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澄み切った空気に包まれ、ぼんやりと霞む街がミステリアスで健気に見えた。瀬里はこの景色が好きで、陽が昇る前に家を出る。丘の上の住宅地からゆっくりと人気のない坂道を降りていく。両耳にはめ込んだイヤホンではジャニスジョプリンが激しく歌っていた。

コーヒーを買いにコンビニに入ると、友人のマイヤがおにぎりを陳列していた。男物のトレーナーの袖から覗く腕は華奢で、か弱い女性を彷彿させるが、マイヤが深夜のコンビニでバイトができるのは女の子らしくないからという理由だ。

化粧っ気がなく男勝りな性格で、ぱっと見では美形の男の子に見える。腰まで伸ばした髪を思い付きでバッサリ切ったのは、エマニエル夫人を鑑賞して無性に切りたくなったからだそうだ。

「おはよう」

マイヤは瀬里に気がつくと、かすれた声で笑いかけた。

「おはよう。マイヤ、コーヒーちょうだい」

颯爽とレジの中に移動して、素っ気なく透明なカップを差し出してくれた。

「もうすぐ終わるから待っててよ」

「お金ちゃんともらってよ」

「いらないよ、たった100円だし」

この爽やかさと不器用さがマイヤの武器だろう。マイヤが作る可憐で儚い笑顔は他にないほど美しい。

設けられたカフェスペースに座ると、窓の外の空がオレンジ色に染まり始めていた。朝焼けに引き込まれそうになったとき、千鳥足でコンビニへ向かってくる男の姿がガラス越しに瀬里の視界に入った。

幽霊のようにふらふら、ゆらゆらと、無造作な黒い髪は顔を隠したまま。襟と袖が伸びきった白かグレーかよくわからないロンTはその人と一緒に揺らめいている。コンビニに沿うように並んだゴミ箱にぶつかって力なく倒れた。鈍い音と振動を吸収した窓ガラスは何事もなかったように冷ややかだ。

「終わったよ、帰ろう」とマイヤが瀬里の背後から声をかけた。

「ねぇ、人が倒れたみたいなんだけど」

「あいついつもあんな感じ。ただの酔っ払いだから」

夜になれば月が照らす。朝になれば太陽が昇る。日常的にある事のように、倒れたあの人は気にしていないマイヤとコンビニを出ると、ゴミ箱にもたれかかる人が見えた。マイヤは足を止めてため息をつくと、上半身が隠れてしまうほどの大きなリュックからミネラルウォーターを取り出して、その人の力の入ってない手元に置いた。

リュックを片腕で背負うと、瀬里の腕を引いてここにいてはいけないかのような足早でコンビニを後にした。

光る坂道を登りながら、太陽に照らされる自分が溶けてしまいそうだと、被っていたワークキャップをつばに手を添えて顔を隠したマイヤは、もう足元しか見えていない。軽快に運ぶ足に履かせたエンジニアブーツを買ったのはいつ頃だったかと考えていた。雨の日にはブーツの中まで水が染み込んでくるほど履き慣らしている。足首のシワ、磨り減った踵、傷だらけの側面は数年分の思い出が作った証だと思うとなかなか買い替えるのに迷いが生じるものだ。

顔を上げると少し前を歩く瀬里の足元が見えた。切りっぱなしのデニムの裾。ほつれた糸が遊ぶようになびいていた。

二人は決まって、マイヤの家で朝食を一緒に食べる。どちらかというと料理上手な瀬里が朝食を作って、マイヤは洗い物しかしない。洗い物もせずに食べたらそのまま横になって眠っている事もある。口を開けていびきをかいて、知性的な顔立ちからは想像もつかない酷い寝姿だ。

丘の上のスーパーの斜向かいにある平屋の家。そこにマイヤは一人で暮らしている。

昔ながらの一軒家で、おばあちゃんの家に遊びに来たような懐かしさがあり、艶やかな無垢材の床は時折鳴き声のような音を立てる。砂と鉄が擦れて雑音を放つ玄関引戸を開けて中へ入ると、お線香の仄かな香りが二人を迎え入れた。帽子と鍵を下駄箱の上に置いて蹴飛ばすようにブーツを脱いだマイヤは、喉の奥から声になったため息を部屋中にぶち撒けた。

