ビッグミリオン

@kenkendog

プロローグ

 月の綺麗な夜だった。

しんと静まり返った横浜港の貨物置場の中に、何の変哲もない赤いコンテナが置かれている。

 夜中の二時を回った頃、その中から複数の人影が極度に何かを警戒する様子で出てきた。月明かりに照らされたその洋服の黒い染みは、まるで血のようにも見える。しばらくすると何やら口論を始めたが、やがて闇に溶け込むように姿を消していく。

 この様子を録画しているのは、絶妙な角度で取り付けられた監視カメラだけだった。だが不思議な事に、中に常駐しているはずの警備員が色めき立つ気配は無い。映像は確実に管理室に流れていたはずなのだが。

 この時に〈限っては〉何も……そう、もっと明らかな犯罪さえも問題にならなかった。



 二〇一九年 四月 ラスベガス 数週間前



 俺は、ラスベガスのパラッツォ・リゾートホテルにいた。なぜこんな所にいるのかと言えば、一言で表すなら「人生を変える」ためだ。その為には与えられたあるゲームの課題をクリアしなければならなかった。

その課題とは……。ここラスベガスで『五十万ドル』を二倍に、単純に『百万ドル』にすることだ。

(なあんだ、簡単じゃないか。たがが二倍だろ?)と最初は考えていたが、それは大きな間違いだと気付くまでにそう時間はかからなかった。

 大金が絡むと、何が起こるか分からないという事を煙草の煙が漂うこの場所で、いま俺は身に染みて感じていた。


 ホテルのビーチサイドが賑わう午後二時、まだ人の少ないBARの片隅で俺とあずさは最終作戦の打ち合わせをしていた。

「謙介さん、今現在のチップを現金に換算すると、約七十五万ドルあるわ。うーん、だいぶ稼いだわね。でもこれを今夜までに……か」

 綺麗な脚を組み替えながら、カウンターテーブルのマルガリータに口をつける。俺の前に座っているのは、まだ二十歳になったばかりだと言うのに、時々妙に大人の色気を感じさせる娘だ。

 謙介さんと呼ばれた男はもちろん俺だが、この時は少し気になる事があり彼女の話から気が逸れていた。

 その原因は一枚のメッセージカードだった。これはさっきこの店に来る前に代理人と名乗る黒服の男から渡されたものだ。そのカードには、意味深な英語でこう書かれている。

【The die is cast. G】

【サイは投げられた】の後に『G』と謎の署名がしてある。だが……このGを思わせる人物に心当たりは全く無かった。

「ん? いくらだって?」

「七十五万ドルよ。ちゃんと聞いててよ」

あずさはふくれっ面で答えたが、その目はどこか優しさを帯びている。この数日間のマネーゲームで、こんな時の俺は何か大事な事を考えているのを知っていたからだろう。

「実はさっきさ、誰かがメッセージをくれたんだ。ひょっとしたら今夜、誰かがデカい勝負を挑んでくるのかもな」

「ふふ。望むところよ。『セブン』は絶対に、負けないわ」

白い歯を見せながら彼女はニコッと笑った。

それを見て何故か肩の力がすうっと抜ける。この無邪気な笑顔に俺はどれだけ今まで助けられたことか。

「それにしても、あいつ遅いなあ」

 あずさの勝ちを確信したかのようなまっすぐなまなざしが眩しくなり、腕時計に目を逃がす。もうここに来て一時間以上が経過していたが、このチームの三人目のメンバーはまだここに来ていなかった。

 このホテルのBARは賭ける事に疲れた人たちも多いようで、観察しているととても興味深い。火の点いていない葉巻を咥えたまま、カウンターで頭を抱えているあの紳士も、昨日までは女たちを派手にはべらせていたのかもしれない。まさに天国と地獄が交差する街であった。

「お待たせ! 出国手続きの段取りをしていて遅くなった。わりい!」

ドアを開け大股で近づいて来るこの男の名前は、紫苑(しおん)だ。整った顔をした二枚目で、白いスーツを自然に着こなしている。コイツからは常にモテるオーラが出まくっていて、まあ実際モテるんだが、酔っ払うと「今までね、俺、人を本気で愛したことが無いんですよ」としつこく語り出すのが面白くもあり、また少し迷惑でもあった。

 だが……俺たち三人が親しくなるにつれ、紫苑はどういう訳か得意のこのセリフをだんだん言わなくなっていった。

「ブラックジャックで勝負もいいが、最後はルーレットで行こうか。俺たち『セブン』にはもう時間が残されていない」

 残された時間をもう一度思い出させるように、俺は順番に二人の眼をじっと見つめた。帰国にかかる時間を考えると、今夜までには勝負を決めたい。 

そう、俺たちのチーム名は『セブン』という。同じ条件で争っている10チームの内の7チーム目ということになる。

「三人がハイローラーテーブルでそれぞれ十万ドルを倍にすれば――計算上は百万ドル突破だけど、そう簡単にはいかないわよ。大金を賭けると注目されるし、謙介さん、赤、黒を確実に当てられる?」

「それは無理だ。ただカジノMGMやミラージュのVIPルームならMAXBETは十万ドルだから、そこなら目立たないし問題ない。けど、少し気がかりな事があるんだ」

「気がかりなことって?」

 ビールを一気に飲み干しながら、紫苑が怪訝な目線を送ってきた。

「これは俺のカンなんだが、三人とも※ピットボスにそろそろ目を付けられている気がする。たぶんこれは気のせいじゃない。もしチームだとバレていた場合、賭けを受けてくれない可能性も考えなきゃいけないな」

 最近感じる謎の視線を思い出しながら、二人に警告した。 

 今回『ビッグミリオンチャレンジ』に参加したのは十組、つまり三十人だ。他のチームが今どれだけ稼いでるのかは分からないが、俺たちの資金は現在の時点で七十五万ドルを突破していた。もちろん、これまでただ漠然と賭けていたわけでは無い。次の画期的な方法を使って稼いだのだ。

 その方法とは、主にブラックジャックテーブルでの『カードカウンティング』という攻略法だった。 

 これはMIT(マサチューセッツ工科大学)のエドワード・ソープ教授が考え出した攻略法で、数学的にも立証されている。この『ゲームに使われたカードから残りのカードを推理する』という原理はごく単純なものだ。博士はあまりにも勝ちすぎてカジノをあっという間に出入り禁止になってしまったが、後に必勝法として本を出版し有名になった。

 この攻略法を更に証明するべく、後にMITの学生サークルが実践を行った。その結果は何と――〈五年間で数億円を稼ぎだした〉のだ。

 もちろん、これに対してカジノ側も手をこまねいていた訳では無い。最新の手法を研究し、今では掛け金の増減(メリハリ)と子の目配りなどから、ピットボスや一流ディーラーはこの攻略法をほぼ見破ることができるまでになっていた。それに伴い、カウントする器具などを使用してなくても、(たとえ頭の中で計算していたとしても)昨今は出入り禁止にできるルールに変わってきている。

俺たちは今まで奇跡的にバレなかったが、もうこの攻略法は使えないだろう。もっとも、バレなかったという部分に対しては影で大きな駆け引きがあったのだが、この時点では何も知らずに少し有頂天になっていた。

 だが……このあと俺たちは、今回のマネーゲームさえ凌駕する想像もできないような運命に巻き込まれて行く事になる。




※ピットボス 各ゲームにそれぞれ配置されているマネージャー的な人物。ディーラーの上司という立場で、高額の両替などの承認や仲裁役などをこなす傍ら、プレイヤーの行動にも常に細かく目を配っている。 

発端




 二〇一九年 三月 



 事の始まりはインターネットの海外サイトからだった。

IT企業に就職した俺は毎日忙しく、ついには度重なる残業続きで倒れ、二十五才の若さで身体を壊してしまった。いわゆる今流行りの『ブラック企業』に見事に就職してしまったのだった。

「上条謙介さーん、お薬の時間ですよ。あー、またパソコンやってる」

いつもの若い女性看護士さんが、きびきびした足取りで病室に入って来た。

「明後日退院だと思うと、眠れなくて。うーん、退職願いを出しに会社行くの嫌だなあ……」

「もう、若いのに何言ってるんですか! “自分のやりたい道を進めば”いいんです。今からでも遅くないんですから」

「年下の君に若いとか言われたくないけどな。でも、自分のやりたいこと……か」

 彼女の元気のいい言葉で、この時俺の中の何かが吹っ切れたような気がした。

 次の日も相変わらずベッドでノートパソコンをいじっていると、バナー広告がすっと移動したように感じた。そしてこの『ビッグミリオン』のホームページがまるでそこに行きつくのが当然のごとく目に飛び込んでくる。そこにはいかにもうさんくさい見出しが、次のようにでかでかと書かれていた。

【十日間で五十万ドルを百万ドルに増やせば大金ゲット! 参加費用は一切かかりません】という単純なものだった。どうやらこれを成功させたチームには、一人あたり百万ドル(一ドル=百円固定で一億円)の賞金が与えられるようだ。ミッション失敗についても【五十万ドルの返済義務は発生しません】と書いてあるから一見リスクは無いようだった。

 一億円? いちおくえんだって? 俺には全く想像がつかない額だ。

昨夜遅くまで悩んでいたが、退院したあと過労死寸前まで追い詰められた会社に、もう戻る気はさらさら無かった。

「みんな寝てなくて辛いけど、納期までに終わらせよう。力を合わせて頑張ろうぜ!」

 深夜の会社でのこんな俺の言葉は、結局皆を追い込む事になっていたようだ。あまりにも過酷なスケジュールに同僚や後輩がひとり、またひとりと会社を辞めて行く。生気がだんだん失われて行く人間の顔は総じて蒼白で、目の下がくぼんでいた。

「お前の指示が悪いんだよ! リーダーシップも取れないのか!」

 上司によく言われた言葉が思い出される。きっと俺には、人を引っ張って行く力など無いんだろうと毎日落ち込んだ。この時期には少し自分も精神的に病んでいたのかもしれない。

 我に返ってもう一度画面をよく注視する。そのサイトには申込みフォームがあり、住所、氏名、年齢、連絡先しか書くところが無かった。

【申し込み者が多い場合は三十万人で締め切ったのち、抽選で結果をお知らせします。なお、虚偽の申告をした場合は無条件で落選となります】とも書いてあった。

サイトの左上には今現在の申し込み人数が表示され、それによるともう十二万人を軽く超えていた。

「まあ、抽選に当たる方がおかしいけど、一応申し込んでみるか」

ベッドで独り言を言いながら、俺は結局これに応募してしまっていた。


 

 渋谷あずさはネイリストだった。十八歳からこの世界に入り、二年が経った現在では池袋で個人の店を出すまでになっていた。

 今どきのメイクとファッションをした目鼻立ちの整った美人だ。少し高く、柔らかい声も手伝って、彼女に初めて会ったほとんどの人は好印象を抱くだろう。だが、そんな彼女もプライベートではあまり心から笑うということが無かった。こと恋愛に対してあずさは不器用であり、どこか冷めてしまっている部分が見受けられる。もちろん恋人がいた事もあったが、恋人よりもいつも仕事を優先させていたゆえに、お互いの時間が噛み合わず、心はいつの間にか離れていってしまうのだ。

「いらっしゃいませ。ご予約の方ですね。ご案内します」

 この日は一段と客が少ない日だった。

 あずさの店は池袋の一等地ということもあり、家賃がべらぼうに高い。客足が少ない店は経営がすぐ行き詰ってしまうので、休んでいる暇などなかった。彼女の経営するネイルサロンの周りにも安さが売りの競合店が現れ、最近はだんだん経営が困難になってきていた。

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 持ち前のプライドからか、決して値段と質は下げずに頑張ってきたが、そろそろプライドを捨てる覚悟がいるのを、日々あずさは感じているようだった。

 昼休みになり、タブレットをいじっていたあずさはこのサイトに出会ってしまう。

「え、これって本当なの?」

【十日間で五十万ドルを百万ドルに増やせば大金ゲット!】という話は、今の彼女にとって非常に魅力的だった。

(賞金一億円。それだけあれば経営を立て直せる)と考えるのは当然だ。

 しかし募集人数が既に二十万人を軽く超えているこの『ビッグミリオンチャレンジ』に当選する確率に絶望したのか、突然顔が曇りふうっとため息をつく。

「ね、これ見て。宝くじを買ったほうがまだましかしら?」

あずさはアルバイトの店員に近づくとタブレットを見せる。

「あ、それですか? 結構有名ですよ、そのサイト。実は私も先週応募したんです。二人とも当たったらいいですよね」と店員は笑顔で答えた。



 篠崎紫苑の趣味は“身体を鍛える事”だ。小、中学校では身体が小さいためいじめられっ子グループの一員だった。だが高校入学と共にボクシングに入部し、身長もめきめきと大きくなり高校二年生の時にはその才能が認められてボクシング部主将になった。それまでにたゆまぬトレーニングを毎日続けたことにより、彼は強靭な肉体を作りあげたのだ。

「いじめているヤツより強くなればいい」――これは、その頃の彼の口癖だった。

その甲斐あってか、いじめはとっくに無くなったが、紫苑は強くなってもいじめていたグループの奴らに決して仕返しをしなかった。

だが――ある日、クラスの男子生徒が眼を赤くしてこっそり泣いているのを見つけた。

「どうしたんだ?」

「何でもないよ」

「いいから話してみろよ」

 その時彼は、自分の過去の経験から何かを感じ取ったようだ。

ぽつり、ぽつりと彼は話し始める。それを聞いている紫苑の顔がみるみる赤くなっていく。なんでも母親が作った弁当を床に捨てられ、汚い上履きで次々に踏みにじられたらしい。いじめられっ子は家庭が貧しく、父親が早死にしてしまって母親しかいなかった。勤めに出る間に母が早起きして作った弁当を踏みつぶされたのが悔しかったらしい。床に潰れて転がっている赤いウインナーに目を移した瞬間……紫苑の中で何かが切れた。

「ひでえ事しやがるなあ」

 その後、近くでにやにやしていたいじめっ子グループ全員を一瞬で半殺しにしてしまった。それがきっかけで彼は退学になり、そのまま地元では知らない人はいないほどの不良になっていく。

 紫苑の両親も中学生の時に離婚して母親が彼を引き取っていた。片親の子の気持ちが彼には痛いほど分かっていたのかもしれない。そしてこの頃から、彼はあまり家に帰らなくなっていった。

 現在二十二歳になる紫苑は、地元の元不良仲間たちと組んでレース活動をしながらバーテン業で食いつないでいた。クールなルックスと、笑うと印象が別人のように変わる不思議な魅力で女性を惹きつけ、女には苦労した事は無いようだ。

今日も昨日と違う女性の家に泊っていた。ベッドの周りには夕べ飲み散らかしたビールの缶が散らばっている。昼過ぎに起きて煙草を吹かしながら、台所のテーブルでパソコンを開いているあいの横に立つと画面をひょいっと覗き込んだ。赤い下着に白いガウンだけ纏ったあいは、『ビッグミリオン』というサイトを開いていた。

「紫苑はさあ、一億円あったら何したい?」

 綺麗にマニキュアが塗られた爪でキーボードを叩きながら、熱心に画面を見つめている。

 その首筋からは、風呂上りのボディーシャンプーの香りが甘く漂っている。

「そうだなあ……。バイクチームのみんなを連れて、海外を自由に旅してみたいな。で、あいはどうなの?」

あいの座っている椅子の後ろから、気怠そうに煙草の煙を吐き出す。

「それさあ、あたしも連れてけっての。あたしはねえ、紫苑と世界一周の旅をする! っというわけでぇ、ぽちっと!」

「ねえ、何がぽちっと?」

「抽選で一億円ゲットって書いてあるから、紫苑の名前でぽちってみたんだよ。でもちょっとへんなの」

「へんって何が?」

「あたしこんなサイトに飛んだ覚えがないんだけどなあ。ま、いっか。大金、大金!」

小鼻を膨らませて、自慢げに紫苑を見上げる。

「ふーん。ビッグミリオンねえ」

画面には【十日間で五十万ドルを百万ドルに増やせば大金ゲット!】と書いてある。

「って、おい。おまえちゃんとここ読んだのか? これって抽選だけで一億円くれる訳じゃ無さそうだぞ」

 あきれた顔をしながらあいの頭に軽くチョップする。

「あー、ホントだ! でもいいじゃん。こんなの当たるワケないし」

「ま、そりゃそーだ。俺はもうちょっと寝るよ。うるせーからケータイ鳴らすなよ」

 そう言ったのと同時に、豹柄のベッドカバーがかかっている布団に向かって助走をつけて飛び込んで行った。



『ビッグミリオン・日本支部』 二〇一九年 三月



【たくさんの応募ありがとうございました。当選された三十名様には、直接お電話でお知らせ致します。なお、落選された皆様には残念賞として、もれなく粗品を発送致します】

「こんな感じでよろしいですか? ところで、粗品のこのタオルって本当に良い素材を使っていますよね」

ホームページの更新をしていた若い女性オペレーターが、サンプルの手触りを確かめながら長身の男に向かって笑顔を浮かべた。

「ああ、本部の力作らしい。きっと落選した人たちも喜ぶだろう。だが……まあ、これからが楽しみだな」

 にっこりと爽やかな笑顔を返すこの男は、ブライアン・フォールという名前だ。前半は流暢な日本語で答えたが、最後の言葉はシカゴ訛りの英語で呟くように言ったので、オペレーターたちには良く聞こえていなかったようだ。

 しわ一つ無い白いスーツを自然に着こなす彼は、〈トムクルーズ〉に似ていると言われ、日本支部のオペレーターの女性たちに大人気であった。また、組織の幹部候補生でもあり、若くして広報全般をまかされている男でもあった。手にしたタオルの手触りをもう一度確かめると、満足そうな顔をしながらテーブルに置く。

 ここは横浜にある巨大な倉庫だ。部屋の中にはモニターや電話機が数十台並んでいる。この建物の隣には、倉庫を改造し無菌室になっているラボがいくつかある。このとてつもなく広い部屋の中を、白い服を着た大勢の研究員が忙しそうに今も動き回っていた。研究員は若いものから年配の者まで幅広く、外国人の姿も多く見受けられる。ただ、何故か倉庫の外にはカメラが複数設置され、軍事施設並に警備が厳重だった。

 今回から始まった『ビッグミリオン』チャレンジには世界中から三十万人の応募があり、応募期間前に上限となり締め切られた。

 抽選日は一週間後の三月二十日である。選ばれた三十名は東京に集合後、ルール説明を受け、四月一日より十日間のチャレンジ期間に入る。世界中から集まった当選者たちがチームを結成し、それぞれ協力してしのぎを削るのだ。

 ルールは簡単だが、禁止、失格事項が三つだけある。

一 資本金を持っての逃走は禁止。

二 増やす手段は一切問わないが、自己資金を足してのクリアは禁止。(クレジットカード等は一時没収)

三 条件をクリアしても、チーム全員が期間終了の四月十日の正午までにスタート地点に戻らないと失格。

※なお、上記一、二項に該当した場合は、当社が定めるペナルティを課します。

ペナルティの内容が一切書かれていないのは気味が悪いが、非常に簡単なルールである。世界の競馬場で一発勝負するもよし、カジノで増やすもよし。株で勝負するのももちろん自由だ。

 おまけに【五十万ドル全て失っても返済しなくてもいい】という件は誰の目にも非常に魅力的に見えただろう。これは――極端な話だが、例えば五十万ドルで十日間遊び回っても誰にも文句を言われる事は無いのだ。

 しかし、当選者の中には懐疑的な気持ちを抱いている者も少なからず存在した。参加者がこんなにもリスクを負わないチャレンジなど普通はありえない。つまり、The bait hides the hook.(うまい話には裏がある)と考えたのも無理は無かった。



 選ばれし者たち




『ニューヨーク市警・NYPD』 二〇一九年 三月



「ジェフ、これ見てくれよ。イカレてやがるぜ」

 昨日二十八歳になったばかりのマイケルは、バースデーパーティ明けの今日も出勤だった。ただ、彼にとって幸いなことに今の時間には珍しく通報も少なく、Shake Shackのバーガーを口いっぱいに頬張りながらパソコンを見ているだけで良かった。

その声を聞いて、少し離れた席に居る相棒ジェファーソンは、自分の机に乗せていた足を面倒くさそうにどかっと下ろすと、巨体を揺らしながら彼に近づき画面を覗き込む。同い年の彼らは、警察学校の時からの友人であり良くも悪くもお互いを認め合っていた。

【あなたにピッタリなお相手が必ず見つかります。お問い合わせ先は……】

「何だこれ。お見合いパーティー〈スカートを履いた男性限定〉だと? 近頃へんなサイトが増えているなあ。そう言えばマイク、確かおまえ恋人が欲しいって言ってたよな?」

 ジェファーソンはくっくと笑うと、マイケルの机にあったポテトをわしづかみにして口に放り込んだ。

「バカ、そう言うおまえが行けよ。でもまて、ちょっとだけ想像してみるから――くそ! ヤメとけば良かった。食欲無くしたから、もうそれ全部食っていいぞ」

「なんか悪いな」

「なあ、そういえば先週一緒に百万ドルが稼げるサイトに応募したのを覚えているか?」

「あれか……どうせあんなの当たるわけないよ」

 ポテトをくわえたまま、太い首を振って両手を広げた。

「いや、何か凄い事が起こる予感がする。実は今朝、どこかに向かう飛行機に乗っている夢を見たんだよ。もし当たってたらそろそろ電話がある頃だ。なんてったって俺は『預言者マイク』って呼ばれてるんだぜ」

 その顔はいつになく真剣だ。

「また始まったなインチキ予言者さん。良く分かったよ。そうだな、医者に一回ココをよく診てもらえ」

ジェフは笑いながら自分の頭をとんとんと指で叩くと、また巨体を揺すりながら席に戻っていった。 

 その途中突然、二人同時に携帯電話が鳴った。その電話に出たマイクの顔色がみるみる紅潮していく。同じように電話に出たジェフの目は見開いている。そして目が合うと、二人とも親指をぴっと立てた。更にジェフはよほど嬉しかったのか、巨体に似合わないステップをその場で踏みだした。彼の体重に耐え切れず、どすんっどすんっと遅れて床が低い悲鳴をあげた。



『東京・池袋』  二〇一九年 三月



 あずさのネイルサロンは、あれからも変わらず客足が鈍ったままだった。ネイルコンペティションで上位入賞する程の腕なのに、客が思ったよりも来ない。まだ宣伝が足りないのだろうか。

(嫌だけど、料金を下げて他の店と足並みをそろえるしかないか)と彼女が弱気になっていたその時だった。

 その考えを断ち切るように、携帯電話が鳴る。鉛筆を上唇に乗せながら、綺麗な指先で電話を持ち上げ通話ボタンを押す。

「突然のお電話失礼致します。渋谷あずさ様ですか?」

また怪しい融資の電話かと思い、眉をひそめる。

「はい、そうですが」

「おめでとうございます! こちらは『ビッグミリオン事務局』です。あなたはこの度申し込まれたビッグミリオンチャレンジに当選致しましたので、ご報告の電話を差し上げました」

「えっ! 本当ですか?」

 よほど驚いたのか、電話を落としそうになる。

「はい。つきましてはルール説明などがございますので、三月三十一日に新宿までお越し下さい。パーティーも兼ねてパークハイアットホテルにお部屋を用意しております。チャレンジスタートは翌日の昼十二時から十日間になりますが、ご予定はいかがでしょうか?」

(パークハイアットと言えば、東京でも屈指の超高級ホテルよね。このサイトを運営している会社は一体どんな会社なんだろう)と彼女は首を捻った。だが、ここでまさかの当選を逃す訳には行かないのだろう。

「はい! 大丈夫です。でもあの、ひとつだけ質問があるんですが」

「どうぞ。何でもお聞きください」

「チームを組んで条件をクリアするとホームページに書いてあったのですが、クリアした場合は均等に賞金をもらえるんですよね。貢献した割合とかじゃなくて……」

 あずさにとって、そこはぜひ確認しておきたいようだった。

「もちろんです。クリアしたチームには〈それぞれ均等に一人ずつ〉百万ドルが渡されます。お望みでしたら当日に日本の紙幣で一億円の現金をお渡し致します。詳しい集合時間と場所はまたお電話さしあげますので」

「分かりました! ありがとうございます」

 電話を切っても、しばらく彼女の震えは止まらなかった。




『富士スピードウェイ』 二〇一九年 三月



 この日は絶好のレース日和だった。良く晴れた日で路面温度も二十五℃と理想的だ。

 紫苑が乗る赤いマシンは、ピットアウトすると猛スピードでコースに戻って行った。甲高いエキゾーストノートと白煙を撒き散らしながら、コーナーに果敢に突っ込んで行く。

 現在、紫苑のチーム『かたつむり小僧』は順調に二位をキープしていた。今日はアマチュア250CCのバイクレースがあり、上位八チームが決勝に残れる大事な日だ。

「紫苑くーん! がんばってー!」

 スタンドからは女性たちの黄色い声援が上がる。派手な服装の女性が多く見受けられるのは、夜の仕事の関係からだろうか。その中にはあいの顔もあった。手には何故か【安全運転】と書いたボードを持っている。

一方、レースは危なげなく進行しているように見えた。このままだと優勝もありそうな勢いだ。しかし――チームの仲間もピットから声を枯らして応援するなか、突然、最終ストレートで紫苑のマシンから黒煙と炎が上がった。

やがてみるみるマシンは失速して行き、ゆっくりと止まる。彼はマシンを降りると、悔しそうにチームカラーの紫色のヘルメットを地面に叩きつけ、何か叫びながら両手を広げ空を仰いだ。

 その夜の残念パーティーには十名のクルーが集まり、反省会が始まった。ここに居る面々は元不良たちだが、レースとマシンに対する真剣さは誰にも負けていなかった。

「紫苑おまえ、ひそかにシフトタイミング間違えたんじゃないのか?」

メカニックの堂本が、ニヤニヤ笑いながら紫苑をからかう。

「ばあか、俺が間違えるワケねーだろ。おまえらメカニックがどっかのネジを締め忘れたんじゃねえのか?」

ツナギからラフな服に着替えた紫苑も親指を下に向けて爽やかに笑うと、ぐいっとビールを喉に流し込んだ。

リタイヤした割には和やかな雰囲気の中、六本木のバーでの反省会は深夜まで続いた。

「遅くまで悪かったね、マスター」

一番最後に店を出た紫苑の頬を、三月の冷たい夜の空気がすうっと撫でていく。

「ううう、さみい! なんだ? この番号。……横浜か」

電話の液晶を見た彼は軽く首を捻る。どうやら見覚えの無い不在着信が表示されていたようだ。その番号にかけ直すと、深夜にも関わらずすぐに相手が出た。

「もしもし? なんか着信があったんですけど」

「お電話ありがとうございます。こちらはビッグミリオン事務局です。お名前をどうぞ」

留守電ではなくちゃんとしたオペレーターの声だった。

「篠崎紫苑と言います。ビッグミリオン? どこかで聞いたような……」

「しばらくお待ちください。――篠崎様ですね。おめでとうございます! あなたは、この度申し込まれたビッグミリオンチャレンジに当選致しました!」

深夜にもかかわらずテンションの高い女性の声でそう告げられ、とっさに受話器を耳から遠ざける。

「ちょっとゴメン。いま酔っ払ってて頭が回ってないんだ。また明日かけ直してくれる?」

「承知しました。詳細は追って連絡します」と聞いたと同時に彼は途中で電話を切ってしまった。

「おはよー、あい。昨夜さあ、なんか当選しましたよ的な電話があったんだけど、ひょっとしてこないだのアレかな」

 いつものように昼過ぎに起きると、化粧をしているあいに向かってあくびをした。

「アレってなによ。それよりも……昨夜パンツが裏返しだった理由を説明してよね!」

「ばーか。レース後にシャワー浴びたんだよ。そんなん普通だろ?」

「普通ねえ。今度からパンツにあたしの名前をマジックで書いてやるから」

「なにふくれてんだよ。つーか、今どき小学生でもしねーよそんなこと!」

 しばらくして低レベルの言い争いは収まった。そして、やっとここで二人は、どうやら百万ドルチャレンジの権利を得たらしいという結論に達したようだ。

「あたしのおかげなんだから、連れてってね」

 まだ条件をクリアした訳じゃないのに、あいは飛び上がってはしゃいでいる。しまいには着ていく服をごそごそとクローゼットから引っ張りだし始めた。だが、行けるのは一人きりだ。

 紫苑はハイハイという風に手を振り派手なシャツに袖を通すと、無言で部屋を出て行った。そしてどこかへ電話をかけ始めた。



 俺は、目黒にある公園のベンチで牛乳とパンをかじりながら、ボール遊びをしている親子をぼーっと眺めていた。まだまだ寒くて上着が無ければ外出できないが、公園には日差しが降り注ぎ、春の気配がそこはかとなく漂って来ている。

三月初めに退院し、早速会社に退職願を出しに行った時の事をぼんやりと思い出していた。

「上条くうん。今辞めることは無いよお。人居ないんだから、そのへん分かってよお」

 普段は直接的な暴力までふるって来るのに、使えそうなヤツが辞める時は猫なで声の上司の態度を見ると、吐き気さえ覚えた。だが、さすがブラック企業だけあって、すぐには受理してはもらえなかった。結局押し切られ、しばらくは自宅待機扱いにされ現在に至っている。

「もっとはっきり意見の言える男になれたらなあ」

一人きりの寂しい昼食を食べ終わり、公園の池までとぼとぼ歩く。自分の姿を水面に映してみると、疲れた顔をした男がこちらを見返している。まさに〈生ける屍〉という表現がぴったりだ。

(自分のやりたい事する――か。俺には一体何ができるんだろう)

 若い看護士の、あの言葉が頭から離れない。

大学のときの俺はスポーツもできたし、人を笑わすのが得意でまだ社交的なほうだったと思う。社会人になると同時に休日返上で働き、人とまともに話すのもおっくうになってしまった。ついには当時付き合っていた遠距離恋愛の彼女にも別れを告げられた。

 そして……今はこうして昼間から公園をぶらぶらと散歩している。まるで人生に疲れ切ったおじいちゃんみたいだ。

首をぶんぶんと振ってから、ふと雲ひとつない空を見上げた時、こうなったらキャリアを生かして自分でIT会社を立ち上げてみようかと、心の中に炎がめらめらと燃えてきた。

「でも、何を始めるにしてもまずは資金を作らないとなあ」

 結局、いつもそこで考えは行き詰まってしまう。

 ため息をつきながら歩き出そうとした時、携帯電話が鳴った。どうせ上司からの電話だろうと期待もしないで出る。

「はい、上条です」

 受話器から紡ぎだされる女性の話が最初は全く理解できなかった。だが、少し興奮したオペレーターの声につられ、今まで沈んでいた気持ちがみるみる興奮に変わって行くのが分かる。確かにこの時は自分は最高にツイている男だと思っていた。人生が変わるチャンスがいま、俺に降って来たんだと。

 だが……この電話をきっかけに俺の運命は思ってもいない方向に激しく動いて行くことになるとは、この時微塵も思っていなかった。


前夜



『新宿・パークハイアットホテル』  二〇一九年 三月三十一日


 ホテル内のドローイングルームに三十名の当選者が集まっていた。

ゆったりと四十名以上がくつろげるスペースに、柔らかい照明と、木の質感が強調されたテーブル、そして高級感のある椅子が置かれている。今夜のパーティーの主旨は食事をしながらの歓迎会と、ルール説明らしい。

「では当選者の皆様、まずはグラスを持ってご起立下さい」

主催者側の代表が、日本語と英語で乾杯の音頭をとる。ハンサムな外国人の男で、胸のプレートには【ブライアン・フォール】と書いてあった。男らしい笑顔がとても魅力的だ。

「では乾杯! ルール説明は、食事が終わりましたら始めたいと思います。それまでごゆっくりと料理をお楽しみ下さい」

乾杯も終わり全員が拍手をした後、それぞれが指定された席に座った。食前酒の後、豪華な料理が次々に運ばれてくる。

 テーブルに並ぶ料理はどれも手が込んでいて美味しそうだったが、とりわけ鴨料理の味に参加者は驚いた顔をしたあと賞賛の声をあげていた。ここでやっと会場を見回す余裕ができた俺は、ワインを飲みながら他の人々の観察を始める。

まず日本人を含めアジア系が七割、アメリカ人が二割、ロシア系が一割と言ったところか。これを見ると、アジアを中心としたマーケットがある会社ではないかと思う。まあ彼らを見廻して感じた第一印象は、「かなり『濃い』メンツが集まってるなあ」だった。

 初めて顔を合わせた当選者たちは酒も手伝ってかぴりぴりした雰囲気は一切なく、和気あいあいと笑顔も交えてしゃべっていた。確かに、これから誰とチームになり、そしてどのようにゲームを展開していくのかはこの時点では誰も知らされていない。ここまではまあ普通の展開と言えるだろう。

「おーい、ワインのお代わりをくれ!」

 斜め向かいに座っている若い日本人の男が手を上げた。ハンサムな顔と今どきのトークで、既にまわりの女性たちと打ち解けている。

(タイプ的にこの男とだけは組みたくないな)と考えながら、俺は思い切って隣の日本人の女性に声を掛けてみた。

「はじめまして、東京から参加の上条謙介と申します。あなたはどちらから?」

「渋谷あずさと言います。わあ、あたしも東京からですよ」と笑顔で答えてくれた。

 横顔ではちょっと冷たい雰囲気の女性に見えたけれど、話してみるとまだ少しあどけなさの残る花の咲くような素敵な笑顔を持った女性だった。俺の仕事の失敗談を話すと、ころころと口に手を当ててよく笑う。

 この時俺は――もうこの笑顔にやられてしまっていたのかもしれない。

「この中の誰と組むかによってクリアできるかどうかが決まると思うと、ドキドキしますよね! あたし、ちょっと緊張してきた」

会話中も物怖じしないまっすぐな視線を送ってくる。俺は違う意味でドキドキしていたたが、それを顔には出さず、気づくと彼女の少し茶色がかかった長いまつ毛のあたりを俺はぼーっと見つめてしまっていた。

「そ、そうですね。できれば日本人同士で組めたら、色んな意味で有利かなって思います」

「言葉が通じる方がやりやすいですからね。サイトでちらっと見たルールだと、チーム同士で争う必要は無さそうだし……殺伐とはしないでしょうね。主催者側だけとの勝負ですから」

「確かに。とにかく元金を二倍に増やせばクリアでしょ? お互い頑張りましょう」

 俺の言葉に頷くと、持っていたグラスをすっと差し出してきた。ちんっとワイングラスの乾いた音が説明開始のアナウンスに重なる。

「さて、皆さま。そろそろデザートも終わったようですので、ルール説明に入らせて頂きます。まずこちらをご覧ください」

会場の照明が暗くなり、プロジェクターが持ち込まれた。映像の最初に『ビッグミリオン』の文字が映り、次に大きな字で日本語と英語、ロシア語や中国語でルールが表示される。

一 資本金を持っての逃走は禁止。

二 増やす手段は一切問わないが、自己資金を足してのクリアは禁止。(クレジットカード等は一時没収)

三 条件をクリアしても、チーム全員が期間終了の四月十日の正午までにスタート地点に戻らないと失格。

※なお、上記一、二項に該当した場合は、当社が定めるペナルティを課します。


「たったこれだけの単純なルールです。ただ、一についてのみ補足があります。逃亡防止と、位置把握の為、この後別室で『マイクロチップ』を身体に埋めてもらいます。首筋に近い頭皮の下に入れますが、小さなものですので後で痛みもなく取り出せます。これを踏まえ、もしキャンセルをする方がいらっしゃいましたら、全ての質問が終わった後に受け付けます。その場合は繰り上げ当選で、別室に待機している方たちに代わりに入ってもらう事になります」

 ブライアンは一気にここまで言うと、会場をぐるりと見廻した。

「スタート時間は明日の正午になりますが、公平を期すため飛行機のチケット等の予約はスタートの合図の後からになります。早速あなた方の『運』が試されるわけですね。それではこれより質問を受け付けます」

純白のスーツに身を包んだブライアンは、プロジェクターの横に椅子を置き、長い足を優雅に組んだ。どうしたんだろう。いきなり態度が横柄になったような気がする。

「あのう、先ほどマイクロチップとおっしゃいましたが、もしそれを自分で取り外しちゃったらどうなるんですか?」

 メガネをかけたおばあさんが、通訳を通して中国語で質問した。

「はい、一に違反すると判断し失格になります。無理に取り外そうとしたら……死にます」

 通訳からこの言葉を聞いたおばあさんは、固まったまま口をぽかーんと開けている。同時に、会場がざわめきだす。今まで陽気にしゃべりまくっていた先ほどの青年までもが、グラスをテーブルに置いたまま急に黙ってしまった。

 ただ、NYPDから来と言う二人組だけは、肩を組みながら歌を歌い浴びるようにビールを飲んでいて全く聞いていなかった。

「死ぬってどういうことだ? まさか、爆発でもするのか?」

 突然、日本人の若者が緊張に耐えかねたかのように立ち上がり強い口調で詰問する。

「さあ、どうでしょう。私も詳しくは聞いていませんが、故意に取り外そうとしない限りは絶対に安心という話です。ただ、その行為以外でマイクロチップによる不慮の事故があった場合、ご家族に無条件で〈五百万ドル〉をお支払い致します」

この答えを聞いたとたんその若者は息を深く吸い込んだが、結局そのまま黙ってしまった。

「やっぱり爆発しちゃうんだろうな」と俺は誰にも聞こえないようにそっとつぶやいた。その後もぽつぽつと質問は続いたが、なかでも一番質問が多かったのはやはりペナルティの事だ。

「ペナルティにつきましては、ルール違反を確認後、当人のみに告知し実行します。申し訳ないのですが、ルールを厳格に守ってチャレンジして頂ければ知る必要もないでしょう」

 確かにルール違反をしなければ大丈夫だろうが、大金がかかると人間はどんな行動をとるのか予測できない。俺はこの最後の答えに何か高慢なニュアンスを感じ、少しイヤな気分になった。

「では質問を締め切ります。最後に、キャンセルされる方がもしいらっしゃいましたら挙手願います」

 一分間ほど沈黙が続く。だが――結局誰も手を挙げるものはいなかった。ブライアンは満足そうな笑顔で頷く。まるで、キャンセルする人がいないという事を分かっているような表情だ。

「やはり皆さん、やる気まんまんですね。ではお待ちかね、これよりチームを発表します。こちらをご覧ください」

 正面のスクリーンに組み合わせ表が映し出される。その表には『チーム1』から『チーム10』まであり、俺の名前はチーム『セブン』に書かれていた。他に日本人二名の名前が連なって書かれている。

「『チーム1』の方からお名前をお呼びしますので、マイクロチップの処理が終わった後、ミーティングルームに移動して下さい。そこからは自由時間ですが、明日の正午までにここに集合していただけないと失格になります。では、楽しい夜をお過ごしください」

 一礼すると他のスタッフに後をまかせ、素早い身のこなしで部屋を出て行った。


 三名チームで五十万ドルを百万ドルにか。なるほど。という事は……。

早々とこのルールの〈穴〉、言い換えれば〈攻略法〉に気付いた者は、頭の中で既に作戦を立てていただろう。ほぼリスクゼロで大金を手にする方法があるのだ。俺もその一人だった。

 しかし――それにはクリアしなければならない問題がある事に、この時俺はまったく気づいていなかった。


『イラク・BAGHDAD』 二〇一九年 二月(スタートの一カ月半前)



 ブライアンの乗る飛行機は、イラクのバグダード国際空港に着陸した。

空港を出るとおなじみの硫黄の匂いが鼻を突く。今は臨戦状態ではないが、またいつ情勢が不安定になるかわからない。しつこい程の手荷物検査をパスして空港を出ると、ジープが迎えに来ていた。

 現地スタッフのハサンがハンドルを握り、後部座席には自動小銃を抱えた若者二名が鋭い目で辺りを警戒している。ブライアンはイラクの猛暑に顔をしかめながら助手席に乗り込んだ。

「ハサン! 研究報告は受け取ったよ。今日私が本社から派遣されたということは、計画が最終段階まで来たということになる!」

片手でクリーム色の帽子を押さえながら、目を細めて隣にいるハサンに叫んだ。車の速度もそうだが、砂嵐が迫っているのか、大声を出さなければ強風で声が聞こえない。

「分かっています! 人間を使った実験を……」

 白いクルド服を風になびかせてハサンも大声で叫んだ。

 ここまで話した瞬間、ブライアンは手で言葉を遮り、後ろの席が気になるのかハサンに目配せする。

「大丈夫ですよ。こいつらに英語は分かりません」

日焼けした精悍な顔に皺を寄せてウインクを返す。

バグダード市内から郊外に抜ける道は舗装されているが、ところどころに穴が開いていて車が跳ねる。だがこの道路はある程度速度を出して通過しないと、どこからともなく銃弾が襲って来るので一瞬も気が抜けない場所だ。更にこのあたりは路肩に爆弾がよく仕掛けられるため、重武装の兵士が常時警戒していた。

 街を出ると瓦礫と化した建物が減り、荒涼とした砂漠が我が物顔で世界を覆い始める。ついさっき聞こえた爆撃の跡だろうか、ところどころに黒い煙が上がっていた。

 しばらく凸凹道を走ると、海外企業が集まっている一画にそれは急に現れた。ブライアンたちは車を降りると、がれきが辺りに散らばっている巨大なボロボロの建物に入って行った。

 頑丈な新しい外壁に囲まれた研究所の中は程よく空調が効き、常時ドライヤーの風を浴びているような外の熱風を完全に遮断している。外見とは違い建物の中は近代的で、最新医療装置や無菌室などが広い空間に点在していた。

「それでは、実験映像を見ていただきましょう。短い映像ですが、効果ははっきりと分かるはずです」

映写室の分厚い扉を開け巨大スクリーンの前に二人が座ると、ハサンが慎重に再生ボタンを押す。

「うむ。――これは凄いな。本部には成功したと報告しておこう」

その顔には驚きと、少しだが憐みの表情が浮かんでいる。

「研究結果などは、すべてここに入っています」

ハサンから銀色のスーツケースを受け取るとすぐにブライアンは立ち上がった。そして外側をぱんっと叩くと満足そう微笑む。

「確かに受け取った。では、もうこの施設は必要ないな。ハサン、君はこのあと何をすべきか分かっているはずだ。後はこちらで全て引き継ぐ」

 そう言うとスーツケースと自分の手首を手錠で結んだ。その後、ブライアンは移民に紛れ陸路でイランを脱出した。

 その夜、この研究所は原因不明の大爆発により衛星写真から消えることになる。現地の報道では過激派によるテロ攻撃と発表されていた。建物からはハサンと思われる遺体の他に、五十名程の身元不明の遺体が発見された。

のちにイラクを出たハサンの家族が、豪華なプール付きの一軒家を買った事は一部の者しか知らない。もちろん、その豪華な家の中にはハサンの姿は無かった。


『新宿・パークハイアットホテル』 二〇一九年 三月三十一日



 俺の名前が呼ばれ別室に入ると、医師が一名と看護士が二名待機していた。治療台にうつぶせに寝かされ、後頭部に麻酔を打たれる。その後ほんの三十秒ぐらいでチップ埋め込み作業は終わった。

 ドローイングルームに戻り、『セブン』と書いたあるプレートのあるテーブルについた。と、ここでちょっとした奇跡が二つ起こる。一つ目はなんと、先ほど隣にいた女性がちょこんと隣に座っているではないか。二つ目は……あのおちゃらけハンサム男もすまし顔で隣に座っていた。

「あー! 上条さんと同じチームなんですね。良かったあ!」

 渋谷あずさは名前を憶えてくれていたようだ。

「謙介でいいですよ、よろしく。えーと、もう一人の……?」

「篠崎紫苑です。これからよろしくお願いします!」

元気良く答えると、気さくに手を差し出してきた。

(あれ? この男、意外と礼儀正しいかも)外見からチャラいと思っていたが、少しだけ見直した。

席に着き、自己紹介をしているうちに、俺がこのチームで一番年上なのが分かった。チームとしてやっていくならば、誰かが指揮をとったほうがまとまりやすいのは明白だ。

「えーと、年上だからリーダーシップを取るわけじゃないけど、明日の昼までにこれからの作戦を練らないといけないと思う。あとで俺の部屋に集まって打ち合わせをしようか」

 この意見に二人は素直に賛成したが、立ち上がったのは何故かあずさだけだった。

「あ、これ飲み終わったら行くから先に行ってて」

 紫苑は俺の部屋番号を聞くと、くるりと背を向けた。


 俺の部屋は、落ち着いた内装のジャグジー付きの部屋だった。ミニバーからミネラルウォーターを二本取り出すと、あずさにも勧める。

「あの紫苑って人、あんなにチャラくて大丈夫かしら……」

 眉根を寄せて心配そうに言うと、ソファにすとんと座った。

「まあ日本人同士で組めただけでもラッキーだと思うよ。組み合わせ表を見たら、別々の国同士の組み合わせもあったし」

 俺は英語だけは単語を組み合わせて何とかしゃべれる程度だったので、日本人同士で組めた事はコミュニケーション上でも非常にメリットがあった。 

しばらくして固い音でノックの音が聞こえた。ドアを開けると、紫苑がワインを両手に持ちながら入ってきた。

「お邪魔しまあす! あ、これちょっと拝借して来ちゃった」といたずらっ子のように無邪気に笑う。これは男の俺でもぐっときてしまった。なんとも憎めない笑顔をするじゃないかこの野郎、と。

「さてと。チーム全員がこれで集まったわけだが、一応年上として俺が進行係をしようかな。紫苑くんって呼んでもいいか?」

「紫苑でいいよ。その代り、俺は謙介さんって呼ぶよ。そっちはあずさちゃんね」

グラスにワインを自分でなみなみと注ぐと、香りを楽しむように目を細めた。

「よし、じゃあこれから俺たちは同じチームだ。さっそく五十万ドルを倍にする作戦をたてよう。えーっとまず何か意見はないかにゃ?」

 リーダーシップをとるという事に緊張と、多少の酔いもあったせいもあり早速少し噛んでしまう。これから十日間、今日初めて会ったこの二人と行動、そして運命をも共にするのだから緊張するのも無理はない。しかも――その一人は可愛い女性で自分の好みにどストライクなのだ。

(良かった。誰も噛んだ事に気づいていないようだ)

ゆっくり二人を交互に見ながら意見を待つ。あずさはうーんと唸りながら、細い指でこめかみをとんとんと叩いている。

「そうねえ。あたしの考えだけど、ラスベガスで勝負するってのはどうかしら。チケットさえ上手くとれれば、八割は勝負の時間に費やせると思うにゃ」

海外旅行は久しぶりなのか、うっとりと遠くを見る目をしている。そしてその口元は違う意味でも少し緩んでいるようにも見えた。

「おおう! あずさちゃん良い事言うね。俺もラスベガスに一度行ってみたかったんだ。はい、決定にゃ!」

 あずさはともかく紫苑のこの言い方に少しムカついたが、良く考えると実は悪くない案だと気付いた。ラスベガスならきっと、短期間で国内よりはデカい勝負ができるに違いない。

「あの、君たちって……耳がいいんだね」

「じゃあさ、もうラスベガスに決定しましょうよ。税関の申請に時間がかかるかもしれないけれど、何とかなるわ」

 少し落ち込んでいる俺をよそに、まだ目をきらきらさせている。

「ちょっと待ってくれ。その前に、一つ提案があるんだが……」

 俺のこの言葉に興味を惹かれたように、盛り上がっていた二人はこちらに視線を向けた。

「もう他の誰かも気づいているかもしれないが、このルールには致命的な『穴』があるんだ。つまりルールに抵触しないで簡単にクリアできる攻略法だな。もし他のチームに知り合いがいれば成功率はかなり高いんだけど」

「もしかして、あの方法かな。謙介さん、あれはダメだって」

 紫苑はソファの奥にどすん! と背中を埋めながら人差し指を左右に振った。

「紫苑も気づいていたんだな。これがうまくいけば、大金を持ってこのゲームをすぐに終わらせる事ができるんだけど」

「なになに? 二人だけで分かったような顔してずるいよ! あたしにも教えて」

 頬を膨らませて身を乗り出す。(ナニコノコ、カワイスギル)と俺はまた違う世界に行きそうになったが……。

「おほんっ! んー。このルールに隠された穴はね……。チャレンジってさ、三人で百万ドル突破すればクリアだよな。で、当然他のチームも同じ条件だ。例えば俺たちが『シックス』の三人と協定を結ぶ。彼らも俺たちと同じ考えでOKしたとする」

「うんうん! で?」

 機嫌が直ったのか、興味深そうな顔をして真剣に聞いている。

「じゃあこの先は俺が。で、俺達は彼らに自分たちのお金を全部あげちゃう。つまり『セブン』が『シックス』に五十万ドルを渡す。めでたく『シックス』はチャレンジクリアだ。明日のスタート後十秒で終了だよ」

 紫苑が俺の代わりに答えた。

「え……。でもさ、私たちのチームは失格になっちゃうよ」

「まあ当然そうなる。だが前もって『シックス』と話をつけていたらどうなると思う? 彼らは報酬として、主催者から一人一億円をもらう。しめて三億円だ。しかもリスクゼロでね。そして彼らから俺たちは、分け前の三億円の半分をいただく。どうだ?」

 指を五本出しながら紫苑はニヤッと笑う。つまり、五千万円が楽勝で手に入るということだ。

「すっごーい! あなたたち頭いいね。――てことはちょっと待って。十チームがそれぞれペアを組めば、速攻で全員クリアだね! 五千万円全員ゲットじゃん!」

マジリスペクトっす先輩! って感じの眼で俺達を交互に見ている。しかし、俺は あずさのこの様子を見て、このあとある問題点を言うのが気の毒になってしまった。よし、ここも紫苑に代わりに言ってもらおう。

「では、問題点も紫苑くんどうぞ」

「え、問題点なんてないじゃん!」

びっくりしたように目を丸くしながら口を尖らす。

「んー、実はね……これには落とし穴もあるんだよ。みんながその方法をとったとしても、クリアしたチームの奴らから〈五千万円を回収できる保証〉は何も無いんだ。どういう事か分かる?」

「そうだ。クリアしたチームが『そんな約束した覚えはない』って言えば、この話はそれまでなんだよ」

 紫苑の言葉を引き取り、ゆっくりと言い聞かせるようにあずさの目を見つめた。

「でも、文書とかにしとけばいいんじゃないかな?」

「うん。でもさ、果たしてそう上手くいくかな」

 既にこの攻略法に気付いたチームは、今まさに動き出しているかもしれない。この瞬間、そこにあるドアがノックされてもおかしくないのだ。しかし、いつまで経ってもノックの音は無い。

 そりゃそうだ。人間の心理を考えてみれば、この攻略法はまさに『絵にかいた餅』なのだから。一度手にした大金を、約束した事とはいえちゃんと俺たちに渡すだろうか。きっと主催者側もこうなるのが分かっていて、特にルールに書き込まなかったのだろう。俺たちは夜中までああだこうだと議論を続けた結果、やっと結論を出した。

「ラスベガスに行こう」と。


同時刻


『チーム3』と『チーム4』の六人は、少し警戒するような様子で一つの部屋に次々に吸い込まれて行った。部屋の中では『チーム3』のリーダー、御手洗(みたらい)あつしが中心となり、明日の事について話し合っている。

「さて、我々は幸運な事に今こうして集まっている。この〈談合〉に一番必要な事は、お互いの固い信用を得る事だ」

あつしはいったんここで言葉を切り、残りの五人の同志を見廻した。

『チーム3』はあつしと、ゴリラ並の体格をした山本、中国人のメガネのおばあちゃんだ。

『チーム4』は日本人とアメリカ人のハーフのリンダ、パンクファッションでモヒカン頭の近藤、そして気の弱そうなサラリーマン風の男性だった。

「言っている事はよく分かりますけど、あつしさんのチームが裏切らないって保障はないっしょ。どちらかのチームに五十万ドルを渡すんなら、この話を持って来た『チーム3』がこちらに渡して下さいよ」

 モヒカンが口を尖らせる。

「そうよ、提案したそっちがリスクを負うべきよ。私たちはもともと絵を買うつもりだったんだから」

ブロンドの髪の毛をかきあげながら、リンダが流暢な日本語でモヒカンを支持した。

「絵だって?」

 ゴリラ山本が大きな身体で威嚇するように振り向き、リンダを睨む。

「ええ。私の知り合いに画商がいて、ホクサイの絵を何点か手に入れられるの。それをオークションにかけて捌けば、ひょっとして百万ドルを超えるかも」

「オークションねえ。他の二人も本当にそれがうまく行くと思っているのか?」

 バカにしたような顔でゴリラ山本が笑う。その笑いが合図のように、豪華なソファに深々と座り足を組んでいたあつしが肩をすくめながら立ち上がった。

「いいか? このブロンド姉ちゃんの案は悪くないけど、買い手を見つけて十日間で売りさばくのは大変だぞ。なあ、そこのリーマンさんよ、お前も本当はそう思ってるんじゃないのか?」

 そのまま身体を小さくして座っているサラリーマンに顔を近づけ、あつしは威嚇するように顔を上下に動かしながら睨んだ。

「ええ……まあ」

 蚊の鳴くような声でサラリーマンは答えた。彼は本当に気が弱いように見える。

「あ? 聞こえねえよ。まあいいや。とにかくこの談合をうまくまとめて、一人五千万円持って帰ろうぜ」

面倒くさそうに頭を掻くと、ニヤリと笑った。

「よし、代表を出してくじ引きで決めよう。双方メリットがあるんだから、これが一番公平じゃないか? 明日、どっちがどっちに金を渡しても恨みっこ無しだ」

 あつしはそういうと用意していたくじを二本出した。割り箸の先に赤いしるしがついている方が当たりだ。『チーム4』のモヒカン君が目をつぶっておばあちゃんに渡し、それをあつしとリンダで引くことになった。ゴリラが先攻のじゃんけんの審判を請負う。もう完全にサラリーマンは蚊帳の外である。

 結局、あつしが勝ち同チームであるメガネのおばあちゃんの手からくじを素早く引いた。

 引く前におばあちゃんがあつしに目くばせしたのをサラリーマンだけが見ていたが、何故か一言も言わずに黙っていた。

「おっと当たりだ、わるいな。じゃあ明日スタートしたらすぐに五十万ドルをこっちに渡してもらう。文句はないな?」

「しょうがないわね。その代り、今すぐここで契約書を書いてもらうわよ。いいわね?」

リンダは何か納得できない様子だったが、負けたものはもうくつがえせない。

「分かった。山本君、紙とペンを持ってきてくれ。みんな印鑑は持参してるだろ? いま契約書を書くから、判子を押してくれ」

 ゴリラ山本に紙を用意させると、妙に手慣れた様子で契約書を作った。

【甲(チーム3)は、乙(チーム4)から四月一日に五十万ドルを譲渡されることとする。甲はそれによって利益を得た場合、乙に対して速やかに利益の半分を渡さなければならない。なお、下記六名の署名を以てこの契約は全員が了承した事とする。三月三十一日 資産管理者代表 御手洗あつし】

「こんな感じでどうかな? 簡単なものだがこの契約書がある限り、俺たちは後で百五十万ドルをおまえらに支払うわけだ。一瞬で一人あたり五千万円、最高だろ?」

 あつしはにっこりしながら契約書を全員に廻した。

「OK! 一応全員コピーをもらっとくぜ。明日が楽しみだな」

モヒカンも契約書ができたことで満足したようだ。全員が判子をつき、談合は無事に終了した。あとは明日の正午過ぎに金を受け取ってさっさと帰るだけだ。 

ただ、この時『チーム4』のサラリーマンだけは、何か別の事を考えている様子だった。


『新宿 雑居ビルの一室』 同時刻


「『チーム3』と『チーム4』が同じ部屋に集まっています。どうやら例の作戦で行くみたいですね」

 ブライアンの部下のカエラが、透き通るような声で報告する。

彼女はニューヨーク出身で元モデルの美女だ。ブライアンの右腕として、今回のこのイベントに深く関わっていた。

「音声を拾え。この方法を思いつくのはまあいいとして、本当にやるヤツがいるとは。うまく行くわけがないのに」と、あきれた顔で肩をすくめる。

「私の予想ではシミュレーション通りになると思いますけどね」

ヘッドホンを外すとふふっと微笑んだ。

「そうだな。人間は大金がかかると豹変する。一応彼らを待機させとくように。私は明日に備えて休むから、後はよろしく頼む」

 背伸びをひとつすると、部屋を出て行く。

 その後ろ姿を見送るカエラの眼は上司を見るというよりも、まるで〈恋人を見るような視線〉をその背中に送っていた。


旅立ち




『新宿・パークハイアットホテル』  二〇一九年 四月一日 正午



 ホテルのミーティングルームに参加者全員が集合した。心なしかほとんどの者が寝不足のような顔をしている。昨日ルール説明を全く聞いてなかったアメリカ人男性二人などは、青白い顔のままぐったりして椅子にもたれていた。彼らの横にちょこんと座っているのは日本人の学生だろうか、やせっぽちの青年だ。心配そうにときどき二人の顔を覗き込んでいる。

「お集まりのみなさま、お待たせしました。いよいよゲームのスタートです! では『チーム1』から順番に私の前に運ばれてくるケースを一つずつお取り下さい。手にとった瞬間から四月の十日までチャレンジタイムになります。各チーム知恵を絞って百万ドル目指して頑張っていただきたい」

 ブライアンがぱちん! と指を鳴らすと、テーブルに乗せられたアルミケースが十個運ばれてきた。中にはきっと、びっちりと札束が詰まっているのだろう。

「なお十日後にこの場所がゴール地点となりますが、正午までに戻って来ないと失格になりますのでご注意下さい。最後にひとつお願いがあります。もし途中でチャレンジが失敗しても、この資本金の残額はなるべく使い切って下さい」

最後のセリフに首を傾げる者がいたが、まず『チーム1』の中国人とアメリカ人二人組がアルミケースを取ると、さっさと部屋を出て行った。

『チーム2』は日本人女性の三人組だ。きゃあきゃあ言いながら重そうにアルミケースを持つと、自分の席に戻りケースを開き何やら相談を始めた。

その様子を横目に見ながら、『チーム3』の少しガラの悪い長身の男が前に進み出る。彼はその場でケースを開き、後ろが詰まっているのにもかかわらず現金を取りだして確認し始めた。確認後、ゴリラみたいな体型の青年とおばあさんを引き連れて部屋を出て行った。次にモヒカンの男性が受け取り、ブロンドの女性とサラリーマンがあとに続く。

 そしてついに『チーム7』の番が来た。俺が代表して受け取ったが、札束が詰まっているであろうそのケースは思ったより重かった。あずさと紫苑は無言で後ろについて来る。

速足で部屋を出て、さあゲームの始まりだ! と気合いを入れた時……。

「あんたたち約束が違うじゃない! こっちには契約書があるのよ!」

廊下でブロンドの女性が何やら大声で騒いでいる。騒いでいると言うより悲鳴に近い。

「契約書を良く読んでみろよ。チームの内訳に個人名が書いてないだろ? これじゃどっちがどのチームか分からない。しかも四月一日は何年の四月なのかも書いていない。もう既に受け取っているかもしれないんだ。こんな不完全な契約書は無効だよ」

 先ほど札を数えていた堅気には見えない長身の男が、契約書らしき紙をひらひらさせながら言った。

「バカ言ってんじゃねえ! みんなが納得してハンコを押したんじゃねえか。ふざけんな!」

 モヒカンの男性がゴリラみたいな体格の男性に掴みかかっている。そこにスタッフであろうか、騒ぎを聞きつけた黒服を着た男たちが音も立てずに集まってきた。

(例の方法を実行したんだな)と思い近づいてみると、案の定その話をしている。

「スタッフさんよお、俺たち『チーム3』はチャレンジをいまクリアしたぜ。さっさと賞金をくれよ!」

アルミケースを二つ持ち上げて、ゴリラが大声で叫んだ。

「それは私たちのものよ! 約束を守れないなら返しなさいよ!」

ブロンド女の顔は真っ赤だ。モヒカンも頑張ったが結局ゴリラに突き飛ばされ、荒い息をしながら燃えるような眼をしてゴリラを睨んでいる。

「では、その二つのケースを持ってスタート地点に戻って下さい。中身を確認して百万ドルあればクリアとします」

 黒服の一人が全く動揺せずに冷たく言い放つ。

 その時だった!

