3-3.オニイサンに大切なお話


 リビングの床はワックス掛けされたようにピカピカだ。机の上には埃ひとつ落ちていない。


 しかし俺には、家を掃除した記憶がないのだ。少なくとも四月一日を過ぎてから、二ヶ月以上の間。


「まさか真依が全部やってくれていたのか……」

 だとしたら兄失格ではないのか。

 いかに精神を壊していたとはいえ、中学生の妹に家事を押しつけていただなんて。


 俺は台所や応接間、板の間を確認し、一階部分が申し分なく片付いているのを見て確信した。やはり、真依が掃除をしたのだ。


 兄としての情けない気持ちで胸をいっぱいにしながら、二階へと向かう。

 俺自身の部屋も、きれいに片付いていた。


 部屋が妙に明るすぎると思って見上げてみれば、電球はLEDタイプの新しいものへと取り替えられていた。毎日この部屋にいたはずなのに、自分はどうして変化に気がつかなかったのか。


 まったく不思議でならない。

 幻術かなにかにかけられていたようだ。


 最後に、まだ真依の部屋を見ていないことに気がついた。

 よくアニメでは、兄が勝手に妹の部屋を開けることによってラッキースケベ(兄が妹の着替えシーンに遭遇してしまう災難)が生じるが、現実においてはそのような愚かな事態は発生し得ない。


 なぜなら、兄が妹の部屋をノックもなしに開けるなど、あり得ないからだ。


 ゆえに、真依の部屋を覗き見ることに抵抗がなかったと言えば嘘になる。普段の俺ならば、絶対に開けない。


 だがこのときばかりは、妹と俺の《変質》に関する真実を突き止めたい想いの方が上回った。


 真依の部屋の前に立ち、ドアノブに手をかける。

 ドアが開き、俺が目にしたものは、全く予想もできなかった謎の物体の数々であった。


「何なんだこれは……」


 一言で述べるならば、それは壺であった。ひとつではない。少なくとも五十個はあるだろうと思われる大きな壺が、真依の部屋一面に所狭しと並べられていた。


 昨日の記憶が蘇る。

 一階へ降りるとき、部屋のなかにいる真依の独り言を盗み聞きしたのだった。


『嗚呼……我が忠実なる眷属よ、昏き漆黒の闇に溺れたる……我がグケイに真実の覚醒めを齎らさんことを……第壱術式――《解ッ》狂気と混沌の神ディオニューソスの加護のもとに……呪えッ!!!』


 そのようなことを言っていた気がする。あのときは『グケイ』が何を意味する言葉か分からなかった。

 なんのことはない。

 グケイは愚兄。

 愚かなる兄。

 救いようもなく、どうしようもない。


 俺自身のことに、決まっているじゃないか。


 にしても足の踏み場もない。

 ひしめき合った壺と壺のわずか数センチ四方の空間につま先を立てて、なんとか部屋の中央まで辿り着く。


 壺には見覚えがあった。というより、昨日見たばかりだ。

 焦げ茶の陶器でできた壺で、高さが二十センチ、底幅が十センチ程度。

 中央に持ち手のある、陶器製の蓋が覆いかぶさっている。数十個はある壺のすべてが、同じ形、同じ大きさ。


 ならば、中に入っているモノだって、きっと――。


 予想はついている。

 受け入れたくない現実だとしても、多分目の前の事実からは逃げられないのだろう。


 もしも今日が六月十六日ではなく、十月三十一日だったなら、壺のなかにはきっとお菓子がたくさん入っていて、俺の変質した姿だって(いえーい、じつはハロウィンの仮装でしたー! テヘペロ☆)ってなオチが用意できるのだけれど、それこそ現実逃避に他ならなかった。


