1-7.バケモノ

 最初は指が、ちくりと痛んだ。

 畳のささくれでも刺さったのかな、と手を持ち上げてみようとする。

 だが、動かない。

 金縛りにあったかのように、腕がぴくりとも動かせない。ちくり、とした痛みがまた指先に走った。体を起き上がらせることも、瞬きひとつすることもできない。


「ははは、こいつはちょっとヤバイかもしれないな」

 あえて声に出して言ってみた。額に嫌な汗をかいている。カブトムシ(仮)に、壺のなかの虫死骸と、今日は恐ろしいことが立て続けに起きている。二度あることは三度ある、と言うではないか。


「あはは、おいらはちょっとヤバイかもしれないね」

 俺の声ではない。薄気味悪く高いナゾの声が、部屋に反響する。目を凝らしても、暗くて誰がいるのか分からない。


「だ、誰だ! そこにいるのか!!」

 金縛りなのに、声だけは出せる。


「わ、私だ! ここにいたのか!!」

 声が返ってきた。バケモノの声だ。


 ああ、なんということだ。これは夢なのだ。そしてひどい悪夢に違いなかった。

 ちくり、ちくり、と刺す痛みが、次第に数を増やしていく。痛みは指先から指全体へ、指から手のひらへと、だんだんと広がってゆく。

 自分の手が、まるで裁縫の針山にでもされたかのよう。

 ぷすり、と突き刺す痛みが、どんどんと大きくなってゆく。もはや嫌な予感しかしない。


「ちっ、バケモノめ……」

 毒づくと、

「ふっ、ワタクシめ……」

 また、声が戻ってくる。


 手の痛みが今度は、腕へ。どんどん上ってくる。

 まるで無数のムカデが、這い登ってくる感覚。両腕が焼けるように熱を持ち、苦痛に熔け出してしまいそうだ。

 毛がすべて針でできたタワシをぎゅう、と押し付けられている。いや、それ以上の激痛が爆発する。

「ぐああああああああああああああ!!!」

 とうとう叫びをあげる。こんな痛みに耐えるくらいであるならば、腕をもぎ取ってしまった方がマシだ。

「あはははははははははははははは!!!」

 絶叫が嬉笑となって返ってくる。声はどこから聞こえるのか分からない。自分の頭のなかから聞こえる気さえした。


 シン――、と突然に腕の痛みが消えた。

 いや、痛みどころか腕全体の感覚が無くなった。

 

 金縛りの解けた感覚。

 がばっ、と体を起こす。

 自分の姿を見ようとするも、部屋が暗くて影しか見えない。

 だが影だけのシルエットでも分かる。俺の体から腕が消えていた。


 とりあえず部屋の明かりをつけて、状況を確認しなければならなかった。

 どうしてか、うまく立ち上がることができない。

 俺は尺取り虫のように布団のうえをもぞもぞと這って、鼻を押し付けるようにして、顔で障子の戸を開けた。


 窓ガラスの冷たい感触が頬に伝わる。


「お兄ちゃん、何をしてるの?」

 部屋に、真依が入ってきた。真依は電灯を点ける。

 暗闇で覆っていた影が、光に追い払われる。


《真依こそこんな夜中に何しに来たんだ》

 と言おうとして、声がまったく出ないことに気がついた。


 それどころか、俺の喉はまったく別の音を発していた。


 ギチ、ギチ、ギチチチチチチ。

 ギチ、ギチチチチチチ。

 チッチッチッチ。


 あの不気味な音が、自分の震える喉から発せられる。

 咄嗟に口を押さえようとしたが、あいにく今の俺には『腕』がなかった。


 電灯の光りが瞬く。

 部屋の明かりが反射して、障子を開けた窓ガラスを鏡へと変える。

 俺は、窓ガラスに映った自分の姿を見た。


 手も脚もなく、全身が紫色。頭からは二本の触角が突き出ている。

 そして全身が、針のような棘に覆われていた。

 毒虫、なんと俺は毒虫になっていた。

 これにはグレゴール・ザムザ氏もびっくりである。


 嗚呼、まだきっと夢の続きなのだ。

 はやく目が覚めないかなあ、と俺は思った。

 あわよくば妹に『お兄ちゃん、起きてー』と甘い声で起こされたい。



 真依が、冷たい目で俺を見ている。

「……バケモノ」

 氷のような声が響く。

「バケモノッ!!!!!!!」

 それが妹の声だと知って、俺は心臓まで凍てついてしまいそうだった。

 理想と現実のギャップが大きすぎるぜ。


変身へんしんセシ穢汚かいお異形いぎょう――Ungezieferウンゲツィーファー――、このバケモノめ。わたしのお兄ちゃんを返して」

 真依は、手に隠し持っていた五寸釘を取り出した。




【兄編A】こ、こいつ絶対カブトムシじゃないだろ… (終) 妹編Aに続く

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