君の隣

 靴を脱いで玄関を抜けた辺りで限界が来た。

 さんざんに過ごした酒の所為で、世界がぐるぐると回っている。もう世間の目もないからとだらしなく床に転がり、俺はまぶたを閉じる。

 少し冷え始めた秋の夜だ。

 このまま眠ってしまえば、きっと風邪を引く事だろう。それはいけないと思うけれど、でも起き上がる気力が少しも湧かない。


 するとふっと俺の肩に、君が触れた。


「ダメだよ、こんなところで寝たままじゃ。ね?」


 小さく揺すりながら囁く、記憶通りの優しい声音。

 閉じた目の裏が熱くなって、涙が零れた。


 わかっている。どんなにはっきりと聞こえても、どんなにしっかりと感触があっても。これは夢だと。これが夢だと。

 本当は君はもうここにはいない。本当の君はもうどこにもいない。

 これはただ時折に訪れる、俺の願望が見せる幻想なのだと。

 だから瞼は決して開かない。

 もしそうしたら君の声も感触も、全て消え失せてしまうものと知っているから。


「もう起きて。起きてよ。ねぇ、ちゃんと立って」


 そういえば初めての時は飛び起きて、そしてひどく落胆したものだったっけ。

 悲しく案じる声を聞きながら、俺はそんな回想をする。


 いつかは君が薄れる日が来るのだろう。君を忘れる日も来るのだろう。俺は独りで立ち上がれるようになるのだろう。


 だけど、それは今じゃない。

 だから、今は。


 もう少しの間だけ、この幻に縋っていたいと思っている。

 もう会えない君の隣で、微睡まどろんでいたいと思っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る