見てはならない

 私たち一行が野伏のぶせりに襲われたのは、山の細道での事でした。

 騒動の最中に私は足を踏み外し、次に気づいた時は、夜の森にただ一人きりでした。怪我こそはありませんでしたが、すっかり道を失っていたのです。


 それから、当てなく山中をさ迷いました。

 このままでは飢えと渇きで死んでしまうか、獣の餌食になるばかりだと思ったその時、目を疑うばかりに立派なお屋敷を見たのです。

 ここを先途せんどと戸を叩きました。

 やがて出てきてくれた男の人は、夜更けにも関わらず私の訴えを聞いてくれました。そして一夜の宿を貸してくれました。


 翌日、朝餉あさげの後で、お屋敷の旦那様にお礼を申し上げました。

 初めてお会いした旦那様は大層お優しい方でした。私が帰り道も分からず、仮令たとえ帰れてもまた売られる以外ない身の上だと知ると、私をお屋敷で使って下さると仰りました。

 そればかりか読み書きを教え、お給金までくださるというのです。


 御恩に報いようと、私は一生懸命働きました。

 ただこの屋敷には、ひとつだけ禁があったのです。

 最初の日、旦那様手ずから屋敷の案内をしてださり、そしてひとつの部屋の障子の前で言いました。


「いいかい。お前は正直者だから、どの部屋に出入りしてもいい。ただしこの部屋だけはいけない。この部屋の中だけは、決して見てはいけないよ」


 私は幾度も頷きました。

 大恩ある旦那様の言いつけです。破ろうなどとは少しも考えませんでした。



 身をにして働いて、それから幾年が過ぎたでしょうか。

 ある日私は思いも寄らずいとまを申し渡されました。

 ここに骨を埋めたいと考えていただけに、とても悲しかったのを覚えています。でもそれ以上に悲しかったのは、その時の旦那様のかんばせでした。それはとても落胆したような、失望し果てたお顔でした。

 至らぬところがあったのならば直します、どうかここに置いてくださいとすがりましたが駄目でした。


「お前に何一つ悪いところなどないのだよ。お前は私の言いつけをちゃんと守った正直な娘だ。でもだからこそ、もうここへは置いておけないのだ」


 私は町まで送られて、そこからは独り、とぼとぼ郷里へと帰りました。

 実家の暮らしは、それまでに頂戴したお給金で、わっと豊かになりました。私は夫を持ち、子供も生まれ、今は幸福に暮らしています。

 全て旦那様のお陰でした。

 だからこそ、時折寂しく思い出すのです。

 旦那様は、私に何を望まれていたのでしょうか。

 私はあの方の期待を、決して裏切りたくなどなかったのに。

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