第6章 無慈悲な絆(本当の怪物)


 それは、鈴乃が病院から逃げ出す、二日前のことだった。

「ほら、できた。やっぱり綺麗ね」

 和子が花を愛でるように、黒く染め直した鈴乃の髪を優しく撫でた。

 介護ベッドの背を上げ、鈴乃は座ったまま母の問に頷き続ける。和子にとっては満足の行くものだったようだ。

 鈴乃は作り笑いを浮かべたまま、彼女の行為に身を委ねることしかできなかった。

 和子はかわらず、お気に入りの人形を愛でる少女のように、ずっと鈴乃の髪や顔を撫で続けている。自分が人形にでもなったような感覚。

 恐怖とも、安堵とも付かない気持ちを、鈴乃は昔から毎日感じていた。

 逆らえない。少しでも逆らえば、和子は鈴乃にどうしてだと問いかけ、意にそぐわない答えが出ると、泣き出すか激高し、「どうしてなの!」と、ヒステリックに叫び出す。

 理解している、彼女も必死だ。重度の障害を持った娘、その娘の命を誰よりも考えている。その気持ちが解るが故に逆らえない。

 母を嫌いたくない。鈴乃は、そんなことを考えて生きてきた。

 愛情と恐怖の象徴。それが鈴乃にとっての鈴原和子という母親だった。

「お母さん」

 ようやく口を開き、鈴乃は生気の無い虚ろな瞳のまま母に声をかけた。

「私は、あにぃの何?」

「大事な妹よ。きっとお兄ちゃんも鈴乃のことをそう思っているわ」

「いいの? それで?」

「当たり前じゃない。お兄ちゃんは妹を守るの。それはお兄ちゃんの義務で、一生懸命家族で守り合う、助け合うことが家族と人間のすばらしいところよ。世界はみんなで支え合って生きて行くの。だから、お兄ちゃんのことは心配しないで。あの子も本当は分かっているわ」

 良いことを言ったとでも思っているのだろうか、彼女は満足したように聖母や天使を気取ったような、満面の笑みを浮かべた。

「私は……あにぃに寄りかかっているだけだよ、お母さん。私はただ、あにぃに憎まれたくないだけ……普通にしたいだけなのに、私が、何したって言うんだよ!」

 枕を壁へ投げつけ、頭をグシャグシャに掻きまくり、鈴乃は叫んだ。

「どうして、私をこんな風に産んだの? 私も兄貴も、アンタの人形じゃない! またこんな風に閉じ込めて、綺麗事を言うだけ、中身の無い言い訳なんて聴かせるな! アンタがちゃんとしないから、私たちは!」

 絶叫と慟哭、その渦の中、鈴乃は心臓を押さえ呼吸を乱すが、その叫びは止まらない。

 自分自身も、何を口にしたのか忘れるほど言葉を捲し立てると、瞬時に理性を取り戻し、母のヒステリックな恫喝に怯え身を強張らせたが、そう言った言動は返って来なかった。

 どう言うことだと思い顔を上げると、和子の表情を見て戦慄した。

「そう言って、本音を聞けて良かったわ。貴方もお兄ちゃんのこと分かってくれているのね。でも大丈夫。綺麗事じゃ無いわ。だって、私たち親子は通じ合っているんですもの。貴方の言っていることは理解できる。それだけ元気ならば嬉しい。でも、誤解しないで、貴方は生きているんですもの。子供を人形と思う母なんているはずないじゃない」

 穏やかな聖母の微笑みのまま、娘を肯定する母の言葉。そこに、鈴乃が望んでいる言葉は無かった。

「あなたが兄想いだって、お母さん分かってるわ。大丈夫、あの子はお母さんの子だから、鈴乃のために我慢できる。だって、お兄ちゃんなんだもの、鈴乃は心配しなくて大丈夫」

