File:1 追憶の刑事
2042年4月1日火曜日。AM08:20。
白い建物が一つ佇んでいる。周りの建物はひれ伏すように、その背を越えようとはしない。建物に正面から向かい合えば、黒いガラス窓が口を開けて威嚇し、踏み入ることを
東京の治安を守る、総本山。
人はそれを、≪警視庁≫と呼ぶ。
そこへ堂々と歩を進めるものが一人。
正面からガラス張りの玄関を抜けた人物は、多くの人の目を引いた。
膝を抱えた大人がすっぽり入るキャリーケース、その上にダンボール箱を無理やり縛り付け、ガロゴロと重い音とともに引きずる男。
見上げるほどの長身、眉間に刻まれた縦皺。鋭く吊り上がった眼は、殺し屋と名乗られても納得してしまいそうだ。手続きなどで訪れていた一般人はもちろん、警備員たちが警戒と好奇心からじっと男を観察するのは無理もない。
突き刺さる無数の視線をもろともせず、男は受付まで直進する。そこに座っていた女性が、近づいてくる男に笑顔を見せた。
「おはようございます。ごヨウケンをどうぞ」
どこか無機質な印象を持つ女性だ。男は無遠慮に女性を観察する。女性が首をかしげると、男は瞬きを一つし、スーツの胸元から白い封筒を取り出した。中から同じく白く上質な紙を取り出し、女性に差し出した。
「本日、本庁に異動になった
差し出された紙の上部には辞令の文字。その下に【三輪蕗二 4月1日より
女性はじっと紙を見つめる。きっかり三秒後、蕗二に愛想のいい笑顔を向けた。
「はい。カクニンいたしました。こちらでしょうしょうおマチください」
そう言って何処からか受話器を取り出すと、右耳に当てて目を閉じた。
蕗二は違和感の正体に気がついた。彼女は『アンドロイド』だ。その証拠に、女性『自身』から呼び出しの電子音がする。
しばらくかかると判断した蕗二は受付の脇に移動し、壁にもたれかかる。腕を組んで目だけを動かし、新たな縄張りを観察する猛獣のように周りを見回した。
記憶にある警察署の中で断トツに息が詰まりそうだ。
重装備の警備員が十人。確認できる監視カメラは六台。受付だけでこの厳重体制だ。威圧するのは外見だけでも十分だが、上層部はやけに慎重らしい。
それもそうなのかもしれない。
11年前。日本を揺るがす『ある政策』が施行された。
もちろん、施行直後に抗議デモが起こった。そして、暴走した一般人が警視庁を襲撃したのだ。事件はすぐに収拾したが、世間を騒がせたのをはっきりと覚えている。そしてそれ以来、警視庁受付には「人」を置かないと聞いていた。興味もなかったこともあり、ただの冗談だと思っていたが、まさか本当だったとは。
蕗二はふと手元に視線を落とす。
さきほど女性に見せた白い紙、はっきりと印字された黒い文字を視線でなぞる。
やっと、やっとここまで来れた。
紙を握る手に力を入れる。紙が指に沿って皺を作り、文字を歪めた。
腹底から湧きあがる怒りが内臓を焼き、ゆっくりと吐き出した息が熱い。
『あの日』から十年だ。あの瞬間の光景を、今でも鮮明に思い出せる。
忘れるはずがない。
閉じた瞼の裏、暗闇に感覚を研ぎすませる。
静かになった空間に、はっきりと浮かぶ赤と青。
こびり付いた笑い声に、歯を食いしばる。
絶対に許さない。≪お前ら≫だけは絶対に……
「
はっと瞼を上げる。
静間に返っていた周辺の音が一気に音量を上げ、蕗二の鼓膜を叩いた。夢から覚めた直後のように
「
「ああ、待て。敬礼はやめてくれ」
姿勢を正す蕗二を手で制す。その手を軽く握り、蕗ニの肩を小突いた。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「菊田さんこそ、変わりないようで」
「はは、とうとう世辞が言えるようになったか。最後に会ったのは、確か君が高校生の時だったな……しかし、少々でかくなりすぎじゃないか?」
「父も、これくらいじゃなかったですか?」
「そうだな、確かに飛び抜けて背が高かった」
菊田はおだやかに、わずかな悲しみを含ませて微笑む。が、それは瞬き一つでかき消え、菊田は柔らかに下げた目尻の皺を深くする。
「だが、君の方が高い。私の首を痛める前に移動しよう」
わざとらしく首筋を揉みながら
菊田に促される前に蕗二は荷物を引き、後を付いていく。受付ホールの奥に進むと一般人が使うエレベーターが見えた。が、その前を通り過ぎる。次に見えてきたのは相談窓口の受付コーナーだ。が、これまた過ぎた。奥へ奥へと進むにつれ、人の気配がまばらになっていく。
「菊田さん?」
菊田は一度も振り返らない。一言も言葉を交わすことなく、廊下を進んでいく。
そして、何度目かの角を曲がる。
受付も、ドアも、エレベーターも何もない。完全な行き止まりだった。
蕗二が不審感に眉を寄せると、壁の前で立ち止まった菊田が振り返る。先ほどまでのおだやかな笑みは消え去り、厳格な刑事の顔で蕗二を見据えた。一瞬にして緊張感に包まれ、蕗二は
「三輪。まだ、≪ブルーマーク≫は憎いか?」
「はい」
「刑事を辞める意思は?」
「
「……そうか」
