3-2.オレは何だ

 まるで巨大な毛虫のようであったが、ソレは二足で直立し、全身から無数の触角を伸ばして揺らめいていた。


 洗面所のひとつ奥、ドアの開け放たれた風呂場から、ソレはじっと俺のことを見つめる。ぼうぼうに生えた毛の隙間から、変色しきった紫色の皮膚が覗く。


 先ほどは『毛虫のようだ』と形容したが、ソレは虫とも言いがたく、たった一言で述べるならば『化け物』の言葉がふさわしい。


 変質し、人でなしとなった汚らわしい異形。


「ウンゲツィーファー」


 昨晩の真依の言葉を思い出し、呟く。こいつが妹をおかしくさせたすべての元凶、だとしたら。


 許せない。


「おのれウンゲツィーファー、よくも俺と真依のイチャイチャ☆シスコンパラダイスに水を差しやがったな。この場で成敗してくれる」


 ウンゲツィーファーはしかし、俺の挑発も気にとめない様子で、襲ってくるでも逃げ出すでもなく、風呂場の主のように佇んでいる。ぞわぞわと蠢く触角は、見るもおぞましい。


 俺は洗面所の棚からカビ取りスプレーを手に取り、噴射口を化け物に向けて歩み寄った。


 もう、目と鼻の先にいる。まっすぐに腕を前に伸ばすと、同時にウンゲツィーファーの腐敗した両脚も前へと伸びた。紅く血走った双眸がこちらを睨み付けてくる。


「これでも喰らえっ」


 両手で思い切り、レバーを引く。スプレーからは白い液体が勢いよく飛び出し、化け物の姿を真っ白に染めた。


 ウンゲツィーファーが反撃してくるようすはない。勝った。こいつさえ死んでしまえば俺と妹とのあいだの絆を切り裂くものなど存在しない。また真依と平穏な日常を送ることができるのだ。


「あははあははは、兄のちからを思い知ったか」


 とりあえずこのままでは風呂場が使えなくなってしまうから、死体の処理をしなければならない。俺は泡に埋もれて見えなくなったウンゲツィーファーの死骸に手を伸ばそうとする。


 しかし、伸ばした指は冷たくて固い壁に阻まれて、止まった。


 ひんやりと冷たく、つるつるとした感触。それは決して異質なものではなく、日常から慣れ親しんでいる感覚であった。


 壁に手を押しつけて滑らせると、白い泡が取り除かれてウンゲツィーファーの姿が現れた。伸ばした俺の手のひらと、その化け物の前脚が、ぴったり同一に重なる。


 俺が手を動かすと、ウンゲツィーファーの前脚もまったく同じタイミングで、同じように動いた。


「おいおい、嘘だろ……」


 冷たい壁だと思っていたそれは、何のことはない、いつも使っている浴室の鏡だった。


 すなわちウンゲツィーファーは実体を持つ化け物ではなく、鏡に映った幻の――。


《現実を見ようね、お兄ちゃん》


 頭の中で真依の言葉が響く。


《これからはこの子がお兄ちゃんの友だちだからね、もう寂しくなーい、寂しくなーい》

 得体の知れない虫を『お兄ちゃんの友だちだ』と言ってプレゼントした真依。


《大好きだよ。お兄ちゃんみたいで》

 虫のことを訊かれて『お兄ちゃんみたい』と形容した真依。


《バケモノッ!!!!!!!》

 俺のことを『バケモノ』だと罵った真依。


 もしも真依のこれまでの発言すべてが真実で、俺が今見ているこの光景も事実なのだとすれば。


「ウンゲツィーファーは俺自身じゃねえか!!」


 俺は、俺はいったい何なんだ。

 なぜ、いつから、どうして、こんな馬鹿げた自体になった。


 頭を抱えようとして、手を上に持っていくと剛毛のような髪の毛が突き刺さった。無数に生えた化け物の触手だと思っていたそれは、自分自身の無造作に伸びきった髪であった。


 腕の皮脂に触れると、何層にも溜まった垢がぼろぼろとこぼれ落ち、汚れの積み重なった皮膚が紫色に変質していた。


「現実を見る……」


 そういえば俺は、いつから鏡を見ていない。

 俺はいつから風呂に入っていない。

 いつから服を着替えていない。

 いつから髭を剃っていない。

 いつから顔を洗っていない。

 いつから外に出ていない。

 いつから。

 いつから。

 いつから。

 いつから。

 いつから。


 四月一日。


 そうだ、就職活動で失敗し、無い内定で大学を卒業してから、俺は何かが壊れてしまった。就活では他の学生と同じく、いやその十倍は頑張っていたはずだ。


 両親が不在で、今まで生活を支援してくれた祖母も亡き身となっている。俺が、俺がしっかりしなければと、真依を支えてやれるのは俺しかいないのだと、そのために俺は立派な社会人になろうとしていた。


 大企業のエリートとまでは言わない。人並みに稼いで、妹と年に一回くらいは国内旅行にいけるくらいのゆとりを持って、兄妹二人でほそぼそと生きていく、そんな当たり前の幸せを欲していた。


 ところが現実は俺のシナリオ通りには行かなかった。就活氷河期というわけでもないのに、何社受けても面接に通らない。自己分析を繰り返し、エントリーシートを二百枚書いて送っても、俺が内定通知を手にすることはなかった。


 俺の何が悪い。何が悪かった。たしかにちょっと他人よりコミュ障なところはあるけれど、それだけじゃないか。毎週バーベキューに出かけてはウェーイ!!している同期達と比べて、俺の能力が劣っているとでも。


 通らない。通らない。面接に通らない。大企業や知名度の高い企業をえり好みしているわけではない。中小企業にだって足を運んだし、ハロワにも頼った。それでも俺はいつまでも内定を得ることはなく、十二月になる頃には(俺以外の)ゼミ生にはみんな内定が出ていた。ふだん遊んでばかりで勉強もしない、俺の蔑んでいた奴らが先に。


 許せない、やるせない、情けない。自己嫌悪し自己否定し自虐に走っても、俺には慰めてくれる友人も頼りになる家族もなく逃げ場はなかった。


 愚かなことに、妹にだけは良い兄を演じていようと強がって、虚勢を張って、嘘ばかりついてきた。


『えっ、お兄ちゃん今日も就職エージェントの人から声をかけられたの? すごい! 優秀なお兄ちゃんは大きな企業から引っ張りだこだね。わたし、お兄ちゃんのこといつも誇りに思っているよ』


 俺の嘘が生み出した、理想の妹が思い描く《理想の俺》は、いつしか毒のように自分の心を蝕んでいき、がんじがらめにした。


 それでも俺は、四月一日を迎えるまでは内定ゲットの可能性を信じて、戦い続けてきた。


「全部、俺のせいか……」


 洗面所を抜けて廊下をとぼとぼと歩く。

 自分がこれからどうしたら良いのか、見当も付かない。

 未来が、見えない。


 ふと、家のリビングを見渡して、違和感を覚えた。

 それは俺自身が《おかしい》と仮定した場合に、不自然に《おかしくない》ことに対する《おかしさ》であった。


「この家、キレイすぎないか?」

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