第2章 孤立
「おはよう。遅いお目覚めね」
相変わらず薄着のアキラが、トーストを加えながら軽く手を振った。
午前十時十五分、昨夜は家族のことや鈴乃のことを考えて、なかなか寝付けなかった。眠気眼のまま何気なくリビングに立った忍は、目を疑う光景に呆然としていた。
テーブルに置かれた四人分のトーストと目玉焼き。そして、ゴミや脱ぎっぱなしの衣類で満たされた床は、茶色いフローリングの姿を見せていた。
「部屋綺麗でしょ。鈴乃が朝から掃除してたみたい。食事も良ければ食べてって、言われたからありがたく頂いてるわ」
アキラの話では、鈴乃とは入れ替わりでリビングに入ったらしい。アキラに食事を託したあと、当人はさっさと部屋に引き籠もってしまったそうだ。珍しく、まともな朝食にありつけたアキラは上機嫌だが、忍はあまり良い気がしなかった。
「見かけによらず、良く出来た妹さんだわね」
「アイツの見たくれのことは言うなよ。俺だってアレには困惑してるんだ」
溜息を吐きながら、諦めたと忍は肩を落とした。
「まあ……正直、あれだけ変貌して帰ってくればねぇ……心中察するわ」
仏壇でも前にしているかのように、手を合わせるアキラを一瞥し、忍はトーストに齧り付いた。
考えてみれば、トースト一枚を食すのも久しぶりだ。こんなに簡単なことをしようとしなかった、自分の家事に対する怠惰な性格を見せつけられる。
「忍、悪いんだけど鈴乃からCD借りてきてよ。スマップの初期メンバーのアルバム」
「結構古いな。自分で行けよ」
「だって、昨日の今日で貸し借りってのも気が引けるじゃない」
家族ごっこの提案をしておいてこれか。と、忍は呆れつつも、一応の礼儀はあるようだと、不覚にもアキラを見直してしまった。
実際、少し話しをしなければと言う考えは有ったし、口実には丁度良いのかもしれない。
「了解。ついでにプレイヤー持ってくるから、MDに入れとけよ」
そう言うと、忍はトーストと目玉焼きを口に詰め、リビングを後にした。
しかし、正直、二階へ上がる足取りは重かった。階段の一段一段上るたびに、誰かが足を掴んでいるのではという錯覚に陥る。用が無い訳じゃない。ちゃんと理由はある。しかし、忍にとって鈴乃が苦手な存在であることは変わりない。
本当に大丈夫なのだろうかという不安と緊張。部屋へ近づくに連れ、それが大きくなる。しかし、ここは『兄』としての最低限の責務と、鈴乃の今までの事情は聞き出しておいても良いのではと言う、ある種の使命感が不安を払拭しつつあった。
部屋の前でノックを三回したあと返事を待ち、ドアノブを引いた。とりあえず、出だしは良しだと、慎重に行動を確認しつつ鈴乃の部屋に入る。
「兄貴か……どうしたの?」
机の上のノートパソコンを開いたまま、岩塩の結晶を囓りながら、ジャージ姿の鈴乃が背中越しに声を掛けた。
「そんなもん囓ってって、舌がおかしくならないのかよ」
「そうでもないよ。そんなにしょっぱくないのもあるし、嫌いじゃない」
変わった趣味だと思いつつ、忍は用件だけさっさと済ませて帰ろうと、本題を口にした。
「アキラがCDを貸してくれって。あとプレイヤーも頼む。MDに録音できるやつ」
「MDへ録音? ずいぶん骨董品ね。メモリーとかのプレイヤーに保存しなくて良いの?」
「アイツ、ポータブルのMDプレイヤーしか持っていないから」
「ふーん。じゃあ、ベッドの横のラックに入れてあるから適当に見繕って」
「スマップの初期のアルバムってあるか?」
「左からリリースされた年代順に並んでるわよ。それにしても、随分古いわね」
鈴乃は少し不機嫌そうにキーボードを叩いている。一瞥もせずにこの淡々とした態度は癪に障ったが、ここは我慢しようと、忍は心の中で両手を上げた。
久しぶりに入ったが、鈴乃の部屋は凄く簡素だ。簡易用の椅子と机に載せられたノートパソコン、介護用のベッド、その隣には小物や本、CDなどが並べられたアルミのラックに、自宅用の小型の酸素呼吸器が一つ。その上に無造作に置かれた薬の紙袋は、軽く十袋を越えていた。年頃である十代の少女の部屋にはとても思えないものだ。
ただ一つ、鈴乃が膝の上に載せているパグの縫いぐるみを除いては。
「随分お気に入りだな。そのパグ」
「まあね。中には砂みたいなビーズが入ってて、抱き心地も良いし」
「一昨年くらいから、病院に置いてあったな」
「どうしても寄りかかって寝ないと、うつ伏せになるから。今じゃ相棒みたいなものよ」
原因は不明だが、胸部や腹部を手術した人間の中には、うつ伏せになって眠ろうとする傾向を持つ人がいるらしい。鈴乃もその内の一人だ。
しかし、鈴乃はうつ伏せで眠ることを許されない処置が施されており、縫いぐるみに体を支える形で眠るようにしている。
「寝ていて疲れないか?」
思わず気遣う自分に少し戸惑ったが、自然とその言葉が発せられた。
「もう馴れた」と、パソコンのキーボードを叩きながら、鈴乃が素っ気なく答えた。
「悪いけど出てってくれない? 少し疲れた」
ラックに立て掛けられたCDと床に置かれたMDラジカセを手に取り、忍は少しだけ躊躇いつつ口を動かす。
「鈴乃、お前、病院で何かあったのか? せめて母さんに連絡を入れた方が」
「兄貴には関係ない。余計なことしないで出て行って、もう、ウザイ!」
鬱陶しさを振り払うように、鈴乃が突然声を荒げた。
「おいおい、ちょっと待て。俺は喧嘩をしに来た訳じゃ……普通のことだろ?」
突然の豹変に戸惑いながらも、忍は冷静に説いた。だが・・・・・・。
「もう、ほっといて」と振り返った妹は、冷たく目を細め、見下すような表情で忍の心を突いた。『何も分かっていないくせに……』そう言った感情が察せられる。
「事情が分からなくて匿って置けるか! 倒れたらどうする」
「自分でやるから良い。兄貴に何ができるの? 母さんと病院に連絡するだけなんて、小学生でもできるじゃない。何かあったらそれだけやって、今は何もしなくて良いから」
「いい加減にしろ!」
あまりの理不尽に怒りがこみ上げ、忍はラジカセを投げ飛ばし、鈴乃へ詰め寄ろうとした矢先、その行動は肩に置かれた大きな手により阻まれた。
「もう良い、行こう忍」
優しく発せられた声は誠司のものだった。誠司は床に転がったラジカセを拾い上げ、ラックから数枚CDを取り出すと、涼しげに鈴乃へ笑いかけた。
「アムロのアルバムも借りるよ、俺の青春時代だ。あと、あまりお兄ちゃんを虐めるなよ」
「他人が何を言ってんの?」
「まだ言ってなかったか? 俺は昨日から皆のお兄ちゃんだ。だから鈴乃ちゃんも俺の妹ってこと。兄妹喧嘩は御法度だ。じゃあ、そう言うことで」
「はあ?」と、素っ頓狂な声を上げた鈴乃の声を背にし、誠司に首根っこを捕まれた忍は、部屋の外へと引きずり出されてしまった。
「邪魔すんなよ誠司!」
「疲れてるって言ったらほっとけって言っただろ。それに、いつでも聞けることだ」
不服だと言わんばかりに深い溜め息を吐きながら、忍は額に手を当てた。
「誠司、今も何を優先すべきかお前だって分かってるだろ。親が来たらどうするんだ?」
「あの子はお前に甘えているだけだ。まあ、ああ言う甘え方は、本人に自覚は無いだろうけど」
「アレが甘えかよ。すっげー迷惑だし、ウザイんだけど」
「お前には、まだ少し分からないか。まあ、アキラみたいに直接的じゃないしな」
苦笑する誠司だったが、忍の心は不平と不満で一杯だった。
「とにかく、構い過ぎると機嫌損ねるから、ウザイとか言われたら逃げろってことだ」
「んなこと、訳わからねーよ」
忍はわざとらしく口を尖らせ、踵を返した。
―※―
昼食は、冷凍のエビピラフと簡単な酢の物だった。先ほど誠司が買い出しに行ってきたもので、予算は鈴乃の自腹とのこと。忍は気にくわなかったが、調理までしてもらっては文句の付けようがない。
ダビングのために、アキラが起動させたラジカセから流れるBGMは、食事の空気には合わない慌ただしい曲が多かった。
忍達が四人そろって食事をするのは初めてだ。先ほどのこともあり、全員が全員、無言のまま食事を口に入れる。
四人で食事。と言う奇妙な光景、自分と両親と妹。そんな当たり前の四人家族の食事は、忍には縁が薄いものと考えていた。だが、今はそれに近い光景が目の前にある。幻を見ているような、不思議な感覚だった。
「やっぱ、スマップは良いよね」
唐突にアキラが鈴乃へ声を掛けた。
「なによ急に」
少し驚いたのか、鈴乃の背筋がシャチホコのように仰け反り声を裏返した。
「いや、何となく……初期の六人でいた時も味があって良いなって思って。私、見たことないし、何かちょっともったいない気がして、鈴乃は知ってる?」
「私も小さい時に少し見たことがある程度で、覚えている訳じゃないけど、抜けたメンバーも夢を追いかけてそうなったんでしょ。世代が違うし、あんまり興味があった訳じゃないけど、それくらい知ってるわ」
アキラとは目を合わせず、鈴乃が素っ気なく答えた。
「そう、それ! 夢に向かって自分に嘘を吐かない人生を選ぶ。その心意気は、本当に格好いいと思うよ」
腕を組んだアキラが、まるで往年の人生を語る老人のように、頷きながら語った。
「母はその人のファンだったみたいだけど、抜けるって聞いた時は、残念がってたかな」
「なるほど、新しいのだけじゃなくて古い曲のCDが多いのは母譲りのものか」
アキラと鈴乃が同じ趣味の話で華を咲かせつつあるようだ。忍にとっても好都合だったが、どことなくモヤモヤした気持ちになり、無言で席を立った。
「忍?」と、不思議そうな顔で、アキラが声を掛けた。
「ちょっと、出かけてくる」
視線を逸らしながら、忍はそれだけを告げると、リビングをあとにした。
―※―
「ガキだな、俺……」
何も考えずにその場を逃げ出した忍は、呆然と空を眺めながら国道沿いの歩道を歩いていた。車道の車は途切れることなく、風切り音が忍の耳を絶え間なく掠める。
「なに、やってんだろうな」
特に夢も理想も無い。鈴乃のために我慢を強いられる毎日。それが正しいことだと刷り込まれてきた。だが、一歩離れて見ると、それは自分のためでないと言うことに気が付く。まさに、無駄な時間だった。そう思うと、今の鈴乃を見ていることが恐かった。ドラマのようなフィクションなら、自己犠牲の美談で済ませられるかもしれない。だが、忍にそんな気は死んでも起きないだろう。
