第4章 家族の代償
(うそだ。うそだ。うそだ。うそだ。うそだ!)
時間は既に午後八時を過ぎた頃、暗い廊下、非常灯の明かりの下、集中治療室の前に立ち尽くした忍は、苦悶を押さえつけるように頭を抱えていた。
近くには黒いライブ衣装のアキラが、壁に背を預けたまま項垂れ、誠司は時計と忍へ交互に視線を移し落ち着かない様子だ。
「アイツが今更死ぬ訳がない。何度も死ぬって言われて、何度も蘇ってきたんだ」
「落ち着きなよ忍。不安なのはアタシ達だって一緒だよ」
怒気と苛立ちを押さえたように、アキラが強い口調で指摘した。
「あ、ああ、悪い」と、忍は思わず手で口を塞ぐ。ここ一ヶ月、きっとアキラは鈴乃とずっと一緒だったのだろう。動揺は忍よりもあるはずだ。そう言った考えが脳裏を過ぎったが、今の自分も他に気を遣う余裕はない。
暫しの沈黙の後、集中治療室から小太りの中年医師が歩み寄って来た。
「ご家族の方は?」と定番の台詞に苛立ったが、忍は無言のまま手を挙げ「お兄さん。かな?」その問いに頷くと、医師は続けた。
「詳しく検査をしないと分かりませんが、元々心臓がよろしくなかったとか」
「妹は、ペースメーカーを左右の胸に一つずつ……それと人工血管も入ってるって母が、あとの詳しいことは分からない……」
気が抜けた声で、忍は呼吸を整えながらようやく単語を紡いだ。
「原因はまだ分かりませんが、検査結果次第では、手術が必要かもしれません……」
「意識は? 意識は戻っているの?」
アキラが医師の腕を鷲掴み、泣きそうな顔を見せた。
「今のところは昏睡状態ですが、手術をするにも検査結果もまだで、資料も無く、元の病院には問い合わせてはいるのですが……」
中年医師が話を続けようと口を開いた時、若い女の看護師が医師に駆け寄った。
「ご家族と主治医の方が来られました。心電図とレントゲンを確認して、カテーテルの準備をして欲しいとのことです」
ご家族と言う言葉に、忍の背筋に悪寒が走り体が硬直する。カツンと言うヒールの音が病院の廊下に響き渡り、皆が振り向く。音の主は忍が良く知る女性だった。
「母さん……」
俯いたままの視線が、目の前に黒いハイヒールを確認する。ゆっくりと顔を上げると同時に、右の頬が甲高い音を立てた。
「っ!」打たれた瞬間、間髪入れずに今度は両肩を掴まれ激しく揺さぶられる。
「どうして、あなたはいつもそうなの! 何で連絡よこさないの! 母さんあなたのこと信じてた! だから家へ帰らず、ずっと病院の近くや、鈴乃が行きそうな場所探してた。なのに、あなたは鈴乃を殺す気なの! そんなに私の娘が憎いの?」
ウエーブのかかった長い髪を振り乱し、目にクマを浮かべて涙を流す母、和子に対し、忍は何も答えられなかった。黒いレディーススーツは、喪服のようにも思える。そして彼女を支える、見知った男の視線が辛かった。
「お久しぶりですね、お兄さん」
黒縁眼鏡の若い男は鈴乃の主治医、中村泰一だ。この男が来ることは予想していたが、正直二度と会いたくない人物だった。
「なんでお前がここにいるんだ、中村!」
忍は反射的に立ち上がると、怒りに任せて中村に詰め寄る。
「連絡を聞いて飛んできました。家出をするなら、私には本当の居場所を教えてくれても良かったかと……」
「うるさい! 俺が、何も知らないと思っているのか! そんなに実験体が大事かよ!」
「なんてことを……先生はね、鈴乃を助けようと一生懸命――」
「それがコイツらの手口だろう! 鈴乃がどれくらい生きられるか、どんな処方せんで安定できるか、コレは実験なんだろ!」
「お兄さん……」
「俺はお兄さんじゃない! 忍だ!」
中村の言葉を遮り、忍は一括するが、中村は深い溜め息の後、駄々っ子に言い聞かせるよう、静かに語りかけた。
「忍くん、私達が鈴乃ちゃんを助けたいというのは、信じてくれていますね」
目的はどうアレ、この男の発言は全て本当のことだ。鈴乃を助けたいと言う気持ちは間違いない。だが、忍には納得できない。
「アンタ達が、中途半端に鈴乃を助けたから、俺達家族は苦しんでいるんじゃないか! 何が命があればだ! 子供は……アイツは、俺達は、大人の玩具じゃない!」
「医者は神様じゃない。だから、人間として精一杯生きようとする命を助けるだけです」
「命だけ助けて、あとのことは感知しない。そう言いたいんだろ!」
「やめなさい、先生もお仕事なのよ。おかげで鈴乃は生きていられるんだから」
少し落ち着きを取り戻した母だったが、依然中村を神か何かと勘違いしているのか、彼を崇拝するような物言いに、忍は感情が抑えきれなかった。
「アレに好き勝手やらせて、俺の学校生活や、人間関係を引っかき回して、都合が悪くなると病院へ逃がして、ベッドに括り付けるような世界が、人間の生き方なのか! いっそ殺しちまえ!」
やれやれとワザとらしく首を横に振り、中村が小太りの医師に視線を移した。
「時間が無い。お母さんから承諾のサインは頂きましたので、すぐに検査を始めます。耳のピアスから細菌が侵入して感染症を誘発させてしまったか、あるいは、人工血管に穴が開いているかもしれません。検査の結果で、原因が特定次第手術に入ります」
