25.選択肢
選択肢1
殺される。
死ぬって、こういう感覚なのか。
死に直面したことなどない俺は、初めての感覚に戸惑っていた。
だから、自分が今、年上の女性に唇を奪われていることにも、身体そのものが奪われそうになっていることにも、上手く反応できなかった。
ただ、堕ちていく感覚は、幼い頃感じたそれに、少し似ているような気もしていた。
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確かあれは、小学校に上がる前。
俺は、当時父親の実家近くにあった農業用の堰に落っこちて、一時意識不明になったことがあった。経緯は良く覚えていないが、目が覚めたとき自分が喋ったことだけは、今も鮮明に覚えている。
『あの川の中に、女の子が棲んでるんだよ』
農繁期だけ潤う堰の流れは、雨の日の後で少し早かったらしい。偶々、堰の隅っこで木の枝と一緒に引っかかっている俺を、近所のおっさんたちが見つけてくれたんだとか。発見が早かったから良かったもののと散々怒られた覚えがあるが、俺はどうしてそうなってしまったのか、首を捻るばかりだった。
怒られたことよりも何よりも、俺はその女の子のことがしばらく忘れられなくて、父の実家に行くたびに堰の中をのぞき込んだ。
本当に小さな女の子がその中にいたんだと両親に話したが、全く理解してもらえず。
年の離れた兄にも同じことを言ったが、
「凌、それは、夢だよ」
と冷たくあしらわれ、以来俺は、自分の中にこの記憶を封じ込めるようになっていた。
あの深く潜るような感覚さえ掴めれば、俺はまたあの子に会えるかもしれない。
根拠もないのにそう思って、川の中の世界に行こうと何度か試した。水たまりや小川があると側に屈み込んでじっと見つめてみたり、手を突っ込んで、その奥に広がるはずの空間に飛ぼうとした。しかし、当然のように何も起こらず、俺は茫然自失したのだった。
思い返してみれば、あれは、俺と同じくらいの年の綺麗な女の子だった。
髪が長く、青い目が少し外人っぽくて、白い肌をしていて。はにかんだ笑顔が可愛いかった。
お母さんだろうか、若い女の人が側にいた。
それから、そうだ、聞いたことのない言葉を喋っていた。日本語でもない、英語でも、フランス語、イタリア語でもない……、変な言葉。
絵本の中みたいな西洋風の建物が窓の外に見えていた。俺は、彼女の家にいたのだ。
小さい女の子は、俺を初めての友達だと言っていた。
言葉は全く通じなかったはずだけど、間違いなく彼女はそう言って、俺の手を握った。
優しく、柔らかな、手。
『また、遊ぼう』
約束したのに彼女は、首を横に振った。
この場所に俺が二度と来ることはないだろうと、彼女の母親も一緒に首を振っていた。
兄が言うように、“夢”、だったのだろうか。
だとしたら、鮮明に残る記憶はなんだったのだろう。
手に残る、彼女の手のぬくもりは何だったのだろう。
小さな俺は、ずっとずっと、そんなことを考えていた。
初恋、だったのかもしれない。
あれ以来、彼女より魅力的な女の子と出会うことはなかった。
芳野美桜のことを、知る、までは。
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