第5章 当たり前のわがまま


 物心ついた時から、私はそこにいた。

 消毒薬の匂いに包まれたロビー、走り回る子供達と、浮かない顔をする母親達。

 そこは小児科の総合病院だ。院の敷地内には養護学校も完備されていて、私はそこの中学を卒業した。小学校は途中から普通の学校に通っていたけど、母の付き添いが学校からの条件だった。色々取り繕っていたが、結局は責任を取りたくなかったのだ。

 不自然な光景だった。授業中も、学校行事の中も私だけ母と一緒だった。子供の中の社会は、既に崩壊していた。私は他とは違う。と初めて実感させられた。

 障害を持って生まれたことは、心情的には健常者が思っているほど辛くはない。なぜなら、一般的な健常者の健康、丈夫な体という物を知ることはできないのだから、比べようがない。その事実より、普通の子供と違う扱いをされる実状の方が辛かった。

 教育の現場での監督責任、両親の普通の学校に通わせたいという希望。しかし、そんなことは同年代の子供に関係のない話であり、特別扱いされている子供と言うように見られていたのだと思う。

 大人が思うほど、子供は優しくはない。学校という集団生活の輪の中、私という存在は、その環境に適合できないものだ。

 私は既にクラスメイト達との交流を、同じクラスの人というだけで留めていた。なぜなら私の友人達は、私よりも十歳以上年上の看護師達であり、周りの同級生の行動は、子供くさくて低レベルに感じ、やっていることが馬鹿馬鹿しく思えた。

 母の言い分では、私の考えは大人なのだそうだ。

 大人の中で大人になった子供。それで同級生とは違うということが、誇らしかった。

 私は私の好きなように生きたし、学んだ。私は特別なのだ。幾多の死線を越え、命を掴んで大事にされる。私は同級生の子供達とは違う。これは無自覚ではあるが、ある種の特権を持った優越や悦楽なのかも知れない。

 しかし、私の知らない内に、私を見る兄の目は、クラスメイトの子供達のように、とても冷ややかになっていた。兄は私とは違っていた。普通の子供の考えを持った少年だった。普通であるが故に、人との触合いを大事にしたかったのかもしれない。

 いつの間にか兄は私の兄だと言う理由で、何の関係もない初対面の下級生からも後ろ指を指されるようになり、いつしか仲の良かった友人も兄から離れて行った。

 かつて母は私に、人と比べることなくオンリーワンであれば良いと言った。でも、それは実際、現実からの逃避と否定だ。

 スタートが同じならばそれでも良いのかもしれない。しかし、私は生まれた時からマイナスだ。人は社会に適応するために人の中で学び、人の中での生き方を見つける。

 マイナスをゼロにする機会も与えられず、私は中学二年生で入院を機に養護学校へ移った。体調不良が原因だったが、端から見えれば逃避だった。私自身もそう思う。

 そして、兄だけが私の兄というレッテルを貼られ残された……そう言った意味では、兄も私が生まれた瞬間に、マイナスの因果に巻き込まれてしまったのだ。

 通信制の高校に入学する頃には、同学年、同世代の患者は別の病院に移っていた。

 いつの間にか、私だけ取り残された。

 私はオンリーワン。つまり、自分自身のナンバーワンなのだ。私はそう振る舞った。

 本当に、それで良かったのだろうか? 既に四度の手術を終え、薬による調整で体を維持している状況。手術はできないと宣告されていたが、手術をしなくても良いという安堵もあった。

 同年代の女の子が写ったファッション誌を眺め、ふと自身の環境に嘆いた。心臓の病気、完治が不可能な自分の体。背も小学生とあまり変わらない。突然発作的に襲いかかる恐怖。時に叫び、泣き、咆え、枕を投げちぎり、ベッドへ潜り込んだ。

 自分が嫌になり、母に自分は何故生まれてきたのかを問うてみた。母は私は生きているだけで良いと言った。しかし、もはや自分では納得できる歳ではない。母の言うように、生きているように振る舞うことが、本当に生きていることなのだろうか?

 そんなことが何度か続き、ある日の早朝、私は病院を抜け出した。久しぶりに同級生に会ったが、私の生存は受け入れられるものではなかった。ここにも居場所はなかった。

 なら、別人になってしまえば良い。気が付いたら私は髪を染め、右耳にピアスを嵌めていた。


―※―

 誠司が去って五日が経過した。既に、鈴乃の状態は芳しくなく、何とか意識を保っているのがやっとの状態だった。

(これは……何だ?)

 鈴乃の病室の中、忍は無言のまま立ち尽くすことしかできなかった。

(これじゃまるで……)

 見ていたくはなかった。既に忍の見ていられる範疇を超えていた。だが、それは人間だった。冷たいと思われても良い。誰か嘘だと言って欲しい。

 鈴乃のその姿は、弱々しく、か細く、懸命に生きようとしていた人間の姿。だが、身近であればあるほど、その姿は醜かった。

 この水で膨れた腹は、忍の半生を喰らい育った。忍の半生を賭けられ、生み出された結果。それは、『怪物』と脳裏を過ぎった時、忍は自分を嫌悪した。だが、一瞬しかめた顔が、いつの間にか、優しくほころんでいた。

「じゃあ、また、アキラと来るから。その、絶対、明日来るから待っててな」

 精一杯の言葉だった。すぐに逃げ出したい気持ちだった。しかし、踵を返した瞬間――

「手……」

 ベッドに横たわった鈴乃が、事切れるような小さな声で左手を精一杯伸ばした。

 棒切れのようなガリガリの腕、腹水が溜まった腹は妊婦のように膨らみ、足は行き場を無くした水が流れ込み、むくんでいる。

 やせ痩けた頬、目が蛙のように大きく飛び出ているが、それは間違いなく忍の妹、鈴乃だった。

 右腕には何本も点滴の管を通され、自由が利かない。

 意識も朦朧としているのか、視線は焦点が合っていないように思えた。

 もう、見ていたくはなかった。正直、恐ろしかった。だが、伸ばされた手に思わず触れた時、忍は気が付くと簡易椅子に座り、彼女の顔に微笑みをかけていた。

「あったかい……」

「そうか……」

 重度の心疾患を持った妹が、こうなることは昔から言われていたことだ。血圧も四十で安定していたこと自体が奇跡でもある。既に死に体でありながら、十五年間もよく保ったと、医師達が度肝を抜いたほどだ。

 過去に四度の手術に耐えた鈴乃は彼らには、貴重な研究、記録資料であり、両親にとっては大事な娘という盲目的な考えで鈴乃を無理矢理『生』へと結び付けていた。

 そして、先月行われた五度目の手術が最後となっただろう。いつの頃からだろう、彼女は忍にとって憎むべき対象だった。

 高校受験の時に、親が鈴乃の手術のことで頭が回らなくなり、志望した学校の試験にすら行かせて貰えなかった時だろうか。

 中学時代、身体障害者の妹を持ったことで、好きな女の子に振られた時か。

 小学校の時に、見ず知らずの下級生から鈴乃のことで、後ろ指を指された時なのか。

 それ以前に、病棟のガラスドアの向こうに去って行く母親を、何時間も待ち続けた時かもしれない。原因は、数え切れない程ある。自分にとって、鈴乃が生まれたことが、最大のマイナスであることは確実だ。

「なあ、鈴乃。お前のライブ見に、兄ちゃん会場に行ったんだぞ」

「うん」

「それでな、お前がピアノちゃんと弾けるか心配で、心臓止まりそうだった」

「うん」

 忍は葛藤していた。死んでしまえと言う心と、死ぬなと妹を励ます心。拮抗した相反する感情は、不思議と忍を落ち着かせた。

「今度はもっと時間を掛けて練習して」

(お前はもう弾けない)

「それと、お前が焼いてくれたグラタンは絶品だった。店ができるぞきっと」

(誰が、お前の食い物などありがたがるか)

「ステージのある店を作って、お前とアキラと誠司でワンマンライブをやってみたらどうだ? 絶対売れるって」

(お前にはもう何もない)