「よろしくお願いします」と、和子が頭を下げた瞬間。
「待て中村! 完全に直せ! アイツを、完全に直せ! 治して見せろ!」
「よせ、忍!」
中村を殴りかからん勢いで、忍はくってかかるも、今まで様子を見ていた誠司が突然立ちふさがった。
「無茶を言うな。お前も理解しているはずだ!」
誠司の両手が忍の肩を抑える。だが、忍は迷惑だと言わんばかりに、それを振り払おうと体をよじるが、その時に気がついた。誠司の手は、小刻みに震えていた。
彼から伝わる振動を感じながら、忍はふっと顔を上げると、誠司の目が合った。手だけではない。無理矢理唇を噛みしめ、その瞳も、何かやりきれない、押さえきれない情動と、悲しみと悔しさが入り交じったような表情だった。
「誠司?」
初めて見せた誠司の顔に、忍は鳥肌を立て、一瞬言葉を失った。だが・・・・・・。
「彼の言う通りです。しかし、お兄さん。私は全力を尽くします」
黒縁眼鏡の奥にある、人を見下すような視線と、抑揚のない中村の声に、再び先ほどの怒気に灯がともる。
「クソッタレえええええええええええ!」
やり場のない感情をぶちまけ、悲鳴に近い叫びを上げる忍だったが、中村はそれを一瞥しただけだった。
ストレッチャーに載せられた鈴乃と手渡された資料を見比べながら、病院のさらに奥へと消えて行く。中村にとっては何百何千と聞いた台詞なのだろう。だが、中村の反応は、忍の心に新たな傷を付けた。
「大丈夫。中村先生なら安心だわ」
自分に言い聞かせるように、中村を盲信する母の声が追い打ちを掛けた。
彼女にとって娘は、生きていれば良いと言うだけの存在であり、大切なお気に入りの縫いぐるみと同義だった。そのことに関して、鈴乃が憐れだと忍は同情していた。しかし、母へ何も言い返せない無力感が忍を支配する。
「何が、どうなっているんだ?」
突然、耳に入った男の声、顔は見なかったが、すぐに分かった。「親父?」と呟くが、その声は父、稔の耳には届かない。
「私が居ない間に何があった! 何故病院から出した!」
皮のカバンを投げ捨て、グレーのスーツを着崩しながら、稔は和子の肩を掴み声を荒げた。
「知らないわよ。私は一生懸命介護してたのに、毎日病院に通えるよう、近くに部屋まで借りたのに、どうしてあの子は……」
泣き叫ぶ和子を前に、稔も口元を隠し、首を横に振った。
「鈴乃から定期的にメールが届いてね。今日は友達とライブだと言って、自分の姿を撮った写真も同時に送ってきたよ。まさか病院を抜け出しているとは思わなかったが」
病院を抜け出した鈴乃が、仕事で日本に居ない父と連絡を取り合っていた事実は、忍にとって意外だった。確かに、鈴乃がパソコンをいじっている姿を何度か見かけたが、あれは父へ当てるメールを送っていたのかと初めて理解する。
「しかし、髪を染めるどころか、厳重注意されていたピアスを付けて、感染症になったかもしれないだなんて……なんて恥ずかしいんだ」
自業自得。と聞こえても仕方ない一言だった。
「何が恥ずかしいよ! あなたが外国へ仕事に行くから、こんなことになったんでしょ! 私、連絡したのよあなたの部屋に、そしたら知らない女が出て英語で喋って、電話を切られて! 女を連れ込んでたあなたに言われたくない! 鈴乃に謝って!」
巻くし立てる和子が叫び、稔もバツが悪そうに、その場にいる全員の顔を見やった。
「すまない、私も悪かった。今はそんなことを言っている時じゃない。とにかく、鈴乃の容態が心配だ」
冷静にならねばと、和子に言い聞かせるも、和子もそうそうに引けなかった。
「いつもそう、立場が危うくなると別の話にすり替える。あなたの態度にはうんざり」
「だが、私は家族のために、馴れない外国で仕事をしているんだ。君が暮らしている部屋や、家のローン、忍の学費だって私の稼ぎじゃないか!」
その後も口論は続いた。結局は水掛け論や互いの不平不満、言い訳の攻防、母と中村の浮気疑惑、最終的には定番の、鈴乃をまともに産まなかったと言う流れになった。
『何故、ちゃんと産まなかったのか、何故、ちゃんと生まれなかったのか』
あんな子供は欲しくなかった。でも愛している。自分の子供だから。でも、何故、どうしてあんなに不完全で生まれてきたのか。母のせいか、父のせいか。
そんな話は無意味だが、それは忍にとって最大のトラウマであり、鈴乃に対する負の感情の原点だった。両親が同意している結論を覆すことは、忍にはできない。どんな形であれ、生きていて欲しい。それが彼らの願いだ。
だが、両親の話は、忍にあるシンプルな結論を導き出しす。
(鈴乃が生まれてこなければ、俺達は幸せだった)
子供じみた理由だったが、誰も否定できるものではない。ただ、そのことは一般的な思考から逸脱したモノだ。だが、それに触れたとしても、批難される言われは、忍には無かった。兄という立場と言うだけで、鈴乃という重荷を背負うことになった。
昔、ドキュメンタリー番組で障害者の家族を扱ったものを見たが、上辺の悲劇と絆しか見せていないものであり、絆的なものも作為的に感じられた。本人だけの悲劇ではない。それ以上に、家族にとっての悲劇と重圧であること、その負担を蔑ろにされる社会に、忍は失望した。結局、世間は美談しか求めない。