 今まで廊下の壁に背中を付けて黙りこくっていたサラリーマンが、目にも止まらぬ速さでゴリラの顔面に強烈な回し蹴りを入れた。

「ごきっ!」と言う音と同時に、ゴリラの鼻からは血が噴水のように噴き出す。そしてよろよろとその場に崩れ落ちた。黒服を含め、全員がぽかーんと口を開けている。次に目にも止まらぬような速さで、あつしと呼ばれた若者に近づき胸倉を掴み持ち上げる。あのスーツの下に鍛え抜かれた筋肉が隠れていなければ、とても出来ない芸当だ。

「私も遊びでこれに参加した訳じゃない。その紙切れを破って、金を返せ」

落ち着いた氷のように冷たい声だ。

何より一番驚いた顔をしているのがモヒカンくんだった。目を丸くあけ、皮ジャンから突き出た細い腕には鳥肌が立っているのが見える。

「……分かった、分かったって。暴力はやめよう。動けないようなケガでもしたらチャレンジは失格だ。金は返す。それでいいだろ?」

つま先立ちにされたまま、あつしはまいったという風に両手を広げる。しかし、その顔は全く動揺しているようには見えなかった。

失神しているゴリラからアルミケースを一つ取ると、ゆっくりとサラリーマンに渡した。ブロンド女は放心状態から解放されて安心したのか、顔を覆って大泣きしている。

「では、両チームともそのままチャレンジを続けて下さい」

黒服たちはそう言い残しさっさと背中を見せて去って行く。床にはびりびりに破られた契約書と、鼻を潰された血まみれのゴリラが転がっていた。

「謙介さん、空席みつけたよ。三人分予約するぜ」

騒ぎを全く気にする様子もなく、後ろの方で携帯をいじっていた紫苑が近づいて来る。その声で俺は我に返った。

 そうだ! こんな所で時間を食っている場合ではない。まずは一番早い移動方法を探して、俺たちはすぐに成田に向かわなければならなかった。もうチャレンジの時間は着々と減っているのだ。


『さいたま市』 同時刻


「こんにちは! 宅急便です」

吉田家のインターフォンが鳴った。ベランダで洗濯物を干していた京子は、リビングのモニターに映る宅配便業者のユニフォームを確認するとドアを開ける。

「何かしらこれ。ビッグ、ミリオン?」

箱は軽い。大きさからタオルであろうか。

(息子の一馬がまた懸賞に応募したのかしら?)と首を傾げながら台所のテーブルにそのまま放り投げ、また日当たりのいいベランダに戻った。

 午後には一通り家事も終わり、彼女は一息ついたようだ。テレビドラマの主題歌を口ずさみながらさっき届いた箱を開けた。中からは高級な包装に包まれた白と淡いピンクのタオルが出てくる。

 旦那の浩二が工場勤めのため、タオルはいくらあっても助かるようだ。軽い足取りで洗面所まで歩くと洗濯機に放りこむ。

「新しいタオルはあ、一度洗濯すると水分をよく吸うのよー」

 テレビから流れる主題歌に乗っけて替え歌を歌いながら、またドラマの続きを見に居間に戻って行った。

――この時、まだ京子は知らなかった。この手触りのいい二枚のタオルが、後の自分の人生を大きく変えてしまう事を。


バトル開始



『チーム9』のマイクとジェフ、そして日本の大学生の小林将太はイギリスへ飛んだ。目指すはリバプール空港からタクシーで三十分ほど走った所にある『エイントリー競馬場』だ。

 彼らの作戦では、四月の四、五、六日に行われる〈グランド・ナショナルレース〉に全てを賭けるようだ。

メインレースは六日の最終レースだが、三人はカウンティ・スタンド屋上チケットを三日分、百十五ポンドずつ買った。どうやらこの三日間で五十万ドルを少しずつ増やす計算らしい。

「帰りのチケット代を残して全額勝負!」がマイクとジェフの合言葉だ。

このレースは一八三九年から開始された世界最高峰の障害レースである。一周三千六百メートルのコースを二周走り、その間に障害柵が三十か所程あるので難易度が高い。

 障害レースだけあって、能力のある馬でも何が起こるか分からないのが魅力であった。

「なあジェフ。もし最終レースで全部スったらどうする?」

 機内食をがつがつ食べながらマイクはジェフに問いかけた。

「そうだな。そうならないように、ポケットに数束突っ込んで知らん顔しようぜ。 日本に戻ったら残金没収されるかもしれないしな。少しぐらいならバレないだろ。というか、そうなったら日本に戻る意味も無いと思うんだが」

そう答えるジェフは、その身体の大きさから座席を二つ用意してもらっていたが、それでもまだ窮屈そうだ。

「まあ、あのスカした野郎も『なるべく残金は使い切れ』って言ってたからな。でもなあ……。このセリフの意味が分からん。アイツらは損するだけじゃないか。なあ、ショータはどう思う?」

マイクはアイマスクをして寝ている将太をひじで突っつく。

「ん? 着いたの? ……あれ、俺の機内食は?」

 彼の前にある機内食を寝ぼけ眼で見つめた後、きょろきょろと辺りを見回す。マイクが指を指す方向を見ると、ジェフが二人分全てきれいにたいらげていた。

「ジェーフ! それ以上太ると飛行機の出口に挟まるよ」

 口を尖らせながら皮肉を言うと、元通りにまたアイマスクを付けた。

無事リバプール入りした三人は、トロスタネルズ・ネストホテルに宿をとる。ドルを全てポンドに両替したのち、来たる四日からのレースに備えて細かな作戦を立て始めた。



『チーム2』の日本人女性三人は、まずハイヤー三台をホテルに呼んだ。

まゆみ、美香、貴子は五十万ドルをすぐに三等分し、それぞれ用意したボストンバックに入れた。しばらくして黒塗りのハイヤーが相次いで到着すると、それぞれ一台ずつに別れ散って行く。

 どうやら彼女たちは、最初から〈増やすことを諦めて〉いるようだった。

まゆみは今流行りの美容整形をする為に、香港に向かった。美香は婚約者と合流して結婚前のハネムーンに出かけるようだ。

 そして貴子の乗ったタクシーは……友達の親が開業している外科医院の方向に走り出していた。


 一方、『チーム1』と『チーム10』はスタートしてから急遽お互いに手を組むことにしたようだ。この合同チームにとって一番大事なものは信頼でも団結力でもない。……手元にある〈金のみ〉であった。

『チーム1』のアメリカ人二人と、ヤンと呼ばれる中国人の男性は逃げることを選んだ。ヤンにとって都合が良かったのは、偶然『チーム10』に彼の所属している巨大組織、龍星会のメンバーがいたことだ。そのメンバーの名前は紅花(ホンファ)と言う若い女性だ。特徴のある刺青がふたりの二の腕に刻まれていた。

「こんな美人が組織にいたとはな。楽しい旅になりそうだ」

 ヤンは食い入るような視線で、ホンファのチャイナドレスを上から下まで眺めている。

『チーム10』は中国人三人組だったので、ホンファがリーダーとして仕切れば何も問題は無い。一般の中国人二名が龍星会に逆らう事はあり得ないからだ。

彼らの作戦は中国に飛び、龍星会の力でチップを外して〈百万ドルを六人で分ける〉段取りだ。もちろん組織にはそれなりの手数料を払うことになるだろう。

「そうか。俺はなんてお人よしだったんだ」

中国へと向かう飛行機の中でヤンはうまく立ち回れば自分のチームのアメリカ人を含め、他の四人の分け前を支払う必要が無いことに気付いたようだ。中国は広い。いざとなれば四人とも殺して、埋めてしまえばそれで良かった。

数分後、邪悪な笑いを浮かべながらホンファの耳に口を近づけ、何やらこそこそと耳打ちを始める。ヤンの話に頷いていた彼女の唇の片側が持ち上がるまで、そう時間はかからなかった。


現在のチーム状況


チーム1  アメリカ人二名+ヤン         中国へ移動中

チーム2  まゆみ、美香、貴子          国内を移動中

チーム3  あつし、ゴリラ、おばあさん      目的地不明

チーム4  リンダ、モヒカン、サラリーマン    目的地不明

チーム5  タイ人二名+日本人一名        目的地不明

チーム6  ロシア人二名+日本人一名       目的地不明

チーム7  謙介、あずさ、紫苑          ラスベガスへ移動中

チーム8  アメリカ人三名            目的地不明

チーム9  マイケル、ジェフ、将太        イギリスへ移動中

チーム10 紅花(ホンファ)他、中国人二名    中国へ移動中


『ラスベガス』 四月二日



 ラスベガスの空港に降り立った俺たちは驚いた。なぜなら、空港の中にスロットマシンが当たり前のように設置してあるからだ。

日本人観光客の姿も思ったより多く感じる。彼らの目から見たら俺たちがこれからやろうとしているギャンブルは、あまりにも無謀と思うに違いない。

「さっすがラスベガスだね。三人で十セントずつプレイして、まずは運試ししてみようか」

サングラスを頭に小粋にひっかけた紫苑が、ニヤニヤしている。

「ダメよ、こんな所で運を使っちゃ。まずはホテルにチェックインしましょう」

あずさがふくれっ面で答えた。ここまでの飛行機の旅で、もう俺たちはかなり打ち解けていた。

「そうだな。時差ボケはこの際我慢して、打ち合わせどおりきっちり動こうって、コラコラそこ、いきなり免税店に行くなっつうの」

 視線の先には豹柄のトランクを重そうにゴロゴロ引っ張ったまま、さりげなく免税店の方に進路を外れて行くあずさがいた。

「あれ、日本で売ってないのよ。ちょっと見せてもらってもいい?」

全く……どいつもこいつも緊張感が足りない。あずさはまだ名残惜しそうにショーウインドウを眺めている。

「はいはい。チャレンジ成功したら、帰りに買おうね。飛行機が遅れたからチェックイン時間もとっくに過ぎてるし」

 子供をあやすような俺の口ぶりに、振り返ってまたふくれっ面をする。でも不思議だ――彼女の行動や仕草そのものが、何とも言えず愛らしく見えてくる。俺は一体どうしちまったんだろう。いや、きっとこれは『ラスベガス熱』に違いないと首を振って、その考えを打ち消した。今は勝負以外の余計な感情は邪魔になるだけなのだ。

 飛行機の乗り換えを合わせて十数時間以上貴重な時間を消費してしまったのだから、いかに効率的に時間を使って勝負するかがこのラスベガスでの勝負の肝になる。

「うわあ、何か圧倒されるね。ここがベガスかあ」

外はすでに夜が明け始めていたが、眠らない街、ラスベガスはそんなことを全く意に留めていない様子だった。

 パラッツォ・リゾートホテルにチェックインした俺たちは、さっそく二手に分かれて勝負できるカジノを探しに街に出かけることにした。紫苑は英語が達者なので、ディーラーを直接買収するためにひとりでこれから動くらしい。

俺とあずさは、まずダウンタウン地区のホテルのカジノを回ってみたが、まず賭金が庶民的すぎて話にならなかった。ストリップ地区に入ると賭金が高いカジノもちらほら見受けられたが、この程度ではてんで話にならない。

次にモノレールの駅に近いフラミンゴ・ラスベガス、そしてウォータースライダー付きの〈サメがいるプール〉があるゴールデンナゲット、巨大エレキギターが有名なHARD ROCKホテルなどの有名どころを順番に回った。その間、あずさの眼はきらきらと常に輝いていたように思える。

 中でも彼女が気に入ったのは、ルクソールホテルらしい。ここは一階から 三十階まですべて吹き抜けの広々とした空間で、ピラミッドの内部には支柱が一本もなく、俺もその作りに圧倒された。

「よし。いつまでも口を開けて上を見てないで、そろそろ次に行くぞ」

「えー、まだ写真撮り終わってないからちょっと待って」

こじゃれたトートバッグからデジカメをもそもそと取り出すと、通りがかった観光客に写真を頼みに走る。

「ほらほら、時間が無いんでしょ? こっち来なさいよ」

いたずらっぽい目をして、笑いながらくいくいと手まねきする。

「何で俺とのツーショットを撮るんだよ。ピラミッドだけ写せばいいじゃん」

こうは言ったものの、実は悪い気はしなかった。いや、むしろ嬉しかった。終いには俺もかなりテンションが上がってしまい、二人でポーズを変えつつ何枚も撮ってもらう。

「ありがとうございましたあ」

 二人で並んで頭を下げた瞬間、はっと気づいた。

しまった――今回は観光ではない。少し反省しつつ、それから数時間カジノ巡りを真面目に続行した。

 結局、地元の人が教えてくれたMGMグランドホテルで勝負することで俺たちは意見が一致した。何でも、VIPルームでの高額勝負が交渉次第で可能らしい。

くたくたに疲れ果てて宿泊しているパラッツォに戻ると、紫苑はまだ帰っていなかった。時差ボケも加わって身体は疲れ果てていたが、ベガスの街の雰囲気だろうか、身体の芯はまだ興奮しているようだ。

 紫苑は「ディーラーを買収するかもしれない」と言っていたが、手持ちの約五十万ドルは、セーフティーボックスの中にそのままそっくり入っていた。

「ホテルで食べると高いからね。なるべく節約しましょう」

意外とあずさは経済観念がしっかりしているようだ。そこで俺たちは、近くにあるフォーラムショップスまで買い出しを兼ねて出かけることにした。こんな遅い時間にもかかわらず観光客が溢れ、キャラクターグッズを身に着けた子供達が楽しそうに走り回っている。

「スケベ!」

「ゴファッ!」

 俺の目が派手な水着を着たモデルさんのような肢体のお姉さんに釘づけになっていると、あずさは何故か脇腹にいいパンチをちょいちょい入れてくる。脇をさすりながらもファッションショーモールを覗きつつ、まるで外国のアニメのように俺たちは食料品を両手いっぱいに買い込んだ。

「紫苑が帰って来るまで、あたし少し寝るわね」

「うん、俺も限界。じゃあまた後でな」

部屋に帰り両手いっぱいの食糧をテーブルに置くと、さすがにどっと疲れが襲ってきた。そして、俺たちはそれぞれの部屋に帰り短い眠りに落ちていった。


 その頃、紫苑は〈シルクドソレイユ〉のショーで有名なトレジャーアイランドホテルのカフェにいた。彼は彼で情報を集め、ディーラーのよく集まるというこのカフェで〈落ちそうな〉ディーラーを探していた。彼の持つ涼やかな眼差しを意識した女性の中には、ウインクや笑顔を返すものもいた。

 しばらくすると、赤いディーラー服を着た女性が食事をしに来た。寝起きでまだ頭がはっきりしていないのか、その目元がまだ少し眠そうだ。

彼女はまだ若く、ブロンドの髪をひとつにまとめている。目の覚めるような赤いマニュキュアを塗った指で、運ばれてきたコーヒーに口をつける。

「お嬢さん。もし良かったら、ご一緒してもよろしいですか?」

いつの間にか立ち上がった紫苑は、自然な仕草で女性の向かいの席の背を指でとんとんと叩いている。

 少しきょとんとした顔をして初対面の男性の顔を見つめていたその女性は、OKの代わりにニッコリ笑いながら頷くと前髪を直した。胸の部分が主張するように膨らんだ制服の名札には、Nancyと書いてある。

「初めまして、ナンシー。俺、紫苑ってんだ。実はさっき日本から来たばかりなんだ。さっそくだけど、評判のいいカジノを知らないかい?」

彼女のコーヒーのおかわりを頼むため、手でボーイを呼びながら質問する。

「ふふ、もちろん知ってるわ。私の働いてるココよ」

人差し指で下を指し、ウインクしながらにこりと微笑む。

「ははは! なるほど」

 紫苑もつられたように白い歯を見せる。

 その笑顔が余程気に入ったのか、ナンシーは自分の事をぽつぽつと話し出した。どうやら彼の魅惑の笑顔は、外国人の女性にも通じるようだ。

彼女の話では、ラスベガスにはディーラーを養成する学校があり、自分はそこを卒業したばかりらしい。この学校を出てカジノのディーラーになれれば、かなりの収入を稼ぐことができ、それなりの豊な生活ができるというものだった。

「ところで、仮にいま君が十万ドル持っていて倍に増やしたいとしよう。てっとり早くそれを増やすのには君ならどこのカジノに行く?」

 話題を変えて身を乗り出し、さりげなく訪ねる。

「そうねえ。――これは一般的には知られていない情報だけど、MGMのVIPルームで交渉すればMAXBETの額が超高額になるらしいわ。客によっては数十万ドルさえ受けるって話よ。まあ、私だったら十万ドル賭けて勝負しようなんて絶対に思わないけどね」

 形のいい下唇を突きだして肩をすくめた。

「それは凄いな。おっと、もうこんな時間だ。今日はありがとう。では、出会った記念にこれを……」

 紫苑がスーツのポケットから出したものは一輪のバラだった。掘りの深い顔じゃなかったら決して似合わない事を、この男は自然に行うことができた。

「ありがとう。大切にするわ。後でうちのカジノにも顔を出してね」

出勤時間が近いのか、彼女も同時に席を立つ。

去り際に、爪と同じ色の口紅でナプキンに携帯電話と部屋番号を書くと、そっとテーブルに置く。

「ま、た、ね」

 唇に手を当て投げキッスをし、こつこつとヒールの音を響かせながらカフェを出て行った。

 テーブルに残された紫苑の表情が少し曇ったように見える。

「チャレンジ辞めて、ここで暮らすのもわるくないかもなあ」

 誰にも聞かれないような小さな声でつぶやくと、置かれたナプキンをちらりと見てテーブルに背を向けた。



 このラスベガスには『チーム3』のあつしたちも来ていた。さながらそれを追いかけるように『チーム4』のモヒカン達も朝方に飛行場に降り立っていた。彼らが勝負の場に、一緒の場所を選んだのは偶然なのかは分からない。更に他に一組、航空会社は違うが、『チーム8』のアメリカ人三人もラスベガス空港に昼ごろ着いたらしい。だがこの三人の詳しい情報を知る者は、この時点で誰もいなかった。

 あつしたちはフォーシーズンズ・ラスベガスにチェックインを済ませると、おばあさんを部屋に残してカジノ巡りを始めた。この有名なホテルはカジノ街から少し離れた所にあるので、連泊するのには最適なホテルだ。カジノとホテルライフを切り離して過ごせることから、外国人観光客に人気が高い。

「なあ、あつし。実質的にあのばあさんは役に立たないと思うぜ。もしチャレンジ成功したら分け前は少な目でいいんじゃねえか?」

 ラスベガス・ストリップ(中心街の通り)を歩きながらゴリラが落ち着かない様子で尋ねた。

「ダメだ。分け前はきっちり三等分だ。お前……気付かなかったか? あのばあさんの腕にチラっと見えた『玄武』の刺青を。俺の記憶が正しければ、中国のマフィアの一員だよ。面倒なことになるのはイヤだろ?」

「マジかよ! 本当にアクの強い人間を集めたよなあ……。あのサラリーマンといい、とても一般人から選んだとは思えん」

 ひゅーっと口笛を吹いたゴリラの顔の中心には、サラリーマンの蹴った跡が赤黒く残っている。税関でひと悶着あったのもこのキズのせいだった。

「それとな、『チーム10』のチャイナドレスを着ていた中国人の女いただろ? あいつは青龍の刺青をしていた。あの刺青は龍星会だ。やつらは玄武系の蛇甲会より危ない。他にも誰かしらいるかもな」

「あつしは何でそんなに詳しいんだよ。もしかして中国人なのか?」

ゴリラはニヤニヤ笑いながら軽口を叩いた。

ごきっ!

 次の瞬間、あつしは持っていたアルミケースの角を、ゴリラの顔に斜め四十五度から思いきり叩きつけた。自分より頭ひとつ高いゴリラの顔に躊躇なくだ。ちょうどサラリーマンにやられた鼻面にまたヒットして、ゴリラは鼻血を噴きだしながら道路に蹲った。そしてその顔面を、まるで〈サッカーボールを蹴るように〉更に蹴り上げる。

「おう! てめえナメた口聞いてんじゃねえぞ! 俺はれっきとした日本人だ。いいか、良く聞け。俺はな、新宿でも危険な多国籍ヤクザの中で育ったんだ。中にはブラジル人もいたし、中国、韓国マフィアもいる。お前みたいにガタイがデカいだけで何でも許されるって世界じゃないんだよ。人を見極めてから口を聞けよ。あとな、これから俺を呼ぶときは『さん』を忘れるな」

 少しかすれた低い大声を出しても、彼は息ひとつ切らしていない上にその眼は氷のように冷たかった。

「わ、分かった。あつし……さん。あれっ、前歯が一本折れちまった」

ゴリラは口の中から血の付いた前歯を舌で押し出すように取り出した。

「ははは! ハクがついてよかったじゃんか。それだと、うどん食う時は口を閉じたまますすれて便利だなあ」

 自分がやったにもかかわらずゴリラの顔を見て大笑いしている。

漆黒のスーツで見えなかったが、あつしの背中には、お馴染みの刺青が一面に入っていた。彼は、新宿を中心とする新興組織の若頭だった。もちろん、不幸な事にゴリラはそれを後で知ったのだが。そしてこれ以降、彼は自分より年下にもかかわらず、あつしのことを〈さん〉付けで呼ぶようになる。

 ゴリラの出血が落ち着くと別のカジノに向かうために、シティセンターの前の車止めでタクシーを拾う。その血まみれの顔に、運転手は少し訝し気な表情を浮かべたが、すっとドアを開けた。

 ラスベガスのタクシーは日本のそれと違い、ホテルやイベントの告知の看板が無理やり車にとりつけてある。始めて乗った人は、運転席の横に信じられない注意書きがあることに気付くだろう。

【喫煙と飲酒、及び以下の行為『大笑いする、大声をあげる、歌う、叫ぶ、走る、ジャンプする、そして様々なタイプの淫らな行為をすること』……は許可されています】とユーモアたっぷりの注意書きに。そして最後の一行は【Welcome to Vegas, Baby!】と締めくくられている。

「ドラッグストアまで行ってくれ。こいつのこの顔じゃカジノにも入れやしねえ」

 あつしの目の前には、マンダリン・オリエンタル・ラスベガスが見える。夜になるとストリップビュースイートから煌びやかなネオンが一望できると評判のホテルだ。

 乗り込む寸前に向かいのホテルの車止めに目をやった瞬間、あつしの口元が緩んだ。そこには、どこかでみたようなオレンジ色の変な髪型のヤツがいた。隣にはリンダとリーマンの姿も見える。そう、変な髪型と言えば……『チーム4』のモヒカンだ。

「ふうん。ヤツらも来ていたのか。こいつはまた面白くなりそうだ」

 あつしはそうつぶやくと、ゴリラを無理やり後部座席の奥に押し込み、ゆっくりとタバコに火を点けた。



『東京・中野』 四月二日 



 その頃、『チーム2』の貴子は朝霧外科医院に来ていた。チームメイトのまゆみと美香は、足取りも軽くとっくに海外に行ってしまった。

この病院は中規模程度の病院だ。待合室には十人ぐらいが待っていたが、前もって電話していたのか裏口から特別に入れてもらえたようだ。

「先生、内密の相談があるのですが」

貴子は長い黒髪をかき分けながら切り出す。

診察室には大林医師と看護士が一人しかいなかったが、彼は気を使って看護士を部屋から遠ざけてくれた。薬の匂いがする診察室には、もう二人しかいない。

「なんだい? 貴子ちゃんは娘の友人だから、なんでも相談してくれ」

 椅子に座りなおし手を膝の上で組むと、親しげな笑顔で答える。

「まず、これをみてください。先日、ある事情で埋め込まれたものがあるんですが」

 くるりと後ろを向き髪の毛を両手で持ち上げる。大林は彼女の白く細い首筋に顔を近づけた。

「うーむ。確かに頭皮の下に何かあるね。まずはレントゲンを撮ってみるか」

触診が終わると看護師に呼ばれ、レントゲン室に案内される。

大林の指し示したレントゲンの写真には、丸い五百円玉ぐらいの物体が白く不気味に写っていた。

「驚いたな。こんなもの、どうして入れたんだね?」

 怪訝な顔をして首を捻る。

「実は……」

 貴子はジェスチャーを交えながら、今回の経緯をすべて医師に話した。ペナルティの件や、自由に使える手元の千六百万近くの金の事もだ。

「うーん。取り出すと死ぬと言ったんだね。ひょっとして爆弾か何かかもしれない。詳細な映像を撮りたいから、これから検査に入るよ」

難しい表情をした大林は看護士を呼び、何やら話したあと病室を出て行った。

 数十分後、診察室のドアが開き大林が大股で入って来た。

「貴子くん、どうやらこれは爆弾では無いようだ。ただ、中心部に液体らしきものが詰まっている。その成分は取り出してみないと分からないが、取り出しても大丈夫かね? ここからは君の責任になるから、ゆっくり時間をかけて決めて欲しい」

看護士が見ていても気にする様子もなく貴子の手をとり、心配そうに言った。

「ええ、かまいません。こんな気味の悪いものすぐにでも取り出して下さい。私には今やらなければならない事があるんです」

「分かった。ところで手術そのものは全然難しくないが、ひとつ条件がある」

言いにくそうに彼はそこで一度言葉を切った。

「分かっています。成功したら、私の取り分の千六百万のうち四百万を差し上げます」

「悪いね。一見患者が多いように見えるが、親父の代の借金がまだまだ残っていて実は経営が火の車なんだ。では一時間後に手術を始めるから、少し待っていてくれ」

 そう言い残すと準備のために診察室を出て行った。

一時間後、あっという間にそれは取り出された。確かに大きさは五百円玉ぐらいだが、裏面にトゲトゲの突起物がついていた。更にそれを制御する精巧な基盤と、超小型の発信機の様なモノが仕込まれている。

「――無事成功したよ。しかしこれは何だろう。中身と基盤は、私の方で研究のため預かっ」

 言い終わらないうちに、ピンセットの先につまんだモノから小さな火花が散った。基盤は溶け、中の液体は一瞬で蒸発してしまった。

 だが、この程度の発火ではとても命に係わるとは思えない。ブライアンの言っていた「死ぬ」という不気味な言葉とは一体何だったのだろうか。

 麻酔が切れ少し傷跡が痛む様子だったが、彼女は紙袋から札束四個を取り出すと大林の机に置いた。

「本当にありがとうございました! これで怯えずにお金が使えます。実は、弟が保険の効かない病気でお金がかかってしまって……」

深々と頭を下げ、悲しそうに目を伏せた。

「そうか、君も大変なんだな。急いで弟さんの所に行ってやってくれ。最後に貴子くん、これからもうちの娘と仲良くしてやってくれるか?」

「もちろんです」

 大林医師は少し考えた後、札束の二つを貴子の目の前に押し出した。

「先生! ありがとうございました」

 目から大粒の涙がほろほろとこぼれる。そして頭を深く下げると、急ぎ足で病院を後にした。

 しかし、チップを摘出した瞬間から〈逃れる事ができない恐ろしいペナルティ〉が、すでに自分の身に降りかかっていることに貴子は全く気付いていなかった。


『タイ・バンコク』 四月二日



『チーム5』のタイ人の男たち、ソム・チャイとチャワリットは水谷琴美を引き連れて新バンコク国際空港に降り立った。空港から一歩出た瞬間、琴美ら三人はむっとする空気とギラギラ光る太陽の熱に容赦なく包まれた。

この国では四月が最も暑くなる。湿気は思ったより少ないが、太陽の照り付けは日本と段違いに強い。そのためか、タイの学校は三月半ばから五月の半ばまで夏休みになっている。顔に手をかざして空を見上げた琴美は、一言も発せずむしり取るように長袖の上着を脱ぎ始めた。 

 二十二歳の琴美は夫の暴力に辟易していた。結婚して一年も経たないうちにひどいDVが始まった。結婚当初はリスのようにふくよかな愛らしい顔をしていたが、今では不眠症のため顎は尖り、目の下に化粧でも隠せないクマがにじんでいる。

誰にも見られないように注意しながら、脱いだ上着で左の二の腕をそっと隠す。夫から出発前に着けられた、指の形をしたひどい痣を隠すためだ。今回のチャレンジは琴美にとって〈人生を変えるチャンス〉であり、その一文字に結んだ唇にも決死の覚悟がにじみ出ているように見えた。

「いやだ、入れ忘れたのかしら」

 ねっとりと纏い付く熱気に辟易したような顔で鞄の中をまさぐる。そして男たちに待つようにジェスチャーで伝えると、売店に走り日焼け止め買いに行く。早口のタイ語を聞き取る事に、彼女はかなり戸惑っている様子だ。

「いい女だな」

 オレンジ色のタンクトップを着たソムは、まるでネズミのような狡猾な目つきをしながら隣のチャワリットに話しかけた。

「ああ。少しもったいないような気もするが」

 そう答えると、吸い終わった煙草を道路に投げ捨てる。

「待たせちゃってごめんなさい。タイ語がよく分からなくて」

「ダイジョーブ、ヘイキネ」

 男たちはとっさに満面の笑顔を浮かべながら彼女に向かって頷いた。

三人は空港からタクシーに乗りバンコクを目指す。タクシーの車窓からは大きな寺院もちらほら見えていたが、バンコクに入るとすぐに大きなビルが次々と姿を現す。有名なタニヤ通りにはいろんな店が立ち並び、日本語の看板も少なからず目に入ってくる。

 一行はチャオプラヤー川の近くでトゥクトゥクに乗り換えると、渡し船の乗り場を横目で見つつ、ハンサーバンコクホテルを目指す。近くを流れるチャオプラヤー川は今日もミルクティ色に濁り、渡し船乗り場は乗船を待つ外国人でごった返していた。

「この辺は本当に変わらないな」

 ソムのこの言葉に、チャワリットは返事の代わりに白いタオルで顔を拭う。五十万ドル入りのアルミケースは、大柄でやたら声のデカいチャワリットがひざに大事そうに抱えている。やっと日焼け止めを腕と脚に塗り込み終わった琴美は、不安と期待の混ざった眼でこの二人を横目でちらちらと観察していた。

 ノーヘルのバイクが沢山走っている大通りでは、信号待ちで止まるやいなや周りを小型バイクであっという間に囲まれてしまう。初めてタイを訪れた日本人にとって排気ガスや騒音、そして暑い太陽の日差しは慣れるまでに少し時間がかかるに違いない。

「ねえ、あれ何してるの?」

「イツモノコト。タイノヒト、キニシナイネ」

 ソムは琴美が驚く様子を見て愉快そうに答えた。

 彼女が驚くのも無理はない。現地の人は駐車している自分の車を出そうとする時に、邪魔な車をバンパーで構わず押しのけて行く。乗り物に関する価値観の違いなのだろうか、もし日本でこれをやったらきっと大ゲンカになるだろう。

十分後、ホテルにチェックインすると、三人は荷物を部屋に預けてから慌ただしく街に出た。ソムが先頭になり大渋滞になっている大通りをずんずん歩いて行く。今夜の地下闘技場の場所を確認するためだ。

 琴美の聞いた話では、ソムはムエタイの地方チャンピオンになったことがあるらしい。その筋から大金が動く地下闘技場で勝負することにしたようだ。

「どこに行くの?」

 ソムは答えない。笑うと白い歯が見え優しそうに見えるが、時々見せる感情の無い冷たい目が琴美の次の言葉を奪い去った。ひょっとしたら、その目の奥に夫と同質の残忍さを感じたのだろうか。        

 チャワリットは相変わらず大事そうにその太い腕でアルミケースを抱え、琴美の後ろを歩いていた。女性だけが感じるであろうなんとも言えないイヤな視線を、時々後ろから感じているようだ。その証拠に、履いていたスカートの裾を何度も下げる。

「オナカスイテナイカ?」

 無事に地下闘技場の位置を確認したソムは、急に上機嫌になった。そしてタイに着いて初めての食事をとるために、彼のお勧めの店に向かった。そこはガソリンスタンド前にある〈クイティアオ ガイ マラ サムンプライ〉という屋台だ。路上には無人のタクシーが所狭しと並び、運転手だろうか、沢山の人々が大声でしゃべりながら食べている。日本では嗅いだ事の無い異国の食べ物の匂いが、アスファルトに染み込むほどに充満していた。

「コトネ、ココオイシインダヨ!」

 琴音に話す時だけに使う片言の日本語でソムはそう言うと、彼女の手を引いて空いている席に引っ張って行った。チャワリットは鋭い視線を周りに注ぎながら二人の後を黙って追う。彼の首に入った鎌首をもたげた大蛇のタトゥーも、同時に周りを威嚇しているように見えた。

「わあ! 美味しい」

 ソムのおすすめの店だけあって、特製スープが絶品であった。ハーブであろうか、鼻に抜けるような何とも言えない香りが琴美の顔をぱっと輝かせる。値段に至っては大盛りを頼んでも五十バーツ(日本円で約百六十円)もいかない。他にタイ風のラーメンなどいろいろ食べたが、彼女はその全てにおいて満足したような表情を浮かべている。

「コトミ、ナゼナイテイル?」

「夫の顔色をびくびく伺いながら食事するのって、やっぱり異常な事だったのね。いま何を食べても素晴らしく美味しく感じるの」

 彼女にとって日本での生活は、気を使い過ぎて料理の味など分らなかったのだろう。

 身体の大きさに比例するように、チャワリットのテーブルには空き皿の山が明らかに異常なペースで次々に築かれていく。しかしいざ会計をしてみると、全部で五百バーツもかかっていないところから日本とは根本的に物価が違うと気付かされる。

「ふう。もう食べられないわ。ソム、美味しい所に連れていってくれてありがとう」

「ハハハ! オタガイ、ヨクタベタヨネ」

 額から大粒の汗を吹き出しながら歩く彼女の横顔を見ながら、ソムが自分の腹を叩く。満腹になった三人はホテルに戻ると、今夜の地下闘技場での勝負に備えそれぞれ仮眠をとった。

 憎たらしくなるような暑さをもたらしていた太陽が地平線に沈んだ頃、バンコクの西にある川を渡ると、テナントの入っていないビルが見えてくる。人気の無いその階段を三人はゆっくりと降りて行く。降りる途中で一人の男からセキュリティチェックを一度受けたが、どうやら武器の所持を確認しているようだ。驚いた事にソムの話では、「警官も銃を預けてまで賭けに来ている」らしい。

地下一階まで降りた時に少しだけ聞こえていた歓声が、地下二階の扉を開けた瞬間に大音声に変わる。その音を例えるなら、地獄で亡者たちが歓喜の雄叫びをあげているようだ。

 むわっとした空気に包まれた闘技場の中は中央にリングがあり、どうやって詰め込んだか分からない程の観衆が十重二十重にリングを取り囲んでいた。

「チョト、ココデマッテテネ」

二人を残し先頭を歩くソムがあやしい風体の男に声を掛ける。顔に傷があるその男は、琴美を舐めるように見てから二階席の一画にある〈VIPルーム〉に三人を案内していく。

「ぶっ殺せ! ぶっ殺せ!」

 エキサイトした観衆が足を踏み鳴らしながら叫んでいる。今、目下にあるリング上では赤いパンツのムエタイ男と、黒いタイツを履いたレスラーが激しい戦いの火花を散らしていた。

 人の多さとタイ人独特の体臭に圧倒された様子で、琴美は次第に気分が悪くなってきたようだ。だが、口うるさい夫から離れ、異国の地でこのような危険な場所に潜り込んでいるというスリルからか、青白い顔色と対照的にその眼だけはキラキラと輝いていた。

 このVIPルームにはタイの金持ちなのだろうか、派手なドレスを着た女たちに囲まれている若い男たちも大勢いた。その隣のテーブルに案内された三人に、耳にダイヤのピアスを輝かせた大男がつかつかと近づいて来る。

「支配人から『キャッシュを見せるように』と命じられております。どうぞこちらに」

 予め決まっていたかのように、チャワリットだけが席を立ちアルミケースを持ったまま奥の部屋に消えていく。

まさにその瞬間、リングの方で今夜一番の凄まじい歓声が上がった。全観衆が注目しているリングの上では、敗色濃厚だった血まみれになったレスラーがムエタイ使いの男の足を掴み〈曲がってはいけない方向に〉曲げていた。

 賭けのチケットの様なものが一斉に汗臭い闘技場に飛び交い、どよめきがしばらく続いた。しばらくすると、タンカでムエタイ男はリングの外に運ばれていく。酷い事に、怒り狂った観衆たちから彼は何度も小突かれて、終いには前歯が全部無くなるほどの大怪我を負わされていた。たぶんもう彼は、二度とリングに上がる事はできないだろう。

 そんな騒ぎに気をとられているうちにチャワリットが席に戻って来たが、彼の手からは札束が詰まったアルミケースだけがすっぽりと消えていた。

琴美は口に手をあて驚愕した表情を浮かべる。片言の日本語でソムから簡単な説明を受けてはいたが、次のメインイベントで「全額を賭ける」とは聞かされていなかったようだ。抗議めいた視線でソムを睨んだが、彼も緊張しているのかシンハービールをがぶがぶ浴びるように飲みつつ前だけを見つめている。ついに眼が合ったが、その眼はあの琴美に何も言わせない凶暴な光を発していた。彼女はそのまま風船がしぼむように黙って下を向いてしまった。男性からこのような凶暴な気配を感じると、身体が反射的に委縮してしまうのだろう。

「こうなったら、この男たちに運命をまかせるしかないわ」

 聞こえないような小声でそうつぶやくと、口を一文字に結び、震える手でハンカチをバッグから取り出して吹き出した汗をそっと吸い取った。

「ウオオオオ!」

 会場全体が大きな心臓になったように人の群れがうねり出す。いよいよメインイベントのコールが始まったのだ。前回チャンプの金のトランクスの男と、挑戦者の熊のような大男の対戦が始まった。

 突然、琴美は顔を上げ意を決したようにソムとチャワリットを見ると、どちらに賭けたのかを思い切って聞いてみた。ソムの指先が示す方向には、金のトランクスを履いた堂々とした風格のチャンプがいた。

そして――ついに琴美たちの運命をかけた試合が始まる。

「チャンピオンなんだから強いわよね。大丈夫よね!」とソムに問い詰める琴美の顔には必死さがにじみ出ていた。

 だがその心配をよそに、試合は一方的にチャンプが優勢のようだ。琴美も思わず立ち上がり、今まで出したことのないような大声で応援しだす。自分がこんな大声が出せる事に気づいたのか、その顔は驚きと戸惑いを隠せない感じだ。隣のチャワリットもビールの缶を握りつぶしながら大声をあげている。

 やがてチャンプの蹴りを頭にまともに受けた大男が、ふらふらと崩れるようにダウンしてしまう。カウントに合わせて会場がチャンプコールに包まれると同時に、客が地面を踏み鳴らす音で闘技場は気のせいではなくはっきりと揺れ始めた。

 ぎりぎり九カウントで立ち上がった大男は、自分のコーナーによろめきながら進んで行く。これをチャンスとみたチャンプは怒涛のラッシュをかけた。

だが……そこから悪夢のような出来事が起こった。チャンプの足を血まみれの手で掴んだ大男は、さっきの試合のように力任せにその足を無慈悲にへし折った。だが、さすがチャンプと言うべきか、ギブアップはせずに果敢に折れた片足で挑んでいく。

「ごきっ」

 チャンプがバランスを崩した瞬間、不運にも大男の強烈な右フックが彼の顎を激しく捉えた。その瞬間、琴美にはチャンプの首がへんな方向に曲がったように見えた。


 ソムは、頭を抱えびっしょりと汗をかいていた。手には五十万ドル分のチケットが握りしめられ、彼の爪は、血が出るほどに手のひらに食い込んでいる。

「負け……たの?」

琴美はチャワリットの方を振り返った。暗くて分からなかったが、眼だけが獣のように光っている。ソムは足早にチャワリットの傍に行くと、何かを耳打ちした。

「ゼンブ、マケチャッタヨ。コレデサヨナラネ」

ソムは琴美に近づき、申し訳なさそうに頭を下げた。

「全部って。これからどうするの?」

 しかしその問いには答えず、彼はすぐに踵を返し逃げるようにチャワリットと共にすたすたと歩き出した。

「待って! マケチャッタヨで済む話じゃないでしょう!」

二人を追いかけようとした瞬間、三人の屈強な男たちに行く手を阻まれその腕を乱暴に掴まれた。

「痛い! 何するのよ。離して」

 歓声に負けないぐらいの声で叫んだが、腕をつかんだ手は全く緩まない。男たちの後ろに立っていた支配人がタイ語で屈強な男たちに指示を出すと、彼女はそのまま別室に連れて行かれた。ちょうど夫につけられたあざの上から腕を強く掴まれたのか、鋭い悲鳴を上げたが男たちはおかまいなしだ。

「ワタシ、ニホンジンダイスキヨ」

 趣味の悪い部屋の中で支配人は笑顔を作り、片言の日本語で話し出した。だが、その眼は少しも笑っていない。

「私をどうする気なの?」

 尋常じゃない危険を感じて金切り声で叫んだが、腕をつかんでいる三人はせせら笑いを浮かべて頭を振っている。身体中の毛穴が開き、本能が「逃げろ!」と激しく警告しているかのように激しく身をよじる。

「アナタノトモダチ、五十万ドル、イママケタ。アナタノ、カラダモ、カケタ」

「どういう事?」

「アナタヲ、ドレイトシテ、ウリトバス。モウニドト、ニホンニ、カエレナイヨ」

 その答えを聞いた瞬間、過呼吸に陥った彼女はその場に崩れ落ち失神した。琴美の目に最後に映ったのは、薄ら笑いを浮かべる支配人のギラギラした眼だったに違いない。

 アジアには今も人身売買組織が存在している。その中でも日本人女性は特に高く売れ、特にアラブの大金持ちに大人気らしい。しかしそこに行くならばまだましな方とも言える。どこかの国の売春組織に売られ、そしていつか使い物にならなくなった末には残酷な死が待っているというルートもありえるのだ。または手足を切り落とされた後、見世物小屋に売られるといった恐ろしい話もある。

 彼らの会話から分かる事は、このあと今夜の船で琴美は中国に運ばれ、セリにかけられたあと売られるという事だけだった。いつか琴美が目が覚めた時、(DV夫と暮らした方がはるかにましだった)と思うかどうかは本人しか分からない。

 一時間後、ソムとチャワリット、そして支配人は〈ハンサー バンコクホテル〉のBARにいた。彼らの手には高級なシャンパンが注がれている。

「日本人の女は可哀想なことをしたな。俺の好みだったのに」

チャワリットが半笑いでつぶやいた。

「なら、お前が買い取ればいいじゃないか」

いやらしい顔で支配人もニヤリと笑う。

「俺たち三人で五十万ドルと、彼女を売った金十万ドル、しめて六十万ドルを山分けだな。ところで、俺の演技力はたいしたものだったろ?」

ソムはそういうと、高らかにシャンパングラスを掲げ得意そうな顔を浮かべる。

「ああ、段取り通りに事が運んで良かったな。いったい誰があんな試合に五十万ドル賭けるっていうんだよ、なあ。今回は彼女に〈負けたって事実を認めさせる事〉が面倒だったけどな。それが無かったら、すぐに精神をおかしくして売り物にならなくなってしまう」

 支配人は両手を広げてそう言うと肩をすくめた。

「さて、次はぱーっと女の子がいる店に行こうぜ!」

ソムたちは意気揚々と立ち上って店を出ると、支配人の用意した高級車に意気揚々と乗り込んだ。だが、その様子を見つめる支配人の目は、まるで〈まだやり残した事があるような〉感じで、心から喜んでいる風にはとても見えなかった。

 翌朝――チャオプラヤー川に二つの身元不明の死体が浮かんでいた。至近距離から頭部を撃ち抜かれ、即死状態だと思われた。

 一人はオレンジ色のタンクトップを着ていて、もう一人は首に大蛇のタトゥーが入っていた。誰も気づかなかったが、二人の後頭部のチップは生体反応が無くなった瞬間に例のごとく消滅していた。

 地元新聞の発表では、その手口から【犯罪組織に消されたのだろう】と書かれていたが、最後の行に〈その口元は何故か両方とも笑っていた〉と短く添えられていた。

「こううまく行くと何か気持ち悪いなあ」

 支配人が目を細めながら見ている机の上には、五十万ドルの紙幣と、琴美の人生の値段と言うべき十万ドルが無造作に積まれている。しかし、彼はこの紙幣の八十パーセントを組織の上層部に納めることになっていた。彼は人間を裏切る事でのし上がってきた生粋の悪党そのものだったのだ。

 その時、突然支配人室のドアが勢いよく開いた。そこに飛び込んできたのは……。

「動くな! 手を見えるところに出せ!」

 アリンタラート二十六警察特殊部隊(SWAT)の部隊員たちが、ドアを蹴破って突入してきたのだ。

 カチャ! カチャ! という音と共に短機関銃が、真っ青な顔をした支配人につきつけられる。

 暗視ゴーグルをつけているので隊員たちの表情は分からないが、彼らは目の前の札束に全く動じる気配は無かった。抵抗する気を全く失った様子の支配人は、乱暴に拘束されそのまま連行されていく。このあと彼には二件の殺人罪を含め、非常に重い刑罰が下るだろう。


