いにしえの3











『世界を元に戻そうと?』


「ああ」


 魔法陣が消えた氷の上で、俺は一人、呼吸を整える。

 ゼンの声はテラの声より若干高くて、柔らかみがある。


「レグルノーラは勿論、リアレイトもあのままにはしておけない」


 天上に空いた穴に目を向けると、ゼンの苦しみが胸の奥に押し寄せた。


『私が破壊の限りを尽くしたからか』


「身体を貸していた俺も同罪だ」


 羽を広げ、氷を蹴って空に飛び立つ。生温い空気を突っ切って穴を潜ると、翠清学園高校のグラウンドに出た。以前空いた大穴と同じ位置。“ゲート”になったグラウンドには穴が空きやすくなっていた。ドレグ・ルゴラに乗っ取られていた俺の本体は、それを利用して“湖”に辿り着いたらしい。

 リアレイトの空には、まだ黒い雲が残っていた。雲の隙間から太陽がどうにか光を当てようと、必死に光っているのが見える。

 校舎の周辺には警察や自衛隊の車両が未だ駐まっていた。現場検証をしているらしき制服姿の警官と目が合う。彼は咄嗟に声をかけてきたが、構っている場合じゃない。俺は追跡を逃れるように、その場をあとにした。

 上空へ。

 飛びながら被害状況を目の当たりにする。

 崩れたビル、散乱した死体、くすぶる炎。

 街は現在進行形で壊れていて、とても魔法でどうにかできるような気がしない。

 何か良い方法はないのか。悩んでいると、


『時間を切り取る、という方法がある』


 とゼン。


「どういう意味だ」


『お前は、二つの世界の時間の流れが極端に違うことに対して、何の疑問も抱かなかったか? リアレイトの時間は切り取られている。こういう事故がある度に』


「こういう事故? レグルノーラで起きたことが、リアレイトに影響を与えることを事故だというのか?」


『そう。リアレイトの時間を切り取り、事故が起きる前とこれからの真っ白な時間を繋ぐ。切り取られた時間を使って、元に戻す。リアレイトには魔法の概念がない。だから何かしらの代償が必要になる。レグルノーラの歴史を知っているか。私がリアレイトに侵攻したのはこれが初めてではない。何度も繰り返している。その度に、塔の魔女たちは危険を冒してこの方法でリアレイトを救った』


「ちょ、ちょっと待って。それって、時間を巻き戻すってわけじゃなくて」


『あくまで、切り取る。同じ長さの赤と青の紐があったとして、赤い紐の一部が焼け焦げたとする。その部分を切り取り、無事な部分だけを繋ぐ。この赤い紐と、もう一つの青い紐の両端を持つと、青い紐はたるんでしまう。これが、リアレイトとレグルノーラの時間の歪みを生んでいる。今、二つの時間の差はどれくらいだ?』


「どう……、だったかな。1分が1時間……だったか。60倍?」


『その差が更に広がる。それだけのこと』


「……それってさ、時間を戻すのと同じ? 切り取った時間に死んだ人間はどうなる?」


『リアレイト自体が切り取る直前に戻る。つまり、死ぬ前に戻る。何ごともなかったかのように、同じ時間が経過する。死ぬ運命だった人間は死ぬだろう。出会うべき人間とは出会うだろう。彼らは同じことを繰り返すが、誰もそう思わない。なぜならば、切り取られたことに気付かないからだ。リアレイトに文献にレグルノーラ絡みの事件は記されていない。それは、彼らの知らないところで、レグルノーラ側が配慮したからだ。これまでもずっと行ってきたこと。何も、恐れることはない』


「ゼン、お前、物知りだな」


 言うとゼンはフンと馬鹿にしたように笑って、


『私がどれくらい生きてきたのか、お前には想像など付かないだろう。人間に化け、塔に入り込んだこともある。塔の魔女たちはその都度私を見破ったがね。――さて。自分でやったことは自分で責任を取らねばなるまい。私はお前に救われた。今度は私がお前の世界を救う番だ』


 スッと、意識が入れ替わった。

 俺の身体はゼンのものになり、彼は俺に成り代わって空に巨大な魔法陣を描き始めた。銀色に光り輝くその魔法陣には、古代レグル文字が美しく刻まれていく。中央の小さな縁の内側と、外側の縁の周囲には竜の文様。手の込んだ丁寧な魔法陣。


――“リアレイトの壊れた時間を切り取り、未来へ繋ぐ。全ての悪しき魔法よ消え去り、平穏な世界へ戻れ”


 祈りにも似た言葉がひとつひとつ刻まれていくのを、一体どれくらいの人が見ただろうか。

 白銀の魔法陣から虹色の光が溢れ出て、世界に降り注いでいくのを、どれだけの人が感じただろうか。

 温かく柔らかいその光は、暗く沈んだリアレイトの街を、徐々に徐々に白く染め、そして――……。






 音を立てて時計が戻り始める。






 何も知らなかった時間まで、どんどんどんどん、巻き戻っていく。

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