第3章 擦れ違いホームレス

 気が付いた忍が最初に見たものは、高い天井と広いロビー。受付のプレートが乗せられた壇だった。

 後ろの窓ガラスから覗いたパトカーを目にするまで、ここが警察署だと気づけなかった。

 深夜一時を回り、長椅子の端で小さく俯く。忍は、ここと良く似た場所を知っていた。

「病院じゃ、ないのか……」

 安堵で出た一言が、何故か悔しかった。

『お前の妹って、何だ?』『あんな嫌われ者の兄貴で可愛いそうだな』

『お前良い奴なのに、妹のせいで後輩に誤解されるって、完全に被害者じゃん』

『ゴメンね、鈴原くんのこと嫌いじゃないけど、妹さんとやっていける自信がないの』

 過去に自分へ寄せた、心無い同情心が自分を慰めていた。

「お前のせいだ鈴乃…お前さえ生まれてこなければ……」

 視界が赤くなり、体中を鈍い痛みが走る。

(これが俺だ。憎い。あの女が、あの化物が。何度死にかけても蘇る女の形をした化物)

 自分の半生を喰らい生き続ける怪物。どうして自分がこんな目に遭わなきゃいけない。自分と妹は別の生き物なのに、誰も彼もが鈴乃の兄であることを義務とし、または同視し、責任を押しつける。そんな力も自覚も、有りはしないのに。

(アイツガイナケレバオレハシアワセダッタ)

 固く握った拳に、そっと手を添えられたのは、そう思った直後だった。

「帰ろう。忍」

 顔を上げると、笑っているのか、悲しんでいるのか、複雑な表情の誠司が立っていた。

「いつから居たんだよ」

「今さっきだ。気が付かなかったのか?」

「ああ、そうか、アイツらは?」

「調書を取って帰ったよ。茫然自失のお前の代わりに謝っておいた。被害届は出さないとさ。近くに居た客や店員が話を聞いていたらしい。それに兄貴なら怒って当然だ」

 頭に軽く手を置かれ、乱暴になで回される。

「連中も、深い意味は無かった。軽率だったと言っていた。まあ、悪気はないんだろうから、許してやれよ」

 それが誠司が忍に対して、「良くやった」と投げかける意味であることは理解していた。だが、それを受け入れることができない。

「結局、障害者の家族の気持ちなんて、普通の人には分からないってことなのかよ」

「悪い言い方だが、他人事だしな。お前や鈴乃の苦労は、知らないほうが普通だろ。理解しないんじゃない、出来ないんだよ。そんなに邪険にしてやるな」

 少し突き放された考え方だが、忍はそれ以上に思うことがあった。

「なあ、誠司」と、忍は静かに問いかけた。

「俺が、アイツらを殺していたら、母さんと父さんは俺を迎えに来てくれたかな?」

 馬鹿なことを言うなと、冗談交じりに苦笑する誠司だが、忍は本気だ。

「喧嘩に巻き込まれたのが俺じゃなくて、鈴乃なら、母さんと父さんは来てくれたのか!」

 誠司の肩を掴み、力任せに体を揺らす。

「どうして、お前が来たんだ! どうして、母さんと父さんじゃないんだ!」

「両親を呼んだら鈴乃の居場所がバレるだろう。代理人として迎えに来た方が良いと思ったからだ」

 突然の忍の変貌に、誠司が慌てて口を滑らせた。

「鈴乃? 鈴乃のためなのか? 奴を庇うために、お前まで俺じゃなく、鈴乃を第一に」

「待て忍。本当に頭でも打ったのか?」

 さすがの誠司も険しい表情になり、忍の腕を掴んで引き寄せた。

「いつもこうだ。何があっても鈴乃優先。俺ばかりが貧乏くじ! 俺が兄だって言うだけで、理不尽な責任を押しつけられる。もう限界だ! あの化物! ぶっ殺してやる!」

 それは、一つの本音だった。忍にとって、鈴原鈴乃はまさに怪物だ。

 両親や友人、遂には忍自身を狂わせ、彼女を快く思わない人間に危害を加えさせた。全て鈴乃のため、心臓に加えた異物により動かされる死体人形のためだ。

「俺の妹はとっくに死んでいる。アレは妹の肉体と機械で動いているバケモ――」

 突然振り上げられた拳が、忍の頬を打った。

 首が吹き飛ばされそうな衝撃、勢いで体が床へ叩きつけられる。何が起こったのか分からず、忍は動転し過呼吸に陥り息を乱した。

 それは普段、好々爺を自負する誠司からは想像も付かない行動だった。

「何を言っているのか、分かっているのか!」

 細身の長身が、忍の顔を見下ろす。その表情は怒りなのか、哀しみなのか、それとも両方なのか、唇を横に引き強張ったものだった。

「わかんねーよ。全然わかんねーよ! どうして俺だけこんな目に遭うんだ!」

「忍、いい加減にしろ! お前から変わらなければ、誰も何も変わらない。このまま歩き続けても、俺と同じ道を歩むだけだ。一つだけ教えてやる。お前があの子達に怒りを覚えたのは、お前が鈴乃の『兄』だからだ!」