 結局、誰も得をしないまま『チーム5』のビッグミリオンチャレンジは、その幕を早々も閉じる事となった。



『日本・横浜』 四月二日 



 その頃、横浜の日本支部ではブライアンと部下のカエラ、そして『ジャッジメント』と呼ばれる幹部たち三名が顔を揃えていた。

「では、タイに行った『チーム5』は失格ということでよろしいですね?」

 会議室に集まったメンバー一同をカエラはゆっくりと見廻す。広い会議室には真紅のじゅうたんが敷かれ、壁にはモニターがびっしりと埋め込まれている。彼女はそのスタイルの良さを意識しているのか、今日は特に胸元の大きく開いたスーツを着ていた。

 タイからの詳細な報告を手元の書類で確認したジャッジメントたちが、彼らのルールに従い裁定を下した。

「まずルール一の適用について、ソム、チャワリットの二名の死亡によりこれは逃走ではない。水谷琴美は現在中国へ向かう奴隷船の中だが、これも資本金を手にしてない以上同様の扱いだ。しかし資金が警察の手に渡った以上、チャレンジ成功はおろかスタート地点に戻ることは事実上不可能だろう。よって、ルールの三に抵触する事となり、カエラ君の言うとおり『チーム5』は失格とする」

 ジャッジメントの一人〈賢者〉エリックが一人一人を見廻しながら発言した。髪は白髪まじりではあるが、声は若々しい。冷酷そうなとがった顎を持ち、吸い込まれるようなグリーンの眼でカエラを見ている。

「しかし、女性はまだチップを埋め込まれたまま生きています。チップが有効な以上、救出が必要なのではないですか?」

 何かに促されたようにブライアンが立ち上がり発言した。同じ女性としての憐憫の情なのだろうか、カエラは応援するような視線をさっきから彼に送っている。

「ブライアン君、残念だが彼女を救出するメリットはない。奴隷にはなってしまったが、彼女はひょっとして今だけは〈勝ち組〉なのかもしれないよ。いつか彼女もチップの本質を知るときが来るかもしれない。それに――札束の持ち主が変わっただけで結局は、種はまかれたのだから」

 エリックは冷たい声で質問に答えながら、クセなのか顎髭をくるりと撫でるように触った。

「分かりました。追跡装置の方はそのままでよろしいのですね?」

 救出を行わないという決定が少し不服そうだったが、感情を抑えた様子で目線を机に落とした。

「ああ、無理に取り出されても消滅するだけだ。証拠は残らないから、引き続き追跡だけ続行してくれ。個人的にどこに売られるか興味があるのでね。アラブの富豪か、それとも……」

 その眼には残忍な光と期待の光が同居していた。

 ジャッジメントのお偉方の悪趣味にこれ以上付き合いたくないという風に、二人は目で合図を交わす。

「それでは、これよりラスベガス方面の監視結果を報告します」

 部屋の空気を入れ換えるようにカエラがキッパリと声を張った。部屋の中央のプロジェクターに近づいてスイッチを入れる。その動作に無駄な動きは一つもない。

「ライブ監視チームの我が『チーム8』は現在ラスベガスに到着後、活動を開始しています。生え抜きのスタッフ三名が『チーム8』に扮し、『チーム3、4、7』を監視しています。その後、中国に飛んだ『チーム1、10』を追いかける予定です。なお、中国方面のこの二チームは〈逃亡〉を計画している模様ですが、例の件との絡みからどう展開するかは現在のところは読めません」

 カエラは一息に報告書を読み上げた。

「ほう――面白いじゃないか。どんな知恵を絞ってくるかと思うとぞくぞくするな」

 ジャッジメントの〈皇帝〉と呼ばれるサイモンが、ニヤリと笑いながら足を組み直す。高貴な顔だちで、長いまつ毛に青い瞳が特徴的だ。実際皇帝の血筋が混ざっているらしいが、この男の性格も他の人間には未だ理解できていないようだ。

 最後に〈沈黙の女王〉と呼ばれるエリザベートが立ち上がった。会議室の者たちの目はその姿に釘づけになる。まだ立ち上がっただけなのに、既にカリスマ性が匂い立っていた。ブルネットの髪を持つ四十代ぐらいの美女で、目元がくっきりとして意志の強さを伺わせる顔だちをしていた。この場では、実質的に組織の『ナンバー2』と言われている彼女の意見が最重要視されるのは間違いないだろう。

「皆さんご存知の通り、今回のミッションは順調に推移しています。先ほどの日本人女性の件は、同じ女性として憐みを禁じ得ません。しかし、大局的に見て仕方ない事だと思いますので、救出作戦は行わないものとします。皆さんのご存知の通り『エクスプロージョン』に犠牲はつきものです。これからもこのような犠牲が出るでしょうが、冷静に対処して下さい。では、私はこれから本社に戻ります。次はテレビ会議でお会いしましょう」

 彼女は一息に皆に語りかけると席を立ち、軽い麝香(じゃこう)の匂いを残し颯爽と会議室を出て行った。

 廊下では警護の者四人が、すぐに彼女を柔らかく包み込む様に取り囲んだ。引き続きジャッジメントの他の二名も退出すると、この会議室にはしんとした静寂が訪れた。

「ねえ、例の話考えてくれた?」

カエラがブライアンをじっと見つめる。

「ああ。『エクスプロージョン』の後どうするかって話か。私は遠慮するよ。金などいくらあっても、もう意味が無いかもしれない。きっと君も今に考えが変わるよ」

 ブライアンは少し疲れた顔のカエラに近づき、唇に軽くキスをすると部屋を出て行った。爽やかな、オーデコロンだろうか――良い香りの彼のうなじ近くにも、参加者と同じチップがそっと埋まっていた。



現在のチーム状況



チーム1  アメリカ人二名+ヤン         中国へ移動中

チーム2  まゆみ、美香、貴子          チャレンジ不参加

チーム3  あつし、ゴリラ、おばあさん      ラスベガス

チーム4  リンダ、モヒカン、サラリーマン    ラスベガス

チーム5  タイ人二名+日本人一名        タイにて失格

チーム6  ロシア人二名+日本人一名       目的地不明

チーム7  謙介、あずさ、紫苑          ラスベガス

チーム8  アメリカ人三名            ラスベガス

チーム9  マイケル、ジェフ、将太        イギリスへ移動中

チーム10 紅花(ホンファ)他、中国人二名    中国へ移動中



『中国・北京』 四月三日



 中国へ旅立った『チーム1』と『チーム10』は北京首都国際空港に降り立った。

 ヤンとホンファは、機内ですでに恐ろしい計画を煮詰めていた。その計画とは〈自分たち以外のアメリカ人二名と中国人二名を始末する〉というものだった。

 空港から出た六人は、龍星会のある北京市へタクシーに分乗して向かった。アメリカ人たちは観光気分なのか、何やら楽しそうに窓の外を指さし景色を見てはしゃいでいる。

 その一人、トッドは優しそうな顔だちをした角刈りの白人男だ。もう一人の黒い肌を持つニックは、髪の毛を“コーンロウ”スタイルに編みあげている。陸上選手の様な締まったその身体つきは、非常に運動神経が発達しているように見えた。  

トッドとニックは旅の前半では一言も口を聞かなかったが、中国に着く頃にはすっかり打ち解け、今ではまるで古くからの旧友のように楽しそうに会話をしている。 ニックはよく笑い、英語があまり通じない中国人の四人にも積極的に話しかけ、人種の違いを埋める潤滑剤のような役割を果たしていた。

十分程走った時、ヤンは携帯を取り出すと龍星会の幹部、パクに車内からテレビ電話をかけた。小さなテレビ画面からでも分かるが、頬に古い刀傷がある典型的な悪人顔だ。実物はもっと凶悪な顔をしていて、実際に会えばそのプロレスラー並の体格と、丸太の様な腕の太さにみな圧倒されるに違いない。

 携帯での会話が終わったのを確認したタクシーの運転手は、頼んでもいないのにニコニコしながら高い声のトーンで観光案内を勝手に始める。

「北京には世界遺産が三つあります。頤和園、故宮博物院、それに天壇でーす。特に故宮博物院などは部屋数が約九千室あると言われていて、とても一日では見て回れるものではないですね。やれるものならやってみろです。観光する際は、ぜひ私どもの会社に電話よろしくですね」

 運転中にも関わらず後ろを向き、変な英語を使い嬉々とした表情で名刺を配りだす。

「いいから前を向け!」

 ヤンは中国語、トッドとニックは英語で怒鳴り、指で前方を指した。

 タクシーを降りると、パクの案内で大興区のアジトに向かう。この地域は比較的治安のいい北京の中で、最も危険なエリアとも言われている。アスファルトの捲れた道端からは、ボロボロの服を着た子供たちがギラついた眼で、特にアメリカ人たちの様子を伺っていた。ビルが立ち並ぶ一角のひときわ高い建物に、ヤンを先頭に一行は飲み込まれて行く。

「さあさあ、遠慮しないで入ってくれ」

 悪人顔のパクが出迎え招き入れた部屋には、唐時代の物であろうか豪華な骨董品や掛け軸が並んでいる。中央に回転テーブルが置かれ、まるで満漢全席を思わせるような料理が湯気を立てたまま用意されていた。

 中央にあるブタの丸焼きの目がぽっかりと暗い穴を空けたまま、入って来た客をじっと見ている。それを見たトッドとニックの眉間には、この時だけ深いしわが寄っていた。

「見たかよあのブタ。でも、いい匂いだなあ。ところで、この回転テーブルというのは実は日本人が発明したんだぜ。知ってたか?」

 匂いだけは気に入ったのか、鼻を膨らませながら雑学の知識をひけらかすようにニックは自慢気にのけぞった。

 全員がテーブルに着くと紹興酒がふるまわれ、合同チーム六人とパクは乾杯した。給仕が各人の横に立ち、一見高級中華レストランのようだ。

 ホンファはいつの間にか、セクシーな赤いチャイナドレスに着替えていた。黒服たちがホンファに挨拶する姿勢を見ると、彼女の組織でのランクは高い方だとトッドたちにも容易に想像がついただろう。

 食事は何の問題もなく和やかに進んでいたが、ヤンが食事の途中でホンファの耳元で何かをささやく。ホンファは頷き、パクの近くまで行くとやはり耳元で何かをささやいている。

「あまりいい気分じゃあないな、おい」

その様子を見ていたニックは、しかめっ面をしながら隣のトッドに顔を向けた。難しい顔をして頷き返したトッドだったが、彼が初めて飲んだと言っていた紹興酒の盃は、一口だけ舐められただけで全く減っていないのが何か妙だ。何故かこの二人の前にある酒は乾杯の時から〈少しも減って〉いない。

 一方、他の二名の中国人はただ食事を楽しんでいた。彼らは普通の中国の農民のようで、二人とも素朴で人の良さそうな顔をしている。ホンファに引っ張られてただぼーっとここまでついて来ている感じだ。

 あっという間に一時間が経ち、食事が落ち着くと顔を真っ赤にしたパクが突然立ち上がった。彼の前には紹興酒のボトルが三本ほど転がっている。

「改めて、龍星会にようこそ。食事の後は少しくつろいでくれ。、その後、俺が指定した病院に向かってもらいたい。なあに心配しなくても大丈夫だ。あなた達に埋まっているチップを取り出すだけだ。その摘出費用は組織が負担するが、分け前は二チーム足して百万ドルのうち〈二十万ドル〉をこちらがいただく。衛星追跡装置かなんかでこの場所が警察機関に踏み込まれるリスクも、こちらが背負っていることを承知願いたい」

 慇懃な口調であるが、有無を言わせぬ迫力があった。部屋の外には龍星会の兵隊と思われる荒くれ者が、武装状態で数名待機しているのが見える。

 パクの隣に立っていた片耳の無い通訳が、英語で説明を繰り返す。通訳と言っても、とても堅気に見えない凶暴なオーラが全身からあふれ出していた。

ヤンとホンファは組織と話がついたのか、安心した様子で和やかに酒を酌み交わしていた。

「なあ、ニック。この状況じゃNOと言えるヤツなんていないよな」

 トッドは隣で靴ひもを固く結び直している相棒をひじで突っついた。

「……ああ。しかし任務は任務だ。作戦どおり病院に向かう道路でキメるぞ」

 小さな声でつぶやくと、最後に一口、美味しそうな照りを出しているチキンにがぶりとかぶりついた。だが、その眼は微塵も油断していない。

 そう――実は彼らはアメリカ政府のエージェントであった。

 アメリカ国内のテログループに、ヤンを通して龍星会から資金援助が行われているという情報を仕入れ、一年前から彼を追っていた。ヤンがこのビッグミリオンチャレンジに当選したという情報を得たトッドとニックのコンビは、今回胸が躍るようなビッグチャンスを得た。

 色々な筋からビッグミリオン事務局にぎりぎり交渉が間に合い、特別にヤンと同じチームにしてもらった。もちろんヤンはこの事を全く知らない。面白いことに、当選者にホンファがいたのは全くの偶然であった。ヤンとホンファは、自分たちが殺そうと思っているヤツらが政府の人間だとは夢にも思っていないであろう。

 ニックはすばやくコードネーム〈レッドドラゴン〉の司令部に携帯メールを打った。通信先は近くに待機している中国人民武装警察部隊とCIAの合同チームだ。

これは、龍星会の壊滅を目標とした中国政府と、CIAの利益が一致し実現した大作戦である。ただ、出発前にひとつ妙な事をビッグミリオン事務局が通達してきていた。その内容は、「逮捕が成功して現金を押収した場合、こちらに戻してくれなくてもかまわない。どこかは知らないが金を手にした国は、ぜひ自国民のためにそれを有効に利用して欲しい」というものだった。

 トッドが鋭い眼でアルミケースの位置を確認すると、二つとも入って来た時と同じ位置にあった。ヤンの座っている脇に仲良く並んでいる。

三十分後、病院に向かうため車三台に分乗した一行は、片側一車線の交差点に差し掛かった。先頭の酒臭いセダンに乗っていたパクと部下三名は、前方の道路に何か横たわっている物があるのに気付いた。スピードを落とすと、大型トレーラーが横転していて道を塞いでいる。

 後方のヤンの乗った車両ではトッドとニックが、じりじりしながら作戦開始の合図を待っていた。そして――待ちに待った瞬間がついにやって来る。前方のパクの乗ったセダンのバックランプが点灯した瞬間!

「ぽんっ!」という間の抜けた音と共に、強烈な光が辺りを包んだ。

停止した三台に向けて、道の両脇のアパートから六個のスタングレネード(音響閃光弾)が投げ込まれた。もちろん二人はとっさに目を固く閉じ、耳を塞いだ。訓練で嫌になるほど聞いた音だろう。

「キイイイイイイン!」

 耳を塞いだにも関わらず、軽く耳鳴りがする。彼ら以外の車内の人間はこれから数秒間身動きがとれないはずだ。

 後部座席にいたトッドが運転手のヤンの首に手を回すと、助手席にいたニックがすばやくヤンを拘束した。ヤンは完全に視界を奪われ、抵抗する暇も無かった。

「何をするんだ! お前ら一体何者なんだ!」

耳をやられているせいか、声が異常にでかい。

「あなたには黙秘権がある――」

 おなじみのミランダ警告をニックが大声で読み上げたが、きっと彼の耳には届いていないだろう。

 前方ではスタングレネード投入と同時に、〈中国人民武装警察部隊〉が車の窓ガラスを割って突入していた。パクは逮捕の際、隊員たちと格闘になり強烈に暴れたが、足を撃たれた後は傷を押さえながらおとなしく拘束されていた。

 最後尾の車に乗っていたホンファは目をつぶったまま車から飛び出し逃げようとしたが、チャイナ服が仇となったのか、つんのめるように激しく転んでしまった。拘束時に中国語で何か汚い言葉で罵っていたが、ニックたちには何を言っているのかよく分からなかったようだ。

 ヤンとホンファ、それにパクとその一味は、手錠で繋がれ護送車に手荒く詰め込まれた。中国人民武装警察部隊の隊長がトッドに近づき、短く握手を交わす。

 警察車両が交差点を取り囲み、回転灯が辺りをちかちか照らしている。

「ご協力ありがとうございました。さて、そこに押収したアルミケースが二つありますがこれはどうしますか? これの持ち主の会社は『自由にしていい』と言っていましたが」

 トッドはいたずらっ子のような眼をしながら隊長に話しかける。

「こういうのはどうでしょう。これは我が国で没収しますが、犯人の身柄を即刻アメリカに引き渡します。本来の手続きと少々異なりますが、ことテロにおいては早急に情報を彼らから引き出したいでしょう?」   

 流暢な英語で隊長が提案した。案としては妥当な線だとはっきりとその顔にも書いてある。トッドとニックはにこりと笑い、もう一度隊長と今度は固く握手を交わした。

これで『チーム1』と『チーム10』も、早々にチャレンジから脱落した。



『東京・六本木』 四月三日



 まどかの瞳は『アルミケースに繋がれた毛深い手首のようなもの』が赤黒い傷口をみせたまま膝の上にあるのを確かに見た。車内は暗かったが、ジーンズに血の染みが広がっていく生暖かい感覚を感じる。血の匂いを嗅いだ瞬間――深く暗い闇にゆっくりと落ちていった。


 数時間前


『チーム6』はロシア人二名と、日本人の常盤まどかである。

彼女は、非常に困った問題が二つあることにスタート前から気づいているようだった。この身体のバカでかいロシア人の大酒飲みたちには〈言葉がまるで通じない〉のだ。

 彼らは、日本語はおろか英語も話せなかった。まどかがロシア語を話せれば問題無いのだが、ロシア語なんて今まで聞いたことも習ったことも無いに違いない。

 もうひとつの問題は、ゴランから手渡された手錠でニコライが自分の手首とケースの取っ手の部分をがっちりと繋いでしまったことだ。しかもスタートしてすぐに。

何度も身振り手振りで二人に必死に抗議をしたが、耳を貸さずにタクシーに乗り込む。ゴランは携帯でロシア語で誰かと話した後、運転手に電話を渡した。相手と少し話し場所を理解した運転手は六本木まで三人を乗せた。

 六本木に着くと、まだ開店前の外国人クラブ〈ロシアンパブ・セリゲル〉に三人は入って行った。

「Здравствуй」

ゴランとニコライは、奥の事務所にずかずか入って行って既に誰かと挨拶を交わしている。

「ズドラーストヴィ」と、まどかにはそう聞こえたようだ。

部屋の中にいたスタイルの良いロシア人の女たちがニコライの合図とともに部屋から追い出され、大柄なロシアの男が身体を揺すりながら代わりに入って来た。アレクセイと名乗る支配人のこの男は、昼間なのにもう顔が真っ赤だ。左手にはウォッカの瓶が握られている。

 まどかは形のいい唇でふっと笑うと、抱き合って挨拶を交わしている男たちを横目にそっと店を出た。すぐに携帯を取り出しどこかに電話を掛ける

「アルミケースは毛むくじゃらの男の手首に繋がっているわ。今夜の宿泊先が分かったらまた連絡するね」

 ピンクのマニュキュアを綺麗に塗った指で電話を切ると、昼のアマンド前を行きかうサラリーマンや外国人たちを感情の無い目で見つめた。

 今年十八歳になるまどかは、高校を中退後、立川にある不良グループのリーダーであるタケシと同棲していた。

彼女の髪の毛はミルクティ色に染められ、まつ毛には流行りのエクステを着けている。その姿は渋谷で見かける今どきの若者の私服姿となんら変わらない。細いタバコに火を点けて大人びた顔で煙を吐き出しているが、近くでよく見るとまだあどけなさが残っていた。

 今になってみると、まどかにとって日本語が分からないというのは逆に都合が良かった。これからは彼らの前で堂々と電話しても怪しまれないからだ。抗議のかいがあったのかは分からないが、スタート後にびっしり詰まった五十万ドルだけは何とか見せてもらえた。そして……彼女はそれをタケシから「奪え」と命令されていた。

(五十万ドルを二倍に増やす手段なんて考えるより、目の前の現金を奪った方がはるかに楽だ)とタケシは考えたのだろう。

彼が率いるグループは、窃盗、恐喝、暴行、住居侵入などいろいろな悪さをしていることで警察からもマークされている。保護観察下にあるタケシがこの計画に加わるのは危険だが、成功したときの見返りは非常に大きい。

 当初はロシア人が寝ている隙に、アルミケースを奪って逃げるという簡単な計画だった。しかし、手錠でアルミケースが繋がれたことにより、事は少し複雑になってしまった。

 まどかは店に一度戻ると、自分の携帯番号をニコライに投げつけるように渡し、「いい気なものね!」とぷんぷん怒りながら店を出た。奥の部屋では男三人が酔っ払い、すでに出来上がっていた。開店前だと言うのにウォッカの瓶がテーブルに乱雑に転がっていたが、店の女の子たちはそんな男どもを恐れて近づけないでいるようだ。

 店を出ると、四月だと言うのに冷たい雨がまどかの髪を濡らした。手をかざし一度だけ空を見上げると、時間をつぶすために六本木ヒルズの方に歩き出す。

 その頃タケシは、後輩の春樹を連れてまどかの元に駆けつけようとしていた。しかし、その急ぐ心とは裏腹に、彼らの乗る多摩ナンバーのワンボックスカーはお馴染みの首都高速の渋滞に巻き込まれていた。


 二時間後、まどかの携帯が鳴った。電話の向こうでは、ロシア語らしい言葉でニコライらしき男ががなりたてている。

 この数時間を使って、ネイルサロンに立ち寄りぴかぴかの爪に綺麗なデコレーションをしてもらったようだ。満足げに上機嫌で街をぶらぶらしていた彼女は、この電話でテンションが一気に下がってしまった顔をしている。

「分かったわよ! なにグランド? ハイアット東京コイ? もっとゆっくり話しなさいよ、このクマ! 何言ってるか分からないわよ。クマ男のバーカバーカ! 今チェックインでゴーゴー?  あー、集合ってことね。あとニコライあんた声でかすぎ!」

 相手が日本語を分からない事をいいことに悪口を織り交ぜて言ったあと、電話を切った。たぶんグランド・ハイアット東京に宿泊するから、チェックインに来いという事だろう。

 実は電話の相手は支配人のアレクセイだったのだが、たぶん彼女は気づいていないに違いない。指定されたグランド・ハイアットなら六本木ヒルズの一画だ。彼女の足でも五分もあれば着くだろう。

「ねえ、今どこなの?」

 帰宅するサラリーマンたちを巧みに避けながら、タケシに電話を掛ける。もうあたりには夕闇が迫っていた。

「今、新宿だよ。春樹のバカがどうしても買い物したいって言うから、コインパーキングに入れてるとこ。しっかしこっちのコインパーキングは狭いし、たっけえなあ!」

 舌うち混じりのタケシの声はいらだっている。

「何で新宿にいるのよ。早く近くまで来ないと、いざというとき動けないでしょ? それに最後の打ち合わせもしとかないと」

 まどかの声もトゲを含んでいる。

「はあ? 何怒ってんだよ。そんなの春樹に言えよ。とにかく、終わったらすぐにそっちに向かうから!」

「――ごめんなさい。じゃあ電話待ってるね。今から六本木のグランド・ハイアットってホテルにチェックインに向かうから」

 ブツッといきなり電話は切られた。まどかは悲しそうな顔をしながら電話を見つめた後、ホテルのロビーに入って行った。

 ロビーは広く、商談中なのかスーツ姿のおじさんたちが珈琲を飲みながら和やかに話している。しかしその奥では、その雰囲気を今にもぶち壊しそうな二人組がロビーの脇で女性コンシェルジュを困らせていた。

「お客様、ロビーにお酒を持ち込んで飲むことは、他のお客様の迷惑になりますのでご遠慮ください」

 彼女はロシア語でにこやかに対応しているが、身体の大きいロシア人たちを相手にあきらかに当惑していた。

「オーウ」

 腕を広げ、ゴランとニコライは同時に目を丸くしている。自分たちが何故怒られているのか全く理解できない様子だ。

「まったく、あいつら何してるのよ」

 まどかは小走りにそこに近づきコンシェルジュに深々と頭を下げると、ゴランとニコライからウォッカの瓶をひったくった。彼らはぽかーんとした顔をしていたが、かまわずずかずかとフロントに行くと、酒びんを渡し処分してくれと頼んだ。

ついでに名前を確認し宿泊手続きを済ますと、肩を怒らせながら戻って来る。そしてカードキーをゴランとニコライに投げつけた。

「な、ん、で、あんたたちがスイートルームで私が普通の部屋なのよ!」

腰に手をあてて精一杯睨んだが、二人はニコニコしながら荷物を持つとさっさとエレベーターに乗って行ってしまった。

 部屋に入ってしばらくすると、話の通じないロシア人の相手に疲れたのか、まどかは少しうとうとしていた。だがその眠りも電話で妨げられる。ゴランからスイートルームに来るようにと呼び出されたのだ。

「へーえ、私の部屋より随分とゴージャスじゃない」

 ここは彼女の部屋とは比べ物にならないほど広く豪華だ。窓からは東京の夜景が広がり、スカイツリーだろうか、ひときわ高い煌びやかなタワーも見える。

部屋に入ると、日本人の女性二人が派手なドレスを着て帰るところだった。強い香水の香りがバスルームから漂ってくる。彼女たちはぴったりとしたジーンズ姿のまどかを見て「ふふんっ」とバカにしたように笑うと、ヒールの音を絨毯で殺しながら部屋を出て行った。

「あんたたち……。もちろん自分のお金でこういうことやってるんでしょうね?」

バカな男たちを順番に睨みながら声を荒げた。たぶん、自分をガキ扱いした女たちにも腹が立っているのだろう。

「おいおい、彼女は何でいつも機嫌が悪いんだ?」

ゴランとニコライはそんなニュアンスで目を見合わせていた。言葉が分からなくても、視線と肩を竦めるジェスチャーで今回はさすがにまどかにも伝わったようだ。

「あんたたちが数時間ごとに怒らせるからよ! まあいいわ、打ち合わせしましょ」

 この部屋に入る前、やっと六本木に着いたタケシからまどかはあるものを受け取っていた。

「相手の体重によって効き目が違う。大体ヤツらは何キロぐらいだ?」

タケシの手のひらには白い錠剤が乗っている。

「そうね、百キロぐらいはあるんじゃないかな。これを飲み物に混ぜればいいのね」

「それじゃこれくらい必要だな。これでたぶん六時間は起きないぞ。その間に手錠のカギを探してアルミケースを奪ってこい」

相変わらずの命令口調だ。

「やってみる。あなたと春樹は車で待機しててね。成功したら電話するわ」

 タケシの手から錠剤四個を受けとると、鋭い視線を受けながら車を降りた。助手席では、筋肉質のがっしりとした体格と一重の冷たい鋭い眼を持つ春樹が、走り去る彼女をじっと見つめていた。半年前に同じ鑑別所でタケシと知り合ってから、悪い事をする時には彼らはいつも一緒だった。


 ロシア人たちは何やらパソコンを取りだし、ロシア語のサイトを表示させた。ゴランがキーボードを打ち、まどかとニコライが椅子を持ち寄ってそれを見ている。サイトに何やら暗証番号を入力すると、イギリスの〈ブックメーカー〉のHPに飛んだ。

 ブックメーカーとはあらゆる賭け事を請け負い、それに対し独自に倍率をつけ賭けを管理する会社だ。その対象は、野球、ホッケー、珍しい所では生まれてくる赤ちゃんの性別当てなどと賭けの対象は幅広い。

 ロシア語に翻訳されているページはまどかには読めないようだったが、何をしようとしているかは大体想像がついたようだ。探しているページを見ると、どうやら彼らはブックメーカーで二倍程度の倍率に賭けて全額勝負するつもりらしい。もちろん日本ではこのような賭博行為は違法であるが、今回彼らには何か特別な策があるようだった。

 パソコン画面を夢中で見ている二人に気付かれない様に、こっそりとそれぞれのグラスに錠剤を入れる事に彼女は成功した。錠剤はすぐに溶け込み、見事に無色透明だ。上着の袖に手元が隠れるように長めの服を着てきたのは、どうやらこの作戦のためらしい。

「あたし、といれ、いって、くる」

 身振りで伝えると、ゆっくりとした自然な仕草でトイレに行き、そこで電話を掛けた。

「錠剤はちゃんと飲ませたよ。どれくらいで眠るの?」

「数分で寝るはずだ。オレ達はホテルの近くで待機してるから、まず鍵を探せ。あ、自分が触った物の全ての指紋を拭くのを忘れんなよ。ケースを手首から外したらまた電話しろ」

 電話を切って部屋に戻ると、ゴランがキーボードに突っ伏しているのが見える。ニコライは大きな口を開け、椅子に頭を乗っけていびきをかいていた。

 椅子にかかっているゴランの上着のポケットを探すと、あっさりと右ポケットから小さな銀色の鍵が出てくる。手は細かく震えていたが、起こさない様に慎重に鍵を差し込む。やがてかちっという小気味の良い音と共に手錠が外れた。

 まさにその時!

 ニコライの目が『カッ!』と突然見開かれ、信じられないほど強い力でまどかの手首を瞬時に掴んだ。

「きゃああああああ!」

 まるで、大蛇に突然巻きつかれたかのような悲鳴が部屋に響き渡る。目を真っ赤に充血させたニコライが、何かぶつぶつと呟きながら彼女の腕を掴んだままぬっと立ち上がり、もう片方の手でまどかの細い首を絞めようと動き出す。

 まどかはとっさに持っていたアルミケースでニコライの顔を殴る。ひるんだ隙に手錠のぶら下がったままのアルミケースを胸に抱えると、部屋から飛び出し必死にエレベーターに走った。

 怯えた眼で後ろを振り返ると、ニコライがふらふらしながらも赤鬼のような形相をして追いかけて来ていた!

「うっわああ! あいつマジかあああ」

うさぎが飛び上がるようにひとつ跳ねると、廊下を走り抜けエレベーターのボタンを連射する。しかし、なかなか来ないようでその場で駆け足をしながらニコライとの距離を計っているようだ。この時、ニコライはまどかの数メートル先にまで迫っていた。やっと到着したエレベーターに乗りこみ素早くドアを閉める。荒い息を吐きながら震える手でタケシに電話をかけると、相手からはひどく冷静な声で「春樹がロビーまで迎えにいく」とだけ返事が返ってきた。

 エレベーターを降りロビーで後ろを振り返った時、やっとここで彼女の顔に余裕の色が浮かんだ。足早に出口に向かい歩き出すと、心配そうに自分を探している春樹の姿が目に入る。気のせいだろうか、この時何故か彼女の眼には、友人に向ける親しみとは違う光が灯っているように見えた。そしてそのまま二人は、まるで恋人同士のように寄り添いながら車に乗り込む。黒塗りのワンボックスカーは、デカいマフラーの音とともにタイヤを軋ませ急発進した。逃げる事に神経を集中しているのか、走行中の車内は静かだ。

「もう大丈夫だろ。……ちょっと中身を確認してみようぜ」

 しきりにルームミラーを気にしていたタケシは、安心したのか車を路肩に止めるとにやにやしながら後ろを振り返った。太い金のネックレスが、窓からの車のヘッドライトに反射して鈍く光っている。気の毒そうな顔をしたまどかの視線が春樹とケースを繋ぐ手錠に注がれている。持ち逃げされないためか、これはタケシの考えで前から決まっていたことらしい。彼はひょっとして一番の仲間さえも信用していないのかもしれない。

「すっげー! これで俺も大金持ちだ。でも、ドル札ってなんか偽物っぽく感じるよな。まあいいや、行くぞ」

 その目は子供のように輝いていたが、「俺も」というセリフを思わず口走ってしまったことに気づいたのか、気まずそうに前を向いた。三人で分けるつもりならば、ここは「俺たちも」というセリフで無ければ少しおかしい。その様子をじっと見ていた後部座席のふたりは、お互い目を合わせて軽くそっと頷いた。

「タケシ、あたしトイレ行きたい。ずっと我慢してたの」

「んだよ、しょうがねえなあ。ついでに腹ごしらえするか」

 やがて立川市内に入り国営昭和記念公園が見えたところで、コンビニの駐車場にタケシは車を突っ込んだ。

「まず俺が行ってくる。おまえは春樹と一緒に金を見張っててくれ」

 ニヤっと笑うと、チンピラの様な歩き方でコンビニに入って行った。コンビニに入ったのを確認すると、ここでまどかはすばやく行動に出る。後部座席からするりと運転席に行くと、ギアをバックに叩き込み駐車場を飛び出した。

「春樹、うまくいったわね。つか、もうアイツにはまじでウンザリよ。何かにつけて殴られるし、お金も貢がされるし」

 細いタバコに火を点けながら、吐き捨てるように言い放つ。

「ああ。あの言い草だと、金を均等に分けるつもりは全く無いな。けどあいつは必ず追いかけて来るぞ。どこかで車を乗り捨てないとやばい。俺の家に寄ってバイクに乗り換えよう」

 優しい目をして後部座席から身体を乗り出すと、まどかの頭を愛しそうに撫でた。

二十分後、春樹のアパート近くの路肩に車を捨てる段階で、まどかは軽くパニックに陥っていた。手錠の鍵がどこにも無いのだ。車の中を隅々まで探したが見つからない。このままでは彼がバイクを運転するのに支障が出てしまうことになる。

「きっと逃げる時にホテルで落としたんだな。まあ、心配するなって。俺は中学生の頃からバイクに乗ってるんだぜ。こんなもんついてたって楽勝だよ」

 アルミケースの着いた左腕を軽々と持ち上げて見せると、駐輪場から大きなスクーターを引っ張り出してきた。派手な紫色をしたビッグスクーターだ。

「乗れよ。このドル紙幣は、横浜にある伯父さんがやってる暴力団に〈洗って〉もらう。手数料は半分近く取られるだろうけど、二千五百万円もあったらどこか遠くの土地で一緒に暮らせるぜ。――お前のお腹にいる赤ん坊と一緒に三人でな。どっちの子供だろうと俺、がんばって育てるから!」と白い歯を出してにこっと笑うとバイクのエンジンをかけた。

 まどかが後ろに乗ると、左手を下ろしたまま器用にバイクを発進させた。アルミケースはちょうど足元にすっぽり置かれる感じだ。とにかく少しでも早く立川から出なければ危険な状態なのだが、まどかの顔は何故かうきうきしているように見える。大好きな春樹とこれからずっと一緒にいられることが嬉しくてたまらないのかもしれない。

 しかし、同時に不吉な音も聞こえていた。エンジン音にかき消されがちだったが、さっきから携帯がひっきりなしに鳴っている。誰からの電話なのかは、画面を見なくてもこの二人には分かり過ぎる程に分かっていた。

「春樹、ヤバいよ!」

 それは東京方面に向かって細い道を選びながら、三十分ぐらい走った時だった。後ろに車が一台、また一台といつの間にか増え、その後ろには改造バイクの排気音も聞こえ出した。振り向いてはいけないと思いつつも、まどかはふと後ろを向いてしまった。その時、ちょうど車の運転手の顔が街灯でちらっと見えた。

 タケシだ! 

 一瞬見えたその表情は、今まで見たことが無いくらいに怒り狂っている。言うなれば殺人さえいとわない鬼のような表情だった。

肌が一斉に泡立ち、叫びたくなるのを必死でこらえた様子で「すぐ後ろまで来てるわ、逃げて!」と鋭く叫ぶ。頷くと同時に力をこめて春樹はアクセルをひねる。だが、猛スピードで近づく車は、クラクションを鳴らしながらもう一メートル後ろまで迫っていた。もちろん、こんな時にお互い信号など守っている時間は無い。

「止まれや! 春樹てめえ、おらあああああああ!」

 車を左右に振りながら、怒りに歪んだ顔を窓から出しつつ恐ろしい声で叫んでいる。だが、春樹はさすがと言うべきか、片手にも関わらず巧みにバイクを走らせていた。

 もし――もしもだが彼らに捕まったら、死ぬよりひどい目にあわされるに違いない。ヤツらは今どき『オキテ』にこだわる集団なのだ。そのために行う酷い集団リンチは今までにまどかたちは何度も見ていた。

そして……。ついにその瞬間がやってきた。

 右カーブに差し掛かる手前で、タケシはあろうことか車のバンパーをバイクの後輪に激しくぶつけてきた。さすがにバイクは左右にハンドルを取られ、まどかを乗せたまま踊るようにガードレールに激しく接触する。二人は別々の方向に舞い上がると、アスファルトの上を激しく転がって行った。

(ここはどこなの?)

 遠くからパトカーと救急車のサイレンが聞こえて来る。肩を激しく揺さぶられて目を覚ますと、今まどかはタケシの車の助手席に座らされていた。

「おい! 手錠の鍵はどこだ?」

 何故かタケシの顔は異常に青ざめている。

 頭がひどく痛むのか彼女は顔をひどくしかめた。左足は道路の上を引きずられたのかひどい火傷みたいな傷が、腿からくるぶしのあたりまで伸びていた。俗に言うハンバーグ状態というやつだ。不思議と今は痛みは感じていない様子だが、ひょっとしたら何か所か骨折しているかもしれない。

「無くしたわ」

 そう答えると、舌打ちのあと何かが彼女のジーンズの上に乱暴に放り投げられた。それは――見慣れた銀色のアルミケースだった。何と、取っ手の先には〈ガードレールで切断された春樹のヒジから先〉が、ぶらーんと手のひらを上に向けた形で繋がっている。

「う!」

 声にならない悲鳴を上げながら目を大きく見開く。やがて黒目が瞼に隠れ、彼女は再び深い暗闇に落ちて行った。

「まあいい、行くぞ!」

 通行人が携帯でどこかに電話している様子が目に入ったタケシは、大声で仲間に命令する。めんどうな事になる前に、バイクの破片をよけながらタケシとその仲間たちはぞろぞろと出発した。

 その後には――変な方向に足が曲がり片腕の肘から先が欠損した春樹が、まるで壊れたマネキンのように道路にごろりと転がっているだけだった。

連れ去られたまどかが次に目を覚ます場所は、病院のベッドの上だろうか、それとも……地獄のようなリンチが行われる場所なのかは誰にも分からない。



『ラスベガス・チーム4』 四月三日



 マンダリン・オリエンタル ・ラスベガスのラウンジに、モヒカン、リンダ、リーマンの三人が集まっていた。

「さあて、待ちに待った勝負開始の時間よ! 一応聞いておくけど、何か作戦がある人?」

 ブロンドの髪を後ろで一つにまとめ、白いドレスを着こなしたリンダが、腰に手をあてながらきらきらと光る青い目で一同を見廻した。

「そうだなあ。俺は頭が悪いから、なーんにも考え付かないよ。どうせだったら五十万ドルを三等分してさ、それぞれ勝負しようぜ。その方が気楽に勝負できるし」

「あんたひょっとして、それ持って逃げようと思ってない?」

モヒカンは唇に着いているピアスをいじりながら、こわごわとリーマンを見る。今や彼にとってリーマンはアンタッチャブルな人らしい。

「……分けて勝負することは賛成だ。ただ、その金を持って逃げたりする事は、非常に危険な気がする。ブライアンの言っていた事はハッタリでは無いと思う」

リーマンは眉間にしわを寄せながら、鋭い目で発言した。太く低い声で話す彼の様子は、初対面の時の気弱さが演技だったとしか思えない程だ。

「そうね、私もそう思う。逃亡はナシの方向で、それぞれ勝負しましょう。最終日に三人のお金を合わせて、百万ドルに達していたらOKなんだから」

 そう言うと同時に、まとめていた髪をはらっと解いた。顔は紅潮し、これからの勝負にかなり興奮している様子が見て取れる。

 皆あとから知ったのだが、リンダは日本にいた時も香港のカジノにわざわざ出向く程のかなりのギャンブラーだった。潤沢な資金があれば自分は負けるはずは無いと高をくくり、顔を上気させ一刻も早く勝負に行きたがっているようだ。

「んじゃ、それで行こうぜ。誰が一番稼いだかじゃなく、最終日に目標金額を突破してたら賞金はちゃんと山分けな」

 モヒカンは再確認するように二人を見た。今回はさすがに裏切りは無いと踏んでいるようだ。そのままアルミケースから札束を取り出すと、ホテルの従業員が興味深い目をして見ているにも関わらず淡々と三等分に分ける。無事分け終わると、それぞれの思いを胸に秘め三人はカジノに散って行った。

 三時間後……リンダは自分の部屋のベッドに腰掛けて頭を抱えていた。あろうことか、たった三時間で十六万ドル近くが煙のように消えてしまったのだ。ドレスの肩ひもも片方が外れ、ぶらんと肘のあたりに垂れ下がっている。

 突然ふらふらと立ち上がるとミニバーで強い酒を一気にあおり、、ハイヒールを乱暴に脱ぎ捨てながらソファにダイブした。そのままクッションに顔をうずめて形のいい脚をバタバタさせる。

「もう! あの時プレイヤーにさえ賭けていたら!」と叫び、悔しそうに唇を噛みしめた。

「君は、バカラにだけは手を出すな」とギャンブル仲間にきつく言われた事を思い出したのか、クッションに再び顔をうずめた。

「あ、そっか。あの人たちが勝ってればいいんじゃない?」

 彼女の反省の時間は……きっかり三十分だった。

 もう一度ミニバーに行き、今度はミネラルウォーターを飲み干すと残りの二人の様子を見に行くためにバスルームで顔と髪を整えた。この時、彼女は(もしどちらかが勝っていたら資金を回してもらおう)と考えていたのかもしれない。これは典型的なギャンブル中毒者の思考であることに、彼女自身は気づいていないようだ。

 携帯で連絡をとると、騒音と共にモヒカンが出た。彼はMGMグランドホテルのカジノの、ビデオポーカーで勝負している最中らしい。

紫のショールを羽織ると、早速MGMグランドホテルに向かった。煌びやかなカジノの室内は色々な人種でごった返していたが、バニーガールに扮したカクテルウェイトレスは涼しい顔をして人ごみを縫い歩き回っている。

広いカジノ内でモヒカンを探すのは容易では無いと思われたが、オレンジ色の目立つ髪型のおかげで意外と早く見つけることができた。

 髪型はともかく、ドレスコードに引っ掛かって誰からか注意されたのか、モヒカンはいつもの趣味の悪いドクロの絵のついたパーカーではなく、茶色のぶかぶかのジャケットを羽織っていた。

「あら、その髪型に茶色のジャケットだと、羽をむしられたニワトリみたいね」

くすくす笑いながらモヒカンの隣にセクシーな尻を下ろす。

「うるせーよ! つかちょっと見てくれ。これこれ」

 鼻を膨らませながら彼の指したゲームクレジットの数字は、四百五十ドルになっていた。

「よんひゃく? ――ちょっと、あんた遊んでんじゃないわよ! こんなレートじゃどうやったって百万ドルに届くわけがないじゃない!」

 その表情は怒ると言うよりあきれている。

「しょうがないじゃん。もうこれだけしかないんだから」

 少しも悪びれずにモヒカンはつぶやいた。

「え?」

「へ?」と彼もキョトンとしている。

「まさか……。あんたひょっとして全部使っちゃったの? ななな、何をやったの?」

 椅子を蹴って立ち上がり、モヒカンの肩を両手で激しく揺さぶった。その振動で、彼の唇についている大きなピアスがちぎれそうな勢いだ。

「よ、よせって。実は俺、ほとんどのゲームはルールが分からないからさ、比較的単純なルーレットをやろうと思ったんだ。さすがに赤か黒に賭けるのぐらいは知ってたからね。そこで、どうせなら賭け金の高いところに行こうと思って」

 彼が振り向いた視線の先には、金持ちの集まるVIPルームがあった。見るからに身なりのいい紳士や、キラキラとした宝石をふんだんにつけた美女たちが集まっているのが見える。

「そこまでは分かったわ。で、どうなったの?」

 両手を腰に当てて、キスするぐらいの距離まで顔をぐっと近づける。

「なんか、二時間ぐらいでバッグに入れた札束がほとんど無くなっちゃった。それで、少しでも取り戻そうと思ってここに来たってわけ」

へへへと照れ臭そうに笑った。

「へへへじゃないわよ、このチキン野郎! VIPルームなんて素人が行って勝てる訳ないでしょーが! 大体あそこにいるルーレットのディーラーは超一流なの。自分の狙った目に自由に入れられるレベルなんだから。あんたには百年と三日早いわ!」  

 自分のお金を無くした訳じゃないのに、顔を真っ赤にして怒っている。今にも目の前の襟首を掴みそうだ。

「ほー。じゃあそういうリンダ姉さんはどうなの? もちろん、そう言うからには勝ちまくってマ、ス、ヨ、ネ?」

〈見た目そのままチキン野郎〉はまさにニワトリのような小さな目でリンダをじーっと見つめている。

「あ、あたしは大勝負したわよ。うん、あれはいい勝負だった! ……結局全部負けちゃったけど」

 さっきの勝負を思い出したのか、また両手で頭を抱えた。

「はい? 今なんて?」

 両耳に手を当てて聞き直す。

「全部負けちゃいました、すいません」

「ええええ! ぜ、全部? えらそーな事言っといて、俺と同じじゃん。まだここに残りがあるだけ俺のがましじゃん」と自慢げにゲームクレジットの部分をとんとんと叩いた。

「ハイハイ、凄いわね。それじゃ帰りの旅費にもならないけどね。こうなったら……もう、後は彼に期待するしかないわ」

 両手を合わせ祈るようなポーズで宙を見上げた。それを見たモヒカンも何故か釣られて同じポーズをとっている。恥ずかしくなったのかやがて二人はそそくさとクレジットを落として立ち上がると、リーマンを探すことにした。残ったわずか四百五十ドルを固く、固くその両手に握りしめながら。

 一方、リーマンのポーカーのテーブルにはチップが積み上がっていた。今、換金すれば二万ドルにはなるだろう。このテーブルの老夫婦はアツくなっているのか、ディーラーを睨み付けて「ショウダウン!」とさっきから何度も大声をあげている。

 数分後、肩を落とした老夫婦が去って行くと、〈負け犬コンビ〉が入れ替わりにやってきてリーマンの後ろに申し訳なさそうに立った。

「COOL!」

ディーラーは今来たモヒカンの頭を珍しそうな顔でちらりと見ると、自分の頭を親指で指しウインクする。

 来た時はもじもじしていた〈負け犬コンビ〉はテーブルに積まれたチップを見て、ひとまず安心したようだ。

 リーマンは当たり前のように次の勝負を勝ちきると、黙って百ドルチップをディーラーに滑らせる。ディーラーはコンコンとチップでテーブルを叩き、慣れた手つきでチップボックスに放り込んだ。

勝ったチップを換金すると約二万五千ドルになった。全員さっきいたラウンジに戻り、全員がコーヒーを頼む。

「調子よさそうで良かったわ。ところで手ぶらのようだけど、札束は部屋に置いてきたの?」

 リンダは何気なくリーマンに聞いてみた。

「ん? さっき換金したのが最後のチップだよ」

こともなげに彼は答える。

「ええええ? じゃ、じゃあ私たちの五十万ドルは二万五千と……少ししか残ってないの?」

 リンダとモヒカンは目を見合わせて肩を落とした。まるで空気を抜かれてしぼんだ風船のようだ。

「何だよ。君たちも負けているのか?」

「う――すいません。二人合わせてもう四百五十ドルしか残ってません」

 申し訳なさそうに彼女は足元に視線を移した。

リーマンは少し驚いた様子だったが、突然ポケットからドル紙幣を引っ張り出して数え始めた。

「まだ最初の勝負が終わったばかりだ。あと二万ドルしかないじゃなく『まだ二万ドルある』って考えるんだよ。今日はツイてないからこれでお終いにして、また資金を三等分しよう。私たちはチームなんだから」

 言い終わるとテーブルの上でディーラーのように紙幣を配り出した。さっきは札束で積んでいたテーブルだったが、今現在はあろうことか約八千ドルしかない。しかし少しだけ救いはあった。リーマンのこの言葉で二人はまた元気をとり戻したようだった。

 その夜、リンダはこっそりとまたMGMグランドホテルのカジノに舞い戻っていた。今度は無理をしないようにと考えたのか、低レートのブラックジャックで勝ったり負けたりを繰り返している。その様子から見ると、彼女はもう百万ドルなどとうにあきらめているようだった。

「そうよ、ベガスに旅行に来たと思えばいいんだわ」と小さく呟いたのは、数時間 前の悪夢を忘れる事にしたからなのか。

「ちょっと、嘘でしょ? あいつらまでここに来てるの?」

 離れたテーブルの脇を見覚えのある人物が横切って行くのを見たリンダは、その人物を二度見したあとカードを放り出し、あわてて彼を追いかける。

近づいてその人物を確認した彼女の顔には、驚きと共に悔しそうな表情が広がっていった。その人物とは……あの憎たらしい男、あつしだった。

いま彼は、でっぷりと太った金持ちそうな日本人紳士とにこやかに話しながら歩いている。あつしはびしっとしたダブルのスーツを着込み、その姿はまるでどこか金持ちの御曹司のようだった。

「あいつ――。また何かたくらんでるわね」

 この時、彼女が(自分たちを騙したにっくきヤツらに仕返ししたい)と思っていたのかは分からないが、人ごみを押しのけながらつかつかと彼に近づいていく彼女の顔には、怒りとは少し違った、例えるなら〈意地悪そうな感情〉が浮かんでいるように見えた。



『ラスベガス・チーム3』 四月三日



『チーム3』のあつしは日本人の〈カモ〉を探していた。いろいろなカジノを廻って、MGMグランドホテルでやっと一人目の該当者を見つけたようだ。

「ちょっと待ったあ! あんた達もここに来ていたのね?」

 突然、後ろからどこかで見たことのあるブロンドの女が話しかけてくる。しかし、声を掛けられた当人は昼間にリンダたちを見かけていたので、それほど動揺はしていないようだ。

 彼は足を止め、連れの老紳士に「少し待って下さい」という風に手を上げると、ダイヤのピアスを光らせながらゆっくりと振り向く。

「これは、これは。リンダさんでしたっけ? あなたのような美人にまた会えて光栄です。しかしながら、見ての通り今非常に忙しいので、また」

口調は丁寧だが、その目ははっきりと「今は話しかけるな!」と物語っているようだった。

「ふううん。その様子だと、また誰かを騙そうって考えてるんじゃない?」

彼女は下から覗き込むようにあつしの目を見上げた。

「てめえ、邪魔すんじゃねえ! さっさとどっか行け!」とリンダの耳元まで口を近づけて、カモに聞こえない様に鋭くささやく。

「あら怖い、怖い。じゃ、頑張ってね」

べぇっと舌を出して、リンダはくるっと後ろを向くと去って行った。

「お待たせしました。ではスイートにお部屋をとってありますので、詳しい話はそちらで」

 別人のようにニコニコと笑いを浮かべながらカモの所に戻ると、『商談』をまとめるためにフォーシーズンズ・ホテルのスイートルームに向かった。

 数時間前――。さんざん話し合った結果、あつしたちの作戦は『詐欺』に決まった。カジノで闇雲に勝負しても、確実に勝てるわけではないからだ。ケタ違いの金持ちが集まるカジノに来たのには、彼らなりの作戦があった。

歴史に詳しいあつしは、チームの中国人のおばあさんを使って一芝居打つことにした。

 それは、おばあさんを康煕帝(こうきてい)の子孫にしてしまおうというものだった。清朝皇帝だった康煕帝が生前使用したと伝えられている百三十個のうちの一つ、『玉璽(ぎょくじ)』を客に売りつけるのだ。

本物は重さ約三キログラム、長さ十四センチ、幅十センチで雲龍の文様が掘られており、文化的にも非常に貴重な印章である。数年前のオークションで中国人が約八億円で競り落としたことを彼は覚えていた。

「上手く行きますかねえ」

 ゴリラが疑うような眼差しであつしを見る。

「まかせろ。もう手は打ってある」

 涼やかにニヤリと笑うこの男には、ある意味カリスマ性があると言えよう。

あつしはまず中国語の通訳をホテルに手配させると、やがてキムという男が部屋にやってきた。中国系のアメリカ人だが、英語、中国語、日本語を自在にあやつる事ができた。この計画の秘密を守らせるにはこの男にも大金を払わねばならないだろう。

 一方、おばあさんは組織のコネクションを使って、中国から精巧なレプリカを取り寄せる段取りを始めた。ただ、複雑なルートを通って来るために到着は四月七日になる。八日にオークションを開くとして、ぎりぎりタイムリミットには間に合う予定だ。もちろんニセモノの家系図や、身分証明書も同時に手配してある。

とにかく複数のカモを見つけ、三日後にオークションを開かねばならない。骨董品に興味のある金持ちの日本人を探すことが当面のあつしの役割であった。

 同時におばあさんは、裕福な老婦人を演じるために通訳と一体になってシナリオの作成を始める。それらしい服装や装飾品にも気を使わなければならないので、そこにも惜しまずに金をかけるつもりらしい。