「だから……」

(だから……)

 思ってもいない言葉が口からスラスラと出た。だが、その言葉に偽りは無かった。感情と心、二つが分離している気分だ。

「鈴乃……」

 自分が次に口にしなければならない言葉が出せなかった。出してしまえば、きっと自分は今までの自分とは違うものになってしまう。今までの自分を否定してしまう。その言葉だけはどうしても言えなかった。恐かったのだ。そして、言ってしまったら、きっと自分は鈴乃との関係を後悔なく清算させてしまえるだろう。それを言ってしまえば、きっと鈴乃は戻ってこない。もう、二度と……。

「あにぃ……」

 鈴乃の左手を両手で被い、いつしか祈っていた。妹の声がいつになく柔らかだった。

「暖かい……」

「あ、ああ、そうか……」

(俺はバカヤローだ)

 神に祈った訳じゃない。たった一言が言えない自分のヘタレっぷり。お互い、今生の別れであろうと予感し、忍は妹に懺悔した。

「バイバイ」

 静かに腕を引き、鈴乃がゆっくりと手を振って見せた。

「ああ、絶対にまた来るからな。待ってろよ」

 別れを切り出したのは、鈴乃の方だった。きっと、自分が言おうとしていた言葉を、鈴乃は聞きたくなかったのだろうか。これで終わりだ。今、終わった。終わってしまった。

 簡易椅子から立ち上がり、忍が手を振ろうとした瞬間――

「忍!」

 勢い良くスライドドアが開き、アキラが弾けるように飛び込んできた。

「誠司が戻って来て、偉いお医者さんが鈴乃の手術をしてくれるって! 中村先生は無理だって言ってたけど、できるって!」

 アキラが中村に鈴乃の手術を何度も頼んでいたことは知っていた。だが、1%でも可能性があるなら、希望に賭けてみようと言う根拠が無いものだ。

 具体的な案も無いまま、そんなことを容認する大人はいない。「全力を尽くす」と言う曖昧な言葉に何度も言いくるめられていただけに、希望が見えた彼女の喜びは、天地が引っ繰り返るくらいの出来事だった。

「本当にできるのか?」と、忍が驚きのあまり、顔を引きつらせた。

「今、おじさんとおばさんと、中村先生と五人で話してるよ。アタシ達も聞きに行こう」

 興奮したアキラが忍の腕を掴み、扉をスライドさせた。勢いで端にぶつかる扉の音が大きく鳴り響いたが、どうでもよかった。鈴乃が助かる。それ以外どうでも良い。

 病室から飛び出す瞬間、鈴乃の表情を確認しようと振り向くと、鈴乃は少し寂しそうな、複雑な作り笑いを浮かべていた。


―※―

 面談室の中は、既に紛糾していた。長机を間に挟み、出入り口側に二人の医師、部屋の奥側には忍の両親が座り、その後ろで中村が腕を組んでその様子を覗っていた。

「なんで、そんなふざけたことが言えるの!」

 和子が声を荒げ、目の前の若い白衣の医師を怒鳴りつけた。

「確かに、時間稼ぎかもしれない。しかし、このままではジリ貧は避けられない。それなら、少しでも助かる可能性があるなら」

 聞き覚えのある声に、忍もアキラも耳と目を疑った。誠司だ。その隣には見知らぬ初老の白衣の男が座っている。その男が誠司の連れてきた医師だと言うことは分かる。しかし、何故誠司まで白衣で、しかも和子と相対しているのか、全く状況が掴めなかった。

「来たか、忍、アキラ。遅かったな。少し相談がある」

「やめて! 忍まで巻き込むつもりなの? 鈴乃から聞いたけど、あなた、ホームレスだって言うじゃない。何を偉そうに」

 道端に溜まったゴミを見るような目で、和子は言葉を吐き捨てた。

「母さん言い過ぎだ。落ち着きなさい」

 和子の肩を抱き、稔が強張った表情のまま誠司を一瞥する。

 それからは少しだけ間があった。現状は把握しきれないが、何かしらの案が提示され、和子が拒否していると言うことは分かる。鈴乃を溺愛する和子のことだ、否応なしに食らいつくはず。だが、それは無かった。

 どうしてだ。という疑問が浮かぶ中、忍はある違和感に気づいた。

「あの、どうしたんだ? みんな」

 その場の全員の視線が自分に向けられていると気づくのに、少し時間を要した。

「体外設置方補助人工心臓(VAS)の装着と生体腎肝同時移植だ。弱っている心臓を外部の機器とつなぎ、鈴乃の石化した腎機能と肝機能を移植で蘇らせる」

 真っ直ぐ向けられた誠司の視線に、忍は息を呑むことしかできなかった。

「しかし、前回からの手術から間もなく、リスクも大きい。だが、元は心臓の機能障害が原因である以上、最終的には心肺の移植が必要にはなるが、その間はVAS、補助人工心臓を使いつなぎにする。本当は心肺腎肝の同時移植が理想だがそれは用意できない。臓器を待つにしても、レシピエント登録の順番や、移植後の生存率が比較的高い人間に回されてしまうだろう」

 補助人工心臓という言葉に、忍は口を結んだ。また、機械で鈴乃を縛り付けるのかと。そして、誠司もまた、中村の同類だったのだと失望した。

「何を言ってるのか分かっているのか? お前までアイツの体をいじくり回してーー」

「一昔前は厚生労働省の許可が遅れデバイスラグがあったが、今では子供への使用も許可された状況だ」

「そう言う問題じゃ無い!」

 怒気を孕んだ口調で、忍は誠司を睨んだ。だが、忍としても打つ手が無いのは事実だ。不満と言うよりも、言葉で現すことの出来ない憤りを押さえる。

「百歩譲って、移植は良いけど、ドナーはどうするんだ?」

 忍の素朴な疑問に皆が顔を見合わせた後、誠司が抑揚の無い声でその問いに答えた。

「お前の腎臓の一つと、肝臓の半分を鈴乃へ移植する。それで心肺が手に入るまでの時間を稼ぐ。これは完治のための手術ではないと言うことを、理解して欲しい」

 マネキンというより、精巧な機械人形と言った方が良いだろうか、迷いも感情もない誠司の言葉は、忍をさらに動揺させるには十分だった。

「何だよそれ、ちょっと待てよ。俺から臓器を抜き取って、鈴乃を助けるって言うのか?」

「執刀は俺と、俺の父、近衛清一郎が勤める」

「誠司、アンタ医者だったの?」

 驚いたアキラが誠司に詰め寄るも、誠司は視線も顔色を変えず、動揺する忍の表情のみを見つめていた。

「これは、時間稼ぎと言われても反論ができない手術だ。もしかしたら、鈴乃は手術に絶えきれないかもしれない。それにVASを装着するため、今の状況では腹水を一気に抜く影響で内臓への負担がかかり、死亡する可能性も高い」

「これは、人体実験では?」

 今まで口を詰むんでいた中村が、眼鏡の底の瞳から冷たく、刃物のような鋭い視線で誠司を睨み付けた。

「確かに、このままではジリ貧ということは認めます。しかし、ハッキリ言ってこの手術は無意味に等しい。機器の装着が成功し、心臓の機能が回復しない限り、例え、腹水を一時的に排出しても、結局臓器は石化してしまうでしょう」

「そのためのVASとは言いたいが、確かに最終的には心臓は必要だ。なので、昔なじみの移植コーディネーターに、心臓と肺の提供を頼んでみた。レシピエント登録は彼を通して既にしてある。それでもいつになるかは運試しになるがな。本当は今回で心肺腎肝同時移植をしたいところだが、仕方あるまい」

 誠司の隣に座るひげ面の医師、清一郎が中村へ答えた。

「なるほど、さすがは近衛清一郎医師ですね、海外からもリクエストが来る一流の心臓外科医だけあって、広く顔も利くようだ。まさかそこまで進めているとは予想外でしたよ。しかも、ご両親の許可無く。でも、私は主治医として、反対させていただきます。あの子と忍くんにこんな無謀な手術をさせられるわけがない」