「またそれか、嫌なんだよ。俺はそれが嫌で嫌でしょうがないんだ!」

「そうだとしたら、鈴乃がお前に関係が無いなら、お前は理由も無く人を殴ったんだぞ」

 確かに、殴った理由が無かった。どうしても見つからなかった。激情のまま勝手に激高し、殴りかかっただけだ。

 自分自身が分からない。ただ一つ言えることは、鈴乃が原因だと言うことだ。

 逃げ場所はどこにも無い。妹と言う重石と兄という鎖が忍を逃さない。だとしても、忍は逃げたい。逃げたい。逃げたいのだ。

 誰も自分を理解出来ない、そして、自分も理解出来なくなった。そんな虚無感が忍の心を暗闇に覆い始める。

 何も考えられない。忍の心は空っぽだ。立ち上がった瞬間、体が勝手に警察署のドアを押し開き、駆け出していた。

 強い雨が降っている。後方からは誠司が何かを叫んでいたが、忍には関係がないことだ。

 言葉にならない叫び、頭を振り乱し、前のめりに疾駆する。両腕が藻掻くように空を切る。心と体が既に離れていた。だが、忍の理性は冷たく自分の姿を見つめていた。

 無様に泣き叫び、当て所もなく逃げ回る黒い感情。それを解き放ったのは自分自身だ。パニック状態となった忍は、そのまま眠った町並みの中を、走ることしかできなかった。

 鈴乃は、最後の忍の居場所すら奪った。だが、それだけではない。自分の何かが許せない。それは、『兄として』の自分だった。


―※―

 雨上がりの快晴は、梅雨の時期を忘れさせるような雲一つない青空を見せている。

 ライブへ向けての下準備のため、役割の確認を兼ね、アキラと鈴乃はショッピングモールのフードコートで作戦会議を始めていた。

 開店とほぼ同時に入店した二人は、学生服を着用していた。これはアキラの趣味と、制服で町を歩きたいという要望だった。

「うん、やっぱサイズはぴったり、セーラー服って思ったより可愛いわね」

 ポニーテールに結んだ髪を整え、手鏡で確認するアキラの姿は、少し大人っぽいが、一見では普通の学生とかわらない。

「あまり騒がないでよ。地元なんだから」

 小声で釘を刺す鈴乃が、プラスチックのカップを差し出す。

「分かってるって。それにしても、忍も誠司も、どこをほっつき歩いてるんだか」

 不機嫌そうにストローを噛み締め、アキラはカップを持ち上げた。

 昨晩、誠司は携帯電話に出た後、そのまま仕事だと二人に告げて家を出てしまった。忍は全く音沙汰無し。結果だけ言ってしまえば、ライブの準備をするのに気兼ねなく話せると言う意味では、アキラと鈴乃には好都合だ。

「でも、ま、誠司は乗り気じゃ無さそうだから、逆に二人で良かったんじゃない?」

 やれやれとアキラが大げさに首を振って見せる。

 だが、ブレザー姿の鈴乃は、久しぶりの地元で落ち着かないのか、又は、知り合いに会った時の対処を考えているのか、周囲に目を配っていた。だが、アキラから見れば取り越し苦労とも言える。

 黒髪で眼鏡の地味な娘が、金髪のショートヘアーで、メイクもバッチリな女子高生へ変身しているのだから。セーラーも、ブレザーも、病院の看護師からもらった遠くの高校の制服だと言っていたし、普通に二人で居れば、学校をサボっている女学生にしか見えないはずだ。

「色々決めるなら二人で。って言うのは正解だと思うけど、曲はどうする? アタシ、カラオケしか音楽しらないし、種類とか疎くて」

 気恥ずかしさを誤魔化すよう、頭を掻くアキラに、鈴乃が一枚のプリントを差し出した。

「一応、アップテンポな曲を作ろうと思ってるの。アキラって声高いし。確認するけど、私は電子ピアノで、アキラはボーカル、誠司はギターってことで良いかな?」

「テンション高いのは良いんだけど、作詞が物語仕立てのものがいいな……それだとイメージできて歌いやすそう」

 腕を組んだアキラが、差し出された企画書に目を通す。とは言っても、各々の役割と曲のジャンルの候補を書かれただけだが、イメージを膨らませるには十分だった。

「だったら、自分で作詞してよ。さすがの私でも、そこまでの文才はないよ」

 やれやれと手を揺らし、鈴乃がお手上げの意思を示す。

 それを見たアキラは不意に、「あ」っと声を出した。

「今の仕草、忍に似てる」

 一瞬、鈴乃が驚いたように背筋を伸ばし息を止めた。

「アイツ、自分じゃどうにもできなくなると、ふて腐れて、ぶっきらぼうになるんだよ」

「ああ、あるある。兄貴は昔からそう言うとこが……って、それって私もってこと?」

「残念ながら」

 軽くショックを受けた鈴乃は溜め息を吐いた後、思い付いたように、天井を見上げた。

「兄貴か……アキラ、会場決めちゃおうか?」

 突然の鈴乃の意見に、アキラは驚いた。

「ちょっと、無茶言わないで。まだ何にも決まってないじゃない」

「でも、目標と締め切りは決められるでしょ。私には、あまり時間が無いし」

 確かに、このまま鈴乃が両親の目から逃れ続けることは不可能だ。どんなに粘って誤魔化しても、一ヶ月が限度だろう。正直、忍が居なければ電話に出ることもままならない。警察や両親が上がり込んできたらアウトだ。

「分かった決めよう。すぐに誠司に電話して場所の確保をしなくちゃ。公衆電話行ってくるからここに居て」

「ちょっと待って」アキラが踵を返した瞬間、鈴乃が彼女の肩を掴んだ。

「会場の心当たりがある。すぐに戻って作詞と作曲の作業に入ろう。運が良ければプロのレコード会社の人も来てくれるかもしれない」

 プロという言葉に、アキラが反応し「マジで?」と半信半疑で鈴乃の顔を覗いた。


―※―

 どこを、どう彷徨ったのか分からない。

 線路の下に設けられた地下道にダンボールを敷き、忍は横になった。顔が見られないよう、ダンボールの端で陰を作り頭を隠す。

 空腹で目眩がして気怠い。何日も地下に居たため、昼なのか夜なのか分からない。携帯電話のバッテリーが切れて久しい。使用しなければ三日は持つが、それだけの時間が経ったと言うことだけは認識できた。手持ちの金も底を尽き、カップ麺と菓子パンが、如何に高価な金額で売買されているのか理解する。

