一枚拾い上げる。震える手を必死に押さえ込みながら、書かれた文面に視線を這わせれば這わせるほど、久保の顔から血の気が引いた。

 遺留品と見出しとともに、一枚の写真が印刷されている。そして、写真の中に映された物の名前がずらりと書き出されている。その中に、芳乃の言う物が書かれていない。 慌てて散らばった紙を掻き集めても、書かれているものは全て同じだった。

「紐なんて、ありきたりですけどね。分かっていれば、あなたの家の中から探し出すなんて造作もないことなんですよ」

 止めに刺された氷の言葉に、とうとう久保は氷像と化した。

 蕗二は、大きく息を呑んだ。小さな背が放つ威圧感に呼吸さえ忘れ、ただただ圧倒されていた。真正面から対峙した久保は一溜まりもないはずだ。余波で強張る身体を叱咤し、腰の手錠ホルダーに手をかける。

「ふふっ」

 かすかな笑い声に、蕗二は手を止めた。

 小さく肩を震わせた久保は、やがて腹を抱えて大きな笑い声を上げた。引き笑いと共に額に手をあて、後ろに倒れるほど仰け反ってみせる。

 久保の異様な様子に、竹輔は片岡と野村を自分の後ろに下がるように手で指示する。

 笑うのに満足したのか、久保は姿勢を戻し親指と中指を擦り合わせ、指を弾いた。

場違いなほど軽快な音が空気を震わせる。

「すごいなぁ! 絶対バレないと思ったのに。そうさ、少年。『ボク』が殺した!」

 喉の奥で笑い続ける久保の後ろで、竹輔の顔が怒りに歪んだ。

「あなたは、人の命を二度ももてあそんだ! それが許されると思ってるんですか!」

 声を荒げる竹輔に、久保が優雅に振り返った。

「それはお前ら凡人の話だろ? いつの時代も、素晴らしき天才ほどうとまれる。こんな世界じゃ、彼女が可哀想だ。ボクの作品になることで真に救われる、彼女もそれを望んでたんだ!」

 コートをひるがえし、軽やかに久保は芳乃へと向き直った。

「なあ、わかるだろ少年。小さき神よ? ボクの気持ちが」

 久保が芳乃に手を伸ばした。芳乃は呆然と立ち尽くし、顔へと近づく手をただ見つめていた。その手が芳乃に触れる寸前、蕗二が強い力で払い除け、芳乃を後ろへと引きずり下げると久保の間に体を捩じ込ませた。

「芳乃は、お前とは違う」

 久保が顔を歪めた。

「なーに友情ごっこみたいな事言っちゃってんの? そのガキも、あの二人も、ボクと同じ≪ブルーマーク≫だろが! ≪お前ら≫ナニ黙ってんだ! なぜ警察の味方してんだ、ああ!? この偽善者どもが! それになぁ、アレはどうせほっといても死んでたんだ! リサイクルして何が悪い!!」

「いい加減にしろ!」

 蕗二が鼓膜を突き破らんばかりの声で吼えた。

「黙って聞いてりゃあ、トンだクソ野郎だな。なにがリサイクルだ、人一人殺しといて開き直るんじゃねぇよ! お前が助けていれば、救えたかも知れない命だった。少なくともテメェのようなクソ野郎なんざに潰されるような未来じゃなかったはずだ!」

「う、うるせぇぇええええええええええ!」

 蕗二に気圧されていた久保が声を上げ、振りかぶった。蕗二は、顔に飛んできた腕を掴むと、脇に抱え込むように引く。つんのめり体勢を大きく崩した久保の顎に掌底しょうてい、間髪入れず、腹に膝をめり込ませる。突然の痛みに前かがみになった久保の背後から捕らえたままの腕をひねり上げ、背中から突き飛ばすと久保の体は簡単に地に伏した。その背に膝を立て、捻りあげた手首に黒く光る手錠をかけた。

「十九時四十六分。飯田美穂殺害、および公務執行妨害こうむしっこうぼうがいで逮捕する!」

 一瞬の早業はやわざに、絶対的自信を根こそぎ刈り取られた久保は、抜け殻になった。

蕗二が乱暴に襟首を持って立たせても、なすがままにされている。それにやっと安堵の溜息をついた竹輔が、ネクタイとともに頬を緩ませた。

「さすが。これで事件解決……蕗二さん?」

 蕗二は突如とつじょ、竹輔に久保を押し付けると、踵を返して自販機に突進していく。そして意味のない咆哮ほうこうと共に、蕗二の足が自販機の隣の白い箱を蹴り飛ばした。プラスチック製の箱は簡単になぎ倒され、蓋が吹き飛び、空き缶とペットボトルが音を立て派手に散乱する。片岡と野村は顔を引きつらせ、竹輔は「あちゃー」と顔を手で覆う。

