4-3.ダンゴムシ
「真依、おーい、真依、朝だぞー」
兄の声が聞こえる。
今までずっと夢を見ていたのだろうか。だとしたらひどい悪夢。
「おにい、ちゃん?」
うっすらと目を開ける。
見慣れた天井。兄の部屋、ベッドに寝かされていたようだった。
わたしは帰ってこれたのかな。
「おう、今朝は新作のフレンチトーストを作ったんだ」
普段通りの、兄の優しい声だった。バケモノではなく、人間の。
「おにいちゃん、元に戻ったんだ!!」
「ははは、何を寝ぼけてるんだ。俺はいつだって真依のお兄ちゃんだぜ」
「うん」
涙をぬぐって、ベッドから身を起こす。良かった、呪いは解けたんだ。今のわたしだったら、兄に抱きついてあげてもいいくらい。
「あれ、おにいちゃん、どこにいるの」
部屋を見渡しても、兄の姿はなかった。
「ここだよ、ここ」
ベッドの下から声が聞こえる。ベッドから降りて、下を覗き込む。暗くて良く見えないけれど、家猫くらいの大きさの物体がこちらへ這い出てきた。
「きゃっ」
悲鳴をあげて、後ずさりする。
ベッドからモソモソと這い出てきたのは、巨大なダンゴムシだった。
黒くてツヤツヤのフォルムで、頭からは二本の触角がピョコンと飛び出ている。ダイオウグソクムシとかいう巨大ダンゴムシが巷では大人気だが、わたしが見ているそれはもっと大きい、しゃがめば目と目(触角)が合うくらいの馬鹿でかさだった。
「人間に戻ったんじゃなかったの……」
「ごめんな。でもこの姿なら真依も怖くないだろ。丸まってコロコロ転がることだってできるし、俺は気に入っているんだ。それに、ダンゴムシなら、真依を傷つけてしまう心配もない」
兄が言った。兄はどうやら、虫になるのを受け入れてしまったようだった。
「いやだよっ!!」
目の前のオバケダンゴムシを思いっきり蹴っ飛ばすと、丸くなった兄がスーパーボールのように部屋をポンポンと跳ね回った。
「お兄ちゃんのばか!! 元に戻ってよ。そんなふざけた姿でわたしを困らせて、なにが楽しいの? これからもぅお兄ちゃんのことはクソムシって呼ぶから。ううん、もぅ一生口なんて聞いてあげない!!」
「ま、待ってくれ。俺だって好き好んでダンゴムシやってるわけじゃ。蠱毒っていう呪いがあるんだろ? 俺はその犠牲者で仕方なく、こんな姿に……」
兄の弁解は正論であり、紛れもない事実であり、わたしは返す言葉を失う。いや、本当だろうか。
『僕たちは、変わってしまったことを嘆いてはいけない。なぜなら、これからも変わっていかなければならないのだから。変わった過去を受容し、変わる意志を持たなければ、いつまで経っても未来には辿り着きません。生きとし生ける人間は、変身する者でなくては』
ふと、夜那の言葉を思い出す。
彼の言い分だと、まるでわたしたちが変わることを恐れているかのような――。
いや、まさか。
わたしのなかに、ひとつの答えが浮かんだ。
『どうして気がつかなかったのか。僕たちは《呪い》に固執し過ぎていたんです。でも本質はそこじゃない。呪いを解くためには、もっと根本的な問題に向き合わなければ』
夜那の言っていた根本的な問題とは何か。そもそも、兄が蠱毒に巻き込まれ変質してしまった、元々の原因はなんだったのか。
その事実から、兄がずっと目を逸らしてきたのだとしたら。否、目を逸らしたいがためにソレを引き起こしたのだとしたら。
わたしはその本質に、ずっと気がついていたはずだ。『父の日』にすべての均衡が崩れたのにも符合する。
考えてみれば、偶発的に《蠱毒》などという特大級の呪いが発生し得るはずがない。呪いの裏にはつねに、人間の大きな《負の感情》が隠れている。
なぜ気づかなかったのか。蠱毒だなんて呪いが発生した以上、そこには必ず《犯人》がいる。朝桐家は兄とわたしの二人暮らしであり、夜那の特例を除いては他者が門をくぐったことはない。
すなわち――。
蠱毒を引き起こした犯人は、兄とわたしのどちらかでしかない。
そして、わたしではない。
ゆえに――、――。
「ねぇ、お兄ちゃん……」
「なんだ?」
兄が丸まった姿勢を解いて、二本の触角をこちらへ伸ばした。
とぼけたバケモノを見下ろして、わたしは微笑む。
「就職活動、しよっか?」
瞬間、セカイが緋色に包まれた。
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