誰も忍を責められない。他人よりも自分が大事。というのは極限状態の人間にとっては、当たり前の結論なのだろう。
「アレ? 忍じゃないか?」
擦れ違いざま、学生服の青年に声を掛けられ忍は驚いた。中学の頃の同級生だ。
「うを、久しぶり。元気だったか? 中学の卒業式以来だから、一年半ぶりくらいか?」
「健太? あ、ああ」
戸惑う顔を隠しきれず、忍は俯いて答えた。
「妹さんはどうだ? 元気にしているか?」
「今は家にいるけど……何とかやってるよ」
「そっか、お前も大変だなぁ。何かあったら携帯にでも連絡くれ。じゃあ、頑張れよ」
相変わらずだなと安心しつつ、やはり旧友でも鈴乃のことに対してはこれくらいの声掛けが精一杯なのだろう。『大変だな』『頑張れ』その励ましは、何万回と聞いたものだ。
裏を返せば『自分には何もできないから』『お前はお前で頑張れ』と言った、所詮は他人事。ねぎらっているつもりでいる自分を誤魔化す言葉の羅列。忍と接する人は自分を非情な人間と思いたくなくて、心にも無い言葉を紡ぐのだ。
今の忍には、他人の言葉をそう解釈するほど摩耗した。旧友の背を眺めながら、忍は暗闇に放り出された気分になる。自分の時間は鈴乃に奪われ、今も蝕まれ続けているのだ。忍は友人を遠い存在に感じ、そんな様々な想いを巡らせていた。
―※―
忍が家を出て暫くして、アキラは風呂場の前に立った。現在は鈴乃が入浴中だが、親睦を深めるために、一緒に入ろうという結論に達したのだ。と言うよりも、実際は単にいたずら心と甘えから来るものだったが、本人にそんな自覚はない。
「鈴乃、一緒に入ろう」っと、勢い良く扉を開き、鈴乃の姿を確認する。
シャワーの水しぶきに濡れた白い肌と細い手足、一つ上の歳のはずだが、自分よりもずっと小柄な身長と体格は、見ように寄っては小学生くらいにも見える。
裸体の鈴乃と向き合ったアキラは、意外な光景に言葉を失った。見たくれが小さいとか、そう言う話ではなく、鈴乃の胸から腹部まで禍々しく引かれた一線の傷。左右の乳房の上の方には、五センチほどの楕円形の盛り上がりが不自然に付け加えられていた。
「あ、あの?」
言葉が出なかった。手術をしていると忍から聞いていたが、実際そう言った人間を見たのは初めてだった。
「入るなら、入るって言ってよ」
冷ややかに発せられた、ナイフのような鈴乃の言葉が、アキラの背筋に悪寒を走らせた。
「醜いと思う?」
「え?」硬直したアキラが思わず声を漏した。
「でも、私はそうは思わない。この傷は私が生きるために必要なもので、存在の証だから。と言うよりも、物心つく前からあったから、醜いかどうか判断できないんだよね」
「そんなこと……その、ゴメン」
俯いたまま、アキラは一歩も動けなかった。ただ、鈴乃が浴室から出て行くまでずっと佇むことしかできない。そう感じたのは、彼女が浴室から出た瞬間だった。
風呂場の扉が閉まる音を聴き、アキラは気が抜けたように膝を床に落とした。
『ゴメン』と言う言葉に何の意味を込めたのか、自分でも理解できない。勝手に風呂に入ったことか、驚かせたことか、それとも――
「馬鹿だ。アタシ」
裸のまま、膝と手を床に付けシャワーの水に打たれながら、心の底から、自分自身を軽蔑した。どういう訳か、涙が溢れた。ただ、床の一点を見つめ体を震わせる。
(何も・・・言えなかった・・・・・・)
自分があの瞬間、脳裏に何が過ぎったのか思い出せなかった。
それを鈴乃に対する侮辱だと、アキラは気づいてしまった。
そんな光景が五分ほど続き、赤みがかった長い髪がたっぷり水を含んだ頃、その髪はぶわっと豪快に翻された。
(これじゃ、ダメだ!)と踵を返したアキラは濡れた体のまま風呂場を飛び出し、鈴乃の部屋へと上がり込んだ。
案の定、鈴乃は部屋でパソコンを開き、何か調べ物をしているようだが、そんなことは気にしない。アキラの存在に気づいた鈴乃も、何事かと体を向けた。
「アキラ?」
鈴乃に初めて名前を呼ばれたが、些細なことだ。アキラは大股開きで鈴乃に近づき、ピシャリと両手を合わせる。
「ゴメン! 傷見て、びっくりしてゴメン!」
何のことだと不思議そうな表情を浮かべ、鈴乃が目を丸くした。
「え? ああ、本当に気にしてないから、考え過ぎだよ。びっくりして当たり前だし……」
慌てた鈴乃が、タオルケットで裸のアキラの体を覆う。
「ホント?」と、恐る恐る目を開き、アキラは問いかけた。
「私もちょっとへそ曲げただけだから、本当に気にしなくていいから……ああ、びしょびしょじゃない。私が悪かったわよ。ちょっと意地悪しただけ」
あたふたしたまま、鈴乃がタオルケットの上からアキラの体を拭き始める。所々くすぐったかったが、アキラは布越しから感じる鈴乃の温もりに安心した。
「鈴乃」
「何?」と、半ばぶっきらぼうに鈴乃が聞き返した。
「料理、教えてくれる?」
―※―
鈴原忍はずっと一人だった。