「うおおお! 腰がいてえ」

 隣の部屋から大きな伸びをしながらゴリラが叫んだ。彼は別に部屋をとり、見せ金をせっせと作り始めていた。彼に与えられた役割は急いでアルミケース十個分のニセモノの札束を作ることだ。ごつごつした太い指は細かい作業に不向きと思われたが、意外とその作業自体が気に入ったのか夢中で作っている。  

 ひとつの札束は上と下だけ本物で後は紙の束だが、側面を筆でわざと汚すことにより彼なりにリアリティを出していた。もし金を積むことになったら、トランクから出して積むことになるのでやりすぎという事は無い。

 そしてゴリラの大事な役目はもうひとつ他にもあった。それはオークションにおける〈サクラ〉を演じることだ。その雰囲気を学ぶためなのか、彼に与えられたノートパソコンから世界中のオークション会場の録画が流れている。

あつし率いる『チーム3』の作戦は今のところ順調にみえた。



『ラスベガス・チームセブン』 四月三日



 紫苑が外国人女性を連れて帰ってきた。彼女は現役でディーラーをやっているナンシーと名乗り、どういういきさつがあったかは知らないが、紫苑の事がかなり気に入っているようだ。俺の事は〈ギャンブルに関する確率論を書くために来た大学院生〉と紫苑は彼女に紹介した。――もちろん彼女には例の技を「実戦で使う」とは話していない。

 俺たちは必要な物を買い、別室にブラックジャック専用の部屋を用意した。そして彼女から実践的なカードカウンティングのコツを学ぶことにした。

「ああああ! 紫苑、もう疲れたよ! 仕事でもプライベートでもトランプを見てると、クイーンがケッケッケって今にも笑いかけてくるような気がするわ」

 うんざりした顔でナンシーはディーラー席から持っているカードをぱらぱらと投げ出した。スリムなブルージーンズに、胸の開いたシャツがセクシーだ。魅惑の胸元にはフリーメイソンのシンボルの様な、大きな目玉がデザインされたペンダントが揺れている。

「まあまあ。時給三十ドルで手を打ったのは君だろ? けど、このへんで少し休憩してもいいんじゃないかな。だって、四時間もぶっ通しだし――見てみ? あの娘なんかホラ」

 紫苑の言葉でナンシーがあずさの方を振り向くと、あずさは使用済みのトランプを使い、口からトランプが噴き出すマジックの練習をしていた。完全に現実逃避である。

「じゃあ、少し休憩しようか。コツも大体つかめた事だし、ルームサービスでも頼もう。何が食べたい?」

 みんなさすがに集中力が落ちている。俺はリーダーとして、一応はこういうまとめ役もやらなければならない。

「あたしと紫苑はピザでいいわよ」

 シュウェップスを冷蔵庫から出しながらナンシーは答えた。いつも思うが、外人はどうしてこんなに炭酸が好きなんだろう。

「何で俺までピザ縛りなんだよ。じゃあ俺はこのシーザーサラダと、サーモンのサンドイッチで」

「分かった。あずさは?」

よく見ると、彼女はまだ〈だばばーっ〉とマジックの練習をしていた。気のせいか、さっきより少し上手くなっている。

「にふ」

「肉は何でもいいんだな? それじゃルームサービスが来るまで、練習開始。ハリアップ!」

 ぱんぱんっと手を叩く。

「ブゥゥゥゥゥゥ!」

「……こういう時だけは君たち息がぴったりなのな」

 予想していたブーイングだったが、今は少しでも時間が惜しいのだ。ナンシーのブーイングはさすが本場と言うべきか、一番憎たらしい顔をしていて思わず吹きだしてしまった。そんな顔をしたら美人がだいなしだ。

 そして俺たちは、食後も集中して練習を重ね、最後にそれぞれに与えられた演技の練習をした。最初はぎこちなさがあったが、少しずつコツを掴んで行った。

「あ、ひとつ言い忘れてたけど、あの話は間に合わなかったよ」

 紫苑とあずさだけはこれを聞いて残念そうに無言で頷いた。ナンシーには何の事か分からなかったようだ。

 実は、カードを配る時に使用するカードシュー(一枚ずつカードが排出される箱)に攻略法があるんじゃないかと俺は目を付けていた。それを受けてカードシューのメーカーを紫苑がナンシーから聞きだし、判明したのがS社だった。

カードを混ぜるシャッフル装置にはそれぞれの会社による〈特徴的なクセ〉がある。このS社の装置のクセを掴めば、カードカウンティングの精度がもっと上がるのは間違いないだろうと俺は睨んだ。

 だが……。全てのパターンを分析して実用化するには、とても今回は時間が足りなかった。例えば滞在期間が二か月もあれば、カジノ側が対策しない限り〈夢の常勝プレイヤー〉になれたかもしれないのだが。

「ナンシー、今日はありがとう。また何かあれば連絡するよ」

「いえ、紫苑に会えるなら喜んでまた飛んでくるわ。じゃあね」

 投げキッスをしながら彼女は部屋を出て行った。

「じゃあ、行きますか!」

 あずさの言葉で一斉に俺たちは腰を上げる。いよいよこれからカードカウンティングを現場で実行するのだ。

 実践初日にしては俺たちは上手くやっているつもりだった。だが、やっているうちに、カウントそのものよりも演技に工夫を凝らさないとならない事に気付いた。なにしろ有名カジノではテーブル上の天井などいたるところに、三百以上のカメラが設置されているからだ。

 もちろん、服装や雰囲気をその都度変えないと仲間だと疑われ、あっさり見破られる可能性が高い。特にやっかいなのは、今やほとんどのカジノは〈顔認証システム〉を取り入れていて、一度ブラックリストに載ったらどこのカジノでも出入り禁止になってしまう。

 俺たちは洋服や変装グッズなどを更に大量に用意し、まずこれらのカメラを欺かなければならなかった。

 具体的な方法としては、まず着飾ったあずさが高レートのテーブルに着き、ミニマムベットで勝ったり負けたりしながら地味にプレイをする。

やがてディーラーが変わり、新しいトランプの封を切られた瞬間から正確にカウントを始める。何だかんだ言っても、あずさは頭がいい娘で計算方法などとっくにマスターしていた。彼女は頭の中でもカウントをするが、同時にサングラスに仕込んだ小型カメラから無線で映像を飛ばし、俺が別室でそれを見ながら確認する。

 そして点数も煮詰まり、〈今が勝負どき〉と判断すると、紫苑に俺が携帯で知らせる。勝負どきとは、長くて約三ゲーム程度の(カードシューにプレイヤーに有利な手札が残っていて、それが配られる可能性のある短い時間)の事である。

次に金持ち風に変装した紫苑が、酔っ払ったフリをしてあずさの隣に腰をおろす。 その時に、あずさの飲み物を確認し、飲み物が半分以上残っていたら、『GO』の合図だ。もし半分以下に減っていたら『危険』の合図と決めた。あずさがぎりぎりで危険と判断したら、飲み物を一気に飲んで減らせば不自然ではない。そして、おもむろに紫苑が大量のチップをおぼつかない手つきで押し出すのだ。

 もし紫苑に最初に配られるカードが絵札二枚だった場合は(この状態を待つのがカウンティングの理想なのだが)、積極的に二本の指をV字に広げスプリットをコールする。掛け金も二倍になるが、確率的にこの状態の時は勝率がかなり高い。そして初戦でうまく勝った時には、その『一試合のみ』で撤退する。長居は無用だし、なにしろ長時間勝負は危険なのだ。その時あずさは、場を荒らされて迷惑だというような顔をするなど、コンビだとばれないような演技も欠かさない。

「いやあ、ツイてるなあ! 今日は負けっぱなしだったのに。あれ? うう……吐きそうだ、失礼する」

 紫苑は口を押えて立ち上がると、チップを置いたままふらふらとテーブルを離れて去ろうとする。

「ちょっと! チップ忘れてますよ!」

 あずさが少し怒り気味に声をかけ、『場を荒らされて全く迷惑だ』というような表情でテーブルについているプレイヤーを見廻す。

「おおっと、忘れてた。ありがとうお嬢さん」

 彼はディーラーに多めのチップを滑らせ、よろよろと退席する。まあ――こんな感じだ。

 カジノによっては一戦だけやって抜けるとイヤな顔をされる所もあるが、短期必勝を目標としているので多少不自然でも数をこなさなければならない。

 時にはあずさが紫苑の役をやり、また俺が紫苑の役をやったりとチームだと気付かれないようにしながらカジノを転々とし、とりあえずは順調に資金を増やしていった。

「あずさってさ、こういう事に意外な才能あったんだな」

俺は今日の十万ドル近くの稼ぎをテーブルに積み上げながら驚いた顔を作った。すぐにこれからもう一勝負行くつもりだ。

「あら、謙介さんだって酔っ払ったフリうまいじゃんって、紫苑! あんた本番前に本当に酔っ払うのは止めなさいよ!」

口をとがらせて紫苑を見る。

「ばーか。フリだよフリ。それにしても順調に行きすぎてちょっと気味が悪くない? 謙介さんはどう思う?」

 紫苑の前のテーブルには、ビールの空き缶が並べられている。

「確かに、順調すぎるような気がする。それに高額勝負に出る時に、いつもどこかから見られている感じがするんだよな」

「気のせいじゃないの? きっと監視カメラのせいじゃないかな。大丈夫、まだまだイケるわよ」

「――だといいけどな。とにかく今まで以上に注意して、各自動いてくれ」

 俺のこの言葉で全員がぱっと立ち上がった。

 ここまでは計画通り上手くやっている自信があった。しかしもしバレたら? と思うと不安で仕方がない。自分はともかく、あずさと紫苑は逃がさないといけない。特にあずさは……。

 いつからか、気が付くと彼女をじっと見ている自分に気づいた。彼女が無事に戻って来るまで、心配でいてもたってもいられない。ベガスには綺麗な女の人がたくさんいるのに、何故かあずさだけを見ている自分がいた。

(こんな気持ちを持つことは危険だ)

 頭を軽く二、三回振ると最後に部屋を出た。そう、今は勝負だけに全ての神経を集中しなければならない。


 カジノの中に、『たった一ゲーム』で彼らの行動に違和感を嗅ぎ取った男がいた。

 名のある凄腕のギャンブラーたちの挑戦を受け、今まで無敗の〈ミスター・パーフェクト〉と誰からも呼ばれる男、ゴールドマンである。今はディーラーを監督するピット・マネージャーのボス『ピットボス』として客の不正行為などを現場で監視していた。

 ショーン・コネリーにそっくりな顔をしたゴールドマンは、初日は彼らを監視するだけにしていた。不正の可能性を感じとれば、テーブルゲーム・マネージャーに報告する義務があるにも関わらずだ。

 もちろん、報告しないのには理由があるようだ。(次に彼らがこのカジノに来た時に、不正のからくりを自分が華麗に暴いてやろう)と彼は目論んでいたのかもしれない。バレていないうちは、こういう輩は必ずもう一度来るから焦る事は無かった。

 最近は彼に挑戦するほどの強敵も現れずピットボスの仕事にも退屈していたようで、ちょうどよい退屈しのぎの相手が現れて内心喜んでさえいるようだ。

 まず、身につけたアイテムに仕掛けがあると踏んだゴールドマンは、モニター室で録画した映像の分析を始める。彼らが『コンビ』だと仮定すると、他のカジノでもカウント役は不正なアイテムを使用しているだろうと考えた。

「もしブラックジャックで彼らと勝負するとしたら……。勝負どころで、カウント役の身体検査でもしてみようかな。何か出てきた時の慌てようが楽しみだ」

 モニター室でワインを飲みながらニヤリと笑うと、彼らの顔写真を他のカジノに送信する。そして携帯を懐から取り出してどこかに電話を掛け始めた。

「ゴールドマンだが、もしこの顔が来ても何食わぬ顔をして勝負してやってくれ。私が不正を暴くテーブルに上がるまではね」

 伝説の男とも呼ばれたゴールドマンのその言葉に、他のカジノのディーラーや幹部たちも快く承諾した。

「絶対に彼が勝つに決まっている。なぜかって? それは彼が『ゴールドマン』だから」と。

 ベガスの名だたるディーラーたちは、「伝説のミスターパーフェクトの勝負がまた見られるかもしれない」と密かにその時を待ちわびていた。



 静かなる拡散




『日本・さいたま市』 四月三日



 吉田家では浩二の妻、京子が洗濯機を回していた。いつもならそろそろ息子が小学校から帰ってくる時間だ。

この日、浩二が工場勤務を終え帰宅すると、夕方だというのに妻がまだ洗濯機を回していた。今日は機嫌が特に良いのか、楽しそうな鼻歌が玄関まで聞こえて来る。

「ただいま。あれ? まだ洗濯してるのか。今日は洗濯物が多かったの?」

だが、何かに夢中になっているのか、妻からの返事は無かった。首を傾げながら後ろを通り過ぎると、ビールを取りに冷蔵庫に向かう。

「おーい、ビールが切れてるぞー。しょうがないなあ、昨日買っとけって言ったのに」

 キッチンから顔を出して食卓を覗いた浩二は、テーブルの上には食器も何も用意されていない事に気づいたのか、少し妙な顔をして首を傾げた。いつもなら、この時間には暖かい夕食がところ狭しと並び、浩二と息子の帰りを待つ妻がニコニコして立っているはずなのだ。

 結局、自分で買いに行こうと思ったのか、脱ぎ掛けだったズボンを履きなおす。

「何で返事しないんだ? まさか今朝のケンカをまだ根に持ってるんじゃないだろうな。 まあいいや、俺ちょっとビール買ってくる」

洗濯機の所を通り過ぎようとした時、ちょうど妻の足元にある洗濯カゴに目をとめる。そこには、何故かまだ衣服がたくさん山積みされていた。昨日の夜に出した作業服もそこにあるのを見て、不思議な顔をしながら一歩中に入り手にそれを手にとってみた。

 それは――完全に乾き、汚れも落ちていた。今日はいい天気だったので、服からは太陽の良い香りさえ漂っている。

「お、おい京子。これって洗濯が終わったやつじゃないか? 何でまた洗おうとしてるんだ?」

 得体の知れない恐怖を感じたのか、戸惑いを隠せない顔で妻の横顔を帰宅してから初めてまともに覗き込んだ。

「キ、キレイキレイにしなきゃねェ」

 こんな近くにいても、浩二の声は全く聞こえていないようだ。焦点の定まっていない瞳でどこか一点を見つめ、小さな声で鼻歌を歌い続けている。そして、洗濯機の中に〈一度洗って、乾いた服を全部〉をまた入れようとしていた。その様子からただならぬ気配を感じたのか、浩二は妻の細い肩を掴み強引にこちらを向かせる。

「ジャマしないでよ! ところで……オマエだれだよ?」

 まるで初対面の人を見るような眼でじっと浩二を見つめている。その瞳は、さながら魚の眼のように感情が何も表れていない。


「しっかりしろ! 何だよ……一体どうしちゃったんだよ」

 泣きそうな顔で妻の肩を掴んで激しく揺さぶる。首をがくがくさせているにも関わらず、眼だけは浩二の顔を捉え続けているその姿に恐怖を感じたのか、掴んでいる手を離して彼は一歩後ずさった。その時、追い打ちを掛けるように居間の電話が鳴り響く。

「ちょ、ちょっと待ってろ。はい、吉田ですが」

「もしもし? こちらは大宮西警察署ですが、吉田一馬君はお宅の息子さんですか?」

 固い口調の男性の声だ。 

「はい、一馬は私の息子ですが」

 心臓のあたりを押さえながら息を吐く。

「いえね、ここに息子さんを保護してるんですが、少し様子がおかしいんですよ」

「え? おかしいと申しますと?」

 受話器を握り直した指先が、力が入りみるみる白く変色していく。

「それがですねえ。『うちを忘れちゃって帰れない』と。そこで息子さんの携帯電話から親御さんの電話番号を見つけて、今電話をさしあげた次第です」

 向こうはほっとしたのか、電話の声が多少和らいだ。

「すぐそちらに迎えに行きます!」

 受話器を叩きつけるように置き車のキーを乱暴に掴むと、玄関を開けっ放しにたまま車に乗り込んだ。そんな浩二の行動をよそに、京子は洗濯機の前で再び虚ろな目をしながら〈本日十二回目の〉洗濯にとりかかろうとしていた。

警察署は車で十分ぐらいの距離だった。途中の信号で止まり、慌てて発進しようとした時に『それ』は唐突にやってきた。

「あれ、おかしいな。アクセルってどっちだっけ?」

 シフトがドライブにさえ入っていない事に、彼は気づいていないようだ。

「パパアアアアン!」

 後ろの車から激しくクラクションを鳴らされた。ペダルを踏んだが進まない。やがてもう一つのペダルをぐっと踏みこむ。車は尻を叩かれたように急発進したが、どうやら彼は〈自分が今、何をしているのか〉をどうしても思い出せないようだ。

 前方をゆっくり走っている原付のライダーが、何かを感じとったのか急に後ろを振り向く。浩二の乗った車は急加速しながら、ヘルメットの中で恐怖で目を見開いているそのライダーを、おもちゃの人形のように跳ね飛ばした。



『ラスベガス・特殊任務チーム8』 四月三日



 ライブ監視チームの『チーム8』もラスベガスにいた。彼らの仕事は、ラスベガスに滞在しているチームの現在地確認をすることだった。同時に、日本にいるブライアンから「十チームのうち、既に四チームが脱落した」と情報が入った。

 彼らの役目は、まず〈映像で経過を記録する〉ことである。最先端の映像技術を駆使して記録後、決まった時間に本部に転送しなければならない。

 もう一つの役目は〈現地で、できるだけ金をばらまく〉ことだ。これは彼らの裁量に任されていて、金をどう使おうと構わない。ただ、何故か人里離れた所に捨てる事は厳禁とされていた。

 実はこちらの方が『チーム8』の悩みの種であった。何故なら、計三百万ドルを数日間で使い切らなければならないからだ。ビッグミリオン側のこの特殊任務チームには、出発前に五十万ドルの他に、同じアルミケースを更に五つ『も』渡された。

 映像を撮る傍ら、三億円という大金を三人で使い切る。これがいかに難しい事か、彼らは実際にやってみるまで分からなかった。最初の方は「凄い贅沢ができる」と喜んでいたようなのだが――。

「音声は良好です。現地スタッフの情報の裏付けも取れました」

痩せて背の高い男が、パソコンを開いた机から残りの二人を振り返り頷く。この男、『チーム8』の技術担当〈ガリガリ〉アーノルドは撮影を任されていた。そのアーノルドの言葉に軽く頷く残りの二人〈童顔〉ベイブと、〈DOLL〉キャサリンはお金を有効に使う役を買って出ていた。

 彼らは、まず中国系アメリカ人の通訳『キム』を買収した。次にチームセブンの男性と接触したと思われる女性ディーラーの『ナンシー』も金を惜しまず買収し、密かに情報を得ることにした。そのナンシーのペンダントには超高性能の小型カメラが巧妙に仕込んであったが、カードの練習をしている謙介たちには知る由もなかった。

〈童顔〉ベイブはその名の通り童顔だが、かなりのマッチョでビッグミリオンに入る前はモデルをしていたらしく、プロテインを毎日欠かさない男だ。

〈DOLL〉キャサリンは肌がきめ細かく、目鼻立ちが整ったフランス人形のような綺麗な顔だちをしている。彼女は『チーム8』のリーダー的な存在で、チームの決定権をほぼ握っていた。ただ、なぜこのメンバーに加えられたかは誰にも分かっていない。

〈ガリガリ〉アーノルドの自慢はハッキング技術とチェスだ。基本的に黙々と仕事をこなす技術畑の人間であり、愛称通りのガリガリな身体をしていた。

部署が違うのでフルネームはお互い知らなかったが、愛称などで呼び合っているので全く問題は無いようだ。

「あと三百十万ドルも残ってるわ。カジノででたらめに賭けていたはずのに、何故増えちゃってるのよ」

 DOLLは深いため息をついた。

「勝とうって思って真剣にやると勝てないくせに、無心でやると逆に勝ってしまうってのはよくあることだよ」

 ベイブは童顔の割にがっしりとした男らしい肩を竦めた。

「他に、何かうまい考えはない?」

 じっとベイブの瞳を見据えながら、タバコに火を点ける。

「ゴホン。そうだ、五ブロック先に教会があったろ? あそこに全部寄付するとかダメかな」

 ベイブは煙がよほど苦手なのか、横を向くと手で払う仕草をする。

「ダメよ。私はクリスチャンだから、『エクスプロージョン』の初期の犠牲者にはしたくないわ」

 その目は少し悲しげだ。これから起こる事を想像して嘆いているようにも見える。

「結局は同じことだろ。まあ、君がそういうならしょうがないけど」

 神経質な仕草で首の後ろの生え際を掻きながら、ベイブは渋々と納得した。このスイートルームでの作戦会議は、軽く二時間を超えている。アーノルドは別室で映像を編集中だ。

「ほんっとうまく行かないわよね。もうこのお金持って逃げちゃおう、か、し、ら!」

 わざと誰かに聞こえるように大声を出す。

「お、おい! 聞こえるぞ。それでなくても俺たちのチップランクは低いんだから」

「聞こえるように言ったのよ。ブライアン、あなた頭が良いんだから何かいい方法考えてよ」

 虚空に向けて言いながらにこっと微笑んだ。



 横浜の日本支部では、ラスベガスからのその会話を聞いて当のブライアンがくすくすと笑っていた。

「カエラ、DOLLはどうすると思う?」

 カップの珈琲を飲み干しながら問いかけた。それに合わせて男らしい喉仏がセクシーに動く。

「分からないわ。でも、彼女はあなたの妹なんでしょ? あなたと同じくらい頭が良いから、何かもう考えてるはずよ。ところで……彼女のチップランクだけが高いのを、他の二人はまだ知らないのね。身内びいきだこと」

 カエラは急にふっと表情を緩めてブライアンに近づくと、恋人に注ぐような仕草で珈琲を注ぎ足す。だが、この少しいい雰囲気を壊すようにデスクの電話が鳴った。

「エリックだ。ちょっと聞きたい事があるのだが。例の奴隷になった女性はどうなったのか気になってね」

 賢者と呼ばれる男からの電話に、ブライアンは露骨に顔をしかめる。

「現在、中国から飛行機でヨーロッパに向かっています。行先はまだ分かりません」

「そうか。では、もう一人の貴子とかいう女性はどうなってる?」

 電話の向こうの声はいつもより少し甲高く、本当に楽しそうだ。

「彼女は弟が入院している病院にずっといるようです。スタッフが一名常に監視しています。しかし、ここの監視はもう必要ないのでは?」

「いや、ルールはルールだからな。他の二名が帰国したら、そいつらにもペナルティを受けてもらう。まあ、チップを取り出すってだけだがね。そうそう、日本にいるロシア人と日本人女性のチームは保留でいいぞ。まだチップと金は動いているからね」

 賢者エリックは早口でそう言ってから、一方的に電話を切った。

「ロシア人? 『チーム6』か。ちょっと確認してくれ。まどかという女の発信機はどうなってる?」

 今の電話で少し機嫌が悪いようだ。

「今は……立川にある倉庫に監禁されているようです。ケースに仕込んだ発信機は捨てられたようなので、中身を早々に詰め替えたと思われます」

「そうか、では引き続き監視を続けてくれ。彼女の生命反応が消えたら、もうそこで終了でいい。ついでに日本の『ちびっこギャング』どもが盛大に金をばら撒いてくれればありがたいのだが」

 そう言うと世界地図を取りだし、赤いペンで書かれた丸印の位置を確認した。丸印は日本、アメリカ、ヨーロッパなど世界各地に何個も付けられていた。




※現在のチーム状況


チーム1  アメリカ人二名+ヤン         逮捕により失格

チーム2  まゆみ、美香、貴子          摘出により失格

チーム3  あつし、ゴリラ、おばあさん      ラスベガス

チーム4  リンダ、モヒカン、サラリーマン    ラスベガス

チーム5  タイ人二名+日本人一名        二名死亡により失格

チーム6  ロシア人二名+日本人一名       日本

チーム7  謙介、あずさ、紫苑          ラスベガス

チーム8  アメリカ人三名            ラスベガスで特殊任務中

チーム9  マイケル、ジェフ、将太        イギリス

チーム10 紅花(ホンファ)他、中国人二名    逮捕により失格


※この時点ですでに四チームが脱落していた。特殊任務中のチーム8を除くと、現在チャレンジ続行可能と思われるのは残り五チームとなっていた。



『イギリス・エイントリー競馬場』 四月四日(残り六日)



 エイントリー競馬場に『チーム9』のマイクとジェフ、小林将太の姿があった。カウンティ・スタンド屋上チケットも、相変わらずの大人気で手に入れるのには苦労したようだ。

 今日はグランド・ナショナルレース開催初日で、沢山の人が詰めかけている。上等な服を着たイギリス紳士も多く、彼らもまた身なりのいい女性をそれぞれエスコートしていた。

「なあジェフ。ちょっとこの靴見てくれよ。ジョン・ロブだぜ。スーツはバーバリーで買った。オーダーメイドじゃないのがちょっと残念だけどな」

 わざわざ口ひげも奇麗に整えているが、成金ぽくて逆にうさんくさく見える。

「おやおや、どこのイギリス紳士さんかと思ったら、マイクさんじゃないですか」

 巨漢のジェフはニヤニヤしながらマイクをホメた。だがその表情は完全に「似合わないぜ」と語っていた。

「あれれ? おまえも服を新調してるじゃねーか。そのでけえ身体にあったサイズがよくあったもんだ」

「だってさ、このレースが始まるまでやる事が無くてよ。打ち合わせだって半日で終わったし。それより将太を見てみろよ」

「んー? ぶはははははは!」

「おはよう、将太。昨夜は良く眠れたかい? はっはっはっは!」

寝坊して駆けつけた将太を見て、二人は身体をふたつに折りながら大笑いした。髪の毛に寝ぐせが付いていることから、さっき起きたばかりの様に見える。

 マイクとジェフの視線の先には――まぶたに黒いペンで〈ぱっちりとした目玉〉を書かれた将太が、息を切らせて立っていた。何故自分が笑われているのかが全く分からないようで、目をぱちくりさせている。

「ホーッホッホッホ! ぐえ」

 それがまた彼らの笑いのツボを刺激したのか、今や沸点をとうに超え、過呼吸を起こしそうな勢いで壁を叩いて笑い転げている。

 ぽかんとした顔の将太は、このコワれているアメリカ人たちが決して嫌いでは無かった。英語はカタコトだったが、スタートしてから彼は、すぐに持ち前の明るさで二人の会話に積極的に入って行った。そしてすっかりうち解けた今では、日本にいる決して多いとは言えない彼の友達といる時よりも、格段に楽しいと感じているようだった。

 しかしたった二つだけ問題点もあった。この二人の止まらないバカげたジョークと、極度のイタズラ好きにだ。極度と言うのは、とても現役のニューヨーク市警の警官だとは思えないようなイタズラを、日々将太に仕掛けてきた。

 例えば……三人は別々にスイートルームをとってあるのだが、ある日将太が自分の部屋のドアを開けると『野生のキジ四羽』が首を傾げていた。しかもそいつらは威嚇をしているのか、ベッドの上で羽を大きく膨らませ始めた。一体どうやってここまであの二人が持ち込んだかは知る術はないが、将太の驚く様子を見ながら床にうずくまって具合が悪くなるまで笑い転げるのだ。

 ところで、イギリスには日本と違って野良犬、野良猫がほとんどいない。みんなが責任を持って自分の家族と同じように世話をするためだ。テレビでは「あなたの毎月三ポンドが、たくさんの犬、猫などの動物達を救います」と動物保護センターのコマーシャルが良く流れている。しかし――将太にとって不幸なことに、野良犬ならぬ『野良キジ』はこれの対象外だったようだ。

 理不尽なことに、逆に将太がこの二人にイタズラを仕掛けると何故か両方とも激怒するから始末が悪い。

 ある日将太が、マイクの部屋で酔いつぶれて寝ているジェフにイタズラしたことがあった。もちろんこれは、キジの件の仕返しだろう。高イビキ中の二人の前に日本式の幽霊の格好をして立つ。

「うーらーめーしーやー」

 懐中電灯の光を下から自分の顔に当て、ご丁寧にもラジカセからおどろおどろしい音を流している。

「ファァァァァック!」

 目を丸くして飛び起きた二人はパンツ一丁で部屋中を逃げ回り、涙目で枕を投げつけた。やがてイタズラだと分かると猛烈に怒りだした。

「ショータ、ゴーストだけはダメだ! 俺らそういう系は大っ嫌いなの! おまえファール!」

「いや、キジのがひどいよ。あのあと、興奮したキジに突っつかれたりして後片付けが大変だったんだぞ」

 将太は納得いかない顔をしていたが、結局この後もイタズラをしたり仕返したりして今日までの退屈を三人は意外と楽しくしのいでいた。

『チーム9』が半日で立てた作戦とは、何てことない〈ガチガチの本命馬に賭け続ける〉というものだった。しかし過去の戦績をパソコンで調べ上げた結果、本命はやはり強かった。まあ障害レースなので本命が必ず勝つというわけではないが、穴馬を狙うより勝率が高いだろう。

 レート換算すると五十万ドル=三十三万ポンドなので、これを最終日までに六十六万ポンド以上に増やせればチャレンジ成功となる。いま、余裕を見せる彼らの頭の中では、計画がもう半分以上成功したつもりだったのかもしれない。

 だが――たった一つ残念な事に、この三人は〈大金を賭けるとオッズが下がる〉事を全く知らなかったようだ。

「ところでショータ、ぷっ、買った馬のオッズが、ぷぷっ、下がったんだが何故だ?」

 まだ目を逸らしながら、マイクが笑いをこらえつつ聞く。

「えっ? いくら買ったの?」

マイクたちが笑っている理由に彼はまだ気づいていないようだ。

「三十三万ポンドのうちの十万ポンドだが――しかしお前よくその顔でぷぷぷっ」

 もうダメだという風に将太の腕をむんずと掴み、馬券売り場の鏡の所に連れて行く。

「マイク……今日は大事な勝負の日なんだぞ。こんな日にまで、ちきしょう……」

 ここで将太は本気で泣いた。

「ソー、ソーリー。俺たちが悪かった」

 さすがに今回は悪いと思ったのか、マイクは胸ポケットからサングラスを取り出すと、泣いている少年に優しくかけてやった。

「お、始まるぞ!」

 メインスタンドから大歓声が響き渡る。ついに運命の出走時間が来たようだ。電光掲示板を見上げ、配当を確認したジェフの顔から笑いがすーっと消えていく。なんと配当は一・三倍にまで下がっていた。

 それぞれの馬が勢いよくゲートを飛び出し、レースが始まった。『チーム9』が大金を賭けた四番の馬は生垣を順調に飛び越えると、次の坂路も力強く土煙を上げながらトップで登って行く。このままゴールに飛び込めば一着だ。

 しかし――最後に力尽きたのかみるみる順位を落とし、結果六着でゴールインした。

「しょうがない、明日があるさ。ところでショータ、今回は本当に悪かった」

マイクとジェフは神妙な顔をして頭を下げてから、同時にサングラスをぱっと外す。

 朝には無かったはずなのに、二人のまぶたには将太に書かれていたものと同じ〈ぱっちりとした目玉〉が書かれていた。

「まったく……バカだなあ」

「よおし、ショータ! このまま分厚いステーキでも食べに行こうか!」

 三人は大笑いしながらお互いの肩を叩きあうと、来たときよりももっと親しげに競馬場を後にした。



『立川市・倉庫』 四月四日



(まどかは悪夢を見ていた。自分が犬になって足を車に轢かれ、廃墟をさまよっている夢だ。時々聞こえる何かを訴えるような物悲しい声は自分のものなのか、近くに本当に犬がいたのかは判断がつかなかった)

 高熱にうなされながら目を覚ますと、そこは埃臭く暗い倉庫の中だった。トタンの隙間から日光が一筋伸びて足の辺りを丸く照らしている。

 彼女は今、建築資材の積まれた部屋の中央にぽつんと縛り付けられていた。タケシの車の中で失神してからここに運ばれ、ろくな手当てもされていないように見える。暗くてよく見えないが、左足は熱をもってぱんぱんに腫れているようだ。

「身体が熱いわ。それにこの足の痛さときたら」

 この状態が続くと、敗血症を起こしてやがて死亡してしまう事は彼女も知っていただろう。だが、知らない事もあった。〈春樹の腕がぶら下がったまま〉のアルミケースは、金を取り出されてから汚いゴミのように川に捨てられていた事だ。

 がちゃん! コツ、コツ、コツ。

 倉庫の扉が左右に開くと、まるでそれを待っていたかのように無数の埃がキラキラ踊り出す。まどかの目が激しい恐怖で見開かれる。きっとオキテによる制裁(リンチ)を加えにタケシが来たと思ったに違いない。

 差し込む光の眩しさに顔を背けている隙に、誰かが彼女の後ろに回り込むとすばやく首筋に固い機械のような物を当てた。

ピピピピピ!

 突然の電子音が静寂をナイフの刃のように切り裂く。まだ目が霞んで良く見えないようだったが、意を決したように彼女は顔を上げた。

 そこには――服の上からでも分かるくらいに胸板が厚い男が二人立っていた。片方の白髪の男が手帳に何かを書き込むと、唇に人差し指を当てながらそれをまどかの目の前に突き付ける。

【君を助けたい。死にたくなかったら絶対に声を出すな】

 訝しげな瞳でその男の顔を見つめていたが、やがて弱々しく頷く。どうせこのまま放置されたら死ぬ運命だと考えたのだろう。

【チップは君の首に埋まっているのか?】

 さっきと同じように頷いた。

【安心していい。後は我々にまかせろ】

 その文字を読んだとたん、安堵からか痛みのせいか分からないがまた失神してしまった。唇は渇いてひび割れ左足の置かれた床には、まるで油が水の上を覆って行くように黒い染みが広がっている。

 そこには首をうなだれた人形の様に動かない彼女を見下ろす形で、軍服を着た背の高い外国人の男たちがいた。

 白髪の男が合図すると、部下と思われる男が彼女のチップを覆い隠すようにジェル状のものを塗り始める。緑色のそれは塗っていく先からどんどん固まり、緑の石膏のように彼女の後頭部を覆い隠してしまった。

「もうしゃべってもいいぞ。クラーク、彼女を運び出せ」

「イエス、サー!」

 クラークと呼ばれた青年は巧みなナイフさばきで拘束を解くと、ひょいっとまどかを肩に乗せた。ちょうど父親が幼い子供を持ち上げるぐらいの体格差だ。

 青年はそのまま黒塗りのバンにまどかを積み込み、ドアを開けて白髪の男を迎え入れるとすぐにアクセルを床まで踏み込んだ。

「真っ直ぐに空港に向かえ。仕掛けたC4の量は?」

「周囲五十メートルは、跡形も残らない計算です」

 白髪の男は満足そうに頷くと、トランシーバーに似た機械のボタンを躊躇なく押す。

 ごうううんっ!

 後方で地鳴りのような大爆発がたて続きに起こり、車のガラスがびりびりと悲鳴をあげたが、このような爆発に慣れているのだろうか、彼らの顔色は何一つ変わっていない。

 クラークの言葉どおり倉庫は跡形もなく吹き飛んだ。そこには基礎のコンクリートだけが残り、人のいた痕跡など注意深く探しても何も発見できないだろう。

 まどかは最後まで気付かなかったが、爆発前の倉庫の片隅に後ろ手に縛られて丸太の様に転がされている男たちがいた。ひょっとすると彼女が見た悪夢の中の物悲しい声は、彼らの命乞いの唸り声だったのかもしれない。しかし今となっては、まどかにそれを確かめる術は無い。

 そう、縛られていた男たちは……〈金を押収された後に拘束され、丸太のように転がされた〉タケシたちであった。

 車が飛行場に着くと、大佐はどこかに電話をかけ始めた。

「荷物は一時間以内に届ける。金を科学研究所にまわして調べろ。女には必要な治療を施し、まだ生かしておけ」

 節くれだった指が受話器を握りしめている。白髪は混じっているが、タカのような目を持つ歴戦の古参兵士という印象だ。

 電話の先は……横須賀基地の沖合十キロに停泊している、ニミッツ級航空母艦『ジョージ・ワシントン』に乗っている人物であった。


 同じころ、横浜支部でモニターを監視していたカエラの耳に、まどかからの信号が完全に途絶えた事を知らせるアラート音が飛び込んだ。

 信号が途絶える前の録音を再生後、小首を傾げると彼女はすっと立ち上がった。その足で何故かわざわざ人気の無い部屋に入りブライアンに電話をかける。

「『チーム6』の常盤まどかからの信号が途絶えました。死亡したと思われます。ただ、直前の音声を再生してみたところ不可解な電子音が聞き取れました」

「電子音? 携帯の着信音かな。確か『ケガの状態を考えると抗生物質が与えられなければ三日も持たない』という報告だったね。うん、死亡として処理してくれて構わないよ。それから、今まで通り私の信号探知はしないでくれ。いいな?」

「承知しました」

 電話を切ったブライアンの身体は、少しだが左右にゆっくりと揺れていた。青い空にはカモメが我が物顔で旋回している。もしかしたら、カエラの持つ受話器には風の雑音も入っていたかもしれない。

 彼は――空母『ジョージ・ワシントン』の発着デッキにいた。その形のいい唇の片側がつり上がっている事に、甲板員はおろか飛んでいる鳥たちでさえも全く気づいていなかった。



『ラスベガス・チーム4』 四月四日



「ちょっと! あんた人のチップを後ろから持って行こうとしてんじゃないわよ!」

 リンダは脇から伸びたモヒカンの手をぴしゃりと叩き、振り向きざま睨んだ。

「いてっ! ケチくさい事言うなよ。勝ったらちゃんと返すからさ」

 さっきから負けまくっているポンコツ二人組が騒いでいるのを見て、女性ディーラーが苦笑いをしている。

 アツくなったリンダは、昨夜からずっと同じブラックジャックテーブルで全額勝負していた。モヒカンはちょいちょい姿を現しては彼女の隣で少額勝負して、すぐにどこかに消えて行く。テーブルに載ったチップを見ると、彼女の手持ちの八千ドルは半分以下に減っているように見えた。つまり、もう日本円にして四十万円程しか残っていないことになる。

 まあ、それも当然だ。カジノもそうだが、ギャンブルは長い目で見れば胴元(カジノ側)が勝つ確率が高いのだから。

「あんた、自分のチップはどうしたのよ?」

「それについて悲しい報告があります。実は――もう無くなっちゃいました、スイマセン」

 モヒカンは珍しくしょげ返っていた。彼の自慢のオレンジのトサカも、心なしか萎れているように見える。

「えっと、聞くのもめんどくさいけど一応聞いてもいい? 今度は何をやったの?」

「スロットマシンだよ。〈メガバックス〉って知ってる? 大人気のマシンでさあ、今ジャックポットの賞金が十億円を超えてんだよ。やっと台が空いたから勝負したけど、結局〈メガガックシ〉だよ」

「……あんた、まさかそれ面白いとか思って言ってるわけ?」

 あきれたような顔をしながら彼女はくるりと背中を向けた。

「いえ」

「しょうがないわねえ。これやるからもう近づかないでよ。あんたが来るとツキが逃げちゃうわ」

 彼が可哀想だと思ったのか、百ドルチップ五枚を後ろに立っているモヒカンに肩越しに渡した。

「ちぇ、これっぽっちかよ。姉さんケチだなあ」

聞こえないような小さな声でつぶやく。

「はあ? いま何か言った? じゃあ、そろそろその鼻ピアスを引きちぎろうかしらね」

 邪悪な笑顔を浮かべながら振り向いたが、もうそこに彼は居なかった。トサカをなびかせながら全力で走って逃げていく姿が、スロットマシン越しに見え隠れしている。

「ったくもう。でも、なんかアイツ憎めないんだよねえ」

 少し目を細めながらふふっと笑うと、次の勝負の前にマティーニを注文した。だが、この時まだ彼女は知らなかった。

『ツイてない男』に渡したわずか五枚の百ドルチップが、この後『チーム4』の運命を劇的に変えてしまうという事を。



『ラスベガス・チームセブン』 四月四日



 その頃、チーム『セブン』のあずさと紫苑は、フラミンゴホテルのプールで束の間の休憩を楽しんでいた。

 プールサイドはヤシの木に囲まれ、ベガスにいながらも常夏の南国ムードを演出していた。色鮮やかなビキニを着た女性たちも、華やかな笑い声を上げながら人工滝の下をくぐり抜けながら騒いでいる。

「あずささあ、そのビキニちょっと胸を強調しすぎじゃね?」

青いカクテルを両手に持って立っているあずさに、サングラスをずらしながら紫苑が笑いかけた。カクテルグラスを通った太陽光線が、細く奇麗な彼女の脚にゆらゆらと青く反射している。

「まずは『買って来てくれてありがと』でしょ! もう、あんたじゃんけんだけは強いんだから」

 カクテルをひとつ渡すと、口をとがらせながら恥ずかしそうに胸のビキニを上に引っ張り上げる。

「サンキュー! しっかし謙介さん遅いなよあ。……そう言えばさ、謙介さんって 最初見た時と比べると、かなり雰囲気変わったと思わない?」

白いお揃いのデッキチェアに並んで腰を下ろした。傍らにはピンク色のビーチボールが水玉をはじいたまま転がっている。日光の下の、紫苑の腹筋は屈んだ状態でもくっきりと割れていた。

「そうね、最初会った時は何か自信が無さそうで暗い人だと思ったけど。今は全くの別人よね」

「だろ? 吹っ切れたって言うか、何か妙なカリスマ性が出てきてるよな。宗教でも始めたら成功しそうな感じ……だよね」

ストローを口に咥えたまま、すぐ目の前を通った〈極めて刺激的な白い水着の女性〉にいったん目を移す。

「あの人、もともとリーダーの素質があったんじゃない? 目の付け所が他の人と違うし」

「そうだなあ。あの人なら着いて行っても大丈夫って気がする。ところで、あずさは謙介さんのことどう思ってるの?」

少しの表情を見逃すまいと、今度はあずさの眼をまっすぐに見ている。どうやら不意打ちをかけてみたらしい。

「えっ? ……ノーコメントです!」

 カクテルで酔ったのかは分からないが、突然の質問にうろたえたその顔は少し赤みを帯びているように見えた。

「です! じゃねえよ」

 言葉尻のマネをすると、例の魅力的な笑顔を浮かべる。そして急に視線をそらすと、サングラスを上げて寂しそうに横を向いた。

「おーい! お待たせ」

 俺は、プールサイドで楽しそうに話している『絵になるようなカップル』を見つけると手を振った。

 笑顔でぶんぶんと手を振っている俺だが、一つ心配な事があった。実は、母さんが昔買ってきた〈デカいカエルのプリントがついた水着〉をベガスに持って来てしまったのだ。しかもそのカエルには「ケロ?」と吹き出しが付いていて、ご丁寧に舌まで出している。

「謙介さん……。どんだけカエルが好きなのかは知らないけど、ベガスでその水着はないわー。ダ、ダメだ。俺もう限界」

 くっくと腹筋を波打たせながら紫苑が笑う。

「ぶほっ!」

 俺の格好を見て、あずさはぷるぷる震えながらも笑うのを我慢していたようだった。だが結局、我慢できずに飲んでいたお酒を盛大に吹きだす。

「うーん、やっぱりダメかこれ。周りにこんなのいないもんな」

なんだか急に照れ臭くなり、タオルで前を隠した。

「大体、なんでカエルのセリフが疑問形なのよ。もう、後で水着買いに付き合ってあげるから、そ、それ捨てちゃいなさいよ。ってか、むしろ記念に下さい」

 きらきらとデコレーションされた爪を唇に当てて、まだくすくす笑っている。

「……お前ら笑いすぎだろ。ところで、ちょっと聞いてくれ。ここに来る時に、モールで誰と会ったと思う? 『チーム3』のあつしとゴリラだよ! 少し彼らと話したんだけど『チーム4』のモヒカンたちも来ているらしい」

「まあ、あいつらじゃ、ベガスに喰われて終わりだよ。騙す方も悪いが、騙される方もどうかと」

 紫苑のセリフは相変わらず冷静だった。

「彼らのホテルもあつしから聞いといた。まだ四日目だから何とも言えないけど、いい機会だからここで俺の意見を言っておく。もしさ、百万ドルを大幅に超えるような勝ちになったら、足りていないチームに分けようと思うんだ。何だかんだ言っても同じ日本人同士だからさ。もちろんその金で彼らが達成する範囲ならって話だけど。どう思う?」

 今回のルールだと、いくら勝っても貰える賞金は一緒だ。なら、なるべく多くのチームが賞金を手にした方がいいと俺は考えた。

「でも謙介さん、俺たち『セブン』がもし六百万ドル勝ったらどうする? そのまま逃げれば一人二百万ドル、つまり達成賞金の二倍の二億円だよね。まあ、それでも分け与えるって言うんなら、俺は従うよ」

「あたしも紫苑と同じ意見よ。謙介さんが主催者のルールに従うっていうんならそれでいいわ。クリアすれば最低でも一人一億円は貰えるわけだし」

指を一本立ててニコっと笑った。

「でもさ、九十九万ドルとかで惜しくも届かなかった場合はどうするかだよな」

紫苑のこの意見に俺とあずさはぐっと黙ってしまった。日本に帰ってもそれでは『敗北』となり、俺たちには一円も入って来ないのだ。あとは、それぞれが元の冴えない生活に戻るだけ。つまり――負け犬確定って事だ。

「その時の事は何か考えておくから、少し待っていてくれ。んじゃひと泳ぎしてからメシでも食って腹ごしらえしよう。勝負はまだまだ続くんだし」

「おっけー。でも……その前に水着を買いに行きたいわね」

 そう言うが早いか、がしっと俺の腕を掴みショッピングモールの方向にぐいぐいと引っ張って行った。

 ぽつんと残された紫苑は、謙介を強制連行していくあずさの後姿をいつまでも見つめていた。その眼光は濃い色のサングラスに隠されていたが、二人の幸せを望んでいるような眼には決して見えなかった。



『羽田空港・到着ロビー』 四月五日(残り五日)



「何とか間に合ったかな」

 市ヶ谷秀男は、家族を迎えに第二旅客ターミナルに来ていた。彼の嫁の実家は鹿児島にあり、先ほど受け取ったメールの文面からも楽しい休日だったことが伺われた。今日は天候も申し分なく、ANA3779便は【定刻】と電光掲示板にも書いてある。春休みも終わるという事もあって、到着ロビーは人でごったがえしていた。

 仕事の都合で嫁の実家に一緒に行けなかった彼は、「せめて家族を迎えにだけは行かせて欲しい」と会社を半ば強引に早退してきた。久しぶりに会う家族の到着は約三十分後だ。きっと彼の妻と娘のリュックは、お土産と思い出でぱんぱんに膨らんでいることだろう。

 ロビーは各地のお土産を抱えた家族やカップルなどがひしめき合い、ベンチには座る所も見つからない。少し離れた所ではテレビ局が帰省ラッシュの様子を撮影に来ている様子も見える。結局座る事はあきらめたのか、彼は人ごみを見て細いためいきをついた。

 時を同じくして、当の電光掲示板の表示が【遅延】と変わっていたが、メール着信に気を取られた秀男は、それに全く気付いていないようだった。そのメールの画面を見た瞬間に、彼の表情が少し強張ったように見えた。

【ぱぱなにかへんこのひこうき】


「この分だと、定刻通りだな」

 ANA3779便の機長が、満足そうに副操縦士の田辺に声を掛けた。コックピットにある自動操縦を示すランプは問題なく点灯し、現在順調な飛行をしている事が分かる。

 加えて、今日は快晴なので一部の乗客には雄大な富士山の姿もはっきり見えるに違いない。

「機長、前方に気流の乱れが発生しているようです。アナウンスを入れますか?」

 他機からの無線を受け取った田辺が、目を細めて前方を向いたまま尋ねた。彼の視線の先には青い空がどこまでも無限に広がっているように見える。しかし、気流の乱れがどこに潜んでいるかは、現代でも完全な予測は不可能だと言われていた。残りはパイロットの経験と他機からの情報、気象データなどから読むしか無いのだ。

 返事がないので田辺が横を向くと、機長はガクッと頭を下げまるで居眠りしているように見えた。しかし唇だけは何かつぶやいているのか、細かく動いている。

「機長、大丈夫ですか?」

 今度は少し大きめの声で呼びかける。機長は下げていた顔を、そのままゆっくりと田辺に向けた。その拍子に帽子が床にぽとんと落ちる。

「おまえ誰だよ! なんでこんな所にボクを閉じ込めるんだ」

 心底不思議そうな顔で子供のような純真な目をして田辺を見上げる。やがて、両方の頬がどんどん釣り上がっていく。

 次の瞬間!