 もう、店長から弁当を恵んでもらえない。どんな顔をすれば良いのか分からない。

 アキラも誠司も、将来の夢を掴むために、鈴乃との時間が大事なはずだ。結局、鈴乃は何もしなくても、全てが与えられた。

 忍が持っていた聖域、時間、関係。その全ては、鈴乃を生かすための供物に過ぎない。

 両親は、自分を探してくれているだろうか。いや、放任主義と言って本当に放任している親だ。今更、息子に何を期待しているのだろうか。鈴乃が居れば良いのだ。忍の他人の認識、評価は鈴乃が中心になってしまっていた。これは一種の刷り込みであり、呪いだ。

 鈴乃のため、両親のため、そうしなければ愛してもらえない。忍は自身が愛してもらっているという感覚を抱いたことが無い。

 鈴原鈴乃という妹のパーツでしかない。それが嫌で、鈴乃を避けていた。だが、結果はどうだ。今の自分は、見窄らしいダンボールのベッドが最後の財産となった。

 ならば、このまま朽ちるのも悪くない。半生が奪われ続けるだけの人生。本当に何もない。だが、本当にそうだろうか? 何かを忘れている気がする。空になった財布を探り、忍は一枚の紙切れを取り出した。

 それは、自分が手にし、自身のための生存方法を記した文字通り自分自身の書物。

「死ななくて済む」

 悔しさと嬉しさで、涙が溢れた。過去の自分は、今の自分を救ってくれたのだ。


―※―

 一ヶ月後

 既に河川敷の公園には、ホームレスの長蛇の列がジグザグに並んでいた。

 本日は週二回の炊き出しだ。献立は素麺のぶっかけ丼とおむすび。七月も近い暑い時期、火照った体にはありがたい食物ではある。

「ありがたい話だな」

 炊き出しの列の中間付近で、忍は空を仰ぎ、素直に思ったことを口にした。

 家を出て一ヶ月以上が経過していた。最初は一人で荒れて、当てもなく町中を徘徊していたが、行き着いた先は隣町の河川敷の公園だった。

 切っ掛けとなったのは、財布の中に残されていた炊き出しの場所と時刻だった。最初は空腹から最寄りの場所に通ったが、自分を探す誠司やアキラを見つけ逃げ出した。その後は人伝いに新たな炊き出しの場所を聞いて周り、落ち着いたのがこの場所だ。

 公園の端の藪の中で、捨ててあったビニールのドームテントを張り、空き缶拾いも別のホームレスを通して売買し、一日百円から二百円の収入を得る。

 駅前のティッシュ配りの手伝いもした。もっとも、これはバイトをサボっていた見ず知らずの男に声をかけ、少々の収入を頂いただけだったが、それでも三百円は手に入った。

 炊き出しのために、遠出もするようになった。自転車は自宅から運び出し、おかげで今は、ほぼ毎日二食はありつける。

(何だ。生きていけるじゃん)

 生きるだけなんて簡単なものだ。始めから、手に入らないモノを求めても仕方が無い。

 捨ててしまえば、諦めてしまえば良い。『生きているだけで良い』両親は鈴乃をそう定義していた。

(そうか、人間は生きているだけで良いんだ)

 目の前が明るくなった。このままホームレスとして生きて行くのも悪くない。最悪、両親が死んだら、生活保護で良いじゃないか。

 前向きであればそれで良い。いずれ、鈴乃は死ぬ。今、死んだモノとしよう。両親も自分のではなく、妹の両親として認識しよう。

『自分はただの忍だ』

 アキラが何故ホームレスでありながら、自分の境遇を悲観せず、前向きに生きていられるのか少し理解できた気がする。

 アキラはただのアキラで、今までのモノを諦め、前にあるモノを求めている。忍の心は今までにないほど晴れやかだった。

 学校、両親、妹、自分から去た友人達。全て諦めて、最初から頭を切り換えよう。自分は、生きているだけで良い。

 今が良ければ良い。もうすぐ、自分の番になる。食事を摂ることがこんなに楽しみだとは思わなかった。小さな幸せを糧に一日を生きる。それで良いじゃないか。

 ホームレス。全てのしがらみから解き放たれたその言葉は、ありもしない家族の絆にすがり、惨めだった家庭内での自分の立場や生活から考えれば、誇らしくさえ思える。

 いよいよ、忍の番になったその時――

「兄貴!」

 後方から聞こえた声に、忍は度肝を抜いた。だが振り返らない。無言のまま、素麺とおむすびを手に取り、さっさとテントへ向かう。

「なにやってんの、兄貴らしくないよ」

 後ろを付いて来る女の声が耳障りだった。

「お前に何が分かるんだ? 年に数度しか会わない俺の何が分かる。俺らしくない? ふざけるな女」

「いい加減にしてよ兄貴! そんなに私が嫌いなのかよ!」

「嫌いだね。ってか、もう、興味ないんだよ。いちいち気にしてたら身が持たない。おめでとう、父さんも母さんもお前のものだ」

 自分の意志ではどうにもならないほど、捲し立てる忍の言葉は、迷いもなく流るように発せられた。

「お前は勝手だ。自分のことは兄貴に関係ないとか言いならが、お前には関係のないことで、お前に口出しされる謂われなんか今の俺にはない! お前から拒絶しておいて、何だその言いぐさ、馬鹿馬鹿しいにもほどがある」

