川の底2

 俺は身体を反らして、腕を後ろに付き、ゴクリと唾を呑んだ。


「え……。今、なんて言ったの」


 彼女は不思議そうに首を傾げる。


「お友達に、なろ」


「その前。名前、何てったっけ。み……、お?」


「うん。みお。あたし、よしの、みお」



 よしの……、芳野、美桜。



 悪い冗談だ。

 目の前の幼女が美桜? まさか。

 だけどこの光景、どこかで見覚えがある。

 いつだったろう、俺はここへ来た。ものすごく小さなとき。あのときは、確かその子と言葉さえ通じなかった。“初めての友達”――保育園の頃、川の底で出会った子は、俺のことをそう言った。言葉も通じないはずなのに、確かにそう言ったんだ。

 あの子に、似ている。

 あのとき、窓の外には異国の風景があった。今はどうだ。

 俺は慌てて立ち上がり、窓の外を覗こうと背伸びする。つま先立ちして、ギリギリ景色が見えた。レグルノーラの街……。古びたアパートが並ぶ界隈は、ヨーロッパの街並みにも見えるけど、高い塔が奥にそびえ、延々と続く白い雲、それから街を飛び交う車輪のない車たちは、ここがレグルノーラなのだと十分に伝えてくれる。

 よくよく思い出してみれば、この格好だって俺が小さい頃気に入ってきていた服。兄貴のお下がりの乗り物柄を嫌がって、服と言ったら恐竜柄ばかり好むものだから、母がいつも困った顔をしていた。二人しかいない兄弟の、二人とも趣向が違うとお金がかかる。お兄ちゃんのお下がりも着てって言われたけれど、俺は頑として拒んでいた。

 コレはその中でも気に入りのTシャツだった。じいちゃん家に行くからと、自分で選んだんだ。

 そして、堰に落ちた。

 増水している農業用の堰に落っこちて、俺は意識を失った。水に押し流され、何度も浮いたり沈んだりを繰り返し、大量の水を飲み込んだ。苦しい、助けてと何度も訴えたけど言葉にならず、身体が冷え、力が抜けていくのを感じた後――、“ここ”に来たのだ。



 つまり俺は、あの日にいる。



 時間を逆行し、芳野美桜と初めて出会った場所に。


 この身体は、四歳のときの俺に違いない。

 テラに『雑念が入れば、どこへ飛ぶかわからないから、注意しろ』と言われたのに。うっかり、美桜のことを考えてしまった。だから、彼女に関連した時間へと飛んでしまったんだ。

 こんな小さな身体では、何もできない。

 どうにかして元の時間軸へ戻らないと。


「ね、いくつなの? 名前、教えてよ」


 目の前の小さな美桜は、俺の焦りや不安なんて微塵も感じていない様子で、同じ質問を繰り返してくる。

 あの、ツンととがったトゲのような彼女じゃない。無邪気で、無垢で、穢れのない幼女が、悪気もなく聞いてくるだけ。


「り……凌、だよ。来澄、凌。よ、四歳。こちらこそ、よろしく……」


 子供っぽい喋りなんて、できるわけない。

 参った。

 耳に入るのは、声変わりなんかするずっと前の、甲高い声だ。


「やったぁ! あたしたち、お友達ね。初めての、お友達!」


 小さな美桜は、飛び跳ねて喜んだ。俺の両手を掴んで、一緒に飛び跳ねるよう、強要した。身体は軽いし、彼女の柔らかな手は嬉しいんだけど、中身は高校生、そんなにテンション高く動き回るなんて無理だ。


「ね、どこから来たの? みおがお昼寝してる間に、こっそり入ってきたの? 鍵を開ける音もしなかったし、足音だって聞こえなかったよ。ね、どこから来たの?」


 両手を握ったまま、彼女は尋ねる。

 なんと、答えるべきか。


「わからない、けど……、気が付いたら、ここに居て」


「うわぁ、すごい! 移動魔法? りょうも魔法が使えるの? ママやみおとおんなじだね!」


 そういえば、美桜の母親も“干渉者”だったと聞いた。美桜も小さい頃から母親と一緒に“こちら”へ来ていた、とも。

 こんな小さい子が、“干渉者”……?

 まだ字も書けないような、ほんの小さな女の子が、二つの世界を自由に行き来してるってのか。


「いや、でも俺は、今の俺は、多分魔法は使えないから」


 首を横に振ったが、彼女は全く話を聞かず、自分の世界に入り込んでぺちゃくちゃおしゃべりを始めた。


「魔法が使えるお友達、うれしいな。だってみお、お外に出られないし、おんなじくらいのお友達が欲しくても、ママがダメよって言うの。みおとおんなじ力を持った子供なんてそうそういないんだから、“おもて”でも“うら”でもお友達なんて作っちゃいけませんって。でもね、みお、信じてたんだ。ぜったいに、みおにもお友達ができるって。みおとおんなじ、魔法が使えるお友達が現れて、一緒にお空を飛んだり、変身したりして遊ぶのよ」


 俺の手を離してパチンと両手を合わせ、身体を揺すって話す姿は、本当に楽しそうだ。

 話の中身は、とても聞き捨てならない内容ばかりだが。


「あ、あのさ。美桜の、ママは? お出かけ中? パパは“表”にいるの?」


「ママはおでかけだよ。シンと一緒。パパ……パパって、何?」


 美桜の動きがピタリと止まった。


「ママはお母さんでしょ。パパはお父さん。美桜は、お父さん、いないの?」


 考え込む美桜。


「お父さん……、わかんない。りょうは、お父さん、わかる?」


「俺んちは両方いるけど……。難しいな。お母さんは、女の人。お父さんは、男の人。一緒に住んでる大人の男の人、いないの?」


「それって、シンのことかな? でも、ママはシンのこと、そうは呼ばないよ」


 ここに住んでるのは、美桜と母親、それからシンって男。どうやらここは、美桜が幼い頃、母親と一緒にレグルノーラで住んでいた家。“向こう”でも普通に生活していたんだろうけど、“こっち”にも同じように居を構えて、二重生活をしていたようだ。

 グルッと室内を見渡すと、それなりに家具も充実してる、生活感もある。

 小さな美桜が遊んだらしきままごとセットが部屋の隅に散らかっているし、気に入りのものなのか、黄色い翼竜のぬいぐるみも落ちている。……心なしか、テラとそっくりだ。

 美桜には父親がいないと聞いていたが、この頃既に何らかの原因で両親は離婚していたらしい。幼い美桜は、二つの世界を行き来することで、その悲しみを埋めていたのだろうか。


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