「きえええええええ!」 

 今まで聞いたことのない奇声を発しながら、レバーやボタンをでたらめに叩き始めた。そう、まるで駄々っ子のように。そのはずみで機内アナウンスのマイクがオンになる。同時に、機体が激しく揺れ始めた。ついには、右に床が急激に傾いて行く。

「じょ、冗談は止めて下さい! 急にどうしたんですか!」

 それには答えず、機長は子供のように目を輝かせながら、今度は安全ベルトを外して立ち上がろうとしていた。

 さすがに彼の〈尋常ではない状態〉に気付いた田辺は、解除されたオートパイロットを再びオンにすると慌てて席を立った。機長の肩をぐいっと掴み強引に席に座らせると安全ベルトで固定する。次に無線を開き管制塔に連絡した後、マニュアル通りの手順で着陸準備を始めた。

 最新のフライバイワイヤ操縦システムを搭載しているこの飛行機は、副操縦士のみでも十分な余裕を持って着陸できる機能を備えていた。だが、もし彼がまた暴れ出したら何が起こるかは予測できない。

「大丈夫ですか? 着いたらすぐに病院に行きましょう」

  いま必要な手順が全て終わると横を向いて心配そうに声を掛けた。

だが……。

「その帽子カッコいいね! ボクのと替えてくれよ!」

 いつの間に拾ったのか帽子を両手でぎゅっと握りしめた機長は、その言葉だけを何度も繰り返す。どうしても欲しいのか、床をどんどんと踏み鳴らしながら血走った眼をぐりんぐりんとせわしなく回している。

「……分かりました。どうぞ」

 もはや会話が通じないと悟ったのだろう、田辺の目にうっすらと涙が浮かぶ。そして次に彼に襲いかかって来たのはとてつもない恐怖だった。自分の尊敬する人の、あまりにも急な変貌ぶりが田辺の背筋と表情を凍らせていく。

「いまの聞きましたか? これコックピットの会話ですよね」

 客席では、アナウンスから流れてくる不思議な会話を聞いていた乗客たちがパニックを起こし始めていた。電話やメールをしだす者や、勝手に席を立ってC.Aに詰め寄る者も現れた。

 そのまま十五分ほど機内はざわめいていたが、、C.Aたちの素晴らしい働きと冷静な行動によりパニックはようやく収まった。同じく副操縦士の冷静で正確な操縦のおかげでANA3779便は予定よりわずか一時間遅れで無事羽田空港に着陸する事ができた。

 だが、今回の出来事は大問題に発展することは想像に難くない。もしパイロットが一名しかいない飛行機だったら大惨事になっていたはずだからだ。

 後に、機長の病名は『変異型クロイツフェルト・ヤコブ病』と診断された。幸いなことに、今までこの病気は日本では一名の症例しか公表されていない。狂牛病と非常に似ていることから関連があるとされているが、発症の原因は現代でも謎のままだ。だが、【異常プリオンが脳に侵入し、スポンジ状になりやがて死に至る】という点では狂牛病と一致していた。

「全く兆候がなく、このような急激な発症は見たことが無い。しかも機長はベジタリアンで牛肉を食べるという習慣が無かった。我々は最高レベルの治療を行うが、 今も彼の脳は急速に蝕まれつつあり、食い止めることは非常に難しいと思われる」

これは、機長を診察した『脳外科の権威』と言われる男の言葉である。

そして――。まるでこの日を待っていたかのように日本各地、いや、世界各地でこのような症例が続々と報告され始めることになる。



『アメリカ・ワシントン』 四月五日



「最初からもう一度見せてちょうだい」

 ここはワシントンにある『ビッグミリオン』の本部だ。

しんとした静寂の中、〈沈黙の女王〉エリザベートが会議室にいる二人の男に向かって厳かに言葉を発した。今日はイラクでの実験結果を確認するために、組織の主要メンバーが集まっている。会議室の床には毛足の長いふかふかの紫のじゅうたんが敷き詰められ、見事に3D化された映像が中央のテーブルの上に映し出されていた。

 映像はまず白い服を着たイラク人家族の紹介から始まった。父、母、姉、弟の四人家族が十メートル四方の実験室に監禁されている。部屋の内装は白く、中央に大きなテーブルが置かれ、ベッドがそれぞれの壁際に設置されていた。

【家族のうち十八歳の姉だけにワクチンを投与済】とキャプションが流れると同時に、自動で画面が拡大、縮小し始める。

 一日目、二日目は何も変化は見られないが、三日目になると『それ』は始まった。姉が両手を広げ、弟を指さして母親に強く何かを訴え始めたが、母親は首を傾げるばかりだ。

 四日目にふらふらと弟が倒れベッドで軽く麻痺を始める。だが、父と母は意味もなく実験室を歩き回るだけで、まるでその事に興味が無いようだ。

一方、姉は弟のベッドの脇を片時も離れず、涙をこらえながら看病している。しかし、両親はあろうことか、近くを通るときに姉と弟を指差して笑い転げていた。

 五日目になると両親とも上体をゆらゆら揺らしながら、ベッドの上でぼーっとしだす。

 六日目に姉は半狂乱になって弟の肩を揺さぶるが、もう誰の目にも彼に死が迫っているように見える。

 七日目にはついに両親ともベッドの上で寝たきりになり、電気に打たれたように時々激しくけいれんを始める。

 八日目、弟死亡。

 十日目、姉以外全員死亡。家族の遺体に覆いかぶさり泣きじゃくる姉の容姿は、とても十八歳とは思えない程に老けているように見えた。

映像はここで終わっている。

「以上です。……個体差はありますが、大体七日から十日で全て終わります。病理解剖の結果、予想通り脳に興味深い変化が起こっていました。娘はこのあと二週間ほど様子を見ましたが、発症しませんでした。しかし、精神に異常が認められたため、早めに処理を」

〈皇帝〉サイモンが感情のない声で報告書を読み上げていく。

「もういいわ、上出来ね。ところで、この娘のチップランクは?」

 言葉を途中で遮り、もう一人の幹部の男に目を向ける。

「チップ内容量に換算しますと、ランク0.1ぐらいでしょうか。感染を防げるのは約三十日程度です」

〈賢者〉エリックが事務的な口調で答えた。気怠そうに金縁の眼鏡を外すとテーブルにそっと置く。

「では、エクスプロージョンは成功ね」

「はい。しかしこの映像で分かる通り、これは密封された実験室で行われています。現場では効果が出るまでもう少し時間がかかるかもしれません。逆に、幼児など弱い個体はすぐに発症すると思われます」

 立ち上がると白いローブをなびかせながら機密ファイルをエリザベートに手渡す。それによると、すでに日本、アメリカ、イギリスなどで数十件の発症が報告されていた。

「シーズン1は接触感染。シーズン2は……楽しみだわ」

  すっと音もなく立ち上がりファイルを机に滑らせると、二人を残したまま部屋を出て行った。

「CIAが動いているという報告を聞いたか?」

サイモンは彼女が出て行ったドアを見つめているエリックの耳元に口を近づけそっと呟く。

「うむ。どうやらこちら側にインフォーマー(密告者)がいるようだな。まあ、この件は私に任せてくれ」

〈賢者〉エリックの眼に残忍な青い光が灯り出した。



『海洋上・位置不明』 四月五日



『ジョージ・ワシントン』で大佐と合流したブライアンは、ヘリから降ろされたばかりのまどかの病室にいた。無駄な装飾を一切省いた機能的な医務室で、彼女は軍医の治療を受けていた。

「おっと、目が覚めたかい? もう大丈夫だよ。足のケガは三週間もすれば回復するだろう。肋骨にもひびが入っていたが、幸い骨折はしていないようだ」

日本人顔をした角刈りの軍医は、包帯の巻かれたまどかの足を見ながら手元のレントゲン写真をぱんっと叩いた。

「……ここは?」

 レントゲン写真と軍医を交互に見ながら彼女が寝ぼけ眼で尋ねた。ベッドの足元には白いスーツを着た男の姿も見える。

「やあ。ここは最新の病院だよ。悪いが君、少し外してくれ」

 椅子に腰かけ、ベッドの柵にぴかぴかの皮靴を乗せていたブライアンが、その長い足を降ろしながら代わりに答えた。

「さて、まどか君。少し説明が必要だろう。覚えているか分からないが、君と一緒にバイクで逃亡した男の遺体は、いま日本の警察が検死をしている。そうそう、君の仲間だったちびっこギャングたちは残らず処分したから、君はもう何も心配しなくていい」

「いやああああ!」

 突然、まどかは火が着いたように暴れだし、その振動でベッドが激しく軋む。悲惨な記憶が蘇ったのだろうか、叫びながら髪の毛を激しく掻きむしっている。ブライアンは、たっぷりと時間をかけて彼女が落ち着くまで待った。

「いいかい? 残念だが君の恋人はもう帰ってこない。だが、君は奇跡的に助かったしお腹の赤ちゃんも無事だ。これは幸運と思わないといけない。さて――ここからが大事な話だ。君はケースの中にあった紙幣に触ったかな?」

 立ち上がりベッドの頭まで行くと、息がかかる距離まで近づきぐっと顔を覗き込んだ。そして何かを探るようにまどかの眼をまっすぐに見つめている。

「あなたがスタートの時に渡したアルミケースの話? あたしはあのお金には触っていないわ。タケシはあの後触っていたかもしれないけれど」

 目をつぶると、長い時間考えてから答えた。

「そうか。君が妊娠してるいう記録は無かったから念のためにな。ところで……。私と取り引きしないか?」

「取り引き?」

 キョトンとした目でブライアンを見上げる。

「そうだ。君は大金が欲しくて、このチャレンジに応募したはずだ。まず、君のチップはここに運んできてすぐに、特殊な方法で取り出された。これは追跡される恐れがあるからだ。実はね、首のチップにはある病気から身体を守る機能があるんだ」

 ブライアンはベッドに腰かけ、まどかに背を向けると自分の後頭部を親指で指した。

「病気って何ですか?」

 怯えた瞳でブライアンの後姿を見つめる。

「非常に――そう、非常に恐ろしい病気だ。さっき紙幣に触ったか聞いただろ? 触るだけでは問題ないが、その手で口や粘膜などに触れたらたちまち感染する。もちろん感染者の唾液や体液からも同じように感染してしまう」

「それってHIVみたいなものですか?」

「まあ、治療法が無いのは同じだが、HIVだったら最悪でも自分の人生の思い出と共に死ねる。だが、この病気にかかったら『生きながら記憶を失い、人間としても死んでしまう』んだ」

「生きながら死ぬって……。ゾンビと正反対ですね」

「上手い事を言うね。さらに、感染した、または感染させた自覚が全くないという点ではこちらのがはるかに恐ろしいかもしれない。生活圏に影のように忍びこみ家庭や友人、恋人という関係を、見た目は何も変わらないのに根幹から破壊していく。そうだ――もし君が既に感染していたとしたら、スタート時に私と会ったことさえも今は覚えていないだろうね」

「つまり……自分が愛した人の事も、いつの間にか忘れてしまうってことですね」

 春樹の死を思い出したのか、その顔は悲しみの色に染まっていく。

「では、それらを踏まえた所でそろそろ取り引きの話に戻ろう。君は自分の都合でチップを取り出したのでは無いから、ルール上では君のご家族にこちらが五百万ドルを支払う決まりだ。だが、君はギャングたちと一緒に爆発で死んだと処理してしまえば、我々さえトボケれば君に支払う義務はない。ひとつ聞くが、この病気の話を聞かない方が良かったと思うか?」

「いえ、知って良かったと思います。感染経路を知っていれば予防もできますから」

「そうか、なら話は早い。実は、私はビッグミリオンのスタッフとして潜り込んでいるアメリカ政府の人間なんだ。ここに着いてすぐに君のチップは取り出され、『汚れた紙幣』と共に政府の研究室に送られた。彼らの仕事はウイルスをただちに分析して、多くの人を救うワクチンを作ることだ」

 一度言葉を切り、キスをするぐらいの距離まで再びその整った顔をぐっと近づける。

「よく聞いてくれ。五百万ドルはビッグミリオングループの代わりに、アメリカ政府からご両親に支払おう。君はこの世から消えた事にするんだ。――その代わりと言ってはなんだが、君のお腹にいる赤ちゃんをこちらに貰えないだろうか。その子の身体にはワクチンを含んだ君の血液を介して『新しい抗体』が作られている可能性があるんだよ。君が言っていたように、それが一番の予防なんだ」

「新しい抗体?」

 我が子を守るように、とっさに両手を自分のお腹に持っていく。

「そうだ。『妊娠している参加者がいる』という情報を聞いて、アメリカ政府はこれに非常に強い興味を示した。貴重な研究対象になると考えたんだろう。なあ、君も今まで親にさんざん苦労かけてきたクチだろ? このへんで少し親孝行したらどうかな。まあ実際、この話は親孝行するというレベルではない。長い目で見れば、人類を救う手助けができるかもしれないんだ」   

 ブライアンの眼が少し狂信的な光を帯びだす。しかし、パニクっているまどかにすぐ答えが出せるわけが無い。

「さらにもうひとつ。最新のDNA検査の結果では、その子の父親は――バイクの彼ではなかった」

 部屋に長い沈黙と、重い空気が流れる。

「もし断ったら?」

 乾いた唇から声を絞り出し、この場の雰囲気に負けないような強い目で見返す。いま、彼女は悲しみというよりも、何かに非常に腹を立てているように見える。

「そうだな。金も貰えないし、君が暴れようが何しようが結局赤ん坊だけが取り出されるだろう。私の権限でその時に麻酔を使わせない事もできる。そう、この話はアメリカ政府からの君への温情なのだよ。政府は〈赤ん坊にしか興味を示していない〉のだから。だがさっきの話を飲めば、新しいワクチンが完成したら真っ先に君と、君の家族にも与えることも約束しよう。私は君も、そして人類も救いたいのだよ。どうだ? 悪い話じゃないだろう」

「……分かったわ。でも、公式な文書にして下さい。あなたがFBIでもCIAでも構わないけど、口約束はできない」

「もちろんだ。君はまだ若いのに、何が大事かをよく知っている。頭が下がるよ」

 ブライアンは最後にウインクをひとつすると、上機嫌で部屋を出て行く。その背中を見て、まどかの表情が少しだけ強張ったのを彼は知らなかった。

そのまま大股で廊下を歩いて行くと、しばらくどこかに電話を掛けた。それが終わると軍医の私室をノックする。

「話はついた。すぐに彼女を眠らせて母体から取り出し、胎児を取り出せ。あまり時間がない。分かっていると思うが、へその緒は厳重に保管するように」

「はい、早速取り掛かります。しかし……よく納得しましたね」

 軍医は不思議な顔をしている。

「金で納得しそうだったが、もうひと押しした。お腹の子は愛する恋人の子供じゃないって嘘をね」

 艦内禁煙だが、葉巻に火をつけながらつまらなそうに言い捨てた。

「検査なんてしていないじゃないですか! 人道的に私は――」

「かまわんよ。チップが取り外された時点で遅かれ早かれいずれは感染して死ぬ。 だがそれまでは母親としても、実験体としても生きていてもらわないといかんらしい。ここからはオフレコだが、個人的な意見として赤ん坊からのワクチンがもしできたとしても『シーズン2』にはとても対応できるとは思えない。おそらく、政府の期待通りの結果は出ないだろう。なぜなら、このウイルスは『非常に頭がいい』からだ」

「では、私はこれからどうすれば?」

 青ざめた顔でブライアンに一歩詰め寄る。

「君とは長い付き合いだ。『シーズン1』用なら極秘に手に入れるから心配するな」

「あ、ありがとうございます」

 心からほっとした表情で胸を撫で下ろした。

 一方、まどかはブライアンが病室を出て行くと、痛みをこらえるように顔をしかめながらベッドから起き上がった。

「あたしの子供に五億円って。やっぱり、何かがおかしいわ」

 はだしのままそっと部屋を抜け出し、狭い廊下をよろよろと歩きだす。壁で身体を支えるようにして少し進むと、どこからか男の声が漏れてきた。

「お腹の子は愛する恋人の子供じゃないって嘘をね……」

 どうやら部屋から漏れてくる声は、ブライアンのもののようだ。そのままじっと耳を澄ますと、誰かと話しているのが聞こえてきた。相手はどうやらさっきの軍医のようだった。話の続きを聞いているまどかの顔がみるみる青くなっていき、唇を血が出るほどにきつく噛みだす。

「やっぱり私は騙されていたんだ! この病院からすぐに逃げなくちゃ!」

自由にならない足をもがくようにして踏みだし、出口を探す。とうとう足の傷口が開き、包帯から滲みだした血のしずくが廊下に転々と落ちる。

「この子は春樹の形見かもしれないんだから! この子を死なせるわけにはいかないんだから!」

 抑えきれない程の母性が傷ついた身体を動かすのか、獣のような唸り声をあげながら一歩一歩進んで行く。手負いの母獅子の唇から顎にかけて、赤い糸が筋をひいている。

 幸いなことに、誰とも出くわすこともなく日差しが差し込んでいる出口をくぐった。彼女の眼にはきっとこれが未来への出口に映っていたのだろう。

「え? この香り……。いったいここは?」

 膝をつき見つめる視線の先には――。見渡す限りの大海原が彼女を嘲笑うかの様に広がっていた。


『ラスベガス・チームセブン』 四月五日



「謙介さん、例のモノ用意したよ」

 紫苑からの電話を受けホテルのロビーを出た俺は、ロータリーの脇に向かった。彼の後には大型バイクが二台並び、エントランスの光に照らされて黒く長い影を落としている。

「さすが紫苑くん、仕事が早いね」

 デカいカワサキのエンジンをかけると、久し振りの心地いい振動が俺の全身を震わせる。それと共に十代の頃の素晴らしい仲間たちの顔が瞬時に蘇ってきた。

「バイクにまたがるのって久しぶりなんだろ? しっかし謙介さんがバイクに乗れるとは知らなかったなあ。頼むから無理して事故らないでくれよ。しっかり俺についてこーい! なんてね」

 エンジン音に負けない大声で心配してくれているが、ヘルメットのバイザーから見える彼の瞳は、これから始まる夜のツーリングをとても楽しみにしているかのように輝いていた。

「言ったな? ミード湖のラスベガス湾まで約三十キロだっけ? 楽勝だよ。もしお前が負けたらビールおごれよ」

 バイザーを開け、負けずに俺も大声で声で叫んだ。こんなにわくわくするのは本当に久しぶりだ。

 昨日のミーティングでさんざん話し合った結果、万が一の為の逃走ルートをまず確保することにした。幸運と不運が同居するここラスベガスでは、この先何が起こってもおかしくないからだ。結局、わずかに金額が足りずにチャレンジ失敗、もしくは奇跡的に五百万ドル以上稼いだら『逃亡』を選ぶことに決定した。もちろんこれはあずさも承諾している。

 逃亡計画はこうだ。

 まず、ラスベガス湾までバイクで走りぬけ、チャーターした水上飛行機に乗り込む。そこからパナマまで飛び、輸送船に潜り込む計画であった。金はそれなりにかかるが、ナンシーのつてを使ってパイロットは手配することができた。

 気になるのは首に埋まったチップだが、病院で検査を受けた結果、やはりもともとそこにあったかの様に現実に存在していた。もしこのチップから追跡シグナルが出ていた場合に備えて、それを妨害する対策も一応考えてある。もっともこれらの計画は『勝ち金を持っていなければ意味が無い』ので、まずは勝ち続けることが前提なのだが。

「じゃあ、先に行くよ」

 紫苑は後輪から煙を出してスタートした。タイヤの焦げる匂いが辺りに漂う。さすがと言うべきか、暴れるモンスターマシンを自分の手足の様に扱っている。

これは後から聞いたのだが、彼は昼間に下見を兼ねてラスベガス湾まで往復していたらしい。この時点で公平なレースになるわけが無かった。だが……。

紫苑のバイクが国道に飛び出すと同時に、俺もクラッチをすぱっと離した。前輪が高く持ち上がり、カワサキは身をよじるように暴れながら加速する。――が、すでに紫苑の姿はまるで見えなかった。

「ズルいよなあ……。良く考えたら、あいつ現役のライダーじゃんか」

 ヘルメットの中で苦笑いしながらつぶやいた。二台のカワサキはストリップ通りを瞬く間に抜け、弾丸のように東を目指して疾走していく。

「ヒュウウウ!」

 通りではアメ車に乗った若者たちが、親指を立てて俺たちに声援を送る姿が矢のように後ろに吹っ飛んで行く。そろそろ――紫苑のケツが見えてくる頃だ。

このレースのゴールはラスベガス湾のボート乗り場だった。そこには白く塗装された豪華なボートが何隻も係留されていたが、夜の暗い湖面はその白ささえも飲み込んでしまっているように見える。

「そろそろかな」

 俺は五分ほど先に着き、地面に置いたヘルメットに腰掛けて紫苑の到着を待っていた。バイクの後輪タイヤを指で触ってみると、少し溶けているのが分かる。

澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで満月が浮かぶ夜空を見上げた時、何故かあずさの顔がふいに頭に浮かんだ。彼女は俺の事をどう思っているんだろう。だが、その考えを断ち切るように遠くから耳障りの良い排気音が近づいてくる。

「速っええええ! 謙介さんの走りはクレイジーだよ! うちのチームでも、そんなぶっ飛んだヤツいないよ」

 俺の横に後輪を滑らせながら乱暴にカワサキを停める。そのままヘルメットを脱ぎ、本当に悔しそうに俺を睨み付けると頭の上で人差し指をくるくる回す。うん、コイツは相当な負けず嫌いなのだろう。

「まあ昔は暇さえあれば峠を走り回ったからなあ。バイクで走るのだけは誰にも負けた事がないよ。金かかるからレースには出なかったけど」

「本当にまいった! 絶対帰りも勝負してよ。もしまた負けたら、俺は引退して謙介さんをチームにスカウトする」

 今度は爽やかに笑いながら、俺の肩に軽くコブシをぶつけた。

「ところで謙介さん、ナンシーが紹介してくれた水上飛行機のパイロットは、彼女の兄貴だってさ。空軍にもいたことがあるらしいよ」

 朽ちたボートに腰掛け湖面につま先を遊ばせながら、手で自分の隣を指しながら言った。

「じゃあ、腕は確かだな。問題はパナマまで無事に着けるかだ。場合によってはロサンゼルスまで陸路で行くことになるかもしれない。どっちにしても、追跡装置を外さない限り危険な旅になるな」

ぽんぽんと腰を叩きながら隣に座る。久し振りのバイクはかなり腰にきていた。

「……あのさ、ひとつ聞いてもいい? 謙介さんはあずさのことをどう思ってるの?」

 不意を突かれた質問に戸惑いながら隣を見ると、思いのほか真剣なまなざしが突き刺さってきた。こいつのこんな真面目な顔は今まで見たことが無い。

「そうだなあ。最初はおしゃれな今時の娘だと思ってたけど、話してみると凄くいい娘だよな。責任感はあるし、意外と古風なところもある。もし今回何か危ない事があったら、命がけで守ってやりたいっておい、これ彼女に言うなよ」

 最後は冗談っぽく言ったのだが、紫苑の固い表情はみじんも変わらなかった。

「命がけでも、ね」

「何だよ。俺はおまえのことだって命がけで守るよ。リーダーってそういうもんだろ」

「そういうことを聞いたんじゃないんだけどな。――よし! 帰ろう。ホテルまで もう一度勝負ね。あ、あれ見て! UFOじゃね? はい、スタート」

紫苑の示す方向を見ている隙に彼はぱっと立ち上がり、自分のカワサキまで走っていく。

「おい、またフライングかよ! 次も負けたらおまえを俺のメカニックにしてやるからな」

 立ち上がって叫んだが、紫苑のテールランプは排気音と共に闇に消えていった。

しかし一体、あいつはどんな答えを期待していたのか。また、あの真剣な顔は何なのか。この事が俺の心のどこかに引っかかり、急に漠然とした不安が芽生えてくる。

 だが――それを振り払うように頭を振ると、時計のストップウォッチのボタンを押す。そして、月明かりに反射しているヘルメットを被りエンジンをかけた。気のせいかもしれないが、ここに来た時よりもその音色はなぜかとても寂しげに感じた。

「おかえり! 割と早かったじゃない。ナンシーと女子会してたわよ」

 ホテルの部屋に戻ると、テーブルにはワインのボトルが転がっていた。二人とも顔が真っ赤で、ナンシーに至ってはTシャツがまくれてヘソが丸出しだ。

「ただいま。紫苑と競争しながら下見をしてきたよ。では、突然ですが紹介します。今日から俺のメカニックくんです。はい、拍手!」

 二人はきょとんとした顔をしながらもぱちぱちと手を叩く。

「よ、メカニック。しっかりやるのよ」

 真っ赤な顔で拍手をしているあずさたちだが、実はあまり良く分かっていないようだ。

 ひきつった笑顔で両手を上げて拍手に答える紫苑は、ヘルメットを革張りのソファにぽんと放り投げた。

「いやいや、聞いてくれよ。謙介さんって絶対に元不良だぞ。俺、現役レーサーなのに二回も負けちゃったよ」

 首を振りながらあずさの横にどかっと腰を下ろすと、赤ワインをびんグラスになみなみと注ぎこんだ。少しやきもちを焼いているような顔でその二人を見て、ナンシーは一気に自分のグラスを空ける。

「バイク=不良ってのは違うと思うぞ。紫苑、とりあえず約束通りビールおごれよ」

「はいはい!」

 しぶしぶ立ち上がると、途中のドラッグストアで買ったバドワイザーをみんなに振舞った。戦利品のビールが終わるころ、ナンシーの携帯の着信音が鳴った。しかし彼女は酔いつぶれて寝てしまって気づいていないようだ。長い呼び出しに文句を言いながら、酔っぱらったあずさが電話に出る。

「はろー?」

「アーノルドだ。カメラからの音声が途絶えているぞ。ペンダントの裏のボリュームを調整してくれ。それでもダメならまた連絡する」

「わっかりましたあ!」

あずさは電話を耳に当てながら敬礼した。だが、下唇まで突き出す必要は無いはずだ。

「……おまえなあ、人の電話に勝手に出るなよ。メカニックくんからもなんか言ってやって。ところで、何がわかったんだ?」

 どうにかして起こそうとしているのか、寝ているナンシーの鼻を真剣な目をしてつまんでいるあずさに聞いてみた。

「んー、何かペンダントのカメラのボリュームがどうのこうの言ってた。渋い声の男の人だったよ」

「ボリューム? いまボリュームって言ったのか?」

 ナンシーの首にかかっているペンダントをまじまじと見た。例のフリーメイソンの目玉がついたペンダントヘッドだ。趣味は決して良いとは言えないが、よほど気に入っているのだろう。

 彼女の横に座り、それを首から外し慎重に手にとってみた。近くでよく見ると、表には黒いレンズの様なものがあり、裏返すと小さなボタンと何かを調整する目盛りが付いていた。

 紫苑に手振りで〈電気を消せ〉と合図し、手探りでペンダントのツメを外す。中からころっと何かが出てきた。手触りから小型の機械だと確信し電気を点けると、やはりそれは小型のカメラだった。すぐにナンシーの携帯を手に取り、着信履歴から最新の番号を押す。

「もしもし? あれ――もうばれちゃったのか。私はアーノルド。便宜上『チーム8』と呼ばれている中の一人だ。お察しのとおり君たちをずっと監視していた。ところで、少し会って話をしないか?」

 渋い声の男だ。

「監視? チーム同士で争うチャレンジじゃないのに、なぜ監視する必要がある?」

「詳しいことは会ってからだ。君たちに有益な話もある。あ、そうそう! ナンシーには『君は良くやってくれた。だがもうクビだ』とそう伝えておいてくれ。では三十分後にラウンジで」

  こちらの返事も聞かずに一方的に電話は切れた。


その頃、〈ガリガリ〉アーノルドから監視がばれてしまった事を聞いた〈DOLL〉キャサリンは深い溜息をついていた。

「もっとバレない方法は無かったの? でもまあ、これで話を持って行くチームは決まったわね」

 長い脚を組みなおしながら、煙草の煙を天井に向かって吹きあげる。

「そうですね。我々の裁量で金を使うということは、他のチームと組んでもかまわないということですから」

「ちょっと! ――これはブライアンには聞こえていないわよね。まあ、あなたのハッキング技術は最高レベルだし大丈夫だとは思うけれど」

「はい、衛星への復路に強力なジャミングを仕掛けています。ところで、CIAからのワクチン供給が望めなくなったら、貴女はともかく僕はランクが低いので一年も経つと感染してしまいますが」

 トントンと自分の首筋を叩きながら心配そうな表情を浮かべる。

「それは安心していいわ。CIAから兄さんと私たちには、かなりの報酬が支払われるから。報酬にはもちろんワクチンも含まれる。前にも言ったけれど、私はビッグミリオングループを信用していない。特に〈沈黙の女王〉エリザベートをね」

 何かを思い出したのかDOLLの眼が急に険しくなり、軽く唇を噛んだ。エリザベートはブライアンに〈必要以上に〉目をかけていた。兄を慕う妹にとってそれは、不愉快以外の何ものでもなかったに違いない。

その時、スイートのドアが開き〈童顔〉ベイブが部屋に入ってきた。

「しっ!」という風に彼女は唇に手に当て、アーノルドに素早く目で合図する。

「二人とも神妙な顔しちゃってどうしたんだい?」

 資料の束をテーブルに置くと、ベイブはテーブルの上に足を乗っけてくつろぎ始めた。

 ブライアンと同時期にビッグミリオングループに潜り込んだ二人には、ベイブの存在が致命的に邪魔だった。残り日数を考えると、そろそろ邪魔者には消えてもらわないとならないのだろう。

「後は頼むわね」

 そう言い残すとDOLLは早々に寝室に消えていった。一方アーノルドはその細い身体を黒いスーツにくぐらせる。

「少し出かけてくる。明日からはもっと忙しくなるぞ」

ベイブの鍛えられた肩をぽんっと叩くと、アーノルドは『チームセブン』に会うためにラウンジに向かった。



DEAD OR ALIVE




『アメリカ合衆国・疾病予防管理センター(CDC)』 四月六日(残り四日)



「大変です! ニューメキシコ州、カリフォルニア州、ニューヨーク州でも確認されました!」

 会議室に飛び込んできたスタッフが、顔に汗を浮かべメモを片手に叫んだ。

アトランタにあるCDC本部では、既に六時間に及ぶ対策会議が行われていた。内容は、世界各地で発生している今までにない謎の病気の件だ。

 続々と届く検死報告をまとめた結果、人種を問わず遺体の脳は例外なく『スポンジ化』していた。現時点では伝染病と断定されていないが、この様子だと確実に検死報告書の数は増え続けるだろう。

 そう――『紙幣は循環する』からだ。

「かなりのスピードじゃな。というより潜伏していたものが一気に発症したという事か」 

 会議の中心人物にエドワード博士がいた。彼は『変異型クロイツフェルト・ヤコブ病』の権威と言われていたが、スタッフの新たな報告を聞くたびに、落ち着かない様子で髭をなでる。老若男女人種を問わず、発症してから数日間で命を落としてしまうこの病気にかなり戸惑っているようだ。

 通常、この病気は急速な認知症を起こし自分の思うように身体が動かなくなり、長くて三年以内に死亡する。それに比べ、今回の病気の進行はあまりにも早すぎるのだ。

 遺族からの聞き取り調査によると、判を押したように同じ答えが返って来ていた。皆そろって生前に異常な行動(食事をとった事を忘れたり、自分の名前を忘れる事)が確認された。

「では家族が病気と認知する前に、致命的な進行をしているのじゃな?」

博士は資料を見ながら質問した。

「はい。PSD(周期性同期性放電検査)をする時間もありません。なにせ病院に運ばれた時は完全に手遅れなのですから。ですが……今朝高速道路で事故を起こして病院に運ばれたある女性は、幸運にも生きていました。頭を打った衝撃で記憶が混乱している可能性も否定できませんが、彼女の言った言葉が先ほど報告されています」

「読み上げてくれ」

 咳ばらいの後、彼はそれを読み上げていく。

「いつのまにか椅子に座っていました。凄い速さで景色が後ろに流れて行きます。私は何か丸い物を両手で掴んでいたのに気付くと、急に怖くなり手を離してしまいました」

「この女性の掴んでいた物とは、『車のハンドル』だと思われます。この事から、記憶の断裂がいきなり起こっている事が推測できます。残念なことに彼女はこの直後に意識不明となり、現在脳死状態です」

 スタッフに浮かんでいる表情には、はっきりとした恐怖の色が現れていた。

「そうか。まあ運転中に記憶を無くす事例は他にも考えられるが、例の航空機の機長と本質的に同じ症状じゃな。ところで、彼はまだ生きとるのか?」

 丸いレトロなメガネを外しながら質問する。長時間の会議の産物なのか、彼の白髪は思い思いの方向に流れて乱れていた。

「はい。しかし家族が面会したところ、彼は誰一人家族の顔を認識できなかったそうです。すぐに意識混濁に陥り、現在はワシントン州立病院に隔離されています」

「――うむ。ではCDCの権限でその機長に面会を申し込んでくれ。マスコミが動き出しているそうだが、感づかれてはいかんぞ。わしも研究室に寄って必要な機材を揃えたらすぐに向かう」

「しかし博士、パンデミックになってからでは遅いのでは。今のうちマスコミを使って警戒を呼び掛けた方が」

 別の若いスタッフが立ちあがり、全員の注目が集まるなか慎重に発言した。

「いや、まだ早い。何より恐ろしいのはパンデミックでは無く、恐怖に支配された人間が起こすパニックなんじゃ。いいか? もしこれが新しいタイプの伝染病だとしたら『今世紀最悪の恐ろしい病気』であることは間違いない。一分一秒を争う事態じゃ。各自細心の注意を払って動いてくれ」

 会議室から数人のスタッフが走り出た。しかし、一番急がなければならないはずのエドワード博士は机に肘を着き、何かに怯えているように頭を抱えていた。

「まさかとは思うが……あの旧日本軍の『神の鉄槌』作戦が絡んでいるのか?」

 自分が独り言を言っている事さえ気づいていない様子だ。今のこの状況は、ある情報を元に博士が数十年前に予想したものとそっくりだった。彼はゆっくりと立ち上がると頭を振り、重い足取りで会議室を後にした。


『神の鉄槌』とは第二次世界大戦時の極秘任務であり、日本軍部の謎のひとつとされている。その任務のひとつは特殊なウイルスを敵国にばらまくというものであった。しかも、ウイルスに感染させた兵士に対し「わざと捕虜になるように」とも教育していた。

 これがもし戦争に使われていたら歴史が変わったのか、今となっては誰にも分からない。だが、たぶん使われてはいないだろう。

 なぜなら……。その戦争があったことを覚えている人たちが現在でもいるからだ。



『ラスベガス・チームセブン』 四月六日



 夜の一時を回ったが、ホテルのラウンジはにぎやかだった。俺は隅のテーブルに座りナンシーの携帯からさっきの番号をリダイヤルした。

 同時に真後ろで携帯の呼び出し音が鳴り、黒いスーツを着た痩せた男が〈まるでこちらの顔を知っていたかように〉対面の席に座る。

「チームセブンの上条謙介です。そうか、あなたは俺の顔を知っているんですよね。スタートの時は人数が多かったので、残念ながらそちらの顔は思い出せませんが」

 当然、握手をするつもりは無い。

「いえいえ、かまいませんよ。僕はアーノルドといいます。そちらはどうやら順調に資金を増やしているようですね」

まっすぐ俺を見る目は、知的な光を帯びている。先ほどの電話の時と違って口調も紳士的だ。

「今のところは。ところで、ナンシーを紫苑に接触させたのは、あなた達ですか?」

 ここに来るまでに疑問に思っていたことを直球でぶつけてみた。

「いえ、接触があったからこそ後から買収したんです。彼女に悪気はないのでどうか許してやって下さい。ここだけの話ですが、他のチームにも監視をつけてあります。ただし、これはライバルチームを蹴落とすための作戦ではありません。目的は“映像で経過を記録すること”でした」

「経過を記録? チャレンジの記録でも残すんですか? もしくは逃亡の方法を真似るとか」

 最後は冗談っぽく言ったつもりだったが、手のひらにうっすら汗をかき始めていた。

「いえ、両方とも違います。記録は別の事に使いますが、今は話せません。実は私たち『チーム8』は主催者側の人間なんですよ。〈チャレンジでお金を一定以上増やせばクリア〉というのは建前で、本当の目的は別にあるんです。しかし、これを聞いたらあなた達はもう後戻りできません。どうしますか?」

 少し意地悪そうな顔で俺の答えを待っている。

「……それを俺に話したら、あなた方の立場も危うくなるのでは?」

「もちろんです。本当に主催者側の人間だったらこんな話は絶対にしません。僕は ビッグミリオン本部からの命令を遂行するフリをして、別のある任務に就いています。その証拠にあなたの首のチップから出ている電波に、今この場で強力なジャミングをかけています。長く浴びると健康に害が出る程の電波です」

ポケットから小型のトランシーバーのようなものを出してテーブルに乗せた。

「都合のいい事に、あなた方は〈逃亡〉も視野に入れているようですから、この話に興味を持つかもしれません」

 彼は何かを恐れているのだろうか。さっきからラウンジにいる人の顔を、眼の隅で素早く確認している見える。

「話ですか? もう知っているようなので話しますが、もし賞金をはるかに超えるような大勝ちになった場合『チームセブン』は逃亡を選択します。ペナルティが何であっても、俺が彼らを守ります」

 いつから盗聴されていたのかは知らないが、こいつらはもう全てを把握しているようだった。【敵の敵は味方である】という言葉が頭に浮かぶ。

「なるほどね。でももっと楽な方法もありますよ。もし僕たちと取り引きしてくれたら、三百万ドルを現金で差し上げます。確かあなた方が稼いだお金は現在六十万ドルを超えていますよね。それを足せば確実にひとり一億二千万円以上が手に入ります。よく考えてみて下さい。まず期日までにあなた方が、あと四十万ドルを確実に稼げる保障はどこにもないですよね」

 俺はすばやく頭で計算した。確かにそろそろカードカウンティングは使えなくなるかもしれない。もし稼げない場合はチャレンジ失敗でゼロであるが、この話に乗れば確実に一億円以上が手に入る。

 悪くない。が、簡単な条件ではないことは容易に想像がついた。

「一応聞きますが――取り引きの条件とは?」

 ごくりと唾を飲み込んだ。

「いや、簡単な事ですよ。七日の夜までに、ある男のチップを取り出してもらいたい。ただそれだけです。多少痛みはあるでしょうが、出血もすぐに止まるはずです。僕はその後あなた達に三百万ドルを渡し、本来の任務に戻ります。簡単でしょ?」

「いったいその男って誰なんですか?」

「同じチームの〈童顔〉ベイブと呼ばれている男で、彼は僕ともう一人の女性を疑い始めているようなんです。その証拠に、彼の報告次第で殺し屋が派遣されるという情報が、僕ら本来の組織から入ってきています。どうやらビッグミリオンの幹部は裏切り者を絞ってきたようですね」

 なるほど。さっきからこの男が、周りを見廻す鋭い視線の正体はこれだったのか。

「ひとつ質問よろしいですか? あなた方はチップからの信号をジャミングする方 法を持ってますよね。殺し屋が来る前にさっさと逃げた方がいいのでは?」

当然思いつく質問をしてみた。

「逃げれるものならとっくに逃げてますよ。でも、今は任務があります。では先ほどの本当の目的の話に戻りますが、ビッグミリオンはただのイベント会社ではありません。極端な言い方をすると『カルト集団』なんです。アルミケースに札束がびっしり入っていましたよね? その札束全てに、あるウイルスが散布されています」

「ウイルスだって? じゃあ俺達は感染しているじゃないですか。だってその札束に毎日のように触っているんですよ」

 頭が真っ白になった。あずさも感染している? だがもう――手後れかもしれない。

「落ち着いて聞いて下さい。参加者の首のチップにはそのウイルスを無効にするワクチンが注入されています。札束には触っても大丈夫ですが、ひとつ問題があります」

 アーノルドは身を乗り出して、テーブルをとんとんと叩いた。

「残念なことに首のチップの効果には『期限』があります。つまり……何か対策を打たない限り、いつかは必ず感染してしまう。もしそうなってしまったら、結果的には百パーセントの確率で死亡します」

「待って下さい。じゃあ俺たちは、ウイルスをばら撒く手伝いをしているってことじゃないですか! しかも命にかかわるウイルスを!」

 俺はどんっと机を拳で叩いた。その音に周りの紳士たちが驚いて一斉に振り返る。

「……声を落として。確かにウイルスをばら撒くことには加担していますが、知らなかった訳ですから責任はありません。実は、チャレンジ応募時の住所録を元に別の方法でも既に広範囲にばら撒かれているんです。感染の広がる速度と範囲のデータ、それに人種による感染差などを知るためにね。遅かれ早かれ、世界中でパンデミックが起きてしまう。つまり、もう手遅れなのです」

 椅子に深く座り直しながら、あきらめたよう両手を広げた。

「信じられない! ウイルス付きの何かを世界中に送ったってことですか? それと責任は無いって言われても、紙幣は銀行にいったん回収された後、社会で流通されてしまうじゃないですか。日本にいる両親に連絡しないと。あ! ナンシーにも警告を」

 部屋に戻ろうと、あわてて腰を浮かせかける。

「日本に電話するのは結構ですが、もう手遅れかもしれませんよ。それとナンシーの件ですが、彼女はたぶん大丈夫です。もし手で触っても口や粘膜に触らなければ、今は感染しません。僕も彼女にそれとなく警告しましたから。それからもうひとつ。やっかいな事にこのウイルスは『進化』するという特徴を持っています。今はシーズン1ですが、シーズン2になると……空気感染に移行するのです。この場合は今のチップのワクチンは効かなくなります」

「その進化は――どのくらいで起こるんですか?」

 現実のものとも思えないこの話を聞いていると、逆に危機感が無くなってくるから不思議だ。さっきまではただお金を増やせば良いと考えていたのが夢のようだった。

「そうですね、半年程度でしょうか。詳しいことは分かりませんが」

 俺は一度頭を整理した。つまりこの首に埋まっているチップのワクチンが無くなると、今は平気でもやがては死ぬということだ。しかも無くならなくても、いずれは空気感染が待っている。

「お解かりいただけましたか? 絶望しかないと思われるでしょうが、少しだけ希望があります。ビッグミリオンのトップの連中は『シーズン2対応ワクチン』を密かに所有しているはずです。僕たちの本当の任務は、ビッグミリオンの人間に扮したままそれを手に入れることなのです。しかし、このままでは非常に厳しいと言わざるを得ません」

「では、どうするんですか?」

「保険として僕たちの組織が、独自に『新型ワクチン』の開発を進めています。胎児の血液からサンプルを作るそうですが、残念ながら詳細は知らされていません。CDCや他の組織も動き出しているという報告も入っています」

 この事から、この男が属しているのは国家レベルの情報組織だと確信した。

「要するに、その新型ワクチンができるまでこのチップに頼るしかないと言うことですね。あなた方がビッグミリオングループに居続けるためには、ベイブを早急に排除したい。だが、自分たちがこれ以上疑われたら、自由に動けなくなってしまう。そのために俺たちに話を持って来たということですね」

 ここで一息ついた。選択肢は限られている。

「少し時間を下さい。チームに戻って相談したいと思います」

「分かりました。しかし、時間はあまりありません。最後に、もう一ついいニュースがあります。もし『シーズン2対応ワクチン』が手に入った場合、僕の権限であなた方に優先して与えます。――ではよい返事を期待しています」

 そう言うとテーブルに男の写真を置いた。俺は無言でその写真を受け取りポケットに突っ込むとラウンジを後にした。




『日本・東京』 四月六日



『チーム2』のまゆみと美香はまだバカンスを楽しんでいた。だが旅行の間に、貴子の勝手なチップ取り出しによって失格になっていることは知る由もなかった。

 貴子は新宿の病院にいた。チップを取りだし、弟の病室に通いだしてもう四日が経つ。難病である『特発性拡張型心筋症』を患った弟のためにできることは、もう心臓移植しか残されていなかった。この病気は移植を待つ間入院しなければならないが、入院費用がかなりかかってしまう。滞っていた入院費や、手術料などを払うと千三百万などあっという間に消えることになる。この日も貴子は化粧もせず、通いなれた病院の受付に行った。手には果物だろうか、大きな籠を抱えている。

「おはようございます。いつも大変ですね」

 顔なじみになった看護師の女性が笑顔で出迎える。しかしいつもと違う様子にその笑顔が戸惑いに変わって行く。面会者名の記入欄に名前を書く場所があるのだが、貴子の手がそこでしばらく止まっていた。

「いかがなされました? いつも通りでいいですよ」

とまどった顔をしている彼女に優しく声をかける。

「だめなの……名前……思い出せない!」

頭を抱えたはずみで果物の籠が床に落ちて、メロンや葡萄が音もなく散らばっていく。

「ちょっと、大丈夫ですか? すぐに先生を呼んできます」

 看護師は細かく震える貴子に肩を貸すと、待合室の椅子に座らせた。その目はうつろで、だらしなく開いた口からはよだれが止まらない。

「先生! こちらです!」

 医師と共に戻って来た看護士の白衣には、いつの間にか筋状の血痕がついていた。

それは――貴子が髪の毛をかきむしった時に、毛髪ごと引っこ抜いてしまった皮膚の傷から出た血だった。

「あの人は、突然こうなったのかね?」

 何かに怯えたような表情で初老の医師が問いかけた。妙なことに、椅子でうなだれている貴子の様子を少し離れた所から観察する。

「はい、受付で『自分の名前が思い出せない』とつぶやいた後にこうなりました」

「昨日までは普通だったんだろ? これは……まさか」

 医師の顔がみるみる青ざめていく。

「先生?」

「今朝FAXで届いた緊急連絡そのままの症状じゃないか! その内容は『新種の伝染病の可能性が高いので、そのような患者が来たら完全に隔離せよ』との通達だ。。昨日まで健康な人が突然記憶を失ってしまうらしい。よし、すぐにその患者を隔離してくれ」

 大きな声で指示を出した割には、医師の腰はひけていた。

「そうだ! 言い忘れていたが、警察にも通報しといてくれたまえ」

そう言い残すとサンダルが脱げそうなほどの速さで、小走りに奥に消えていった。問題のFAXの最後の行は次の一文で締めくくられていた。

【この病気を発症した患者は、やがて全て死亡すると思われる。治療法は、まだ無い】


『ラスベガス・チーム3』 四月六日



「明日にはブツが届くぞ。みんな準備はできているか?」

部屋に入って来るなり、タンクトップ姿のゴリラに向かって咎めるような口調であつしが叫んだ。

「俺は全て終わりましたけど、あれ? そういえば、おばあちゃんと通訳の姿を今日は見てないなあ」

どうやら何とかニセ札束の制作は終わったようだ。

「何やってんだ! 明日はあいつらがいないと話にならねえじゃねえか。すぐに電話してみろ」

 いらいらしながら大声で命令する。

 まだ痛むのだろうか、ゴリラの鼻には大きな絆創膏が貼ってある。身の危険を感じたのか、すぐに電話を手に取るとおばあちゃんにダイヤルした。

 ジリリリリン、ジリリリリン

 聞きなれたレトロな呼び出し音が、壁の白い大きなクローゼットから聞こえてくる。

「携帯を忘れていったのかな」

ゴリラは弾かれたようにソファから立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。

「うお!」

 開けた瞬間に何か背の低いマネキンの様なものが、ゴリラに抱きついてきた。とっさに思い切り払いのけると、それは前のめりに床に倒れどすんっと大きな音を立てる。

「おいおい、それおばあちゃんじゃねえのか?」

 あつしは動揺した様子も無く、うつぶせに倒れている人間を見おろした。そしてつま先でそれをひっくりかえすと、やはり……それは口から血の筋をひき、目をあけたまま死んでいるおばあちゃんであった。

「なあ、これを見てみろ」

 あつしはかがみこむと、遺体の首を横に向けた。傷跡から大量の出血があったように見える。

 さらに目を近づけると、後頭部の〈チップが埋まっているべき場所の皮膚〉が毛髪ごと丸く剥がれていた。その皮膚に半分被るようにしてネクタイが首に巻かれている。おそらく首を絞められたことが彼女にとって致命傷だったのだろう。

「ひどいことするなあ」

 ゴリラはネクタイをそっと外すと、器用に後頭部の毛髪を引っ張って確認してみる。――やはりそこにはチップは無くぽっかりと丸い穴が二人を覗いていた。ちょうど、鋭利なナイフのようなもので強引にくり抜いた感じだ。

「誰かが殺してから、チップを盗んだんだな。あつしさん、どう思います?」

「……いや、たぶん逆だな。“生きたままチップを取り出してから殺した”んだろう」

 ゴリラの顔が更にひきつった。

 確かに、死んでから取り出したにしては出血が多すぎるし、ネクタイは傷跡の上から被せるように巻かれていた。死んでから取り出したのなら、ネクタイは傷跡に被っていないはずだ。

 彼女の見開いた目は一体最後に何をみたのだろうか。あつしはそっとおばあちゃんの目を閉じると、長い時間手を合わせた。

「おい、キムはどうした? あの野郎はいつも一緒にいたんじゃねえのか?」

空気が変わり目に狂暴な光が灯り始める。さっきまで静かに手を合わせていた人間と、まるで別人のようだ。

「そ、そういえば姿が見えないですね。ちょっと待って下さい! 先に金庫を見てきます」

 駆け込んだ別室のセーフティーボックスの扉はだらしなく開き、中の札束はまるごと消えていた。

「やられました。金が全部消えています」

「やられましたじゃねえよバカ野郎! すぐに探して来い! ヤツは何か知ってるはずだ」

「はい!」

本職のドスの効いた声にゴリラが飛び上がる。こうなるともう手がつけられない事を知っているようだ。本格的に暴れ出す前に素早く部屋を飛び出していった。

「ちっ、オークション計画は白紙か。しょうがねえ、次の手を考えるか」

煙草をくわえながらベッドのシーツをはがすと、妙に慣れた手つきで遺体を包みだした。


一時間前


 街外れのインターネットカフェに、品のいいスーツに身を包んだ『チーム4』のリーマンがいた。

「友人が来るので」と受付で隣のボックスもキープする。

 このビッグミリオンチャレンジに当選したことはリーマンにとって偶然では無かった。彼は筋金入りのハッカーだったが、二年前にアメリカ疾病予防管理センター(CDC)のサーバーに侵入した罪で有罪になっていた。

しかし、司法取引によりCDCにスカウトされ、サーバーのセキュリティ強化チームに配属された。もし同じようにハッキングされてウイルス等の情報が悪用されたら、世界は未曽有の脅威にさらされてしまうと考えたのだろう。

 サーバー強化が一通り終わると、次は危険な民間会社を監視する任務につく。筆頭に挙がっていたのは『ビッグミリオン』という会社であった。

ある日、ついに彼はその会社のサーバーに侵入することに成功した。

「なんだ、これは」

 極秘ファイルを開いた瞬間、その内容に愕然とする。そこには第二次世界大戦時代の『神の鉄槌』作戦の詳細が保管されていたのだ。すぐに、上司であるエドワード博士に報告した。

 ファイルの最近の更新に【ワクチンをチップへ封入する方法】も記されている。詳しく調べるためには自分が潜り込むしかなかった。アメリカ政府の協力のもと、彼は自分の名前を当選者欄に強引にねじこんだ。

 しばらくすると、脇に赤いタオルをはさんだキムが店に入ってきて隣のボックスに座った。注意して見る人がいたら、それは赤いタオルではなくもともと白いタオルが赤く血で染まったものと気づいただろう。彼は痛そうに顔をしかめていたが、重いアルミケースはしっかりと握りしめていた。

「うまくいったようだな」

ネットカフェのモニター画面をまっすぐ見つめ、端末を叩きながらリーマンがささやく。

「ああ、彼女が生きているうちに取り出して、自分の脇に切れ目を入れてぶちこんだ。しかし爆発まで十秒ってのは本当なのか? 焦って入れたから大出血したよ」

縫った傷口が開かないように更にきつく脇をしめる。

「それは悪かった。実は正確な秒数は分かっていなかったんだ。十秒以内なら大丈夫だろうと」

 謝りながらも指先は高速でキーボードを操り、どこかの伝言板に意味不明な文字の羅列を書き込んでいる。そして送信ボタンを押すとすっと立ち上がり、二人で店を出て用意したレンタカーに乗り込んだ。

 このときキムがもう少しだけ注意深かったなら、キーボードの指紋をすばやく拭いたリーマンの行動に気づいたかもしれない。

「金はどうした? こちらはひと束もあれば十分だが」

運転しながらキムを鋭い眼でにらむ。

「だ、大丈夫だ。ここにある。俺はアーノルドを裏切ってあんたについたんだ。約束どおり、あとの金は全部もらうよ」

 問いかける口調に何か不吉なものを感じたのか、キムの目には脅えの色が走っている。

「ああ、約束した報酬だからな。全部持っていけ。そのチップを脇に入れとけばこの先きっといい事があるだろう。あと君は、今日以降しばらく身を隠してくれ」

タイヤをきしませ交差点を曲がると、空港方面に進路をとった。

「あ、そうそう」

 次の信号に止まった瞬間、自然な動作で注射器を内ポケットから出すとキムの太ももに突き立てた。その注射の効果はたちまち現われた。まだ意識はあるようだが身体はぴくりとも動かせないようだ。

「大事な事を言い忘れていたよ。実は君は貴重な実験体だから手放せないんだ。この札束に塗布されているウイルスの分析と同時に、発症初期段階の者にもワクチンが効くのかを調べなくてはならない。君は恐らく『感染済み』だから、いいモルモットになるはずだよ。協力は本当に感謝するが、残りの金は持ち主に返しておくよ。彼らに嗅ぎ回られると今はまずいからね」

 まずキムがアーノルドとの通信に使っていた時計を、手首から外す。中身はナンシーのペンダントと同じタイプだと思われた。この時計からの電波を傍受することができたからこそ、キムを裏切らせる事ができたのだ。

 次にアルミケースを手から引きはがし後部座席に放り投げると、待ち合わせの教会へ急いだ。


「あつしさん! 部屋の外にこれが置いてありました!」

 さんざんキムを探し回って収穫が無かったゴリラが、肩を落としながら部屋に戻ろうとするとドアの下に懐かしのアルミケースを見つけた。

「中身を数えてみろ」

 あつしはゴリラが出て行った時のままの姿で座っている。しかし、彼は遺体を得意の方法ですでに『処理』していた。ベガスを出て少し走れば、おあつらえ向きの砂漠がたっぷりとある。扱い慣れた人に使われたスコップは、レンタカーのトランクにそっと仕舞われていた。

「はい。……えーと、一束足りません。千ドルだけ無くなってます」

 あつしに叱られるのが恐ろしいのか、もう一度数えだした。

「たった千ドルのために殺されたのか。――いや、違うな。チップもそうだが、札 束にも何か秘密があるんじゃねえか? 巧妙な偽札だったりしてよ」

ゴリラの数えている札束をテーブルから乱暴にどけると、ノートパソコンを広げる。次に検索条件の欄に『ラスベガス 研究所 分析』と打ち込むと、四件がヒットした。

「金はかかるかもしれないが、明日にでも紙幣を分析してもらうか。最初から何か匂うんだよ、このゲームは」とそっと呟いた。



『ラスベガス・チーム4』 四月七日



「さあて、次はどれで遊ぼうかな」

 リンダに百ドルチップ五枚をもらったモヒカンは、部屋にも帰らずにカジノを徘徊していた。

 たまにリンダと短い会話をしていたが、彼女は肩をすくめるだけだ。リーマンは他のカジノに行っているのか、全く姿を見かけなっていた。

「はあ……。このままじゃ明日あたりには帰国かな」

 手元のチップは順調に減っていた。金髪のバニーガールから受け取ったアイスティーをすする顔にも疲労の色が浮かんでいる。一方、少し離れたバカラテーブルでは大歓声が起こり、髭の男が女性たちの腰に手を回しながら喜びの雄叫びを上げていた。きっとかなりの額の勝負に勝ったに違いない。

「いいよなあ、運がいいヤツは」

 横目でそれを見ながら、ベガスに来てから一番長いため息を吐き出す。あれからかなり増えた時期もあったが、もうクレジットにわずか五十ドルしか残っていない。

 ふいに、嗅ぎ慣れたコロンの香りがモヒカンの鼻をくすぐった。

「香織さん、今日も来たんだ? また勝てるといいね。そうそう実はさ、俺そろそろ日本に帰るかもしれないんだ。彼女が帰ってこいってうるさくてさ」

 もちろん彼女などいない。

 彼が声をかけたのは、ビデオポーカー好きで最近仲良くなった、少しふっくらした未亡人だった。二人は何故か意気投合して、数日前から時々隣同士で楽しそうにプレーしていた。

 しっとりとした和服を着た美人といるモヒカンをみて、きっと周りには異色のカップルに映っていたことだろう。

「本当? それは残念ねえ。あなた目元が死んだ夫と似ているし、見かけによらず優しいから私すごく楽しかったのに」

 寂しい表情を隠すように高級そうなハンドバッグから名刺を取り出すと、裏にサラサラと何か書いて渡した。

「帰国したらここに連絡してみてね。もしあなたが音楽を本当にやりたかったら、何か手助けができるかもしれないから」

にこっと笑うと、高そうな指輪をはめた綺麗な指を差しだし、モヒカンと握手を交わす。

「ありがとう。俺も楽しかったよ。香織さんにポーカーのルールを教えながら遊んだ毎日は、俺にとっていい思い出になるよ。帰ったら必ず連絡するから。じゃあまた!」

 名刺をポケットに入れ五十ドル分のクレジットを落とすと、少し寂しそうな背中を見せながら立ち去った。

「残ったのはこれだけか。こりゃもうダメだな。よし! じゃあ負け犬は退散するか」

 オケラになれば、後は部屋に戻り黙って帰り支度をするだけだ。ポケットに手を突っ込み歩き出したが、何故か一台のスロットマシーンの前で足を止める。そのマシンの上部にはジャックポットの数字が表示され、なんと現在の額は約十四億円を突破している。

「ふうん。どうせダメなら一発勝負してみよ。当たるわけないけど」

 そこから遠目にブラックジャックテーブルに座るリンダの姿が見える。

(これが終わったら彼女を誘ってメシでも行こうかな)と、よそ見をしながら一ゲーム回した時だった。

 ティロリン、ポンッ! ティロリン、ポンッ! ティロリン……ポンッ!