気づいた時には、幼稚園や小学校が終わると親戚を盥回しにされ、夜中に帰ってくる父、又は母と共に家路について眠った。
友達と遊ぶ時間もなく、寂しかった。だが、その孤独は誇りや使命に感じていた。
「鈴乃ちゃんが大変だから」「お父さんとお母さんの支えに」「お兄ちゃんなんだから」親戚や周りの大人はそう忍に言い聞かせた。
障害を持つ妹を持った兄。自分が我慢しなければならない。
兄なのだから当然だ。だが、それが忍のためではなく、大人の都合であることを忍は知らなかった。
小学校四年生くらいだろうか、鈴乃が退院し、忍の通う小学校へ編入してきた。
病院暮らしを終え、普通に学校へ通えるとを喜んでいたが、子供では予期せぬ出来事が起きた。母が妹に付きそう。それが学校、市から出された条件だった。
当然、周りの生徒は困惑した。もっとも、あまり目立たないようにしていても、校内に保護者がいるという時点で、イレギュラーな状態であることは忍にも理解できた。
さらに追い打ちをかけたのが、妹がクラスと馴染めなかったことだ。おかげで、見ず知らずの下級生に後ろ指を指されることもあった。子供は無邪気で残酷だ。
学校と言う大人と子供の境界線が混沌とした社会の中、そういったイレギュラーは、恰好の標的となる。それはイジメではない。学校(社会)からあぶれた者へ対する疑問だ。
忍はそれすらも試練と考えていた。ちっぽけな正義感、困難、使命感、そう言ったものが自分を強くする。そう思っていた。
それと同時に、鈴乃へ対する黒い感情が芽生えていたことすらも、いつの間にか正義の証しとして、認識してしまった。
―※―
(嫌な夢を見た)
午前八時。昔の自分の夢を見た忍が、うすら眼のまま体を起こした。軽い頭痛と目眩を感じ、思わず両手で頭を抱える。
「クソッ! 頭が変になりそうだ」
夢にすら現れるトラウマ。過去に囚われる自分への苛立ち。自身のセーブが効かない状況に戸惑いながらも、とりあえずベッドから足を降ろす。
疲れた。と額に手を当てた瞬間、「おっはよう」っと、甲高い声が耳に響いた。
ドアを開き、セーラー服の少女が笑顔を見せる。
「鈴乃の中学の時の制服だけど、似合う?」
長い髪を後ろで纏たアキラが、ステップを踏んで一回転して見せる。
「ああ、似合うよ。ムカツクほどな」
誉められているのか、貶されているのか解らず、アキラは不思議そうに小首を傾げた。
「悪い。何か俺、ちょっと疲れてるみたい」
「ま、しょうがないか。忍は鈴乃のこと苦手みたいだし、朝ご飯作ったから早く来てね。お兄ちゃん」
歌うように、軽い足取りでアキラが部屋を出た。
『お兄ちゃん』その言葉が脳内で反芻する。
やり場の無い、言い知れない感情を込めて投げた枕がドアへ当たり、鈍い音を起てた。
「クッソォ……その服で、お兄ちゃんなんて呼ぶなよ……」
拳を握り絞め、歯を食いしばり、ようやく洩らした言葉がそれだった。昨日のように鈴乃から逃げ続け、苛立っていても仕方がない。忍は意を決してリビングへ向かった。
テーブルに並んだのはピザトーストとベーコンエッグ、レタスとパプリカのサラダとコーヒーという、今までの忍達からしてみれば豪勢な朝食だ。
四人でテーブルを囲み、「頂きます」の合図と共に各々が食事を始める。
忍は無言のまま食事を口へ運び、誠司は新聞を読みながらコーヒーを啜り、アキラと鈴乃はもう昼食の献立の話を始めていた。
特に気にすることではなかったが、この二人はいつ親しくなったのだろうと忍は疑問を持ち、それとなく観察していると「兄貴」と、突然鈴乃が声を掛けてきた。
意表を突かれ、口に入れたパンで危なく窒息し掛けるところだった。
「お金渡すから、アキラとタマゴの安売り行ってきて。私は洗濯とかやってるから」
「何でお前が勝手に仕切ってるんだ。俺は疲れているんだ、寝かせろよ。掃除とかマジでうるさいし、静かにやってくれ」
「無茶苦茶言うわね兄貴。病持ちの私がせざる得ない状況だってこと、少しは察してよ」
目を合わせず、舌打ちする鈴乃の一挙一動全てが癇に障る。
「うるせーよ。大体、お前本当に体が悪いのか? そんなに動けるなら、仮病じゃないのかって疑われてもしょうがないぞ」
「忍、そんな言い方ないじゃない。この朝ご飯だって殆ど鈴乃が作ってくれたんだから」
「別に作れなんて言ってない。マジでウザイし。俺はカップ麺でも喰ってるよ」
台所の棚からカップ麺を取り出し、忍はふてぶてしくヤカンに火を付けた。
「忍!」と、動揺と微かな怒りから、アキラは思わず椅子を引いた。
「別に良いわよアキラ。兄貴は昔から勝手気ままにやっているワガママ兄貴だから」
少し怒りを込めた口調だが、鈴乃はアキラを説き伏せると、素知らぬ顔で食事を続けた。
「そりゃ、そうかもしれないけど――」
「やめろ、アキラ」
珍しく、誠司がアキラに対して横槍を入れた。
「俺が行く。忍は怠惰で忙しいようだしな」
「誠司、お前!」
普段ならからかっているだけだと無視できたが、今の忍には全てが癇に触った。誠司にすら牙を剥きかける自分が抑えきれない。
「とりあえず、長兄役の俺が言うんだから、次兄のお前は言うことを聞け」