 確かに、鈴乃から拒絶の言葉を発していたのは事実だ。忍はそれを肯定した。そのことで不満を漏らされる理由はない。だが……。

「どうして……どうして兄妹なのに、こうなっちゃうんだよ!」

 微かに嗚咽が聞こえた。だが、そんなことは関係ない。傷付けられて来たのはこっちだ。もう、気にせずに堂々としていれば良い。自分の人生には関係のないことだ。

「なに泣いてんの? キモイんだよお前。お前、俺のなんなの? 俺に何かメリットになることしたの? 俺の人生を何だと思ってんの? 振り回すだけ振り回して、切羽詰まると妹役? うざいんだよ。死ね」

 小気味が良かった。胸の中の鬱憤が全て洗い流された。もう、体裁など考えない。最初からこうしていれば、悩み、苦しまずに済んだ。勝利はすぐ近くにあった。

「どうして、こうなっちゃんだよ……これじゃ……兄妹になれないじゃない!」

 カラカラと、キャリーの車輪音が遠ざかる。

(やっと消えたか)と、安堵し、テントの中で、素麺とおむすびを口に押し込むが、あまり味がしなかった。薄味という訳ではない。不味い訳ではない。ただ、美味いという感覚がぼやけていた。

「また、この味か……やっぱり、まずいって言うんだろうなこう言うの」

「当たり前じゃん。アンタ死人なんだから」

 耳を突いた高い声が聞こえたと同時に、テント内の天地が逆転し、忍は顔面から天井へ顔を叩き落とされた。

 一瞬の出来事に声を上げることもできず、思わず口元に手を置く。

 鼻血が出る。唇も切った。顔面が鈍い痛みを覚え、背筋がテント越しから向けられる鋭く、冷たい視線に射貫かれた気分になる。

「こんなとこで腐って、生きてるフリ? 久しぶりに見たわ、アンタみたいな根性無しのろくでなし」

 振り向くと、思っていた相手がそこにいた。もちろんアキラだ。テントの破れた隙間から見える、ヒラヒラのレースで飾られた黒い服、太股まで隠したニーソックスと厚底のロングブーツ、紅黒のロングヘアーは豪奢にアップにされ、縦に捲かれている。

 真っ白に塗られた肌の上に、シャドウで大きく縁取られた瞳は、いつもの何倍も大きく見えた。

「何だよ。それ、お化け?」

「ステージ衣装、似合う? ゴスロリ風。様子見て帰るつもりだったけど、気が変わった」

 アキラの手がジッパーで閉ざされたテントを開き、忍の住まいへと侵入した。

 一人分のテントに二人は正直辛いが、今の忍にはアキラを追い出す余力は無かった。とりあえず、鼻血を止めようと、仕事道具のティッシュのあまりを鼻の穴に押し込む。

「久しぶりに顔を会わせてコレか?」

「アンタこそ、妹によくあんなこと言えたわね。このドS」

「何で俺がSなんだよ。大体アイツが勝手に来て勝手に泣いてっただけだろ。泣きたいのはこっちだってのに。アイツこそMっ気あるんじゃないか?」

「そうだよ。鈴乃は普通にMだよ」

「何!? マジかよ!」驚きで身が後ろへ飛び退き、悪寒が背筋を走った。

「嘘だよ。でも、前にも言ったでしょ、アンタに甘えたいのは本当なんじゃないの?」

 そう呟いたアキラは腕を組み、怒りを露わにした。

 忍は即答しなかったが、「クソ喰らいだ」と否定した。

 アキラも「あっそ」と無機的に返えす。烈火のごとく殴り掛かってくるのではと、身構えていたが、逆に意表を突かれ、胸を鷲掴みにされた気分になる。

 ゆっくりと、狭いテントを出たアキラが、入り口の前で一枚の紙切れを置いた。

「明日の夕方五時、ショッピングモールのヤマト楽器のスタジオで、アタシ達は演奏する」

 ヤマト楽器店という名を聞いた忍は、口を振るわせながら返答した。

「お前達は夢に向かって一直線か。運が良ければプロデビュー、それが叶わないまでも、インディーズでCDデビューできるかもな」

 ヤマト楽器は月に一度、レコーディングスタジオを解放して演奏会を開いている。楽器、ジャンルを問わず、参加費、視聴料金は無料。ただし、どちらも予約制のため、飛び入りはできない。

 大抵の客は参加者の身内だが、参加者のバンド同士の交流や情報交換も魅力の一つだ。しかし、それ以上に引かれるものがある。

 道楽か、趣味かは知らないが、時々音楽関係者も気分転換で試聴をしに来ると言うことだ。そこからレコード会社やスタジオなどと契約するバンドや、歌手志望、バンドのメンバー集めのために参加したミュージシャンが、声をかけられたりすることもある。

「鈴乃はできることや、やりたいことがあるってことを、アンタに見て欲しいんだよ。自分は母親がいなくても、立っていられるって」

「意味が解らない。大体、俺や鈴乃より年下のお前が、よくそんな風に言えるもんだな」

「解るよ。鈴乃もアンタも『私』に似てるから、自分が飼われていると思っている自分に」

「飼われていたって、どういうことだよ」

『飼われていた』と言う言葉に、目の前にいる少女が本当にアキラなのか疑ってしまう。今まで、彼女がそんな言葉を発しただろうか。

 忍が何かしらの言葉をかける前に、アキラは公園の中へと歩みを進ませていた。


―※―

 忍が失踪した翌晩、アキラは、忍を見つけられずに帰宅した誠司を叱りつけた。

「アンタ、どうしてすぐに連絡よこさないのよ!」

 どうして忍を止められなかったのか。何故、彼の話を理解してやれなかったのかと問い詰め、その後、何故、自分も行かなかったのかと後悔し、忍のベッドで一人泣いた。

 翌日、アキラと誠司は昼夜を問わず、その足で忍を捜索し続けた。思い当たる炊き出しの場所、最寄りのコンビニ、誠司の馴染みであるホームレスへの聞き込み。警察や忍の両親が頼れない以上、自力で彼を捜すことしか、今の自分達にはできなかった。