ダイニングテーブルで向かい合って座ると、マイヤは学生の居眠りのように、片方の頬をテーブルに付けて両腕で顔を囲っている。瀬里は持ってきたレシピ本を開いて、これから何を作るかを考えていた。

「何作ろうかな。リクエストある?」

「何でもいいよ、瀬里が作りたいやつ。簡単なやつ。美味しいやつ」

何が食べたいと聞かれても、マイヤの頭の中ある瀬里の作る数ある料理の中から一つをピックアップすることがどうしてもできなかった。どれも美味しくてお洒落な盛り付けで、家庭料理と言うよりはお店で食べる料理のようで贅沢をしている感覚になるのだ。私は目玉焼きと味噌汁しか作れない。ご飯も炊ける。それさえ出来れば困らないからまぁいいやと、少しヤケになりながらも新しい料理にチャレンジしてみようとも思わない。

顎で顔を支えて瀬里を見ると、穏やかな表情と丸い目が愛らしくて、こんなお母さんだったら良かったのにと心底思った。

「瀬里みたいな旦那さん欲しいわ」

「旦那?料理人と結婚すればいいじゃん」

レシピ本に目を通しながら、

「あの人達って仕事とプライベート分けてるから家では作らないらしいよ。」

「へぇ。うん、でもそりゃそうだよね」

シェフとして生きていなくても、仕事とプライベートを分けている器用な人間はたくさんいる。マイヤもその一人だ。バイト中は愛嬌なんてなく、無表情に近い顔で少し近寄りがたい。

普段は物怖じしない性格で、俗に言う綺麗なお姉さんだ。ただ少し言葉遣いが乱暴なところがある。

「てか結婚とかしたくないし。面倒くさそうじゃん」

マイヤが抱く面倒く思う根本的なものは感情の変化だった。ラブストーリーというものを鑑賞する女性達。きっとそのほとんどが恋を楽しめる生き物なのだろう。けれどマイヤの場合は、

「ほら、そいつやめとけって言っただろ!」とか「何でそいつも好きになるんだよ!」とか「てめぇいい加減にハッキリしろよ、来週最終回だろ!」とか、野球観戦をしているようにテレビに向かって罵声を浴びせている。違う意味で楽しんでいるようにも見えるが、腹の底では怒りが煮えたぎっているのだ。マイヤの場合、女性が憧れる恋愛を理解するのに長い時間と歳月がかかるだろう。

以前付き合っていた恋人も、恋愛をしていたというよりは男女の垣根を越えた親友のような存在だった。

一方で瀬里は、女性として生まれてきたからには最愛のパートナーに出会って、献身に寄り添って生きていきたい。と言う考えを持っていた。幼い頃にイメージした25歳の自分は、既に結婚して子供も産んでいたはずなのに、この歳になるまでちゃんと男の人と付き合ったことがない。身体だけの関係や不倫、浮気相手ばかりだった。そんな自分に嫌気がさした。彼と過ごした街も一緒に行ったあの場所も、全て捨ててしまいたかった。誰も私を知らない場所。空気と景色が綺麗な場所。心の療養が出来る場所。やり直そう。少し休憩してまた小さい一歩から前進していこうとこの街にやって来たのだ。最初に出会ったのがマイヤだった。星から落とされたのではないかと思わせるほど、妖艶で輝かしい人だと見惚れていた。マイヤというのが女神からとった名前だと知った時は、星の女神だと疑わなかったほど。けれど本人は自分の名前も顔も好きではないらしく、瀬里にはマイヤが女神とは対照的な女性を必死に演じているようにも見えた。

「瀬里には幸せになってほしいけど、ここの専属料理人になってくれたら嬉しいな」

「いやいや、もうなってるじゃん」

メニューを決めた瀬里は、財布片手に家を出た。冬が訪れることなど知りもしない夏空のような晴れやかな空は、街を静かに見守っている。千切雲を追いかけるようにまた一つ、千切雲が通り過ぎる。吹き抜ける風に撒かれた落ち葉達が足音を立てながら道ではしゃいでいた。

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ブルーズインブルー @wakamurasaki

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