 いつものようにリールが止まったはずだった。しかしポンッという聞きなれない音に何か違和感を感じたらしくモヒカンはマシンをまじまじと見つめる。

 タカが羽を広げたような〈MEGA BUCKS絵柄〉が大当たりラインに三つ並んでいるが、特に何も起こらない。残金のメーターを見てもクレジットは上がらず、マシンはただの置物になってしまったかのように沈黙している。

 機械上部の配当表には最高配当の所に『MEGA BUCKS』と表示されているのが見える。

「これってまさか……。壊れちゃったのかな。だったら早く逃げないと」

 クレジットボタンや精算ボタンを連打したが、相変わらず何も起こらない。だが、彼はまだ気づいていなかった。画面に表示された【CALL ATTENDANT】という文字に。

「ん? ジャックポットの数字のカウントが止まってるじゃん」

 本当に壊したと思ったのか腰を浮かせて逃げる寸前に、とうとう異変に気づいたようだ。

 ここでまず動いたのは当事者ではなく、隣に座っていた恰幅のいい紳士だった。興奮した様子で上部のジャックポット表示【14,146,854.24】を指すと、つばを飛ばしながらモヒカンに何かをまくし立て始める。そして勝手に手を伸ばし係員を呼ぶボタンを押す。

「オーマイガッ!」

 次に、三つ隣に座っていたドレスを着た婦人が頬に手を当てて駆け寄って来ると、バンバンとモヒカンの肩を思いっきり叩く。

「いってーな! 初対面の人を叩いたらいけないんだぞ。つーか、いったいおまえら何を興奮してんだよ!」

 それが合図のように、周りには続々と観衆が集まってきた。彼らは一様に驚いた様子を見せると、次に携帯をとりだして写真を撮り始める。後から来た人々もジャックポットの数字を見ると、ほぼ全員が先ほどの婦人の言葉を口にしていた。

 そう、彼は最後に『メガバックス』というとんでもない大博打マシンに座っていたのだ。このマシンで特筆すべきはジャックポットの確率である。

 プログレッシブ型マシンの代表でもあるIGT社のこのマシンは、ネバダ州のメガバックスに投入される金額の何パーセントかを積み立てて、莫大な額のジャックポットを実現していた。正確な数字は公表されていないが、ジャックポットの確率は約 3,350万分の1と噂されている。

「コングラチュレーションズ! ミスター」

 騒ぎを聞きつけたのか、係員を呼ぶボタンで来たのかは分からないが、支配人クラスと思われる人物が人ごみをかき分けてニコニコしながらモヒカンに近づいて来た。後ろにはガッシリした体格の、ボディガードらしき黒人を引き連れている。

 それを見るなり――突然トサカをなびかせモヒカンは逃げだした! 今や人々にぐるっと囲まれた彼は、自分が何かとんでもないことに巻き込まれてしまったのだと思ったのかもしれない。だが、すぐにボディガードに手を広げられブロックされた。

「俺なんにもしてねーよ! 勝手に電源が切れたんだってば!」

 抗議も空しく結局席まで戻されると、丁寧に椅子を引かれ座らされる。

 次に登場したのは恰幅のいい機械のメーカーの偉い人だ。こっちは日本人の通訳を同行していた。ヤマザキと名乗るこの通訳の説明により、やっとモヒカンの顔が驚きと共に笑顔に変わり始める。どうやらこの偉い人がジャックポットの正式な認定から当選金の支払いまでを管理するらしい。

「あんた! 今度は何やらかしたのよ!」

 その大声に振り向くと、リンダ姉さんが真っ赤な顔でまた怒っていた。きっと騒ぎを聞きつけ見物に来たのだろう。だが次の瞬間、モヒカンの前に背中を見せて立ち、彼を守ろうと観衆をぐっと睨み付けた。

「俺、ひょっとして何か凄いことやっちゃったかも」

 ようやく『いい意味で』とんでもない事をやらかしたことに気付いたらしく、リンダの手を引っ張ると隣の席に座らせた。ヤマザキが満面の笑みを浮かべながら二人に詳しい説明を始める。

「おめでとうございます! では簡単にご説明しますと、あなたはメガバックス、つまりジャックポットに当選しました。この瞬間から約千四百万ドルがあなたのものになります。ただし、『日米租税協定』によりここアメリカでは税金は取られませんが、日本に帰ったら税金を四割程度納めることになるでしょう。ですが、今日あなたが受け取る権利がある金額はおよそ……日本円に換算しますと十四億円になります」

 これを聞いたリンダ姉さんは、口はポカーン開けたままだ。モヒカンに至っては、ほっぺたを強くつねりすぎたのか大粒の涙を流していた。

「あんた……。何かやる男だと思ってたけど、ついにやったわね!!」

 ドレスが捲れるのも構わずモヒカンに飛びつくと、ほっぺたにキスの嵐を浴びせる。

「うそつき、そんなこと全然思ってなかっただろうが?」

 照れ笑いをしながら抱き合うと、その場でジャンプして喜びを分かち合う。

「えー、お喜びのところ申し訳ありません。この賞金ですが、一括で受け取るか、二十五年間の分割払いにするかを選べます。詳しい手続きは事務所で行いますので、後でご同行願います」

 説明を続けるヤマザキの後ろでは、カジノスタッフがモヒカンのマシンの周りに金色のポールを立て、ロープを張り始めた。次に不正が無かったかの厳しいマシンチェックが行われた後、畳ぐらいの大きさの巨大小切手に『14,146,854.24$』と書きこまれた。

「それを笑顔で持って下さい」とカメラマンにリクエストされる。

 そして次々にカメラのフラッシュが焚かれるなか、カジノ恒例の〈ファーストスピンの儀式〉が始まった。この伝統の儀式はジャックポットの絵柄が並んだ状態の台を、当選者が最初に回して絵柄をくずすという栄誉ある儀式だ。

「姉さん、顔がすごい事になってるよ」

 感激して泣きすぎたのか、リンダの目は化粧が崩れて“出来損ないのパンダ”のようになっていた。

「仕方ないじゃない。これはギャンブラーにとって最高の瞬間でしょ? 私が当てたんじゃないけどね」

 儀式が終わると二人は事務所に連れていかれ、モヒカンは分厚い書類に陽気に次々とサインをしていく。

「良かったあ! これでチャレンジはクリアね。堂々と日本に帰れるわ」

サインしているモヒカンを熱い目で見つめながら、安堵のため息をつく。だが、意外なことに彼はちょっと複雑な表情をしていた。

「ねえ、浮かない顔してどうしたのよ?」

「姉さん……。俺、大変なことに気づいちゃった」

「大変なことってなによ、あっ!」

「そう、このままチャレンジをクリアしても、俺たち一億円しかもらえないんだぜ」

 モヒカンはサインをする手を止め、リンダの目をまっすぐ見つめた。

「十四億円稼ごうが、クリアして一億円もらったら残りは没収される可能性が高いだろ? 五十万ドル全て失っても返済しなくてもいいよってルールは、裏を返せばそういう事かもしれないよ」

 確かにその辺は明記されていなかった。資本金を出しているのは主催者なのだから――可能性は無いとは言えない。

「じゃあさ、もしかして逃げちゃおっかとか考えてる?」

 怖がるどころか、その眼が生き生きと輝き始める。彼女の中にあるギャンブラーの悪い血が騒ぎだしたのかもしれない。

「うん。金は腐るほどあるし」

 鼻を膨らませ自信満々になっている彼のトサカは、いつもよりもぴんっと立っているように見える。そうと決まれば少しでも早く手続きを終わらせたいのか、よく読みもせずに快調にサインを続けていく。

 その最後の項目に『この当選をマスコミに発表しますか?』という項目があった。

 当然、彼はよく読まずに、『YES』の欄にチェックを入れてしまっていた。ヤマザキはそのペン先をしっかりと見ていたが、カジノの宣伝と、自社のマシンの宣伝にもなると思ったのかわざと注意をしなかった。

 そして、手続き終了と共に高価なシャンパンが『幸運なカップル』に盛大にふるまわれた。



『ラスベガス・チームセブン』 四月七日



「やっぱり、みんなに話した方がいいだろうな」

 アーノルドから聞いた話が頭をぐるぐると回り、自分の部屋に戻っても俺は全く眠くならなかった。あずさと紫苑は待ち疲れて先に寝てしまったようだ。一人で悩みぬいた結果、とりあえず話す準備だけはしておこうという結論に達した。

 早速アーノルドからジャミング装置を二時間だけという約束で借りてきた。まだ日が昇っていないが、二人を起こしてミーティングルームに集める。本当は逃げ出したいぐらいに気が重かった。

「寝ていたところを申し訳ない。アーノルドと話したことについて二人の意見を聞かせて欲しいんだ。どこから話していいか分からないけど順番に話すよ。まず、今回のビッグミリオンチャレンジの目的はみんなの思っているものとは全く違っていた。もう賞金がどうの、ペナルティがどうのとかいう話じゃない」

 紫苑はソファにもたれ、驚いた目で俺の次の言葉を待っている。あずさは少しの間眠そうに目をこすっていたが、キッチンで人数分の珈琲を入れてきてくれた。香ばしい香りが部屋を包む。

「驚かないで聞いて欲しい。このゲームの目的は、『未知のウイルスを紙幣の流通に乗せて、世界中にばらまくため』だったんだ。主催者が資本金の紙幣に仕込んだらしい。このウイルスは接触感染、つまり、口や粘膜から侵入して人間を死に至らしめる。そう、日々接触している紙幣を介してだ。ただし、俺たち挑戦者が発症することはない。少なくとも今はね」

 心なしか舌を湿らす珈琲も苦く感じた。

「なるほど……それで首のチップか。おかしいと思った。追跡だけが目的なら、時計でも何でもいいんだからね」

 眉をしかめながらも、今の話を二人は受け入れているみたいだ。

「そうだ。この首に埋まっているチップにはワクチンが装填されている。今は発症することは無いが、どうやらこのワクチンには期限があるらしい。この期限が過ぎたら俺たちは……いずれ死ぬだろう」

 あずさと目を合わせるのが怖くて、つい下を向いてしまった。

「ねえ、死ぬって一体どんな病気なの?」

「詳しくは分からないが、聞いた話では急速に脳がスポンジ状になってしまうみたいだ。似たような病気に『変異型クロイツフェルト・ヤコブ病』というのがあるらしい。さらに恐ろしい事に、このウイルスは進化する特性を持ち、やがて空気感染を始めるって話だ。その場合、このチップ内のワクチンは全く効かない。つまり……新しいワクチンを手に入れなければ、同じ結果が待っている」

 勇気を出して顔をあげ答えた。

「そのクロイツフェルト・ヤコブ病ってやつ? どこかで聞いたぞ。そうだ! 昨日ニュースでやってたよ。いま世界中で急激に発生し始めて、交通機関が乱れたり事故が多発しているらしい」

 手元のテレビのリモコンを手に取ると、チャンネルを回し始めた。ちょうど地元のニュースでは、【謎の交通事故が、ここラスベガスでも多発】とテロップが流れている。

「謙介さんが何か元気なかったのはこの話のせいなのね」

 心配そうな目で俺を見つめている。

「それもある。でも、もう一つ話さなければいけない事があるんだ。実は、アーノルドからある取り引きを持ちかけられた。『今夜までにある男のチップを首から取り出して欲しい』と。その報酬は、三百万ドルと新しいワクチンの優先提供だ。もしこの話に乗れば、生き残ることができるうえ確実に金持ちになれるだろう。でもな……。俺たちがベガスにウイルスを撒き散らした事は間違いないんだ。知らなかった事とはいえ人を殺してしまうウイルスを!」

 拳を握りしめて俺はまた下を向いた。

「自分たちだけ助かればいいのかってことね」

 いつの間にか立ち上がったあずさが、背中から腕をまわしてきて俺を柔らかく抱きしめてくる。

「謙介さんさあ、そういう事は一人で悩んでないで、どんどんに叩き起こして相談してくれれば良かったのに。チームなんだぜ? 俺たちは」

 窓からは朝日が差し、それに照らされてテーマパークのような巨大な建物が浮かび上がってくる。紫苑の眼は光の加減か分からないが、心なしか潤んでいるように見えた。

「で、手遅れなのかい?」

「ああ、もう遅い。ワクチンが無い人々はどんどん感染していくだろう。日本にいる俺の両親も、君たちの家族もいずれは感染してしまう可能性が高い」

 この言葉の意味を噛みしめているのか、部屋には重い沈黙が訪れた。

「そっか。じゃあさ、俺たちが今できることをひとつずつ考えようよ。まず、その男の事を詳しく聞かせてくれ」

 紫苑が眉間に皺を寄せながらもついに口火を切る。俺は頷くと、詳しい説明をしながらあずさの腕をそっと引き離し、ありがとうと目で答えると写真をポケットから取り出してテーブルに置いた。

「こいつだ。この男のチップを取り出すということは……結果的には彼は感染して死ぬってことになる。つまり間接的に『人殺し』になってしまうんだ」

 俺のこのつぶやきに部屋の空気が凍りつく。ソファに戻ったあずさは悲しそうな顔をして目を伏せている。

「でもさ、あと二日しかないんだよね。カジノでこれから勝ちまくって例え百万ドル突破したとしても、いずれは発症して俺たちも死んじゃうのか。ただし――この取り引きさえこなせば、新しいワクチンも大金も手に入ると」

 コイツの言いたいことは良く分かる。要は『綺麗ごとを並べていたらチームセブンは全滅する』ってことだ。俺はともかく、あずさを死なせるわけにはいかない。

そう。生きるか、死ぬかの選択をこれからするんだ。

「ね、謙介さんの考えを聞かせて」

「俺もぜひ聞きたいね」

 二人とも不安と期待を込めた眼で、俺の口から出る言葉を待っている。

「決めたよ。――取り引きに乗ろうと思う。でも、これは俺一人でやる。二人はいっさい手を出さないでくれ」

「だめよ! 謙介さんの手が汚れるなら、あたしも同じように汚すわ! 私もチームの一員なのよ」

 これまでの不安が爆発したのか、大粒の涙を撒き散らしながら叫ぶ。小さなこぶしをぎゅっと握りしめながら。

「ちょっと待ってくれ。今考えたんだけど……。わずかだけどまだ選択肢はあるんじゃない? 俺たちにはいま七十五万ドルある。これでカジノを責めてみようよ。今からセブンの力を結集して大勝負するんだ。価値あるものを手に入れるためには『ケタ違いの大金を積む』という方法は昔からあるよね。百万ドル目標なんてケチくさいことを考えずに、持っている金を全てBETしてみよう。コネはもう出来ているんだし、一千万ドル、つまり十億も積めば、ワクチンをヤツから買えるかもしれないじゃん」

 あずさも紫苑のこの案を聞いて頷いている。

「うーん。三百万ドルを自由に動かせるヤツらが金で売ってくれるとは考えにくいけど、それなら少なくとも人を傷つけることは無いな。よし、ワクチンは後で何とかするとして、まずは勝負して大金を作ろう。でも望みが無いって途中で判断したら、俺は取り引きに乗るよ。もし間に合えばだけどな。これはリーダーの最後の頼みだ」

 ずるい考えかもしれないが、チームが生き残るためには保険も必要だった。

「了解。じゃあ俺はそろそろ出国の手配をしとくよ。まあ、ワクチンを手にいれなきゃ帰国しても意味ないけどさ。あ、逃亡プラン用の飛行機の段取りはそのままにしてある。最悪の場合、取り引きの後に使えるだろ」

「ありがとう紫苑。じゃあ大勝負に備えて各自少し休んでくれ。それとあずさ……さっきはありがとな。気持ちがすーっと楽になったよ」

 感謝の気持ちを込めて、少し照れているあずさを見つめる。

「充電できた? 良かった。これでチームセブンはさらに無敵! だよね」

 まだ目は真っ赤だったが、両手でVサインを作って白い歯を出しにかっと笑った。



『イギリス・チーム9』 四月七日



 マイクとジェフ、そして将太はリバプール空港に向かうタクシーの中にいた。

「まあ、こうなると思ってたよ。最終レースはマジで惜しかったけどな」

 マイクは前の席に座っている将太の肩をぽんぽんと叩いた。ジェフは後部座席の八割近くを占領して高らかにいびきをかいている。

「最終コーナーではトップだったんだけどね。あのままゴールすれば、今頃チャレンジクリア&プラスアルファで贅沢三昧だったよね」

 だがその表情は明るく、後悔の色はみじんも無かった。将太にとってここで過ごした数日間は、きっと金銭にも代えがたい大事なものだったたのだろう。

「お客さんも負けちゃったんですか? 私なんて小遣いの二百ポンド全部やられましたよ。ちなみにどれくらい負けたんです?」

 運転手は、斜め後ろのマイクを振り返って聞いた。

「なあに、大したことない。たったの『三十万ポンド』だよ。はっはっは! まあ、人の金だけどな」

 マイクの言葉をジョークだと思ったのか、運転手も一緒にほっほっほと笑う。

その笑い声がうるさかったのか、ジェフが一瞬目を覚まし「ここどこ?」みたいな顔をした。だが、またすぐに雷のようないびきをかき始める。

「ところでショータはいくら懐に入れたんだ? 俺たちは四束ずつ隠してるけど」

 助手席の将太の耳元に口を近づけてささやく。

「え、何のことだい?」

 本当に驚いた顔をしている。この様子を見たマイクは、ここ数日の付き合いから将太が嘘を言っていないことを確信したようだ。

「相変わらず真面目坊やだよな。でもショータのそういう所がキュートだぜ。ほら、黙ってこれポケットにいれとけ。俺とこの騒音野郎は、これから日本観光でもして帰るよ。まだ、スシやゲイシャを食べてないからな」

 札束を二つ取り出すと、ドアと座席の間から将太のポケットに強引にねじ込んだ。

「ありがとう。良かったら日本を案内するよ。でもゲイシャは食べちゃダメだよ」 

 ほのぼのとした空気の中、タクシーはリバプール空港に到着した。ジェフを叩き起こした後、将太がどうしても見たかったという〈リバプール大聖堂〉を見学して帰ることにした。

 リバプール自体がユネスコの世界遺産に登録されていることはもちろんだが、この大聖堂は欧州最大のイギリス国教会であり、ゴシック様式で作られた貴重な建造物である。聖堂内のイギリス最大の巨大なベルや、一万本近くのパイプを使用したパイプオルガンなどが有名だ。

 三人はまるで子供のようにはしゃぎ、帰国前の最後の日を心ゆくまで楽しんだ。

「ふう、もう汗だくだよ。でもあれにも登ってみたいな」

 身体を揺らしながら先頭を陽気に歩くジェフは、いつもよりも元気に見えた。

だが――今〈巨漢〉ジェフの身体の中では、深刻なエラーが起ころうとしていた。普通の成人男性の三倍はある体重と体格のせいで、チップ内のワクチンは異常な消費を身体から強いられていたのだ。

 スタート時、各チームには平均で十五日程度有効なワクチン量が設定されていた。これは十日間のチャレンジには十分な量だ。ただし、主催者側の『チーム8』だけは例外だったが。

 そう、彼のような巨漢の場合は消費が激しく、ワクチンが五日程度しか持たない可能性があった。もちろんこれは主催者側のミスであるが、彼らにとっては“とるに足らない些細な問題”だったのだろう。金をばら撒いた後の『チームの生死など関知しない』という姿勢は、このワクチンの量がはっきり示していた。

 いつもニコニコしながら美味しそうに食事をしているジェフが、いつウイルスに感染してもおかしくない状態になっているのを、誰も、いや本人でさえもまるで気づいていなかった。



『アメリカ・ワシントン』 四月七日



〈沈黙の女王〉エリザベートは、本部最上階直通の暗証番号付きエレベーターの中にいた。

 目指す最上階は組織の代表がいるフロアであり、〈皇帝〉サイモンや〈賢者〉エリックでさえめったにこのエレベーターを使うことを許されていない。だが、組織のナンバー2として信頼を得ている彼女は、最近は頻繁に代表と会っていた。

「気が進まないわね」

 今日はエクスプロージョンの結果報告と、シーズン2の実験報告をする日だった。

 エレベーターのドアが開くと、涼しい空気とアロマの香りが彼女の鼻をくすぐった。この香りが気に入らないのか、鼻をすすって眉をひそめると代表の部屋をノックした。

「入れ」

 中から低いしわがれ声が聞こえる。

「失礼します。お加減はいかがですか?」

 車椅子に座って背中を見せている男は、ゆうに八十歳は超えているように見えた。男は器用に電動車椅子を操作して向きを変え始める。しわしわの手と老人斑が見て取れるが、その眼光は年をとっても見る者を委縮させる力を宿していた。

向かい合う二人の間には「銘木」を使ったデスクが貫録を隠さずに置かれている。バスケットコートほどの広さがあると思われる部屋の中には、価値が想像できないほどの有名な絵画が飾られ、和風の組子屏風が所々に置かれていた。所々に日本テイストが散りばめられているのは、彼が日本人である証ともいえよう。

「ああ、心配いらん。わしが寿命で死ぬ前に一体何人が死ぬのかを想像するだけで、生きる気力が湧いてくるからな」

 日光が老人の背中に当たり顔は良く見えない。だが、刺すような眼光で裸にされていくような感覚が彼女の顔をこわばらせていく。

「では、報告に移らせて頂きます。部下からの報告では『エクスプロージョン』は成功とのことです。ご存じの通り、シーズン1は比較的ゆっくりした進行を見せますが、シーズン2になると実に約百倍のスピードで広がって行きます」

「そんな事は八十年前から分かっておる。実験体には変化はあったのか?」

 老人は電動車椅子を操作してゆっくりエリザベートの背後に回ると、いきなり年齢の割にひきしまった彼女の尻に「がぶり!」と噛みついた。

「つっ! ……いえ、『シーズン3』は非常に危険だと聞かされておりますので、ワクチンの無い現在、研究員も現場で二の足を踏んでいます。もし移行した場合、代表のおっしゃっていた攻撃本能をコントロールするのは実質的に不可能だと思われます」

 尻の肉を噛みちぎられるかのような痛みに、ひたすら歯を食いしばって耐えていた。やがて老人は満足したのか、よだれの糸を引きながら彼女のタイトなスカートから顔を剥がすと、何事も無かったように元の位置に戻って行く。

「まさにこれじゃ。最終段階のシーズン3は受け身ではない。脳がすかすかになる前に人間本来の攻撃本能が目覚めるのだ。老若男女問わずにな。『噛みつけ! 引っ掻け! 目に指を突っ込め!』これらの行動が世界各地で見られる事になる。そして攻撃された傷から感染して、そいつらも周りを無差別に攻撃し始める。空気感染も伴って攻撃するから、まさに一石二鳥じゃな」

 自分から噛みついたくせに“まるで汚い物を噛んでしまったかのように”ミネラルウォーターでうがいをし始めた。

「残念ですが、実験体にはまだ兆候さえありません。このままでは課題をクリアするのはかなり難しいと思われます。研究員の身の安全を守るためには、どうしてもワクチンのサンプルが必要です」

「無能め。しょうがない、わしが何とかしてみよう。ところで、古いあれの保管場所に危険は無いじゃろうな?」

「はい。シーズン2用は例の場所に保管してあります」

 形の良い細い眉をわずかに寄せながら呻く。内出血でもしているのだろうか、さっき噛まれた所が激しく痛む様子だった。奥歯を噛みしめてはいるが決して表情には出さない。もしあからさまに出しでもしたら、この老人は決して彼女を許さないからだ。

「さすが〈沈黙の女王〉じゃな。では、反対の尻も噛まれたくなかったらさっさと行け! 実験体の代謝を限界まで上げて、一刻も早くシーズン3を目覚めさせるのじゃ。そのためには多少の人間は死んでもかまわん」

 皮肉をまぜてそう言うと、もう興味を無くしたかのように時間をかけて背を向けた。

「はい、準備を急がせます。では失礼いたします」

エリザベートはこれ以上無いくらいに頭を下げると部屋を出て行った。しかしうつむいて隠したその顔は般若のような形相をしている。

(やっぱり、代表は何かを隠してるわね。近いうちに暴き出してやる。まあ、今のうちにせいぜい威張っておくがいいわ)

エレベーターのパネルに暗証番号を入力しながら、血がにじむほどに唇を噛みしめた。


 現在のチーム状況


チーム1  アメリカ人二名+ヤン        ×逮捕により失格

チーム2  まゆみ、美香、貴子         ×摘出により失格

チーム3  あつし、ゴリラ、おばあさん     〇ラスベガス

チーム4  リンダ、モヒカン、サラリーマン   〇ラスベガス

チーム5  タイ人二名+日本人一名       ×二名死亡により失格

チーム6  ロシア人二名+日本人一名      ×続行不能

チーム7  謙介、あずさ、紫苑         〇ラスベガス

チーム8  DOLL、ベイブ、アーノルド    ※ラスベガスで特殊任務中

チーム9  マイケル、ジェフ、将太       ×続行不能

チーム10 紅花(ホンファ)他、中国人二名   ×逮捕により失格


※主催者側の『チーム8』はチャレンジ対象外と判断すると、残るはついに三チームとなった。





未来への代償




『ワシントン州立病院』 四月七日



「どんどん運び込まれて来るぞ! 病室が空き次第、順次隔離しろ!」

 裏の搬入口から病院スタッフの掠れた叫び声が聞こえて来る。

 今朝になってから交通事故で運ばれる人数が、通常の十数倍にも達していた。スタッフは身体中汗にまみれ、疲れ切ったその顔はすでに病人と見分けがつかない程だった。

 CDCからの通達により〈伝染病の疑いがると思われる〉ケガ人は、急ごしらえの隔離病棟に搬入されて行く。病院の周りにはマスコミが集まり、エドワード博士らが乗ったバンの通行さえも妨げた。

「通して下さい! CDCです」

 いらいらした表情の運転手がぱぱあんとクラクションを鳴らすが、一向に道は空かない。

「ご覧ください! CDCの車両が見えます。彼らが来たということは、これは伝染病なのでしょうか? 後ほどインタビューしてみたいと思います!」

 興奮顔の黒い肌の女性ニュースキャスターが、人ごみをかき分けてバンの窓を手のひらで激しく叩く。

「なんじゃこの騒ぎは。マスコミの動きが早すぎるじゃろ。とにかく機長がまだ生きているか電話で確認してみてくれ」

 スタッフが車の中から病院にコールする。しかし回線がパンクしているのか、全くつながらない。バンの周りには他のテレビ局のキャスターまで加わり、車内を無遠慮に覗き込んでいる。

 この状況で今降りるのは危険と博士は判断したのか、彼は後部座席に憮然とした表情でふんぞり返っていた。

 五分程するとやっとナースセンターに繋がり、院長に電話をまわしてもらう。

「CDCのエドワードですが、例の機長はご存命ですか?」

 病院内もパニックなのか、看護士の大声とストレッチャーの走る音が電話に飛び込んでくる。

「いえ、残念ながら先ほど亡くなりました。言われた通り、ご家族には感染の可能性があるので連絡はしましたが会わせていません。申し訳ありませんが、地下駐車場からお入り下さい」

 院長の声は疲れ、何か博士を責めているニュアンスも感じられた。もっと早く来いと言う事なのだろうか。電話はスピーカーだったので、車内の若いスタッフがてきぱきと準備を始める。

「よし、地下駐車場につけろ。おいおまえ、防護服を忘れるなよ。サンプルとして機長の遺体と、最新の交通事故のケガ人を確保しろ。家族の了解? 『アメリカ合衆国の命令』と言え! 全員レベル4の装備を着用! 繰り返す、レベル4だ!」

隊長が大声で指示を出す。現実と思えない程の慌ただしさに、博士はふうっとひとつため息をついた。

 マスコミを半ば強引に車でかき分けて地下駐車場に着くと、車の中から血気盛んなスタッフたちが走り出た。オレンジ色の防護服を身に着け続々と病院に入って行く。しかし博士は何故かしばらく車から降りなかった。誰もいないのを確認しているのか、周りをじろりと見回すと自分の携帯電話を手に取る。

「わしじゃ。孫のミリアとドナルドを至急CDC本部に連れてきてくれ。ひそひそ声? いや、この会話を聞かれるとまずいんじゃ。とにかく今すぐに手袋とマスクを用意して、家族全員に装着させろ。一刻を争うぞ」

 ニューハンプシャーにいる娘夫婦と、その孫の安全を守るためにはこの電話がどうしても必要だった。

 この時、専門家の博士でさえも『接触感染のみ』を警戒していた。確かに、このウイルスの本性が明らかになる前までは的確な判断だっただろう。しかし、ウイルスは今まさに劇的な進化を遂げようとしていた。

 そう、『誰も』想像がつかない程のスピードで。



『ジョージワシントン・現在地 特定不能』 四月七日



「母親は?」

 艦長のいるブリッジからブライアンは医務室に艦内電話をかけた。

「今は眠っています。出血は止まりましたので搬出可能です」

角刈りの軍医はペンをくるくる回しながら、後ろのベッドに横たわるまどかを振り返った。今は呼吸も落ち着き、胸にかけた毛布は上下にゆっくりと動いている。

「よし、十五分後にデッキで。ラボに運ぶまで君が付き添ってくれ」

「分かりました。ところで報告書には何と?」

「遭難者を救助し手当てをしたとでも書けばいい。分かっていると思うが、任務を終えたら今日の事は全て忘れるんだ」

 一方的に電話を切り、少し驚いた顔の艦長に向けて少しくずれた敬礼をすると、デッキで待機しているヘリに向かった。

「CIAがデカいツラしやがって」

 副艦長がそっと呟いたが、エアコンと雑多な機械類の音でその声はかき消されてしまった。

 デッキではCH‐53 (シースタリオン)がスタンバイしている。このヘリの航続距離から計算すると、千キロ以内に海軍基地かCIAの支部があるに違いない。

ブライアンはデッキの先端に立ち衛星電話を取りだすと電話をかけ始めた。ブロンドの髪は風に激しくかき乱されているが、バランスのいい体格は少しも揺らいではいない。一羽のカモメが、鋭利な刃物のような戦闘機の上で羽を休めながら、訝しげに彼の姿を見つめている。

「カエラか。いいニュースと悪いニュースがある。手短に? ああ、上手く行ったさ。あの金は私たちの例の口座に振り込んでおく。ところで、『監視チーム』に動きはないか? もしバレそうになっているなら、DOLLとアーノルドには急げと伝えろ。それで分かるはずだ。そして悪いニュースは……〈賢者〉エリックがベガスまで出向くという情報をつかんだ」

 背を丸め、海風に苦労しながらラッキーストライクに火を点けた。

「心配するな。一応胎児は生きて引き渡したからな。家族? 彼女の家族は“まどかという名前の子供がいた事さえ”今ごろ忘れているよ。そろそろ日本もエクスプロージョンに、待て。また連絡する」

 視線を移すと、スタンバイ状態のシースタリオンにまどかが運ばれていく所だった。彼女には軍医が付き添い、ストレッチャーは透明なテントの様な物で厳重に封印されている。

「申し訳ないが、五百万ドルは金塊に替えて私が預かるよ。だが、あの計画にはまだまだ足りないな。混沌とした世界が始まる今からが、私にとってチャンスか」

 独り言を言うと、身体が飛ばされる程のローターの風に逆らいながら颯爽とヘリに乗り込んだ。


 同時刻


 ラスベガスではアーノルドのハッキングにより、リーマンの身分が解明されようとしていた。

 面白いことに、リーマンもアーノルドの情報を同じ時間に分析していた。さながらハッキング対決といったところだ。

 まず先手を取ったのはリーマンだった。CIAの秘密主義には手こずらされたが、CDCの人脈を使って下院議員の口利きを得たのが大きかったようだ。そして、ついに待望の機密コードを手に入れる。彼は数分の差でDOLLとアーノルドの本当の身分を突き止めた。

「やはりCIAか。まあ予想はついていたが」

 漆黒のスーツに袖を通すと、リーマンは早速行動に出た。アーノルドたちの泊まっているホテルなら把握している。フロントを影のようにすり抜け、スイートルームのドアをノックする。だがちょうどその時、アーノルドもリーマンの身分を少しだけ遅れたが特定していた。

「どうぞ」

 この訪問を知っていたという表情で、DOLLがドアをゆっくりと開く。そしてリーマンが反射的に懐に手を入れた瞬間!

 彼女の手には魔法のように銀色の拳銃が現れた。そして瞬きをするほどの速さで銃口をリーマンの額に擦りつける。

 だがリーマンも負けてはいない。その美しく整った彼女の眉に、鈍く光る銃口を同時に突き付けた。

 そう、ボクシングで言うクロスカウンターの様に、いま二人の腕は交差していた。その姿は生と死を表す彫刻のように美しくもあった。

 ぱんっ! ぱんっ! ぱんっ!

 突然――大きな拍手が二人の耳に聞こえて来る。拍手をしているのは〈ガリガリ〉アーノルドだ。

「はい、そこまで。所属は違っても同じ国を愛する者同士だろ?」

 まだ睨み合っている二人に近づくと、両手をそれぞれの腕に添え、ゆっくりと降ろさせた。

「CDC上部機関の、保健福祉省さんは銃まで持たせるの?」

 DOLLは両手を広げてソファにもたれると、やっと笑顔を見せる。

「私は特別でね。何しろ時間がないんだ。君たちも知っていると思うが、今回は世界的なパンデミックに発展する可能性が高い」

 リーマンも肩の力が抜けたように銃に安全装置をかけ、脇のホルスターにしまった。

「驚いたよね。時間が無いのにCIAとCDCが、偶然ベガスに休暇で来ちゃったって?」

 アーノルドが場を和ませようとジョークを言ったが、もちろん誰も笑わなかった。肩を竦めると二人に椅子を勧め、飲み物を用意するためかキッチンに消えていく。

「情報はそちらの方が多いようだね。我々CDCはハッキリ言うと出遅れている。世界でいち早く病原体を管理すべき組織なのに、だ。ところで君たちは、ビッグミリオンに潜り込んで何が分かったんだ?」

 椅子から身体を乗り出すようにして質問する。

「こうなったら互い隠してもメリットはないわね。でも、私たちの身分は他言無用よ。実はね――ビッグミリオンはひとことで言うと『カルト集団』なのよ。太平洋戦争時代の亡霊が今も元気に蠢いているわ。恐ろしい事に、あの731部隊の生き残りも関与しているらしいの。代表は日本人って噂だけれど、私たちのレベルじゃ顔さえまともに見た事はないわ。私の兄が組織の幹部と接触しているけど、『シーズン2のワクチンを手に入れるのは難しいだろう』って言ってる」

「シーズン2とは?」

 眉をしかめて、更に身を乗り出す。

「シーズン1は接触感染。これは分かるわね? シーズン2はそれに加え空気感染も伴うのよ。私たちの首に埋まっているチップのワクチンはシーズン1用なの。でも問題はそこじゃない。いい? 良く聞いてね。“このウイルスは、自分でその特性を変化させる事ができる”のよ」

「はっ、バカな。空気感染なんかしだしたら、合衆国大統領でさえ口の中にあるキャンディを舐めていることを忘れるぞ。ところで、なぜ君たちは知っていたのにすぐこの計画を止められなかったんだ? CIAは無能揃いか!」

 リーマンのこめかみには血管が浮かび、眼には凶暴な光が灯った。

「ちょっと、酷い言い方ね。このカルト集団に潜り込むのにどれだけ兄と私たちが苦労したと思うの? 戸籍も指紋も別人のを用意して整形までしたのよ。そして入社したら……これ見て」

 DOLLの肩には『STU』と書いたタトゥーが掘られていた。キッチンでは、アーノルドも袖を捲り上げ同じタトゥーを見せながら唇を突きだしている。

「上層部は隠しているけど、ラテン語で【Septem・Tres・Unus】の頭文字を取っているの。意味は『731』よ。ビッグミリオンの社員には全てこの刺青が入っているわ。まあ、本当の意味を知っている人はほんの僅かでしょうけど。何よりも、給料は相当に良いけど、社員全員に刺青を強制する会社なんてろくなもんじゃないわね」

 女性のDOLLにとって、自分が望まない刺青を入れられる事は想像以上に辛かったのだろう。乱暴にドレスの袖を降ろすと軽く舌打ちをした。

「ということは731部隊の生き残りか、その意志を継ぐ者によってビッグミリオンは運営されているという事なのか?」

 目を丸くして驚くと、ポケットから電子メモ張を取りだし何かを打ち込み始めた。

「それを探るのも私たちの任務よ。これからCDCでのあなたの任務も……険しくなっていくはず」

 DOLLが『も』に力を入れたことに違和感を感じたのか、リーマンはふと手を止め顔を上げた。

「これはまだ未確認情報だけど、兄のブライアンが幹部に上手に取り入って聞いた話では『シーズン3』への進化もあるかもしれないのよ。私たちの任務のひとつはワクチンを手に入れる事だったけれど、それはシーズン2までの話だわ。……このウイルスが次にどのような進化をするかは、ほんの一握りの幹部しか知らないのよ」

 よほど兄の任務のやり方が気に入らないのか、今度は『上手に』という単語に何か憎しみを込めている言いかただった。

「なるほど。いま分かっていることは、まだこれは始まりに過ぎない――と。これは私の番号だ。こちらも何か分かったら連絡する」

 音もなく椅子から立ち上がると、紅茶のおかわりを入れているアーノルドに軽く手を上げ部屋を出て行った。

「ねえ、これで良かったのかしら? もしCDCがこの情報を元に表立って動きだしたら、きっと予想以上のパニックになる。例え兄の作戦が成功して新ワクチンが出来ても、彼には行きとどかないわ。真面目な人みたいだから何か、ね」

「そうですね。彼には気の毒ですが。しかし我々の身分が晒された今となっては、組織同士の垣根を超える時期だはと思います。どっちにしても感染は広がる一方なので、このリークがこの先問題になることも無いでしょう。まあ――シーズン2が思ったより早く発動した場合は、逆にパニックにもならないでしょうから」

「……そうね。誰もが、自分が何をするべきかを『忘れてしまう』わね」

 ため息をつきながら冷たくなった拳銃をつまみあげると、テーブルの上にことんと置いた。


『ラスベガス・チーム4』 四月七日



「リーマンさんはまだ戻っていないみたいだな。早く知らせたいのに」

 モヒカンとリンダは手にそれぞれ一枚ずつ小切手を持っていた。彼の手には普通の大きさの小切手が握られていたが、リンダの抱えているのは〈バカげた大きさの小切手〉だった。

「ねえ、このデカい小切手ってさ、もう要らないんじゃないの?」

 部屋の壁にそれを立てかけながら口を尖らせる。エレベータに乗せる時に相当苦労したのだろう、大きな小切手は真ん中に折り目が入っていた。

「要るってば。リーマンさんを驚かすのには効果的だろ?」

 革張りの椅子にふんぞり返ると、シャンデリアに透かすように手元の小切手を確認しながらにこにこしている。

「しっかし、残り五百ドルからの大逆転かあ。ベガスってこんなアメリカンドリームみたいな事が本当に起こるんだなあ」

 書き込まれている千四百万ドルの数字を指でなぞりながら、しみじみとつぶやく。

「まあ、あたしのおかげでもあるわよね。感謝してね」

 緊張が解けてきたのか、リンダの口元も自然に緩んできていた。突然、その雰囲気を更に祝福するかのような音で内線電話が鳴り響いた。

「はい。え、インタビュー? いえ、間に合ってます。契約書にサインしてある? ……はい。分かりました」

 リンダは顎に手を当てたまま、少し驚いた様子で電話を切った。

「あんたマスコミのインタビューを受けるって契約書にサインした覚えある?」

 あきれた様子でモヒカンを睨む。

「うーん。ヤマザキさんに言われるがままにサインしたから、もしかしたらイエスにチェック入れたのかも」

 自信がなさそうに、あきれ顔をしているリンダを小さな眼で見上げている。

「一時間後にまたカジノまで来いって言ってたわよ。あと、それも持って来てくれって」

 彼女の目線の先にあるのは先ほど立てかけた〈折り目のついた小切手〉だった。

「仕方ないわねえ。シャワーを浴びて着替えるわ。あ、そうだ! ひとつ忠告しとくわよ。あんたあの茶色のジャケットだけはやめなさい」

 笑いながらそういうと、スパンコールの付いた黒いドレスをその場でいきなり脱ぎ始めた。

「おい、時間が無いのは分かるけど、ここで脱ぐなよ! 分かったよ。ちょっとジャケット買いに行ってくる」

 小切手を大事そうに胸のポケットにしまうと、モヒカンはふかふかの絨毯を踏みしめながら部屋を出て行った。

 一時間後、眩しい照明に浮かんだ二人は、注文されたとおりの笑顔を苦労しながらも作っていた。

 そのインタビューでは「お金は何に使いますか?」、「当たる予感はしましたか? 何ドル使ってジャックポットを引き当てたんですか?」などの質問が矢継ぎ早に飛んでいた。

「さ、最初の一回転で当たったんで予感も何もありません」

 ひきつった顔でモヒカンは答えるが、彼の顔は明らかにもう帰りたそうだ。

何を考えて購入したのか、彼の着ているジャケットの色は目の覚めるようなローズ・レッドで、その姿はまるでいんちきマジシャンのようだ。通訳を通して最初は丁寧に答えていたが、後半はもう面倒くさくなったのか「イエース!」しか言わなくなっていた。

 その会場には地元のテレビ局と新聞社も来ており、二人のひきつった顔はその日のローカルニュースと同時に、ネットでも映像が流れた。さらに、部屋に帰ってからもモヒカンたちの試練は続く。

「おい! 近藤おまえマジか? 俺? サトルだよ。おまえの顔が今ネットで流れてるぞ。日本に帰って来たら俺らに借りた金を千倍にして返せよ。つーか、ハコ借り切って毎日パーティーしようぜ!」

 さっきからモヒカンの携帯電話は鳴りっぱなしだ。

恐ろしい事にネットに映像が流れてからすぐに、友人を始め家族、親戚、学校の先生、しまいには今まで会ったことない人たちからひっきりなしに電話が掛かってくる。

「ねえさん。……俺、もう日本に帰りたくねえよお」

 モヒカンは乱暴に携帯の電源を切ると、ソファにぽいっと投げた。あのインタビューが終わってまだ二時間しか経っていない。

「怖いわよねえ。宝くじを当てて人生が狂っちゃう人の気持ちが分かるわね。私の携帯もずっと鳴りっぱなしよ。しまいには寄付だのなんだのって。いったいどこで番号を調べたのかしら」

 うんざりした様子でテーブルに突っ伏す。

「ふあーあ。リーマンさんに電話してさあ、事情を話そうよ。きっと彼なら一番いい方法を考えてくれるはずだよ」

 あくびが混ざり、言葉尻が怪しくなってきている。彼はもう相当疲れているようだ。

「そうね。そろそろ帰って来てもいいはずだけど。彼が戻ってきたらみんなでミーティングしましょ」

 返事が無いので振り向くと、モヒカンはすでに静かな寝息をたてていた。その手にはしっかりと超高額の小切手が握られ、いい夢でも見ているのか口元はとても幸せそうに微笑んでいた。



 モヒカンたちがインタビューを受けている頃、スイートルームのソファにふんぞり返ってニュースを見ているあつしがいた。その口は、洋梨が入るほどに開いたまま固まっている。じりじりと煙草の火が指を焦がしはじめてやっと我に返る。

「おーい、ちょっとこれ見てみろよ」

 大声でゴリラを呼ぶと、にやにやしながらリモコンのボリュームを上げた。

「彼らが一夜にして億万長者になった日本人です! まさにアメリカンドリーム! 今夜当たる予感はしていましたか?」

 女性アナウンサーにマイクの束を突き付けられたモヒカンがひきつった顔で立っている。カメラが引くと、その横に何とも言えない顔をしたリンダの姿も見えた。

真っ赤なジャケットを着て額に汗を浮かべながら答えるペテン師みたいな男は、とんでもない額が書かれた大きな小切手をリンダと一緒に持たされていた。

「いちじゅうひゃく……はあ? 日本円で十四億円かよ! あいつらやりましたね。ベガスめ、ざまあみろだ!」

 ゴリラはまるで自分の事のように喜びながら、拳を握って咆哮する。

「まてまて、ゴリラくん。あいつ等がこの後賞金をどうするか想像できるか?」

 冷静な顔になったあつしは、自分のこめかみをとんとんと叩いた。

「え? 余裕でチャレンジクリアできるじゃないですか。ひとりアタマ一億……あっ!」

「分かったか? 十四億を日本に持って帰ったら、税金を差っ引かれても八億は残るだろ。山分けしたらひとり三億弱は手に入るはずだ。ただ、ルールを考えたらそれを主催者に没収される可能性も捨てきれない。では、どうするか。このバカどもは頭が回らねえだろうが、あのリーマンは違う。あいつは絶対逃げる方向で何か考えているはずだ」

 まさか、リーマンがCDCのエージェントだとはこの時想像すらつかなかっただろう。しかし、これまで生きてきた世界のカンなのか、その身のこなしなどから彼が只者ではないとは感じていたようだ。

「ですね。ビッグミリオンが種銭を出してるんだから、それぞれに一億だけ渡してあとは没収って筋書も当然ありえますね。それじゃあジャックポットを当てた割には取り分が少なすぎる」

「だろ? 俺だったら、日本に帰ることをきっぱり諦めてメキシコあたりに逃げるが。しかし、何だってこのバカどもはテレビのインタビューなんて受けたんだ? デメリットしかねえじゃねえか」

 首をかしげながら煙草をもみ消すと、視線を宙に浮かせる。

「たぶん舞い上がっちゃったんじゃないですかね。そんな高額見せられたら、俺でもパニックになりますよ」

「待て。……俺たちのオークション計画がツブされたいま、これは天が俺たちに与えたチャンスかもしれないぞ。あいつらに俺たちが今掴んでいるこの情報を話したら、さすがに取り引きに乗るんじゃねえか」

 したり顔でテーブルの上の報告書をつまむ。

 研究所からあがってきた報告書によると、紙幣には未知のウイルスが塗布されている可能性が示唆されていた。もちろんウイルスの属性は不明だったが、考えられる感染経路やこのウイルスに対する『効果的だと思われる』対処法も書かれている。

「俺たちに埋まっているチップとこのウイルスには絶対に関係があるはずだ。ここに書かれている通りこのウイルスはな、分かりやすく説明すると『伝染病』なんだ。エイズみたいなもんだよ」

 それを聞いたゴリラの顔から、だんだん血の気が引いていくのが分かる。

「じゃ、じゃあ俺たちって伝染病を広めていたってことですか? エイズの末路って確か……」

 大きい身体をしている割にはその身体は小刻みに震えていた。

「バカ、落ち着けよ。だからこのチップにはワクチンか何かが入ってるんだよ。それが今だけは俺たちを守ってくれている。要は、ミツバチが死んだら花粉をばら撒けなくなっちまうってこった。ただ、このワクチンがいつまで持つかは……神のみぞ知るだな」

 報告書を再び封筒に戻すと、腕を組んで考え始めた。

「よーし、これからすぐに動くぞ。今資金はいくらある? この情報を元に奴らと取り引きしよう。俺は同じ研究所に頼んでワクチンを作らせる。口止め料はまたかかるだろうがな」

 ゴリラはあわてて頷くと、金庫の現金を全て引っ張り出し数えはじめた。あつしたちはまだ知らなかったが、この紙幣を調べさせた研究所の所員は――全員が既に感染し発症していた。そう、前回の追加の口止め料一万ドルは結局必要なかったのだ。

「約四十二万ドルです。オークションの準備でだいぶ使ってしまいましたね」

「じゃあ、おばあちゃんの分まで頑張らなきゃな。支度しろ、奴らに会いにいく」

 あつしは報告書を持って立ちあがると、黒いスーツを身に着ける。どこで手に入れたか分からないが、その腰には黒光りする拳銃が挟まっていた。



 一方、リンダたちがいる部屋ではドアが荒々しくノックされていた。モヒカンにつられて机に突っ伏したまま眠ってしまったリンダはその音で目を覚ます。

「ったく、うるさいわね。またマスコミかしら」

 白いクローゼットの扉を開け、髪の毛を直すとドアを開ける。

「よお、久しぶり! ってこないだ会ったな。この度はおめでとう。例のニュース見たぜ」

 あつしがシャンパンを持ってニヤニヤしながら立っていた。その後ろには頭ひとつデカいゴリラの顔も見える。

「何でこの部屋が分かったのよ。今取り込み中だから帰ってくれない?」

 冷たく言い放つと下唇を突きだす。こいつらがわざわざ訪ねて来るって事は、何か良からぬ事を考えているに違いないと思っているようだ。

「以前、このホテルに入るのをたまたま見かけたからね。まあとにかく入れてくれ。悪い話じゃない」

 勝手にミニバーまで歩くとワインクーラーに氷を入れる。一応、爽やかな笑顔を見せていたが、その眼は部屋の隅々まですばやく見廻していた。

「そこでイビキをかいているのはモヒカンくんかな? リーマンはどうした?」

「しばらく帰って来てないわ。こっちが聞きたいくらいよ。ところであなた達なんの用? また騙そうったってそうはいかないわよ」

 スタート日の怒りが蘇ったのか、顔は少し紅潮してこめかみに血管が浮かびだした。

「とんでもない! 今日はお祝いを言いに来ただけだ。と、言いたいところだが君たちにとって大事な情報を持ってきたんだ。いいか? 単刀直入に言うと、このままでは俺たちの命は非常にヤバい」

「しんじゃうんだぞー!」

 口に手をあててゴリラが小さい声で後ろから煽る。

「てめえはだまってろ! おい姉ちゃん、ここからは真面目に聞けよ。実は俺たちに持たされた資本金の紙幣は、ウイルスで汚染されていたんだ。あんたも! 俺も! そうとも知らずにこのウイルスをベガス中に撒き散らしていたんだ。分かるか?」

 ゴリラはいきなり怒鳴られて、しゅんっとして下を向いている。そして部屋の空気もその瞬間からだんだんと険悪になっていく。 

「へーえ。本当なら怖い話だわね。でも私たちこの通りピンピンしてるじゃない。何か証拠でもあるの?」

「疑うんなら、これを見てみろ。おまえらの命にも関わる情報だからしっかり読めよ」

 椅子に座れという風に顎を突き出すと、自分も革張りのソファにどかっと座った。目の前ではモヒカンが何も知らずにのんきにイビキをかいている。

リンダはモヒカンの足を重そうにどけると、隣に座り報告書に目を通し始めた。

「これって? ――現実の事なの? 信じられない。私たち紙幣にべたべた触っちゃったし、空港やレストランとかでも気前よく現金を使っちゃったわよ!」

 読み終わったその顔は紙のように真っ白だ。

「現実だよ。今は俺たちの首に埋まっているチップの中のワクチンが、症状が出るのを押さえているんだと思う。そして、このワクチンの効果がどれくらい続くかは……」 

「約、二週間だ。よくそこまで調べたね」

 その声に全員が振り向くといつの間にかリーマンが壁にもたれて立っていた。ゴリラは一瞬リーマンを睨んだが、その精悍な姿を見て目を逸らす。その男はもうエージェントの風格を隠そうともしていなかった。