 誠司の提案で、鈴乃は自宅で忍の帰りを待つこととなった。自分の体力を鑑みれば当然だろうと、彼女は役割を承知した。

 一つの市と言っても、都心に近い人口五十万人以上の大きな街だ。オフィス街もあれば、地下鉄、地下道、図書館、市民会館、二十四時間営業のファーストフード店や漫画喫茶、炊き出しを行う公園や河川敷。広く開放された施設も多く、雨風を凌げる場所なら無数にある。

 忍が思いつきそうな場所など、自分には見当も付かないと、悔しさが込み上げた。知った風な口をきいて、結局は彼の何を知っていたのだというのか。

 忍のこともそうだが、誠司を責められる立場でもない。自分がもし、警察署へ忍を迎えに行ったとしても、今の事態は避けられたのだろうか?

 その問いにアキラは答えを出せずにいた。そんな無力な自分が、無性に恐ろしかった。だから、何も考えずに走って、走って、走り回った。

 そして、アキラが倒れたのは忍の失踪から半月が過ぎた頃だった。

「し、死ぬう……」

 唸るように絞り出せた言葉はそれだけだ。風邪と言う訳では無いが、疲労から来る発熱は、体をベッドへ縛り付けるには十分だった。

「無茶し過ぎよ。ほら、体起こして」

 粥が乗せられた御盆を持ち、鈴乃が溜め息を吐いた。

「曲ができても練習ができなきゃ意味ないでしょ。ライブまであと半月だし」

「しょうがないじゃん。忍、見つからないんだから。それに練習も毎日やってるよ。歌詞もちゃんと書いたし」

 体を起こし、アキラは愚痴を漏らすが、「それとこれとは別」と鈴乃が切り捨てた。

 それから食事を終え、体を拭かれたアキラは、強引に布団の中へと押し込められた。アキラが覚えている限りでは、寝込むという事態に陥ったのは初めてのことだ。結局、自由が利かないため、鈴乃にやりたい放題させられてしまったことに、軽い屈辱感を覚える。

「これで良し。体は生きるための基本だから、大事にするのね」

 体が動かない状態など初めてだからか、気弱になっている自分に対し、鈴乃の皮肉混じりの台詞が、なぜか少しだけ心強かった。

「少しだけ、お話し……してよ」

 部屋を出ようとした鈴乃を思わず引き留めるように、アキラが口を開いた。

「お話?」と言って、少し釣り目の瞳をパチクリさせた鈴乃が、少し可愛らしく見えた。

「鈴乃のいた病院のこと」

 本来ならタブーであると思うところだったが、熱のせいか、自然と口が滑ったことに、アキラは気づけなかった。

 鈴乃は少し考え手で口元を隠すが、結局、観念したのか、アキラの隣に腰を下ろし手を握った。

 アキラは少し驚いたが、鈴乃はアキラの顔を見ずに静かに語り始める。

「兄貴と出会ったのは、病院のドアのガラス越しだった」

 そこは、小児科専門の巨大な病院だった。

 十畳ほどの白い小部屋、窓から見える田園、部屋を出ると隣に別の個室が二つ。メインの廊下に出ると、八人から十人ほどが収容できる大部屋が三つ。そのまま道なりに通ると食堂とナースステーションが向かい合わせにあり、病棟から出るためのガラス扉は、常に施錠され、外に出ることは叶わなかった。

 脱走防止と言えば聞こえは悪いが、あくまでも保護目的のものであり、仕方がないことだった。だが、新生児から中学生ほどの子供がいる狭い病棟内で、満足できる年頃の病人など居るはずがない。少なくとも、循環器の病棟の子供達は意外と元気な病人が多く、病棟内を走り回って看護師達を困らせていた。

 病棟はその科によって隔離されており、鈴乃が知るのはその中の一つに過ぎない。循環器の病棟は五十から七十平米ほどだろうか、今思えば、幼児が無理なく走り回るには適した広さだったかもしれない。

 自分の病室は一人用の個室だった。三つしかない個室を使うと言うのは比較的年長で年頃の患者か、あるいは重度の患者だ。鈴乃は後者だった。周りの親戚から、又は近くの大人達からは哀れみや同情心で見られていたが、鈴乃にとっては生まれた時からのことであり、別段特別なことではなかった。

 少なくとも、そこにいた子供達の殆どがそう思っている。優しい姉のような看護師や父や兄のような医師、同じ境遇の友人達。病気の症状の差があったが特に不満は無かった。

 周りの人間達が彼らを知らなさ過ぎるのだ。むしろ哀れみの言葉は、逆に屈辱的であり、理解できないことだ。少なくとも自分達は不幸せでなかった。

 兄が居るとは昔から聞いていた。入退院を繰り返しいて忘れがちだったが、何度か会っている気はしていた。

 四歳くらいだろうか、病棟のガラス扉の向こうで、ひたすら扉を叩いて蹴って大声を上げている子供がいた。それが鈴乃の兄、鈴原忍だと初めて認識した姿だった。

 内側から扉を叩く子供はいくらでも見てきた。ある子供は親恋しさから外へ出ようと、何度も届かない鍵に手を伸ばし、ある子供は帰宅する親の後ろ姿を眺め、扉の前で泣きじゃくった。だが、外側から扉を叩く子供など初めてだ。母に連れられ、ガラス越しに殆ど初対面と言っても良い、兄と再会した。