 悪意の無い無垢な笑みは自分の心と生を誇りにしていると言った様子だった。

 この人は正しい。でも、違う。恐ろしい、言葉が通じない。会話が成り立たない。

 何を言っても、この人は自分の都合の良いことに解釈する人だ。

「私も、あなたのことを愛しているわ。だからあなたは、私のために生きていてくれれば良い。それだけで価値があるのだから」

 自分が追い込まれている状況に対する、生きるための言い訳。

 プラス思考という考えでは無い。独りよがりというレベルでは無い。

 元々人間は、コミュニティを持つことを生業とした、群れで生きる生物だ。この人は、その根本である、コミュニケーションができていないことすら理解していない。

 外界からの情報を自分の都合の良い方へ解釈し、それ以外は切り捨てる。

 そう言った、脳の構造をしているとしか思えない。現実逃避と言った方が的確なのかもしれない、自分は現実と向き合い努力していると思い込んでいる。

 鈴乃にとっても、母がここまでの思考能力に達していたことは予想外だ。

 『怪物』この女はまさに鈴乃にとって、抗うことができない絶対的な存在だ。

「アイシテイルワ、スズノ。ウマレテキテクレテ、アリガトウ」

 母の姿をした怪物が、頬にキスをした。

 気が遠くなる。酸素が足りないわけじゃ無い。心が、この場にいることを拒んだ。視界が真っ赤になり、意識が薄れ行く。

 ぼんやりと浮かび上がる人影。夢現のまま視界に映ったそれは、自分でも望まない形で、唯一鈴乃自身が絶対的に支配した男。

(あにぃ……ごめんなさい。産まれてきて、ごめんなさい……お父さんとお母さんを狂わせて、ごめんなさい。でも、私はあにぃにも、優しくしてほしかった……)

『誰がお前を愛するものか、バケモノめ……ふざけるな、お前は俺を殺し続けたくせに』

 冷たい視線、自分に捧げられている物は哀れみでも、悲壮でも、同情でも、まして愛ですら無い、憎悪と呼ぶには相応しいモノだ。

 思わず兄から視線をそらすと、足下には無数の骸の山があった。それは誰も彼もが、兄自身の姿をしていた。

『お前のせいで、俺は死に続けているんだ。いい加減、お前も……死ね!』

 赤い世界が一転し、漆黒が辺りを包み込み鈴乃はその闇の中でふっと、色々な何かが心を掠めたことに気がついた。


―※―

 清一郎の計らいで、大学病院の手術室はすぐに用意できた。最新の医療機器、最高のスタッフを用意できる場所ではあった。手術には清一郎と誠司のほか、院内の外科医、そして、鈴乃を幼いことから見てきた医師と看護師の数名が、手術へ参加を志願した。

 手術当日の朝、忍は昨日から食事を取らず、薄い浴衣姿で一人病院の廊下を歩いていた。『手術室までは歩いて行きたい』。忍の最後の条件だった。

 窓から見える空は蒼く澄み渡り、深緑に染まった木々は夏が近いことを教えてくれる。

「やばいな」

 その言葉が躊躇いを誘発させる。恐いと言う想いと、行かなければと言う思いが絡み合う。小さい頃に味わった、虫歯で歯医者へ向かう気分だ。もっとも、今回の不安はそれとは比べ物にならないが。

 重い足取り、憂鬱な自分が嫌になる。そっと下腹部に手をやり、これから摘出されるであろう、自分の臓器と傷付けられる体を労う。

「やっぱ、恐いな」

 手術室へ向かう通路は大型の自動ドアにより、一般用の診療区画と別れている。自動ドアを潜ってしまえば、あとは手術終了まで出られない。地獄の門か、天国への扉か、それを目前にした忍は、思わず足を止めた。

「鈴乃は、五回もここを通った訳か」

 突然、忍の心情を代弁するかのように、アキラの声が聞こえた。

 思わず振り向くと、確かにアキラは居た。ショートパンツと、タンクトップの上に薄地のパーカーを羽織ったラフな姿は、露出が多く、相変わらずだったが、今日は、深く被ったキャップ帽のおかげで表情が覗えない。

「二日ぶりだな……」

 息を吐くように掠れた声で、忍は声をかけた。二日ぶり、と言う台詞は、まともに会話を交わしていない時間を指したものだ。

 鈴乃を忍が見つけてから二日間、アキラとは一度も顔を合わせてはいない。憔悴しきった忍の心には、目の前にある問題に向かい合うのがやっとで、他に目をやることはできなかった。もしかしたら、忍が気づかないうちに、アキラは近くにいたかもしれないが……

「アタシのせい……だよね……」

 ドアの前に移動したアキラは、帽子のツバで顔を伏せ直し続けた。

「絆とか、今までのことが家族の代償で、等価分がいつか返ってくる。みたいなこと言ったから……こんなことになるなんて、私が背中押したみたいで……」

 前にもあった、弱々しく静かに語る女の声。それは、忍が知る、明朗快活なアキラの物と思えなかった。

「悪い、今はそんな話をしている余裕が無い」

 暗い話になることは目に見えた。これから文字通り、命を賭ける場に赴こうと言うのに、他人のことなど構っていられない。

 他人。その言葉に、忍は違和感を覚えた。

 ずっと持っていた疑問。それを忘れるほどの自然な存在、考えるより先に口が動いた。

「お前……じゃなく、アンタは誰なんだ?」

 口ごもるアキラに、忍が冷たく問いかけた。

「え? 何いってんの? アタシはアキラじゃない。帽子を取らないと判らない?」

 アキラとは思えないような、余所余所しく、弱々しい口調。手術直前の人間を前に、そう言った態度を取ること自体は不思議ではない。しかし、その姿はアキラに対する疑問を思い出させるには十分だった。だから、そう問いたかった。

