契約2

 ――耳を疑った。


「え? 今、何て」


 冗談に違いない。

 しかし竜は真面目なトーンで、


『私の前のあるじは“美桜の母親”だったと言ったんだ。彼女は優秀な“干渉者”で、何よりも、私たち竜を愛していた』


 そう言って、寂しそうに遠くを見つめた。

 声を掛けようにも、竜は自分の世界に入り込んで答えてくれそうにない。

 しばしの沈黙が流れ、息の詰まるような合間を過ごした後、そいつはゆっくりと姿勢を戻して、『竜は』と話し出した。


あるじが死ぬと、卵に還る。彼女が命を落としたとき、私は初めて涙を流した。人と竜の絆を、あれほど強く感じたことはなかった。卵を割られるまで、私はずっと彼女の余韻に浸っていたくらいだ。聡明だが孤独で、芯の強かった彼女の温もりは、今も胸に残っている。そして彼女の娘、美桜のことも、おぼろげに記憶している。幼いながら二つの世界を自由に行き来していた彼女も、今は大きく成長したと聞いた。あの美桜が贔屓にしているとあれば、期待しない方がおかしいのだ』


 わかるかねと、竜は首を傾げた。


「俺は、期待なんて、されるような人間じゃない」


 意識的に視線をずらして、小さくため息を吐く。


「勝手に期待されまくって迷惑してる。本当に世界を変えるような力があるのかどうか、未だ半信半疑だってのに」


 拳を握り、歯を食いしばったが、そうしたところでなにも状況が変わらないのは自分自身が一番わかっていた。当然、目の前の竜になにを言っても、解決しないってことも。


『まだ、数ヶ月、だそうだな。君が“この世界”と行き来するようになって。しかも、ついこの間“能力を解放”したばかりだという。……そんな経験の浅い“干渉者”に世界を託そうだなんて、確かにディアナは強引だ。――しかし』


 ズイッと、竜の顔が視界に入り込む。


『それだけ、緊迫しているということだ。強引に事を進めねば、世界が“悪魔”に呑み込まれる』


 ギッと睨み付けられ、数歩後退った。

 小石を踏みつけた足が変に曲がって、グラッと身体が揺れる。

 真っ赤な竜の瞳には、俺の姿がくっきりと映っていた。この場から逃げ出したいと、顔を歪ませ後ろばかり気にしている姿が。


『一方的に与えられる試練をこなすだけでは、当然強くはなれない。君が能動的に強くなろうとしなければ、私が何をさせたとしても意味がない』


 ゴクリと、生唾を呑み込んだ。

 確かに、言っている意味はよくわかる。わかる、けれど。


『逃げるのか』


『君はまたそうやって逃げて、困難を回避しようとする。ここで変わらなければ、君は一生、逃げるだけで終わってしまう。それでも、構わないと?』


「か……、構わないわけ」


 ないだろと、最後まで言えなかった。

 追い詰められ、考える余裕のないまま必死に走ってきただけで、俺は常にどこかで“逃げたい”と。

 巻き込まれ、“レグルノーラ”にたどり着いただけなのだから、自分は無理に首を突っ込まない方がいいのだと。

 美桜が、……彼女が、“二つの世界”の間で揺れ、ずっと仲間になり得る人を探していたのも知ってて。苦しみながら自分のことを俺に打ち明けたのだと知ってて。見せたくないモノも、大事なモノも、共有したいのだという気持ちも知ってて。


 それでも、俺は、常に、“逃げたい”と。


 また、頭と心臓がズキズキし始めた。

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