信じる3
いつもの小路。小汚い細い道は、相変わらず清潔感の欠片もない。
芳野は俺が来たのを確認すると、こっちへおいでと手で合図し、小路から大通りへとズンズン歩き出した。
「ホントに怒ってない?」
俺は心配になってまた聞いた。
「怒るわけないでしょ。あなたの言い分は当然だもの。私がもっと配慮すべきだった。だからこの件はお終い」
芳野のこういうハッキリとした言い方は嫌いじゃない。
「それより、“芳野さん”は止めてよね。よそよそしい。私たち、もうそういう仲じゃないでしょ」
どういう仲だよ。突っ込もうと思ったけど、そんなのは些細なことだ。
肝心なのは、彼女が思ったより大人だったってこと。何が彼女をかき立てているのか知らないが、とりあえず“この世界”に来ることを許されたのは何となく嬉しいわけで。
調子よく歩いていた俺を、芳野は大通りに出る直前で遮った。思わず彼女の腕に引っかかり、つんのめりそうになる。
「なんだよ」
「――シッ。今、微かに邪気が。警戒しながらゆっくりと出て」
そう言い放った彼女の胴体には、先ほどまで存在しなかった銀色の装甲、頭部にはゴーグル、小さな手に余るほどの大型銃。後ろ手に渡された細身の銃を、俺は恐る恐る受け取って構えた。
彼女の陰に隠れながら、俺は息を潜め、その邪気とやらに気を配った。右を見ても、左を見ても、それらしきものは見当たらない。芳野が警戒しすぎるのじゃないかと、高をくくりたくなるところだが、俺はまだこの世界に慣れていない。ただ、言われるがままに手に馴染まない重たい銃を構えるしかないのだ。
一歩、一歩とにじり足で前に出た。
やはり気のせいではと肩の力を抜いた瞬間、前方で女の叫び声が聞こえた。
「走って!」
声にせき立てられるように、俺は走り出した。走って何をすればいいか、そんなことも分からずに。
ドンと、右から歩いてきた人の胸に身体がぶつかる。中年の男にすみませんと頭を下げ、よろけた足を進行方向に直す。銃の重さでふらついてしまう。こんなものを軽々と担いで、あんな装備でよく走れるなと芳野の方に顔をやれば、彼女はスイスイと空気抵抗も重力も感じさせない素早さで、走行中の車の屋根を飛び越え、人垣を分け、悲鳴のした場所へと向かっている。あんな動きができるようになるまでにはかなり時間がかかりそうだなと苦笑いし、俺は重い身体と銃を引きずって通りの向こうに急いだ。
通行人が騒いで人垣を作っていた。様子を見ようと急停車した車に後続の車が追突して、急ブレーキと追突音。それからまた悲鳴、窓ガラスが割れる音。芳野がぶっ放っているのか銃声が数発、獣のようなわめき声、ドシンと何かが倒れる音に続いて血しぶきが通行人にまで降りかかり、更にギャアと痛烈な悲鳴が上がった。
「道、道開けて!」
左手で人垣をかき分けて進もうとするが、前に進めない。やじうまなのか、さっきまでそんなにいなかったはずなのに、やたらと人がたくさんいる。
畜生と口の中で呟くと、
「飛べ、飛ぶのよ、凌!」
芳野の声がした。
アホか、飛べるか、人間が重力に逆らえるわけなかろう。心の中で思ったのを見透かすように、
「念じて! あなたは飛べる!」
怒号にも似た芳野の声に、俺の心臓は大きく一度、ドキリとなった。
――飛べる、この、世界では。
人垣から離れ、数回深呼吸。飛べるかもしれないけど、いや、飛べるとして、一気に芳野みたいに飛び上がれるわけない。足場、足場があれば――と、目の前に止まった車のボンネットを見やる。これだ。
正直、あっちじゃ走るのは得意じゃなかった。どちらかというと体育は苦手で、汗をかくくらいなら成績関係なく見学でやり過ごしたい方。だけどここじゃ、どんな言い訳も通用しない。行く、しかないのだ。
助走を付け、ボンネットに足をかけ、身体を上に。空に向かい、階段があるつもりで前に踏み出す。体重を消せ、風を感じろ、空気の中に溶け込むように、全身を宙に預けるんだ。
ぶわっと、身体が浮いた。
そこでもう一段階高く足を上げる。飛べ、――俺!
空気の階段を蹴った。更に行ける。
大きなバネで飛び上がった感じで、人垣の上を飛び越えろ!
ざわざわっと足下で声がする。誰もが俺を見上げている。
と、飛べた。
前に向き直ると、茶色い巨大な甲虫が目に入った。カブトムシかクワガタを人型にして、更に手足の本数を倍に増やしたようなヤツだ。うねうねと複数の手を動かしては通行人に襲いかかっているのが見える。そこから少し離れたところで、芳野が大型銃を手に、撃ちあぐねている様子も見て取れた。撃てば、周囲も巻き込んでしまうのだ。
「美桜!」
俺の声に、芳野は空中の俺を仰ぎ見る。
「やった、飛べた! ……けど、銃は止めて! 剣を!」
「え? 剣?」
そんなもの、持ってたか? 丸腰で“この世界”に来た俺が今持っているのは、この銃だけのはず。だが、確かに銃はヤバイ。今のこの状況に俺の腕じゃ、周囲を巻き込むに違いないのは一目瞭然。
「イメージして!」
空中でそんなことを言われても、とっさにできるわけがない。
飛べるとこまで飛ぶと、俺の身体は怪物のすぐ上まで達していた。このまま撃つよりも、落下して位置エネルギーを攻撃に変えた方が……。
ん? つまり、そういうことか?
右手に意識を集中させ、頭上まで持ってきて左手を添える。
銃身を、鋭く長い光る
引き金がいつの間にかなくなったのが感触で分かる。皮の巻かれた柄はガサガサとして、汗の滲んだ俺の手から抜けないよう、滑り止めになっているようにも思えた。
「そこよ、ぶった、……斬って!」
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