弱者という特権を鈴乃は既に手にしていた。なら、一つしか歳が変わらない今の自分は弱者以上の弱者だったはずだ。
母は放任主義で子供を信じているから安心して放っておけると言っていたが、結局は、自分の時間を鈴乃に与えるための建前でしかない。忍を守るモノなど、この劣悪な環境の中では、存在しなかったと自覚したのは最近だった。ある時ふっと、自分は両親からエサを与えられるだけの愛玩動物だと理解した。
母親の信頼を裏切りたくなかった。だから、我慢し続けた。だが、結果は見ての通りだ。自分自身の道化ぶりに、心の中で苦笑した。
―※―
カテーテル検査(血管から心臓へ管を通して、状態を調べる)後、鈴乃の人工血管の入れ替え手術が終わったのは早朝だった。すぐ個室が手配され、両親はその中で手術後の娘と対面した。
結局、忍はその後一言も口にせず、廊下の長椅子に座ったまま六時間以上も動かなかった。彼の気を察してか、アキラも誠司もその場を動かず、忍をただ見守っている。
「何か、言ってくれよ」
ようやく呟いたその一言は、何とはなしに呟いたものだ。
「何って言って欲しい?」アキラが静に答えたが、忍は「別に……」っと返すだけだ。
「とにかく、鈴乃が無事で良かった」
「そうだな」と気のない返事で、誠司からの労いをあしらう。
誰も、何も言えなかった。両親の口論は激情に任せたものであり、他人であるアキラと誠司では、口を挟む余地は無い。当事者の一人である忍すら完全に諦めていた。
鈴乃の異常の原因や理由など、今の医学では解明できない。遺伝子異常の一言で片付けられてしまう、そんな不毛な言い争いだ。
「悪い。二人とも、恰好悪いとこ見せた」
「別に良いよ。あそこまで喋られると、アンタの鈴乃への態度も納得できたし」
顔を背け、アキラは頭を掻きながら、投げ槍な口調で答えた。
「ぶっちゃけ最悪ね、アンタの家。毒親って言うんだっけああ言うの」
「そう言われても、しょうが無いよな・・・・・・」
素直にアキラの言葉に同意したのは、初めてだったかもしれない。今の両親の仲は最悪と言って良いだろう。アレだけ言い争いをして、それでも離婚しないのは、二人とも鈴乃の面倒を一人で見る自信が無いからだろう。
皮肉にも、家族が空中分解しないのは、鈴乃が重度の心疾患であると言うことだった。それと同時に、忍の存在もどう言うカテゴリーに入っているのかあやふやなままだ。
忍にはそれが苦痛だったが、半ば諦めていた。だが、本当は――。
「ねえ、忍。前に家庭内ホームレスって言ったの覚えてる?」
「ああ」
「家があるけど家庭が無い……冗談で言ったはずなんけど……ゴメン」
「仕方がないだろ……もう、良い。言わなかった俺も悪かった」
お互い顔を見ないまま謝罪を返した直後、通りかかった看護師が「お兄さん。妹さんがお呼びですよ」と、唐突に忍を指名し、そのまま踵を返した。
「ほら、行ってあげなよ」
アキラに背中を押され、忍は言われるまま病室へと足を向けた。無心と言って良いのだろうか、酷く疲れた重い足取りは、余計に気重にさせた。
(会って、何を話せば良い)
会いたくないと思いつつ、体は病室へと向かっている矛盾。結局、言われるままに生きてきた、体に染みついた処世術、又は反射なのだと自嘲する。そんなことを考えている間に、体はスライド式の扉を開き、鈴乃の病室へと足を踏み入れていた。
白で統一された部屋に大きな窓が一つ、そこから朝日の光が差し込んで眩しい。両親との鉢合わせを想定したが、病室には、ベッドで横たわる鈴乃がいるだけだ。
鼻に通した呼吸器のチューブ、手足に繋がれた点滴の管は軽く見ても五つは有った。
久しぶりに見る病人らしい鈴乃の姿に、忍は息を呑んだ。まるでドラマのワンシーンを、そのままくり抜いたような光景。
「あ、兄貴……」
「よぉ。えらい目にあったな」
軽口を叩きつつも、忍は慎重に言葉を選んでいた。無意識なのか意識的なのか、口にした言葉は、言い知れない不安をぬぐい去ろうとしていたのかもしれない。
「ライブ、できなかったんだよね」
鈴乃の掠れた声がよく聞こえなかったが、何を言いたいのか何となく理解できた。
「ああ……でも、次やれば良いんじゃないか? それより、母さんと父さんは?」
ベッドのそばの椅子に腰掛け、わざとらしく辺りを見回す。
「お母さんとお父さんには出てってもらった。なんだかうるさいから」
「まあ、それだけ心配してたんだろ」
「本当はアキラと誠司に会いたいけど、まだ家族以外と会っちゃダメって言われた。二人とも家族なのに、変だよね。あにぃ」
「そうだな」
違和感があった。自然と口をついた言葉は、忍の心情や感情とは真逆のものだった。
「じゃあ、来たばかりだけど、行くな。アキラと誠司には心配するなって言っとく」
「あにぃ、今までワガママ言って、ゴメン」
「いいから寝てろ。兄もまた来るからな」
鈴乃の顔を見ずに、忍は席を立った。部屋を出る直前に声を掛けられた気がしたが、そんなことは構わなかった。
(くそ! くそ! 何だって言うんだ!)
