モノローグ
世界は、遥かに前から壊れはじめていた。
人が永続する拡大と発展を諦め始めた時から。機械に
きっと、人は人でなくなりはじめていた。その視界を持った者がまだ居なかった頃は、誰もその変化に直接気付くことは出来なかった。
徳は、廻る因果の糸だ。その一部がそう呼ばれているに過ぎない。人の機能では、それを観測することはできない。だから、一つの側面を見ることしかできない。
『僕』も、この場所に来て初めてわかったことだ。
「はぁ……」
壊れた屋根から、宙が覗いている。其処に星は見えない。人類域の最果てに来ても、星空を見ることは叶わなかった。
人のままの機能では、それは叶わない。最初から『人でない』ものならば、それが叶うのだろうか。人の世界を見下ろすことが、神仏の視座を手に入れることが叶うのだろうか。それは、僕には分からない。
この宙の下の一区切りが、
だが、今は。その部屋の外で女の子が泣いている。何故、髪を二つに束ねた少女は、そんな場所に居るのか。何かを踏み違えてしまったのか。
しくしくと泣く女の子に、朧気な影のようなものが、慰めるかのように纏わりついている。あれは多分、僕の首を締め上げた幽霊の同類だ。
だが、彼女に比べ、余りにも
一方の彼女は、光輝いている。そう見える。
女の子は、泣き止まない。
「ごめんよ、今の僕には何もできないんだ」
僕は言った。この外に出れば、化け物のような徳を持ってでもいない限り、人とは違う
そんな、あの影よりもか弱いかもしれないものの声が、泣き続ける少女に届くはずもない。それを知っていて、僕は声をかけた。ただ、己の心を守るために。
彼女に纏わりつく影は、次第に色濃くなっていく。あの
それ以上に、人の形に近付いていく。
もしも幽霊が僕の方に気づけば、今度こそ殺されて、というよりも。風の前の塵の如く、消されてしまうかもしれない。
だから、僕は声を潜めていた。ただの『門番』が、余計なことをするべきではなかったのかもしれなかった。僕は
「ごめんよ」
と、自分に言い聞かせるように唱えた。その時、女の子が顔を上げて、こちらを見た。同時に、部屋の扉を叩く音がした。
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部屋の扉が、開け放たれた。僕は、そちらの方を見た。
其処に立っていたのは、傷だらけの僧侶だった。全身を泥とノイズに覆われた、パッチワークの如き不安定な有様で。それでも彼は、そこに立っていた。
「弐陸空海は、何処だ」
モデル・クーカイ。それも、尋常の手段で旅路を終えたのではあるまい。
何か、外からの力を使っている。以前、この場所を訪れた僧侶のように。
「一体誰だっていうんだ?」
「髪を二つに束ねた少女だ。まだ、髪を失っていなければ」
「此処には居ない。そして、君は彼女のいる場所には辿り着けない」
恐らくそれは、『外』で踞る彼女のことだろう。
だが、そんな不安定な状態で。この部屋の外へ踏み出してしまえば。人一人の情報量など、一歩も経たぬうちに解けて呑まれるだろう。
「それでも、行かねばならぬ」
「本当に、君達は厄介だ」
厄介極まりない。徳エネルギー文明の影。
「……君達?」
その言葉に。目の前の空海は引っ掛かりを覚えたようだった。
「以前、この場所に来た、肆捌空海。君のお仲間だろう?君よりはまだ、真っ当な道を通ったようだった」
目の前の空海は、豆鉄砲を食らったような顔で驚いた後で。
「彼は何処に居る?」
と、空海は聞いた。
「帰っていったよ。その時はまだ、この部屋もきちんと機能していたからね」
「……成る程、元からアバンギャルドな建造物では無かったわけか」
今の部屋は、何処かの『なにか』のせいで、壁が崩れて穴が開いている。これでは、堰の機能も何もあったものではない。門が壊れては、門番も用無しだ。
「その原因は、今彼女と一緒に居るよ」
「……あの少年か」
部屋の割れ目から外に顔を向ける空海につられて。僕は再び、泣き続ける少女の方を見た。どういうわけか、彼女の周りを彷徨いていたゴーストが消えている。代わりに、そこには少年が立っている。
「余り、身を出さない方がいい。この部屋は、云わば人類の『定義域』だ。外に出れば、君は居なくなってしまう」
「だが、彼女はそこに居る」
「簡単な話だ。なら、彼女は人間ではないものに成っている」
「……成る程、そういう仕組みなのか」
何か、納得をした顔をして。
空海は、部屋の外に一歩を踏み出した。
「なんてことを!」
「成る程、少しは耐えられるらしい」
足先から、煙のように光の粒子の束が立ち上っている。
「それは今だけだ!熱したフライパンの上に垂らされた水滴のようなものだぞ!」
「それも一興。我々の
また、一歩。彼は、死出の旅路を歩む。
「此処から呼び掛ければ済む話だ!何故そうまで!」
「呼び掛けるだけでは、届かぬよ」
一歩。
「泣いている声が聞こえるならば。傍に寄って、慰めてやらねば収まるまい」
泣き声。そんなものは、僕には聞こえない。
「それにな、あの少年」
一歩。
「少し、懲らしめてやらねば収まりがつかぬ」
「それこそ、無茶苦茶だ!あれが、どんな規模の存在なのか……」
一歩。
もう、足首が見えなく成っている。体中から、泡沫のように。
何故、彼がまだ歩みを進められているのか。その時、僕は少しだけ理解した。いや、分かったのは。『何故』ではなく、『どのようにして』という部分だけだ。