「よう、元気だったか? おいおい、その脇の下の膨らみは何だ? まさか拳銃じゃねえだろうな」

 ニヤっと笑いながらもあつしはいつでも立てるように浅く座り直した。

「まさか。とりあえず君たち、ジャックポットおめでとう! あれから負けっぱなしで私の資金もそろそろ無くなる所だったよ」

 笑顔でリンダに親指を立てると、ミニバーの椅子をひとつ手に取り『奇妙な会合』に自分の席を作った。

「さて、リンダくん。残念ながら、この人たちが言っていることはほぼ正解だ。我々は既に感染している可能性が高いと言える。しかし、ワクチンがそれを食い止めているうちは発症しない」

 悲しい顔を作りながらリーマンは淡々と話し出した。

「えっ! じゃ、じゃあ二週間って言ったわよね? それが過ぎるとまさか……」

「ああ。機長がいきなり記憶を無くしたってニュースを見たか? そう、あれがこの病気の症状なんだよ。自分の過去、恋人や友達の記憶はおろか両親の顔さえも忘れてしまう。それも短期間にね」

 最近のニュースで、ここにいる誰もが機長の奇行を耳にしていた。

「なるほどなあ。感染は思ったよりも広がっているってことか。で、あんたは何者なんだよ。まずそれから説明してくれ」

 あつしは挑戦的な鋭い眼光でリーマンを睨み付けていた。対立しているヤクザにさえ、そんな眼はしなかっただろう。ただ、その腰に挟んだ拳銃のせいか、少々座り心地が悪そうに見える。

「いいだろう。私は、アメリカ政府から派遣されたエージェントだ。今回のこのチャレンジに強引に参加させてもらった。もちろん、このウイルスを調べるためにだ。その為には少々乱暴な手段もとることもある。そうだ、そこのゴリラくん。こないだは蹴ってしまって本当に悪かった」

 ゴリラに向かって軽く頭を下げた。つられてゴリラも神妙な顔をして頭を下げる。

「じゃああれか? うちのチームのおばあちゃんが殺されたのも、それに何か関係があるのか?」

「さあ……それは分からないな。いま分かってることは、私が身分を明かしたこの瞬間から君たちにも協力してもらわなければならないって事だ。異議は認めない」

 おばあちゃんの話を出された時に一瞬だけ目をそらしたが、最後まで低い声で威圧的に答えた。

「なんだよ、それは脅迫か? じゃあ協力すれば、俺たちの命は助かるのか?」

 不安な顔をしてゴリラが発言した。

「我々が合同チームを作って協力しあえば、もしかしたら助かる可能性はある。金はかかるかもしれないが、資金は……そこで寝ているモヒカンくんが握りしめているじゃないか。ただ、その為にはCIAを出し抜かなければならないが」

「はあああああ?」

 全員が口をぽかーんと開ける。ただ、モヒカンだけはリンダに足を強引にどかされたためか、エビのような体勢でまだイビキをかいていたが。

 話し合いが終わるとリーマンがリーダーとなり、今日この場でチーム3とチーム4の『奇妙な合同チーム』が発足した。


 その頃、CIAサイドも動いていた。DOLLとアーノルドは『チームセブン』が仲間になると確信していた。情報では、今夜〈ミスターパーフェクト〉ゴールドマンが謙介たちと大勝負を行うらしいのだ。

 素人同然の彼らがこの勝負に勝てるはずがない。なぜなら無敗の男に土をつけることなど不可能だからだ。過去“非公式の数々の勝負”でも、このゴールドマンは一度たりも負けたことが無かったからだ。

「今夜の勝負でセブンが負けたら、きっとこちらに泣きついて来ますよ」

 アーノルドは、バスローブを着たまま爪を磨いているDOLLを見た。ボディーソープの匂いであろうか、バラの香りがあたりに立ちこめている。

「そうね。万が一勝ったとしてもチームメイトの命を助けたければ、あの謙介という男は必ず来るわ。どっちにしてもベイブから目を離しちゃダメよ」

「手は打ってあります。ベイブの靴に念のため発信機を仕込んでおきました。後はヤツらにまかせて、我々はアリバイを作るだけです。あと……〈賢者〉エリックがこちらに向かっているという情報は、残念ながら確かなようです」

 あの冷酷な眼を思い出したのか、軽く身震いした。

「エリックちゃんねえ。確かにあの男の頭脳と冷酷さは侮れないわね。そうね、あなたは何も知らないフリをして出迎えてあげなさい。とにかく今、世界中のマスコミがこの病気に注目し始めているわ。あのウイルスがたっぷり付着した『ダーティーなタオル』も、世界各地で効果を発揮しだしたって事ね」

 髪の毛を包んでいるタオルを思い出したように解くと、テーブルの携帯を持ち上げる。

「兄さん? あ、た、し。エリックが明朝にベガスに着くわ。いいえ、殺し屋はまだ見ていないわ。ええ、分かってるってば。兄さんもそろそろ横浜に戻らないと誰かに怪しまれるわよ。うん、CDCの件はまかせといて。じゃあね」

 DOLLは上機嫌で電話を切った。ブライアンの声を聞けた事が嬉しかったのか、電話を切ってもしばらくその口元は緩んでいた。

「余計な事かもしれないけど、そろそろ兄さん離れして恋人でも作ったらどうなんです?」

 彼女がご機嫌なのをいいことに軽口を叩く。

「うるさいわね! 兄さんよりいい男がいたらとっくにそうしてるわよ!」

 彼女のブラザーコンプレックスは、アーノルドが真剣に忠告する程のレベルのようだ。

「ところで、もしCIAがシーズン2にも効果があるワクチンを作れなかったら、事は複雑になりますね」

「手は打ったって兄さんは言ってたわ。きっとエリザベートから内密に提供されるんでしょう。私たちまでそのワクチンが回って来るかは分からないけれど、それを独り占めするような事はしないわ。――そういう人だから、兄さんって」

 さっきの電話の余韻を追いかけるような眼をして、テーブルの携帯を見つめている。

「あのブライアンが手を打ったって言ったなら、きっと何とかなるはずですよ。ただ、ウイルスの進化が予想以上に早かった場合は、組織内はおろか一般市民に新ワクチンを配るのは不可能です。自分勝手な考えですが、我々の命が助かるためにはここからは情報規制をするべきだと思います」

 彼女を慰めるような声のトーンだった。だが後半は力を込めてキッパリと言い切った。

「……その通りね。あのCDCのエージェントには適当な事を言っといて。しょせん『世界の全ての人を救う』なんて事は絵空事よね」

 ふうっとため息をつき立ち上がると、今夜の大勝負を見学するためのドレスを選び始めた。クローゼットには高価なドレスが色鉛筆のように並んでいる。

「では、セブンとの協力体制を作ってけん制させます。ひとつ聞いておきたいんですが、もし新ワクチンを手に入れたら、セブンの彼らにも与えるつもりですか?」

 バスローブをはだけた彼女の美しい背中に見惚れながら、掠れたような声で聞く。

「余裕があったらね」

 背中を向けてクローゼットから赤いドレスを選び出すと、身体に当てたまま首を傾げた。

 

 同じ頃、『チーム9』は帰路の飛行機の中にいた。

「帰りはせめてファーストクラスにしてくれ」とマイクが言って聞かないため、将太はしぶしぶファーストクラスを予約した。身体のデカいジェフは二席を占領するので、実質四人分の航空料金を支払う事になる。

「しかし、あっという間だったなあ。今回の旅で一番良かった事は、君やジェフとこうして知り合えた事だよ」

 腕を組みうんうんと頷きながら、将太は隣で雑誌を読んでいるマイクをつつく。

「そうだな。俺も東洋人のおチビさんと知り合えて良かった。ステイツに帰ってもショータの事は忘れないよ。俺も今回の旅で分かった事がある。人の金を使いまくるって責任が無くて気分がいいと思っていたけど、やはり自分の金じゃないと何かこう、気持ちがこもらないよな」

 ふしくれだった指で雑誌を戻すと、ぐっと背伸びをした。成田に到着するまでまだまだ時間がかかりそうだ。

 その時、窓側の二席を占領していたジェフが、寝返りをうった拍子にぱかっと目を開けた。

「う~ん。なあ、メシはまだか? 俺、腹減ったよ」

 起きるなりこの発言だ。将太とマイクは顔を見合わせてくすくす笑った。

「三十分前に食べただろ? ショータのデザートも横取りしてたじゃないか。昨日からおまえは寝てるか食うかだな」

 通路に身を乗り出すようにして、女性の胴回りもありそうなジェフの太ももを軽くこづく。

「食べたっけ? ……それはそうと、この電車はまだイギリスに着かないのか?」

 不思議そうな顔をしながらきょろきょろ周りを見回している。

「おいおい、寝ぼけてんのか? もう俺たちはすっからかんになって飛行機の中だよ。今は日本に向かっているところだ」

「にっぽん?」

「まだ寝ぼけてやがる。デカい図体してるくせに子供みたいなヤツだなあ」

 しかし、次の言葉に二人はおろか近くの乗客も一斉に凍りつく。

「寝ぼけてなんかいねえよ、バカにしやがって! 馴れ馴れしく話しかけるんじゃねえ! 大体おまえら誰なんだよ!」

 その眼は真剣で、冗談を言ってるようには見えない。憎しみというより、不安の色が濃く伺える。

 突然の大声にファーストクラスの乗客の視線が一斉にジェフに集まった。気配を消す様にして最前列のスーツ姿の男が急に立ち上がり、いぶかしげな視線をこちらに向けながら客室を出て行くのが見える。たぶんCAを呼びに行ったのだろう。

「ガアアアアアア!」

 恐竜のような男が力の限り暴れ出し、椅子がぎしぎしと軋む。

まず将太が自分に掛けていた毛布をはぎ取ると、暴れ続けるジェフの身体に飛び掛かった。よく見るとジェフのその姿は、まるで子供が駄々をこねているようだ。当然だが、将太クラスの体重ではとても彼を抑え切れるものではない。瞬く間に吹っ飛ばされて行く。次にマイクと他の乗客が力を合わせて、前の座席から暴れるジェフに一斉に飛び掛かって行く。

「お客様! どうなされましたか?」

 四人のCAがマニュアル通りの笑顔で駆けつけたが、二百キロ近いジェフの巨体がタコのように蠢いているのを見ると、さすがにその顔はひきつって腰が引けていた。

「一体どうしちまったんだよ! 俺だよジェフ! 正気に戻ってくれ!」

 歯を食いしばりながらマイクが叫ぶ。取り押さえるのに協力している体格のいい若者の顔からは鼻血が噴き出していた。マイクは拳が当たるのもかまわず懸命に体重をかけ更に押さえつける。

「マミー?」

 最後に空中に向かって問いかけると、ついにジェフの黒目は上の瞼に隠れた。口からは大量の泡を吹き、頭を掻きむしったせいかその手は血まみれであった。押さえつけた勇者たちもどこかしらケガをしてうずくまっている。

「通して下さい! 私は医者です!」

 緊急機内放送で呼ばれたのか、医者と名乗る若い女性が近づいて来た。彼女の為に乗客は協力して道を開けた。

「こいつ、親友なんですよ。急に俺の顔を忘れたみたいなんです。どうか助けてやって下さい!」

 眼を真っ赤にしたマイクは医者に説明しながら、袖で涙を拭いていた。兄弟同然に過ごしてきた親友が、突然自分の事を忘れてしまったのだから無理もない。

「忘れた? 親友であるあなたの顔を忘れたのね? 今まで何か兆候はあったの?」

 首の脈を看ながら振り返り、マイクに優しく聞き直す。しかし、彼女の顔は何故か少しひきつっていた。

「いえ、今日までは、いや何年も一緒でしたがこんな事は初めてです。こいつが俺の顔を忘れるなんでありえません!」

「それはこの機内の人にとってすごく悪いニュースね。……すみません! 機内電話をお借りできますか? あと、この急病人に触った方は手をしっかり洗ったあと、必ずうがいをして下さい。洗う前は目を擦らず、念のため口にも触らないように!」

 何か大事な事を思い出したかのように女性医師は大声で指示を出した。その切迫した表情に『ただ事ではない』と感じた乗客たちは我先にとトイレへ殺到する。

「いったい――こいつに何が起こったんですか?」

 電話のありかを聞いてCAに案内されて行く彼女を、マイクはとっさに呼び止める。

「はっきり断言はできないけれど、伝染病の可能性があるわ。あなた、ニュースを見てないの?」

そう言い残すと、彼女はぱたぱたと走っていった。その後は意外なほど静かな時が流れる。

 それもそのはずだ。

 マイクと将太の周りはおろか、この客室から乗客の姿がみごとに『消えて』いたのだから。




The die is cast(サイは投げられた)




『ラスベガス・チームセブン』 四月七日 夜



「さあ、行こうか!」

「いよいよだね」

「負けないわよ!」

 俺は顔をぱんっと両手で叩くと黒いタキシードを肩に掛けドアを開ける。白いスーツでキメている紫苑に目をやると、それが似合いすぎて全く嫌味を感じさせない。その後ろには赤いシルク生地にスパンコールを散りばめたドレスを着たあずさが続く。胸元と対照的にざっくりと開いた背中は雪のように白く艶めかしい。

 少し前まで俺たちは、まだ今夜の勝負の舞台を決めかねていた。その時、部屋のドアを控え目にノックしたのはゴールドマンの使いであった。彼は獲物を釣り上げる時の、漁師のような眼をしながら次のような伝言を持って来ていた。

「失礼します。では、ゴールドマンからの伝言を伝えます。『君たちは逃げても一向に構わないが、日本のサムライなら私が待つ運命のドアを開けたまえ。もし君たち勝てば、今までの君たちの不正は不問とする』――以上です」

「なあんだ。とっくにバレてたのね」

 あっけらかんとした顔をしながらあずさはころころと笑った。

「ったく。サムライって言葉を出されたら、日本人として勝負しないわけにはいかないよな?」

 紫苑の言葉に俺たちは同意して頷いた。まさか、さかのぼって勝ち金を没収される事は無いと思うが、こんなアプローチをされたら背中を見せる訳にはいかない。ゴールドマンにまんまと乗せられたような気もするが、まあ、どちらにしろ俺たちは、もうこの話に乗るしかチャンスはなかった。そして話し合いの結果、今夜MGMグランドのVIPルームで勝負を行うことに決まった。

 俺たちが到着するとすぐに、伝説の勝負を一目見ようと集まって来たギャラリーが一斉に好奇の混ざった視線を向けてきた。部屋の中は熱気にあふれ、皆これから起こる何かに期待しているようだ。

 向こうの準備も万端で、この部屋は貸し切りになっているようだ。その証拠に整然と並んだルーレットやバカラテーブル、ブラックジャックテーブルの周りにはロープが張られ、誰も近づけないようになっていた。

 取り囲んでいる人々の中には、顔見知りのディーラーも混ざっていて「がんばれよ!」と次々に声を掛けてくる。手を挙げてそれに答えながら『セブン』に用意された椅子に座ると、後はゴールドマンの登場を待つだけとなった。

「レディース&ジェントルメン! 今宵素晴らしいサプライズがあると呼ばれてみたら、いきなり司会兼ジャッジメントを任されました、このホテルの支配人のトッド・アクスチャーです。先に言っておきますが、このカジノのVIPルーム貸し切りなど言語道断の大きな損失です。しかし……悔しいですが私はこのような勝負は嫌いではありません。皆さまと同じでこの勝負を見届けたいのです。――では〈ミスターパーフェクト〉ゴールドマンの登場です!」

 会場が揺れるほどのほどの拍手が起こった。何故かロッキーのテーマが会場中に鳴り響く

 両手を上げてスポットライトを浴びながら登場したのは、ショーン・コネリーそっくりの大柄な男だった。白い髭を蓄えたその風格は見る者を圧倒させる。優雅なしぐさで、支配人から渡された金色のマイクを握ると低く男らしい声で話し出した。

「みなさん、こんばんは。〈ミスターパーフェクト〉ことゴールドマンです。風の噂によると彼らはクールで“とてもいたずら好きな”ギャンブラーと聞いております。実は私も今日の勝負を非常に楽しみにしていました。ところで、皆さまは今まで私と勝負した人の末路を知っていますか? そう、彼らは例外なく無一文になり、裸同然でベガスを去って行きました。おっと! そこのお嬢ちゃん、今夜は厚着をしてきたかな?」

 あずさを指さすと、慣れた様子でウインクをぶつける。それを見て会場がどっと笑い出す。そう、覚悟はしていたが、ここは完全なアウェイなのだ。

視線が集まった事による恥ずかしさからか顔を赤らめていたあずさだったが、その両手の拳は固く握りしめられていた。

「ところで勝負の種目ですが、私はどれでも受けて立ちます。何がよろしいですか?」

 自信満々な表情を浮かべて近づいて来ると、俺にマイクを必要以上にぐっと突き付けた。

「あんたが選べばいい。だがいいか? 後でこの子を侮辱したことを絶対に後悔させてやる!」

 俺が睨むと、困ったような笑顔を作りながらも握手の手を伸ばしてきた。当然『セブン』の誰も握手などしなかった。あずさに至っては今にも殴りかかりそうだ。

「ほう、勇気ある発言をありがとう。しかし、懐かしいな。私も若いころはそのような眼をしてトンガっていたものです。さて、どうしたものか。そうだな――では不正が入る余地の無いルーレットで勝負と行きましょうか」

 くるりと背を向けると支配人にマイクを返し、彼の耳元で何かをささやくと自分の席に戻る。

「では皆様、勝負はルーレットに決まりました。彼の提案により、ロシアンルーレット方式を使います。勝負は四回。御存じの通り、アメリカンスタイルのルーレットには 38個のポケットがあります。1から36、そして『0と00』です。ゴールドマンは基本的に2か所しかない緑色の『0・00』を狙います。会場の皆さんには信じられないかもしれませんが、彼は恐ろしく“肩が強い”のでまず外しません。しかし四回のうち一回だけわざと外します。その一回を当てたら挑戦者の勝ちとなります!」

 ざわざわとどよめきが起こった。

 トップレベルのディーラーは、狙った場所に自由に玉を入れる事ができるというのは本当なのか。そして、ここまで信頼されるこの男の腕前とはどんなものなのだろうかと。

「では、質問がありましたらどうぞ」

 スタッフが期待を込めた目をして俺にマイクを渡した。

「ふたつ聞きたい。まず配当についてだ。手持ちの全財産七十五万ドルを全額勝負するつもりだが、俺たちが勝ったらどうするんだ?」

 当然の質問だ。この金を賭ける以上、明確な答えを聞いておきたい。

「おっと! それは大事なことですよね。申し訳ありませんでした。彼が勝つつもりでいたのですっかり忘れていました」

 ギャラリーがまたゲラゲラと笑い出す。

「そうですね。では七十五万ドルを四倍にしてお支払いします。それに私からのボーナスを十万ドル加えましょう。えーと、あ! 彼も指を一本出していますね。計二十万ドル足して三百二十万ドルが配当になります! 日本円に直すと約三億二千万円ほどになりますね」

 笑っていたギャラリーが金額を聞いたとたん水を打ったようにしーんとなる。支配人とゴールドマンのポケットマネーだけでも日本円で二千万円が動くのだから無理もない。

「もうひとつ。そのルールだと、例えば一投目をわざと彼が外して、それを俺たちが当てられなかったら負けってことだよな? だが、そのあとも彼は強制的に三回投げる訳だ。もしそれが全て『0・00』に入らなかったら?」

 その質問を聞いたとたん、支配人の顔からすっとニヤニヤ笑いが消える。

「……その場合は、ルール上こちらの負けと言う事になりますね。彼のプレッシャーは計り知れないでしょう」

 ゴールドマンをちらっと横目で見たが、彼がすでにプロフェッショナルの顔になっているのを見て安心したのか表情がいくらか緩んだ。

「どうやら彼は承知しているようです。では勝負の時は手を上げて『I BET NOW!』と宣言して下さい」

「OK、じゃあそれで行こう。今の約束をすぐに文書にしてくれ」

 紫苑とあずさの肩を軽く叩いて頷くと、照明が強く当たっているルーレットテーブルに俺は一歩踏み出す。それと同時に室内の他のテーブルの照明は全て落とされた。

「謙介さん、ヤツは一投目は入れてくると思う。このギャラリーの中で自分の腕を誇示したいはずだよ」

 耳元で素早く紫苑がささやいた。

「そうだな。だが逆に一投目を外して、プレッシャーの中で残り三回をキメるって考えているかも知れないぞ。そっちの方が成功した時の満足度は高いはずだ」

「なるほど、そういう考え方もあるわね」

 あずさはこの勝負の罠とも言える迷宮で迷っているようだ。

「一投目から三投目まで俺たちが宣言を我慢すれば、四投目は絶対に外さなければならないから自動的にこちらの勝ちとなるが、ヤツだって名うてのギャンブラーだ。たぶんその結末は無いだろう。勝負は……一、二、三投目のどれかと俺はみる」

 いつの間にか俺たちの周りをギャラリーが何重にも取り囲んでいた。最前列は後ろに手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいて来ている。観客が多すぎて室内の温度が上がったためか、婦人方の香水の香りに混じって外国人特有の汗臭さまでがすぐそこに感じられた。

「見に来たわ。どうせやるなら勝ちなさいよ!」

 DOLLがアーノルドと連れだって観客の中を縫って声を掛けてきた。俺は手を上げてこの声に答えた。会場のボルテージにつられたのか、他の観客と同じく彼女たちのその顔は紅潮しているように見える。

「あれを見てくれ。どうやら客たちは仲間同士で賭けをやっているみたいだ。それを踏まえると、ゴールドマンの手元、ほら」

 ここで紫苑が俺だけに聞こえる様にささやいた。言われるままにゴールドマンの左手を見ると……。背中越しにまるで親指、人差し指、中指で誰かに合図をしているように見える。

「なるほど。客の中に紛れ込んでいる仲間か、支配人に“何投目に外すかのサイン”を出しているようにも見えるな」

「だろ? けど、本当にそうだとは限らないし、ひょっとしたら罠かもしれないね」

 紫苑も迷っているようだ。

「ありがとう。参考になったよ」

 渡された契約書にサインが終わったと同時に流れていた音楽も止まった。それが合図のようにゴールドマンは立ち上がり、高級そうなスーツの上着を脱ぐとスタッフに放り投げた。その顔はひきしまり、不運の付け入る隙は全く無いように見える。

 彼がテーブルに着くと会場の熱気は最高潮に達し、室内の温度もさらにジリジリと上がってきているように感じた。

「よし、こうしよう。俺はあえて二投目に全てを賭ける。紫苑の言うとおり一投目は絶対に入れてくるに違いない。そしてさっきのサインはゴールドマンの罠と判断する」

 ここでふとあずさの顔を見た。不安そうに俺の眼をまっすぐ見つめている。

「安心しろ。絶対に勝ってやる」と頭をぽんぽんと叩くと、緊張が解れたのか好物を与えられた猫のようにぱっと顔を輝かせる。それを見て俺は首をこきこきと鳴らしながら勝負のテーブルに駆け上がって行く。この肩には大金もそうだが、『セブン』の運命も背負っていることを自覚しながら。

「お待たせしました! ケースの中身を確認したところ、きっかり七十五万ドルありました。これより記念すべき大勝負を始めます。では、一投目お願いします! 繰り返しますが、挑戦者は『外してくる』と思ったら「I BET NOW!」と言って手を上げて下さい。なお、私の締切宣言後のPast-Posting(後張り)は無条件で挑戦者の負けとなりますのでご注意を」

 そしてついに、一投目開始のベルが俺の神経を逆なでするように鳴り響いた。

ゴールドマンは慣れた手つきで運命のホイールをゆっくりと回し出す。そして流れるような動作でホイールと反対向きに白いボールを投げ入れる。何万投と投げたであろうそのフォームは洗練され、口惜しいが芸術的でさえあった。

 そう、いままさに賽は投げられたのだ!

 この瞬間、全員の目線がルーレットに集中する。ここから支配人の『ノー・モア・ベット』の宣言が終わるまでに俺の手が上がらなければ、この一ゲーム目はスルーとなる。

「謙介さん――ここは我慢だよ」

 紫苑が後ろからそっと呟く。分かっている。ここで手を上げる訳にはいかない。

「ノー・モア・ベット!」

 支配人の鋭い声が静寂を切り裂き、同時に賭け終了のベルの音が二回鳴る。

やがてボールの回る「シャアアアアア!」という音がだんだん小さくなってくると、会場中が息を飲んで白いボールの行方を見守った。観客からは咳払いひとつ聞こえない。ゴールドマンは投げ終わるとくるりと背中を見せ、余裕のポーズなのか慣れたしぐさで葉巻の口を切っていた。

カッ、カッ、カコン

 静寂の中、ボールがポケットに飛び込んだ時の小気味の良い音が響きわたる。

「ウオオオオオオオオ!!」

 耳をつんざくような歓声が沸いた。白いボールが、元からそこにあったかのように『00』に収まっていた。読みは当たった。後ろの二人に気付かれないように、俺はそっと胸を撫で下ろす。

 ゴールドマンは汗ひとつかかず、葉巻を咥えたまま両手を挙げてニコニコしている。その表情から(何を驚いている。当然だろ?)と言っているように見えた。

彼の澄ました顔と余裕のある態度を見て、逆に全身の毛穴が開き汗が噴き出してくるのを感じる。

「なんと! 彼は一投目から入れてきました。次はどうするのか。果たして挑戦者の手は上がるのか。注目の第二投目に入ります!」

 ほっとしたのも束の間、急かすようにスタートのベルが鳴る。ここか、この次で外して来るに違いない。さっきの怪しいサインが本物なら……俺はここで負ける。だが、もう決めた事だ。紫苑とあずさに『ここで行くぞ』と確認の目配せした。

 ビシュッ!

 音さえ後から聞こえるような速さで、白いボールが手から弾丸のように弾かれた。

「まずいかも。さっきとボールの持ち方が全く同じだったわ!」

あずさが鋭く耳打ちする。しかし、ここで心を曲げてはいけない。

「I BET NOW!」

 俺は“天まで届け”とばかりに高々と手を上げた。今までの人生で、こんなぴしっとした手の上げ方をした事は無かっただろう。

「ノー・モア・ベット!」

 支配人の声にも気合いが入り、更に熱がこもる。そしてボールは回転を弱めながら、運命のポケットを探して飛び込んでいく。

「ヒュウウウ」

 今度は――歓声ではなくため息が聞こえてくる。

 ボールは一投目と同じように『00』のポケットに収まっていた。

「エークセレント! まさにミスターパーフェクト! 挑戦者には残念ですが、この時点で『ほぼ』ゴールドマンの勝利です。後は三投目か四投目のどちらかをわざと外せば無敗伝説は継続ですね。ここからは消化試合ですが、皆さまごゆっくりお楽しみ下さい」

 支配人は勝利を確信したのか満面の笑みで会場を見廻すと、ゴールドマンにこっそりと親指を立てた。

「いいか? ……顔をあげて見届けよう。まだ勝負はついていない」

 下を向いて唇を噛んでいるあずさに、力強く声を掛けた。

「もしあと二回とも外せば勝ちの目はある。たぶん、ヤツがプレッシャーに負けることは無いだろうけどね。でも……勝負は何が起こるか分からないよ」

 同じようにあずさを励ます紫苑の声にも力がこもる。

 そして三投目のベルが鳴る。観客があからさまに俺たちを“憐みの表情”で見ているのが分かる。

「どうやら決まったわね。あなたは先に帰ってベイブの位置を特定しときなさい」

 よく通るDOLLの声が静寂の中から聞こえて来た。視線を横に移すと、軽く笑みを浮かべながらカクテルウェイトレスから赤ワインを優雅な仕草で受け取っていた。

(まだ分からないぞ)と俺はルーレットテーブルの端を持つ手に力を入れたが、その手のひらはいつの間にかびっしょりと濡れていた。

 弛緩した雰囲気の会場に、形だけの「ノー・モア・ベット」の声が響き渡る。くやしいが、俺にはもう手を上げる権利は無い。

 カッコオオオン!

 またも当然のように『00』のポケットにボールは踊るように飛び込んだ。それは身をよじるかのようにポケット内で素早く動き回ったが、結局そのまま諦めたように動きを止めた。

「もう言葉もありません! 三連続同じポケットに入れるとは。あ、写真はまだご遠慮下さい。まだ一応、四投目が残っておりますので」

 支配人は形だけの注意を観客に行う。しかし、その顔は完全に勝利を確信しているように見える。俺たちの七十五万ドルを二人でどう分けるのかは知らないが、この時点で九割九分その札束に手が届いていた。

「さて、とうとう勝負もクライマックスをむかえました。今度は『0・00』以外のどのポケットに入れても良いのですから、彼の勝利はほぼ確定していると思われます。逆に言い換えれば、そのウイニングポケットは三十六個もあるのです。それでは最後の四投目、ご注目下さい!」

 もう観客の中にはちらほら帰るものも現れ始めた。火を見るより明らかな結果が待っているのだから当然とも言えよう。または、この大勝負を見て自分たちのギャンブル魂にめらめらと火がついてしまったのかもしれない。

「あずさ、紫苑! ほんの僅かだが、まだ希望はあるぞ。目を逸らすなよ」

 既にほぼ絶望的な状況だが、『セブン』はまだあきらめていなかった。二人は俺の横に駆け寄ると、祈る様にミスターパーフェクトの指に注目した。

 そして、最後のスタートのベルが高々と鳴り、彼の長い指が今までと同じようにホイールをゆっくりと回す。そして運命の白いボールを投げ入れようとした時だった。

 え? ……何かがおかしい。

 良く見ると、ゴールドマンの指先がかすかに震えている。次の瞬間、火の着いた葉巻を口からぽとりと落とし喘ぐように息を吸った。だがさすがと言うべきか、よろよろしながらもボールを指から弾き出す。

「ねえ、ボクはここで何をしているの? なんでみんなボクを見てるの?」

 小さすぎる声で俺は聞き取れなかったが、後から紫苑に聞いた話ではこの時彼はこう言っていたらしい。

 今までより明らかに弱々しく回り始めたボールに違和感を感じたのか、支配人のコールも少し早かったように感じた。

「ゴールドマン! ゴールドマン! ゴールドマン!」

 両手を上げた観客のゴールドマンコールの中、彼は頭を抱えてへなへなとその場にうずくまった。その姿はまるで大人から虐待を受け、身体を丸めている子供のようだ。

 急に、耳に入って来ていた歓声が聞こえなくなった。まるで時間が止まったように感じた。だが白いボールだけは、コマ送りのように目に映っている。

(この勝負に負けたら、俺をリーダーと慕ってくれた紫苑とあずさに申し訳ない。そして、結果的に人を殺めることにもなってしまう)

 この時はただ――運命の神に祈った。

 今、一つだけ確かな事は、この投球は無効にはならないだろうという事だ。なぜなら“賭けは締め切られ、彼は投げてしまった”のだから。

 回り続けるボールは、今までより少し自信なさ気に飛び込む穴を探しているように見える。ここまで無難に積み上げてきたゴールドマンの勝利が確定するポケットの数は、三十六個も用意されていた……はずだった。

 こつん

 まるで神の手がそこにそっと置いたかのように、白いボールが収まったポケットの数字は、『0』だった。


 数十分後、部屋に戻った俺たちは、テーブルの上に無造作に積み上げられた三百二十万ドルの札束を眺めていた。あれからゴールドマンは救急車で運ばれたが、最後まで意味不明な言葉を口走っていたそうだ。

 そして、俺たちは支配人の公正なジャッジにより勝利を得た。ひきつった顔で賞金を渡す時の彼の顔は今でも忘れられない。

だが……〈ミスターパーフェクト〉と戦い、奇跡的に勝利を収めたのに気分はあまりスッキリしない。なぜなら、彼が倒れなければきっと俺たちは負けていたのだから。

 スッキリしない大きな理由がもう一つあった。この金を日本に持って帰れば文句なくミッションクリアなのだが、それでは何も解決しないのだ。シーズン2のパンデミックが起これば世界中の何処にいようと感染し、やがては死んでしまう。俺も紫苑も、あずさも……だ。シーズン1のワクチンでさえ、あと少しで効力が無くなるとアーノルドは言っていた。

 またジャミング装置を借りカーテンを閉め切ると、俺は重い気持ちで話を切り出した。この装置を借りる時にすでにアーノルドとは話をつけている。――『今夜ベイブを襲う』と。

「紫苑、あずさ、聞いてくれ。勝負には勝ち、俺たちは約三億円を手に入れる事ができた。さっきアーノルドに『今夜もう一勝負して十億作るつもりだ。それでワクチンを売ってくれないか?』と交渉したけれど、やはりいくら積まれても金では買えないそうだ。つまり、首に埋まっているチップの効力はやがて切れ、俺たちも死ぬ」

 頬杖をついて札束を見つめている二人は、何故か悲しそうな顔をしている。

「謙介さんさあ、もし勝っても最初からやるつもりだったんだろ?」

 紫苑は少し暗い表情でソファから立つと、ミニバーに行き人数分のブランデーを注いだ。

「ああ。でもこれをやりさえすれば、アーノルド、いやCIAは新しいワクチンを 俺たちにも供給するって約束だ。他に生き残る選択肢が無い以上、俺はやるつもりだ。結局、『セブン』はCIAの手のひらの上で踊らされていただけだったな」

自嘲的に笑いながら、グラスにじっと目を落としている紫苑を見る。

「謙介さんが結果的に人を殺すことになっても、私たちのリーダーを思う気持ちは何も変わらないわ。あなたはあなたのままだもの。でも、そんな辛い事をあなただけにやらせる訳にはいかない。喜びも悲しみも一緒に背負うのがチームなのよ」

ブランデーを一息に飲み干すと、あずさは眼に涙を溜めながら言った。か細い指先であふれる涙を拭っている。

「ありがとう。でもさ、手を汚すのは全員じゃなくていいんだ。一人でやるよ。これはリーダーの俺がもう決めたことなんだ。気持ちは受け取った、ありが……」

あずさの顔が伸びたり縮んだりしている。すぐに視界がぼやけ始め、意識が遠のき始めた。

「しっかし、効くなーこれ! アーノルドのやつ、なんてモン渡すんだ。……ごめんな謙介さん。“人を倒すのは”俺の方が得意なんだぜ。レースじゃあ、あんたに負けたけどね。悪いけどしばらく眠っててくれ」

 ソファで寝息をたてている俺たちに声をかけると、紫苑はグラスを置き立ち上がった。部屋を出る時に一度振り返り、「ごめん」という風に両手を合わせ頭を下げる。

「紫苑……」

 ここで俺の意識は完全に途絶えた。



『日本・横浜』 四月八日



「遅くなった。なんだ、まだ帰らなかったのか」

 ブライアンが横浜に着いたのはもう深夜の二時をまわった頃だった。「今夜帰る」と連絡を受けたカエラは何かと理由をつけて会社に残っていた。待ちきれない様子でつかつかと彼に歩み寄ると、ハグと言うよりは恋人同士の抱擁を見せる。そのまま抱き着いて、さながら彼の体温を少しでも逃がすまいとするようにしばらく離さない。

「ところで、入金は確認したか? CIAにモルモットは無事引き渡した。そうだ、ひとついい知らせがある」

 目を細めニコっと笑うと、カエラの身体を注意深くそっと引き離す。

「なあに? もしかしてプロポーズしてくれるの?」

 小悪魔のような微笑みを浮かべながら彼を見上げる。その拍子に大きめのイヤリングが揺れ、モニターの光を反射してキラっと光った。

「その答えはノーだ。今はその時期じゃない。それはそれとして、モルモットの胎児からシーズン2用のワクチンが作れそうだよ。しかし、シーズン3対応のワクチン精製はかなり難しいらしい」

「あら本当? じゃあもう本部に潜入するリスクを背負うことはないわね。エリザベートとの“特別な”関係も、やっと終わりね」

 彼のおでこに人差し指を当て、嬉しそうにはしゃいだ。しかしその彼女を見るブライアンの眼は心なしか冷めている。まるで「終わりなのは、君との関係かもしれないよ」とでも言いたげな瞳だ。

「いや、まだシーズン3用ワクチンのヒントを手に入れなければならないし、ある秘密を探るまでは作戦は続行する。ここに帰る前にワシントンの本部にも寄ったんだが、エリザベートから重要な話を聞いたんだ。『シーズン2とシーズン3のワクチンは、両方ともある人物に埋め込まれているわ』と彼女は言っていた。てっきりラボや倉庫に保管してあるかと思っていたが、オリジナルは……なんと! 人間に埋め込まれているようだ」

「え? まさか。人間にですって?」

「正確に言うと、ある人物の血液に『万能ワクチン』が流れている。これは全てのシーズンに対応できるらしい。そして、その人物とは――代表の『親族』の誰かだ。組織もうまい隠し場所を選んだもんだな」

 エリザベートからこれを聞き出すまでの苦労を急に思い出したのか、彼の顔は不快そうに歪む。

「じゃ、じゃあその人を探しだせばいいのね。私たちは助かるのね?」

「そう簡単には探せないだろう。1936年から発足した関東軍防疫部が731部隊の前身だから、その時まだ代表は生まれていなかった可能性がある。日本人ということは確かだが、彼の人生は謎な部分が多いんだ」

「そもそも、731部隊そのものも謎に包まれているじゃない」

「そうだな。いま分かっている事は、1945年の終戦時に731部隊は解散したが、実験結果などをアメリカ軍に引き渡す事を交換条件として無罪になった人たちがいるってことだ。彼らは戦後の医学界を発展させた影の立役者だとも言われている。その中にもし代表の親族がいたとしたら……」

「恐ろしいわね。実験結果をわざと全部渡して無かったのかもしれない」

 よく手入れされた眉をひそめながら呟いた。

「その可能性は高いな。エリザベートが調べた結果、代表の名前は偽名らしい。大金を使ってうまく隠したんだろう。本当の名前さえ分かれば、彼の親族を探し出せるかもしれない。彼女は『もうすぐその名前も分かる』とも言っていた」

「なによ! 結局まだあのアバズレとの関係が続くんじゃない。私にとっては超バッドニュースだわ」

 髪の毛をかきあげ、後ろを向くとデスクのテーブルに置いてあった車のキーを彼に放り投げる。

「運転して。出勤までまだ時間があるわ。今夜はうちに泊まってもらうわよ」

 モデル出身だけあって、先を歩くカエラの後ろ姿のシルエットは文句無く素晴らしかった。

「分かった。だがひとつ約束してくれるか。“睡眠不足は身体に非常に悪い”から少しは寝かせてくれ」

「だ、め、よ」

 両手を広げ天を仰いだあと、彼は真っ赤なアウディR8スパイダーのエンジンをかけ、深夜の駐車場の空気を軽く震わせた。

 

八日 同時刻


「こりゃあ謙介さんじゃ無理だったかもな。俺と違って血に弱そうだし」

 紫苑の血まみれの手にはチップの残骸がひとつ載っていた。

 ベイブを気絶させ、素早くチップを取り出してからもう一時間が経過している。聞いていた通り、きっかり十五秒後にそれは破裂してただの金属の塊になってしまった。その塊を握りしめながら、依頼人の待つスイートに向かう。

「あれ? 鍵が開いてる」

 ドアを開けると、何とも不可解な光景が眼に飛び込んで来る。そこにはホールドアップ状態で壁に手を着き、背中を見せて固まっているアーノルドとDOLLがいた。奥にもう一人、ソファにゆったりと座りながらクッションで手に持っている『何か』を隠している男が見える。

 その男は……冷酷そうなとがった顎を持つ〈賢者〉エリックだった。

「おやおや? 君がその手に持っている物は、ひょっとしてチップのなれの果てかな?」

 アーノルドが言っていた通りの、意地の悪そうな冷たいグリーンの眼だ。

答える代わりに、チップのかけらをポケットに仕舞うと、自然な仕草で濃いブルーのサングラスをかけた。だが、何故かレンズに隠した目の片方をいま閉じている。

「俺はね、頼まれた仕事の報告に来ただけなの。そこで“赤ちゃんのつかまり立ち”みたいなカッコをしている人が依頼人なんだけど。……えーっと、君たち何してんの?」

 その問いに(この状況見て分かんないの? 空気読んでよバカ!)と言いたげに、DOLLが高速で首を振っている。

「鈍いのか、それとも分かっていてトボけているのかな。面白い男だ。――そうだな、君には選択肢を与えよう。このまま後ろのドアから出て行って全てを忘れるか、それともこのCIAの犬と一緒に葬られるか。どちらかを選びたまえ」

 にやにやしながらクッションをどけると、やはり拳銃の銃口が現れた。CIAという言葉が出たからには、どっちを選んでも結局全員を殺す気に違いない。

「うーん。じゃあ、皆さん再会を楽しんでいるようだし邪魔者は退散しようかなあ。あ、そうそう」

 急に、室内の電気が消えた。正確には紫苑が素早く消したのだが。

そこからは、全く勝負にならなかった。閉じていた片目を開け獣の様な速さでエリックに近づくと、、的確にボディとアゴに“致命的な一発”をプレゼントする。砂袋で地面を叩くような音が同時に聞こえた後、電気が点く。

 床にはエリックが口から血を出しながら大の字に転がっていた。ふかふかの絨毯のおかげで頭は激しくぶつけていないが、完全に白目を剥いている。

パンッ! パンッ!

 落ちた銃を素早く拾い上げたDOLLが、いきなりエリックに二発の銃弾を浴びせた。彼の身体は二度バウンドしたあと、もう動く事は無かった。わずかに口から血を噴いた後、瞳の光が徐々に小さくなっていく。

「おいおい、殺す必要があったのかよ。たぶんだけど、コイツって偉いんだろ? よくあるパターンだと、このあと大ボスが出てくるぞ」

 銃口からまだ煙が上がっている拳銃をテーブルにそっと置くと、DOLLは顔を覆いながらレストルームの方へ消えて行った。

「代わりに私が答えます。この人は……組織の大幹部なんです。必要どころか、いま殺しとかないと大変な事になってしまう。彼はまずこう言っていました。『お前らの正体は私だけが知っている。上には黙っててやるから、アメリカ政府が二千万ドル用意しろ』と。しかも、『もし、この取り引きを呑まなければ、私の権限で世界中の水源にウイルスを混入させるぞ』とも。これは本当にやりかねない事ですし、彼の力があればすぐにでも実現可能です」

 話しながらもアーノルドは、放心したような眼で口を覆いながら戻って来たDOLLの肩に優しく上着をかけている。

「ってことは、もう君たちの正体を知る者はいないってことだな。じゃあ、俺との約束は守れるじゃん」

 軽いしゃべり方とはうらはらに、凄みのある眼でアーノルドを睨んだ。

「もちろんです。新ワクチンは出来次第、あなたたち三人に与えます。あ、この死体の処理は我々で行うから安心して下さい」

「死体の処理は当たり前だろって。俺、殺してないもん。それでその新ワクチンはいつ貰えるんだい?」

「明日中には届くはずです。まだプロトタイプなので効果は保障できませんが、CIA局員に配給する分を“うまく調整して”すぐに渡します」

 嘘を言っているような眼には見えなかった。

「オッケー。じゃあ明日届いたら電話をくれ。まあ、俺はこれからリーダーにブン殴られなきゃならないから、電話口でうまくしゃべれないかもしれないけどな」

 ふふっと笑い、ポケットから出したチップの残骸をテーブルに放り投げると、手をひらひらと振りながら部屋を出て行った。


 同じ頃、謙介とあずさは腕を組んでソファに座っていた。ついさっき起きた様子だ。

「ただいま。ってもう起きてるし!」

「おまえなあ……どういうつもりで俺たちを眠らせたんだ?」

 立ち上がり、紫苑に近づいた。今まで見たことの無いくらいに、その眼は怒りに燃えている。彼には大体の予想はついていたのであろう。

「一体どこに行ってたのよ。あんたひょっとして……」

 あずさも怒っている様子だったが、謙介の顔色を見て逆に少し冷静になっているようだ。

「ごめんよ、謙介さん。でもこれで新ワクチンが手に入る。アーノルドとは話がつい」

 言い終わらないうちに、謙介のコブシが紫苑の頬を捉えた。元ボクサーの紫苑にとってそんなパンチは鼻歌まじりによけられるはずだったが、何故かそれを頬でまともに受けとめる。

「バカやろう、勝手な事しやがって! このバカやろう!」

 男泣きしながら、ポコポコと紫苑を殴り続けている。鼻血を出しながらも謙介を見る紫苑の眼は――澄んでいて、そして優しかった。

「謙介さん、もうやめて」

 あずさは小走りに謙介に近づくと後ろから羽交い絞めにした。彼女も目から大粒の涙を流している。

「カッコつけやがって。ったく――おまえにはデカい借りができちまったな」

 あずさの手を優しく振りほどくと、がっしりと紫苑を抱きしめ肩で涙をぬぐう。

「貸しなんて無いよ。俺がやりたくてやっただけだし。しっかし謙介さんの最初のパンチはなかなか効いたなあ。……うわ、あずさこれ見て! 奥歯が一本欠けちゃってるって」

 もごもごした後、出した舌の上には白い歯が半分載っている。

「もう、謙介さんやりすぎよ。大丈夫、あずさちゃんナースがくっつけてあげる。えっと、爪に使う接着剤ってまだあったかしら」

 ごしごしと手の甲で涙を拭うと、紫苑の腕を掴みそのまま奥の部屋へぐいぐいと引っ張って行く。

「おい! そんなもの使うなよ! 歯医者いくからいいよ!」

 そんな二人の後姿を見送る謙介の顔が自然にほころんでいく。

「ありがとな」と独り言を言い立ち上がったが、やっぱり紫苑のケガが気になるのかすぐにダッシュで二人の後を追う。

「紫苑んんん! 俺、やりすぎたよ。なるべく痛くないように、俺を思いっきり殴ってくれええ!」

バキッ!

