~わたし、やりました……~
「なんだ。
まだ、私のことを覚えていてくれたのか」
数日後、月明かりの下、遠藤のホテルを晶生が訪ねると、遠藤はそんな嫌味を言ってきた。
「いや、あれから、何度も来ようとはしたんだけどね」
と晶生は苦笑いして言う。
「今回、誰か――
私の知らないなにかが動いていたような感じを受けたんだけど。
なにか思い当たる節は? 遠藤」
あのとき、自分が通り魔に向かって走り出そうとしたとき、通り魔の手が突然、震え、ナイフを取り落とした。
自分たちには見えないなにかが動いているかのように。
それは霊かもしれないし。
そうでないかもしれないが――。
遠藤の横に立つ晶生を見上げ、遠藤はにやりと笑って言ってくる。
「そう上から見下すな。
脅されてるみたいだから」
「じゃあ、遠藤も立ち上がったら?
立ち上がっても、それ、刺してんの?」
とその傷口を見ながら言うと、
「これが抜けたら死ぬんだよ」
と遠藤は言う。
「死んでるじゃない」
と言ってやると、
「鬼か」
と言われる。
人の魂は二度死ぬ気がする。
その肉体が滅びたときと、その魂がこの世から消えるときだ。
遠藤は、やはり、立ち上がらないまま言ってきた。
「すまない。
私もお前が普通の女になったら面白くないと思っているひとりのようだ」
「ひとりって他に誰が――」
「堺だよ」
と遠藤は言う。
晶生がホテルの外に出ると、沐生が待っていた。
「……後つけて来るのなら、ついでに中に入ればよかったのに」
と言いながら、晶生は歩き出す。
「あいつは男が来ても喜ばんからな」
と言いながら少し先を歩こうとする沐生の背を見、晶生は思った。
あれ?
もしかして、妬いてる? と。
「なにか聞けたのか?」
「いやあ、簡単にしゃべるわけないじゃない、あの男が」
そう言いながら、晶生は沐生の後をついて行く。
ビルの谷間に浮かぶ丸い月を見上げた。
「暑くなってきたね」
夏が来る。
恐ろしい夏が――。
そんなことを考えながら、月を見上げ、歩いていた晶生は、なにかに鼻をぶつけた。
沐生の匂いがすぐ鼻先でした。
沐生が立ち止まり、こちらを振り返っていた。
「お前、さっきタクシー乗るとき、なんで笑ってた?」
何処から見てたんだ? この男……と思いながら、晶生は言う。
「いや、知った人だったから」
家の前からタクシーに乗ったら、運転手があの田所の事件のとき、ダムまで乗せていってくれた
ふーん、とだけ言って、沐生はまた歩き出す。
おや?
やっぱり、妬いてる? と素っ気ないその背中を見ながら、晶生は思った。
急いで追いつき、なんとなくその腕に触れると、沐生は振り払うように、早足になる。
「あっ、なにそれっ」
もう~と言いながら、晶生は沐生を追った。
晶生が居なくなったあとも階段に腰掛けていた遠藤は、膝で頬杖ををついて、下を見ていた。
目の前に居る男は、此処で拾ってから、持ち歩いていたらしいそのペンをカチカチやってみていた。
遠藤は男に訊く。
「晶生を見張ってなくていいのか?」
「長谷川沐生がついてる。
二人でいちゃつきながら帰ってたぞ」
と男は淡々と言ってきた。
インク切れでも起こしたのか、使えない、というように、男は、ポイ、と遠藤の前にそのペンを投げ捨てる。
そのまま、なにも言わずに、玄関扉を開け、出て行ってしまった。
自由な奴だな……と思う遠藤の前に、ペンだけが残される。
いや、正確には、そのペンと一人の男か、と遠藤は思った。
遠藤の前に土下座をして、その男は言ってくる。
「……わたしがやりました」
いつぞや、堺が、
「これあげるわ」
と笑って、このペンを置いていったのだ。
「気づいたのよ。
このペンを持ってると、あの土下座の霊が出るの。
なんでだかはわかんないんだけど。
カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさいってイエス・キリストも言ってたじゃない。
霊のものは霊に返そうかと思って」
と勝手なことを言って。
それを見て、さっきの男がちょうどいいとペンを持っていってしまったのだ。
霊が憑いているのに。
だが、どのみち、インク切れを起こしたようで、今、投げ捨てていってしまったのだが。
どうしようかな、と土下座する霊を見下ろしていた遠藤の前で、男はまた言ってくる。
「……わたしがやりました」
「……うん」
とだけ、遠藤は相槌を打った。
翌朝、学校へ行く支度をしていた晶生は見た。
ダムの水が干上がりつつある映像を。
ダムに沈んだ村の一部が現れ始めている。
やけに縦に長い木の鳥居の先端が既に覗いていた。
夏が来る。
今までとはなにかが違う、恐ろしい夏が――。
『……わたし、やりました』 完
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