2-6.孤独な蠱毒なコドクな
夜那が言って、それからとても長い時間が過ぎたように思えた。例えばそれは、小説投稿サイトに掲載された連載小説の更新がぷつんと途切れて、もう何ヶ月も放置されているような孤独感、疎外感、隔絶感。
時間と空間とが切り離され、隔離され、もう永遠に外に逃げられない、絶望的な、続きのない物語のなかに閉じ込められた感覚。
「今、夕緋さんが感じている孤独感。それもまた、蠱毒の原因なんですよ。現実を見ないで《家》に引きこもっているから、狂気に侵されてしまう。お兄さんも、あなたも」
夜那が沈黙を打ち破った。
「何が、言いたいわけ」
「夕緋さん、現実を見てください。いえ、実際にお見せした方が早いでしょうか」
彼は極めて真剣な表情で話す。わたしには意味がわからない。夜那の台詞も、自分の言葉も、ひどく虚構染みて見えた。
いや、わたしの周りにある何もかもが、虚構のようで気持ち悪い。兄の部屋がぐにゃりと歪んで見える。
「どうやら効いてきたようですね。あなたのような本物の《狂気》を相手にするのは骨が折れる。もっとも、僕はそこに惹かれたんですけどね」
夜那がわたしのおでこに手を触れた。
すぐに振り払って殴り飛ばそうと思ったが、腕が痺れたように脱力して、動かない。催眠術だろうか。夜那の眼鏡の向こうの瞳。見ているうちに、意識がぼんやりとして。周りが暗く暗く沈んでゆく。
ぐるぐる回る。吐き気が、すごい。
でも金縛りにかかったように、動けない。
兄の部屋に入るときに、照明はつけたはずなのに、いつのまにか明かりが落ちている。ペンダント電灯が割れていた。手のひらよりも大きい、一匹の蛾が電灯で翅を休めている。気持ち悪い。
足元。やわらかい何かを見つけている感覚。ふにょりふにょりと這う芋虫の大群。
もう一度見渡せば、部屋を雪が舞っている。いや、視界一面に広がるのは埃か。目を凝らしてみると、埃は生きているように宙を揺らめいていた。白い翅、綿のような体躯。小さい無数の雪虫が絶え間なく飛び回っている。
畳の模様が揺れている。毛の生えた生き物何匹も蠢いている。毛虫だった。
壁に模様などあっただろうか。よく見ると模様は、風も吹いていないのにレースのカーテンのように揺れている。たくさんの蟻が壁を行進しているのだった。
素早い、黒い塊が部屋を横切る。ゴキブリが縦横無尽に駆け回る。幾つもの蜘蛛の糸が張り巡らされ、捕まった蛾が蜘蛛に捕食されている。
他にも、鈴虫、コオロギ、クツワムシがいたかと思えば、アブラムシにクマゼミにカゲロウにアメンボ。
兄の部屋が、虫のお化け屋敷のようになっている。
何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない。
「やめて!!!」
気がつけばわたしは叫んでいた。
「やめてもなにも、僕は何もしていませんよ。ただ、夕緋さんにかかった呪術を一時的に《解呪》しただけなのですから。幻覚でも虚構でもない。今のあなたが見ているのは現実そのものです」
「嘘、だよね」
「僕も冗談であってほしいと思いましたよ。幽霊とかは大丈夫なんですが、僕って虫が苦手でねぇ、ほんと応接間に案内されたときなんか死ぬかと思いましたよ」
夜那が家に入ってからずっと怯えたりキョロキョロしたりと様子がおかしかったのは、このせいだったのか。と、納得なんてできるはずがない。わたしはまだ目の前の悪夢が信じられない。
今、動けずに立っている瞬間にも、目の前をゴキブリの親子が横切ってゆく。
「だから蠱毒なんですよ。この家、そのものが。あまりにも規模が大きすぎて、僕でさえ見抜くのに時間がかかりましたが」
信じたくない。こんな虫だらけの廃墟で、今まで平気に暮らしていた。夜那の言う現実とやらが本当だとするならば、まるで。
「狂っているのは、わたしみたい」
「ええ、良い狂気です。僕好みの」
しばらくのあいだ、呆然と立ち尽くしていて、わたしは思い出したように畳のうえに吐瀉物をぶちまけた。全身の震えが止まらない。怖い。狂っているかもしれない自分が、怖い。
「夕緋さんが現実と向き合ってくれたのは嬉しいことです。では、落ち着いたところで対処方法について話し合っていきましょう。まず僕が現状でもっとも危惧しているのは……」
夜那が言いかけたそのときだった。
「真依いいぃぃぃ!! 悲鳴が聞こえたが大丈夫か。俺はまだカレシなんて認めんぞぉぉぉ!!」
兄の声が近づいてきて、開け放たれた扉の前に、兄が姿をあらわした。
「おにいちゃ」
言葉はしかし、言いかけて途切れる。
わたしの知っている兄の姿なんて、どこにもなかった。目の前にいるのは、バケモノ。全身が紫色に変色して、針のような剛毛が皮膚のあちこちを突き破っている。目はぎょろりと赤く血走り、頭からは触手のごとく長い髪が二本、虫のそれとまったく同一に蠢いていて。
「真依、大丈夫か、真依」
兄の呼びかける声は、やがて意味を失ってゆき、無機質な鳴き声へと変わり果てる。
ギチ、ギチ、ギチチチチチチ。
ギチ、ギチチチチチチ。
チッチッチッチ。
歯をガチガチと鳴らして、威嚇する音。わたしがバケモノモードと呼んでいたこの姿が、もしも今の現実そのものなのだとすれば、わたしはもうとっくに本当の兄を失い、どうしようもない虫オバケと同居していたことになる。
カフカの変身。虫と化したグレーゴル・ザムザの異常性をすっかり受け入れてしまった、狂気の妹。グレーテ・ザムザ。
怖い。嫌だ。嫌だ。気がつけば頬を涙が伝っている。
「おのれ眼鏡男、オレノカワイイイモウトニテヲダスナンテユルサナイ」
兄だったものが呪言を唱える。真っ赤な瞳で夜那を睨みつけると、四足の脚をバネにして夜那に飛びかかった。
鋭く伸びた爪が夜那の首元に伸び、彼は壁へと体を打ちつけられる。壁で翅を休めていた二、三匹の蝶が、千切れて落ちた。
「やめてお兄ちゃん! その人はお兄ちゃんを助けるために来てくれたんだよ!」
呼びかけにバケモノは答えない。両手でギリギリと夜那の首を締め始める。わたしはポケットのカッターナイフの柄を握り、自分が何を助けるべきかを逡巡する。
「夕緋さん……、このままでは……、あなたとお兄さんが……殺し合うことに」
「わたしと、お兄ちゃんが」
「蠱毒は、……最後の一匹が残るまで、続く、……お兄さんも、あなたも、虫のひとつ……」
「オレノイモウトニキヤスクハナシカケルナアアア」
呆気に取られる間もなく、目の前のバケモノが、夜那をやすやすと片手で放り投げていた。二階の兄の部屋の、割れた窓から外へ。
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