「ここまで来て、どこの誰と暮らしていたかも判らないまま、死ぬのは後味が悪すぎる。一応、家族……みたいなモンだろ」

 自分でも意外なほど、冷めた問い掛けだった。神原アキラという少女を忍は知らない。過去に何があり、どうしてホームレスをしているのか、聞いてもはぐらかされるだけだ。

 忍も内心ではそれでも良いとも思った。だが、なら何故自分はこの少女をそういう風に思えたのか、この質問はアキラに向けたものでもあり、自分にも投げかけたものだ。

 アキラも、忍の想いを察してか体を震わせ口を噤んだ。開いてしまえば、全てが吐き出されてしまうことは、忍からも見て取れた。しかし、『家族』と言う言葉が覚悟させたのか、彼女は深い溜め息の後、重々しく口を動かした。

「アキラって言うのは、自分で付けた名前。どこで生まれたのか判らない。気づいた時には知らない女の家にいて、その知人を盥回しにされてた。歳も十四って言ったけど、もうちょっと上だと思う。物心ついた時に誕生日って言うのを覚えて、逆算したら、大体これくらいかなって思って。下手したら、アンタより上かも……はは……」

 自嘲するように、乾いた笑いを浮かべながら、アキラは巻くし立てた。

「ここまでしか、言えないよ。本当に、前の名前なんて思い出したくないし、聞いて欲しくない。私も、忍のこと言えない。一番、自分から逃げていたのはアタシだ。忍や鈴乃に自分の理想を重ねて、勝手なことばかり!」

 自分は呪われている、自分は汚れている。そう言った精神的な自傷が、自分の理想の家族と自分を思い浮かべた。忍と鈴乃の兄妹の関係は、アキラには羨望の対象だった。

 だから、自分の理想とする家族のように幸せになって欲しかった。だが、それは思い違い以前のことだ。自分自身の理想を忍や鈴乃へ押しつけ、自己投影しようとした。

 それは、忍が最も忌み嫌う大人達と同じ行いだった。

「相当なエゴイストだな」

「自覚してるよ、そんなこと。でも私は――」

「たぶん、俺はアキラの考える理想の家族って言うのを、鈴乃に求めていないと思う」

 静かに忍はアキラの言葉を遮り、震える彼女の肩へそっと手を乗せた。

「でも、俺はお前のことを普通の…妹として、家族として見ていたかったのかもしれない。お前と一緒に暮らした生活は、本当に楽しかった」

 だから憎まれ口も叩けた。気を遣わなかった。狂った日常と家族の中で、アキラは唯一、人並みで普通の存在だった。妹のような、姉のような、そう言った当たり前のように傍らにある存在。そう感じつつも、アキラにどう接して良いのか、結局、答えが出なかった。今の彼女の話を聞いても、それは変わらない。

 アキラはアキラだ。だから、鈴乃という妹の存在が、自分にはバグと呼べるほどの不安定で不快な存在とも言える。元々、兄妹という感覚自体が忍には無いのかもしれない、結論を言ってしまえば、忍自身にとって、妹と言うものは忌むべき存在だ。

 アキラをそんな対象にすることなど、考えられない。今、一つだけ答えが出た気がした。

「この問題は俺達兄妹のことでお前には関係ない。でも、お前と話せて、今はちょっとだけ、さっきより頑張れる気がする」

 忍が手を置いている間、何度も肩を上下させ、鼻をすするアキラは泣いていた。そうなることを予想していたのか、アキラの帽子は涙を隠す仮面と同じだった。

 忍は壁に掛かった時計へ目をやると、アキラの顔を見ずに、巨大な自動ドアを潜った。

「二人で、戻って来てよ」

 ようやく絞り出された高い声の後、アキラは落ちるように腰を落とし顔を伏せた。

 現在、午前九時四十分。手術の時間まであと二十分という時間だった。


―※―

 並んだ二つの手術台、片方には既にレシピエントである鈴乃が横たわり、ドナーである忍は、傍らで彼女の手を静かに握っていた。

 無数のモニター、無数の配線、よく解らない機械の数々、UFOを思わせるような大きな丸いライト。手術着の医師や看護師達が機械の調整をしながらその時を待っていた。

 まるで、ドラマの一場面を切り抜いたような場所で、忍の緊張はピークを迎えていた。

 本当に手術って大がかりなんだなと驚くが、今は誠司を信頼するしかない。

「もう一度確認するぞ、鈴乃。お前に装着するのは補助人工心臓の体外設置型だ。それに、体力も低下しているから、しばらくまともな外出は出来ないかもしれないが、必ず心臓は手に入れてみせる。そして、忍の腎臓と肝臓の移植も拒絶反応を抑える薬も飲まないといけないかもしれない。手術が終わってからが本当の闘いだと思ってくれ」