 母は鈴乃の手を握り、扉越しの忍を「迷惑になるから」と言って叱りつけていた。

 忍はふて腐れたように病棟前の廊下に座り込み、そのまま伏せてしまった。兄とは言葉を交わさなかった。彼は何かを言おうとしていたが、すぐに母に連れられ鈴乃は病室へ戻されてしまった。だが、背中へ注がれる視線が、酷く冷たかったことだけは覚えている。

 それでも、鈴乃は兄がいるという事実を確かめられたことが、少しだけ嬉しかった。そして扉の外の兄を羨望し、少しだけ憎んだ。

「それが、兄貴との一番古い思い出かな」

 気恥ずかしく頬を掻いた鈴乃が苦笑した。

「なるほど、昔からふて腐れ癖はあった訳か」

「兄貴からすれば何時間も待たされてた鬱憤もあったんじゃないかな。暇だっただろうし、でも、私も兄貴も、お母さんには逆らえなかった。それだけは、何故かできなかった」

 一瞬、震えるように口を止めながらも鈴乃は続けた。

「でも、私はお母さんや周りの人たちが言っているような、かわいそうな子供じゃなかった。兄貴は、そのことを知っていたんだと思う……もっとも私が考えていることとは違う意味かもしれないけど」

「アイツ、変なところで察しが良いからね。獣道歩いていたら、目的地が普通の道を通っても同じだった。みたいなもんか」

 アキラの言葉に、鈴乃が感心したように「なるほど」っと声を漏らした。

 それからは忍に対する愚痴や、忍を肴にたわいもない談笑を続けるだけだった。母のことを口にしかけた鈴乃の表情に違和感を覚えたが、アキラはその表情の意味を知っていた。

 鈴乃が見せた蒼白の表情と途切れた言葉は、かつての自分が持っていたものにとても良く似ていた。だが、それを問うたところで何が変わる訳ではない。

 いつの間にか、火照った体に微かな疲れと睡魔の気配を感じ、アキラは鈴乃との会話の中で、いつの間にか眠りについていた。


―※―

 その日は大事な日だった。だが、忍にはどうでも良いことだった。

 アキラに押しつけられたチケットを見やり、忍はディスカウントストアに置かれたベンチへ腰掛けていた。やはり、本格的な夏も近いのか、外は異様に蒸しており、自然と涼しさを求め、たどり着いた店内に居座り二時間以上になる。

(どうでも良い)

 その一言だけが忍の心を支配していた。鈴乃が人前に立つ。立って演奏するだけ。そのために足を運ぶなど絶対にあり得ない。自分にとって何の価値も無い女だ。馬鹿馬鹿しい。

 どうでも良い。自分もどうなっても良い。この世の中に自分の置き場など無い。何をしても良い。誰も彼もがどうでも良い。自分自身がもう、どうでも良い。自分は自由だ。

 腹が減った。何を食べよう。どう食べよう。どうしよう。空腹、空、腹、手、食す。

 単語が並ぶ。疲労と空腹、磨り減った心が腕を動かす。アキラと別れてから何も口にしていない。入れても吐き出してしまう。

(もう、どうなっても良い)

 売り場を通りかかり、無意識に右手をポケットの中へと突っ込む。

 どうでも良い。と店の外へ出た瞬間、背中越しに声をかけられた。

「お客様、お会計が済んでいない物があると思いますが」

 心臓が引っ繰り返ったように高鳴り、反射的に振り向いた。

 黒縁眼鏡にオールバックの髪をしたスーツ姿の男が、睨みを利かせながら立っていた。

「あ、う……」

 どういうことだ。どうしてだ。そういった感情が後悔の波となって押し寄せる。

 男に連れてこられたのは、店の裏の警備室だった。

「右手のポケットに入っているモノを出せ」

 奥の椅子に座らされ、パニック寸前の忍は、言葉を発することができなかった。

 体が震える。吐きそうなくらいの嗚咽。動悸と息切れで呼吸ができない。ヒュウ、ヒュウと口から吐き出される息が荒い。

 それでも言われるまま、ポケットから右手を出し、そこに握られたチョコレートバーを震える手で机の上に置いた。

「買っては、いないな」

 スーツの男が、眉間にシワを寄せ腕を組んだ。男はこの店の保安員だった。一般的に、万引きジーメンと言われる仕事と、店の安全管理を目的とした警備会社の人間だ。

 忍にはそんなことを知る由もなかったが、自分の行為を理解した時には遅かった。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。もうしないから、帰してください!」

 体を丸め、祈るように目を瞑ったまま忍はやっと言葉を発した。

「店の人にあとは任せるから、少し待ってろ」

 怒りか哀れみか、それとも呆れているのか、スーツの男が複雑な表情を浮かべ、制服の警備員と入れ替わりで部屋を出て行った。

 制服の警備員は若かった。歳は誠司よりも若く見え、自分よりも少し上といった感じだろうか、ひょろっとした体格でありながら、マスクで口元を隠した青年警備員は、微動だにせず忍の前に立ち、睨みを利かせていた。

 隙のない直立不動の警備員。一見、その体格から、不意を突けば逃げられるのではと思ったが、忍にはできなかった。

(何をやっているんだ俺は)

 罪悪感が心身を支配する。目の前に立つ青年からは自信と誇りが感じられた。ふと、警備員と自分を比べてみた。やけくそになって座り込んだ自分、しっかりと地に立つ青年。

「ふ、ふふ……」

 乾いた自嘲が収まらなかった。たかが百二十円のチョコレートバー一つで自分の人生を顧みるなど、誰が予想できただろうか。

 たった百二十円。それほど小さい金額が、今の自分の心情では、一億円の借金を突然背負わされたような衝撃が、絶望と相まって走馬燈を展開させた。

「鈴乃……鈴乃……」

 空っぽの心に、ふいと浮かんだ名前だった。今、どうしているだろうか、ライブの準備で忙しいはずだ。ちゃんと演奏できるだろうか。緊張しすぎて倒れるのではないだろうか。様々な思いが浮かんでは消えて行った。

