第1章 家はあるが家庭がない


 窓一つない洋室に押し込められた二階建てベッド。コンビニ弁当の受け皿や、菓子パンの空袋に囲まれたそれは、城のようにどっしりと部屋の半分以上を占拠していた。

「忍ぅ……生きてるぅ?」

 だらしがない呂律で、上のベッドからアキラが顔を覗かせた。下で仰向けに寝そべっている忍から見れば、髪の長い少女の生首が喋っているようで、気持ちが悪かった。

「ああ、腹減ったな……」

 かれこれ二日間、二人はまともな食事を取っていない。最後に食べたのは、夕食の代りに口にしたブルーベリーガムだけだ。気怠そうに体を起こし、忍は床に足を着けた。

「なあ、今日は炊き出しあったっけ?」

「ん? 今何時だと思ってるの? 三丁目の公園はとっくに終わってるよ。河川敷のほうなら六時ごろやってなかったっけ?」

 眠たそうな目を擦って、アキラが時計を指さす。午後三時を廻ったところだ。中途半端な時間に起きたと思いつつ、忍は深く息を吐くと、決心したように重い腰を上げた。

「店長のとこ行ってくる」

「ああ、廃棄時間か……行ってらっしゃい」

「お前も来いよ。二、三日分の食料だぞ」

「アタシ眠いからパ~ス」

 ゴロンと体を反転させた同居人に、忍は多少苛ついたが、空腹で怒る気がしない。

 カーテンで窓を閉ざされた薄暗いリビング。忍は無造作に散らばった衣類を拾い、洗面所で顔を洗うと、一応の外出準備は整えた。

 長袖のTシャツに薄手のパーカー、穴の空いたジーンズと、五月とは言え少し薄着だったが、まともに着られそうなものはコレしかなかった。ふと洗面所へ目をやると、一ヶ月前から少しずつ積み重なった衣類や下着が、洗濯機の上で山のように詰まれている。

 玄関には、新聞や請求書、ダイレクトメールなどが郵便受を突き抜け、散乱していた。

 この分だと台所は、瓶や缶、ペットボトルの河に埋もれているだろう。一ヶ月もまともに家事をしていなければ、こうなることは分かっていたが、忍もアキラも全くと言って良いほどの家事音痴であり、面倒くさがり屋だった。

 玄関を抜けると、五月の暖かな風が頬を撫でた。

(もう、二年になるのか)

 パーカーのポケットに両手を突っ込み、トボトボと歩みを進める。

 忍は現在高校二年生だが、春休みが空けても学校へ通う気にはなれなかった。行きたくて受けた学校ではなく、両親は高校卒業の資格と手に職くらい付けておけと言って、忍の話も聞かずに工業系の高校の願書を届けていた。両親は自分達の都合を考え、早目に忍の進路のことを、終わらせておきたかったのだ。

(いくら事情があるからって、何も言わずに巻き込むなよな……)

 近くに有った空き缶入れを蹴飛ばし「くそっ!」っと思わず吐き捨てた。

「おいおい、いつになく荒れてるな」

 野太い男の声に反応し、我に返った忍がピンと背筋を仰け反らせた。

「す、すみません店長」

 そこは、目的地であるコンビニの裏口だった。反射的に振り返ると、背の高いスキンヘッドの店長が、腕を組んで睨みを利かせていた。店と隣接する駐車場には、幸い車はなかったものの、散らばった空き缶のおかげで駐車はできそうもない。

「今、片付けます」と、ひたすら腰を低く、何度も頭を下げながら、忍は慌てて散らばった空き缶を掻き集めた。

「また家のこと考えてんのか?」

 家から五分ほどの距離にあるコンビニは、幼少の頃から通わせてもらっている。店長とは長い付き合いで、忍の家の事情もある程度は把握していた。

「ほれ、そろそろ来ると思っていたぜ」

 予定していたかのように、裏口から大きなビニール袋を二つ、店長が差し出してきた。

「右がパンで、左が弁当。弁当は冷蔵庫で保管して、最低でも三日以内に食えよ。こんなことが知られたら、営業停止だなぁ」

 中々シャレにならないことを口にしているが、店長はこうやって、賞味期限が切れた食べ物を内緒で提供してくれる。忍が家事ができないことも知っていて、昔なじみに気を遣ってくれているようだ。

「いつも、すみません」

 恐縮する忍の肩に、店長は軽く手を置いた。

「お前はお兄ちゃんなんだから、しっかりしないとダメだぞ。お父さんやお母さんに心配かけないようにしないとな。頑張れよ!」

 親指を立て、忍を激励する店長の笑顔は陽気だったが、忍はその笑顔が大嫌いだった。

(俺は……お兄ちゃんなんて名前じゃない。親も俺の心配なてしない……)

 気が付けば握り締めた空き缶は、デコボコの歪な形になっていた。



―※―

「おっそーい。何やってたの?」

 店長から受け取った貴重な食料を両手に抱え、帰宅した忍を待っていたのは待ちくたびれたアキラの第一声だった。

 リビング中央に置かれたテーブルと四択の椅子。その内の一つに腰掛け、アキラは上半身をテーブルに預けていた。赤茶色のセミロングが顔を半分隠し、幽霊のように恨めしそうな目で忍を睨み付ける。普段、寝間着代りのショートパンツに、紅いキャミソールで一日を過ごすことが多いが、どう見ても薄すぎる。

「そんな格好で、風邪引いても知らねーぞ」と、呆れたように声を掛け、忍は調達した食料をテーブルに載せた。

「いいの。体調管理には自信あるし」

 そう言いながら、モゾモゾとビニールの袋に手を突っ込み、あんバターのコッペパンとウーロン茶のペットボトルを拾い上げる。

 忍はアキラといると、何故か調子が狂う自分に気づいていた。

 神原アキラ。そう名乗った彼女は、二ヶ月前に知り合ったホームレスだ。十四歳と言っていたが、外見は大人びているようにも見え、とても忍や妹より年下とは思えない。

「お前、本当に行くとこが無いのか?」

「無い。でなきゃ、何年もホームレスなんてやってないわよ」

 何度も口にした質問だが、アキラはあっけらかんと答え、コッペパンを頬張った。

 知り合いのホームレスに半ば押しつけられる形で、アキラと同居することになり早三ヶ月。傍迷惑な話だが、炊き出し日と場所を教えてくれるという条件を忍は呑んだ。

 しかし、春までの二ヶ月と言う期間が過ぎても、アキラは一向に出て行く様子もなく、最近は妹の部屋にある音楽CDを勝手に聴いたり、テレビのチャンネル争いを吹っ掛けたりと、徐々に忍の家に馴染みつつある。

 その内、ホームレス少女に家が乗っ取られるのではと不安も過ぎるが、最低限の生活費と家主という特権がこちらには付いている。

 いざとなれば、強制退去を言い渡すことも可能だと楽観しているのも事実だ。もっとも、ホームレスが集まるような炊き出しに並び、ホームレスと同居している時点で、自分自身も変わり者であると言うことも十分承知している。

 だからと言って、彼らと同じであると言うことはないと自負している。事実、忍には家があり、少ないが仕送りもある。とりあえず、最低限の生活は保障されている。家事ができないだけであって、決して何もできない、何もないという訳ではないのだ。

『俺はお前とは違う』それが自分とアキラを分ける忍の一線だった。

「ねえねえ忍。アンタって、私と同じだよね」

 突然の問いかけに、忍の心臓がしゃっくりを上げたように持ち上がった。直前まで考えていたことがことだけに、冷や汗を掻きながら、何とか不機嫌な顔を作った。

「家はあるけど家庭(ホーム)がない(レス)。家庭内ホームレス。なんてね」

 忍の顔を指しながら、アキラが悪戯っぽく笑って見せた。

「余計なお世話だ!」

「ありゃりゃ、マジで怒らせちゃったか」

 失敗した。と言った感じで、アキラが頭を小突きながら、「ゴメン」っと拝むような素振りで頭を下げた。

 本当に不愉快な言葉だったが、正直図星だった。忍の妹は生まれつき体が悪く、現在は赤ん坊の頃から世話になっている、小児科の病院で入院中だ。

 治療費自体は国の保険や、何らかの制度で賄えるため、自己負担という意味では、大した金額にはならなかった。だが、母は妹の面倒を見るという名目で、病院近くのアパートを借り家へは帰らず、父は鈴乃に合ったよりよい治療法を探すことと、家族の安定した生活のために、海外での仕事に明け暮れている。忍は家を守ると言う任を背負わされたが、それは大人の体の良い口実と誤魔化しだった。