 中村には、本気で忍と鈴乃を想う気持ちと、医師としての誇りがあった。

 薬による調整と安定、確かにそれも手だと言うことを十分承知している。忍自身も、リスクを考えれば、手術は難しいと考えていた。

「忍、お前はどうなんだ?」

 投げかけられた誠司の言葉は、あまりにも酷なものだった。嫌だ。そう言うのは簡単だ。だから、あえて、こう答えることにした。

「鈴乃に聞いてみてから、考える」

 その場にいた大人達が、首を振り、俯き、深い溜め息を吐いた。忍が口にした答えは、鈴乃に任せるというものではない。鈴乃に話したあと、忍が手術を拒否する可能性があると言うものだ。手術をすると約束するものではない。ただ、忍はそれを分かっていながら、時間が欲しかった。だが……。

「手術しないわよね? ムリしなくて良いのよ。本当は移植には賛成なんでしょ? だってお兄ちゃんなんだもの。鈴乃だって手術なんてしないわ。そんな寿命を縮めるなんてこと、死ぬなら、手術の間じゃなくて、静かに眠るように逝かせてあげたいもの」

 沈黙を破ったのは、和子の本心だった。忍への見当違いの気遣いと、鈴乃を静かに逝かせるという願いは本物だ。また、それも極々普通の親の願いなのかもしれない。

 結局、その場の空気に絶えかねた忍は、逃げるように面談室から飛び出した。それしか、今の忍には許されなかった。何をどうしたら良いのかなど考えられない。

 一度、鈴乃の様子を覗おうと、病室へ行こうとするが、気重のためか足取りがおぼつかない。手術。忍には縁のない聞き慣れた言葉が、目の前に直面していた。

『恐がらずに手術しろよ』『手術すれば助かる』『大丈夫、自分を信じて頑張れ』『やるだけやってみたらどうだ?』よくドラマや本などで見る、前向に無神経で無責任な第三者の台詞が、やたらと思い起こされた。

(恐い)大なり小なり、リスクを背負う行為であることは理解している。正直、自分に対する手術は大したものではないのかもしれない。だが、それが分かっていても恐い。

 家族の代償と絆。昨夜のアキラとの会話を思い出すが、これ以上、自分は何を払えと言うのか。手術への恐怖、手術後の不安、最後の最後に残った自分の体という財産。そこまでつぎ込むだけの価値が本当にあるのか?

 絶望が心に住み着く。心臓の鼓動がやたらと激しい。それでも、鈴乃の病室の前に立った忍は、呼吸を整えドアノブに手を添える。 

「鈴乃、話を聞いてきたんだけど――」

 視線をベッドへ映した瞬間、息を呑んだ。

 血に濡れた点滴の針、無造作に引き剥がされた心電図のケーブル、酸素を送るマスクが床に落ち、コオっと乾いた音を起てている。

 ベッドに、鈴乃の姿がなかった。


―※―

「とにかく、思い当たるところをしらみつぶしに探してください!」

 焦る中村は、ナースステーションの内線電話を離すことなく、鈴乃を知る医師や看護師に彼女の捜索を依頼していた。

 アキラは鈴乃の失踪直後、間髪入れずに病院を飛び出した。おそらく、今は闇雲に街を走り回っているだろう。

 誠司と清一郎は、念のため手術の準備を整えると、院内の何処かへと姿を消した。

 忍の両親は病室へ籠もり、声を出して泣きじゃくる和子の手を稔が握りしめ、落ち着かせて慰めようと、拙い言葉をつむいでいる。

 鈴乃を探しに行くと言う名目で、忍は街に出てはいるが、探しているフリだけだ。

 住宅街、商店街、人が行き交う場所を宛ても無く彷徨う。

 結局、忍には両親に言葉をかけることも、鈴乃のドナーになると即答することも、何もできなかった。

 だが、そんな無力な面とは裏腹に、一歩ごとに思考が自分の意思とは無関係にフル回転し、数々の念いを巡らせている。

 自分の体と妹の命を天秤に掛ける。そんなことが、今の自分にできるはずがない。

 誰にも語ることもできず、誰にも語られることもない今の忍の混沌とした心情は、言葉では言い表せないモノだった。

(どうして、俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ)

 鈴乃に助かって欲しいのか、それとも死んで欲しいのかと言う考え。だが、既にそんな、状況では無くなった。

 鈴乃が見つかったとして、それからどうするのか?

 忍にはその先のことが想像できない。今まで考えたことなど無かった。自分が鈴乃の命を救う。

 何かの夢や冗談かとも思える。

(馬鹿な!)

 自分の体を刻んでまで、そこまでする義務はあるのか? それだけの価値が鈴乃にあるのか? 術後、今のように暮らせるのか?

 ハイリスクの上に、今の自分へのリターンは皆無と言っても良い。

 足が速く動く、息が詰まる。ときどき胃液が逆流する。

 自らに課せられた選択に怯え、停滞以外、為す術がない。そのことに、体が過剰に反応しているようだ。

(怖い)

 滅茶苦茶に叫び、無我夢中で走りたい衝動を抑える。

(なんで俺だけこんな目に遭うんだ。どうして、どうして)

 止まりたくない。と言う焦りがあったのか、既に視界には何も入らなかった。

 道行く人にぶつかりながらも、忍は足を止めなかった。止まってしまったら、脳裏に描いた見たくもない何かが、鮮明に映し出されてしまうような気がしてならない。

 ぶつかった人達が睨んだり、声をかけるが、見えない、聞こえない。だが・・・・・・。

「おうっと、危ねえ」

 背が高く、筋肉質で確りした体つきの男に正面からぶつかり、忍は勢い余って尻餅をついてしまった。

「大丈夫か兄ちゃん」

「あ、いや、済みません。ちょっと考え事してて・・・・・・」

 差し出された手を思わず握り、忍はそこで男の顔を見上げた。

「てん・・・ちょう?」

「よう。なんだ忍か。ずいぶんと久しぶりだな。最近来ないから心配したぞ。バイトでも始めたのか?」

 スキンヘッドとサングラスに不釣り合いな、可愛らしいコンビニのエプロンをした店長が、親しげに笑顔を見せた。


―※―

「ったく、青い顔してぼーっとしてるから何だと思ったぞ」

 忍は店長に連れられ、近くの喫茶店で茶を飲むことになった。

 商店街から細い路地に入った隠れ家のようなそこは、アンティークのオルゴールや人形などが置かれ、ステンドグラスが嵌められた一風変わった店だった。

 本格的な西洋風の茶屋をイメージしているのか、何となく厳かで静かな雰囲気を醸し出している。

「ドナーね、そりゃ困ったな」

 テーブル席に腰掛け、アイスコーヒーのグラスが水滴で濡れ始めたころ、鈴乃が行方不明であることを伏せ、ある程度の事情だけを話した後、寡黙に徹した忍に対し、店長が口火を切った。

「まあ、お前の体だ。どうするかは自分で決めるんだな、後悔の無いように」

「鈴乃を助けろっては、言わないんですね」

 少し意外な語りかけに、忍は聞き返した。

「正直に言うと、俺にそんなことを言える資格は無い。と、言うよりも、人のことで、自分の言葉に責任が取れない。と言った方が正しいかもな」

「どういうことですか」

「プライベートだが、少し、自分の話をさせて貰うぞ」

 サングラスをはずした店長が、その視線を忍の瞳に向けた。

「俺は、もうすぐ店長じゃなくなる」

 突然の報告に、忍は息を飲んだ。物心ついたときから、店長は店長だった。両親とは昔なじみだったようで、忍からしてみたらもう一人の父のような存在とも言える。

「田舎のお袋が倒れてな。かみさんと子供を連れて帰ることにした」

「でも仕事が・・・・・・それに、子供が小学生じゃ転校とかも」

「ああ、まったく、馬鹿な決断をしたと思うよ。この就職氷河期に、しかも妻子持ちで、田舎で再就職活動だ。親の介護といい、そろろそ自分の老後の年金の心配もしないといけないってのにな、子供の塾の費用とかどうすんだとか、色々考えたら死ぬほど怖いぞ」

