納戸の声

 丹念に包丁を研ぐ。よく、切れるように。

 研ぎ方の秘訣ひけつは、父が私に教えてくれた、ふたつの特別のうちのひとつだ。

 小まめな父は万事に「いい物を買ってちゃんと手入れをするのが一番」なる主義を標榜ひょうぼうしていて、うちの道具は長く使い込まれた物が多い。

 特に父は包丁の手入れが達者で、自前で買った砥石までもが台所にあった。我が家の包丁は必ず、研ぎ細るまで使い込まれたものだ。

 しかし父が死んでから、包丁が切れなくなったと母は零している。技術を受け継いだはずの私は、生憎あいにく無精者だったのだ。


 父からの受け継いだ特別の、もうひとつが納戸の声だった。

 父の書斎の納戸からは声がする。

 昼日中、そこへ枕を向けて眠ると、夢うつつのうちに秘密が囁かれる。誰とも知れない納戸の声が、よく知る誰かの秘事をそっとあらわすのだ。


「知ってしまう事それ自体は、多分そこまで問題じゃあない。知った後にどうするかこそが一等大切だ。お前は間違えないと信じているよ」


 そう言って父は笑った。秘密を知った喜びよりも、父に信頼してもらえた事の方が嬉しくて私も笑った。それは父が他界する少し前の事だった。


 それから時折、私は納戸の声を利用した。声は様々な秘密を教えてくれた。

 よく行くお店の裏事情。取引先の腹の内。会社の人間関係。母の再婚相手の事。それから婚約を交わした相手の裏切りまでも。



 だから私は包丁を研ぐ。よく、切れるように。

 今日は彼がうちに来る。

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