教本

 人との付き合い方を知らない僕に、彼女はにっこり笑ってみせた。

「挨拶なんてこうすればいいの」と、そう言って彼女は笑ってみせた。

 上手く笑えない僕の為に、彼女は何度もお手本になる。

 その笑顔が僕だけに向けられるものではないと知りながら、そのたびに僕はどきりとする。



 僕が上手に表情を作れるようになった頃、彼女の背丈が僕に追いつく。


「これ以上伸びると、女の子としてはちょっと困るかな」


 愚痴のように言いながら、それでも嬉しそうに笑っていたのを覚えている。

 そんなふうに彼女は、僕よりもずっとずっと早く、時間を重ねていってしまう。



「あなたは昔のままなのに、私ばっかりおばあちゃんね」


 彼女の家族の目を盗み、ひっそりと訪れた病室で、ため息のように彼女は笑う。

 僕はそれを美しいと思う。彼女を、とても好きだと思う。


 やがて吐き出される最後の息を看て取って、僕は一度も教わらなかった涙を流す。

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