4-4.夕緋真依

 真っ赤な夕緋ゆうひの色に染まった部屋で。


「お兄ちゃんはどうして就職活動しないの?」


「は、はは、何を言っているんだ、真依。俺だって就職はしたいが、ダンゴムシを雇ってくれるところはないからなぁ……」


「嘘つき」

 鋭く尖らせた言葉を突き刺すように。

 言い放つ。


 ダンゴムシは後ろにじりじりと引き下がり、やがて部屋の壁へとぶつかった。兄の表情は無機質な硬い鎧に覆われて、今は震える一匹の虫がわたしの目の前にあるだけだった。


「変わるのが怖かったんだよね。変われないのが怖かったんだよね。だから虫になった。だけど虫になった」

「違う。俺は、呪いのせいで」

「理不尽を殻としてまとえば、誰もお兄ちゃんを責められない。嫌なことからも逃げられる。でも、お父さんもお母さんもおばあちゃんもいなくなって、お兄ちゃんは自分の人生に自分で責任を取らなければいけない立場になった。自分と向き合わなくてはならなくなった」

 だから、呪いをかけたのだ。自分自身に――。


「違う! 真依に俺の、俺の何がわかるんだ!!」

 怒鳴られるが、相手がダンゴムシでは迫力も威厳も感じられない。ただ虚しく、馬鹿らしいだけ。

 兄に一歩近づき、射し込む夕陽から伸びたダンゴムシの影を踏む。


「わかるよ。わたしは、夕緋真依。お兄ちゃんの、妹だから」


 わたしの言葉を聞くと、兄はふぅ……と溜め息をついた。ダンゴムシが溜め息をつけるかどうかは知らないけれど、そんな感じの音が漏れた。

 そして、兄は零すように言った。


「もしも真依が、俺のこと本当に分かっているっていうのなら」

 兄はそこで一旦言葉を切って、淀んだ。しばしの沈黙が流れ、決心をした強い声が響く。

「殺せ……、俺を殺してくれ……」

 重くて、締め付けられそうな響きだった。兄が苦しんできたことは知っている。だからこそ、わたしはここで追及の手を緩めるわけにはいかない。


「死ぬのは、逃げだよ」

「わかってるよ!!!!!」

 兄が悲痛に叫ぶ。

「俺は糞虫だ臆病虫だ弱虫だ。どうしようもないクズ虫なんだよ。妹に格好良いとこ見せようとして、取り繕って虚飾して嘘八百の見栄を張って。本当は就活で一次選考にさえ通りやしない。コミュ障でぼっちで取り柄なんてありゃしない。同じゼミの奴らだって、俺のことを影で指差していっつも笑ってやがったんだ。根暗だ気持ち悪いって。もうどうしていつもいつも俺ばかりが見下され馬鹿にされ、手を伸ばしても成功には届かない。なんで報われないんだ。昔っから苦労だらけで、それでも神様は見てるからって真依のためだからって、頑張ってきたんだ。もう嫌だ。人生に絶望した。死にたいんだ。俺は死にたいんだよぉ」


 わたしはそれでも、首を横に振る。

「甘ったれないで。わたしはお兄ちゃんを殺さないし、死なせない」


「そっちがその気なら、意地でも殺意を沸かせてやる。兄という存在に幻滅し、失望し、そして真依は俺のことを見捨てればいい」

 兄はそれこそ自棄になったように言うと、わたしに飛びかかってきた。勢いに負けて、畳に仰向けに転がってしまう。

 巨大なダンゴムシオバケが上半身にのしかかり、無数の脚をモゾモゾと動かす。


 筆先のように細くて柔らかい虫の脚が、衣服越しに胸やお腹や太ももを弄ってくる。くすぐったさを感じるよりも、おぞましさの方が上回った。生涯で兄をここまで気持ち悪いと思ったことは初めてだ。もっとも、ダンゴムシになっている時点で、それはそうなのだけれど。


 仰向けのまま、なされるがままにする。抵抗もせず、全身から力を抜いて。

 やがてしばらくして、ダンゴムシの動きが止まった。


「満足した?」

 ゴキブリを見るような視線で問いかけると、ダンゴムシは氷漬けにされた虫のごとくかちこちに静止する。

「頼む。殺してくれ、俺は最低だ」


 変わろうとする様子のない兄にある意味で失望し、やれやれとかぶりを振った。

「どいて」

 胸に乗っかっているダンゴムシを片手で薙ぎ払う。吹っ飛ばされたダンゴムシは壁にのめり込んで亀裂をつくった。


「まったく。ほんとにお兄ちゃんはダメダメだよ。自分の生き方くらい自分で決めてよね。お兄ちゃんは昆虫博士になりたかったんじゃなかったの? だから未練がましく、今でも虫の姿をしているんだよね?」

 ボール状になったダンゴムシにさらなる追撃のパンチを加える。壁に穴が空き、ダンゴムシは外へと放り出された。わたしも後を追って、穴から飛び降りる。


「そりゃあ昆虫博士になれるもんならなりたいさ。でも俺は高校数学で躓いたし。文学部だし。いまさら学者になんてなれるはずがない」

 空中でまだグチグチ言っている兄にかかと落としを食らわせ、地面に蹴り落とす。地響きとともに、アスファルトに大きなクレーターが形成される。あちこちで火山が噴出し、もくもくと立ち昇る火竜炎が空をさらなる緋色に染めてゆく。

 そろそろセカイの終わりが近い。


 早く兄を説得して、連れ帰らなければ。

 地面に着地し、うずくまっているダンゴムシに手を掛ける。


 力を籠めて、殻を引き剥がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る