自分が口にした言葉、抱えていた心情、鈴乃への憎しみが、今の鈴乃の前だと消えている自分がいる。許せない。認められない。自分では正気と思っているはずだが、錯乱と混乱と言う言葉が付いて離れない。
「畜生!」と、頭を滅茶苦茶に掻きむしり、何度も拳を壁に叩き付け、忍は歯を食い縛った。何が悔しいのか分からない。そして、いつの間にか、溢れる涙が頬を伝っていた。
「忍? 大丈夫?」
静かで、優しく通る声が耳を掠めた。
「アキ・・・ラ? いつから?」
「アンタが部屋から出る前から・・・・・・じゃま、しちゃったかな?」
声をかけられるまで、気がつかなかった。
「かっこ悪いとこ、見られちまったな。情けねえよ。情けねえよ・・・・・・」
情けない。そう繰り替えしならが壁に顔を向けた。今の自分を人に見て欲しくなかった。 自分が何を考えているのか、どうしたいのかすらも分からない。
「情けなくなんかないよ。忍は、ずっと頑張ってるよ」
初めて聞いた、静かで、優しくかけられたアキラの声。それと同時に、そっと背中から手を回され、忍は硬直した。
「私には分かる。初めて会ったときから、忍は頑張ってた。こんな私にも優しかった」
女性らしい口調。背中から伝わる彼女のぬくもりが、少しだけ心を落ち着かせる。
「どうし、たんだよ。アキラ?」
顔を見ようと体をよじるが、アキラは背に埋めたままで表情を覗うことはできなかった。
忍もアキラも、一言も言葉を交わすことなく、五分ほどが過ぎただろうか、さすがにその沈黙に耐えかねた忍が口を開いた瞬間だった。
「なんてね。ちょっとドキドキした? やっぱり男の子だなぁ忍は。ようやくアタシが年頃の美少女だって自覚したか! 参ったか!」
突然手を離し、アキラはくるりと回って忍の顔を覗き込んだ。ニヤニヤと悪戯っぽい笑顔を見せたそれは、先ほどの静かな声とは違う、いつものアキラだった。
緊張した自分が馬鹿馬鹿しくなった。
「お前、人が真面目に悩んでいるのに、どう言うつもりだよ」
「うーん。一応、励ましてるつもりかな。まあ、とにかく、アタシはアンタと会えてよかったってことを言いたいわけ」
「はあ? ちょっと唐突に話が飛躍しすぎてるぞ。意味が解んねえ」
「自分の感情を素直に言葉にしているだけだよ。まあ、大目に見てよね」
「確かに、お前は初めて会った時から、よくわかんない奴だったからな。家族ごっこといい、今更って言えば、今更かもな・・・・・・」
諦めた。と言う感じで、忍は大きく溜息を吐いた。こう言うアキラの言動で溜息を吐くのは何度目だろうか、既に思い出すのもおっくうだ。
「取りあえず、鈴乃は目が覚めてるよ。顔を見るつもりで来たんだろ、今は誰もいないから入れるぞ」
病室のドアを顎で指し、さっさと行けとアキラを促した。
「じゃあ、お言葉に甘えて。もう、泣くんじゃないよ」
手を振りながら病室へ入るアキラに、忍は照れ隠しで小さく呟いた。
「余計なお世話だ馬鹿」
マイペースで、何を考えているのか分からないアキラ。忍はそんな人間となぜこんな腐れ縁のようになってしまったのか、ふっと思い出した。
―※―
それは、四ヶ月ほど前、二月の寒い日だった。
ジャンパーに付いたフードで頭を覆い、忍は小走り最寄りのコンビニへ足を進めていた。
この日は、店長に廃棄分の弁当の横流しを頼もうと思っていた。だが、偶然にもその日は本店からの社員が店の様子を見に来ていたのだ。
店に入った瞬間、異様な空気が流れ、社員であろう紺色のスーツの男の目を盗み、大柄な店長がスキンヘッドの上で、小さく指でバッテンを作って見せた。
フランチャイズチェーンの食品関係は、売れ残りの食品の廃棄にやたらとうるさい。主に食中毒などを警戒してのことなのだろうが、今の忍には迷惑極まりない行為だ。
どうせ捨てるなら、自分のような家事のできない人間や、ホームレスにでも配れば良いと思うし、食べ物を粗末にするなと言ってやりたい気分にもなる。
ある意味、子供らしい発想ではあったが、そんな屁理屈が通じる訳もなく、店長も大人しく、一社会人として世の中の通りに従っているわけだ。
(今日はダメってことか)
店長の合図はすぐに理解できた。日が悪かったと、肩を落とすが、店長はちょっと待てと言った感じで、今度は指を非常口へ向けた。
何かあるのではと言う期待を持ち、忍が店の裏手へ回ると、空の瓶ケースの上にビニール袋が置かれていた。中身はパンが数個と牛乳。しかも、期限切れではないものだ。
忍が来ることを予見していたのか、見つかっても、自分で購入した私物だとごまかせるものを用意してくれていたようだ。