 鈴乃は無言で頷き、誠司に任せたと意思表示を見せ、その視線は傍らの忍へと戻された。

 虚ろで弱々しい瞳を見ると、どういう訳か、忍の心は波一つ立たない湖のように穏やかになれた。

「あにぃ、体……傷、付けちゃうよね?」

「気にするな。このままよりはマシだろ? お前だって、よくわからないもん付けられるんだから、怖いだろ?」

「もう、馴れた。しばらく動けないみたいだけど、まあ、しょうがないか」

 微かに口元を引いて見せて、鈴乃は続けた。

「それよりも・・・・・・あにぃ…私のせいであにぃはずっと我慢してたかもしれないけど、私は元気で自分勝手に生きてるあにぃがうらやましくて、嫌いだった、でも本当は好きになりたかった」

「そうか……」

「ねえ、あにぃ……私のこと嫌いだよね。私のために手術なんて嫌だよね?」

 忍の本心は見抜かれていた。恐い。アキラと話し、少しは覚悟が決まったと思っていたが、ここに来てまた、不安が大きくなる。

 麻酔後、本当に目が覚めるのか。手術の途中で麻酔が切れたら、突然の事故で重度の障害や後遺症が出るのではないだろうか? 何よりも、自分に付けられる手術痕に、一生絶えられるだろうか。腎臓一つと肝臓半分。それで、自分は大丈夫なのだろうか?

 そんな迷いや、不安に襲われるのは仕方がない。だが、土壇場になって、それ以上に忍の心は喜びに満ちあふれいていた。

 自分が鈴乃の生死を左右する。自分の選択の有無で鈴乃の運命が決まる。

 今まで、鈴乃の生存により振り回された自分の人生。忍自身は理解していなかったが、鈴乃への憎しみは愛情と同意だった。

 鈴乃を許すとは、鈴乃を愛さないことだ。そのことが不自然であり恐かった。しかし、今の鈴乃は忍の意のままで生死を選択される。

 唐突に、消えかけた黒い欲望と復讐心が再燃する。

 もし、鈴乃がアキラのような普通の少女ならば、誰も苦しまず、狂わずに済んだ。征服され、屈服させられ、屈辱に耐えて自分を殺してきた。幾十人幾百人の自分を殺してきた。

 鈴乃を殺したい心の奥底にある欲望が、合法的に許される立場にあることを理解する。

(殺せる!)

 悪にならず、自分を貶めた外道。畜生。餓鬼。悪魔。怪物。そう言った不の存在と同義である、愛する妹を死なせることができる。

 自分の半生を捧げられた怪物を殺せると言う安堵、正義の名の裁きを下せるという喜び、それが忍に、初めての勝利の感触を持たせた。

 あまりの自分の境遇に死を何度も考えた。だが、自らの死は敗北であり、絶対的な悪でもある。己が正しいと思うのであれば、どんな状況でも耐えきり、生きなければならない。

 自分にとっての明確な正義と悪が区別できる以上、正しさを持った者は最後は報われるはずだ。鈴乃を許すと言うことは、今までの自分と鈴乃への愛を否定することとなる。

 周囲から押しつけられる理想と偶像の兄妹愛、自分は幾度となく自分を殺し、できる限りその要求に応え戦い続けた。コレはただひたすらに、愛されたいという自分自身のための欲望と渇望を満たす唯一の手段だった。

 忍にとって、鈴乃は自分の運命を左右する神だ。あの女を許さない。これは絶対的な、揺るぎない自分自身を形成する信念と理念、そして存在を維持する理由だった。それが無くなれば、悪は消滅し、自分を保ってきた正義という理念が崩壊する。

 その理念を守るため、鈴乃を想うことで繋がる感情。憎しみでも、愛でも無い。この感情が忍を瀬戸際で支えていた。

 今度は自分が鈴乃の運命を選択する側となった。この想いは誰にも砕けない。砕かせてはいけない。自分の一部が、鈴乃の一部になる前に言わねばならないことがある。

 この瞬間だけ、自分は鈴乃にとっての神となった。そう思うと、黒い欲望の中に身を置きつつ、忍の心は何故か晴れやかだった。

 アキラが望み、求めていたものを湾曲しながら、忍は『絆』を理解した。屈折した精神と情緒、この想いが如何に醜い存在か理解する。鈴乃だけではない、自分の中にも醜く歪んだ怪物がいたのだ。

