4-5.夕緋悠人

 殻の中から出てきたのは、小さな子ども。幼い。小学一年生くらいの男の子だ。短パンに白いTシャツ。

 男の子は地面に三角座りでしゃがみ込むと、大きな声をあげて泣き出してしまった。男の子の頭からは、一本のカブトムシの角が生えている。

 男の子をそっと抱きしめる。

「悠人くん」

 兄の下の名前を呼ぶ。


「おねえちゃあああああん」

 悠人がわたしの胸にしがみついてわんわんと泣いた。


 仮にわたしが妹ではなくてお姉ちゃんで、兄が兄ではなくて弟で、そうしたら我が夕緋家の家庭は、うまくまわっていたのだろうか。わたしはを正しい道へと導けただろうか。


 わからない。考えるだけ無駄だろうか。

 ライトノベルではよくある両親の不在という現実がもたらしたのは、歪んだ兄妹愛と不気味な呪いだけだった。


「おいで。おうちに帰るよ」

 兄、悠人の手を引こうとする。悠人は首をぶんぶんと横に振って駄々をこねた。

「やだあああ。ぼくここにいるもん」


 紅の空がガラスになって砕け、世界が軋みの炎を噴出している。残り時間は僅かだというのに、兄は幼児退行してしまって梃子でも動こうとしない。


「ここにいたら死んじゃうんだよ」

「いいもん。ぼくしぬもん」

 兄は、もう駄目かもしれない。

 蠱毒の呪いを解くには、受け入れるしかないのに。過去の自分を捨て去り、未来の自分へと《変身》することを。兄は、サナギのなかに閉じこもったままでいる。


「あのね、お兄ちゃん。もう、わたしのためのお兄ちゃんにならなくていい。わたしのために無理して背伸びしたり、格好つけようとしなくていいの。お願いだから、自分のために生きて。自分のために、等身大の人生を生きて。とにかく、前に進まなきゃ駄目なの」


 兄はくるっと丸まって再び小さなダンゴムシとなり、コロコロ転がり出す。

「じゃあぼくはダンゴムシだもん。これがありのままだもん」


 空から降ってきた流れ星の溶岩が、二人のあいだに降り注ぐ。真っ暗闇に崩れ落ちた、地平線が此方側へと近づいてきている。

 わたしは唇を噛み締めた。


 制服のポケットからカッターナイフを取り出す。

「お兄ちゃん」

「……!?」

 刃の先を滑らせる。カッターナイフが一閃に切り裂いた。

 血が噴出する。

 幼い兄が、目を見開いている。


「ま、真依っ!! どうして!!!!」

 ダンゴムシモードを解除し、元の姿へと戻った兄が駆け寄ってくる。が、もう遅い。兄が自分の力で変われないのなら、わたしが強制的に変わらせるしかない。


「お兄ちゃん、好きだょ」

 背伸びをして、兄に口づけをする。

 感染呪術――《愛呪あいじゅの刻印》

 血の海に沈んでいく。

「先に、待っているからね」

 わたしは唇を離して、少し微笑んだ。兄は絶望したような顔をした。


 世界が壊れていく。世界が崩れていく。

 元から壊れている。元から崩れている。

 平穏なる日常は早々にして壊れ、不穏なる超常は延々にして崩れゆく。


「真依いいいい!!!!!」

 悲痛に叫ぶ兄をたったひとり残して、わたしは暗闇のなかへ落ちた。

 落ちる。


 わたしが兄を《変えてやろう》とするのはおこがましい話だったのかもしれない。人は最終的には、自分自身で選択しなければいけないのだから。


 あとのことは、兄に任せよう。

 首からはマグマのように血が溢れ出ていたが、痛みはなかった。

 何故なら、この世界は――。



――

――――

――――――


「ふふふ、遅いお目覚めでしたね。もっとも、あなたのお兄さんはさらに寝坊助さんのようですが……」


 まぶたを開けて、最初に飛び込んできたのは朝の光だった。

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