黄昏と彼女2

 突風が、俺と芳野を襲った。手が離れそうになる。待って、今、この手が離れたら俺は。

 ギュッと手を握り返し、歯を食いしばった。

 大丈夫、もう少し、もう少し。


『行くわよ。いち、に、――さん!』


 目を開く、合図。

 視界に、灰色の世界が広がっていく。

 たくさんのビルと立体交差した道路、都市を囲むように広がる森、その奥に広がる、砂漠。翼竜が数体、眼下を横切った。砂漠にはサンドワーム、砂地をゆく大きな帆船も見える。

 断片的に飛び込んでくる情報は、脳に直接送り込まれてくるものだ。まだ、視神経は反応しきれてない。感覚を、掴まなくてはならない。

 芳野の手の感触を頼りに、神経をとがらせる。

 指先、手、腕、身体。足は地面に立つ感覚を、口の中では渇いた喉に唾を送り込み、鼻はよどんだ空気を吸い込み、目は隣にいる芳野の姿を捉える。


「大丈夫?」


 芳野の口が開いた。きちんと、音は耳で捉えている。


「だ、大丈夫。……多分」


 自分の震えた声が耳に入ってくると、ようやく全身が感覚を取り戻したのだと悟る。

 悲しいかな、女子の前で頼りない。まだ足はガクガクとしていて、息も荒い。目もしばしばして、まばたきを繰り返してしまう。

 そこはビルとビルの間、狭い小路の奥だった。吹き溜まった葉やゴミが外壁やら地面やらあちこちにこびり付いて、ただでさえ薄暗い小路をより一層不気味にしていた。どんよりと曇った空から注がれるほんの少しの明かりだけが、辛うじて昼間であることを教えてくれる。


「手、離しても、いいかな」


「ええ。あなたがそうしたいなら」


 芳野に絡まっていた手を離し、握ったり開いたりを繰り返してみる。感覚を掴めてきている。これなら、大丈夫だろう。俺はよしよしとうなずいてみせた。

 振り返ると、小路の外側に広がる街並みが細長く切り取られ飛び込んできた。宙に浮いた車、いつも耳にしているよりも少しだけ静かな排気音、それから、蛍光色のネオンがちらついている。


「“ここ”って、“夢の世界”ってわけじゃないんだよな」


 恐る恐る彼女に尋ねると、


「残念ながら夢じゃない。“表”と深く関わりのある“別の世界”。ただ、そう錯覚してしまうのは恐らく、身体を“表”に置きっ放しにしているからかしら」


 不穏な返事に俺は首を傾げた。

 芳野は短く息を吐き、仕方ないわねと言わんばかりに解説を始める。


「“表の世界”から“干渉者”は意識を飛ばして“裏の世界・レグルノーラ”に干渉する。“この場”にいる私たちの本体は今頃教室よ。ただ、ここで注意しておきたいのは二つの世界の時間の流れ。“表”で目をつむり“裏”へ意識を飛ばすとき、私たちは“表”の60倍もの時間を“裏”で経験しているの。例えば10秒だけ意識を飛ばす。すると、10秒×60倍で600秒、すなわち10分間“裏”で活動できるというわけ。つまりね、ほんの少しよ。私たちが手を合わせている時間なんて。ほんの少し目をつむっているだけの間の出来事。これがもっと長くなれば、もしかしたら眠っているようにも見えるかもしれないけれど」


 わかりやすいようなわかりにくいような微妙な説明に、俺は傾げた首の角度をより一層大きくしたが、彼女は十分にわかったでしょうという顔だ。もしかしたら、これ以上わかりやすくはならないのだろうか。


「まずはこの世界に慣れることね。提案なんだけど、毎日放課後飛ばない? 感覚を忘れたらきっと飛べなくなるし」


 両手を腰に当て、彼女は鼻息を荒くして言った。


「ま、ままま毎日?!」


「不服? 土日は学校休みだから、せめて平日だけでもって思ったけど、足りないなら土日も」


「ちが、違うって。毎日待ち合わせるのかよ。それはちょっと……」


「ちょっと?」


 芳野の眉がピクッと動いた気がして、俺は肩をすぼめた。

 二人っきりなんて勘弁して欲しいと言って、彼女は理解するだろうか。

 彼女は互いの立ち位置を知らなさすぎる。学校一の美少女と噂される彼女と、目つきも悪く友達の居ない俺。周囲が見たらどう思うだろう。見つかったらどう言い訳するつもりなのか。

 俺は何を言われても構わないが、彼女はきっと困るはずだ。趣味が悪いとか人選最悪だとか、とにかくきっと堪えられないほどの悪口を浴びせられるに違いない。

 考えれば考えるほど不安しかないというのに、彼女はYESの答えしか求めなかった。

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