(これが、俺達の絆。偽りも屈託もない変えようのない俺の心。そして言葉だ)

 脅える鈴乃の手を、忍は自然と優しく握っていた。幾多の想いを起こさせ、そして、忍は鈴乃の問いに精一杯答えた。

「鈴乃、お前なんか大嫌いだ! 死んじまえ! でも死ぬな! 俺のために死ぬな!」

 心の中の屈折した自分が、異常な精神状態であると理解していた。だが、これは不器用な自分から出た本心だった。

「馬鹿野郎。馬鹿野郎。ちくしょう。ちくしょう! ちくしょう!」

 どんな形や繋がりであれ、忍にとって鈴乃は自分の半身だった。明と暗、どちらも同時に持ち合わせた混沌の兄妹。

 弱くて臆病で寂しがりやな兄、それを強くしてくれたのはいつも妹だった。鈴乃への憎悪は、幾度となく忍を救い続け、己の正義が死という選択へ向かわせなかった。

(俺も、お前が好きでいたかった)

 鈴乃を憎むこと、それが忍から鈴乃への、感謝と愛情の裏返しだったのかもしれない。それは不器用な兄の最後の葛藤だった。

「あにぃ・・・・・・ありがとう・・・・・・」

 弱々しく伸ばした鈴乃の手が、そっと忍の頭に触れた。

 言葉が無かった。振り払おうともしなかった。忍は初めて、何の弊害も無く、鈴乃の心と言葉に触れたような気持ちになれた。鈴乃は・・・優しい娘だった・・・・・・。

「忍。もう、良いか?」

 誠司に声を掛けられ、忍はようやく自分が涙を流していることに気が付いた。鈴乃は、それを見て少し驚いていたあと、微かに笑みを浮かべた。

「笑うなよ」

 涙を拭いながら、鈴乃に文句を言う忍は最後に「また、あとでな」と小さく呟き、隣の手術台に身を預け、目を瞑った。

「忍、鈴乃、頑張るんだぞ」

「頑張るのはお前だろ、俺達は寝てるだけだ」

「そうだよ。誠司、頑張れ」

 誠司に対する忍の憎まれ口に、鈴乃が掠れた声で便乗した。そして、次の瞬間「やってくれ」と忍の意を決した声が室内に響いた。それは手術開始の合図と同義だった。

 口元に当てられた酸素マスク、そこから吹き出た無臭の気体を吸い込んだ瞬間、忍と鈴乃の意識は、ふっと闇の中へと落ちて行った。

「今はそれでも良い。その言葉だけで、俺はやっと最初に立てる。ありがとう忍。俺にもチャンスをくれて、本当にありがとう」

 麻酔により、意識を失った忍と鈴乃を見比べ、誠司は二人の手を握らせた。これが、二人に対する最大の礼と励ましだった。

「確かに、頑張るのはお前達じゃないな……」

 そう誠司が呟くと、清一郎がマスクを外し、ひげ面に笑顔を浮かべて見せた。

「こういう時くらい、大人に頼りたいんだろ。頼らせてやれば良い。この子達に、格好いいとこを見せてやろうじゃないか」

 何故だか分からないが、そう言った父の笑顔は、大手術に挑む自分から、恐れを振り払ってくれた。

「よし、行こう」と清一郎が誠司の肩を叩き、親子二人三脚の手術は始まった。

「ありがとう。父さん……」


―※―

 午前十時、二人の手術が始まった時間、アキラは病院の屋上の給水塔の上にいた。

 結局、自分には祈ることしかできなかった。肝心な時に、何の力にもなれない。だが、これも、自分の役割なのかもしれない。

 役割。忍や誠司と出会う前のアキラにして見れば、それは夢のような話だった。

『迷惑な話。あの女、子供置いてったわ』

『ガキがガキ産むからこうなるんだよ』

『母親? 知らないよ。私のダチのダチが援交失敗して孕んだってしか聞いてないね』

『ここに居たかったら、さっさと脱げ!』

『ねえ、お母さん。あの子だれ? なんで床で食べてるの?』

『さあ、召し上がれ明(メイ)あなたのエサよ。にんじんとじゃがいもの皮のスープよ』

『明、君はなかなか聡明だ。君の明と言う字は、アキラ、あかり、光。そう言った辺りを照らすと言う意味と、物事や道理をハッキリとした真っ直ぐなさまと言う二つの意味がある。そう言った人間になりなさい。自分や周りの人達を真っ直ぐ照らせる光に』

「神原のおじいちゃん……私、少しはそう言う風になれたかな?」

 自分自身が何者なのか、明という最初の名前に良い思い出は無かったが、点々と預けられた人と人の間の中、自分の名の意味を教えてくれた老人がいた。それが、明からアキラとなった、彼女の唯一の存在理由だった。

(また、彼に会いたい)その想いが今更ながらに過ぎった。

 老人の言葉は励みだった。それが有ったから、アキラは生きて行けた。自分にとって、自分の存在が定義できる場所、アキラという人格の要となった言葉。しかし……。

『お前と話せて、ちょっとだけ頑張れる』

 忍の先ほどの言葉は、励みにしていた老人の言葉よりも、アキラに何かをもたらした。

 それは、アキラにとって誇らしい出来事だった。

 明とアキラ、その二つの役割を混同した今の自分。それは、新たな自分の発見だったかも知れない。それが吉凶かは分からないだが、こんなに清々しい気持ちになれたのは初めてだ。

「ああ、今日は良い天気だ!」

 給水塔の頂上で立ち上がり、翼を広げる鳥のように手を広げ青空に向かい叫び、日の光の中で天を仰いだ。

(アタシもちょっとだけ、後ろを振り返るものをもらったよ……)

 『私』と『アタシ』それは、アキラの過去と現在を定義する境界線。『私』を否定し続けた『アタシ』はその時、初めて『アキラ(アタシ)』として『明(私)』を肯定した。


―※―

 忍が目を覚ましたのは、手術の開始から十二時間後のことだった。

 白いカーテンで仕切られたベッドスペース。気づいた時は、天井を見上げていた。

(起きたのか?)少しずつ覚醒する意識が、徐々に下腹部の痛みを認識して行く。

 利き手で腹を押さえようとするも、関節部分に刺された点滴がそれを妨げる。頭がぼうっとする。起きているのか分別が付かない。

 とりあえず立ち上がろうと、夢現のまま無理矢理ベッドから足を降ろす。

「忍」と、甲高い音を起てカーテンが開かれると、目に涙を溜めた和子が、有無を言わさず忍を掻き抱いた。

「ああ、なんてこと。貴方までこんなことに、でも良かった。鈴乃も助かったのよ。やっぱりお兄ちゃんね、母さん信じてたわ。妹の命が危なかったら助けるわよね。本当にすばらしいわ。本当に……あなたは自慢の息子よ」

 感極まった和子が、嬉しそうに涙を拭いた。

「鈴乃は? 助かったのか?」

「もちろんよ。ああ、でも機械もなんとか安定しているみたいだけど、油断できないみたいって……でも、忍がいれば、鈴乃も心強いはずよ」

「今度は心臓や肺を捧げろって言うのか? アンタのお気に入りの人形に」

 忍のその一言に、和子は耳を疑った。

「馬鹿ね。心臓なんて、さすがにあなたがそこまでしなくても、鈴乃をこれからも助けてくれさえすれば、母さん何も望まないわ」

「俺の望みは、そうやって無視してきたんだな。俺が兄だって理由で……これから? ふざけるな! 腎臓一個と肝臓の半分をやったんだ。これ以上何がやれるって言うんだ!」

「あなたはお兄ちゃんなのよ忍。私の鈴乃を守る義務があって当然――」

 和子が言葉を続けようとした矢先に、パンという乾いた音が響いた。

「もうやめろ。もう、良い。君は、いや、私達は間違っていたんだ」

 和子の頬を叩いた稔が、哀れみと怒りを交えた瞳を細め、動揺する妻を見据えた。

「忍にこれ以上、私達が望むことは許されない。命よりも大切なものがある訳がない。でも、それは違う。人を不幸にしてまで、可能性を殺してまで得る命こそ、本当に価値が無いものじゃないのか? 私は鈴乃の命をそんな風に変えたくない。忍の言う通り、私達はあの子を、人形か何かと勘違いしていたんだ」

「あなた、何を言っているの? だって忍はお兄ちゃんなのよ。体が弱い鈴乃を助けて、生きて行かなきゃ行けないのよ」

「お兄ちゃんじゃない。俺は忍。鈴原忍だ!」

 我慢の限界だった。もう、どうでも良い。兄としての義理は十分すぎるほど支払った。ならば迷わない、踏み出す。今までの自分の言動や姿が、走馬燈のように脳内に映される。

 生まれて初めて自分のために口を開いた。

「俺は、俺のために幸せになりたい! 俺のために鈴乃や、母さんや、父さんを大切に思いたい。鈴乃のためじゃない! どうして、俺は、俺だけの幸せを願っちゃいけないんだ! もう、沢山だ! アンタが愛しているのは俺じゃない。アンタにとって都合の良いのは、鈴乃の兄だ! 俺は鈴乃の兄じゃなく、鈴原忍として見て欲しいんだ!」

