信じる2

 教室に意識を戻し目を開けたとき、芳野は既に居なくなっていた。

 普段は俺が目を覚ますのを待っていてくれるのに、明らかにご機嫌を損ねた証拠だ。

 マズったな。

 彼女の強引なやり方にとうとう我慢できなくなっただけで、怒らせるつもりはなかったのだが。

 芳野にぶたれた左の頬が、何となくジンジン痛んだ。“向こう”での痛みは、“こっち”にそのまま持ってきてしまうらしい。

 両手を頭の後ろに当てて天井を仰ぎ見、自分の行動を顧みた。

 いや……、怒らせるつもりがなかったんじゃない。怒られても良いから、言いたいことを言いたかったのだ。

 普段とは違う世界の中で動き回るのは結構面白い。彼女があんな態度でも、毎日“レグルノーラ”へ行くのは、現実世界とは違う変な感覚に慣れ、楽しくなってきているからだ。

 彼女を怒らせたことで、これがなくなってしまうと思うと、ちょっと惜しいな。

 俺はゆっくりと息を吐いて、帰り支度をした。





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 次の日も、芳野はいつもと同じ態度だった。

 いつもと同じように俺を無視し、いつもと同じように目も合わせなかった。

 昨日のこと、怒ってるよなと話しかけたかったが、彼女は独特のオーラを放っていて、全く近づく余地がない。前の席なのに、だ。

 授業と授業の間の短い休み時間も、俺はボーッと、ただ芳野の背中ばかり見つめていた。こんなことで険悪になるのは嫌だし、できることなら今まで通りでいて欲しいというひと言がどうしても言えない。茶髪が揺れ、椅子の背にかかるのをただただ呆然と眺めた。これが周囲からどんなにか奇妙に見えているのかなど、そのときの俺に考える余地はなかった。

 だから三時限目が終わり、芳野が突然振り向いたとき、俺は心臓が破裂しそうなくらい驚いたのだ。


「あまりジロジロ見ないでくれる?」


 小さな声だったが、彼女は間違いなくそう言った。


「え……、俺、そんなにジロジロしてた?」


 俺もできる限り声をひそめて聞き返した。


「女子があなたの噂してる」


 噂。

 どんな噂だ。

 慌てて周囲を見渡すと、俺の視線に気付いて女子の群れが一斉にそっぽを向いた。ほ……んとうだ。なんで。


「言動には気をつけることね」


 彼女はそう言って席を立った。

 まだヒソヒソ話が続いているようで、女子は俺の方を見てはキャーキャーと何かわめいていた。

 最悪だ。

 顔も悪ければ取っつきにくい、近づきたくない男子ナンバーワンだという噂を耳にしたこともあるが、こういう風に微妙に離れたところでコソコソと本人にわかるように反応されると、それはそれで傷が付く。

 畜生。また、芳野に借りを作ってしまった。

 こんなことで、放課後の時間がなくなったら……、俺はどうしたら良いんだ。





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「馬鹿ね。そんなこと気にしてたの?」


 放課後、芳野はいつもと同じ時間に教室に戻ってきた。

 気にしていた方が馬鹿だったと言わんばかりの吹っ切れようで、俺はすっかり力が抜けた。


「そんなことより、今日も行くわよ」


 彼女は言って、椅子の向きを変える。

 今日は昨日より少し天気が良い。開け放した窓から風が吹き込み、カーテンを揺らしている。

 俺がいつも通りに手を差し出すと、芳野はいつも通りに手を重ねる。

 この儀式に何の意味があるのかはよく分からないが、彼女の存在を感じながら“レグルノーラ”に飛ぶと安心感がある。


「目をつむって」


 彼女の声さえ、心地良い。


「いち……に……」





………‥‥‥・・・・・━━━━━□■





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