1-4.アニと妹の密室

 じっと手を見る。

 最初は、髪の毛かなと思った。ゴミ箱のポリ袋を取り替えようとしたときに、切られた髪の毛が手にくっつくことがよくあった。それは真依の髪で、妹は前髪だけちょっと切りたいときに、ハサミを持ってきて自分の髪をゴミ箱に切り落とすのだ。


《現実を見ようね、お兄ちゃん》

 幻覚の妹が囁きかける。

 深呼吸をする。

 分かっている。今、目の前に握っているのは、髪の毛ではない。

 細くて長い。等間隔のまだら模様がある。ギザギザしたもの、焦げ茶色のもの、両端がカーブするもの。数十、いや数百本の絡まりあった紐の束は、どこからどう見ても。


「虫の……触角だよな、これ」

 手のひらには、触角だけでなく、細かく壊れた虹色の翅が幾片も貼り付いている。ちょうせみ蟷螂かまきり飛蝗ばった蟋蟀こおろぎ……ありとあらゆる種類の虫の、翅が、触角が、脚が、胴体が、細かく切り刻まれた状態のもの。俺はその無数の死片を、手で持っているのだった。


 真依の言うとおり、俺は小学生の頃は本気で昆虫博士を目指した。だから、たとえ断片だけであったとしても、虫の種類まで特定できる。

 台所の蛍光灯に照らして壺のなかを確認すると、他にも蚯蚓みみず百足むかで天道虫てんとうむし蝸牛かたつむりと、虫の死骸のオンパレードだった。数にして、数百匹はいる。


 その場で絶叫したい気分だった。

 叫ばなかったのは、恐怖よりもショックの方が上回ったからだ。かつて俺がこよなく愛した、虫。将来の夢にまでしようと追いかけ回した、虫。その虫が、見るも無残に姿を目にするのが、耐えられなかった。


《お兄ちゃんの大好きだったカブトムシだょ》

 真依から虫カゴを受け取ったとき、俺ははじめに気づいたはずではないのか。あれはカブトムシではない。かつて昆虫博士を目指した俺にさえ、種が特定できなかった。バケモノ、としか形容できない生き物だったのだ。あれはバケモノだ。


 吐きそうな気分を何とかこらえる。

 俺は壺を庭に持っていき、処分した。それから洗面所に行き、石鹸で手を洗う。血が出るほどに。洗っても洗っても、穢れが落ちた気がしなかった。

 ポリエチレンの調理用手袋をして、何とか夕食については作り終えた。


 食卓の椅子に腰を掛け、深く溜め息をつく。

 あの陶器製の壺には蓋が覆い被せてあって、なかは密閉状態だ。虫が混入することや、虫が発生する可能性は低い。我が家の床下収納庫には、通気口がない。だから収納庫に虫が入ることもあり得ないし、言ってみれば二重の密室なのだ。


 だとすれば、意図的に誰かがあの壺のなかに虫の死骸を入れたか、あるいは入れてから粉々に潰したか。それしか考えられない。


「あ、今夜はシチューだね!」

 階段を降りてきた真依が、鼻をくんくんさせて言った。


「ああ、今夜はシチューだ」

 俺は努めて笑いかける。


 うちは兄と妹の二人暮らしだ。ここ数年は、我が家を訪れた客人もいない。真依は家庭の事情を察せられたくないようで、友だちを家に上げるのを嫌がった。


 この広い家そのものが、兄と妹、二人だけを閉じ込めた密室だというのに――。

 一体誰が、壺のなかに死んだ蟲を残していったのだろうか――。

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