モデル・クーカイは、徳を燃やし、力を得る。この世界は、徳で定義されている。
己を擲つ僧侶は、少年の手前で、もう無い筈の脚で、地を蹴った。
ならば、彼等は、もしかすると。
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「……さんちゃんの、声がする」
「……え?」
弐陸空海は、顔を上げた。何事かをぶつぶつと呟いていた『ヤーマ』も、つられてそちらを見る。
し かし、その時にはすべてが遅かった。
「帰るぞ!」
そう叫んで振るわれた参参空海の拳が。『ヤーマ』に直撃した。
たかが人一人の情報量など。この空間で蠢く『ヤーマ』にとって、蚊の刺す程度の影響も無い筈だった。
しかし、その『痛み』に。彼は後ずさった。
この徳の高い、というよりも徳そのものの空間で。何かを傷付けることなど、あってはならない筈だった。しかも、只一人分の在り方しか持たぬ、只の人間が。
「さんちゃん!どうやってここまで……」
弐陸空海は、参参空海にすがりついた。
「……少し、無茶をした」
参参空海は、彼女の頭を撫でようとして。己の手の先が消え去るのを目にした。
力持たぬ己が、この場所でこうしていられるだけで。既に、幾重もの『奇跡』に繋がれているのだろうと。その代償を、支払い続けているのだろうと。彼は、自覚していた。
「……帰るんだ。俺達の家へ」
「うん、一緒に帰ろう!」
「ああ、そうだな。だけど俺は、無茶をしすぎたようだ。少し休んでから帰るとしよう……」
「駄目だよ‼今休んだら消えちゃうよ‼」
参参空海の意識は、既に途絶えかけている。
「一緒に帰らないと!起きて!起きて!」
「起きればどうにかなるものでもないとは思うが……」
今居るこの場所は。人の持つもの『以外』の、徳のようなものの只中だ。物理空間で言うならば、石の中に埋められたようなものだろう。
如何に、徳制御能を持つ空海と言えど、その処理能力には限度がある。人ならざる思考の奔流を捌き続けることなどできはしない。
「そうさな……どうしてもと言うなら……お前があそこまで歩く他あるまい」
「歩く!歩くよ!」
弐陸空海は、参参空海を引き摺りながら歩みを進める。
しかし、その歩みは鈍い。
彼女は、一度人をやめた者だ。それが、人の領域に近付くことは。全の力を捨てるに等しい。個の痛みを得るに等しい。
一歩進むたび、何かを失っていく。今までいた世界が。微かに見えそうだった星空が遠ざかっていく。
わかりそうだったことが。知らずわかっていたことが、わからなくなっていく。
「……私は、どうなってもいい」
参参空海を引き摺りながら。一歩一歩、来た道を戻っていく。
「さんちゃんが、みんなが居てくれればいい」
『……それが、君の望みなのか』
輪郭のぼやけた、少年だったものが。そう語りかけた。
彼にとってそれは、なんともつまらない、ありふれた望みに思えた。
彼と同じ道程を辿っていながら。『全』から『一』となることを受け容れながら。彼女の道程は、全く違うものだった。それが、彼にとっては期待はずれだった。
……だが、彼はそれに敗れたのだ。
少年は。『ヤーマ』は、空を見上げた。彼は、その宙の中で一人きりだった。
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今にも消え去りそうな彼を抱えながら。彼女は転がり込むように部屋に戻ってきた。
「なんて……」
僕は、そう言いかけて詰まった。
なんて、陳腐な物語なのだろうと。しかし、思い止まった。
機械仕掛けの仏が居るならば。機械仕掛けの神も、何処かに居るのかもしれない。
そんなものが居ないことは、多分人の中では僕が一番よく知っているのだろうが。
「私達を返しなさい‼今すぐ!」
少年の髪が解けて行く。失った力と共に去るように。
「……元々、ただの人間には辿り着けない部屋だ。だから君達は、その時が来れば勝手に戻る」
「そう……」
少女の空海は。ホッとしたように微笑んだ。
「……昔、『彼等』の物語ではないと言ったことがあったかもしれない」
徐々に薄れていく二人を見送りながら、僕は呟く。もう、言葉は届かないだろう。届いたとしても、忘れてしまうだろう。いや、例外だらけの彼等なら、何時かこの場所のことを思い出すかもしれない。だが、これは、やはり僕の自己満足だ。
僕が見るのは、徳無き世界で藻掻く者達の物語であって、徳の果てに救いを求める人間の物語ではないと。そう、思っていた。しかし、
「……訂正しよう。これは、君達の物語でもある」
二人は、この部屋から去った。だから、後のことは、語るまでもない。
モノローグはただのモノローグに戻り、話は終わりだ。
世界は、変わろうとしているのかもしれない。人は、人でなくなろうとしている。人でないものが、人になろうとしている。
その行く末は、僕にはわからない。だが、一つだけ、確かなことがある。
それでも、人は生き続ける。
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Tips
彼は、番人だ。いかなる方法によってか、かの世界の端に留まり、堰を見張り続けてきた。
例え堰が壊され、形而上世界が変わり果ててしまったとしても。彼は変わらず、何処にも行けず。星空を見上げることも出来ぬまま、そこに居続けるだろう。
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