第1話

 非日常が日常に戻ろうとしても、かえってそれは非日常さを加速させるだけなのかもしれない。

 早口で数式の解説をする先生、チョークで白く汚れた黒板、机の木目。そんないつもと変わらない風景を見ながら、処理しきれない能無しの頭で、そう思った。


 紅坂くんが、この教室の、空っぽだった席に、何食わぬ顔をして、座っている。いつも通りに。いつも通りに?

 そう、今となっては、いつも通りだとは思えないけれど。

 ありえない。普通に考えて、ありえないことだ。こんなことが、起こるはずがない。起こるはずがない?でも、実際起こっているじゃないか。彼は実際に、今この席に座っている。どうして、どうやって。


 いや、そんなことを考えるのはよそう。日常が、急に非日常に化ける可能性も、恐ろしさも、あの時身に染みて思い知ったじゃないか。脳裏に焼き付けられた、ブレーキ音。赤。紅い、朱い?

 やめよう。鈍く痛む頭が、思考を止めろと警告している。


 一時間目、数学の授業。紅坂くんは、いつものように、よくわかったような、わからないような、曖昧な顔で先生の話を聞いている。そのくせテストは、余裕で平均点より十点以上上回るんだから、タチが悪い。テスト勉強の大半を数学に割り当てて、それでも平均点くらいしか取れない私とは、天地の差だ。

 先生の声に、はっと我に返った時には、もう既に、黒板にあったはずの数式が消えていた。しまった。ただでさえわからないのに、授業を聞き逃したりなんかしたら、何もわからなくなってしまう。

 内心ひどく慌てたが、彼から目を離すことは、どうしてもできなかった。ただ私は何かに惹きつけられるかのように、彼をじっと見つめていたのだ。


 と、その時だった。

 時間が、引き伸ばされたような感覚。私と、彼の周りだけが、スローモーションになったかのよう。思考は止まり、自分の息遣いだけが、妙にはっきり聞こえた。


 彼が、ゆっくりと、私の方へ、振り返る。


 窓から入り込んだ風が、爽やかな緑の香りをのせて、私の髪を撫でていく。軽く目を閉じて、再び開くと、私の視線は彼の視線と出っくわした。


 ああ、二度とこんなことはありえないだろうと思っていたのに。

 私は、このまま時が止まってしまえばいいのに、と思った。

 むしろ、止まってほしいと、神様に祈った。

 その願いが叶って、本当に時間が止まってしまったかのように、私には感じられた。


 彼は、どんな気持ちで今、私の方を見ているんだろう。

 まったく、予想がつかなかった。彼の瞳にはあの日のような哀しみの色も浮かんでいなかったし、ましてや他の感情も彼の瞳から読み取ることはできなかった。

 ガラスで出来た、人形の瞳を覗き込んでいるような、そんな、感覚。ただ、何もない。無感情。のっぺらぼう。そんな印象を受けた。


 私と彼の見つめあいは、一体どれほどの時間だったのだろう。数秒にも感じられたし、数時間だったかのようにも思えた。

 ロマンチックの欠片もない、冷たく、無表情な見つめあい。無機物的で、でもどこか夢のような時間。

 その見つめあいを打ち切ったのは、酷く現実的な、終業を告げるチャイムの音だった。聴き慣れたその音が学校中に鳴り響いたと同時に、彼は、さっと顔を元の位置に戻した。そうして、それっきり。


 まるで、魔法が解けたよう。そう思った。

 だけど、これは夢でも、魔法でもない。なんの救いもない、現実だ。

 だから彼はここにいるし、私も彼と同じように、ここに存在しているのだろう。


 休み時間になると、途端に広がる喧噪、笑い声。

 賑やかな声が拡がると同時に、どこか冷たげだった空気が一気に柔らかく熔けていった。

 だけど、彼の周りには、誰も寄ってこない。そこだけ、ぽっかりと穴があいたよう。

 私の周りにも、むろん人はいない。いつものことだ。

 ただ、私は別にみんなから避けられているわけじゃない。みんな、私の方へわざわざ寄ってこないだけだ。

 まあ、似たようなものかもしれないけれど。

 唯一私に話しかけてくれる人がいるとすれば、それは親友の玲だけ。

 だけど彼女は人気者だ。取り巻きに囲まれて忙しそうな彼女に、構ってもらうことなんてされたくないし、したくもない。

 玲のようないい子にこれ以上迷惑をかけるなんて、一体どれほどの悪人ができるというのだろう。私はそこまでいい子じゃないけれど、大好きな玲の力にはなってあげたい。だから、私は玲が必要としてくれているときだけ、そっと寄り添ってあげればいい。