 その瞬間、和子の理想であった、鈴原鈴乃の兄は死んだ。忍が殺したのだ。もう、自分を殺して生きて行くのは嫌だと思っていた忍だったが、忍が最後に殺したのは、自分が一番嫌いな自分だった。

(これで良い)

 例え、母に憎まれようと、鈴乃に疎まれようと、忍は自分が幸せになる権利を主張した。

 それが、鈴原忍が初めて、環境や周囲の人々に感化されず、自分の意思で、自分のためだけに決めた選択だった。

 わなわなと体を震わせ、鈴乃の兄という理想の息子が死んだと言う現実が直視できない和子に、稔がそっと後ろから抱きしめた。

「すまない。君にばかり、色々背負わせてしまった。今度は二人で頑張ろう。もう、我慢しなくて良いんだ。頑張らなくて良いんだ」

 優しく、力強い稔の言葉、それは氷のように頑なだった、和子の何かが溶かし始める。

「あ、ああ……ああああああああああああ」

 両手で顔を被い、和子が声を上げて足下を崩した。

 歓喜しているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、苦しんでいるのか、全ての感情が入り交じった泣き声。

 忍はそんな母から目を逸らさなかった。ただ、目の前の現実を直視するだけだ。母を悲しませたと言う事実に、心が痛まない訳ではない。忍もまた、一人の子として、母に愛されたかった。それが、愛だと感じられなくても、愛されたかった事実は変わらない。

 少しだけ和子から視線を逸らすと、稔が困ったような表情で忍に微笑みを見せた。その微笑には、『よく頑張った』そんな彼の想いが感じ取れた。

 その意味を察し、忍は気恥ずかしさを誤魔化すようにベッドの中へ潜り込んだ。


―※―

 深夜、非常灯が照らす病院の廊下は、不気味な程に静かだった。

 誠司はその静寂が好きだった。教会とは違う静謐とは無縁の冷たい闇は、長い手術に疲れ、火照った体を無言に癒やしてくれる。

「お疲れ様です」

 差し出されたコーヒーの紙コップに目をやり、静かに声を掛けてきた中村へ視線を移す。

「ありがとう」と、口先だけの礼ではあったが、誠司はコップを手に取った。

「今更ですが、まさかお医者さんとは、正直、驚きましたよ」

「ただの研修医だ」

「聞いたことがあります。四年前、地方の病院で凄腕の研修医がいたと。うちの病院でも少し噂になっていたんですよ」

 コーヒーを啜りながら、中村は続けた。

「私は、あの娘を助けたかった。でも、できなかった。そして、忍くんも……医者に成り立ての私は、あの娘を初めて見た時、囚われのお姫様だと思いました。何とか助けたい。何とかしてあげたいと言う一心だった。だからこそ、私は貴方に嫉妬したのでしょう」

 静かに語る中村に、誠司は黙って耳を傾けた。

「私にも妹がいましたが、幼い頃に両親が離婚し、母の元へ預けられました。しかし、四年前に自殺したとか。結局、理由は知らずじまいですが……」

「そう、か……それは、残念だな」

「私にはできませんでしたが、あの二人には、互が想い合える幸せな兄妹になってほしかった。しかし、それは大人の勝手な理想の押しつけエゴだった。それが子供にとって、どれほどの重圧だったのか理解せずにいた。おっと、少し感傷的になってしまいましたね」

 口元を抑えた中村に、誠司も釣られて微笑んだ。

「この前はムキになって悪かった。アンタは医者としちゃ一切間違っちゃいない。それ以上は仕事じゃない。ただ、鈴乃に妹を重ねていたのなら、忍のことも引っくるめるべきだ。それができれば、アイツも幾分救われたはずだ。それを言ったら、両親もだけど」

