4-2.変身するモノ
「本当にお兄ちゃんを助けたいなら、死なせてあげるしかないんだよ。グレーテもそうすべきだった。見てよ、お兄ちゃんの姿を。生きることに絶望した顔をしている」
「それは僕と夕緋さんがキスしたところを見たからでは……」
カッターの刃を向ける。数千もの虫を殺めてきた、呪われた短剣を兄に突きつける。
「たしかに、お兄さんは変わってしまいました。その事実は打ち消せないでしょう。元のお兄さんは、帰ってこない。でも……」
夜那はどうして、兄を救うことに固執するのだろうか。
夜那は、自分の命を捨ててまでして、呪いを解くつもりだった。
呪いは術者の願望を叶えるためにある。憎い奴を殺したいだとか、ライバルを蹴落としたいだとか。目的が成就したとき、呪いは役目を終える。
しかし、朝桐家における蠱毒には、目的がなかった。
ゆえに、終わらない。
年月をかけて完全な蠱毒が完成したところで、呪い殺す対象が存在しないのだ。あるいはそれは、私たちと母を捨てた父に対する呪いであったかもしれないが、行方知れずとなった父の命がどうこうなったところでわたしに救いはない。
だから、夜那は蠱毒を終わらせるために兄を挑発して、わざと憎しみの対象を自分に向けさせた。蠱毒の目的を《夜那の死》へと上書きしたのだ。
わたしと兄が殺し合いを始める前に、夜那が死ねば、呪いは成就し蠱毒が消える。そんな彼の自己犠牲の意図に気づき、急いで夜那の家に来てみれば、案の定だった。
「そんなに自己犠牲がやりたいなら、勝手に死ねばいいって思ってた。でも嫌なの! 夜那くんが死ぬのは嫌なの!」
「夕緋さん、人が変わるとは、そういうことです」
いつの間にか、夜那がすぐ隣に車椅子を寄せて、私のカッターナイフを持つ左手をそっと握った。カッターが手のひらから抜け落ちる。
初めにあったときはナメクジかゴキブリのように嫌悪感を抱いていたのに、今は触られても嫌じゃなかった。これは彼の呪いなのか、それともわたしの呪いなのか。
「僕は死んだりしません。死ぬつもりでしたが、夕緋さんのおかげで未練ができました。大丈夫、見つけたんです。誰も殺さずに、この蠱毒を解く方法を」
夜那は目を閉じ、ふぅ、と溜め息を付いた。
「どうして気がつかなかったのか。僕たちは《呪い》に固執し過ぎていたんです。でも本質はそこじゃない。呪いを解くためには、もっと根本的な問題に向き合わなければ。
たしかに、人は変わります。そして《変身》は一度切りとは限らない。いいえ、一度切りでは足りないのです。青虫は
「何が言いたいの?」
「カフカの『変身』の表題は、兄がバケモノのような虫に変わってしまう不条理のみを指しているのではありません。兄の変質により、兄を取り巻く家族――、父、母、妹――が変わっていく。家庭の在り方や個々人が、突発的な不条理によってどのように変容していくか、というのが本作のひとつのテーマなわけです。
僕たちは、変わってしまったことに嘆いていてはいけない。なぜなら、これからも変わっていかなければならないのだから。
変わった過去を受容し、変わる意志を持たなければ、いつまで経っても未来には辿り着きません。生きとし生ける人間は、変身する者でなくては。
夕緋さんが変身できたということは、あとはお兄さん次第ですね」
夜那が流暢に話している間に、部屋をぼんやりとした白い煙が漂ってきた。蚊取り線香の懐かしい香りがする。
思い出に引き寄せられて空気を吸っていると、次第に頭にもモヤがかかったようにぼーっとしてきて、体から力が抜けていく。
見れば兄も、安らかな笑みを浮かべて寝息を立てているではないか。
「夜那くん……なにを……」
「ふふふ、煙を隠すなら煙のなかってね。さすがに一流の呪術師はふつうの蚊取り線香なんか使いませんよ。今はゆっくり、おやすみください」
気がつけばクッションのような柔らかい床に、体が吸い寄せられていた。睡魔に誘われる。まぶたを開けているのもつらく、わたしが最後に見たのは、満足そうに口元に笑みを湛えている夜那の横顔だった。
体がぽかぽかとあたたかい。
目をつむり、わたしは落ちようとしている意識をそっと手放した。
ふっと、意識が沈み、深いところへ入っていく。
夜那のこともいつしか忘れて、わたしは――。
わたしは――。
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