静かに頷いた菊田は、いつの間にか取り出した警察手帳を何もない壁にかざした。すると、平らだった壁が音もなくへこんだ。へこみの真ん中に亀裂が入り左右にスライドすれば、四人ほど入れる箱状のスペースが広がっていた。菊田は大きく一歩踏み出して、スペースへと足を踏み入れる。
「来なさい、三輪警部補」
菊田が掌で足元を指した。汗ばむ掌を握りしめ、蕗二は狭いスペースに足を踏み入れる。
後ろで扉が閉まる気配がした直後、わずかな浮遊感。空間は静かに上へと上昇しているようだ。菊田は前を見つめたまま、口を閉ざしている。沈黙が続く中、動き出した時と同じように空間は音もなく上昇を止めた。身を硬くし構えていた蕗二だったが、高い電子音と共に開いたドアの先は想像していた場所と違った。
エレベーターから漏れる光以外、明かりのない薄暗い廊下が奥まで続いている。人の姿どころか気配さえしない。先を歩く菊田の靴音と蕗二が引くキャリーケースが転がる音だけが廊下に響く。頭上を通り過ぎる
ドアノブに手を伸ばした菊田が、不意に手を止めた。
「そうだ、言い忘れていた。もう一人、君にとって懐かしの人物がいる」
「懐かしい?」
菊田はドアを二回ノックし、返事を待たずドアを押し開けると蕗二に中へ入るように促した。身を引き締めて、足を踏み入れる。
「失礼します」
張り上げた声が反響する。十二、三人ほど入れそうな広さの部屋。机と椅子は全て部屋の後方に寄せられ、拓けた広いスペースにぽつんと、四人掛けの机と椅子が置いてあった。机の端で心細そうに座る、ぽっちゃりとしたスーツの男が慌てて立ち上がる。突然の訪問者に緊張した面持ちで敬礼して見せたが、蕗二の姿を見た途端、目を輝かせた。
「
その声に記憶が一気に蘇る。
「
「本当にお久しぶりです。僕、今日から本部に異動になったんですよ。蕗二さんもですか?」
「ああ、もしかして一課?」
「はい、一課の第五係です!」
「うそや、俺と同じとこやん!」
「マジですよ! うわぁ、蕗二さんの方言、懐かしい!」
そのまま話し込みそうな二人に、菊田は大げさな咳払いをした。
「悪いな。盛り上がるのは分かるが、そろそろ本題が来るもんで」
顔を見合わせた蕗二と竹輔が照れた様子で席に落ち着くと、まるで図ったようにノック音が響く。ドアが開く同時に、蕗二は本能的に立ち上がる。やや遅れて竹輔が立ち上がったところで、小太りで温厚そうな男が部屋に入ってきた。
「遠いところ、ご苦労様。私は
まあ
柳本と聞けば、あまり良い噂を聞かない男だと記憶している。上層部へのゴマすりはもちろん、自分に害があると思えばどんな手段でも叩き潰し、意のままに状況を操作するという……
柳本は机の上で両手を組んだ。緊張を解かぬまま、蕗二は背筋を伸ばす。
「昇進おめでとう。君たちの、特に三輪くん、君の活躍は本庁の私の耳にも届いているよ」
「恐縮です」
「
柳本は笑みを浮かべたまま、言葉を続ける。
「ところで君たち。11年前制定された『犯罪防止策』は知ってるね? あれのおかげで、過去最悪だった日本の犯罪率は著しく下がった。しかし、代わりにここ数年、理由のない殺人が増えてきているんだよ。快楽殺人と言うのか……被害者との接点のない、連続性があって極めて悪質極まりないものが特にね。それの何が厄介かと言うと、向こうさんも少し知恵がついてしまったようで、証拠を隠すのが上手いのなんの。そうなると我々でも早期解決は不可能だ。我々警察の威信に関わる。そこで、【ソレ専門の部署】を極秘に作ったんだよ。回りくどくなったが、君たちにはそこに所属してもらう」
蕗二は眉間の皺をさらに深くする。同じことを思ったらしい竹輔の、動揺する気配を感じながら、柳本に断りを入れた。
「意見失礼いたします。私たち二人は、捜査一課の第五係に異動と聞いていますが」
「その辞令は偽物だ」
蕗二と竹輔が驚きの声を上げる。すると柳本は眉を困らせ、大げさに肩をすくめてみせた。
「強引な手段を使ったことは謝る。だが、【極秘部署】の詳細を知る人は極力少なくしたかったんだよ。不本意だろうが、どうかご了承いただきたい」
驚きに、もはや声も出せない竹輔の隣で、蕗二は拳を机に叩きつけ、立ち上がった。
「いくら警視監とは言え、これは許されることじゃない!」
唸るような低い声に、柳本は笑みを深めた。
「下りるかね?」
「勿論です」
「では、これを書いてもらいたい」
二人の目の前に、紙が差し出される。真っ白だ。透かしても裏返しても何もない。眉を寄せ、柳本を見ると手のひらで紙を指された。
「今ここで退職届を書きなさい。坂下くん、君も連帯責任だ」
竹輔が血の気を引かせ、蕗二は歯を食いしばった。
嵌められた。俺は≪あいつら≫を許せない。だから警察を辞めるわけには行かない。柳本はそれを知っている。だから【選ばれた】。竹輔は保険だ。俺が万が一拒否した場合、連帯責任という足枷をはめ脅す為に、俺たちの仲を利用したのだ。二人して同じ部署へ異動になったのは、偶然でもなんでもない。俺たちを逃がさない為に巧妙に念密に仕掛けた罠。全ては、辞令が届いたときから決まっていたのだ。
蕗二は目の前でおだやかに微笑み続ける男を、睨みつけることで精一杯だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます