2-3.ワタシのお兄ちゃん

「さ、あがって。応接間おうせつまで話そ」

 廊下を進んですぐ左側の扉を開ける。応接間には絨毯が敷かれてあって、テーブルを挟んでソファが並べられてある。祖母の遺した広い家には、応接間の他にも茶の間や床の間、客室などたくさんの部屋があった。


「適当に座ってね。飲み物入れてくるから」

「えっ、座るって……どこにですか」

 夜那は応接間のなかをキョロキョロと見回して、不安そうに聞いた。


「ダブルソファだけど……。別に、どの場所に座ってもいいよ。言っとくけど、わたしは隣には座らないから、変な期待しないでね」

「あ、い、いえ。決してそういう意味では。す、すみません」

 夜那がまたオドオドとした態度で言う。ここに来るまでのニヤケ顔が、今では死人のように青ざめている。別人に変わったみたい。

 夜那に告白された日のことを思い出す。彼はまさか、多重人格なのだろうかと思った。


 ひとまず夜那を残して、台所に行く。やかんに火をかけて、マグカップにティーバッグを入れる。角砂糖も二つくらい入れておく。それからお湯を注いで終わり。

 紅茶の入ったカップを二つ持って、応接間に戻る。


「ミルクはないけど」

 テーブルにカップを置くと、ソファの上で萎縮して小さくなっている夜那が「ど、どうも……」と頭でお辞儀をした。


「お、面白い味ですね。何という飲み物なんですか」

 夜那がカップに口をつけて、真っ青な顔のまま聞いた。

「ふつうの紅茶だょ。銘柄は知らない」

「ほへぇ……」

 夜那が間抜けな声を漏らす。そして、やや間を置いて

「ここには人間が住んでいるんですよねぇ……」

 と、訳の分からないことを言う。

 大好きだった祖母の家を悪く言われたようで、わたしもついカッとなってしまう。


「たしかにちょっと散らかってるかもしれないけど、さっきから聞いていれば人の家を廃墟とか何とか。失礼だよね?」

「ちょっと? ……、あ、いえ、ち、違うんです!」

 夜那は両手を振って訂正する。

「僕はふつうの家がどんなのかを知らないのです。両親が死んでいるって言いましたが、生きていたときは虐待を受けていたんです。それで、家も荒れていたし《ソファ》に座ったり《紅茶》なんてものを飲んだりするのも初めてで……」


「ふぅん」

 わたしは彼と向かいのソファに腰を掛け、紅茶を啜る。

 どんな人にもさまざまな家庭の闇があるものだと思ったが、正直今は夜那のことなんかどうでも良かった。夜那には《呪術》でわたしのお兄ちゃんを助けてもらう。その一点のみが重要であり、夜那の存在価値のすべてである。


「ま、それはいいけど。わたしのお願い、聞いてくれるんだよね」

 肘掛けにもたれかかって、脚を組む。スカートの中はズボンなので問題なかった。


「はい、もちろん! そ、その代わりに、僕が夕緋さんの願いを叶えたら、正式な恋人になってくれるんですよね」

「うん、そういう約束だから」

「それで、僕は一体何をすればいいんでしょう」


 わたしはちらりと壁掛け時計を確認した。時計は午後五時を指している。そろそろ、兄が夕食作りに一階へ降りてくる頃合いだ。


「あのね、わたしの兄を助けてほしいの」

「夕緋さんのお兄さん、ですか……。お兄さんが棲んでいるのですか、この家に」

 夜那はさきほどから何故か《家》に固執する。わたしは構わず本題を進めることにする。


「お兄ちゃんね、今年に入ってから様子がおかしくて、多分呪われているんだと思う。たまになんだけど、唸り声をあげて、バケモノみたいになっちゃうの。バケモノに変わる頻度がどんどん増えていって、多分このままだとお兄ちゃんは本当に怪物になっちゃう」

「な、なるほど!??? つまり、お兄さんがご病気なので、その治療費が必要なんですね。僕も親からの相続財産がありますので、少しなら支援はできますが」

「なに馬鹿なこと言ってるの? お兄ちゃんが呪われているから、その呪いを解いてってお願いしてるの。夜那くんは《呪術》の専門家なんでしょ?」


 夜那は真剣な眼差しで、わたしの目を覗き込む。何かを言おうかどうか迷っている素振りだった。やがて、口を開く。

「たしかに、僕は呪術が扱えますが……、これはその……、僕の知る《呪い》の範疇をあまりにも逸脱しているというか……」

 わたしには解らなかった。どうして夜那が、うちに入った途端にここまで怖気づくのか。もしかすると彼には霊感もあって、この家に取り憑いている悪霊の軍団か何かが視えているのかもしれない。


 困る。わたしは兄を救出する唯一の手段として、夜那の《異常性》に懸けているのに。こんなところで逃げ出されるのは困る。


 わたしは向かいのソファに移動して、夜那のとなりに座った。体をくっつけて、彼の顔を見上げてみる。夜那は額に汗をかいていた。メガネの奥に見えるまぶたが、ぴくぴくと痙攣している。


「夜那くんに告白されたとき、正直、イヤだと思った。へんな呪術をかけられそうになったことも、許してないよ。夜那くんが親が死んだことを嬉しそうに話す姿も、虫酸が走った。でも……」

 正面から夜那のメガネを外し、鼻と鼻がくっつきそうな距離まで顔を近づける。青ざめていた夜那の顔に、ほんのりと紅みが差す。

「でも……、夜那くんがわたしのお兄ちゃんの呪いを解いてくれたのなら、わたしはきっと、あなたを好きになる。好きになれるように、頑張るから」


 夜那はしかし、黙っている。何かに思い悩み、葛藤するかのように、まぶたをかたく閉じて考え込んでいた。

 何分かが経ち、夜那の目が開く。

「わかりました。夕緋さんの願いは、僕が叶えます」


 彼が答えた、そのとき。


 トントン、と応接間のドアがノックされた。

「真依? 帰ってたのか。俺だけど、入ってもいいかな。夕食の献立にちょっと迷っていてな」

 わたしの兄、夕緋悠人ゆうび ゆうとの声だ。

 ほっと安堵する。今日の兄は、バケモノにはなっていないようだ。


「お兄ちゃん、入っていいよ! お友達が来てるけど、びっくりしないでね。彼氏じゃないから」

「ま、まままさか!? お、おおおおお男が来てるのか!!」


 慌てる兄の声。

 応接間のドアが、勢いよく開かれる。

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