妙な噂4
どうする。
渇いた喉に唾を押し込めたとき、辺りのざわめきが一斉に収まった。
「芳野さん」
どこぞの女子が、美桜の名を呼んだ。
俺に向けられていたはずの視線が、次第に廊下の先へと移動する。
そこには、いつもの鉄仮面をした美桜が立っていた。
「何の騒ぎ?」
まさか自分が渦中にいたとは思わぬ美桜は、首を傾げ、眼鏡の端をクイと上げた。
皆、美桜の表情を覗っている。
「もうすぐ、五時限目でしょう」
自分の歩みと周囲の視線が同じ早さで動くのをわかっていても、美桜は何食わぬ顔で人垣を抜けてきた。教室の真ん前で立ち往生している俺のこともきちんと視界に入っているはずなのに、彼女は目を合わせようとしない。
「よよ、よ、芳野さん!」
芝山はガバッと振り返り、両手を広げて、美桜に通せんぼした。
「何、芝山君」
美桜の足が止まったのを確認して、芝山は手を下ろし肩で大きく息をする。
そしてこの様子を、何の修羅場だとそこにいた誰もが凝視している。
気が付けば、廊下に面した他の教室の窓からも、たくさんの顔が覗いていた。今や騒ぎは、2-Cのみならず、このフロアにあるほとんどのクラスに注目されてしまっていたのだ。
「き、君はァ、この、この男と、来澄君と、つつつ、つき……つき……付き合ってるの、か?」
芝山は、また声を上ずらせた。
「ど、どうな……どうなんだよ」
そろそろ、予鈴が鳴る。
早くこの事態を収拾させなきゃならない。それは美桜も、うすうすわかっているはずだ。
何を喋るのか。
固唾をのんで見守る中、美桜はゆっくりと息を吐き、眼鏡の奥で目を細めた。
「付き合ってるわよ」
――えっ。今、何て。
「付き合ってるわ。男女の仲。いけない?」
耳を疑った。
ざわめきが、どよめきに変わる。奇異なものを見るような目線が、次々に刺さってくる。
「み……じゃなかった、芳野さん。突然、何、言い出すんだよ」
“芳野さん”なんて、久々に口にした。その気持ち悪さで、俺の口は変にひん曲がった。
芝山は、嘘だとばかりに、俺と美桜の顔を何度も見比べ肩をふるわせている。
「芳野さん、君、おかしいよ! なんで、なんでこんな男と」
あまりのショックでどもりが消えたか、芝山は美桜に迫る勢いでいたが、彼女はそれをスッと交わし、俺のそばまで何食わぬ顔で歩み寄った。
相変わらずの無表情。美桜の考えは、全く見えない。
「なんであんなこと」
俺はボソッと、美桜の耳元で囁いた。
静かに群衆を見つめる彼女は、心の中に怒りを抱えているように思えたのだ。
「いいじゃない。そう思わせておいた方が、楽だわ」
美桜はそう小声で話すと、ぐいと俺の肩に手を伸ばし、俺の頭を無理やり自分の顔に近づけた。
「キスでもすれば、信じてもらえる?」
ほっぺたに、美桜の眼鏡の縁が当たった。未だかつてない、超至近距離。
夢でも見ているのか。
俺の心臓は、体験したことがないほど速く、強く、動いている。
美桜の髪のいい香りが鼻の奥まで広がった。胸は密着しているし、足には太ももが引っ付いている。
しかも、こんな大勢の前でだ。
「ふ、不潔、不潔だ! 芳野さん、君には……、君には幻滅した!」
うわぁっとふ抜けた声を出し、芝山は突然走り出した。教室とは逆方向へ、一目散に駆けていく。
幻滅も何も、芳野美桜とはそういう女だ。
もっとも、その事実を知っているのは俺だけなのだろうが。
芝山が去っていくのを確認すると、美桜は早々に俺に絡めていた手を離し、スカートの裾を直した。ブレザーの襟を正し、グルッと首を回す。右、左と、自分の肩を交互に揉みながら、騒ぎの鎮火とともにそれぞれのクラスに戻っていく群衆の背を目で追った。
「面倒ね」
確かに、面倒だ。
“妙な噂”――俺と美桜が、付き合っているという噂が、こんな事態に発展するとは。
美桜としては、早めに手を打ったつもりだったのだろうが、噂の広まるスピードの方が、それよりずっと早かった、ということなのか。
「よかったのか、あんなことまで言って」
俺も、ネクタイを直しながら、美桜を見下ろした。
彼女は乱れた髪を手ぐしで直しながら、フッと短くため息をつく。
「いいのよ。これで面倒な連中が近づかなくなるのなら、安いモノよ」
美桜はそのまま俺を見ることなく、何事もなかったかのように教室へと入っていった。
美桜と俺を見る周囲の目が、その時を境に急激に変わっていったのは、言うまでもない。
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