 最初は両親が自分を認めてくれたと思い込み、誇らしくさえ思えた。だが結局は『娘のため』という大義名分を盾に、両親は無意識の内に自分を切り捨てたのだ。少なくとも、父は現実から逃げたとしか思えなかった。でなければこんな状況の中、海外で仕事という選択を受け入れるはずもない。

 忍は袋の中から唐揚げ弁当の封を乱暴に開き、無言で口の中へかきこんだ。味など感じなかったが、二日ぶりのまともな食事で、腹の中が満たされる充足感は確かにあった。

「そう言えばさ、忍の家って何だかんだで広いよね。この分ならあと二、三人くらい住めそうじゃない」

「一応、四人暮らしだしな」

 4LDKの一階、小さなダイニングとシャワールームが用意された二階には、妹の部屋と両親の寝室がある。アキラには一階の客室を使うように伝えたが、いつの間にか忍の部屋の二階建てベッドの上を塒としていた。

「お前も年頃なんだから、少しは恥じらいって言葉を知っても良いんじゃないか?」

「何それ? あ、もしかして……」

 小悪魔らしい笑みを浮かべ、アキラが顔を近づけた。

 単に部屋から追い出したかっただけのはずだったが、違う意味で受け取ったらしい。

「大丈夫。アタシ、そう言うの気にしないから、男の子の夜の秘め事くらい、そっぽ向いてるわ。健康な証拠じゃない。アタシって大人な理解者だな、うんうん」

 わざとらしく腕を組み、アキラは見当違いの自己完結に収束させているようだ。

 本気なのか、ふざけているのか、そんな彼女とは違い、忍の心情は暗く、複雑だった。

「そう言う意味じゃなくて、あのベッドの上は昔し妹が使っていたものだから、できれば寝て欲しくない。上に気配があると、妹が帰って来ているみたいで――」

(怖い……)と、続けることができなかった。

「妹? 二階のCDがいっぱいある部屋の? ちらっと写真見たけど、清楚で純情そうな娘だったわね。黒髪で、細くて、メガネとかかけて真面目そうで。アタシみたいなやさぐれ者とは大違い」

「俺から言わせれば、クソッタレな人生のお荷物だけどな」

 そう吐き捨てたが、アキラが驚いて目を丸くしたのを見て、失言だったと理解した。

 アキラは忍の様子にわざとらしく肩を竦ませて見せた。お互いが失言だったと場の雰囲気が暗くなった時、インターホンのチャイムが助け船の合図を鳴らした。

 その場の空気を切り替えるには良い切っ掛けだ。忍は玄関へ向かい、素っ気ない定例の挨拶でドアを開いた。

「はい。どちらさ、ま……」

 そこには、一人の少女がいた。ウエーヴが掛かったショートの金髪、ラメが光るツケマツゲに、アイシャドウが塗られた瞳は少し釣り目気味だ。どこの高校の制服か知らないが、胸もとギリギリまで開いたブラウスの上に、ベージュ色のブレザー、太股が見えるくらいに捲られたスカート、そこから伸びた足はこの時期には寒すぎるのではと問い質してしまいそうになる。右耳にはピアスを嵌めているのか、時々キラリと光沢が走る。

「ただいま」

 少女が直視しているのは明らかに忍だ。だが、忍には全く持って思い当たる節はない。

「なにぼーっとしてんの? 兄貴」

 兄貴という言葉に、「まさか」と、一瞬嫌な予感が悪寒となって体全体を駆け巡った。

「鈴乃だよ。重いからコレ、持ってきて」

 間髪入れずに差し出された物は、キャリーカートに載せられた手提げバッグと、長さ六十センチほどの外出用酸素ボンベだ。普通の女子高生がこんな物を持ち歩いているはずがない。予感は的中してしまったのだと、忍は手のひらを額に当てた。

 言われるままキャリーを受け取ると、鈴乃はズカズカと家に入りそのままリビングのドアを開いた。「待て!」とか声を掛けようとした時には既に遅かった。

「ちょっ、あ、兄貴!」

 大体予想はついているが、忍は腹を括ってキャリーを引きながら部屋を覗き込んだ。

「コレどういうこと!」

 ゴミだらけの室内のことも含めてなのだろう。だが、鈴乃の人差し指の先には事情が掴めずにいるアキラが、コーヒー牛乳をストローで吸ったままの状態で硬直していた。

「まさか、私や母さんが居ない間に女の子連れ込んでいかがわしいことを……不潔! 見損なったわ!」

 忍へ預けたばかりのキャリーを、強引に奪い取ると、鈴乃は踵を返した。

「どこへ行くんだ。待て」

 引き留める兄を後目に、鈴乃が啖呵を切った。

「どこだって良いでしょ! 兄貴には関係ない。付いてこないで変態!」

 実の兄が、半裸と言って差し支えない見ず知らずの少女と部屋にいたとなれば、この反応は当然かもしれない。だが、忍は問わねばならないことが幾つもあった。

「お前、どうやって、どうしてここに」と言葉半分の状態で、今度は電話のベルが鳴り響いた。

 どうしたものかと忍は顔をしかめるが、鈴乃は仏頂面のままふて腐れたように「出れば」と顎で電話を指した。促されるまま受話器を取り、「鈴原です」とこれまたお約束の挨拶をした直後だった。

「忍……鈴乃が居なくなっちゃったぁぁ――」

 受話器から聞こえる、悲鳴のように泣き叫ぶ女の声。それは間違いなく忍と鈴乃の母、和子のものだった。

「一昨日からずっと探してるの。病院のみんなも探しているわ。お父さんはまだ帰れないって、どうして、こんなことになるのよぉ」

「か、母さん。ちょっと待てよ、落ち着け」

 電話越しから「落ち着いて」、「気をしっかり」という声が聞こえた。ひどく興奮しているようだ。

「一昨日からって、どうして連絡してこなかったんだよ」

「言える訳ないじゃない。あなたに心配掛けたくなかったのよ。どうして母さんの気持ちを分かってくれないの!? ねえどうして!? あなたに何ができるの!?」

(また始まった)

 和子は我が子のためと言いつつ、相手の心情を理解しようとはしなかった。

 頭ごなしに子供を子供としか認識しておらず、相談や意思疎通の前に、自分の考えを最優先で行動するため、間違いが起こった時の軌道修正ができなくなる。子供扱いは仕方がないが、子供扱いと無能を混同していることを、和子は理解していない。