「サンキュー店長。仕事頑張ってくれ」
そう呟いて、ビニール袋の取っ手に腕を通し、忍はそのまま炊き出しのある河川敷へと足を向けた。
だが、思いもよらぬ事態が起きた。コンビニから歩いて、河川敷まで目と鼻の先だった。ほんの二、三分の距離だ。
そのはずだった。目の前に、こんなモノが倒れていなければ・・・・・・。
それは、紛れもなく人だった。
長い間、洗髪やクシやなどで手入れをされていないのか、赤みがかった黒くて長い髪は、ぼさぼさでフケも見え、所々が固まっている。
そして、それが羽織っている物は、本来なら高級ブティックのショーウインドウでマネキンに着させるような、高価な女性物の白いダウンコート。しかし、それも黒ずんでいて、今ではかつての品質も見る影がない。
オマケに素足に運動靴。傍らには少し大きめのリュックサックが一つ。体型からして女だろうか、それがうつ伏せに倒れている。
声をかけるべきか、無視して通り過ぎるか忍は本気で悩んだ。
明らかに、画に描いたようなホームレスだ。救急車を呼ぶべきか、しかし、そんなことをすれば、炊き出しの時間に遅れてしまう。
店長から渡されたパンは、言ってみれば貯蓄だ。無駄に消費することは許されない。
(見なかったことにしよう)
そう、堅く決意した瞬間だった。
「あ、ああああああああああ」
地獄の底から絞り出すような低い声、それと共に女が顔を上げた。長い髪の間から見える瞳は、奈落のように虚ろだった。
(コイツ、ヤバイ)
関わらない方が良いと、忍はさっさと横切ろうとするも、横たわった女が、素早くそれを掴みかかった。
「おわぁ!」
ガサっと言う、耳を突く音に気づいたときには遅かった。女は忍の袋を力任せに、体全体で抱え込み、転がるように奪い取った。
たまらず忍が手を離したときには、女は袋に手を伸ばしていた。
バリっと包装されたビニールが乱暴に破られ、哀れ店長から渡されたパン達は、無残にも獣のような女の口に、蹂躙されることとなった。
「うめえ・・・・・・」
ほんの数秒で数個のパンをたいらげた女は、満足したかのように立ち上がると、ぺろりと舌で唇を舐めると、両手を合わせて忍に言った。
「ごちそうさまでした」
髪の間から見せた女のニッコリとした笑顔、女、と言うよりも、大人びて見えるが、まだ少女のようだ。彼女は、本当に感謝をこめた『ごちそうさま』だった。だが・・・・・・。
「お前、人の食い物に何すんだ!」
「美味しく頂きました」
「そうじゃねーだろ! ああ、もう・・・・・・」
食べられてしまったものはしょうがない。忍もその辺りの割り切りの仕方は理解している。ホームレス相手に弁償は望めたない。だが、納得がいかない。
「ねえねえ」
頭を抱えて悶絶する忍に、少女が前屈みになって、見上げるよう忍の顔を覗き込んだ。
よく見ると、忍と同じ歳か、それよりも上に見える。先ほどの奈落のようなものとは打って変わり、輝くような大きな瞳と笑顔は、みすぼらしい格好とは裏腹に明るい物だった。
「くそ、なんだよ」
まだ怒りが収まらないが、どう責めて良いかも分からず、忍は吐き捨てるように答えた。
「河川敷の炊き出しって、どこでやってるの?」
思い返せば、アキラとの出会いは、漫画にあるような話しだった。
目的地が同じということで、仕方なく忍はその少女を公園まで連れて行くことする。到着したら、知り合いのホームレス、誠司にことの次第を話し、押しつければ良い、そんな浅い考えだったのだが・・・・・・。
「あ、誠司来たよ~」
「遅いから心配したぞアキラ。道に迷ったか?」
「ここにたどり着く前に行き倒れで死にそうだった所を、この子に助けられちゃった」
先ほどの死にかけの幽鬼と見紛うようなアキラだったが、今は元気が有り余っているのか、他のホームレスや炊き出しの風景を珍しげに回っている。
忍も誠司もその後ろに付いているが、忍は速く列に並びたい気持ちはあったのだが、このままだと歯切れが悪い気がしたので、誠司の話しを聞くことにした。
「アキラは最近流れてきたらしくてな、隣町の駅の地下道で知り合ったんだが、炊き出しの場所を教える代わりに、アルミ缶二袋と交換してもらってた。ちなみに大体、六百円くらいになって良い稼ぎだったぞ」
「地下道?」
「雨露は凌げるが、ホームレスを狙った馬鹿な奴にちょっかい出だされやすいからな。女の子には危険だろ」
「でも、ホームレスだろ。好きでやってるんだろうから好きにさせろよ」
「そのホームレスに混じって、恵んで貰っているお前には言われたくないセリフだな」
「俺には家があるから良いんだよ。家族は帰ってこないけどな」
