2-7.バケモノ

 夜那は二階の窓から落下した。駆け寄って割れた窓から見下ろすと、仰向けに倒れた夜那が白目を剥いていた。黒い学ランからは血が滲み出ているのが見えた。

「救急車を呼ばなきゃ」

 わたしは兄のようなバケモノを蹴飛ばしてドアを退かせ、一階へと慌てて降りる。居間にある固定電話に手を伸ばし、一一九番のボタンを押す。ところが、番号を押しても電話が反応しない。液晶が消えている。

 どうやら電源が入っていないようだった。

(こんなときに故障なんて……)


 そう思いかけたが、ふと脳裏に夜那の真剣な眼差しが浮かんだ。

『夕緋さん。現実を見てください。あなたはもう気がついているはずですよ』

 頭のなかの夜那がそう言った気がした。


 ボタンを押していた指が、フヨッとした感覚に包まれる。いや、フヨッだなんてファンタジックなものではなくて、もっとおぞましい感触が。

 目を凝らしてみると、電話機の上を百匹はいるであろうナメクジが這っている。そのうちの三匹が、わたしの手をぬるぬると這い上がろうとしていた。


「ひゃっ」

 慌てて手を引っ込める。

 よく見れば電話機を置いた棚はシロアリやクロアリのような虫たちで溢れかえろうとしており、電話機とコンセントを繋ぐ電源コードなんてとっくに食いちぎられ、原型を無くしていた。

 電源が入らなくて当たり前だ。その当たり前に、どうして今まで気がつかなかった。


 狂っているのはだれ? お兄ちゃん? 夜那くん? わたし?

 分からない。分かりたくない。

 でも今は、それどころではなかった。


 結局、夜那が救急車で病院に搬送されたのは、それから十五分後のことだった。わたしはご近所さんに助けを求め、救急車を呼んでもらった。そのときの、ご近所のおばさんの反応が忘れられない。

『あら真依ちゃん。小学生のとき以来ねぇ。お元気? えっ、事故? でも朝桐さんのお宅って、もう誰も住んでいないんじゃなかったかしら』

 何も答えられなかった。


 夜那を乗せた救急車が遠ざかっていくのを見届けて、ただぼんやりとまとまらない思考で、それでもわたしは考え続けていた。


 なにが現実で、なにが現実でないのかを。


 おばあちゃんは三年前に亡くなった。それからわたしと兄は、二人きりで、あの家で暮らしてきた。世間から隔離されて、世界から孤立して、家族の欠けた孤独な生活は三年のあいだに蝕むように熟成して、蠱毒へと変わり果ててしまったのではないか。


 とにかく、わたしは、家のなかにいるバケモノたちと対峙しなければならなかった。まずは、虫退治だ。



 翌日。

 わたしは学校の帰りに、夜那の入院している市民病院へ足を運んだ。

 夜那は命に別状はなかったが、右足大腿骨を骨折したらしい。ギブスで固定された脚は痛々しくて見ていられなかった。全治は最低でも四ヶ月。大きな怪我だ。


「ほんとうに、ごめん」

 夜那との面会が許されてすぐに、わたしは頭を下げる。経緯は何であれ、相手の恋心に付け入って、自分勝手な理由で危険な目にあわせた。兄を救うために取った手段の代償がこれだとしたら、夜那にどんなに詫びても許されるとは思えない。


「いやぁ、真依ちゃんが謝ることはありませんよ。これは僕との問題ですから。いいですねぇ、恋に障害はつきものです」


 それから夜那は、入院費も気にしなくていいと言った。夜那の家は、資産家だったらしい。現に彼の病室も、ランクの高そうな個室があてがわれている。でも、そんなことで兄の罪が消えるわけではない。


「やっぱり、痛む……?」


 夜那は、なぜか嬉しそうに目を細めた。

「いいえ、むしろ傷口が甘いくらいですよ。この程度は僕の経験上、痛みにも入りません。痛いときって、心も粉々に砕けてしまいそうなんです。でも、僕の心はいま、真依ちゃんの愛で包まれている。幸せですよ」


「……、……」

 かける言葉が見当たらない。夜那が過去に、両親から虐待を受けていた話は聞いた。彼は知っている。おそらく想像もつかないほどの、凄惨な痛みを。


「同情なんてよしてください。親たちはたしかに、多くの傷を遺していきました。ですが、彼らを呪術で殺害したのは、僕自身なんですから」

 夜那は不気味なほどに明るい笑顔で言った。

 黙っていると、彼は話を続ける。

「それより、僕が名前で呼ぶことを許してくれるんですね。嬉しいなぁ。ついに真依ちゃんも僕にメロメロになってくれたようですね」


「そ、それは……」

 口ごもってしまう。最初に会ったときの夜那への好感度がナメクジ程度だったとすれば、今ではカタツムリ程度にはレベルアップしていた。つまり、夜那のことは今でも嫌い。嫌いだけど、口に出すのははばかられる。


