1-6.ケイ妹愛

 ひどく疲れた。

 夕食を終えシャワーを浴びて、自室でぐだぐだしていたらもう深夜一時だ。


 布団で仰向けに寝転がり、吊り電灯の豆電球を眺める。橙色の灯りをじーっと見つめていると、催眠術にかかったかのようによく眠れるのだ。


「ウンゲツィーファー、か……」

 真依のセリフが反芻される。

 ウンゲツィーファー、俺はその言葉を知っていた。

 部屋の本棚には、それ、について書かれた小説が置いてあるのだった。


 Ungezieferウンゲツィーファーは、ドイツ語で『害虫』という意味である。俺がこの単語を知っているのは、何を隠そう中二病だから!……ではない。

 大学時代、文学部でフランツ・カフカの『変身』を題材に卒業論文を書いたからである。


 グレーゴル・ザムザ氏が朝起きたら『毒虫』に変身していると気づく、冒頭シーンは誰もが知るところだ。『毒虫』のほかにも『甲虫』『馬鹿でかい虫』『害虫』など、さまざまな翻訳がされている。しかしあくまで原文においてザムザ氏が変身したものはUngezieferウンゲツィーファーである。


 Ungezieferウンゲツィーファーは、必ずしも『虫』を指す単語ではない。もっと抽象的で広い意味を持っていて「獣とも鳥とも、あるいは虫ともつかない、害をなすおぞましい生き物全般」といったニュアンスがある。


 つまり、もし俺がカフカの変身を翻訳するならば、Ungezieferウンゲツィーファーは次のように訳する。

――ある朝、グレゴール・ザムザ氏が悪夢から目を覚ますと、布団のなかの自分が《バケモノ》へと変わってしまったことに気がついた。――



 バケ、モノ。そう、バケモノだ――。


 豆電球の明かりが、ジジジ……プツッ……と妙な音を立てて、消える。

 部屋が真っ暗になる。

 静寂に包まれる。


 おかしいな。いつもならこの時期は、カエルの合唱がうるさいくらいなのに。うちは田舎だから、周りは田んぼなのだ。

 それに、掛け時計の秒針の音が、どれだけ耳を澄ましても聞こえてこない。


 けれども一度布団に入ってしまうと、起き上がるのもめんどくさい。だから先ほどの思索を続ける。

 妹の言い放った「ウンゲツィーファー」が心に引っかかったのには、別の理由があった。


 カフカの『変身』は、ぶっちゃけて言えば『妹萌え』を描いた作品なのである。主人公のグレゴールは、母、父、それから妹の四人暮らしだった。グレゴールがある朝バケモノに変わってしまったことを知って、彼の家族は三者三様の反応をする。


 まず母は、グレゴールを一目見ただけで卒倒してしまう有り様で、自分の息子がバケモノだという現実を受け入れられない。父は、グレゴールに林檎を投げつけたり杖で攻撃を加えたりして、彼を部屋から出させないようにする。自分の息子がバケモノだと受け入れたうえで、バケモノを自分たちの生活から追い払おうとする。


 そのなかで、唯一、グレゴールと向き合ったのが妹のグレーテであった。バケモノと化した兄に、妹は食事を毎日持ってきたのだ。献身的な介抱とまでは言わないが、そこにはたしかな『兄妹愛』が描かれていた。

 だから俺は『変身』に見られる兄妹愛をテーマに、卒論を書いたのであった。


 ふっ――と、白くぼんやりと光る障子に、影が映る。

 一瞬、雪がふっているのかな、と思った。

 丸くて小さな無数の影が、上から下へと、移動していく。


 よく見ると、影のひとつひとつには、まるで虫のような脚が生えていた。

 影は脚をもぞもぞと動かして、障子を伝って降りていく。


 何か自分が、とても重要なことを見落としている気がする。


 兄、妹、虫、ウンゲツィーファー、バケモノ、中二病、壺、宿題、就活、両親の不在、父の日、プレゼント、現実、悪夢、密室、カフカ、変身――、――。

 なんだ、なんなんだ……、キーワードはすべて揃っているはずなのに、ひとつひとつが咬み合わない感覚。


 考えろ。俺は何を見落としている。

『これからはこの子がお兄ちゃんの友だちだからね、もう寂しくなーい、寂しくなーい』

 なぜ真依は、俺に《ウンゲツィーファーばけもの》と名付けた虫をプレゼントした。まさか妹は、とっくに知っていたのではないか。あのカブトムシの正体が、バケモノであることに。


 だとすると、真依がアレを俺に渡した真意は――。


 無数の影が、畳を這いより、布団に眠っているを目指す。

 影が、喰らいついた。


 

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