第103話「予兆」

 独房、と呼ぶには快適に過ぎる部屋の中で。彼は資料をひたすら読み漁っていた。

 移動に際して監視の目があることを除けば、待遇は賓客のものだった。望めば、船団の設備を見学することすら可能だった。閉じ込めて頑なになられるよりは警戒を解こう、という意図なのだろう。

「……そう易々と、懐柔はされんでおじゃるが」

 現状を一言で表すならば、膠着状態と言えるだろう。船団は主戦力を先の戦いで喪失。集落は『マロ』が居なくなったこともあり、身動きは取れまい。

 そして……あの新型得度兵器は海上で未だ瞑想を続けている。広域徳エネルギーフィールドの崩壊によって、何らかの目に見えないダメージを負ったのか。それとも、他の理由があるのかまでは定かではない。

 ひとまず、得度兵器については考慮から外して良いだろう。広域徳エネルギーフィールドのからの立て直し、そして何より。船団の手によって徳エネルギーパイプラインに代わる動力を確保するまでは碌に動けまい。

 渡海侵攻の動きにだけは注視する必要があるが、侵攻が再開されれば、もうどうしようもない。阻止するに足る戦力を曲がりなりにも持っているのは、この『船団』だけだ。

「まぁ……他にすることも無いでおじゃるし」

 彼は資料の山から顔を上げ、外を見た。一面のガラス窓の向こうに、静けさを取り戻した海が広がっている。

 この部屋は、『エリュシオン』の中にある。嘗ての巨大企業の中枢たる巨人機。その巨体は地へと墜ちて尚、支配者の高みを具現している。

 千年以上を生きて尚。世界には、彼の手の届かぬ領域があった。ここは間違いなく、その一つだった。

 ……それだけではない。プラン・ダイダロス。そして、次元階差機関DDDを初めとする達。徳カリプス以前の、あの穏やかな世界の影で蠢いていた存在。

 研究者としての生き方を捨て去ろうと、未知への興味を抑えることは彼にはできなかった。あの新型得度兵器の行使した技術、徳エネルギーフィールドへの対策を発見することを条件に、『マロ』は限定的ながら船団の施設の使用と嘗てのトリニティ・ユニオンのデータバンクへのアクセスを許可されていた。

 そうして、己が知らぬ世界の暴威を、『マロ』は味わっていた。

「これを知っていれば……『そう』思うのは、無理ないでおじゃろうなぁ」

 この知識の果てにある、エミリアが描く人類再興という夢。確かに、このを知っているなら夢見てしまうだろう。


 嘗てあった人の可能性と、世界の有り得たもう一つの姿を知っているのならば。

 モニタには、徳カリプス以前に撮影された画像が表示される。

 『抉れた』木星の表面。その周囲に浮かぶ、巨大な人工物の残骸。プラン・ダイダロスの残滓。恒星間宇宙船を建造しようと試み、失敗したその爪痕。次元階差機関の暴走が引き起こした、恒常的な重力異常。

 ……それで、終わった筈だった。人の可能性は潰えた筈だった。人類は宇宙から撤退した。人の滅びは止まらなくなった。それが、『マロ』の知る歴史だった。

 だが……それが、成功していたとしたら。種が蒔かれていたとしたら。

 果たして、この滅びは人類の種としての滅びなのか。

「……徳とは、一体。何なんでおじゃろうな」

 彼は嘗て、その本質に最も迫った者の一人だった。その彼ですら、まだ、遠い。

 徳とは、救いに至る道程だった筈だ。人の善性を定義するものだった筈だ。それは何時しか歪んでいた。

 徳エネルギー。人の手にした無限の力。それが生まれる以前の世界の姿を、正しく思い返すことの出来る人間は、もはや居ない。今は『マロ』と呼ばれる不死の男と、トリニティ・ユニオンの中枢を除いては、だが。

 ……いや。その世界を『記録』している者ならば居る。得度兵器となった『Itそれ』。徳エネルギーよりも遥かに以前から、人類の傍らに在り続けた機械知性。しかし、彼等の記憶する世界を読み解く術は、今の人類にはない。

「まぁ、考えるだけ無駄、でおじゃるか」

 ひとしきり思考を脱線させた後。『マロ』は資料の山へと向き直った。逃げる算段をつけるよりも前に、知るべきことは山のようにある。考える時間も、まだ残されている。

 そして……彼はデータベースの中の、ある資料に目を留めた。

 比較的高い重要度が付加されたそのファイルは、彼自身、ひどく懐かしく、見慣れたものだった。

「……今なら、或いは」

 足掻き続けると決めた、今ならば。彼方の過去に目指した高みに近付くことができるやもしれない。

 そうして、彼は小さくつぶやき、その資料と向かい合った。


 功徳情報理論。またの名を、転生理論。彼自身の遺した、未完の理論に。





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ブッシャリオンTips 功徳情報理論(Lv.1)

 またの名を転生理論。徳エネルギー全盛の時代、ある研究者が提唱した異端の学説である。功徳における情報量の保存を仮定しており、大雑把に言えば「功徳は有限である」という理論。論拠に乏しく穴も多いため、評判は芳しくなかった。当時、徳は無限に発生するものと考えられており、理論そのものより提唱者の奇行が目立った、とすら言われる程である。

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