 頭を抱えながら、店長が苦悩の声を上げた。だが・・・・・・。

「自分で決めたことだ。かみさんも賛成してくれたし、自分で言ったことと、その行動に責任を取りたいだけだよ。結婚したことも、子供を作ったことも、これから親の面倒を見るって言うのも、全部ひっくるめて、自分が決めたことで、誰のせいでも無いと言いたいだけだ。そう思えば、誰も責めたり、恨んだりすることは無いだろ?」

 重い言葉とは裏腹に、少しだけ楽しそうな店長の笑顔が少し眩しかった。

「でも、店長がいなくなったら俺は、寂しい・・・・・・」

「嬉しいこと言ってくれるな。そりゃ俺も寂しいさ。だがな、これは俺の門出だと思って送ってやってくれよ」

「そんな気分じゃ・・・・・・」

「俺が居ないことも、その内馴れるさ。変わり行く環境の変化に対応するのも、人生には必要不可欠だからな。こう言うことは、若い内から沢山経験した方が良い」

「なんか、クサイセリフですね」

「うるせーやい。とにかく、例え人に恨まれ後悔したとしても、他人のせいにするような選択だけは避けろ。きっとそれは、一生引きずる枷になるだろうからな。今の俺に言えることはそれだけだ」

 照れくさそうに頬を掻きながら、店長は言い切った。

 だが、今の忍に店長の言葉を素直に受け入れることはできなかった。

(もう、遅い)

 忍の環境は既に、店長の語る選択や考えの外にあった。羨望するに値する男の言葉が、唯々辛いだけだった。

(後悔? するに決まっているじゃないか。こんなことを語るなら、母さんと父さんを知っているアンタが、なんでもっと前に言ってくれなかったんだ!)

 忍は理解していた。これは逆恨みだ。店長は正しい。自分を励まそうとしてくれている。自分に決めろと言っている。

 今までの忍は決めさせてもらえなかった。だからこそ、今のこの気持ちに困惑する。

 自分が決めるリスク。恐怖、絶望、不安。その先にある希望。今の忍にはその希望が具体的に見いだせない。

 だが、しかし・・・・・・。そう言う言葉が心のそこで揺らぐ。その先に続くモノが何であるのか、忍にはまだ、辿り着くことができない。それでも・・・・・・。

「今は取りあえず、アイツを探すか・・・・・・」

 店長に聞こえないよう、ぼそりと呟いた。


―※―

 時間は午後五時を回り、夕闇と六月の生暖かい風が、一層不吉な予感をさせる。

「どうするのよ! ねえ、どうするのよ!」

 鈴乃の病室の中、未だに恐慌状態の和子が、稔の腕を掴み泣き叫んでいる。

 鈴乃が消えて既に七時間。もしかしたら、戻っているかもしれないと、忍も病室に戻るが、事態が変わっていなかった。

 忍達だけでなく、数十人の病院の関係者も付近を捜索したが、鈴乃を見つけることはできなかった。

「ここまで来たら、警察に任せるしかないか」

 様子を見に来た誠司が、躊躇いながらそう呟く。

「警察なんて冗談じゃないわ。鈴乃がびっくりして心臓麻痺でも起こしたらどうするの! 前に居なくなった時も、気を遣って呼ばなかったのに!」

 涙を流し鼻を啜り、和子は喚き散らす。

 母親の苦境の叫びを聞き、眉間にシワを寄せ苦い表情を浮かべながら、誠司は稔へ視線を向けた。稔もその意を察してか、賛同するように静かに頷く。

 それは、警察へ通報すると言う確認だった。

「面談室を待機所に使用できますので、皆さんは少し休んでください。私はもう一度心当たりのある場所へ連絡を取ってみます」

 冷静に状況を見極め、率先して行動する中村が、少し頼もしく思えたのが悔しかった。

「俺はパスだ。少しタバコを吸ってくる」

 そう言って、誠司は白衣のポケットに手を入れ、喫煙室へ歩みを進ませ、中村も稔と和子を一瞥し、同じ方向へと歩いて行った。

 残された四人に、重い沈黙が襲いかかる。

 和子は稔の胸で泣きじゃくり、稔は駄々を捏ねる子供をあやすように、和子の肩をさすり続け、アキラはその様子を不機嫌そうに眺めている。

 忍は何もできない歯痒さから、その場から消えたくなった。

「ちょっと、ジュース買ってくる」

 とにかく、動くことで気を紛らわすことにした。何かをしなければと言う衝動が、気が狂いそうな頭より早く体に命令する。

 自動販売機は外来ロビーの手前にある。誠司と中村を追う形となるので、少し気まずかったが、形振り構ってはいられなかった。


―※―

「どうしてなの? どうして、鈴乃はいなくなったの? 私に何が不満だったの? あれだけ愛情を向けて大切に育ったのに、あんなに可愛がったのに。私の一番の宝物なのに!」

 忍が出て行った直後、和子がぽつぽつと漏らし始めた。

「大体、どうして忍は出て行ったの、どうしてジュースを買ってくるなのよ。普通なら、兄妹なら、鈴乃を探しに行くくらい言うでしょ、ねえ。まさかとは思うけど、あの子の頭おかしいんじゃ無いの? まるで鈴乃に無関心で、鈴乃のことちっとも理解しなくて、一体、あの子は鈴乃を何だと思ってるのよ! 解らない。私、あの子が全然理解出来ないわ!」

 稔の胸ぐらを掴み、当たり所の無いその問いを吐露し続ける和子だったが、稔はまともな回答を提示できなかった。

「忍だって、動揺しているんだ、母さんも落ち着きなさい」

「落ち着け? 何を落ち着いていられるのよ! 元はと言えば、忍が鈴乃を匿ってたことが原因じゃ無い。すぐに連絡をくれればこんなことにはならなかった。私や中村先生のところにいれば、安全だったのにこんなことになるなんて、お腹に水が溜るなんてことなかったのに!」

「まるで、全部が忍のせいって言いたげね」

 壁に背を預け、今まで黙っていたアキラが、和子に冷たい口調で続けた。

「全然、忍の気持ちを分かってないじゃない。自分の理想だけしか見えていない。私も他人のこと言えないけど、それでもここまでは成りたくないわ」

「何よ、あなた、大人に対してそんな・・・・・・余計なお世話よ! 子供のくせに知ったような口を聞かないで! 大体、あなたもホームレスでしょ! 汚らしい。さっさとご両親のところへ帰りなさい。できないなら、警察へ連絡するわよ」

 携帯電話を取りだし、ヒステリーを起こし叫く和子に、アキラの静かな怒りは沸点を超えた。

 大股で歩き出し、アキラが右手上げた直後、和子の頬が渇いた音を立てた。

「痛い・・・なんで、なんで私が叩かれないといけないの!」

「この、毒親! モンペ! 忍を何だと思ってんのよ! 忍はずっと鈴乃のこと考えてたわよ! どうしてアンタが理解してあげないの? 鈴乃を悪者にしたのはアンタじゃない! 大体、鈴乃を匿うって言ったのは私よ。私を責めれば良いじゃない! 家出でも誘拐でも、何でも良いわよ。好きにしたら? 私はもう一回、鈴乃を探しに行くから、アンタはここで泣いて、心配して、自分のことだけ考えて、何もやらずに旦那さんに慰めて貰ったら? ベッドもあるし、欲求不満も解消できて丁度良いでしょ。少しは落ち着くかもよ。久しぶりに夫婦仲のコミュニケーションとってみたら、三人目は元気な子が生まれると良いわね」

 イヤミとゲスな物言いだった。だが、アキラに迷いは無い。ここだけは引けなかった。

「なんてことを言うの、この、クソガキ!」

 今度は立ち上がり様に和子が、アキラの左の頬を叩いた。

「これで、アイコでしょ。それとも、片方も叩いてみる」

 和子を挑発するように、今度は右頬を差し向ける。

 反射的に左手を挙げる和子だったが、その手が振り下ろされることは無かった。

「母さん、もう良いだろう。君もそれなりのことを彼女に言った」

 和子の腕を掴んだ稔が、静かに言い聞かせた。

「アキラさんだったね、本当に失礼をした。見ての通り、妻もまともに話せる状態じゃない。ここは席を外してくれないか?」

 穏やかな目をした優しい口調の稔に、鈴乃にも少し罪悪感が過ぎり視線を床へ向けた。

「こっちも失礼なことを言って御免なさい。でも、忍は・・・・・・」

 アキラはそれ以上続けられなかった。理解している、所詮は他人事だ。知った風な口を言えるほど彼らを語れるのか。

 そんなアキラを察してた、稔が和子の手を離し、深々と頭を下げた。

「鈴乃を、よろしく頼みます」

 その時点で、アキラは本当に何も言えなくなった。

「大人って、卑怯よ。そんなこと言われて、何も言えるはず無いじゃない」

 振り上げた拳の向かう先を失ない、踵を返したアキラが、乱暴にドアをスライドさせ、病室を後にした。


―※―

 喫煙室の中では、タバコを咥えた二人の白衣の男が無言のまま佇んでいた。

「手術は無駄ですよ」

「分かっている。無謀だ」

 鈴乃の状態は、過去最悪だった。

 総動脈幹症。簡単に言えば肺動脈と大動脈が一緒になっている状態で生まれてきた先天性の心疾患だ。それは出産直後に判明し、その二つの動脈を分けるバイパス手術を行い処置すると言う形になった。

 その後も、カテーテルバルーンで血管を広げ、人工血管を取り替え、最終的にはペースメーカーを取り付ける手術も行った。だが、結果的は失敗だった。

 一つ目の左胸に付けたペースメーカーは微弱にしか作動せず、苦肉の策で右胸にもう一つを付けることになった。

 本来、心拍が急激に下がった時に起動するものだが、鈴乃の場合は常にペースメーカーが作動している状態だった。体にかかる負担は尋常ではない。本来なら動けないか、死んでいるかのどちらかだ。薬と酸素呼吸器で今まで維持してきた。それでも普通に歩行できたことは、本当に奇跡だ。逆に言えば、目の当たりにできる命への挑戦、医学の発展と恩恵が生み出した生命に対する暴力行為、それは『奇跡の人体実験』だった。

 先日の手術も、何とか網目状の癒着の壁を掘り進み、奇跡的にボロボロになった人工血管の交換手術を成功させた。だがもう、その奇跡は望めない。鈴乃の体力も限界だ。

「鈴乃ちゃんを殺す気ですか? 今度は忍くんまで巻き込んで」

「アンタは興味があるだろう。被献体がどこまで生存できるか」

「ふざけるな! 私の行いがジリ貧であることは認める。でも、そんな風に彼女を見たことなんて一度もない! それよりも、この期に及んでVASを使用するなんて自殺行為、いや、殺人行為じゃないですか!」

 眼鏡越しの黒い瞳に、怒気を孕んでいることはすぐに解った。だが、誠司はそれを構わずある疑問を口にする。

「なら、なぜVASをもっと早くに使用しなかった。アンタなら出来たはずだ」

「日本で子供へ補助人工心臓の使用が許可されたのは近年になってからだ。既に彼女にはペースメーカーが装着されていた。浅い部分に入れたとは言え、体力的に改めて手術なんて不可能だった。せめて、あと十年、いや、あと五年早ければ私も・・・・・・」

 それが、中村の限界だった。彼は本当に平凡な医師だった。平凡だったからこそ、踏み込めなかった。なぜもっと早くに認可されなかったのか、声を上げることも出来なかった。鈴乃だけでは無い、他にも診てきた患者もいただろう。何故もっと早くに、そう言う場面は何度も見てきた。

 自分にはできなかった。技術も伝手も、大した地位も無い。だからこそ、自分に出来ることに自信を持ち、できる限りのことをしてやろうと思った矢先に、この男は『自分にならできる』と言い放ったのだ。

 中村にとっては結果的に、劣等と同時に敗北を痛感することになってしまった。

 普通の人間なら致死量とも言える昇圧剤や強心剤の使用、腹水を逃がすための利尿剤、それと共に排出されてしまうナトリウムの摂取。

 様々な試行錯誤の末、今の鈴乃がある。想いとは裏腹に、結果として、中村にとってのささやかな抵抗であったことは確かだった。

「とにかく、今の鈴乃ちゃんには危険過ぎます」

「そう思うなら、手伝ってくれないか。アンタの助言も欲しい。正直、俺と親父でも手にあまる。少なくともあの子の今の危機から助けることはできる」

 家族の臓器の移植。中村も考えていなかった訳ではない。既に数年前、一度だけ家族から血を採取し、血液型、HLA(免疫抗原)の適合も調べている。適合性が低いとレシピエント(被移植者)の免疫反応が起こりやすい。だが、他人同士のミスマッチゼロは数万人に一人と言われている。

 忍は鈴乃にとって、その数万人に一人の逸材だった。だが、成功率が究めて低い手術に対し、忍にそんな重みを背負わせるには酷な話だ。

 第一、肝心の心臓が手に入らなければ部分移植など論外だ。近年、子供へのVASが許可されたとはいえ、今の鈴乃が手術に耐えきれるとは思えない。誠司はまさに、中村が越えなかった一線を越えようとしていた。

「よくも、そんな事を……今の貴方は、子供達が慕っていた男とはとても思えない」

 その問いに、誠司は答えなかった。ただ、今やらなければならないこと、やらざるを得ないことは、お互いが理解している。それでも、中村が納得できないのも仕方が無いことだ。親のコネクションを使い、捨てた道へ恥を知らずに舞い戻り、忍にまでリスクを背負わせようとしている。中村や他の医師達が見てきたであろう、数々の現実や焦燥感を知らぬまま・・・・・・。

「あなたが、そこまでして貫きたいものは何だと言うんですか。異常ですよ」

「傲慢は自覚している、それでも、覚悟はある」

 誠司の瞳に曇りは無かった。狂気とも取れる傲慢な正義感は、中村から見ても鬼気迫るものだった。だが、狂っていると思いつつも、中村はそれ以上の反論はしなかった。

「一応、資料は提示します。あとは患者さんと、御家族の意向を尊重してあげてください。警察へは、私から連絡しておきます」

 誠司に一礼した中村は納得しきれない、やりきれないといった感情を抑えながら、喫煙室をあとにした。

「理解しているよ、中村先生……でも、もう決めたことだ」

 フーっと、溜め込んだ何かを捨てるように、勢いよく紫煙を吐く。その行為は、ある意味、中村に図星を突かれた事実と、忍達と過ごしてきた自分との決別を表す儀式だった。


―※―

 ある小さな田舎町に少年がいた。

 外科医者である父、自宅で診療所を営む内科医の母が与えてくれた愛情と裕福な生活。少年が物心ついた時から、父は国内外を飛び回り、なかなか家には戻れなかった。だが、いつも母は言っていた。「お父さんは私達と、患者さんのために頑張っている」と。

 少年はその言葉を肝に銘じ、父を敬った。そうすることで、休日に父がいない寂しさを、幼いながら誇りとして考えていた。

 戻れないと言っても、父は一ヶ月に一度は必ず家に戻っていたし、特に不満も無かった。

 中学の卒業間近、少年は父の勧めで医者を目指すことにした。誰かのために役立つ仕事、命を救う父と、同じ使命を実感したかった。

「ベストを尽くして、オンリーワンになれ」

 それが父の口癖だ。一生懸命やって、他人に認められなくとも、自分の満足の行く結果を出せ。と言う意味だったのかもしれない。

 だが、少年は自分のオンリーワンではなく、認められるナンバーワンに成りたかった。結果、彼はナンバーワンに成った。いや、気が付いたら成っていた。

 大学を首席で卒業し、研修医と成ったが、時々父の助手を勤め、彼の監督の下、何度か手術も実践した。その技術と才能は熟練の外科医でも目を見張るものがあった。

 基本的に外科手術の方法は確立しており、医師の差というものは、大してある訳ではない。強いて言えることは経験値だ。現在の医療は、技法をより効率良く行うことと、優れた医療機器の開発が重視されているのが実状だ。技術と経験があれば誰にでもできる。

 彼が天才と言われたのは、経験を積まずに、技法と機器を完璧に操り、多くの困難な手術をやって除けたことだ。しかし、彼にとって、模型を組み立てている行為に等しかった。

 何故、技法や道具が揃っているのに、こんな簡単なことで誉められるのか。少年は理解できなかった。

 ある日、少年は緊急搬送されてきた十五歳の少女と出会った。自殺未遂だった。腹部を刃物で刺しており、出血も酷い。父やベテラン医師が居ない中、独断ではあったが、すぐに手術をすると決意した。まだ研修医だったが、そんなことは関係ない。

「大丈夫、ちゃんと直す」と言葉だけで励まし、それを聞いた少女は、血の泡を吐きながら少年に一言だけ告げた。

 当然、手術は成功した。だが三日後、少女は病院の屋上から飛び降りた。遺書はすぐに見つかった。理由は、義父からの性的虐待と妊娠だった。

 妊娠していることは、手術の時点で知っていた。それでも自分には、少女を助ける自信があった。確かに、腹部の傷からは救うことができた。だが、それだけだ……

『もう、殺して……』

 彼女が手術の間際に告げたのはそれだけだった。少年は手術後、少女に一度も会うことは無かった。会おうとも思わなかった。命を助けた。それは当たり前で、簡単なことだった。本当に簡単な手術だった。いつも通りに組み立てて見せた。だが、突然理解した。自分が簡単にできて、他者ができなかった理由。それは自分が天才だからではない。

 一瞬の揺らぎが、今までの全てを間欠泉のように吹き出させた。他の医師達は、命を繋ごうとしていた。糸を使って肉を縫合しようとしていた訳ではない。命にメスを入れ、命を繋ぐ。慎重に慎重を重ねた経験を繰り返していたのだ。それに比べ、自分は方法と技法、道具、用意された材料としか手術を見ていなかった。模型を組み立てていただけだった。

 初めて、自分がして来たことが、どれだけ大それた危険な行為かを実感した。

「ベストを尽くして、オンリーワンになれ」

 父の言葉が反芻する。ベストを尽くしたことなど一度もなかった。患者を本当に理解していなかった。医者は技術屋だ。人生にまで踏み込む必要はない。だが命は別だ。彼はその命とすら向き合ったことは皆無だった。

 助けるべきではなかった。いや、助けたのは正解だ。その後のことなど医者の知ったことではない。命を助けたからと言って、患者の生活まで面倒見ることなど不可能だ。当たり前だ。赤の他人だ。所詮は他人事だ。

 医者とはそう言う職業。綺麗事を並べても、技術屋の枠からは抜け出せない。

 神でも、仏でもない。ただの人間。結論から言えば、命と肉体という部品を組み立てる職業だ。患者はその作品、結果に過ぎない。

 だが、その考えに到達することは、早々できるものではない。命を商売とする因果な職。少年は、最初からその結果に行き着いていた。

 せめて彼女に会って、あの言葉の意味を問うことくらいはできなかったのか? 何故しなかった。できたはずなのに、彼女の最後の叫びを聞いたのは自分だけだった。

 全てを軽んじ、自己嫌悪が支配する。自分はそんなに大それた人間じゃない。助けた人間のことなど、本当は一瞬だって考えたことがない。父に言われるまま、済ませてきた。敷かれたレールを走っていた。それで納得していた。自分の責任など感じたことは無い。自分への責任を取ることができない。

「ここには、もう居られない」

 最後に残った、たった一つの希望と夢を握り締め、彼は逃げた。


―※―

 忍の家を出て二日、誠司は群馬県と長野県の境の小さな町にある、平屋建ての古い診療所の前に立っていた。

 壁には植物のツタが絡み、塗装もあちこち剥げている。屋根もコケが生え、何年も手入れがされていない様子だ。

 周りには山と田畑、昔ながらのかやぶき屋根の家もあれば、新築の家もまばらに見える。

 目を凝らして畑の奥へ目をやると、スーパーマーケットや各商店も並んでいるようだ。

「この辺りも、便利になってきたな」

 感心と同時に、寂しさが込められた呟きのあと、誠司は診療所のドアを開けた。

「ただいま……」

 そこは、誠司の実家だった。


―※―

「まったく、四年ぶりに帰って来たと思ったら、とんでもないこと言い出してくれたな」

 使われなくなった診療所の待合室で、ボサボサの髪を掻きながら、髭ヅラの初老の男が誠司を睨み付けた。

 近衛清一郎。誠司の父であり、心臓外科医としては、日本でも十指に入るとも言われる重鎮だ。海外で仕事も多い中、本日は偶然、自宅で英気を養っている最中だった。

「母さん、死んだのか?」

「二年前にな。おかげで診療所は閉めることになったし、馴染みのご近所の老人方は困っているよ。まったく、電話一本よこさず、どこで何をしていた」

 嫌みを言いつつも、その口調とは裏腹に、清一郎の言葉はどこか暖かかった。

「東京の近くで路上生活をしていた。仕事はライブハウスで、ドリンク係とか雑用とか……部屋は…借りられるほどまともに稼げなかった」

 ここは素直に答えるべきだと弁え、長椅子に腰掛けたまま、誠司は床を見つめた。

「なるほど。話を戻すが、お前の友人を手術して欲しいと言うことか? 馬鹿馬鹿しい」

 タバコに火を付けた清一郎が、溜め息と共に紫煙を吐き出し誠司を窘める。

 呆れているのだろうと、誠司は自嘲したが、清一郎は静かに続けた。

「お前はこの四年、何をしていた。この意味が解るか?」

 突然、鷲掴みにされたように、心臓が収縮し思わず息を呑む。

「お前は、家を出る時に言ったな。夢を追いかけたいと。だが、結果はどうだ? 結果が出せなかったことじゃない。お前は何をやっていた」

 何も言い返せなかった。誠司がやっていたことは、アルバイトの間際に、ギターの練習をして、それで終わっていた。

 ステージへ上がろうとしたのはごく最近、一回きりだ。そこに行き着くまで、四年かかった。いや、無意識に掛けてしまった。

「親父、俺は――」

「夢を追いたい。縛られたくない。格好のいい台詞を言ってこれか? 甘えるな」

 重低音の落ち着いた声、その一つ一つが誠司の内面を抉る。眼鏡越しからの冷たく鋭い視線が痛い。

「その娘には、昔からの担当医がいるだろう? 理解していると思うが、医者同士にも最低限の礼儀とルールがある。余所さまの患者に外部の医者が声をかけてどうする。やめておけ、あちらも立派な医者だ。無理矢理手術をするより、最後は良くしてくれるはずだ」

「手術はしないだろう。いや、できないはずだ……俺は、もう何を言われても良い。説教でも何でも全て受け入れる。だから、頼む!」

 俯いたまま、誠司は訥々と言葉を紡いだ。

「もう、親父にしか頼めない! 俺は、もう医者じゃない。いや、まともな医者になってもいない。手を考えても、実行できない。アイツらを、俺は助けられない!」

 こみ上げてくる感情が、制止できない。

「本当は全部理解していた。あの娘が死んだ日、俺は恐くなったんだ。人を殺してしまうかもしれないって言う恐怖から」

 情けなかった。だが、これは自分自身が歩んだこと。自分自身が逃げてきたものだ。

 否定することはできない。もし、四年前に逃げ出さなければ、自分は鈴乃を助けられたかもしれない。しかし、そうはならなかった。もう、自分ではどうにもならない。だが、過去を否定する訳にもいかない。

「俺は夢を追ったんじゃない。現実から、夢に逃げたんだ! 逃げられたから逃げたんだ! 俺が医者になろうと思ったのは、アンタに誉めてもらいたくて、そのことを忘れて、自分がやってきたことが理解できなくなって! でも、もう逃げない。二人の妹の直向きな姿や、隔離された世界であえぐ弟を見て、俺も闘わなければって!」

 ギターをケースから取り出し、誠司は先端を握り締め、力一杯床に叩き付けた。

 バインという、弦が弾ける音、叩き折れた木材が飛び散る音、それは誠司が過ごした四年間が四散する音だった。

「夢は逃げ場所じゃない。向き合うものなんだ。夢は現実の中でも見ることができるけど、現実は夢の中では見られない。俺は、ステージに立つのが恐かった、あの時みたいに失敗するのが。だから、帰ってきた。弱かった自分の現実を受け入れるために」

 誠司は膝を突き、床へ額を押しつけた。彼にはこれしか術は無かった。

「土下座なんか意味が無いことは分かっている。でも、もう俺一人の力じゃどうにもならない! 俺は、俺の家族をこんな形で失いたくない! 妹が死にそうなのに、何もできない。弟が壊れそうなのに何も言ってやれない。もう一人の妹に全部任せて、俺はここまで来たんだ。このまま手ぶらで帰れない。だから頼む親父! 頼む!」

 今までの自分を否定しない。過ちや後悔、罪悪感からではない。誠司が向かい合っているのは清一郎ではなく、過去の自分自身だ。それを受け入れるために戻ってきた。

 感情に任せて、支離滅裂な言葉を連ね、考えていることも滅茶苦茶だ。しかし、それは、誠司の精一杯の主張だった。

 暫しの沈黙の後、「一晩、時間をくれ」と清一郎が小声で答え、誠司は肩をつままれ、立つよう促された。

 何も言えない。父の顔を見る勇気すら無い。

「部屋はそのままだ、今日は寝ろ。今は一人にしてくれ。資料にも目を通してやる」

 便箋を仰ぎ、清一郎が踵を返した。

「なあ、誠司。お前は罪滅ぼしをしようとしているのか? だったらお門違いだ」

 優しく、落ち着いた口調のまま、誠司の心の奥深くを見透かすように、清一郎が続けた。

「お前は、背負う必要のないモノまで背負ってしまった。あの娘はそんなモノを求めてはいないはずだ。少なくとも、お前にそんな筋合いは無い。だから飛び降りた。救いを求めてはいなかった。医者が出る幕は、最初から無かったのかもな。お前が医者である限り」

「それは結果論だ。俺は、もう間違いたくない! あの子は、鈴乃は死にたくないんだ!」

「勘違いするな、お前は正しいよ誠司。四年前の判断は正しい。だが、正しいことがいつも救いとは限らない。少なくとも、お前のギターは壊される必要は無かった」

 鈍い音がする鉄のドアを開き、清一郎は薄暗い診療所の奥へと姿を消した。

(そんなことは分かっている。俺は、勝手に罪を背負ってしまったんだ)

 四年前の少女からして見れば迷惑な話だろう。どこの誰とも知らない男が、自分のことで悩み苦しんでいる。誠司も理解していた。彼女を死なせてしまったと思い込み、勝手に罪悪感として受け取ってしまっただけなのだと。ただ、その死の原因が自分の仕事のミスではなく、完璧であったことが劇的だった。

 手術中の事故なら納得できた。そのミスを受け止めて、次に生かすこともできた。だが、完璧から来た不幸はどうしたら良い。

 結局、自分の怠慢だと気づくことができただろうが、それすらも考えつかなかった。

 誰も間違っていないし、誰も気が付かなかった結果だ。誠司はそのことから罪悪感を生み出し、勝手に背負って逃げ出した。

 床に散乱したギターの残骸、屋上から飛び降りた少女が重なる。涙が溢れると同時に、忍達との生活が走馬燈のように思い浮かぶ。

「ゴメン。ゴメン!」と、気が付けば、嗚咽を吐きならギターの残骸を掻き集めていた。

 過去を受け入れると同時に、決別と覚悟のつもりで壊したギター、逃げる口実と逃げ場所だった夢。だが、それでも四年間自分を支えてきた大切な場所だ。もう引き返せない。

「もう一度、始めるよ。今まで、ありがとう」

 結局、一度もまともなステージを共にできなかったが、それでも誠司は四年間支えてくれた相棒へ、惜しみない感謝を込めた。


―※―

「ああ、どうやったらこの歳まで生き延びられた? 軽いものを含めて過去に五度の手術。しかも前の手術から一ヶ月も経ってない上に、今回は腹水が溜まっている。癒着も網目状に入り組んでいるだろう。術式に二時間でも、癒着を剥がすのに五時間はかかるぞ。腹水による内臓の圧迫。肺も少し浸かっていて、呼吸もままならないはずだ。利尿剤で排水はしているようだが、量が尋常じゃない。五キロは入っているな」

 翌日、食事も取らずに診察室へ入った誠司が最初に見たものは、白衣姿の目に隈を作った清一郎の姿だった。

「寝てないのか?」

「ああ、一晩考えたが、どうすりゃ良いのか、もう訳が分からん」

 首を振り、清一郎は静かに額へ手を当てた。

「四度目のペースメーカーを付ける手術で、癒着を剥がすのに七時間も使っている。術式自体は二時間で終わるはずだが……今回は腎臓と肝臓が石化しているようだな。あと二、三ヶ月前に見つけていれば……」

 そう言って、お手上げと言わんばかりに、髭面の医者は資料を誠司へ投げつける。

「二、三ヶ月前なら、何とかなったのか?」

「いや、それ以前に今回は前回との期間が短すぎる。患者の体力を考えると危険だ。それに心肺と腎肝の同時移植でなければ、生存はまず不可能だろう。かなり無茶な処方だが、薬で調整してここまで保たせた中村って医師はさすがだよ」

「そうか……」

「過去に消化器官の殆どを取り替えて生き残った子供はいたが、第一俺は心臓外科医だ。心肺腎肝同時でなんとも言えん……俺ではなく、ブラック・ジャックに頼むべきだったな」

 疲れた目をこすりながら自嘲する清一郎に、「親父」と誠司は静かに口を開いた。

「一つだけ試したいことがある――」

 それからの会話は、誠司の荒唐無稽な夢物語。その説明は無謀で馬鹿馬鹿しい、漫画の読み過ぎ。としか言えない気分になる。

「冗談を言うのも大概にしろ! 模型でも組み立てているつもりか!」

 激高する清一郎だったが、誠司はいたって冷静だった。

「どれくらい保つと思う?」

 手の甲に額を乗せ、清一郎は暫く目を瞑った後、苦心の表情で質問に答えた。

「少なくとも、腹の水くらいは何とか回復させたいと思っているよ。あとは、体力を戻せるかどうか……術後は完全に運任せだ。それ以前に、お前から聞いたドナーの遺恨次第では、手術以前の話しになるだろう」

「そうだな……でも、ベストを尽くせって言ったのはアンタだろ」

「相手の医者も良くやっている。このまま任せても、家族は納得するだろう……」

 息子の打診と想いは受け止めるつもりだったが、話が突飛すぎて足踏みをする。中村の治療は適切だ。中途半端な希望を持たせるよりも、現状で最善の治療法を続けて終わるほうが、家族には良いのかもしれない。だが、清一郎は深い溜め息と共にその方針を一変させた。

「危険だ。やめとけ。と言うのが本音だ。そもそも、肝心のドナーを方が問題だろう?」

 父の言葉を聞いて、それが難関だと額を手に乗せ誠司は溜息を吐いた。

「そうだな。あとは、忍の問題だけだ……」


―※―

 鈴乃の病室から逃げ出して二十分ほど経過しただろうか、忍は無心のまま薄暗い廊下を徘徊していた。何をどう選択したら良いのか分からない。ただひたすら歩き続け、気づくと病院内の一番端にある、自動販売機の前で足を止めていた。