兄役の特権と言わんばかりに、誠司は腕を組んでフフンっと得意げに笑みを洩らした。
忍は疑似家族の件を思い出し、渋々意見を切り替える。
「やっぱ、俺が、買い物行く……俺に行かせてくださいお兄様!」
その場から逃げ出したい勢いで、忍は声を荒げた。結果的に鈴乃の言うことを聞く形になって面白くないが、それ以上に、今の状態で、鈴乃と一緒にいられる自信がなかった。
―※―
「らしくないよ忍。何かあったの?」
買い物へ行く途中、アキラが小突いてきた。
「分かってるよ。でも、どう接したら良いのか分からない。だから余計に苛ついて」
「マザコンの次はシスコン発動? さすがのアタシも手にあまりあるわね」
「うるせーな。俺だって自分がどうかしていると思うよ。大体シスコンって妹や姉を異性の対象にする奴のことじゃないのか?」
「コンプレックスって、極端に意識する、劣等感。正確にはそう言った意味だって誠司が言ってた。今のアンタにぴったりじゃない」
一歩前に出たアキラが、偉そうに人差し指を立て、博士的に語って見せる。
正直、小生意気だと思うも、結局は図星になるので出来るだけ表に出さないようと、忍はポーカーフェイスに勤めた。
「アイツの前だと、どうしてもああ言う態度を取っちまう、昔からそうだ。初日は意表を突かれたけど……」
「今度はツンデレ? アンタ属性多すぎ。」
「よく解らないけど、俺は本当にアイツのことが……嫌い……なんだと思う」
嫌い。本当にそうだろうか? だが、今までの言動が、自分が鈴乃を嫌煙していると決定している。無意識に足を止め、俯いたまま忍は声を震わせた。
「先行くぞ」
速歩でアキラを追い越し、忍は彼女の顔を見ずに歩みを進める。だが、アキラも歩幅が違う忍に対し、小走りで競り合った。
「何で付いて来るんだよ」
「一緒に買い物行くんでしょ。大体、財布持ってるのそっちだし、付いて行くしかないじゃない。それとも、一人になりたい」
「ああ、なりたいね」
「それは嘘。だったら、夜の内に家出てるでしょ。寂しいから構ってもらおうと反発して、結局、図星突かれて怒ってるだけ。意地を張らずに、少しは人の言うこと聞いたら?」
「何が言いたいんだよ」
「何度も言わせないで、アタシ達は今、家族ごっこしてるんだから、ちゃんとごっこしてよ。元々はアンタを鈴乃に慣れさせるアイデアなんだから。それに、鈴乃は良い娘だよ」
「仲良くなれって、言わないんだな。夕べは血の繋がりがどうの言ってた割には」
「仲良くなるって人に言われてなれるモンじゃないでしょ。血の繋がりって言ったって、私には分からない未知の何かがあるんじゃないかって、勝手に思ってるだけだよ」
既にランニングをしている状態のアキラが、息を切らせながら答えた。
「それが余計なお世話って言うんだバーカ」
「馬鹿って言う方が馬鹿なのよ忍のアホ!」
図星だった。鈴乃のことになると色々と踏ん切りが付かない自分に苛立つ。だが、その苛立ちのトリガーになるのがいつも鈴乃であることを、忍は承知していた。根本的に不快感の原因が反応する瞬間が何なのか、忍には見当がつかないのも事実だ。
この感覚が、本当に鈴乃に対しての怒り、苛立ちなのか、それは忍自身が何年も、何度も手を伸ばしても、届かない答えだった。
(アキラの言っていることは理解できる。でも、俺の気持ちは鈴乃が許せない。アキラは俺の気持ちが本当に分かっているのか?)
十四歳の少女、しかも学校へは行ったこともないと言う。集団生活というものを理解していないはずの子供だ。人と人の中で嫌なものを見続けてきた忍には、アキラの考え方は無責任で理解しがたいものだった。
鈴乃に対しての感情は、アキラの言う通りなのかもしれないが、それでも感情が付いて行けない。だが、一つだけ分かることがある。
(俺は鈴乃を憎んでいる)
―※―
アーケードを潜り、目当ての品を確保しつつ、その間に色々立ち寄っていると、忍とアキラが帰宅した頃には、正午を過ぎていた。
買い物の途中、食料だけでは心許ないというアキラの意見で、日用品など、四人暮らしに必要なものを一通り揃えることとなった。
実際、忍はその誘いはありがたかった。どういう顔をして鈴乃に会って良いのか分からない。その間に何か良い案でも出ないかと頭を捻ったが、結局、何も浮かばなかった。
「お帰り、遅かったわね」
掃除機を引っ張りながら、鈴乃が気怠そうに声を掛けてきた。
「色々買ってきたよ。パジャマとか歯ブラシの新しいの」
元気良くはしゃぐアキラが、買い物袋を思いっきり持ち上げて見せる。
「兄貴もお疲れさん」
「おう。お前も、大丈夫かよ」
忍は相手の顔を見ず、とりあえず妹を気遣うフリをして見せた。(まずはフリから)。と言うのが咄嗟に出た忍の答えだった。
「どうしたの兄貴?」
先ほどとは違う兄の態度に、鈴乃も戸惑っているようだ。どうもギクシャクした空気に、忍はやるせなさを感じた。
「違う。そうじゃない。こんなのは違う! 俺じゃない。俺らしくない!」
「ちょっと忍?」
「兄貴!」
