第19話心配のしすぎですよ
「やましいことはありませんから!」
そう言って、いや
「あの部屋のことですけど!」
俺は大声で呼び止めた。
お姉さんは動きを止めて、がくがくと体を震わせ、振り返る。
「あの部屋、一〇二号室………気に入りました、結構好きです!」
お姉さんは何を言っているんだ、とでも言いそうに表情を固めていたが、
「し、し、し、し―――失礼します」
と叫んで、逃げていった………。
―――いや。
止まって、振り向いた。
それから十分後。
俺と不動産屋のお姉さんは、公園のベンチに並んで座った。
この公園、いつだったか崇常燈に連れられて、歩きながら話をした場所だった。
暗いので、公園の名前、その立て札はよく見えなかった。
「どうぞ」
お姉さんは缶コーヒーを差し出す。
「ぶつかったのは、わざとじゃないんです、逃げようとして―――でも足がもつれて」
「まあ、それはいいです、もう………でも逃げようとしたんですか?」
「………あのお部屋ですけれども、どうしてもお客様に言わなければならないことがあります」
「よろしければ、聞きますよ」
お姉さんは言い淀む。
言いたくないというふうではない。
今更言いたくないというふうではなく、言葉を整理する様子。
だが、俺とこの人をつなぐもの、接点と言えばあの応挙荘一〇二号室のことしか思い浮かばない。
だから話す内容はある程度予想できた。
「―――あの部屋を気に入っていただけたのは幸いです。しかし、前の入居者様は、あの部屋に住んでいた方は―――やむを得ない事情で退去されています」
「………まあ、不幸な事故です、お姉さんは悪くありません」
俺は、ある程度事情は知っているし、受け入れているというふうに伝えた。
「お心遣い、ありがとうございます………しかし、高次さまに、いえ他の顧客にも伝える義務がないのです。といいますのも………もっと悲惨な例、ひどく悲惨な例と比べると、いささか例外でありまして。例えば入居者が部屋の中で亡くなった………自殺した。という
「………それは、たしかに伝えないといけませんね」
それはそうなるのだろう。
霊なんて信じないと言っても、それでも多くの人は、部屋で事故があったら、心理的に、こう―――抵抗を抱くからな。
俺だってわかっていれば、わざわざその部屋を進んで選びはしない。
んん、でもなんで俺には教えなかったんだ?
「しかし、前入居者さまの事故は、部屋の外で………事故に見舞われました。部屋の中、一〇二号室では不幸は起きなかったのです」
はっとさせられた。
言われてみれば。
―――交通事故です。
初江ゆうめはそう言った。
交通事故は、部屋の中では起きない。
「私どもは………会社側は、決定いたしました。方針を。次のお客様にお伝えするのは避けるべきだ。下手に伝えて、これからのお客様に不安を抱かせる方がいけない、失礼に当たる―――お客様に生活を楽しんでいただくということを第一に考えるべきだと………お部屋代はもともと安価だったのです。大家さんの意向で………」
「………」
その対応を、悪い―――とは言えないだろう。
いや、だれが悪いか、という問題でもない。
「それで、私も納得したつもりでした。誰も悪くなどないのです。前入居者様も―――不幸だった、だけで。もちろん、車を運転していた人は、罪に問われるでしょうが。けれど―――」
けれど、しかし。
「けれどスーパーで鉢合わせした際には、高次さまと―――会った時は、これはもう、言えということなのではないかと思いました。神様が会わせた―――と言ったら妙な話ですが、言うべきだと」
隠し事をする方が、よくないことだと。
言い難いことを言ってくれたことには、感謝………するべきだろうか。
この女性は、俺に対して、この秘密を持っていたから―――挙動がおかしいのだろうか。
おかしかったのだろうか。
確かに人の死が絡んだ、重要なことではある。
脳に、心に負荷がかかる出来事だろう。
「逃げようと思いました。素早く後ろを通り過ぎてしまおう………と。しかし正直に言ってしまえば楽になる、とも思って目の前が真っ白のまま、駆け足で………」
これは私の懺悔です。
ただのエゴかも。
そう彼女は呟く。
悩んでいた、思いつめていた。
「心配の、し過ぎですよ」
事故にあった人間より、この人の方がつらそうに見えた。
うつむいていて、たどたどしい。
「あの部屋は快適。快適そのもの―――です」
「そう、言っていただけたら、安心です。ごめんなさい。………でもあの人は、私も少しだけ会ったことがあるんです。受付で………
驚いた。
まさか、初江さんと―――会ったことがあるのか。
生前に。
そりゃあ、ショックも受ける。
「ほどほどにしておいた方がいいです。そういうのは―――『面白くない』です。」
この辺で話を切り上げたくて、そう言った。
なんだか格好をつけてしまった感があるが、いや、本心だった。
俺は、俺は。
ベンチから立ち上がる。
「俺はね―――、『面白さ』に関しては、うるさいですよ。テレビで若手芸人見ながら、それはないな、つまんねーな、とか………はは、自分でも悪い癖だなって思いますけど、嫌味を言っちゃいますから」
俺は続ける。
「ご存知ですか?」
俺は言う。
「幽霊って、漫才をするんですよ」
彼女はきょとんとした。
首を傾げる。
俺を頭のおかしい人間だと思っただろうか。
「コント、お笑い………幽霊になっても、落ち込んでるだけじゃあなくて………ああもう、とにかく楽しそうです」
「はあ」
「まあ死んだから不幸、とは限らないわけですよ。夜は墓場で運動会、ってね」
不動産のお姉さんは困ったような顔をしていたが、とりあえず気恥ずかしくなって俺は歩き出す。
手にあった缶コーヒーを意識した。
「ああ、コーヒーごちそうさまでした。大丈夫です、心配するようなことはありませんから」
「ゴゾンジデスカ………か、ありゃねえわ」
俺は若干恥ずかしくなったまま、帰路に着いた。
しかし、自転車をこぐ足がやや急ぐ………逃げたくなった。
やべえ超恥ずかしい。
なんだよあの喋り方。
忘れてくれぇー。
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