 ひたすら、四人でいた時間が恋しかった。アキラも誠司も、鈴乃の体調に振り回されていないだろうか、迷惑をかけてしまった。どうしようもない自分が恥ずかしい。どうしてこうなった。やはり、鈴乃のせいだろうか、あの女がいるから家に帰れなかった。いや、違う。これは違う。これだけは絶対に違う。

 自分自身を恥じる。これはどうしようもないことだった。不意に、頭上の時計に目をやると、既に時計の針は四時を過ぎていた。

「お願いです。今日、妹のライブなんだ! だから、その…早く帰して――」

「自分がしたことを考えろ」

 氷のように冷たい青年の一言が全てを物語っていた。今の自分がとっさに何を言おうと説得力など無い。ライブのことも口から出任せと思われてもしょうがない。真実を語っても、この青年には関係のないことで、彼の今の仕事は自分を逃がさないことだ。

 自分の犯した罪と立場という壁が、忍の言葉と行動、そして存在を否定していた。

「俺、これからどうなるんでしょう……」

 その問いに、警備員は何も答えなかった。

 普通に考えれば、警察だ。となれば、ライヴに間に合わないだけでなく、両親にも連絡が行くはず。もしかしたら、鈴乃とアキラ、誠司の風評も悪く見られるかもしれない。音楽関係者に目をかけられても、デビューをさせて貰えないかもしれない。

(俺は、馬鹿だ!)

 全てに対して、自身を責め、何をどう考えても自分の心慰める術が見つからない。

 越えてはならない一線を越え、自分以外の誰かを不幸にしてしまう。自責の念と共に、周囲に対する申し訳なさで一杯になる。

 そんな悪循環の心境の最中、先ほどのスーツの保安員が、重い鉄の扉から顔を覗かせた。その後ろには、従業員がしている緑色のエプロンに、『副店長』という名札を下げた中年の男が複雑な顔で腕を組んでいた。

 制服の青年警備員は、保安員の顔を一瞥し、二、三度だけ頷いた後、何も言わず静かに部屋を出て行く。

「このまま、警察ですか?」

「当たり前だ」

 率直に答えた保安員の声が、重くのし掛かる。解っていたことだった。だが、それでも口に出さずにはいられなかった。

「でも、俺、この後……」

「お前の事情なんか、知ったこっちゃないな。自分が何をしたのか考えろ」

 先ほどの青年と同じことを、保安員が口にした。その意味を、忍はようやく理解した。人の物を盗んだ。盗まれた物は、沢山の人達の手により作られ、運ばれ、売られた物だ。店の人達だけじゃない、目に見えないその後ろにいる人達の仕事と誇りにまで泥を塗ったのだ。

 一般的にはただの万引きだと、軽視されるかもしれない、しかし、それに生活をかけている人達もいるはずだ。

 大変なことをした。そんな自分に何を言える。この人達の都合に、自分都合など関係が無い。それだけのことをしてしまった。

 覚悟を決めた忍が、震えながら保安員へ顔を向けた。

「お前、いくら持ってる?」

 強面の保安員が、眉間にシワを寄せたまま、まっすぐ忍の顔を覗き込んだ。

「二百円くらい……」

 そう答えた直後、保安員は副店長と顔を合わせ、互いに頷いた。

「もう、この店には来るなよ」

「え?」っと間抜けな声を上げた忍に、低い声で凄みを利かせながら、スーツの保安員は呆れたと、わざとらしく溜息を吐くと、そのまま続けた。

「金があるなら払えよな。反省しているようだし、店の方も今回だけは許してくれるそうだ。商品は買って行け。いたずら心なのか、気が立っていたのか知らないが、もう、馬鹿なことするなよ。俺だって本当はこんなことしたくないんだ」

 首を振った保安員に続き、副店長が複雑な表情を浮かべながら口を開いた。

「原則入店禁止になりますので、見つけたら、次は警察へ連絡させてもらいます。あなたは、お客様ではありません」

 静かに抑揚のない副店長の機械的な台詞は、自分が人間のルールを逸脱した行いであると釘を刺した。つまり、今の忍は人間ではない。虫けら以下の存在だった。

 気が抜けたように、上半身がガックリと項垂れた瞬間、一気に情け無さで涙が溢れた。

「済みません。済みません」と、二人に何度も頭を下げ、震える手で財布から百円玉一枚と十円玉二枚を机の上に置き、保安員に促されるように立ち上がる。

 副店長から手渡されたチョコレートバーが、酷く重かった。

 警備室から追い出された頃には、時計の針は既に四時三十分を廻っていた。

「急がなきゃな」

 チョコレートバーを泣きながら貪り、自転車に跨ると、忍は力一杯ペダルを踏みしめた。


―※―

 そこは、小さなスタジオだった。狭い防音室内には、ステージと呼ぶには低すぎる土台と、簡易椅子が二十卓ほど並べられている。客も半分しかおらず、ライブと言うより、小さな演奏会と言うのが関の山だろう。

 ステージの裏の物置件待機室には、参加者が衣装合わせや、楽器の最終調整をしていた。

「まずいな……」

 酸素ボンベのチューブを鼻に付けたまま、アッシュブラウンに髪を染め直し、メイクを終えた鈴乃が、髪を掻き上げて汗を拭った。

 紅いレザードレスが少しキツい。狭い部屋の熱気のせいもあるが、鈴乃の体調は良くなかった。朝から体が怠い。酸素ボンベをアキラに引っ張ってもらい、会場まで来たは良いが、頭がぼうっとしたままだ。