 通路の奥にあるメインロビーは、診療受付時間も終わり既に人の姿は無い。だだっ広い奈落のような暗い空間が、口を開いているようなイメージが脳裏を過ぎる。

「死んだら、あんな感じの所へ行くのかな。鈴乃は、コレをいつも感じていたのか……」

 無意識に吐いた言葉が、意外なほど重かった。思えば、死という言葉をこれほど具体的に考えたことなど一度もなかった。

「そう、かもな……」

 突然、後ろから投げ掛けられた声に、忍は心臓が止まりそうなほど驚いた。

 先ほど面談室で和子に寄り添っていた父、稔だ。稔は俯きながら自販機の隣に置かれた長椅子に腰掛け、缶コーヒーの口を開いた。

「母さんは、ほっといて良いのか?」

「そうだな、ほっといちゃダメだな」

 稔はガックリと肩を落とし、床の一点を虚ろな瞳で見つめていた。

 自販機から飲み物を取り出し、忍は父の表情を覗おうと隣に座る。だが、彼の表情を確かめることはできない。

 夕闇の中、暫しの沈黙が二人を支配した。忍は何故かその場を離れることができなかった。離れてしまえば、父がその闇に取り込まれてしまうような錯覚を覚えたからだ。

(親父なんかどうでも良い)

 海外に赴任し、数ヶ月ぶりにかけられたまともな言葉は、誰かに問うた言葉ではない。問いに対しての生返事だった。

 そう思うと、途端に腹が立つ。この男は何をしに来たのか、忍には全く予期できない。

「親父、悪いんだけど――」

『一人にしてくれないか』と、続けようとした瞬間、稔の口が開いた。

「父さん、少しだけほっとしてしまった」

 稔から発せられた意外な呟きは、忍にとって予想外のものだった。

「お前が手術するって言わなくて、安心してしまったんだ。母さんは良くやってくれている。そのことで、お前に負担をかけていることも知っている。鈴乃がちゃんと生まれていればと、この頃本気で考えてしまう。ダメな男だな私は……」

「何が言いたいんだよ。それは……それだけはしょうがないだろ」

 ふて腐れた子供のように吐き捨てると、忍は父から視線を逸らした。

「アキラさんに言われてしまったよ。忍のことを理解していないって。忍、手術は、しなくても良いぞ。お前がこれ以上鈴乃のためにリスクを背負う必要はない。それは今まで兄妹の関係を重荷にしてしまった、父さん達の責任なんだろう。この上、お前に何かあったら……」

 それは、父としての本音だった。稔は和子を愛していた。鈴乃は障害を持って生まれてこようと、無条件に愛せる存在だ。ただ、生きていることに対する不満は一切ない。

 そのことで、忍に対する負担が大きくても、兄妹の絆を信じていた。だが、手術に対し、忍は躊躇いを見せた。それは、稔にとって意外な光景だった。極端に考えれば、兄が妹の生存を否定したのだ。そのことで、稔は無意識に安心してしまった自分を恥じていた。

「こんな風に、お前のこと考えることなんか、今まで無かったな。ごめんな……」

 ゆっくりと顔を上げた稔の表情は、今までに見たこともないほど険しく、またそれと同じくらい穏やかだった。矛盾した表情ではあったが、そう表現することしかできない。

「何を今更、うざいんだよ」

「そうだな…忍、手術は恐いか?」

「ああ、怖いよ」

 自分でも驚くほど、忍は素直に答えられた。

「でも、父さんには分からないな。やっぱり、父親って言っても、結局は他人だと思う時があるよ。本当にすまない。目の前の困難にばかり目が行って、お前達を理解しなかった。いや、違う。逃げて、いたんだろうな」

「知るか。そんなこと!」

 後悔なのか、懺悔なのか、弱気な父の言葉が意外なほど恐ろしかった。何を恐れたのかは分からない。しかし、忍にとって、その感情は初めてのものだった。

 気恥ずかしさと情けなさが、同時に胸を突いた。とりあえず病室へ戻ろうと踵を返し、弱気な父と、ロビーの闇から逃れるように足を前に出すと、同時に気が付いた。

「明るい?」

 通路の西側はまだ日は落ちておらず、裏口に設けられたガラス窓へと光を射している。忍の足は引き寄せられるように自然と夕焼けに向かっていた。

 ガラスでできた観音扉を開き、噴水のある広場を突き進む。小高い小さな丘を登った先には木でできたベンチが一つ置かれ、人影が一つ、沈み行く日をただ呆然と眺めていた。


―※―

「あにぃ……」

 妊婦のような腹をさすりながら、鈴乃が振り返った。虚ろな瞳、空を仰いだまま、鈴乃は青白い顔に靜かな表情を浮かべている。

「みんな心配してるぞ。それにしても、よくその腹で登ったな、見つからない訳だ」

「あにぃは、どうして来たの?」

「何となく、色々考えて怖くなったからかな」

 それは、忍の素直な気持ちだった。

「何となくで、これちゃうんだ。ふーん」

「まあ、お前も手術できるかもしれないし、思うところがあるんだろうな……やっぱ、高いとことか、明るいとことか人間は求める生き物なのかな。見つけられてラッキーだった」

「私、このお腹がなくても、ここに来るのはやっとだと思う。人って、恐いと空や海が見える場所が、どうしても恋しくなるよね」

「ん? まあな……」と、わざとらしく頬を掻いて見せる。稔と違い、理由は分からないが、鈴乃の前だと素直に答えられた。

「いいんじゃないか? 少し体動かしても」

「どうして見せつけるの?」

 静かだが鋭く、重い怒気が隠った一言の真意が理解できず、忍は首を傾げた。瞬間――

「なんで、アンタはそんなに考えずに生きられるんだ! お前に死ぬかもしれない怖さが分かるか! ふざけるな! 私の気持ちを、みんな分かっているように語るな!」

 前屈みになった鈴乃が、倒れ込むように忍の腕を掴み、体を震わせた。

 腕に爪を立てられ、鋭い痛みが走る。咄嗟に振り払おうとしたが、鈴乃の怒りとも、悲しみとも取れる顔に圧倒され、体が硬直した。

「どうしてこうなっちゃうの? 手術なんかしたくない! 恐い! 嫌だ! こんなお腹だって! 体が悪いのだって構わない。何でも我慢してきた、なのに何で良くならないの? どうして恐いことばかり、まだ何もやってない! でも、諦めたのに、あにぃに『バイバイ』って言って全部終わったのに! どうして希望を持たせるの!」

 ぶつけられたのは、初めて見せた鈴乃の生の感情だった。

「何も理解していない大人達が勝手な感傷で私達の生死を汚すな! 私達は可愛そうじゃない! 哀れんでなんて欲しくない! 囲うように大事になんてして欲しくない! 障害を持って生まれてきたことで、私達が可愛いそうな子なんて思って欲しくない! ちょっと生き辛いだけなのに、なんで可愛いそうだって言えるの? 私、今日、生まれて初めて自分が可愛いそうな子だって思った。絶対に思わないって、思っていたのに……私、私!」

 呼吸を乱し、涙を流しながら、鈴乃の視線は真っ直ぐ忍の顔を見つめていた。

「死にたくない、死にたくない、死にたくない、ちくしょう、ちくしょうぅ……」

 目を見開き、嗚咽で何度も言葉を詰まらせながらも生へすがり、文字通り、死を目の前にした必死の形相で訴える。

 忍には鈴乃の言う、私達という複数形が、何を示しているのか理解できなかった。だが、これだけは言える。

「お前は、かわいそうなんかじゃない」

 鈴乃に対する微かな憎悪に苛まれつつ、忍は何かを言わなければと感情に身を任せた。

「少なくとも、俺から見れば幸せな妹だ。俺よりもずっと、ずっと幸せな。幸せでなくちゃいけないんだ! それだけは、俺が一番よく知っている! 誰よりも」

(でなければ、今までの俺の犠牲が全て無駄になってしまう)

「俺が、お前を助けてやる!」

 思わず抱きしめた鈴乃の体は、見た目よりずっとか細く、強く抱いたら粉々になってしまいそうなほど弱々しかった。


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