誠司の皮肉を突き放すように、忍は自分に言い聞かせた。
だが、それを聞いた誠司はニヤリと悪代官のような笑みをこぼした。
「なら、アキラを住まわせてみないか?」
突然の誠司の提案に、忍は「嫌だ」と即答しようとしたが、誠司は続けた。
「もちろん、タダじゃない。この前渡したバイト先のカップ麺も二箱付ける。個じゃない、箱だ。それから、ピーナッツも三袋と缶コーヒーも五個でどうだ?」
今の忍には魅力的な交換だった。忍は家事ができない。特に難題となっているのは食糧だ。親から渡される金でやりくりしても、育ち盛りの忍にはコンビニの弁当や、ファーストフードに頼ってばかりでは金が持たない。炊き出しに通う理由の一つはそれだった。
せっかく店長が捨て身で渡してくれた食料もアキラに食べられたばかりで、まだ腹が立っているが、空腹で頭の回転が鈍っているのか、目先のことしか考えられなくなっていた。
「分かったよ。でも、アイツ女だろ。若い男女って、警戒されるんじゃ――」
「アキラ、忍が自分の家に来いって言ってるぞ」
「行く!」
即答で決まってしまった。
「じゃあ、改めまして、アタシは神原アキラ、十四歳」
「十四?」っと、忍は驚いて声を上げた。
「そ、十四。ええっと、忍は?」
「十六・・・ってか、アンタ、どう見ても俺より上くらいに見えるけど・・・・・・」
小柄かもしれないが、アキラはとても年下には見えなかった。
「まあ、若作りって、よく言われてる。取りあえず、忍が年上ってことでよろしく」
アバウトな性格なのか、何かを隠しているのかは分からなかったが、寒い曇り空の下、差し出されたアキラの手を握り、忍はほんの少し温かいと思った。
「じゃあ、話が纏まったようだし、今日はアキラの歓迎会ということで、炊き出しが終わったら忍の家で宴会だな。取って置きの酒も持って行くことにしよう」
「賛成! 誠司気前良いわね。マイホーム、バンザーイ!」
誠司の言葉に、アキラが両手を挙げて歓喜の声を上げた。
「お前も未成年のはずじゃ・・・・・・」
すでに忍の言葉は、アキラには届かなかった。
―※―
結局、買収と勢いで言いくるめられたような話しだった。だが、この時の忍は、素直にアキラや誠司とのやり取りが楽しいと思った。その時だけが、嫌なことだらけの家族のことを別の世界の出来事のように思えた。
その気になって我慢すれば、忍一人なら親の金で何とかできなくもなかった。だが、炊き出しに通うもう一つの理由、その中での誰かとの繋がりが欲しかったのかもしれない。
「きっと、俺の居場所だったのかもな・・・・・・」
だからこそ、それを奪った鈴乃の存在が許せなかった。
『何故、俺は泣いたんだ』その自問自答が、忍の不安に拍車を掛けるのだった。
(それでも、俺は・・・・・・)
―※―
鈴乃が入院して二週間が過ぎた頃、明らかな異変が起きた。ベッドに寝たきりである以上、手足が細くなるのは仕方がなかったが、血色が悪く、顔は青白い。特に異常だったのはその腹部だ。妊婦のように膨れあがったそれは、十五歳の少女にしては異様な物だった。最初は妊娠ではと疑われたが、それは鈴乃自身が否定していた。
検査の結果、腎機能と肝機能の低下により、排泄される水分が腹部へ滞留し、臓器を圧迫していると言う結論だった。結局は、心臓の循環機能の不全が発端だ。
「限界か……」
和子に自宅での待機を命じられた忍は、リビングで天井を仰いだ。その顔は文字通り、意気消沈と言える。
「まだ何か方法があるはずでしょ! 水を出すため手術するとか、何とか考えないと」
アキラが歯痒そうに爪を噛む。
「無駄だ。既に五度の手術をしている。しかも前回から間もない上に、癒着が酷い。手術するなら、心肺腎肝同時移植だろうな」
「つまり、丸々人間一人分ってこと?」
誠司の説明に、アキラは顔をしかめ忍へ視線を移すが、忍は最初から分かっていたのか、表情を崩さなかった。
「用意しても、手術できる人間が居ないと始まらない。循環器と消化器官の同時移植ともなれば大手術だ。中村はやらないだろう。でなければ薬で安定させて、現状を維持しようと言うはずもない。せめて――」
誠司が口にしかけた言葉を飲み込み、そのまま噤んだ。素人でも理解できる医学の限界、技術の限界だ。それ以上は何も、誰も口を開こうとはしなかった。だが……
「忍、これで良いのか? お前は、鈴乃となり損ないの兄妹のまま、終わるのか?」
「ほっといてくれ。家族ごっこはいい加減うんざりだ。俺はよくやったよ。もう自分でも、自分が分からないほどだ」
「そうだな。お前は逃げなかったんだったな。だから苦しいんだ」