「よく我慢しましたね……正直、久保を殴るんじゃないかと、ひやひやしてました」

「そこまでバカじゃねぇよ、ああクソッ!」

 盛大に舌打ち、短い髪を掻きむしった。

 本当は、もっと早い段階で蕗二の拳は握られていた。

 仰け反り笑う久保と、あの日の耳障りな笑い声が重なり、頭の中を乱反響する。

チラつく青い光に、目の前が真っ赤になっていた。理性の糸が音を立てて切れていく。

 ぐちゃぐちゃに荒らされた思考を、怒りだけが支配した。

 殺してやる。俺がこの手で、あの日止められなかった、アイツの息の根を。

 血が滲むほど握り締めた拳を上げ、踏み出した瞬間。

 久保の伸びた手。その先に、小さな背が見えた。

 呆然と立ち尽くす芳乃の背が、ほんのわずかに怯えるように縮んだ。その時なぜか、最後の理性をギリギリ繋ぎ止めることができたのだ。

 肺の空気を出し切るほど長い溜息をつけば、頭が冷えていく。狭まった視界が開けていくと、撒き散らしたゴミが嫌と言うほど目に付き、なんとも言えない虚しさと羞恥が湧きあがる。

手早く掻き集めゴミ箱に放り込む蕗二の背に、竹輔の声がかけられる。

「蕗二さーん。それくらいにして、まず先に久保をパトカーに乗せましょう」

「……おう」

 まだ残るゴミにバツの悪い表情で竹輔の元に戻り、久保の両脇を蕗二と竹輔は抱え歩き出した。ふと小さな背を思い出し、視線だけでその姿を探す。

「芳乃?」

 暗がりにたたずむ芳乃は額に拳を当て、疲れた表情で足元に視線を落としている。蕗二の視線に、気がついたのか、「ぼくのことはいいんで、その人運んでください」と猫でも追い払うように手を振った。開きかけた口を無理やり閉じ、久保を引いて芳乃の脇を通り過ぎた。

 足音が十分遠ざかった途端、芳乃は額を抱え、その場に屈んだ。脈打つように痛む頭に、きつく目を瞑る。鼻から息を吸い、口から吐き出す動作を繰り返すと徐々に痛みが和らぎ、緊張していた体から力が抜けていった。それを見計らったように、芳乃の背後から砂利を踏みしめる音が二つ。ゆっくり近づき芳乃の両脇で止まった。

「……なんですか」

「んー、別にー?」

「気にしないでくれたまえ」

 野村と片岡はただ隣に立っている。芳乃は、顔を上げないまま呟く。

「……二人とも、何か言いたいんじゃないんですか?」

 二人は驚いたように目を見開く。そして同時に吹き出した。

「ほんと、蓮くんすごいねぇ」

「やれやれ、君には隠し事はできないようだ」

 しばらく片岡と野村は笑い合うと、芳乃の両側にしゃがみこんだ。

「君は、久保の言葉に何か感じたかな?」

「……何がですか?」

 シラを切る芳乃に、片岡は小さく笑った。

「我々は≪ブルーマーク≫だが、抜擢ばってきされたからこそ、堂々としていられる。だが、久保の『警察の味方』という言葉に、ぞっとした。もしもそうじゃなければ……なんて、くだらないことを考えてしまったよ」

 深々と溜息をつく片岡。その反対側で、野村が小さく頷いた。

「私もさぁ、生きた人より死体が好きだよ。でもねぇ、殺してまで死体が見たいわけじゃないの。なのに、自分のためだけに、人が殺せちゃう人もいるんだねぇ、って。私も、あんな風に見られたり、一緒にされちゃったり、してるのかなぁって……」

 自販機の電気が消えた。離れたところで暗く光る公園の照明だけが、心もとなく三人を照らす。芳乃は膝に顔を埋めたまま、瞼を開いた。まだ新しいスニーカーを見つめる。

「別に、どうでも良いじゃないですか」

 吐き捨てるように芳乃は呟くと、不意に立ち上がった。自販機が驚いたように再び明るく光り、その眩しさに片岡と野村は目を細め、芳乃は光を睨みつける。

「確かに、ぼくらは≪犯罪者予備軍ブルーマーク≫です。だからと言って、絶対犯罪者になる訳じゃないんですから、人がどう思おうが、勝手にしやがれですよ」

 片岡と野村は、芳乃を見つめたまま動かない。二人の視線を受け止めていた芳乃が、ふと我に返ったように、顔を赤らめた。慌てて視線をさ迷わせ、勢いよくポケットに手を突っ込むと、わざとらしく声を張り上げた。

「それにしても、ゴミ箱に当たる人、生まれて初めて見ましたよ。やっぱりあの刑事さん馬鹿ですか」

 その芳乃の表情は、久保と対峙たいじした同一人物とは思えないほど年相応だった。あまりの豹変振ひょうへんぶりに野村がぷっと吹き出し、声を上げて笑った。それにつられるように片岡も肩を震わせて笑う。

「なんですか、笑いすぎですよ」

 不機嫌になる芳乃に、軽く謝った二人は目元を拭い、立ち上がった。

「久々に笑わせてもらったよ。まあ、確かに三輪警部補は少々子供っぽい」

「だよねぇ! 仕方ないから、ちょっと拾ってあげとくー?」

「えっ、嫌ですよ。あの人が散らかしたゴミなんですから、あの人がやればいいじゃないですか」

「でもー、まいちゃった事件の資料はぁ、やっとかないとだめじゃなーい? 拾ってもすぐゴミ箱行きだけどぉ?」

「それはそうですけど……」

「では、こうしようじゃないか。二人とも耳を貸したまえ」







 蕗二と竹輔が戻る頃には、三人によってゴミは綺麗に片付けられていた。

 が、その礼として、財布が空になるほど晩ご飯をおごらされる羽目になることを、蕗二はまだ知らない。









**憂愁のソーンクラウン** 【了】



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る