キス2
頭を抱えて床にへたり込んだ。
ホント、俺だけ馬鹿で間抜けで鈍感で。
どれだけ美桜が孤独で我慢強いか知ってるだけに、しなくてもいいことまで心配して。
過去の世界で美幸に言われた『美桜のこと、頼むね』のひと言が頭の中をグルグル巡って、俺はとにかく美桜のことをどうにか守らなくちゃと必死だったってのに。
ドレグ・ルゴラのことだってそうだ。アイツの不吉な言葉がどうにも引っかかってた。 ――『いずれ影は実体化し、この世界と同様に人々を襲うこととなる』
今回の須川の件も、もしかしたらそれと何らかの関係があるんじゃないかって、こっちは胸を掻きむしられる思いだったってのに。
……待てよ。
そういえば、ドレグ・ルゴラが何か言ってた。
補助、魔法……? だったかな。要するに、美桜の力を増幅させる魔法ってことだと思うんだが、本当にアレは有効なんだろうか。試されてるだけだとは思いたいけど、もし仮にあの魔法が有効なのだとしたら、戦い方も変わってくる。俺一人で突っ走っても力不足で空回りすることが多いことを考えると、例えば美桜にその魔法をかけてやった方が効率よく敵を倒せるようになるんじゃないのか。彼女の力は安定しているし、何より俺と違って無駄なく使いこなせている。そうしたら、今回のような悲劇も免れるのでは。
実際使えるかどうかも怪しいし、ヤツの言うとおりの効果が出る魔法かどうかも怪しいが、試してみないことには結論は出せない。次に何かあったときに一度機会を覗って使ってみるのも悪くないんじゃないか。情報提供者がヤツなのが癪に障るが……。
「凌だから、頼んだんだけどなぁ」
思考が遮られた。
ハッと顔を上げる。
ベッドの中に潜り込んでいく美桜の口から出た思いがけない言葉は、俺の頭の中を真っ白にした。
「え……。今、何て」
美桜は頭までタオルケットを被って、俺に背を向ける。
「だって、他に頼める人、いないじゃない」
俺には確かにそう聞こえた。
「……ありがと」
「あ、ああ」
美桜はそれっきり、何も喋らなかった。
すっかり疲れてしまったらしく、気が付くと小さな寝息を立てていた。
俺はそっと寝顔を確認しようとしたが、長い髪の毛に隠れてよく見えない。ただ、眼鏡だけはかけっぱなしで寝るなよとそっと外して、ベッドサイドのチェストの上に置いてやった。
「じゃ、帰るわ」
どうせ聞いていないとわかっていつつ、ベッド下の上履きを持って部屋を出る。廊下を数歩進んだところで、俺はキッチンから物音がするのに気付いた。
飯田さんだ。
「あら、来澄様」
カフェカーテンだけで仕切られた廊下に俺の姿を見つけ、飯田さんは目を丸くした。
「もしかして、お嬢様も帰ってらっしゃってる? 履き物がなかったものだから、てっきりまだお帰りになってないとばっかり」
洗い物の手を止めて、飯田さんはカウンターキッチンの奥から出てきた。白いエプロン姿の小柄な老婆は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「わかっていたら、お茶ぐらい出しましたのに」
「あ……いえ。お気になさらず。もう帰りますから」
あらと残念そうな顔をされ、申し訳ない気持ちになる。
困ったわねと小さく言うのが聞こえて、それから飯田さんの足が美桜の部屋に向いたのに気が付いた。
「あの。美桜は、寝てますから」
「え?」
「疲れて寝てますから、しばらく、起こさないでやってください」
「――来澄様、もしかして怪我してらっしゃる? シャツに血が」
言われてハッとした。
そういえば、左の二の腕。蛇に噛まれた。自分が出血してるかなんて考えてもみなかった。やたらと血がにじんで、垂れてきてる。
よく見たら腹だって。血だらけの美桜を抱きかかえてすっかり汚れてしまっていた。
こ……こんなところで飯田さんに心配をかけるわけにはいかない。シャツが汚れてるなんて気のせいだ。そう、思わせなくちゃ。
そうだ。
今着てるのは血だらけのシャツじゃなくて、アイロンかけたてのシャツで。廊下が薄暗くてそう見えてしまっただけ。飯田さんに、そう思わせないと。
強く、強くイメージするんだ。汚れなんてどこにもない。血なんかどこにも付いてない。
しゅ……集中力さえ高めれば、“表”だろうが“裏”だろうが力を発揮できるはずだ。確か誰かがそう言っていた。飯田さんに悟られぬよう、すり替えるんだ。
「だ、大丈夫です。ちょっと汚しただけで」
シャツが替わったかどうか確認する余裕なんてない。ただ、さっきより少しだけサラッとした肌触りになったような気がする。
玄関に急ぎ、そこで俺はまた動きを止める。
しまった。下足。
いや。ないなんて気のせいで、今俺のスニーカーは下足箱じゃなくてちゃんとこの部屋の玄関に置いてある。そうだ。寧ろ、俺の手に持ってるのは上履きじゃなくて、下足用のスニーカーで。黒地に白い線の入った、かかとがだらしなく潰れたスニーカーを、俺は右手の指二本に引っかけて持ってる。
トンと、右手から玄関のたたきに物を離す。
ホラ、大丈夫だ。いつものスニーカー。
何ごともなかったかのように履いて、外に出るだけ。
履き終えた後クルッと向き直って飯田さんに深々と頭を下げる。
「お邪魔、しました」
頭を上げたときの、飯田さんの狐につままれた様な顔が、忘れられない。
「また、いらしてくださいね」
小さく手を振ってくれたが、何か合点のいかないような顔をして、首を傾げていた。
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