「逃げなかったんじゃない! 逃げられなかった! 巻き込まれるしかなかった!」
「そうか……でも、それは結果的に逃げなかったのと同じだろ」
床に座ったままの誠司が、ゆっくりと重い腰を上げると、後生大事にしていたギターケースを肩にかけた。
「どこへ……」と、アキラが息を呑んで誠司の背中に声を掛けた。
「野暮用を思い出してね。少し遠出させてもらう。なるべく早く戻って来るつもりだ」
そう言い残し、誠司は玄関へ足を向けた。
「誠司! ちょっと待ってよ!」
誠司を追い、アキラも裸足で家を飛び出し、結局リビングには、忍一人が残された。
ガランとした室内。散乱した弁当の空箱や洗濯物。鈴乃が入院して二週間、この家は忍が見知った空間に逆戻りだ。だが、今度はアキラも誠司も居ない。
「この家……こんなに静かだったっけ?」
どこの誰とも知らない、見えない何かに忍は問いかけた。
「なんで、いつもこうなるんだよ!」
―※―
「ちょっと誠司! なに考えてるの!」
玄関先で、アキラが誠司を怒鳴りつけた。
「今、忍を一人にしたら、アイツ壊れちゃうよ。私だってどうしたら良いのか……」
「昔、俺は逃げ出したんだ」
足を止めた誠司が、振り返らずに続けた。
「俺は逃げ出した。逃げ出せたからだ。でも、忍は逃げ出せない。逃げられない。なら、そこで何とかするしかない……」
「だから、アイツの側にいて――」
「側にいて何ができる」
「それは……」
今のアキラには答えられない。側にいて何ができるか、考えもつかない。でも、側にいなければダメだ。無力な自分に腹が立ち、アキラは思わず拳を握った。
「それがお前の役目だろう。忍にお前を押しつけた甲斐があった。だから――」
誠司がアキラの頭に手を置き、微かに笑顔を見せた。
「困っている弟と妹達を助けるのが、長兄役の俺の仕事だ。お前は凹んでる次兄の側にいてやれ。俺達は家族なんだろ」
親指を立て、誠司は「任せておけ」と振り向きざまに答えた。子供じみた格好つけにしか見えなかったが、それは頼もしく思え、アキラはいつもの減らず口を叩く気が起きなかった。
―※―
「なんで、いつもこうなるんだよ!」
自分でも何を考えているのか、何をしたいのか分からない。鈴乃は憎むべき対象だ。
先に生まれただけで、彼女の持つハンデを助ける側に回され、押しつけられた。見返りなど無い。ただ『兄』と言うだけで、全ての理不尽を受け入れざるを得なかった。
昔、家族は無条件で愛せる存在と母が言っていた。だが、そんな綺麗事を聞いていて心地よいと感じるのは、全く関係のない人間だけだ。
『人』という字は支え合っていると聞いたことがあったが、それは嘘だ。『人』と言う字は実際、長い方が短い方に寄りかかっている。忍はその短いほうだと理解していた。自分が如何にちっぽけな存在かを。鈴乃が多くの者に守られて来た、強大な存在だと言うことを。
いつもあるのは『鈴乃ちゃんのお兄ちゃん』と言う役柄、それは両親からも同じだ。自分の息子では無く、『鈴乃の兄』を強調する。誰も忍を忍として最初に見ない。忍にはそれが許せず、悲しかった。自分は鈴乃の『兄』と言うオプションでしかない。
明暗、その暗の部分を一身に押しつけられたのが忍だった。「俺は、鈴乃になりたい」それが忍の本心だった。
両親も蔑ろにしていた訳ではなかっただろうが、忍は既に、親の愛を愛と感じられなかった。全てに枯渇し、全てに渇望した。時々両親から向けられる気遣いも、ご機嫌取りや、ガス抜き程度にしか思えない。「鈴乃さえいなければ……」という黒い欲望。
実際、鈴乃が居なければ忍には過ごしやすい環境が用意できたかもしれない。両親の愛情、自分の主張を抑えるものも無く、善悪の判断と共に、自分でも気が付かない、黒い欲望に塗れることもなかった。
何度も生死を賭けた試練を鈴乃は乗り越えた。医者は奇跡、極少数の事例と言った程だ。その都度、皆がその奇跡を湛え、忍は失望した。だが、その望みも報われようとしている。今度こそ鈴乃は死ぬ。だが、忍の心情は苦境だった。
何度も「鈴乃が危ない」と言われてきたが、その直前に触れたことなど無い。今回が、初めて見た死にかけの鈴乃だった。
(死ぬ訳がない。アイツが死ぬ訳がない。こんなところで死んだって何の意味も無い)
死の否定なのか、生への願いなのか、一心にそう思った。思うしかなかった。
「俺は、どうしちまったんだ……」
椅子の上で膝を抱え、頭を埋める。何も考えたくない。何もしたくなかった。
頭の中が真っ白なのか、真っ黒なのか分からないほど、視界が深淵に落ちて行く。眠ろう。そう思った直後、ふっと何か柔らかい感触が肩に置かれた。