部屋に飛び込み鍵を閉め、忍はベッドの中で身を丸めた。体が言うことを聞かない。拒絶反応と言った方が良いのだろうか、忍は自分の理性ではどうしようもないほど、鈴乃を拒絶していた。
思い返せば、昨夜の夢のトラウマは、強烈な拒否反応だったのかもしれない。相反する理性と感情に加え、体までバラバラに動き出す。
吐きたくなるほどの自己嫌悪。それは、鈴乃に対する恐怖から来るものだった。
―※―
「忍。鍵くらい開けろ」
何時間経ったのだろうか。誠司の声で唐突に我に返った忍は、布団から体を起こした。
「誠司。俺、寝ていたのかな?」
自分が本当に起きているのか確認するように、扉越しの誠司へ問う。
「もう、夜の八時だぞ。アキラも鈴乃も心配している。とりあえず出て来い」
いつまでも引き籠もっている訳にも行かず、誠司に連れられリビングへ促された。
リビングでは、母がストレス発散のために購入したカラオケマイクを手にして、アキラがテレビの前で何やら歌いまくっていた。
「あ、忍、おはよう。心配したんだよ」
テレビから流れるエコーのかかったアキラの声が、酷く耳障りだった。とても心配しているようには見えなかったが、そのせいで毒気が抜けてしまった。
「歌が好きだって言ったら、鈴乃が用意してくれたの。旧式だから二〇〇〇年くらいまでの曲しか入っていないけど、十分使えるよ」
呆れと怒りを込めて、鈴乃を睨み付けると、さすがに鈴乃もこれは失敗だったと、気まずそうに『ゴメン』と口を動かした。
「二時間以上この調子だ。お前を出すための天の岩戸作戦だとか。聞こえていたか?」
呆れ顔で首を振り、誠司は溜め息を吐いた。
「いいや、全然。近所迷惑だからやめてくれ」
率直に適切な感想を述べる忍だが、ノリノリで輝くように歌って踊りまくるアキラを止める勇気は無かった。
「どうするんだよ、これ」
「飽きるまでやらせれば良いんじゃない」
そう言った鈴乃が、ソファと壁の間から、長細い鍵盤を引きずり出す。それは鈴乃が小学生の頃、父から買ってもらった電子ピアノだった。
「少し新しい曲も弾けるけど、やってみる?」
「あ、ウタダやってウタダ!」
「普通に古いところ突いてきたな、せめて、ももクロくらいリクエストするかと思ったが・・・・・・」
「止めろよ誠司!」
誠司の体を揺すった直後、鍵盤の上に置かれた鈴乃の指が、流れるようにキーを叩いた。
左右の腕、十本の指。その全てが別の生き物のように縦横無尽に鍵盤の上を踊る。一瞬見とれたアキラも、慌てるようにマイクに向かい声を発する。その時間は五分ほどだった。
「凄いよ鈴乃!」
演奏終了と同時に、アキラが鈴乃に抱きついた。
「楽譜とか無くて、よく弾けるわね」
「前に一回聴いて、弾けるかなと思って弾いたことがあるから……今回はブランクあったから自信はなかったけど……」
「一回聴いただけ?」と、さすがに誠司もアキラと共に声を上げた。
鈴乃の数少ない昔からの特技だ。彼女は一度聴いた歌や曲を音で覚え、その音を鍵盤から探して繋げると言う作業で演奏をする。
もちろん、楽譜など無い。と言うよりも、鈴乃は楽譜が読めないのだ。なので、音を耳で覚え、又は演奏したものを目で覚える。その技術は、忍も認めるしかなかった。
「凄い! 天才じゃん鈴乃」
「でも、キーを探すまで時間がかかるから、結果的に効率が悪いと思う。みんな一回聴いたり見たりしただけじゃ覚えないの?」
鈴乃が不思議そうな顔で、アキラと誠司を見やった。
「ねえ誠司。鈴乃と三人でバンド組も!」
「はあ?」
今度はアキラを除いた三人が声を上げた。
「鈴乃、実は誠司って、昔バンドマンを目指していたギタリストなんだけど、どういう訳かバンドの誘いを受けずに、ライブハウスのお兄さんになって廃れてたんだけど、両手に花状態ならやる気出ると思うの。アタシも歌手になりたかったんだ。やってみようよ!」
鈴乃の手を取り、アキラが興奮気味に巻くし立てた。
「俺はやらない!」
間髪入れずに拒否したのは誠司だった。
「日々のバイトが忙しい。それ以前に、まるっきり素人と組むのはゴメンだ」
「プロでもない癖に何ワガママ言ってんの? 歳だけ食っても夢は食えないわよ」
「お前は……喧嘩売ってるのか?」
拳を握り、珍しく低い声を上げた誠司が、アキラへ睨みを利かせた。
「だって、本当のことじゃない。とりあえず、ライブハウスでライブをすることを目的でやってみようよ。ねえ、鈴乃」
満面の笑みを鈴乃へ向けるアキラだが、鈴乃は暫く口を詰むんだあと、意を決したように宣言した。
「私もライブをしてみたい。プロになれなくても、自分の演奏を見て、聴いてもらいたい」
微かに体を震わせた鈴乃が、不安そうな顔で誠司に視線を送った。
「二対一で決定ね」
勝ち誇ったアキラが、にやりと口を引く。
「俺には拒否権無しか。言っておくが、失敗しても知らないぞ」
「忍はベースでもやる?」
「いや、やめとく。俺、本当に才能ないから」
本音だった。アキラなりに気を遣ってくれていることは理解できるし、誘ってくれたのは素直に嬉しかったが、鈴乃とやって行く自信が無かった。
「頑張れよ。お前ら」
