2-4.ごくふつうの兄とイモウト

「真依いぃぃぃぃ!! 俺はまだ真依がお嫁に行くなんて認めないぞぉぉ」

 素っ頓狂な悲鳴。兄が応接間に転がり込む。兄は夜那の姿を見つけると、血走った目でずんずんと彼に近づいた。


「ひ、ひいいぃぃぃぃ!!」

 夜那が後ずさりしようとして、絨毯に尻餅をつく。ヘビに襲われるネズミさながら、総身をガタガタと震わせている。


「安心して。わたしのお兄ちゃんだから」

 夜那のメガネをまだ手に持ったままだったことを思い出し、すっ転んでいる彼の顔に黒縁をかけ直させてやる。


 視力を回復させた夜那は、兄を見上げる。

「オ、オバケッ!!」と短く叫ぶと、泡を吹いて失神してしまった。


「おいおい、本当にこんな奴が真依の彼氏なのか」

「だから彼氏じゃないって言ってるよね」

「じゃあどうやったら彼氏になるんだよ」

「うーん、お兄ちゃんが会社から内定を貰ったら、かな」

「ふぅ……それなら当分は安心だぜ」

「わたしが安心じゃないよ……」


 たわいない、ごくふつうの兄と妹の会話。これがふつうの家庭であり、ふつうの日常。そう信じ込みたい自分がいた。


  兄は夕食のスパゲッティが、デミグラスソースが良いかトマトソースが良いかを聞いた。わたしはトマトが良いと答える。ほどなくして、兄は台所へと戻っていった。


 わたしは夜那をひざまくらして、彼の意識が戻るのを待つ。夜那は目尻に涙を浮かべて「うーん……オバケェ……オバケェ……」と呻いていた。


《オバケ》と《妖怪》とでは、本質的な意味合いが異なる。オバケはその漢字表記からも解るとおり『化ける』ことが本質である。妖怪とは違い、オバケには変質する前の《本来あるべき姿》が存在する。


 だから、兄をひと目見て『オバケ』と形容した夜那の目には、本質が視えていた。正直、まだ夜那という人物を測りかねている。しかし、彼が霊能力者としてホンモノであることは間違いなかった。


「ん……むにゃむにゃ……、おやぁ、夕緋さんが僕の膝枕を? 僕はまだ夢を見てるのでしょうか」

 夜那が目を覚ます。寝ぼけたまま抱きつこうとしてきたので、足で蹴り飛ばした。


「ゲフッ……ありがとうございます!!」

「なに言ってるの。ちゃんとしてよ、もう。……で、専門家としての見立てだとどうなの?」

「いやぁ、僕はAカップくらいの方が好みなので、大丈夫だと思いますよ」

「な、に、を、言、っ、て、い、る、の、か、な、?」


 それから五、六発ほど足でゲシゲシと踏みつけると、彼はようやく正気に戻ったようだった。わたしは改めて、兄の呪いに関する見解を夜那に求めた。


 彼はわざとらしく目を瞬かせて、驚いたような声を出す。

「ええ!! さっきのが夕緋さんのお兄さんだったんですか!?」


 わたしは思わず「殺すよ」と口に出しかけたが、すんでのところで押しとどめる。

「仮に、そうであったとして……」わたしは言葉を続ける。

「夜那くんは、わたしのお兄ちゃんを元通りに戻せるかな?」


「元通り……、というのは……具体的に? その、僕はお兄さんの本来の姿を知りませんので」


 今度はわたしが首を傾げる番だった。

「夜那くんは特別な霊能力者みたいだから、もしかしたら違うものが視えていたのかもしれない。でも、さっき会ったお兄ちゃんが、のお兄ちゃんだよ?」

「……っ?!!!! で、では……、本来のモードでないお兄さんはどんななのですか?」


「わたしは、バケモノモードって呼んでる。バケモノモードになる頻度は、四月頃は週に一回くらいだった。でも、ここ最近は二日に一回くらい。バケモノモードになったお兄ちゃんは、獣のような唸り声をあげるばかりで、何を言っているのか解らない。家のなかを四足歩行で、暴れまわるの。それに……」

「それに?」

「全身が毛むくじゃらで、まるで人間じゃないみたい。だから、バケモノなの」


「わかりました。では、夕緋さんが思い描く、本来のお兄さんとはどんななのですか?」

 夜那が問う。自分がカウンセリングを受けているような気持ちになる。


「わたしの本当のお兄ちゃんは、優しくて、強くて、賢くて、カッコ良くて、家事も仕事も何でもできて、就職活動をすれば大企業からスカウトされて引っ張りだこになるような、そんな素敵なお兄ちゃんだょ?」


「精神科のある病院をご紹介しますので……、と言いたいところですが」夜那は難しそうな顔をして頭を抱え込む。「夕緋さんは《呪術》を使って、お兄さんを救いたいんですよね」


「当たり前でしょ。お兄ちゃんは呪われているの。きっと、お兄ちゃんに嫉妬する奴らが、お兄ちゃんをダメにする呪いをかけたんだよ」

「うーむ……」


 夜那は、とりあえずわたしと兄の《部屋》を見てみたい、と提案した。何故わたしの部屋が見たいのかは理解したくないが、兄の部屋を見せることで何らかのヒントが得られるかもしれない。

 わたしは、彼を二階へと案内する。兄は台所でトマトソースを作るのに夢中になっていて、わたしたちには気づかないようだった。


「ここがわたしの部屋」

 ドアを開ける。古い家なので、応接間と床の間、台所を除くすべての部屋は、畳張りになっている。障子に仏壇、杢目もくめ箪笥たんすと、女子にしては古臭い部屋かもしれない。


「とても良い部屋ですね。相対的に」

 夜那が褒めているのか貶しているのか分からない感想をこぼす。

「この部屋は、とても綺麗です。まるで人間が住んでいる……いや、現役ピチピチの女子中学生が暮らしていると言っても、不思議ではないくらいです」

「わたしの部屋はもういいでしょ。さ、お兄ちゃんの部屋に行くよ」


 廊下を少し歩いて、わたしと夜那は兄の部屋のまえに立った。

「開けるよ」


 扉が、ギィィィィと音を立てて、開いた。

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