 傍らの紙袋から、無造作に薬を取り出す。数は二十近くなるだろうか、粉薬や錠剤、果ては水晶のような塩の結晶まである。

「前に少し見たけど、随分と多いな」

「ん? まあね。でもいつもこんな感じ」

 鏡越しから声を掛ける誠司に答えながら、数回に分け錠剤と粉薬を飲み干し、塩の結晶をまるでりんごを食すように囓る。

 ぼさぼさの頭をオールバックにし、スーツを着込んだ誠司の姿は、どこかの上流階級の紳士と言えるほど様になっていた。

「アキラは?」

「隠れてスタジオの様子を見ているよ。それにしても、心臓の病気だとは聞いていたけど、手術はしたのか?」

「大体四、五回くらい。癒着が酷くて、手術はあと一回できるかどうかみたい。だから、薬で何とか調整しているって感じかな?」

 しかし、その薬も残りも僅かとなっていた。

「血圧を上げる昇圧剤と強心剤、不整脈の薬、利尿剤…ナトリウムの摂取のための塩・・・これは岩塩か?」

「よく分かるわね。誠司って自分のこと話さないけど、薬剤師でもやってたの?」

「それはお互い様だろ。忍じゃないが、正直、お前が病院を抜け出した理由が分からない。動機くらい教えてくれても良いんじゃ無いか? これから演奏するのに、迷いがあるのはチームとして不安がある」

 ほんの少し、訝しむような表情を浮かべた誠司が腕を組んだ。

 鈴乃は躊躇いつつ、暫く薬の袋と鏡に映る自分の姿を見比べながら、意を決し口を開く。

「私ね、病院にいた時に見せ物にされてたんだ。当時じゃ珍しい病気で、生きてるはずがない体なんだって。それで、研修医とか別の病院のお医者さんが、よく私の体を見に来てた」

「それが嫌で飛び出したのか?」

「じゃないけど、でも、自分の技術を見せびらかすような医者達が凄く嫌だった。私は他人の成果や結果で、私自体が誉められた訳じゃないし……それでも、医師や看護師のお姉ちゃん達は良くしてくれたし、嫌いって訳じゃないのよね。というよりも、半分家族みたいなもんだったけど」

「どんな症状か解らないが、正直、今の状態でステージに上がるのは辛いだろう?」

「ちょっとね。でも、このまま何もしないのもアキラや貴方に悪いし、それに……兄貴にだってね。私は、兄貴にとって何の価値もない。でも、私には、私自身の価値が欲しい。私はここまでやれるんだって自信もね」

 そう言い終わった刹那、待機場所の扉が開き、係の青年が鈴乃達の番だと声を掛けた。

 それを聞いた鈴乃は、鼻に着けたチューブを投げ捨て、タン! と大げさに床を蹴り胸を張った。

「今日は誰のものでもない、私自身の成果を見てもらうの!」

 薬の残りから考えて、逃亡生活もあと二、三日が限度だ。口には出さなかったが、それはアキラも誠司も理解している事実だった。

 最初で最後のチャンス。鈴乃とアキラと誠司の一ヶ月の成果。それに全てを賭けるため、鈴乃は勢いよく準備室の扉から飛び出し、いの一番にステージへ立った。

「鈴乃! 誠司! 行くよ!」

 鈴乃に続き、マイクを掴んだアキラが二人に活を入れた。

『次は初参加、オンリーワンで、Self satisfaction(自己満足)』

 その紹介を合図に、誠司のギターが鳴り、鈴乃が鍵盤に指を置き前奏が始まった。


―※―

 ショッピングモールのエスカレーターを全速力で疾駆する。警備員に呼び止められても、無視は当たり前だ。

 息が苦しい、足が沸騰したように熱い。筋肉が軋む。それでも忍は走った。

 ヤマト楽器を前にした忍は、見知った店員の後ろ姿に声を掛けた。

「健太!」

 昔なじみの同級生が、反射的に振り向いた。

「忍? どうしたんだよ!」

 息を切らせ、血走った瞳の忍に仰天し、健太が素っ頓狂な声を上げた。

「今日はチケット有るから入れてくれ」

 クシャクシャになったチケットを握らせ、倒れるように健太の肩に寄りかかる。

 健太は「どうしたんだ」「何があった」と声を掛けるが、忍の耳には届かなかない。

 足は自然とスタジオの防音扉へ向けられ、気が付いたらドアノブへ手をかけていた。

(鈴乃……アキラ……誠司・・・・・・)

 カチャリとドアが開く。靴を脱ぎ、カーペットの床に足を乗せる。ギターの音が聞こえ、そのままステージの正面に立った。

 ガタン!と、重いものが落ちるような音がしたその一瞬のこと、スタジオにいた全ての人間が静まりかえった。

(え? 何?)

 何が起こったのか全く分からなかった。目の前の光景が信じられなかった。ステージの中心で、アキラがマイクを持っていた。その右で誠司がギターを鳴らしていた。しかし、左側では電子ピアノを鳴らしているはずの鈴乃の姿が無い。

 言い知れぬ不安と疑問が忍を混乱させ、鈴乃がいるはずの位置をもう一度確かめる。瞳が認識したのは、ステージから落ちた電子ピアノ、その上に倒れた紅いレザードレスの少女。

「!!!」

 自分が声と表現できない奇怪な絶叫を上げていると理解したのは、ステージの上に立つアキラと誠司が倒れている鈴乃に駆け寄った時と同じだった。

 一気にスタジオは騒然となり、その場にいた観客が一斉に席を立った。

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