 自分に対してだろうか、苦笑した中村が、天井を仰ぎ見て続けた。

「医者とは、何なんでしょうね。人を治し、人の生に関わっていながら、人生に関わろうとしない職業。その矛盾はいったい何なのか……」

「アンタの疑問はゴールも答えも在って無いようなものだ。自分で折り合い付けて割り切らなきゃ二進も三進も行かないだろ。俺はその折り合いが分からなくて、逃げたけどな」

「でも、貴方は戻った。あの子達のために」

 皮肉なのか、賞賛なのか判断がつかなかったが、中村の言葉に誠司は自分の優柔不断さに嘆き、諦めたように大きく息を吐いた。

「アイツらの前では大人でいたかったけど、結局、自分のガキくさいワガママを通したかっただけなんだろう……今回のことで大人って、難しいと身に染みたよ」

「確かに、大人になってから、大人は大人になろうとするのかもしれませんね」

 大人でも、自分にも子供な部分がある。と告白し、中村は自嘲した。

「一つ聞かせてくれ。忍は前に、妹は化物だと言った。それは、どんな意味だと思う」

 神妙な面持ちで中村に顔を向けた誠司だったが、中村は意外とあっさり即答した。

「彼が言う怪物は、鈴乃ちゃんではなく、厳密には我々のことだったのだと思います。いや、我々が彼女を、怪物に見せてしまった環境のことなのでしょう」

 誠司はなるほどと納得しつつ、その答えを噛み砕くように、自分の言葉に直してみた。

「兄なのだから、妹を想うのは当たり前であり義務、愛情と言う名の自己犠牲、周りの大人はヒロイズムに酔い、その理想に甘えてしまった。誰も肯定も否定できない倫理、そして、理想という大人のエゴが生み出した本当のモンスター。子供には強大すぎる敵だな」

 誠司が口にしたそれは、忍という人間を作り出した最大の原因だった。

 正しさが全ての救いとは限らない。正しさによる歪みの犠牲になったのが忍だった。

 少なくとも、あの環境の中でも忍の中では狂気ではなく正気であろうとした。しかし、世界という正気が忍の気持ちを狂気と決定していた。では、世界の正気は誰が定義するものなのだろうか。

 そして母親である和子もまた、刹那的な衝動で、狂わざる得なかったことも事実だ。

 中村も誠司も理解していた。いつ子供を失うかもしれない恐怖。身内からの目や言葉などの安易な美徳、命に関わるような障害を持った、自分が生んだ不完全な子供。

 そう言ったプレッシャーやストレスにより追い詰められ、彼女は狂ったのではなく、狂わされてしまった。しかし、それは忍も鈴乃も窺い知らぬところだ。

「両親の最大の失敗は、妹を憎む彼にとっての、正当な理由を作ってしまったことだと思います。それは、我々の正論では看破することができませんし、肯定も出来ない。ただの彼自身の正論、いや、暴論にしかなりませんが・・・・・・忍くんにとっては、自分が母や周囲の言葉に騙され、追い詰められたと言う理由となってしまった。例えば、理想に準じた映画や読み物は確かに多くの人が感動、共感を得られるかもしれない。しかし、悲劇にしろ喜劇にしろ、ドラマのような綺麗事を言えば正しく見える展開を望むことなど、実際にはできるはずがないでしょう。彼がそれを知ったときには既に手遅れだった」

「だが、それを望んだのが、鈴原和子を含めたという悲劇の母親象か……周囲の無責任な励ましや言葉から、自己犠牲を美徳として考え、それを息子に押しつけ追い詰めてしまった。しかし、本当に追い詰められていたのは、息子を直視することができなかった、母親自身だったのかもしれないな」

 誰もが正しかった。間違った心で行動を起こした人間は一人もいなかった。だが、全ての歯車が噛み合わず、皆がそのまま狂った機械の舞台の上で、自分が正しいと踊てしまった。しかし、それも今更のことだ……過ぎ去った時間はもう戻らない。

「なまじ、一般的な倫理感を持っていただけに、忍くんへの負担は我々では想像できません。妹を無敵の怪物と定義できるほど、追い詰められてしまった」

「忍は鈴乃を憎んでいなかった。だが、憎むことが定着してしまった。憎むような状況を周りに作られてしまった……そう言うことか。馬鹿正直な奴だからな。もう少し要領が良ければまた違っただろう。まあ、俺達じゃ今更どうしようもない。あとは、当人達の問題だ。俺も、アンタも、忍の両親も、あとは考え続けることが答えになっちまったな」

「全くです。きっと、長い時間がかかるし、永遠に解り合えないかもしれない、それでも、解り合おうと努力して行ってほしい。そう、願いますよ」

 初めて、二人の意見が一致した。

「アンタも仕事を抜きに、少しはガキに戻れば良かったんじゃないか? 忍に対して」

「そうか、そうかもしれませんね。まずは私が忍くんを理解してあげなくちゃいけないのかもしれませんね。嫌われちゃってるので、どうしようか迷いますよ」

「アイツ、頑固だからな。骨が折れるぞ」

「確かに、覚悟しないとダメみたいですね」

 コーヒーを一気に飲みきった中村が、そっと手を差し伸べた。

「あなたに会えて良かった」

 ベタな台詞だったが、それが中村の素直な気持ちだった。

「こちらこそ。アンタは良い医者だと親父が褒めていたよ」

「それは……光栄ですね」

「アンタが今まで鈴乃を助けていたから、俺達は手術に間に合った。ありがとう」

 誠司は差し伸べられた手を握り、互いの健闘を称えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る