1-3.我がグケイに真実の覚醒めを齎さんことを
ガバッと起き上がる。
「あ、あれ……俺はいったい……」
先ほどの痛みがウソのように消えていた。と、いうより、まるで悪夢に
狸にでも騙された気分でじっと手のひらを眺めたが、血の一滴もこびりついていない。シャツを脱いで、スマートフォンの内カメラで自分の身体をチェックする。どこにも異常はなかった。強いておかしな所を挙げれば、おなかがポッチャリしてきたことくらい。
もしや虫(あれは本当に虫なのか?)に噛まれた影響でスーパーマンになっているかもしれないと思い、腕立て伏せをしてみるも、五回で筋力が尽きてダウンした。
いつもの、俺だ……。
痛みの記憶も、時間とともに薄らいで、曖昧になってゆく。
うたた寝のときに視た、ただの悪夢だったのかもしれない。
しかし、今現在も動かしがたい真実として――、虫カゴのなかのカブトムシは、消えたままだった。部屋のどこを探しても、ついに虫は見つからなかった。
掛け時計が午後五時を指している。
いけない、お米を研いで予約炊飯をしないと、夕食に間に合わないぞ。
部屋を出て、廊下を進む。真依の部屋のドアを通り過ぎようとした、そのとき。
真依の微かに呻くような声が、耳に届いた。
デリカシーのある俺は、妹の部屋のドアを勝手に開けるような愚行はしない。
そっとドアに顔を近づけて、耳をそばだてる。
いっとくが、やましい気持ちはないぞ。状況確認のためだ。万が一、あの虫が妹の部屋に侵入してみろ。俺は虫に襲われている妹を助けに、飛び込まねばならない。
息を殺してドアに耳をくっつけていると、やがて真依の声がクリアに聞こえてきた。
『嗚呼……我が忠実なる
リンと澄んだ声が聞こえる。
まてまて、漆黒の闇とか言っていなかったか。真依もちょうど中学二年生だしな。いわゆる中二病というやつだろう。
俺も昔は邪気眼ッ!!とかやってたしな。
兄として、生温かい目で妹を見守ろうと決意した。
『我がグケイに真実の
聞いていてこちらが赤面した。この相当に痛そうな黒歴史は、俺の心のなかだけに大切に封印しておいてやろう。
グケイってどういう意味だったかな、と一瞬疑問が浮かんだが、炊飯の準備がまだだったことを思い出した。
抜き足、差し足、忍び足で真依の部屋を離れ、一階の台所へと向かう。
ジャガイモ、人参、玉ねぎが野菜室にあった。今夜はシチューを作ろう。
俺は中学生の頃から妹の世話やら家のことを任されてきたので、こう見えても料理はできる。
なにぶん、俺が中学一年生のとき、妹はまだ五歳である。ちょうど父が家を出て行ったのもその頃だ。母はまだこの世にいたが病気が悪化しており、家事が日に日にできなくなった。
俺は料理だけでなく、掃除、洗濯、裁縫、育児に至るまで、相応の家事スキルを誇る。ただのニートではない。いわば自宅警備員のエキスパートなのだ。
鼻歌をうたいながらジャガイモの皮をむき、水の入ったボールに入れる。炊飯器はとっくにセットした。クッキー型で星やハートにくり抜いた人参を鍋に放り込み、すでに玉ねぎを刻み始めている。玉ねぎと人参、それから鶏肉を炒め終え、鍋にジャガイモを投入した頃には、まな板と包丁の洗い物が済んでいた。
これほどの手際の良さを就活では活かせなかったのが残念でならない。サークル活動やコミュニケーション能力でなく、家事スキルを評価してくれる会社があったらなぁ。いや、それなら清掃会社や食品会社といった選択肢も、うーむ。しばしの思考。
あ、そういえばシチューのルーをどこにしたっけ。
火を弱火にして鍋にフタをし、だいぶ前にしまったはずのシチューのルーを探す。
戸棚にはなかった。もしやと思って、台所の床下収納庫を開ける。
ギィー―ィィィイイイ
という音を立てて、扉が開いた。
そこに見慣れない、謎の物体があった。
(ぬか漬け用の壺か? こんなの買った記憶ないぞ……)
焦げ茶の陶器でできた壺で、高さが二十センチ、底幅が十センチ程度。
上からぴったりと蓋が覆いかぶさっている。蓋も陶器製で、中央に持ち手があった。
壺を持ち上げると、意外に重さはなかった。漬け物が入っている感じはしない。揺すってみると、カサ、カサ、という軽く擦れる音がした。
いったい何が入っているんだろうな、と思い、何気なくヒョイと蓋を外した。
底がぼんやりと見えるが、はっきりしない。黒くてモジャモジャしたものや、虹色に光る紙吹雪のようなものがちらりと見えた。
手を突っ込んでみる。感触的に、糸とか紙くずのような感じだった。
中の物を確かめるため、クシャッと手で掴んで目の前に持ち上げた。
俺はこのあと、自分の軽率な好奇心を深く後悔する。
開け放たれたパンドラの箱に、恐怖する人類のように――。
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