 やれやれと思いながらも、忍は電話越しの母へ静かに語りかけた。

「俺が悪かった。それで鈴乃のことだけど」

 鈴乃に視線を流そうとしたが、アキラが鈴乃を指さし、両手でバッテンを作って見せた。「居ないと言え」と言っているようだ。

 鈴乃は顔色一つ変えなかったが、彼女が手にしたキャリーはカタカタと音を立て震えていた。和子の声が受話器から漏れているので、二人とも話は理解しているようだ。

「分かった、見つけたら連絡する。それと、鈴乃って髪を染めたりした? 金髪とか」

「バカなこと言わないで! 鈴乃は綺麗で長い黒髪でしょ! 何年も会っていないからって勝手な妄想しないで!」

 ガチャンと乱暴な音を立て、電話が唐突に切られた。

「説明しろ!」と、忍は咄嗟に受話器を投げ捨て、鈴乃の胸ぐらを掴み上げた。

「何で髪染めてんだよ。それより一昨日から行方不明ってどういうことだ!」

「一昨日抜け出してマックで寝てた。昨日は髪いじってピアス付けてカラオケで寝たけど、酸素が無くなりそうで戻って来た。昔使ってた小型の酸素呼吸器もあるし……」

 鈴乃は視線を落とし、淡々と経緯を説明するが、彼女の気怠そうな口調も相まって、忍は納得しなかった。

「何で肝心の理由を言わないんだよ!」

「今の電話で分かったでしょ。重いんだよ! お母さんも、病院の連中も自分の体も、兄貴は良い子でお留守番? 良い身分ね」

「お前・・・せっかく黙ってやったのに勝手なこと言いやがって!」

「うるさい! 寝るからほっといてよ!」

 キャリーを蹴飛ばし、鈴乃はそそくさと階段を上がって行く。

「待て! まだ話が――」と、鈴乃を追いかけようと足を動かすが、体が前に動くことはなかった。背中越しから回されたアキラの腕が、忍の前進を阻んだからだ。

「やめなよ。あの娘、疲れてるんだよ。今行くと喧嘩になるだけだよ」

 やさしく諫めるような声に、少し毒気が抜かれたのか、忍は深い溜め息を吐いた。

「悪い、なんだか色々びっくりして……」

「だよね。黒髪の大人しそうな妹が、金髪のヤンキーで戻って来たらそりゃね……まあ、ちょっと様子を見ようよ」

 回された手が放されたかと思うと、今度はアキラの笑顔が回り込んだ。

「生意気なのは昔からだけど、あそこまで粗暴じゃなかった……」

 とりあえずは様子を見ようと言う、アキラの意見には賛成だ。

 鈴乃の家出の理由が母である可能性が高いことは、経験から何となく見て取れる。答えが見えない以上、無理矢理帰しても大騒ぎになるのがオチだ。だが……

「やっぱり、報告はした方がいい気が・・・じゃないとバレたら怒られるよなぁ・・・・・・」

 ちらりとアキラの顔色を覗うと、彼女は眉間にシワを寄せ、呆れたような口調で言い放った。

「忍、あんまり言いたくないけど、アンタもしかしてマザコン?」



―※―

「それで、逃げてきた訳か」

 河川敷にある市民公園では、週に三回の炊き出しがある。現在の時間は午後六時、炊き出しの列に並んでいる間、忍とアキラはホームレスの青年、誠司と顔を合わせた。

「別に逃げてきた訳じゃないけど、一気に居心地悪く……というか、居づらくなった」

 ふて腐れたように忍が口を尖らすと、誠司は訝かしむように「ふむ」と軽く頷いた。

 鳥の巣のように乱れた髪、頬が痩せこけた長身痩躯、ジャージと半袖のシャツは黒で統一されている。素足にサンダルはまだ寒い時期だが、誠司は気にしていないようだ。

「アキラ、忍に迷惑を掛けていないか?」

「いつも良い子にしてるわよ。ご心配なく」

 誠司は基本的に察しが良い。踏み入れて欲しくないところは聞かないし、あまり感傷的にならない。気軽に付き合える関係としては、忍にとって好意的な人物だ。公園の炊き出しを眺めていた時に成り行きで知り合ったが、今では忍とアキラの、相談相手兼兄貴分として振る舞っている。

 ちなみに、アキラを忍に押しつけたのもこの男だ。歳は三十間近というが、若作りなのか、二十代前半くらいに見える。

「次の方どうぞ」

 ボランティアの中年女性に促され、忍は豚汁とおにぎりを受け取ると、折りたたみの簡易テーブルにそれを乗せた。椅子など無く、周りではホームレスが何人も振る舞われた食物を、無言で口に運んでいる。五月の半ばとはいえ、やはり夕方になると風も冷たく、身震いも止まらない。

「アキラ、食ったらさっさと帰るぞ」

「うん。さすがにキャミの上に上着一枚は無防備すぎたわ。ちょっと反省」

 無駄口を叩きつつ、二人は周りのホームレス達のように食事を始めた。先ほど食べたばかりとは言え、鈴乃の帰宅、母の電話のおかげで、忍は食べた気がしなかった。こうして温かい食事にありつけているとはいえ、やはり野外は落ち着かない。