この言葉は忍の本心だった。目標を持って前に進む純粋にうらやましく思えた。
それに応えるよう、笑顔で頷くアキラに反し、鈴乃は陰があるような複雑な笑みを微かに見せる。体に自信がないから不安もあるのだろうと、心の中で珍しく鈴乃に気遣いながらも、忍はリビングを後にした。
「夜風にでも当たって来るかな」
―※―
翌日、朝七時を廻った頃だった。
今までは炊き出しへ向かっていた時間だが、鈴乃が来てからはちゃんと三食摂ることができるようになり、体の調子も良い。鈴乃に強く意見を言えない理由の一つでもあったが、今日はそんなことを気にしていられる余裕が無かった。
「鈴乃。朝からキーボード打つのやめてくれ」
リビングに入った第一声はそれだった。
「起こしちゃった?」
眠い眼を擦り、ボサボサの髪を掻き上げ、忍が電子ピアノが置かれた台座を見やる。
木製の台座は、鈴乃の腰の高さに合うように調整され、微かに斜めに向けられていた。
「誠司が作ったのか?」
「さすがにずっと私の膝やテーブルには置いておけないでしょ」
忍に顔を合わせず、鈴乃は電子ピアノの音量を調整したり音を変えたりしながら、一つ一つキーに故障がないか確認している。
「こんなこと滅多にないし、一生に一度かもしれないじゃない。ちゃんとやれることは、やっておきたいの」
「ああ、そうだな」
わざとらしく答えたのは皮肉だったが、鈴乃はそのことに気づいていないようだ。
「兄貴」っと、鈴乃が唐突に真剣な眼差しを忍に向けた。
「ピアノの足って、どこにあるか分かる?」
「いや、もう十年くらい前だし……」
一瞬、真剣に考えた答えがそれだった。
「そっか、じゃ、このままで行くしかないか」
コンっと、二、三度台座を叩き、鈴乃が気が抜けたようにソファへ身を投げ出した。
「それじゃ、都合が悪いのか?」
「ライブの時、恰好がつかないじゃない。勉強机みたいで」
「恰好より、まずは実力じゃないのか?」
「私は形から入るの」
「その金髪もか?」
瞬間、忍の目の前が真っ暗になり、顔面に柔らかだが勢いのある衝撃がぶつけられた。
クッションを投げつけられたと気づいた瞬間、鈴乃の甲高い声が耳を突いた。
「髪のことは言うな! 兄貴には関係ないんだから、いちいち突っ掛かるな!」
「なんだと!」と、言い返そうとしたが、忍はその言葉を飲み込んだ。忍が次に目にしたものは、涙をいっぱい溜めた妹の瞳だった。
―※―
(調子が狂う)
忍にはそれしか無かった。今までは、他人であるアキラや誠司を含め、周りを何も考えず生活ができた。だが、今は実の妹と一つ屋根の下で暮らしている。
どう接したら良いものか。大体、鈴乃と一緒にいることが忍にとっては不自然なのだ。
少しは気を遣っても良いのではと言う建前と、遣う必要がないと言う本音。それがせめぎ合っている自分が無性に情けない。
「百八十六、百八十七、百八十八」
廊下で腹筋運動をしているアキラの横で、忍はただ膝を丸めていた。
「誠司は、どうしたんだ?」
「ギターの、弦を、買って、来るって」
運動を継続したまま、アキラが答えた。
「二百っと、ノルマ達成っと……それより、アンタ達、本当に仲悪いね」
腕を伸ばして寝っ転がったアキラが、息を切らせた。
「聞いてたのか?」
「あんだけ大きい声出してればね。でも、二人とも嫌いたくないって感じっぽいかな?」
「なあアキラ、今、楽しいか?」
「凄く楽しいよ。みんながいるし」
唐突に出た言葉だが、アキラは即答した。
それだけで十分だ。無慈悲で前向きな空間、それに付いていけない自分。
これは孤立だ。
昨日の自分の選択は、明らかに自身の孤立を産むモノだと理解していた。だが、こんなにも早く目に見えて来るとは思わなかった。
心に自分とアキラ、自分と鈴乃を分けるクレパスが作られたことにより、忍は戦慄すると同時に、言いようのない不安を覚えた。
家族とか言っておきながら、結局いつも自分だけが『レス』ってことなのかと自嘲する。『家庭内ホームレス』とアキラが言った台詞が思い起こされる。
「俺って、何なんだろうな。今の俺と鈴乃、どっちに価値が有るんだ」
「アンタは忍じゃないの? 何? 思春期?」
アキラの窘めるような口調は穏やかだったが、忍は馬鹿にされたような気分になった。
「何やってんだ二人して、廊下で談笑か?」
背中から掛けられた誠司の声に、忍は思わず振り向いた。
「なあ、忍。ちょっと外出ないか?」
来い。と言わんばかりに、誠司は親指で背後の玄関を指す。
「ジュースくらいは奢ってもらうぞ」
誠司の顔を見ず、忍は投げ遣りに答えた。
―※―
外の空気は五月にしては意外と暖かだったが、薄手のパーカー一つでは少し堪える。しかし、忍の今は家にいたくないと言う気持ちを優先していた。
公園のベンチに座った二人は、先ほど自販機で購入した缶コーヒーで暖を取る。
「俺は、ジュースが良いって言ったよな」
「何だ? ちょっと寒いから温かいの買ってやったのに、もしかして飲めないのか?」
窘めるように、誠司がニヤリと悪戯っぽく微笑んだ。
「別に・・・ただ、好んで飲みたいとは思わないだけだよ。苦いし・・・・・・」