「ああ、別に無理しなくてもいいですよ。あと僕のことはこれまで通り《夜那くん》と呼んでください。両親から貰った方の名前は、嫌いなので」


「……わ、わかった」


 夜那は微笑んで、それから切り替えるようにパンッと手を鳴らした。


「さあ、それじゃあ本題に入りましょうか。お兄さんを呪いから助けたいのでしょう。約束を守る男ですよ、僕は」


 わたしはベッドの隣の椅子に腰掛けて、膝のうえで手をぎゅっと硬く結んだ。


「昨日も話したとおり、お兄さんだけでなく夕緋さんも呪いの対象に入っています。というより、あの家そのものが呪われているんですね。珍しい話ではありません。元来、呪術は《場》に対して作用するものです。幽霊屋敷しかり、呪われた洋館、城、村、森……、いずれにせよ、外部から隔絶された空間には、負の瘴気が溜まりやすい。

 最近ニュースに挙がることの多い《ブラック企業》だって、僕に言わせれば立派な呪術的環境です。交通事故にせよ病気にせよ、あるいは自殺や殺人にせよ、人間は《場》による影響からは逃れられない」


「じゃあ、おばあちゃんの家から引っ越すしか……」

 大切な祖母が遺してくれた家を捨てるのはつらい。でも命には代えられない。行く宛もないけれど、兄が救われるのならばホームレスとなることくらい構わなかった。あるいは気が引けるが、夜那なら喜んで家を貸してくれそうだ。


「ふむふむ。一時しのぎにはなりそうですね。ですが、お兄さんは果たして、あの家から出られるでしょうかね」


「どういうこと」


「心当たりはあるはずですよ。現実を見てください。質問をしますが、お兄さんが最後に家の外へ出たのは、いつですか?」


「あっ」と声を出してしまった。

 夕食を作るのは兄だから、買い物にくらいは出かけているだろう、と思い込んでいた。だが、出られるはずがない。


 わたしの見た光景が現実だとするならば、兄は虫のような不審者に成り果ててしまっているのだ。一歩でも家を出れば、即通報される。


 いや、兄はたしか夕食宅配サービスを使っていた。生活品もすべてネット通販で購入していたし、家から出なくても家事はこなせるはず。


 それならば、最後に兄が外出したのは、大学の卒業式があった三月だったか。それとも就職活動をしていた二月だったか。


 思い出そうとすればするほど、記憶が曖昧になってゆく。そもそもわたしには本当に兄なんていたのだろうか。優しくて、格好良くて、頼りになったお兄ちゃんは、すべてわたしが思い描いていた幻想で、本当は家には巨大な虫オバケがいて、狂った自分はそのバケモノを兄と信じ切っていたのではないだろうか。


 お父さんが出ていったのはわたしが五歳のとき。母も九歳のときに病気で死んだ。十二歳でおばあちゃんも天国に行った。それから二年が経ち、私の知っているお兄ちゃんもいなくなった。呪われた家。


 ひとりぼっちになって、孤独におかしくなったわたしは、廃墟で兄との生活を妄想していた。兄は、この世界には存在していない。妄想の兄が、外に出られるはずがない。それならわたしは、何のために生きれば。


「夕緋さん!」

 夜那が大きな声を出して、わたしはハッと我に返った。彼が呼び起こしてくれなければ、とてつもなく恐ろしい考えに辿り着いていた気がする。


「落ち着いてください。ゆっくりと深呼吸して。ああ、やはり呪いの影響を受けすぎていますね。いいですか、これから僕の話すことをよく覚えていてください。夕緋さんにどのような災難が待ち受けていようとも、必ず、僕の言ったとおりに行動すると約束をしてください。それが唯一、あなたとお兄さんが蠱毒から救われる道です」


 夜那が何かを真剣な口調で説明している。けれどわたしの思考は混乱したままで、無意識も意識も、何が現実で何が現実でないのか、理解することを拒む。


 ただ、わたしがやらなくてはならないこと。

 家にいるバケモノたちをすべて殺す。


 お兄ちゃんを守るため。

 お兄ちゃんを助けるため。

 お兄ちゃんを取り戻すため。


 わたしの、お兄ちゃん。


 待っててね、いま、家に帰るから。




【妹編A】こ、こんなの絶対お兄ちゃんじゃないよ!(終) 兄編Bに続く

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