「忍、アキラ、このあとはどうするんだ?」

 後ろのテーブルに着いた誠司が背中越しに声を掛けてきた。

「暇なら、バイト先からカップ麺を三箱貰ったから、持っていけ。その代わり、一晩泊めさせてもらえるとありがたい、久しぶりに風の当たらない場所で寝たいからな」

「分かったよ。でも、妹がいるから静にしててくれよ、また夜中にギターでも鳴らされたら面倒なことになるからな」

 誠司は先日まで河川敷の藪の中に小屋を建てて暮らしていたが、最近は市の職員達に追い出され、地下道や橋の下で野宿を強いられている。バイトというのは、誠司が世話になっているライブハウスのことだ。昔、誠司もそこのステージでギターを鳴らしていたらしいが、今では何故か雑用係をしているとのことだ。

「じゃ、倉庫から持ってくるから、ここで待っていろよ」

 おにぎりと豚汁を口へ流し込み、誠司は意気揚々とテーブルを離れた。

(彼には、落ち着きが無いのだろうか?)と、忍とアキラは顔を見合わせた。



―※―

「ただい……ま……」

 帰宅した忍とアキラは、誠司にカップ麺を担がせ玄関のドアを開けた。その時、異様にして不自然な匂いが鼻を燻った。柔らかく香ばしい匂い。それに促された三人は、リビングまで足を速めると、そこにはもう一人のこの家の主が食事の真っ最中だった。

 テーブルには、汚れた食器や衣類は一切なく、代わりに出来たてのグラタンとパン、そしてサラダが載せられている。床には色々散乱しているが、壁に物を寄せただけとはいえ、台所まで普通の歩幅で行ける道が出来ていた。

「どこへ行ってたの? 後ろのおっさん誰?」

 警戒するように目を細めた鈴乃が、グラタンを一口頬張った。先ほどと変わらず、金髪とラメのマスカラがチラチラと目に触ったが、そんなことはどうでも良い。

「お前……何やってんの」

 思わず間抜けな声で、忍は妹に質問した。「夕飯食べてる」と当たり障りのない回答をされるも、忍は次の言葉が見つからず見慣れぬ我が家の光景に唖然とした。

「作ったのか? このグラタン」

「まあね。それよりも兄貴……」

 鈴乃の視線が忍から外され、後ろにいるアキラと誠司を瞳に映す。

「改めて聞くけど、その人達、誰?」

「ホームレスだよ。家が無いって言うから、時々風呂とか貸してる」

 それを聞いた瞬間、鈴乃が引きつるように息を呑んだ。

「馬鹿じゃないの! なんでホームレスなんて上がらせてるの! 信じらんない!」

 本人達を前にして失礼だが、妹の当然の反応は、現状の異常さを忍に再認識するには十分だった。

「とにかく、この二人は兄ちゃんの友達で生命線なんだよ。今日はこっちのおっさんも泊まるから、よろしく頼む」

「全く笑えない。ホームレスと一つ屋根の下なんて冗談じゃない。くさいし、不潔だし、世間からのあぶれ者じゃない。兄貴マジでどうかしてるわ」

「いや、私、ちゃんと毎日お風呂入ってるよ」

「俺も体くらいは拭いているし、いくら何でも偏見だ。それにまだ二十九歳――」

 誠司の言葉は、ゼンマイが切れかけたオルゴールのようにゆっくり静止した。が、代わりに視線は、鈴乃の手元へと向けられる。それは忍とアキラも同じだ。口から溢れる唾液を飲み込み、三人はいつの間にかテーブルの近くに立ち、鈴乃の食事を凝視していた。

 さすがに空腹に飢えた獣のような三人の空気に圧倒され、鈴乃は思わず口を滑らせた。

「食べる?」

「「食べる」」と、三人は無心のまま声を揃えた。

 全員の食事が整うまで十分ほどだったが、その間、鈴乃は二人のホームレスを警戒しながら見比べ、アキラと誠司はそんな鈴乃の視線にどう反応して良いのか分からず、ほとんど言葉を交わすことは無かった。

 ここで下手な話題を振って、まともな食事を諦めて良いものだろうかと葛藤しているのは忍も同じだったが、どうしても鈴乃に聞かなければならないことがある。ここは兄として、思い切って妹に声を掛けた。