最後の一言は聞こえないように言ったつもりだったが、誠司は聞き逃さなかったようだ。
「まあ、そう言うな。美味いと思えば美味い。甘いと思えば甘いかもしれないだろ?」
そんな訳あるかと、馬鹿にされた気持ちになるが、忍は黙って口を付けた。
「鈴乃が気になるか?」
忍はコーヒーの苦みと、唐突に投げかけられたその問いに顔を歪めた。眉間にシワを寄せているのが自分でもよく分かるほど、今の表情の歪さがよく分かる。
誠司は「そうか……」と頷くと、忍の表情を読み取り、軽く息を吐いた。
「なあ、忍。お前、ちょっと背負いすぎているんじゃないか?」
「俺は、何も背負っちゃいないよ」
「俺にはお前が、勝手に色々背負い込んでいるように見えるけどな。鈴乃はお前じゃないし、お前も鈴乃じゃない。お前はお前で今を楽しめ。俺も、今はそうしているつもりだ」
含むところがあるようだが、隣に座る誠司が遠くを見つめる姿は、まるで自分が知らない男に思えた。
『今を楽しめることをやれ』と言われるも、今はよく分からない。
環境に振り回され、自分自身がどう思っているかすら分からない。だが、これは言っておこうと、忍は意を決し重い唇を開いた。
「この前、アキラが鈴乃と話しているのを見て、なんだか嫌な感じがした。俺の居場所が削られて行く気持ちになって、それが嫌で……俺は鈴乃が恐いんだ。アイツの行動で、俺は色々なものが奪われて行く不安を覚える」
言葉が滅茶苦茶で、感情が先走った。しかし、ゆっくりと自分の気持ちを紡ぐ。
腕を組んだ誠司が、顔をしかめた。
「理解できない話じゃない。でも、難しく考えるな。お前の居場所はここで、それは、みんな同じだ。今はそれで良いじゃないか」
「俺には、そんな気になれないよ。結局アンタも、俺の気持ちは分からないってことか」
すっと、音もなく立ち上がり、忍は公園の出入り口へと足を運んだ。
「どこへ行く」と、少し焦ったような誠司の問い掛けに、何も応えなかった。結局、今の自分には、誠司の言葉を何も受け入れることはできなかった。
―※―
ここ二、三日で夜の散歩が日課になってしまった。時間は夜の九時を過ぎていた。誠司と別れて一度も家には帰っていない。かれこれ半日以上街中を彷徨っていることになる。
アーケードの店が次々と閉店の支度に勤しむ中、大手のファーストフード店は深夜まで営業していることが多い。当て所もなく歩き疲れた忍は、その中のコーヒー専門店で時間を潰すことにした。
三人がバンドを始めることは構わない。だが、どうも気に入らない。鈴乃は父と母、自分の友人や、将来を考えるための時間すら奪った張本人だ。激情が、自分自身でもセーブ出来なくなっている。
『…ね…※…ね…※…ね』
心の奥底に眠る願い、燻る感情が、少しずつ露わになる。いつか、身を委ねてしまうのではないかという恐怖が、忍を脅かしていた。
「ねえ、この前さ、鈴原見たんだけど」
自分の苗字を聞き、忍は視線だけその声の方向へ流した。男女四人二組のカップル。歳は忍と同じくらいだろうか、見覚えのないブレザーの制服姿だが、下校中のまま街中をフラフラしているようだ。
「鈴原って、あの心臓が悪いって言う女か?」
「そうそう、まだ生きてたよ。チョーウケル」
「マジ? アイツつまんねーし、修学旅行もアイツの体調に合わせられたぜ」
「私、同じ班で凄く迷惑だった。しかも親同伴だよ。すっごく嫌だった」
「そう言う奴、マジいらねーから。隔離病棟とかで頭おかしい奴と群れてろって。生きてる意味ねーよ、人間の出来損ないだから」
「社会のゴミだよゴミ。ああ言う奴らって、二十歳越えたら障害者年金とかもらって暮らしてるらしいじゃん。何が弱者だよ生産性もないクズってか死ね」
「ホント、なんで生きてんのって感じだよね。で、そいつどうなったの?」
「生きててびっくりしたから、『生きてたよー』ってみんなで笑ってたら、泣きながらどっか行っちゃった」
「キャハハ。空気もったいねー」
パシャン。と言う擬音が聞こえた時には、もう後戻りできなかった。
気づくと、プラスチックのカップは空になり、目の前には四人の男女が、コーヒーに濡れた服を拭きながら怒号を飛ばしていた。
「てめえ!」
男の一人が忍の襟首を掴み上げ、睨みを利かせた。
「楽しいかよ。関係のない奴が、関係のない奴の生死をどうこう言うのが、楽しいかよ!」
手前側に座っていた女が気づいたのか、バツが悪そうに顔をしかめた。
「鈴原の兄貴じゃね?」
「お前らに、鈴乃の何が分かるって言うんだ。教えてくれ。俺は、どうしたら良いんだ!」
顎が震える。ガチガチと上下の歯がぶつかり合う音が耳を突く。
「ねえ、行こうよ。ヤバイってコイツ」
奥に座る女が、対面する男の手を引いて席を立った。
「待てコラ!」
叫びと同時に、忍は襟首を掴んでいた男の顔に拳を入れ、奥の女の髪を引っ張り上げた。
甲高い悲鳴と同時に、辺りは騒然となり、目の前が真っ赤になる。
忍が覚えていたのは、ここまでだった……。
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