川の底3
「ね、何して遊ぶ? 魔法陣、描ける? 浮かばせごっこは? それとも、膨らましごっこ?」
小さな拳を二つ作って、楽しそうに身体を揺さぶりながら、美桜が近づいてきた。
魔法を使って遊ぼうとしている、ということだけはよくわかる。
にしても、浮かばせはわかるけど、膨らましってのは嫌な予感しかしない。何を膨らまして遊んでたんだよ。
「いや、ホントに、ゴメン。魔法は、今は多分使えないってさっき」
両手を前に突き出して首を振っても、美桜は怯まない。
「みおが教えてあげる。あのね、おててにうんと力を入れてね、やりたいことを頭の中に思い描くんだよ。そうしたらね、ほら……、りょうが浮いた!」
まるで背中を無理やり摘ままれた猫のように、俺の小さな身体は宙に浮いた。安定感のない魔法は、ゆらゆらと激しく身体を揺さぶってくる。ギュンと勢いをつけて、天井へ浮き上がったかと思うと床スレスレに。ハッと息を飲んだ瞬間、今度は横に揺られてタンスと窓辺を行ったり来たり。
「よ、酔う。止めてっ……! 美桜……!」
最悪だ。なんだ、この制止の効かない自由奔放すぎる女の子は。このままじゃ、戻る方法を見つけるどころの話じゃ。
「りょう楽しい? うふふ。私も飛んじゃおっと」
よりによって美桜までフワッと浮き上がる。そして歓喜の声を上げながら、部屋の中をグルグルと周遊し始めた。
「や、やめろって、危ないから!」
「大丈夫だよ。うふふ。楽しいな。お友達と一緒だと、いつもと違うんだもん」
俺が天井付近を漂うと、美桜は床スレスレを飛ぶ。俺が窓際へいるときは彼女は反対側へ。テーブルの角にぶつかりそうになり、ソファの座面にダイブし。そうやってグルグルと、何度も何度も部屋を回って……。
「――コラッ! 美桜! 何してるのっ!」
大人の女性の声がして、空気が一瞬で凍りついた。
美桜は宙を飛ぶのを止め、俺は天井付近から一気に床に落っこちた。幸い、受け身をとって背中から落ちたものの、痛いことは痛い。落ちる場所が悪かったら、頭でも打っていたかもしれない。子供の身体だから助かったというのもある。もし高校生の姿だったら、もっと酷いことになっていた、それくらいの衝撃だった。
頭と身体を押さえて床に転がり悶える俺の存在に気付いたらしく、声の女性は慌てて駆け寄って、大丈夫かと身体を擦る。
「ゴメンね、美桜がとんでもないことを……。美桜! あなた何をしたかわかってるの? ごめんなさいしなさい」
ダンゴムシのように丸めた俺の身体を覆うようにして何度も背中を擦る女性は、どうやら美桜の母親だ。
目を瞑り痛みに耐える俺に美桜の姿は見えないが、どうやら観念したらしく、わっと声を出して泣き出した。
「だってママ。みおね、お友達と遊びたかったんだもん。魔法で遊びたかったんだもん」
「お部屋の中で魔法はダメだって言ってるでしょ。それに……、どうしてお友達なんか」
高校生の美桜の声を少し低くしたような、綺麗な声だ。
綺麗だけど、どこか儚げな。
「もう大丈夫です……。美桜のこと、そんなに叱らないで」
身体を起こしてそこまで言うと、美桜の母はますます恐縮したように、「ゴメンね、ゴメンね」と繰り返す。
参った。……けど、母親が来れば、美桜はもういたずらはしないだろう。
「美桜と遊んでくれてありがとうね。どこに住んでるの。おばちゃん、送ってってあげる」
覗き込んできた母親の顔は、本当に恐ろしいくらい高校生の美桜とそっくりだった。透明な肌、ほんのりと赤い頬、パッチリとした目、それから、柔らかそうな唇。長い髪を肩の辺りで結って垂らしていたが、それだって、美桜が時折髪が邪魔だからと好んでする髪型であって、当然見慣れたものだった。
綺麗だ。
美桜がまだ4つのとき――、母親の歳がどれくらいか想像は付かないが、恐らくかなり若くして美桜を産んだんだろう。自分の親と比べると、まだまだ子供のようにさえ見えてしまう。
あまりの美貌に息を飲み言葉を詰まらせていると、美桜の母親の影から、もう一つの足音が聞こえてきた。今度は、重量感のある音だ。
「
厚めの靴底が床と擦れて、独特の軋みを出す。
低い男性の声は、どこか耳慣れた声で美桜の母に尋ねた。
「美桜がまた魔法を使ったみたいで。巻き込まれた子をおうちに帰してあげなくちゃ」
芳野美幸はそう言って立ち上がり、俺に背中を向けた。市民服を少しアレンジした長めのスカートがひらりと揺れて、身長の縮んだ俺の目に、その中身が見えそうになる。
「巻き込まれた、子……?」
男はそう言って、芳野美幸の影に隠れた俺を覗き込んだ。
背の高い、銀髪の男だった。長い髪の毛を後ろで一つに結い、見事なまでの赤い瞳をこちらへ向けてくる。市民服を着崩した彼は、まじまじと俺を観察し、しばらく思案してから、グイと芳野美幸を自分の方へと引っ張った。
「子供じゃ……ないな」
男はいぶかしげに俺を睨み付けた。
「な、何のこと?」
ゆっくりと立ち上がりながら、俺は苦笑する。
なんだ、コイツ。何でわかったんだ。
雰囲気で察したのか、美桜は男と母親の後ろにサッと隠れてしまった。その怯えたような顔が、何とも心苦しい。
「身体と精神のバランスが取れていない。窮屈な身体の中に、とんでもないものが潜んでいる。“干渉者”……?」
ドキッと、激しく心臓が波打った。
何故、何故バレた。
「嘘。だ、誰の手先? まさか美桜を、美桜を奪いに来たの?」
美桜の母親まで、表情を変えて怯え出す始末。
「違う、違うんだ。俺は、そんなんじゃなくて」
「じゃあ、何だって言うの? どうやってここに入り込んだの?」
「説明しにくいんだけど、俺は迷い込んだだけで。時空嵐の中で、うっかり美桜のことを考えてしまったんだ。それが原因で」
そこまで言うと、銀髪の男はちょっと待てと俺のセリフを遮った。
「まさか……、凌、なのか」
額から汗がたらりと流れた。
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