「鈴乃、言いにくいんだけど。お前、どうして病院を出たんだ? 髪とピアスのことはこの際どうでも良いけど、とりあえず、兄ちゃんに少しは教えてくれよ」

 しどろもどろでも、できるだけ柔らかく、刺激しないように質問するが、鈴乃は「兄貴には関係ない」の一点張りだ。

「お前……俺はお前の兄ちゃんなんだから、そんな言い方ないだろ」

「ふん。私のこと、妹って思って無いくせに。見え見えなんだよクソ兄貴」

「お前また!」と、思わず怒鳴って席を立つ忍だが、鈴乃も睨みを利かせた。

「もう、疲れたから寝る。その二人のこと、母さんには黙っておくから、ほっといてよ」

 リビングを抜け、鈴乃が不機嫌そうな足音を立てながら階段を上る。妹の後を追おうと、忍も踵を返したが、素早く延ばされたアキラの腕に道を阻まれた。

「ほっときなよ。今は」

「関係ないだろ! 俺達兄妹の話だ」

 怒りに任せて、忍が声を荒げた。が、アキラはそれを宥めるように続ける。

「アタシには、アンタが鈴乃をなじっているだけにしか見えなかったよ」

「当然の質問をしただけだろ?」

「戻って来た直後に質問した時、ほっといてって言われたのに、数時間後にまた説明しろ。ちょっとしつこくない? それとも、今の鈴乃の言葉ってマジ?」

『妹と思って無いくせに……』確かに、図星を突かれて逆上したというのは事実だ。だが、そんなことを考えている余裕はない。

 何を焦っているのか、何を考えているのか、自分でも理解できない。ただ、昔のように、無知のまま状況に流されて後悔するよりはいくらかマシだと思っていた。

「でも、血の繋がりって、切っても切れないものなんじゃない? 兄妹なら、なおさらね。でも、何年もまともに会ってないなら、馴れていないだけかもしれないけど」

 確かに、鈴乃が帰宅してから、彼女を意識しているのは事実だ。だが、忍にはアキラの意図が理解できず、首を傾げた。

「鈍いな忍」

 黙々とグラタンをたいらげた誠司が、満足げに爪楊枝を咥えて苦笑した。

「家族ごっこから初めたらどうだ。ってことじゃないか? そうだろ、アキラ」

「ピンポーン。その通り♪」アキラがはしゃぐように両手を上げた。

「今までが擦れ違いだから、お互い接し方が分からないんだよ。そこへアンタが鈴乃の心情を考えずあせったりするから、疲れたんじゃない? 病弱なんでしょあの娘」

「それは……そうかもしれないけど……」

「なら決まりだ。俺とアキラも一緒にいてやるから、心置きなく四人で暮らせるぞ」

「やっぱりお前ら居座る気かよ!」

「だって、不安じゃん。今のアンタ達をほっとくの」

 アキラの言葉に、誠司も大げさに頷いてみせる。

 納得はできなかったが、二人きりにされても心許ないのも事実だ。母親はこの様子だと死に物狂いで鈴乃を探しているだろうが、今は鈴乃の好きにさせて、バレたら一緒に謝れば良い。少し楽観的かもしれないが、忍はアキラの提案に乗ることにした。

「よろしく……お願いします……」

 色々不満はあるが、忍は言葉を飲み込む。

「ところで忍」と、誠司が薬が封入されていたプラスチックの入れ物を、神妙な顔で差し出した。十個近いカプセル型の薬の入れ物。中身は無かったが、誠司はその内の一つをすくい上げ、思い詰めた顔を見せた。

「コレは彼女の薬か?」

「アイツ心臓に障害があって強い薬を何個も使ってる。俺達が呑んだら死ぬらしいぞ」

 冗談交じりに話すが、誠司の表情は変わらない。

「もしかして誠司、薬局でもやってたの?」

 アキラが興味津々で、薬入れを眺めた。

「まあ、似たようなもんさ」

 不安げな誠司の顔が少し気になったものの、忍はあえて口にしなかった。


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