「ええい、ままよ!」

 蓋を思い切り持ち上げる。

 この陶器製の蓋は意外に軽く、すぐに持ち上がってしまうのも経験済みだ。


 壺のなかを覗き込む。暗くて見えづらかったが、薄っすらと浮かび上がる輪郭はそれが《大量の虫の死骸》であることを告げていた。


 台所の床下収納庫で見つけたやつと同じで、中にはコオロギやらセミやらムカデやらの死骸がぎっしりと詰め込まれているのであった。


 俺は、真依が嫌がらせのために壺を床下収納庫に隠したのだと思っていた。その考えはおそらく間違っていた。真依は、自分の部屋に壺を置くスペースがなくなったので、仕方なく床下収納庫に隠したのだ。


「一体、何のために……」


 考えても考えても埒が明かない。

 もしも俺がライトノベルの主人公だったなら、ここで聡明な解決案を見つけるところだ。あいにく俺は、しがないニートだった。今では虫のような変質者へと成り果てている。


 だからそれは、およそタイミングを見計らったかのように(つまり俺が《手詰まりだな……》と匙を投げようとしたその瞬間に)電話がかかってきた。


 電話の音。

 ひどく懐かしい。

 もしかしたら、うちに電話がかかってくるのは数ヶ月ぶりかもしれないと思いながら、俺は壺と壺とのあいだを抜けて、慌てて一階へと降りていった。


 受話器を取る。

「もしもし」と言おうと思ったのだが、長らく人とコミュニケーションを取っていない声帯は話すことに慣れておらず「グギギ……」という訳の分からない音声が喉から漏れた。


『いやはや、お久しぶりです。お兄さん。一ヶ月ぶりになるますかねぇ』

 電話の声が言った。

 まったく身に覚えがない、若い男の声だ。


「俺に弟がいた記憶はないが。お前は誰だ?」

『あなたが人間の言葉を解しているものかどうか、これはひとつの賭けとなりますね。僕の愛しの真依さんのために、労を惜しむつもりはありませんけれども』

 じつにねっとりとした、嫌らしい話し方だった。こんな気味の悪い話し方をする友人はいた記憶がないし、そもそも友だちいない歴=年齢の俺には隙がなかった。


『今日はお兄さんに、大切なお話があります』

(おい、お前は誰なんだ。質問に答えろ)

 声にならない声をあげていることに、俺の意識は気付こうとしない。


『僕たち、今夜結婚するんです……』

(他人のリア充トークに興味はねぇよ。いい加減にしろ)

 悪質なイタズラ電話だ。

 電話を切ってしまおうと受話器を離しかけ、ふと手が止まる。到底、聞き逃すことのできない単語を聞いたからだ。


『……真依ちゃんと!!』

(はぁ?!! てめぇ俺の妹に一体何を)


『やっほー、お兄ちゃん! そういうわけで、わたしたちは結婚するから、もう家には帰らないよ。でもお兄ちゃんだけ特別に、今夜の結婚式に招待してあげるね』

 電話越しの声が切り替わり、それはやけに懐かしい真依の声だった。


『だってさ、お兄ちゃんはわたしにとってはお父さんみたいなものだから。ちゃんとお祝いしてほしいなって』

(そんな……そんな……、俺はたしかに真依には幸せになってほしいと思っている。でもそれにしたって、心の準備ってものがまだ……)


 混乱し、狼狽する。

 悪夢だ。これは悪夢に違いない。どうせまた夢オチなんだろ。早く目が醒めてくれよ。「お兄ちゃん、朝だよ起きて」って言って、真依が俺のことを起こしてくれるんだ。そうに違いない。


『あ、そうそう。念のためお兄さんには事前報告をしておきますが……』

 電話の声が再び、ねっとりとした男のものへと切り替わる。


『今夜ですね、真依ちゃんと僕はひとつのベッドでラブラブ♡初体験!をしちゃう予定ですから。邪魔だけはしないでくださいね。オ・ニ・イ・サ・ン』



「てめえええ!!! 絶対に!!! 許さない!!!!!!!!!!!」

 気がつけば俺は、叫び声をあげていた。

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