 こんな私のことを、誰も玲の親友だと認めてはくれないだろう。

 別にいい。親友かそうじゃないかなんて、他人の価値観に合わせるようなことじゃない。玲本人は私を頼ってくれているのだから。親友として接してくれているのだから。これ以上に、何を望むというのだろうか。

 まあそんな価値観を持っている私は、特にこの現状を気にしていない。


 でも、彼は。彼はどうなんだろう。

 いつも、明るくて、人の輪の中心にいて。

 だけど底なしに元気だったり、目立っていたりするわけじゃない。

 心地よい距離感に、すっと入り込んできてくれる。心の隙間に、丁度よく嵌まり込んできてくれる。そんな彼を、みんな信頼していたはずなのに。だからこそ、みんな彼のもとへ集まっていくのが当たり前なのに。

 今。

 今となっては、その日常も日常じゃなくなってしまった。

 彼は、独り。独りで、手元の文庫本の文字を、じっと見つめている。

 みんな、彼に話しかけたくても、話しかけられないんだ。

この教室で、今彼に話しかけることができるのは、多分、私だけ。

 なぜ?

 なぜだろう。どうしてか、なんてわからない。

 だけど、見えるみたいだから。この空気の中、彼に話しかけられるのは、きっと私だけ。

 彼に話しかける理由は、充分すぎるくらいにある。

 訊きたいことは、山ほどあるんだ。どうしてここにいるのか。最期の、表情の意味は。そして、どうして、見えるのか。


 すいすいと人混みをかき分けて、彼の元へ。

 文庫本の文字を一生懸命追っている紅坂君は、目の前に立つ私に全く気付かない。

 仕方ない。私は小さく溜息をつくと、軽く彼の肩を叩いた。

 つもりだった。


 するり、と。


 私の手は、彼の肩を通り抜けた。彼は、まったく気づかない。


 分かってた。

 つもり、だったのに。


 居ないはずのものが存在するということは、つまり、そういうこと。

 彼の肩を、それから自分の指先を交互に見つめる。

 よく見れば少し透けているような気もする。よく見れば…

「結城さん」

 声。

 ふと聞こえたその声は、泥沼に嵌っていく私の思考を、そっと、掬い上げてくれた。

「紅坂、くん」

「久しぶり、結城さん」

 そういって、彼は儚げににっこりと微笑む。

「何か、用?」

 話したいことは、たくさんあったはずなのに。

 言葉が出てこない、というよりかは、言葉という概念を忘れてしまったよう。頭が真っ白。というより、空っぽ。

 駄目だ。直感した。ここじゃ、落ち着いて話せない。今はまだ、冷静になれない。

 でも、胸の奥で湧き上がってくるこの思いは。少し暴力的にさえ思える、この思い。話したい、尋ねたい。抑えられない。でも、込みあげてくるだけで、形にはできない。もどかしい。

「どうしたの?」

 紅坂君は、変わらない。

 まったく嫌な顔をせず、相手のペースにそっと寄り添ってくれる。

 そんな変わらない彼を見たら、私の思考も平常通りに戻っていってくれた。

「紅坂くん」

 一息ついて、言う。

「話したいことがあるの」

「うん」

「でも、今は上手く話せない」

「うん」

「だからさ」

「うん」

「放課後、体育館裏に来てくれない?」

「わかった」

 彼は頷いた。そして、もう一度、わかった、と呟いた。

 これで、今やるべきことは済んだ。

 私は、ありがとう、と呟いて、自分の席へと戻る。


 始業のチャイムが鳴った。

 何人かが騒がしく音を立てて、自分の席へ駆け戻る。

 放課後、体育館裏、か。

 口の中で、さっき自分が口にしたフレーズを、何度も転がす。

 青春めいたその響きに、私は今更のように顔を赤らめるのだった。

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茜色と、透明な君と。 ちょき @shara-hasami

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