「何だ?」と反射的に目顔を上げると、目の前に居たのは赤い髪の少女だった。
「びっくりしたぁ。寝てるかと思った」
「アキラ?」素っ頓狂な間の抜けた声で、忍が少女の名を呼んだ。
「全く、夏が近いからって風邪引くわよ。最近、まともに食べていないし、食べよ」
先ほどの雰囲気が嘘のような、明るい笑顔を浮かばせ、アキラが弁当箱を二つテーブルの上に載せた。
「本日は店長オススメの新発売。照り焼きステーキ弁当。カロリー、スタミナも抜群。しかも、賞味期限切れじゃありません!」
瞳を煌めかせ、アキラが弁当を指差す。
「アキラ」思わずアキラの名を呼び、忍は肩の感触を確かめる。
「ありがとうな……毛布」
「アレ?」ウケを外したのではと、アキラが照れ隠しに頬を掻いた。
「なんだよ?」
「ええっと、まあ、ほら、忍にはまた皮肉っぽいツッコミを入れて欲しい訳よ。ええっと、一応、妹、みたいなもんだし……」
そのまま口を紡いだアキラを、ただ無感情に傍観することしかできなかった。
十分ほど経っただろうか、無言の時間を終結させたのは、やはりアキラだった。
「正直、自分が許せないよ。鈴乃が、苦しんでいるのに……私、何もできない。アンタにかけてあげられる言葉が見つからない」
声を震わせ、歯を食い縛り、アキラがそう呟いた。
「俺だってそうだ。自分が分からない。自分に何を語りかけて良いのかすらも。鈴乃が憎かった。早く死ねとも思った。殺してやりたいとすら思ったことも何度も有る。でも今は、クソ! クソ! どうしたんだよ。俺は!」
溜めていたものが吹き上がる感覚だった。
「アイツが死んだらどうしようとか……アイツからやっと解放されるのに、何度も望んでいたことなのに! どうして、今になって、こんな土壇場になって! それでも俺はアイツが憎いはずなのに、そう思うたびに自分が小さな人間だと思い知らされる。本当は憎みたくないのかもしれないのに、それでも止められないんだ! アイツが死んだら、俺は、俺じゃなくなる!」
言葉にすらならない言葉の羅列。それを吐露するしか、今の忍にはできなかった。
「忍、もういいから!」
アキラの訴えは耳に入らない。自分の体を使い、自分では無い何かが、言葉を紡ぎ続ける感覚を止められなかった。
「俺は知らなかったんだ。俺がこんなに弱いなんて、弱いから頑なにアイツを憎んじまった。でもこんな心のまま、失いたく……ないなんて……考えもしなかった」
頬に涙が伝い、口から溢れた液体が、見窄らしく床を濡らし、嗚咽が収まらない。
「アンタ、幸せだよ。そうやって一人の人間を想えるんだから」
「え?」
不意に抱きしめられたことに驚き、忍は目を見開いた。肩に置かれたアキラの顔。表情は伺えなかったが、耳元で囁かれた口調は穏やかだった。
「たとえ、それが憎しみでも、アンタのはきっと、絆って言うんじゃないの?」
「絆……」
「家族の代償って、言ったらいいのかな? アンタにはまだ、その分の等価を支払われていないだけで、きっと返ってくるよ。ただ、払いすぎて見合ったものが今は得られないだけ。だから、本当は鈴乃が大切な気持ちを忘れちゃってるんだよ」
「お前の言っていること、よくわかんねえ」
拗ねた子供のように、忍が口を尖らせた。
「つまりアンタは、文字通りのシスターコンプレックスってこと。ついでに、マザコンでファザコン。ここまで来るとファミリーコンプレックスって言うんじゃない? 訳してファミコン」
歌うように皮肉を込めたアキラの言葉だったが、怒りを感じなかった。むしろ言われて清々したかもしれない。
「余計なお世話だバカ女」
「アタシだって、アンタの家族なんだから。鈴乃の。誠司の。初めてなんだ、家族の役を与えられたのって、アタシはアンタと鈴乃の妹役。だから、一人で抱え込まないでよ。アタシも一緒に抱えてあげるからさ」
自分の腕の中、強張ったアキラの肩の小ささに忍は初めて気づいた。『妹』と『兄』。疑似家族の役でしかないその役回りを、一瞬役であると言うことを忘れた。
無条件に愛せる自然な存在。価値など考えることなどおこがましい絆。
(やっぱ、まだ俺には分からないよ)しかし、それで良い。その鱗片に触れただけでも、忍は一瞬救われた。だが……
「シスコンとマザコンとファザコンは余計だ」
肩に乗せたアキラの頭を引っぺがし、忍はその額に思いっきりデコピンをした。
「っつ~」声にならない悲鳴で抗議し、アキラが涙目で忍を睨み付けた。
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