2.黄昏と彼女
黄昏と彼女1
誰もいない、放課後の教室。
俺は芳野を待っていた。
右腕をさすり、ボタンを外してブレザーの袖をそっとまくると、黒い文字列が目に入る。
地球上にあるどの言語とも似つかない妙な文字列。
「“我は干渉者なり”……か」
彼女は何を思って、俺に文字を刻んだのだろうか。
「お待たせ、凌」
本当は待っていたくなかったんだけど、なんて言えるわけがない。無理やり放課後残れと耳打ちされのだ。断ると面倒なことになりそうだったから残っていただけ。
「早めに帰らせて欲しいな。俺、疲れてるんだけど」
「疲れてるなら、尚更あっちの世界に飛びやすいんじゃないの」
芳野はそう言って自分の席に荷物を置くと、俺の席に向けてクルッと椅子を回転させた。
放課後の教室に、俺と芳野、二人だけ。
夕日が辺りをオレンジ色に染めて、机や椅子の影が長く長く伸びていた。開け放した窓から夕暮れ時の冷たくなりかけた風が入っては、カーテンを大きく揺らした。
彼女は無言で、俺の目を見る。
ほんの少し青色が混じったような黒い瞳。細面に淡い桃色縁の眼鏡、度が入っているのかいないのか屈折率が低く、レンズを通しても輪郭線はほとんど歪まない。恐らくは人を寄せ付けぬようにするための、飾りのようなものなのだろう。真面目で物静かに見えれば、声もかけにくい。眼鏡を外した顔なんて、学校にいるときはなかなか見せてはくれない。あくまで、ここにいるときは“女子高生・芳野美桜”を演じているのだ。
赤みがかった茶髪のストレートに、ほっそりと引き締まったシルエット。いわゆる、美少女というヤツだ。眼鏡さえかけていなければ、或いは、もう少しだけ愛想が良ければと誰もが言う。彼女にしたいと思っている男どもがうじゃうじゃいるのも知っている。そんな彼女と二人っきりなんて、普通に考えれば、最高のシチュエーションだ。
「目を瞑って」
外から絶え間なく聞こえていた下校のざわめきが、彼女の声に遮られてピタッと止まった。
心臓が高鳴っていく。
喉が渇く。
唾を飲み込む。
光を遮断しても、まぶたの裏には夕焼けの光が差し込んだ。血潮の赤が、目の前に広がった。
「手を」
言われたとおりに右手を差し出す。制服姿の彼女は、自分の左手を俺の手のひらに当て、指を絡ませてきた。少し冷たい、華奢な手だ。
「いい? 目を覚ますまで、私の手を離さないこと」
「わかった」
俺はさも当然のようにうなずき、指を折る。二人の手が絡み、互いの体温が溶け合っていく。
意識を深く落とし、彼女の手の感触だけを頼る。
――沈め、沈め、沈んでいけ。
教室の床にぽっかりと穴が空き、吸い込まれていく様をイメージする。
沈んでいく。椅子が、机が、俺の身体が。目の前の、芳野の身体が。
アリジゴクの罠にかかった蟻のように、どんどんどんどん沈んでいく。
沈み、砕け、溶けて、地面に吸い込まれ、そのまま消えていくのだ。
やがて俺の心と身体は完全に分離する。身体を地上に置き去りにし、意識だけが暗闇を進んでいく。闇を泳ぎ、突き進み、風を感じ――その間も、彼女はずっと無言で、手を離さずにいる。
『まだ、もう少し』
彼女の声が頭に響く。
身体がフワッと、宙に浮いた。正確には、浮いたような、気がした。
直後に、急速に沈んでいく感覚。ジェットコースターさながらに、俺の身体は下方向に引っ張られていった。吐き気がする。決して気持ちの良いもんじゃない。
解放されていた意識が圧縮され、人間の形を作っていく。
もう少し、もう少しだ。
――と、視界が急に白みを帯び、同時に芳野の声が。
『開け!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます