神社 III




 夕暮れどき。

 ダムの端、草むらに立ち、小さな晶生は夕日に赤く染まるダムを見ていた。


 ふうーと息を吐き出し、そこに背を向け、歩き出そうとした。

 だが、ぎくりとする。


 目の前に男が立っていたからだ。


 それは今殺したはずの男だった。

 晶生に向かい、飛びかかって来ようとする。


 晶生はさっと身を縮めた。


 男は晶生を飛び越え、悲鳴を上げて、ダムに落ちていった。

 水音が聞こえた気がする。


 晶生は立ち上がり、波紋の見えるダムの水面を見た。


「……死んでるのに」

 そう呟いたのを覚えている。


 あのときが初めてだった。

 霊がまるで、生きた人間のように見えたのは。


 生きていて欲しいと心の何処かで思っていたのだろうか。

 殺したくて殺したはずなのに。


 私は、犯罪者になりたくなかったのだろうか。






 ふうっと、いつもの悪夢から目を覚ました晶生は自分の上に、男が乗っているのに気がついた。


 時折自分の上に乗っている男だ。


 その顔がすぐ目の前にあり、ぴくりとも動けない感じだ。


 仕方なく、晶生は、久しぶりに、マジマジとその男の顔を眺めてみた。


 意外に端正な顔をしているな、と思う。


 そんなことに気がつくようになったのは、だんだん自分の歳が彼に近づいてきたからだろうか。


「なにか言わないの?」

と晶生は男に訊いてみる。


「寒いとか、冷たいとか、水をくれとか」


 ああ……水はもう充分かな、と呟く。


 男はなにも言わず、死んでいるかのように表情も動かない。


 まあ、もう死んでるか、と晶生は溜息をついた。


 この顔から、少しずつ、邪な気配が消えていっていると思うのは、自分の願望だろうか。


 晶生は布団から手を出すと、触れられないその頬に触れるようにして言う。


「消えててくれない?

 せめて夕方まで」


 あの夕暮れどきの光の中でくらいは、諦めて貴方たちを受け入れるから。


 男の姿が消えたのと障子が開いたのと同時だった。


「沐生。

 普通、ノックとかしない?」

と言うと、沐生は無言で、今、開けた障子を見る。


 ……まあ、ノックは出来ないか。


 いやだなあ、日本家屋って、開放的で、と溜息をつく。


「どうかしたの?」

と言うと、側に来て座る。


 今度はお前が無言の霊か、と思った。


「ねえ、沐生。

 ダム穴って見たことある?」


 寝たまま、ふいにそんなことを訊いた自分を沐生が見た。


 ダム穴はダムがいっぱいになりそうになると、水を抜く穴のことだ。


 そこから水を川へと落とす穴なのだが、黒みがかったダムの水に突如穴が空き、吸い込まれていくさまは恐ろしい。


 巨大なそれが、まるでブラックホールをこの目で見ているような気分にさせるからだろうか。


 この人も悪い夢でも見たのかな、と思いながら、晶生は側に居る沐生の膝に手を置いた。


 それとも、わかっていて来たのだろうか。

 さっきまで居た霊のこと。


 沐生がこちらを見下ろす。

 晶生は、沐生に触れているおのれの手を見た。


 真田に手を繋ぐくらいなんだと言われたが、自分は、沐生以外の男の人とは、指の先が触れただけでも、穢れた感じがしてしまう。


「時折、わからなくなるのよ。

 何処から何処までが夢で。


 何処からが現実なのか。


 沐生はそんなことない?」


 晶生は、そう呟くように言い、沐生の膝に手を置いたまま、目を閉じた。


 廊下からの隙間風か。


 閉められている障子が少し揺れる音がした。





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