「超痛ってええええ!」

「余計なこと言うからよ! 男の子って――ほんっとにバカねえ」


八日 同時刻


「いい名前つけたじゃねえか。俺は気に入ったぜ」

 あつしたちの部屋では、寄せ集めのチーム【JACKPOT】が発足していた。

このチーム名は全員で決めたものだが、その由来は『十四億円を当てたラッキーなモヒカンくん』にあやかって付けられたらしい。確かに彼の当選金があってこその、このチームだった。新ワクチンを手に入れるためには、これから彼の持つ大金が鍵となっていくのだろう。この応接間ではモヒカン、リンダ、あつし、ゴリラ、リーマンの五人全員が真面目な顔をしながらテーブルを囲んでいる。

「じゃあ始めるぞ。昨夜『チーム8』のベイブが『セブン』の一人に襲われた。私は独自の情報で動き、現場を録画してきた。まずこれを見てもらいたい」

 リーマンがデジカメの動画をテレビに繋ぐ。画面では篠崎紫苑がベイブを一瞬で気絶させた後、チップを取り出す様子が隠し撮りされていた。身体の影でよく見えないが、チップは取り出されたあと閃光と小さな爆発音を放っているように見える。

「これを見る限り、『セブン』はCIAと組んだ事になる。その後集めた情報によると、彼らはこの行為の代償として、CIAから新ワクチンを明日にも提供されるらしい」

 その表情から察するに、相当自信のある情報のようだ。

「ふうん。チップって無理やり取り出すと爆発するのね。ところで、私たちもそろそろ動きださないとワクチンが切れて死んじゃうわよ。もうあと一週間もないわ」

 正面に座っているあつしを警戒しながら、リンダは少し焦った様子で立ち上がる。

「ねーちゃん、いつもいつもそう睨むなよ。要は俺たちのワクチンが切れる前に、 こいつらに提供される新ワクチンを横取りすればいいんだろ? まかせとけ、いい作戦がある。まあ、あいつの勝ち金を使えばだがな。とりあえず、リーマンさんは『金は出すから、とりあえず五人分わけて欲しい』ってアーノルドたちに交渉してみてくれ。まあ、たぶん無理だろうが」

 頭の中であつしは何か作戦を考えているようだった。

「ちょっと待てよ! おまえ勝手に俺の金を使うとか言ってるけど、ちゃんと俺を通してからにしてくれよ!」

 モヒカンはジャックポットを当てた日から、少し挙動がおかしくなっていた。あの日を境に、知らない人からも昼夜問わずに電話がかかってくるようになった。カジノを歩けば大勢の客に絡まれるし、寄付を募る団体に囲まれたのも一度や二度ではない。全ての人が自分の金を狙っているように見えるのは無理もないだろう。

少なくともその髪型と服装を直せばまだ目立たないのだが、誰がアドバイスしても「これが俺のポリシーなんだよ!」と彼はまったく聞き入れようとしなかった。

「おいおい、この作戦を成功させないと俺たち全員がもうすぐ死ぬんだぜ? 金がいくらあったって死んだら元も子もねえだろうが。俺たちがたったひとつだけ一般人より有利なことは、この情報を知っているって事だけなんだからな」

 相変わらずの人を見下した笑いを浮かべながら、モヒカンの肩をぽんぽんと叩く。

「それはわかってるよ……。わかってるけど」

 モヒカンは泣きそうな顔をしてリンダを見る。

「残念だけど、潔く諦めなさい。ねえ、もしCIAが私たちにワクチンを分けてくれなかったら、どんな作戦で行くつもり?」

 全員があつしに注目した。

「いいか、CIAが『セブン』への約束を守って、新ワクチンをあいつらに分けるってことが前提の話なんだが……」

 全員に耳を貸せというジェスチャーをした。

「はあ? あんたそれサイテーよ! 他に方法は無いの?」

 あつしとリーマン以外は、全員が顔を見合わせている。

「無いな。だが、もし手に入れられたとしても三人分だ。この中の二人は、しばらくの間は待っているしかない」

 あつしの冷たい言葉に部屋の空気が凍り付く。彼の性格から本能的に危機を感じとったのか、特にゴリラの顔などはまさに蒼白になっていた。

「じゃあ、あんたとゴリラが諦めなさいよ! お金はこっちが出すんだから」

 立ち上がったリンダは二人を交互に睨んだ。

「バーカ。作戦を提案したのは俺だぞ? 他にいい方法があるんなら勝手にやってくれ」

 そのやりとりを少し楽しそうな顔をして見ていたリーマンが、ついに立ちあがった。

「おいおい、ケンカをしている場合じゃないぞ。接触感染から空気感染に変化する 前に何とかしないと手遅れになる。もし、このあつし君の作戦がうまくいって新ワクチンを手に入れたら、すぐに成分を分析して培養を行い君たちに分ける用意はある。そのためには、我々CDCが絶対にひとつは確保したい」

 最後のセリフには特に力が入っているように聞こえる。

「でも、それって一週間以内にできるのかなあ。じゃなきゃ俺たちは終わりだよ」

 弱々しい声でモヒカンが質問する。その小さなつぶらな瞳は少し潤んでいるようにも見えた。

「手に入れさえすれば大丈夫だ、約束する。ところで、先ほど気になる情報が入ってきた。まあ、これに関しては確認はとれていないんだが……。実はシーズン1用のワクチンだけは、七日の時点でCDCにも少量だが提供されていたらしいんだ。もしかしたらエージェントの誰かが横流ししたのかもな」

「けっ。エージェントじゃなくて、ビッグミリオングループの誰かかもしれねえぜ。このワクチン関係は、いま世界で一番価値のある商品だからな」

吐き捨てるようなこのセリフを聞いても、リーマンは顔色ひとつ変えずに冷静に話を進めていく。

「かもな。では話の続きだが、それをCDCのラボで二日前に発症し患者に投与したところ全く効かなかったらしい。たぶん被験者は『脳に異常プリオンが生成され始めた状態』でワクチンを投与されたからだ。つまり……感染してからでは遅いんだ」

「じゃ、じゃあシーズン2用のワクチンも、感染する前に接種しとかないとダメなんじゃない? 後から接種しても意味が無いかもしれないわ」

 リンダの顔色がみるみる白くなっていくのが分かる。 

「そういう事だ。CIAが新ワクチンを開発しているという情報が確かならいいんだがな。これはワクチン漬けの胎児から抽出したらしいが、まだ結果を出すことは時期的に不可能だろう。今のところ空気感染した者が確認できていないのだからこれは仕方がない。まあ言い方は悪いが、我々は幸運なことに第一段階はクリアしているんだ。生き残るためには目の前の第二段階をクリアしなければならない」

 そう、一般人はまだシーズン1のワクチンさえ持っていない状態なのだ。

「もう……いいよ。俺この金使いまくってから死んじゃおうかな。その前にねーさん、今から俺と結婚しない?」

 頭がこんがらがってもうめんどくさくなったのか、いきなりプロポーズをするとモヒカンはソファに倒れこんだ。冗談ぽく言ったにもかかわらず、リンダの顔には何故かみるみる赤みが差していく。

「どっちにしても、新ワクチンは手に入れなきゃならねえ。ひとつは速攻でCDCに送るとして、残りの飴玉はふたつしかない。でもやる価値はあるぞ。さあ、どうする?」

 あつしのこの言葉に動揺したのか、何となくお互いをけん制しあう空気が部屋に流れる。モヒカンだけはまだふて腐れていたが、いきなり立ち上がると手を大きく広げる。

「分かった! やるよ! 『JACKPOT』はすごくダーティーなチームになっちゃうけど、俺たちの目的は一緒だ。――ただし、ひとつだけ条件がある」

「何だ? 言ってみろよ」

威嚇するようにゴリラがデカい顔をモヒカンに近づける。

「女性を一人助けたいんだ。香織さんって女性なんだけど、新ワクチンを複製できたら彼女にも優先的に分けるって約束してくれ。もしかしてもう感染していて遅いかもしれないけど、どうしても分けてやりたい。それがダメなら俺はこの話から降りるよ」

「なんだ? おまえの彼女か?」

「彼女じゃないよ。こっちで仲良くなった友達なんだ。俺を見た目で差別しないで、すごく親切にしてくれた人なんだ。どうしても恩返しをしたい」

 今まで見たことが無いような強い眼をして、負けずに目の前のゴリラを睨みかえした。

「分かった、かまわないよ。CDCで一度に作れるワクチンは限られているが、約束する。もしモヒカンくんがオリジナルを手に入れる権利を得たら、とりあえず彼女にそれを渡せばいい。さて、残り二席の事は後で考えるとして、さっきのあつし君の作戦で行こうと思う。みんなもそれでいいかな?」

 リーマンの言葉に今度は全員が頷いた。



『第二次世界大戦後・日本』



 終戦時『731部隊』の責任者である石井四郎(陸軍軍医中将)は、実験資料を日本各地に分散し隠し持っていたと言われている。

 この部隊は満州にて感染症予防や衛生的な水を戦地に送るという任務の他に、生物兵器の研究や人体実験などを繰り返していたという証言がある。

 石井はGHQによる尋問に対し、「資料は全て紛失した」と答えた。だが戦後になって出てきた証言や情報によると、731部隊の幹部たちは人体実験の資料をアメリカとの取り引きの材料に使ったらしいのだ。戦犯免責と引き換えに自由を得た石井ら幹部たちは、東京裁判でも結局裁かれなかった。そして戦後の医学界の中枢に深々と潜り込んでいったのである。


 洋子は731部隊の幹部『鬼頭大二郎』の妾(めかけ)だった。妻とは子供が出来なかったが、芸者をしていた洋子に産ませた小次郎は頭が非常に良く、特に語学に優れ周囲の大人を驚かせた。

 父親の大二郎も英語、中国語、ドイツ語に長け、満州ではその語学力を高く買われ石井の信頼を最も得ていた一人である。大二郎の妻が戦後まもなく病死すると、彼は洋子を正式に妻に迎えた。

「この子には石井中将殿の意志を継いでもらわなければいかん」

 これは彼の口ぐせであった。小次郎が十二歳になると、父は蔵の隠し扉から大量の資料を出してきた。

「これは石井中将殿から預かった貴重な資料だ。おまえはこの資料の中身を全て頭に叩き込め。その後は跡形もなく燃やしてしまうんだぞ。それが終わったら横浜に住んでいる私の知り合いを訪ねるんだ。日本の医学界には、私に協力してくれる人がたくさんいる。おまえはその頭脳を武器に彼らの力を借り、アメリカへ飛べ。そしてアメリカの研究所で私たちの意志を継ぎ、これを完成させてくれ」

 驚くべきことに、小次郎はわずか一週間で膨大な研究資料をすべて暗記してしまった。

 そして協力者のもと、父の言葉どおりアメリカに渡り『ビッグミリオン』という会社を一代で立ち上げる。協力者の支援は変わる事なく脈々と子孫に受け継がれ、今や世界中にその根を広げていた。

 そう――鬼頭小次郎の頭の中に入っていた資料とは、『731部隊の歴史に隠された、最も威力があり、かつ最も静かなウイルスの育成法』であった。

その後、鬼頭小次郎は偽名で『ビッグミリオン』の事業を拡大していく。その後結婚して、一人の男の子をもうける。自分と違いその男の子には普通の生活をして欲しかったのか、妻と共に日本で暮らす事を強要した。もちろんそのためには金を惜しまなかった。

 男の子はやがて大人になり、『ビッグミリオン代表』である父の小次郎とは全く違う業界で、その力を借りずに会社を作り成功した。そして日本人の女性と結婚したが、やはり“子供を一人もうけた”後、しばらくして彼の会社は傾き、やがて離婚までしてしまっていた。その子供の名前は、当時としては少しだけ珍しかったかもしれない。

 その子の名前は――『紫苑』と名付けられていた。離婚後、母方に引き取られたあとの名字は『篠崎』だ。

 離婚前、紫苑は芸能プロダクションを経営している父親に連れられ、数週間アメリカに旅行した時があった。その時、おじいさんにあたる鬼頭小次郎に初めて会ったが、当人はその時のことをたぶん覚えていないだろう。おじいさんの優しい視線を受けながら、大きな白い部屋で“痛い注射をされた”事も。

 痛い注射。そう、この注射器の中身こそが人類最後の希望、オールシーズン対応の『万能ワクチン』だったのだ。



Untouchable




『ワシントン・ビッグミリオン本社』 四月八日 夜



「なんですって? それは確かなの?」

 エリザベートの元に、待ちに待った電話がかかってきた。彼女にとってブライアンも特別な手下だったが、“特に可愛がっている”者は他にも数人存在していた。

 受話器の向こうにいる男は、組織内でハイエナと呼ばれる男だ。彼は〈代表直属のエージェント〉の一人であったが、今はエリザベートに陥落され彼女の良き情報源となっていた。その名の通り、獲物をどこまでも追い続けて行き、最後には欲しい情報を必ず手に入れてくる。

 聞こえて来る内容は、今までの仕事の中で最高と呼べるものであった。何故なら、それは彼女が喉から手が出るほど欲しかった『代表と、その孫の名前』だったからだ。

「驚いたわ……鬼頭ね。ええ、篠崎は母親の名字と。え、当選者の中に? 待って、参加リストを確認するわ。――見つけたわよ、篠崎紫苑。全くあのじじいもやってくれるわねえ。じゃあ抽選を操作していたのは私たちだけじゃなかったってことか。そう、代表から捕獲命令が出ているのね。分かったわ」

 受話器を置くと、頭を振りながらソファにもたれてしばらく考え込む。

本社にあるこの豪華なプライベートルームには大きな水槽が置かれ、熱帯魚が優雅に泳いでいる。涼しい顔をして泳ぐ魚たちに目をやりながら受話器を再びとると、どこかに電話をかけ始めた。

「いいニュースよ、ブライアン。代表の孫はどこにいたと思う? 違うわ、ベガスよ。『篠崎紫苑』って名前聞いたことあるでしょ? DOLLとアーノルド、そしてベイブを使って捕獲しなさい。え、ベイブが襲われた? じゃあ、あなたが今からベガスに飛びなさい。すぐにプライベートジェットを手配するわ。あ、本社からも捕獲部隊が行くと思うけど『生きたまま』先に手に入れるのよ。絶対にあの代表の手に渡す訳にはいかないわ」

 受話器を叩きつけるように置くと、つま先に引っ掛けていた赤いピンヒールを履きなおした。

「万能ワクチンさえ手に入れれば世界は私のもの。大事に培養しなきゃ」



 エリザベートが上機嫌になっている頃、ホテルのBARには謙介と紫苑の姿があった。

「あとはアーノルドからの電話を待つだけだな。おい紫苑、ちょっと飲みすぎだぞ」

 俺たちは丸い氷の浮かんだグラスを傾けながら、薄暗い照明を投げかけているカウンターに腰掛けていた。水割りは既に二杯目だが、もうすぐあずさも来るはずだ。

 奇跡の勝利をおさめて三百二十万ドルもの大金も手に入った。そう、あとは新ワクチンをもらえばこのベガスとはおさらばだ。けど……どうにも俺の心は晴れなかった。

(もし日本に帰っても、家族や友達、いや人類もいつかは感染してしまうだろう。果たしてそれでいいのか?)この考えが頭の中をぐるぐるとまわり、さっきからどうしようもない無力感に襲われている。 

「ねえ、謙介さんもたぶん同じ事を考えてると思うけど、このまま俺たちだけが助かっても何も解決しないよね。新ワクチンを一人でも多くの人に分け与えるには、どうしたらいいんだろうな」

 紫苑は目を伏せそう言うと、目の前のグラスを一気にあおる。

「一人でも多くの人を……か」

「実は、昨日久しぶりに母さんと電話で話したんだ。そうだ、母さんの話をするのは初めてだったよね。あ、おかわりを」

 肘をつき目の前に持ち上げた三杯目のバーボンが、彼の片眼を鳶色に染めている。

「ああ。俺たちはチームだけど、本当に深いところまでは良く知らないんだよな」 

「うん。……でね、出発前に母さんがさ、心配そうな声で『紫苑、身体だけには気をつけるんだよ』って言ったんだ。そして昨日の電話でも同じことを言ったんだよ。自分の身体の方がこれから危ないってのにさ。なんかたまらない気持ちになって、泣きそうな声が出る前に電話を切ったよ。俺、父親がいないから、代わりに母さんを守らないといけないのに何してんだよって」

 悔しそうに唇を噛み目を落とすと、カウンターについたグラスのしずくを指で広げる。こいつの、こんなに悲しく複雑な顔は今まで見た事がなかった。

「そうだな。何とかしないといけない。俺たちに家族がいるように、世界中の人たちにも家族がいる。なあ、俺考えたんだけど、この賞金を全部使って」

 分かってるという風に手のひらを見せて、俺の言葉を遮った。

「新ワクチンを増やすために使おうって言うんだろ? 同じことを考えてた。実は俺、フラッシュバックしたように突然思い出した事があってさ。部屋で調べたんだけど、ワシントンに民間の依頼でもワクチンを培養してくれる所があるらしいんだ。その施設の写真を見たら、どうもここは俺が子供のころ連れて行かれた事がある研究施設のような気がするんだ」

 そうか、コイツも同じことを考えていたんだ。すーっと気が楽になっていく。

「研究施設? ひょっとして俺が殴ったからフラッシュバックしたのかなあ。そうだ、もう一度殴ったらもっと思い出すかも」

「それはマジお断りだけど、確かに俺、子供の頃の記憶が一部無いんだよね。まあいいか。もしあずさも同意してくれたらすぐにでもそこに連絡してみようよ。……悪いけど使ってもいいかな? せっかく勝ち取ったお金だけど」

 グラスを置き、俺の方をゆっくりと向く。その眼は強い意志と、仲間に対する信頼感であふれていた。返事のかわりに無言で頷くと、紫苑の振り上げたコブシに自分のコブシをこつんとぶつけた。

「しっかしあずさ遅いなあ。化粧ついでに荷物でもまとめてんのかな。ま、さ、か、の、免税店だったりして」

 この言葉にふと周りを見回すと、BARの中にいつの間にか俺たちしかいない。おかしなことにバーテンも客もいないのだ。がらーんとした店内のジュークボックスからは、〈レイディ〉を歌うケニー・ロジャースの声だけがタバコの煙に混ざりながら流れていた。

「おい、何かヘンだぞ。とりあえず部屋に戻ろう。あずさが心配だ」

 ポケットからしわくちゃの十ドル札をつまみ出してカウンターに投げると、俺たちは乱暴にドアを開け店を出た。

「これは? ――謙介さん! 人が誰もいないよ!」

 パラッツォ・リゾートホテルの中は無人だった。そう、言葉通り『人間がどこにも見当たらなかった』のだ。

 誰もいないフロントの前を駆け抜け、エレベーターのボタンを連打する。いつもなら観光客で賑わうロビーにも、ラウンジにも人影は一切ない。それどころか、車止めに常駐しているはずの陽気なボーイさえも見当たらないではないか。

 こいつは賭けてもいい。いつものおしゃれなエレベーターガールも、今はきっとかき消えているはずだ。

「とにかく急ごう。これがもし夢じゃなかったら、ここでとんでもない事が起きてるぞ!」

 扉が開くのを待つのももどかしく、エレベーターに飛び込んだ。想像していたとおりエレベーターガールもいなかったが、誰かがさっきまでいた気配はかすかに感じられる。

 エレベーターの扉が開くと、無人の廊下を走り抜けロックを外し部屋に飛び込む。

「おかしいな」 

 あずさの部屋のドアだけが開きっぱなしだった。テーブルの上には、デジカメからプリントアウトしたと思われる写真がきれいに並べられている。俺といろいろなポーズをしながらルクソールホテルで撮った写真だけが、別に分けられていた。

その中にあずさを肩車してピースサインを出しているヤツもあった。写真の中のあずさは、これ以上ない程の笑顔で白い歯を見せている。俺は気づかれないようにそっとその写真を手に取り、スーツのポケットに仕舞った。

「これを見てくれ!」

 ひらひらと手を振る紫苑の手にはメモが一枚あった。ドレッシングテーブルの上にに無造作に置いてあったらしい。

「女は預かった。返して欲しければ新ワクチンを渡せ。なお、十五分間はこのホテルは無人になっている。信じられないかもしれないが、我々は時間を買い取った。もちろん防犯カメラの時間もだ。ではまた連絡する。Jより」

「時間を買い取るだって? バカな」

 もしこれが本当だとすると、途方もない金か権力が必要だろう。

「とにかく、あずさが拉致された事実は確かだ。手がかりが他に無いか部屋をくまなく探してみてくれ。俺はホテルの従業員を探して話を聞いてくる」

 返事も聞かず、部屋を飛び出した。一階のドアが開くと、とたんに狐につままれた気分になった。驚くことに、さっき駆け抜けたロビーにはいつもと同じように人が溢れかえっていて、フロントも普通に業務を行っているではないか。

 何とも言えないような怒りが湧いてきたが、ここは冷静に対処しないといけない。

「ちょっといいかな? さっきここに誰もいなかったんだけど、君たちはどこにいたんだ?」

 俺の言葉にフロントの女性は首を傾げるだけだ。

「お客様のおっしゃった事に対して、私には皆目見当がつきません。今日はずっとここに立っていましたから、たぶんお客様の見間違いではないかと思われます」

 妙な事に、彼女はマニュアルどおりの笑顔でそう答えた。だが、普通だったらこんな質問に対しては、少しぐらいは当惑した顔をするはずだ。その反応は、まるで答えを用意していたかのようだった。

 これでは埒が開かない。念のため、接客が終わったばかりのコンシェルジュにも同じ質問をしてみる。予感はしていたが、判で押したように同じ答えが返ってきた。どんな質問をしても、手ごたえがまるで感じられない。

 ロビーの数人の客にも質問したが、肩をすくめるだけだったので、俺はとりあえず部屋に帰ることにした。

「紫苑、ダメだ。みんなロボットの様に『知らない』と同じ答えだ。しまいには『いい精神科医を紹介しましょうか?』とまで言われたよ。まるで訳が分からない。そっちは何か分かったか?」

 気持ちは焦るばかりだった。やはり拉致されたのは本当なのか。

「ダメだね。押し入った形跡が全くない。こうなったら、Jというヤツから電話を待つしかないかも」

 その時、この言葉に被るように紫苑の携帯が鳴った。

「はい。えっ? 新ワクチンが届いた? ずいぶん早いな。分かった、部屋で待ってるよ」

 電話を切ると何か相手の言葉に違和感を感じ取ったのか、彼は少し首をかしげている。

「アーノルドからか? ……どうも妙なタイミングだな。あずさの事と関係なければいいけど」

「うん。何か声の調子もヘンだったな。俺さ、嘘をついている人間は声ではっきりと分かる時があるんだ。例えるなら、昔いじめられていた頃、いじめっ子たちが先生に嘘をつくときの声のトーンだよ」

 どう考えても、CIAが俺たちに嘘をつくメリットは無いはずだ。だが――もしあずさが拉致された件に関係しているとすれば、ホテルの時間を買い取るには大きな組織の力か、金しかない。探ってみるか。携帯を借りてアーノルドにかけ直す。

「申し訳ないけど、ひとつ頼まれてくれないか。実はうちのチームの女の子がさっき誘拐されたんだ。そうだな、たぶん一時間以内だ。CIAの衛星で探知できるかやってみてくれ。……分かった、ありがとう。では三十分後に」

 携帯を紫苑にぽんっと投げる。

「ここに来るまでには分かるってアーノルドは言っていた。だが彼らがもし関わってたとしたら、来てもデタラメな事を言うだろうな」

 紫苑は真剣な顔をして無言で頷くと手に持っていたメモをくしゃくしゃに握り潰す。

 とにかくまずは新ワクチンを手に入れなければ、Jと取り引きはできない。CIAがどんなに疑わしくても、三十分後には取り引きだ。

 Jからの電話は――まだ無い。


一時間前


「アーノルドか? ブライアンだ。いいか、黙って聞け。我々の探していた万能ワクチンは意外と身近な所にあった。この名前を聞いて驚くなよ。篠崎紫苑、お前はコイツを知っているはずだ。彼の身体の中にそれが流れている。代表の孫ってのはなんと彼だったんだ。生きたまま捕獲しろ。私もすぐそちらに向かう」

 早口でしゃべる彼の声は、いつもより興奮していた。アーノルドは、電話の内容に驚きのあまり言葉が出ない様子だ。

「……分かりました。ちょうど明日、新ワクチンを渡すという約束をしているので、その時に捕獲を実行します」

「明日じゃない、すぐにやるんだ! エリザベートからもキツく言われている。ただし! 彼はエリザベートには渡さない。我々CIAがいただく。分かってるな?」

 怒りを含んだ口調で叱咤する。彼がこんなに感情を剥き出しにすることは滅多になかった。

「はい! すぐに」

 電話を切ると、深いため息をついた。

「信じられない、こんなに身近にあったとは。しかし、なぜ? これも代表が?」

 代表がある意志を持って当選者に紛れ込ませたと彼は考えているようだ。

「兄さんからね。どうしたの?」

 DOLLの足元には、ぼんやりとした目のベイブが首に包帯を巻いたまま横たわっていた。目線が定まらないその足元に毛布をかけながら、期待を込めた目でアーノルドを振り返る。

「ブライアンが来ます。そして、我々はすぐに篠崎紫苑を捕獲しないとなりません。緊急命令です」

「本当なの? 兄さんが来るって事は、あの『カルト集団』をついに見切ったのかしら」

 怪訝な表情から、霧が一気に晴れるようにその顔がぱっと明るくなっていく。

「任務が終わって戻って来たなら、また元通り彼と愛し合える。誰にも文句は言わせないわ。――だって私と兄は、血がつながっていないんですもの」

ぶつぶつと呟きながら宙を仰ぐ。彼女の顔にほんのりと赤みも加わり始めた。すぐにアーノルドが、クローゼットから頑丈なスーツケースを引っ張り出してくる。フタを開けると、サブマシンガンや拳銃などが鈍い光を放っていた。重さを確かめるようにそれぞれ手に取り、弾の確認をしたあと安全装置をかける。準備はこれで完了だ。あとは偽のワクチンを掴ませて、隙を見て紫苑たちをホールドアップさせるだけだった。

「あいつは手ごわいですよ。あまり舐めてかかると逃げられる可能性が」

「ふふ、簡単な任務じゃない。あ、監視は少しの間ストップしていいわよ」

「承知しました」

 テーブルのノートパソコンの画面には、『チームセブン』の位置情報を示す信号が“はっきりと”映っていた。アーノルドは深いため息をついた後、画面も見ずにそのままぱたんとパソコンを閉じてしまった。

 謙介たちがフロントを駆け抜けている頃、あずさは別のホテルでばたばたと暴れていた。

「んむ……ぷはあ! ちょっと、痛いじゃない!」

 フォーシーズンズ・ラスベガスのスイートに監禁されているあずさの口から、べりっとガムテープがはぎ取られる。椅子に座ったまま後ろ手に縛りつけられているが、衣服は全く乱れていないようだ。部屋の中にはJACKPOTの五人が顔を揃え、悪態を着く娘の姿を思い思いの場所に座りながら眺めていた。

 つけっぱなしのテレビのニュースからは、国内の病院からの映像と共に深刻な顔をした女性キャスターの声が流れている。

「この、世界規模で起こっている『変異型クロイツフェルト・ヤコブ病』に似た感染症は今も広がりつつあります。政府筋からの発表によりますと、患者の体液や唾液などから感染すると思われますので、患者には極力触れないようにとのことです。手洗いやうがいはもちろんの事、なるべく外出を控えることも重要です。この病気により、レスリング、ジュードーなどが予定されていたプロスポーツのイベントは既に中止となっています」

 映像が病院からショッピングセンターに切り替わる。

「ごらんの通り、昨夜から食料や日曜生活品を買い求める長い行列ができています。未確認情報ですが、一部の高官は、自宅からクリーンルームのある自宅シェルターに避難し始めた模様です。しかし、ご安心下さい。合衆国大統領は、この事態を収拾すべくいつもどおり執務を行っています。後ほど大統領の記者会見がホワイトハウスで行われる模様です」

 昨日からこのようなニュースが、どのチャンネルからも流れるようになっていた。

「消してくれ」

 あつしの言葉で、リンダは椅子から立ち上がりテレビを消した。

「さて。申し訳ないが、少し乱暴な手段をとらせてもらった。生き残るためには必要な手順なんでね」

 リーマンが本当に申し訳なさそうに目の前のあずさに謝った。

「ふーん。どうやらあなたたち、かなり煮詰まっているようね。そこのあなた、立派な『ヒゲ』ができて良かったじゃん」

 にやっと笑いながらあずさが挑発する。

「うるせえよ。思いっきり引っ掻きやがって。おまえはネコか」

 ソファには、頬っぺたにヒゲのような三本の傷跡をつけたゴリラが、ぶすっとした顔をして座っていた。あずさのよく手入れされた尖った爪で引っかかれたら、痛くてたまらなかったであろう。

「お嬢ちゃん初めまして、じゃないよな。スタートの時の騒動を見物していただろ? しかし、チーム『セブン』さんはまったく良くやってるよな。できれば俺も、お前らのチームに入りたかったぜ」

 煙草に火をつけながら、あつしがあずさが縛られている椅子の前まで行き挑発的に見下ろす。

「で? 私を拉致してどうするつもり? こんなことして、謙介さんと紫苑が黙ってないわよ。あの人たちは絶対に助けに来てくれるわ。あんたたちなんて、ぼっこぼこプラス全員猫ヒゲよ」

 この時誰にも見えていなかったが、ぷんぷん怒る彼女の後ろ手に縛られた指先は、ひっかく形に曲げられていた。

「それはどうかな? 案外新ワクチンを自分たちだけゲットして、逃げちゃうかもしれないぜ」

 ニヤニヤ笑いながらあずさの顎を手で持ち上げた。

「触らないでよ! あんたたちへっぽこチームと違って、私たちのチームはねえ!」

「ストップ! 分かった、もういい。そのへっぽこチームからのお願いなんだが、聞いてくれるか? 話はとても簡単だ。新ワクチンと引き換えに君を返す。迷惑料として二百万ドルも付けよう。悪い話じゃないだろ?」

 リーマンはゆっくりとあずさの後ろにまわると、締め付けすぎている手首の縄を少し緩めながら言った。細い指先に血の気が戻る様子が伺える。

「何が『悪い話じゃないだろ?』よ。セブンは今の状況をきちんと把握してるわ。お金がいくらあったって、新ワクチンが無ければもうすぐ全員死んじゃうって事も知ってる」

 キリっとした目でリーマンを見上げる。

「そうだよな。……じゃなきゃ、あんな取り引きはしないはずだ。気絶させてチップを取り出すなんて、ひどいことをする」

 顔をしかめながらリーマンは大げさに手を広げる。妙に引っ掛かる言い方だ。

 その言葉を聞いて、あずさは急に黙り込んだ。そして何かを考えたのか口を開く。

「そうね。――じゃあこうしましょう。私に配給される予定の新ワクチンを、あなたたちにあげる。その代わりあの人たちのは見逃してあげて。このまま私は何事も無かったかのように帰るから。そして受け取ったらすぐにあなたたちに渡す」

 それは固く何かを決心したような眼だった。

「なあ、やっぱりやめようよ。この娘がかわいそうだよ」

 奥の椅子に一人ぼっちで座っていたモヒカンが、今の話に感動したのか涙目で訴える。

「バカ言ってんじゃねえ! 生きるか死ぬかの瀬戸際に俺たちはいるんだぞ。新ワクチンを持っているヤツは生き残り、持ってないヤツは死ぬ。なんでそれが分からねえんだ!」

 テーブルをどんっ! とコブシで殴りつけながらあつしが睨む。

「だけどさ……」

 その邪悪な視線をまともに受けたモヒカンは、ぶつぶつ言いながらも眼を伏せ下を向いてしまった。

「じゃあ、こうしようか。新ワクチンは、とりあえず一つだけ渡して欲しい。さっきCDCと連絡をとったところ、『もしそれが本物なら、五日もあればサンプルができるかもしれない』と言っていた。感染リミットギリギリだが、何とか間に合うだろ。大金をばら撒いた割りには結果は満足では無いが、こうなったらしかたがない」

 モヒカンの気持ちが通じたのか分からないが、妥協策を提案する。

「てめえ、話が違うじゃねえか! もし五日間でできなかったらどうするんだ? 新ワクチンのオリジナルを接種できる可能性があるから、この作戦を立てたんじゃねえのか? 俺は納得できねえよ」

 手を広げあつしは熱弁をふるうが、他の四人はあずさをちらちら見ながら何かを考えていた。

「ねえ……ギリギリ間に合うんならそれでいいじゃない。その娘の心意気を酌んでやりましょうよ。もし逆の立場だったら、その娘のようなセリフを言える人がここに何人いるのかしらね」

 自分より年下の娘の話が心に刺さったのか、リンダも助け舟を出す。

「あつしさん、俺もそう思います。自分の命が危ねえのに、こんな小娘がカッコつけてるんですよ」

 四人の瞳に見つめられ、とうとう折れたようだ。

「分かったよ、この偽善者どもが! まあ、使ったのはそこのトサカ野郎の金だから、俺は別に痛くも痒くもねえけどな!」

 モヒカンに近づき肩を激しくぶつけると、首を振りながら部屋を出て行く。その後姿が見えなくなると、リーマンはやれやれという風に肩をすくめた。

「どうか許して欲しい。言わばCIA側の君たちから新ワクチンを奪おうと言うんだから、並大抵の作戦では失敗すると思ったんだ。私たちが数億円をバラ巻いて時間を買ったのは、CIAだけには絶対にバレる訳にはいかなかったからだ。CDCのエージェントが表立って『横取り』するのはどう考えてもまずい。万が一バレたら後で大問題になるだろう。アーノルドたちは私と協力を約束して見せたが、あんなのはしょせんポーズだけで、本当に協力する気は毛頭無いはずだ」

 どうやらリーマンは、まだ発信機の存在を完全には把握しきれていなかったようだ。

「ちょっと待ってよ。別に私たちはどっち側とかじゃなくて、ただ新ワクチンを手に入れたいだけなの。まだチームのみんなの意見を聞いてはいないけれど、私、それを増やして世界の人を一人でも救いたいの」

 この時点では、謙介と紫苑も同じ考えだという事を知らなかった。

「いい心がけだね。私も同じ考えをしていた時期もあったよ。ここだけの話だが、私も新ワクチンを手に入れたら独自で増やすつもりだが、君とは目的が少しだけ違う。気づいているか分からないが、『このワクチンは大金を生む』んだよ。つまり、私は組織に渡すつもりは無い」

あずさの目の前に椅子を置きゆっくりと座ると、他の者に聞こえないように耳元で呟いた。

「そんなことして恥ずかしくないの?」

「さてさて! 困ったことにこのままこの娘を帰しても、新ワクチンを持って来るという保証がない。みんなはどうしたらいいと思う?」

 突然、明らかに不自然な大声を張り上げる。モヒカン達は驚いたようにビクっと身体を震わせた。リーダーはこのリーマンなのだ。彼にまかせるしかないという空気が、渦を巻くように部屋に漂っていく。

「帰ってもあなたたちの事は何も話さないし、私は絶対に約束を守るわ。信用してよ」

 その眼は決して嘘をついてるようには見えなかった。

「ところで、さっき見た映像を覚えているかな? もし約束を守れなかったら、この映像を証拠として司法機関に提出する。結果的に立派な殺人行為につながるからね。もし立件されなくても、私のコネで国際指名手配犯に仕立て上げる。そうなったらチームセブンは共犯として、一生逃げ続けなければならないだろうね」

「仲間には手を出さないでっていったでしょう! 紫苑だってあなたたちと同じで、選択肢が無くて仕方なく協力したのよ!」

 急に暴れ出し、縛っている椅子ががたがた揺れる。顔は真っ赤になり、近づいたら噛みつかれそうな勢いだ。

「保険を掛けるのはエージェントの基本中の基本なんだ。分かってくれ」

 丁寧な言い方だったが、この男ならきっとその通りにするだろう。

「――分かったわ、じゃあ解放してよ。明日手に入れたらすぐにあなたたちに渡すから。そしたらすぐにその映像のオリジナルを渡してね」

 ここまでのチーム『セブン』の結束力に感心した様子だったが、それを最後まで表情に出さずにリーマンは頷いた。

「もちろんだ。ではセブンに電話をかける。私の電話が終わったら君を解放しよう」

 くるりと踵を返すと、全員の視線を強く浴びながら別室に姿を消した。別室のドアの鍵を掛けると、リーマンは探知されない携帯を取りだしどこかに電話をかけ始めた。

「エドワード博士、作戦は順調です。ビッグミリオンは『神の鉄槌』作戦を続行中だと思われます。今日新ワクチンを手に入れたら、すぐにそちらに向かう予定です」

「ああ、そうしてくれ。新情報だと、三段階目の進化にはどんなに早くても一か月を要すると思われる。それまでに噂のシーズン3対応の『万能ワクチン』を手に入れるのじゃ。だが、わしが調べた情報によると、『万能ワクチン』は複製は非常に困難らしい。つまり現段階では、奇跡的にこのウイルスが3段階目に進化しないことを祈るのみじゃな」

「そうですか……。CIAにシーズン2用ワクチンの、再打診はしてみたのですか?」

「ああ、当然してみた。だが、まだ不完全ということで拒否されたよ。未確認だがホワイトハウス関係にはサンプルを提出したらしい」

 博士の口調に自嘲的なニュアンスが混ざった。この事からもアメリカ政府は、CDCを見限ったようにもとれる。

「まあ、しょせん一時しのぎにしかならんがな」

そう、シーズン3の情報まで知っているものは、博士を含めこの段階では数えるほどしかいなかったのだ。

「分かりました。では、博士はそろそろご家族を連れてそこを脱出して下さい。最 新設備の研究所は私が用意致しましたので、当初の段取り通りに。その際、研究資料も忘れずにお願いします。もうすぐ――大金が掴めますよ。では、また動きがあれば電話いたします」

 電話を切ると、今度は自分の携帯からボイスチェンジャーを通して電話をかける。

「もしもし、Jだ。君のチームの女性を解放する。大金を使ったが、私たちの作戦は早々に破たんした。ああ、怒りはもっともだ。もちろん彼女はケガひとつしていないよ。十五分もあればそちらに着くはずだ」

 電話の相手はかなり怒っている様子だったが、かまわず電話を切った。

「あとは彼女がうまくやるだろう」

そっと呟くと携帯をポケットに入れ皆の待つ部屋に戻っていく。

「セブンとは話がついた。では彼女を解放してやってくれ」

 全員の視線が一斉にリーマンに注がれる。ゴリラが顔を遠ざけながら、こわごわとあずさの拘束を外していく。機嫌を損ねないようにするためなのか、妙に時間がかかった。

「約束は守ってもらうぞ。分かってると思うが」

 釘を刺すようにリーマンが確認する。

「分かってるわよ。貰ったらすぐに持って来るわ。何度も言うけど、謙介さんたちには“絶対に”手を出さないで!」

 手首を撫でながら立ち上がると、強い気持ちを凝縮したような声をぶつけた。そして少しふらつきながらも部屋の全員を一通り睨み、スイートを出て行った。


 十五分後、あずさがひょっこり何事も無かったようにドアを開けた。俺はあずさに駆け寄ると、頭のてっぺんから足元までケガが無いか確認する。

「大丈夫か? ケガは?」

 無事を確かめると、全身から力が抜けた。

「平気よ。何か仲間同士でモメたみたいで、結局解放されたわ」

 にこっと笑ったが、その顔にはどこかいつもの“あずさらしさ”が無かった。

「無事で本当に良かった。ところで犯人は誰なんだ?」

 俺は優しく言ったつもりだが、眼は怒りに燃えていたはずだ。

「うん。心配かけてごめんなさい。犯人はね……知らない人たち。どこかのホテルに監禁されたけど、一切手を出してこなかったわ。あの人たち新ワクチンを狙っていたみたいけど、あきらめた様子だった」

 彼女の表情は何かを隠しているように見えた。なぜなら、新ワクチンを狙うものなど限られているからだ。

「……なるほど。あずさがそう言うんならそれでいいよ。謙介さん、これからは目の届くところに全員一緒に居た方がいいね。新ワクチンを狙うヤツが他にもいるかもしれないからさ」

 俺と目が合った紫苑も、あずさが何かを知っている事に気付いたようだが、やはり黙っていた。

「そうだな。なるべく一緒に行動しよう。そうだ、そろそろアーノルドたちが来る時間だぞ」

「え? 明日じゃなかったっけ?」

 妙に驚いた様子で、あずさが聞き返す。

「いや、急に前倒しになったんだと。だけど、紫苑のカンだと何か引っ掛かるみたいだから、警戒しないとな」

「そう……。分かった。私、ちょっと爪が剥がれちゃったから直してくるね」

 彼女が自分の部屋に帰ると、俺たちは首を傾げながら顔を見合わせた。

「おまえも気づいていると思うけど、何かあずさの様子がヘンだよな」 

「うん。何かを言えないっていうか、まるで『言ったらダメだ』って言われているような」

 この言葉通りの印象を、俺も受けていた。

「あいつ頑固だから、聞いても絶対に話さないだろうね。アーノルドたちが来たら監禁されていたホテルの場所を聞いてみよう」

「ああ。そろそろ来るはずだ」

 言い終わらないうちにノックの音が聞こえた。ドアを開けると、アーノルドとDOLLがにこにこしながら入って来る。

「お待たせしました。彼女はまだ見つからないんですか?」

「いや、帰って来たよ。だが、彼女が監禁されていたホテルが知りたい。何か分かったか?」

 俺の問いかけに目をそらしながら椅子に座ると、アーノルドはゆっくりと話し始めた。

「場所は分かりませんでした。太陽の黒点の影響かもしれませんが、電波が弱くなる時間があるんですよ。たぶんそれのせいだと思います」

「そうか。――それは残念だな。で、新ワクチンは?」

 二人に椅子を勧めふと紫苑を見ると、壁を背中につけて腕を組みながらこのやりとりを見守っている。何か動きがあれば即座に動くつもりなんだろう。

 のろのろとした動作で、DOLLはハンドバッグからガラス製のアンプルを三つ取り出した。丁寧にハンカチを敷いてからテーブルに置くと、説明を始める。

「これはベイブの件の報酬よ。彼はあの後すぐ発症して、寝たきりになってしまったわ。これからはもう余計なことを話すこともないでしょう。あと、エリックの死体はうまく処理したわ。こちらも心配ない」

 アンプルを軽くかちっかちっと指先でいじりながら話を続ける。

「じゃあ、これの使用方法を説明するわね。この中身を注射器で吸い取って、自分の血管に打つのよ。簡単でしょ? それでシーズン2にも対応できる身体になれるわ。ちなみにこれは、ホワイトハウスに提供したものと同じ中身だから安心して」

 アンプルの首を折って、注射器で吸う仕草をした。

「じゃあ、早速俺が試してみようかな。けど……その前にそれをあんたが打ってみろよ」

 紫苑がつかつかと近づくと、彼女の前にどかっと座った。俺には全く分からなかったが、今の会話から何かを確信したのだろうか。

「え? わ、私たちには自分用のアンプルがあるし」

「いいからさ、打ってみなよ。その後あんたたち用のアンプルをもらうよ。中身は同じモノなんだろ? それとも……何か問題でもあるのかな?」

  その瞬間!

アーノルドが急に立ち上がり、ホルスターから拳銃を抜いて紫苑の頭に狙いをつけた。同時にDOLLも太ももの内側のホルスターに手を持っていく。

 俺はとっさにテーブルを蹴り、アーノルドにぶつけた。ちょうどいい感じに彼の股間にしたたかにヒットする。すぐにカン高い声を出しながら、股間を押さえ足をばたばたさせたあと彼は悶絶する。

 同じ瞬間を共有するように、猛獣のような素早さで紫苑も動く!

 ゴッ!

 目にも止まらぬ速さで、アーノルドの落とした拳銃を部屋の隅に蹴ると同時に、蹲っているそのこめかみに腰の入った渾身の右フックを叩きこんだ。彼はそのまま昏倒し、泡を吹きながら絨毯に倒れ込む。

 テーブルが前から消えた瞬間、俺はもう次の行動に移っていた。DOLLのセクシーな太ももに拳銃を見てとると、立ち上がる動作と一緒に“少し無様な格好だったが”彼女の手をがっちりと掴み後ろにまわった。こんな時でも、女性だけは殴るわけにはいかない。

「少し落ち着こう。さてと、ここでなぜ太ももから拳銃が出てくるのかな? ジョークでも飛び出すならまだ分かるけどさ」

 静かな声で俺が話し出すと、DOLLはあきらめたのか抵抗を止めて手の力を抜いた。太ももから拳銃を取り、弾倉を抜いてソファに投げる。倒れたテーブルを元に戻すと、彼女と俺は向かい合って座り直した。紫苑はアーノルドを後ろ手に縛りあげ、軽々と担いで浴室に消えて行く。

「では、ちゃんと話してもらおう。じゃないとこれをあなたに打つしかない」

 俺が本気だと分かると、彼女はふて腐れながらもやっと目を合わせた。

「分かったわよ、話すわ。兄さんと私、二人だけが助かればCIAなんて本当はどうでもいいのよ」

 渋々ながらも、ブライアンのことや偽ワクチンのことなどを詳しく話し始めた。

「元はと言えば、全ては『万能ワクチン』のためよ。これは“人間に保管されている”の。いい? 驚かないでね。その人間とはそこにいる……」

浴室から帰ってきた紫苑を、彼女が一瞬見たような気がした。

 だが、最終的にその目線が止まった先には――鈍く光る拳銃を持ったブライアンと、サングラスをかけた黒服の男がまるで最初からそこにいたように立っていた。気配をまるで感じなかったのか、紫苑も驚いたように眼を丸くしている。

「兄さん!」

 兄を見つめる目からは大粒の涙がボロボロとこぼれ、すぐに椅子を蹴って立ち上がる。

「少し遅くなった。しかし、形勢逆転だ。二人とも壁に手をついて足を広げろ!」

 DOLLは勝ち誇ったような微笑みを浮かべて俺を見ると、ブライアンの胸に駆け込もうと一歩前に踏み出した。

ぱんっぱんっ!!

 ブライアンの放った弾丸が、駆け寄よろうとする彼女の胸と腹に二つの赤い花を咲かせた。やがて白いブラウスは赤く、赤く染まっていく。

「兄さん……どうして?」

 腹を押さえ、信じられないような眼をして、兄ブライアンを見つめる。

「悪いな。『万能ワクチン』は非常に貴重なものなんだ。エリザベートにも、CIAにも渡す訳にはいかなくてね。君は知りすぎた。さようなら――可愛い妹よ」

 その眼は悲しげだったが、使命を果たした人間特有の満足感が垣間見える。

「バカね……兄さんだって……きっと裏切られるわよ……でもね……私、心から……愛して……」

 毛足の長い絨毯を二、三歩踏みしめながら、ブライアンをその手に抱きしめるかのような仕草をする。だが、その細い腕は空を切った。そしてそのまま崩れ落ちるように倒れると、DOLLという女性の魂はこの世から永遠に消えてしまった。

「――さて、『鬼頭紫苑』くん。一緒に来てもらうよ。あ、そこの君には用は無いから、彼に楽にしてもらいたまえ。万能ワクチンの秘密を知った者は、誰も生かしてはおかない」

 目をつぶり頭を左右に振って何かを振り払う動作をしたあと、黒服の男に顎をしゃくった。

「鬼頭だって? 紫苑、おまえ確か篠崎って」

 俺は壁に手をついたまま、横にいる鬼頭と呼ばれている男を見た。絶体絶命のピンチなのに、何故か紫苑の口元は笑っているようにひきつっていた。

「鬼頭は俺の親父の名字だよ。離婚して母親の姓になったんだ。俺のおじいさんは、〈ビッグミリオンの代表〉だって母さんから昨日初めて聞いた。そうか、そうだったのか。今、はっきり思い出したよ。子供のころおじいさんが見守る中で打たれた注射は……『万能ワクチン』だったんだね」

「そうか……。おまえ、俺たちに言いだせなかったんだろ? この狂ったチャレンジの黒幕の孫なんて簡単には言えないよな。でもな、一人で悩んでないで何でも話して欲しかった。もしこのピンチを切り抜けられたら、あとでワクチンの話も詳しく聞かせてもらうぞ」

「ああ、でもどうする?」

「コイツらがあずさに気づかず立ち去ってくれるなら、俺はこのまま処刑されてもいい。だがそれは甘い考えだろうな。一か八か、これを使ってみる」

 弾倉を抜いてしまったが、DOLLの拳銃を腹に差して隠してあった。この芝居でなんとか二人を逃がさなければならない。

 よし、一世一代のハッタリをかましてやる!

「さて、別れのあいさつはすんだかな? じゃあ君はそのまま壁から離れてひざまずいてくれ」

 ここは言われるがままに、素直に床にひざまずいた。あとはタイミングだ。

「悪いな。鬼頭くん意外は始末しろという命令なんでね。やれっ」

 黒服がごりっと俺の後頭部に銃口をめり込ませる。

「ちょっと待ってくれ!」

 突然、紫苑が腹の底から絞り出すような大声をあげる。黒服が気をとられた隙に、俺は横っ飛びしつつ素早く腹から拳銃を取りだし、ブライアンの頭に突き付けた!

「銃を捨て……え?」

 考えていたカッコいいセリフを言う寸前に、目の端で何かが動いた。

「だああああああああ!!」

 一瞬、何が起こったか分からなかった。視界が突然奪われ、部屋の中が白一色になると、たまらず俺たちは咳き込む。奥の部屋から人影が飛び込んできて、ぎゅっと俺の手をつかんだ。デコレーションされた爪……これは?

 あずさだ!

 まったく、見上げた勇気だった。たぶん、隠れて今までのやりとりをこっそり聞いていたのだろう。消火器を手に持ち、妙な雄叫びを上げながら勇敢にも単独で飛び込んできたのだ。

 ただ、その時俺は煙の中で恐ろしい物をちらっと見てしまった。彼女の眼はそう、例えるなら、虫に向かって殺虫剤を夢中で噴射する時の『母ちゃんの眼』をしていた。

「ごほっ! ごほっ!」

 視界を失ったブライアンたちは、目を押さえながら咳き込んでいる。今度はそこに集中的に消火器の粉を浴びせながら、俺たちは走って部屋を飛び出した。

 逃げるついでに廊下にある非常ベルのボタンを押すと、すぐにけたたましいベルが鳴り響いた。エレベーターが非常停止してしまう前にロビーに降りなければならない! 幸運な事に何とかエレベーターに飛び込む事ができた。すぐに紫苑がナンシーに電話をかける。

「今、追いかけられてるんだ! え? 違うって、バカ、女にじゃないよ! 今から君の家に行くから、三人かくまってくれ」

 ロビーに着くと、ホテルのスタッフが客に緊急時の誘導をしているのが見える。今から横切ろうとしている空間は、逃げ惑う人々でごったがえしていた。その人ごみに混じりロビーを抜けると、脇の駐車場には二台のカワサキが、待ち焦がれたように主人を待っていた。

「そっちに乗れ、あずさ! 紫苑は俺と上着を取り換えてくれ」

 俺はヘルメットをあずさに強引にかぶせる。紫苑と服を交換すると、顔が分からない様にサングラスをかけバンダナを頭に巻く。

「多少汗臭いが我慢しろよ。何があってもそのメカニックくんにつかまってるんだぞ!」

 あずさはひらりと紫苑のバイクの後ろにまたがり、親指を立てて頷く。そして同時にエンジンをかける。

 命を吹き込まれた二頭の鉄の馬が、大通りに頭を向けて仲良く並んだ。

「ナンシーの家は知ってるよね? そこで落ち合おう。謙介さん……この音聞こえる?」

 紫苑の言葉に耳を澄ますと、遠くから複数のパトカーのサイレンが聞こえてくる。

「ああ、聞こえる。よし、二手に別れよう。俺は追っ手を引きつけるから、あずさを頼むぞ!」

 振り返ると、ロビーからブライアンたちが出てきてこちらを指さし、無線でどこかに指示を出している。

 二人を先に行かせ、俺はブライアンが近づくのを待った。ミラー越しに拳銃を抜くのが見えた瞬間、後輪を滑らせながら紫苑とは反対の方向に急発進した。

 ここからナンシーの家まで飛ばせば十五分ぐらいだ。だが、今後ろにはパトカーではなく、なぜか高性能の黒いバンが三台追尾してくる。

「あのタイプの車に乗るのは……映画では悪党か、政府がらみの組織って相場が決まってるんだよなあ」

 運転手の顔は見えないが、ブライアンはそのどれか一台に乗って指揮をとっているのだろう。まだまだ時間を稼がなければ。ただ、幸運な事に、どうやら紫苑たちの逃げた方角には追っ手は行っていない様子だった。

 もう、あたりには夕闇が迫っていた。ヘッドライトをつけずになるべく細い道を選びながら、右に左にくねくねとバンから逃げ回る。バイザー越しに見える街は静まり返り、ここがベガスの裏通りとは思えない程だ。ごみ箱は気ままに散乱し、いつもいる派手な姿の客引きたちの姿も見えない。

 一つ角を曲がると、そのままフリーモント・ストリート・エクスペリエンス(年末には豪華なクリスマスツリーが飾られる、四百二十メートルのハイテクアーケード)を、人がいない事をいいことに風のように疾走する。それが効果があったのかは分からないが、いつの間にか俺を追いかけるバンは一台に減っていた。

 アーケードを抜けると、広い通りに出た。巡回中のパトカーとこの時すれ違ったが、あまりにもこちらが速かったか、追いかけてくる気配さえなかった。運転席の若い警官が、あきれた顔で口笛を吹く様子まで、今の俺にははっきりと見えている。

 しかし、ここでちょっと良くない事態が発生した。気配を感じて上空を見上げると、ヘリがいつの間にか俺を追尾しているではないか。車だったらほぼ逃げ切れないのだが……。案の定、赤外線カメラで捕捉されているのかヘリの追尾は執拗だった。

「このままじゃ道を封鎖されるか、車を強引に当てられて転倒させられるパターンじゃん」

 ヘルメットの中でにやっと笑う。俺は昔から、こういうピンチになればなるほど何か楽しくなってしまう悪い癖があった。それが今、むくむくと頭をもたげて来るのを感じる。

 そのまま赤信号を無視して交差点を曲がると、目の前に派手な看板のショッピングモールを見つけた。とっさに地下駐車場に鼻面を向け潜り込む。

 だが運の悪い事に、この時間は食料を買占めるために客が押しかけているのか、地下駐車場に入る車の長い列ができていた。カワサキを右に左に振り強引に車をよけながら、やっと駐輪場までたどり着く。まだ火照っているエンジンからは、むわっとした熱気とタイヤの焦げる匂いが立ち上り、何故かそれが俺の心を妙に落ち着かせた。

「チッ」

 エンジンを切った瞬間、何か舌打ちが聞こえたような気がしてふと振りかえった。

 少し離れたスペースからゴツいハーレーにまたがったバイカー野郎たちが、何故かサングラス越しにこちらを威嚇するような眼で睨んでいる。そいつらの足元に転がっている男はケンカで倒れたのか、例の感染で倒れたのか、ビクビクとけいれんを繰り返していた。だが、俺はかまわずショッピングモールに飛び込む。今はこんなヤツらを相手にしている場合ではない。

 最初に目についた店は、ちょうど水着やアロハシャツなどを売っているテナントだった。この非常時に水着などは売れないのか、食料フロア以外はだいたい休業しているようだ。それをいいことに目についたアロハシャツと短パンを商品棚から取り、できるだけすばやく着替えた。そして百ドル札をカウンターに放り投げ、買い物客に紛れるためにエレベーターの上りボタンを押す。

 ブライアンたちは、あの駐車場の渋滞を見たら徒歩でここに向かって来るだろう。もし応援が来たら、このショッピングモールごと封鎖してくるかもしれない。まだ俺を紫苑と間違えているなら十分にあり得る話だ。

 じりじりしながら待っていたエレベーターのドアが開くと、どこかで見た紳士が玉のような汗をかきながら出てきた。上品な服を着た男の子を連れ、山盛りの商品が入った二台のカートを重そうに押している。

 私服だと分かりにくいが、確かこの人は……。

「あの、失礼ですが、カジノのオーナーですよね?」

 一瞬首を傾げたが、向こうもすぐに俺に気付いたようだ。

「ああ、君か! 例の勝負は本当にアツかったな。私も年甲斐も無く興奮したよ、はっはっは! まあゴールドマンに賭けて、結局はとんだ散財をしてしまったがね。そうそう、彼はあのまま病院に運ばれて今も入院しているよ。伝説ってのは――散る時は儚いものだな」

「本当に申し訳ないです。全てをお話したいんですが、今は時間がありません。ゴールドマンさんは本当に素晴らしいディーラーだったと思います。もしあんな事が無ければ、完全にこちらが負けていました。ところで……。もし良かったらでかまいませんが、俺をここからあなたの車に乗せてっていただけませんか? 突然あつかましいお願いをして申し訳ありません」

 今は本当に時間が無いが、(もし生き残る事ができたら、またこの人に会いに来よう)と思いながら俺は深々と頭を下げた。

「ああ、全然かまわんよ。どこのカジノまで送ろうか? 最近ディーラーがばたばた謎の病気で倒れているみたいだが、『我々のベガスは、最後の一人が倒れるまで営業を止めない』とオーナーたちは意気込んでおる。君たちは、まだこっちで勝負は続けるのだろ?」

 にっこりと笑うと目じりのしわが、彼の顔だちをひときわ優しく際立たせる。

「いえ、勝負には勝負なんですが、実は今――追われてるんです」

「おお! 若者は元気があっていいな。そういうのも私は嫌いじゃないぞ。実はな、昔はよく私も警察のお世話になったものだ。よし分かった、だが一つだけ条件がある」

 急に彼の顔から笑顔が消え、何とも言えない真剣な顔になった。

(どんな難問が出されるのだろう)と俺は――ごくりと生唾を飲みこんだ。

「このカートがすごく重くて年寄りの力じゃかなわん。車までひとつ押してくれないかな?」

 三十分後――黒塗りの高級車は、ナンシーの住むブロックに入った所で停車した。幸いなことに後をつけてくるような怪しい車は見かけなかった。

「本当にありがとうございました! このご恩は一生忘れません!」

俺はオーナーに頭を下げ心からお礼を言った。

「がんばれよ!」という意味であろうか、彼は敬礼をひとつするとクラクションをぱーんと鳴らした。後部座席では彼の孫が、オーナーの真似をして小さな手で敬礼をしている。

 見送った方向の逆に少し歩いて、白い外壁のマンションに入って行く。インターフォンを鳴らすと、張りつめたように警戒した声でナンシーが出た。いま彼女は元軍人である兄と一緒に住んでいるらしい。

「謙介だ。無事に着いたって伝えてくれ」

「イエエエエエエッス!」

 インターフォン越しに、部屋の中の歓声が漏れて聞こえて来た。

部屋に入ると、まず紫苑とあずさが笑顔で出迎えてくれた。小さな白いトイプードルも、俺の足元で飛び跳ねながら歓迎するように尻尾を振っている。部屋の中はオープンキッチンで間取りは驚くほど広い。部屋の主であるナンシーもバスルームから手を振ってくれたが、これから出かけるのか、化粧をしながら急いで支度をしている。

「無事で良かった! あいつらを上手く撒いたのね?」

 あずさが少し半べそになりながら胸に飛び込んできた。紫苑もほっとした顔で俺の肩をぽんぽんと叩く。

「ああ、ゴールドマンと勝負した時のオーナーいただろ? 彼と偶然会って助けてもらったんだ」

「謙介さんは、ヘンな運があるからなあ。ところでその格好、セミをとりに行く時の子供みたいだよ」

 紫苑の言葉で、俺の格好をまじまじと見た一同は大笑いした。それを横目にナンシーが無言で手を振りながら横切って行く。急いで出かけたのか、すぐ後に玄関のドアがバタンと閉まる音がした。

「とにかく急いで着替えたからなあ。まあ俺の服のセンスは置いといて……今から真面目な話をするぞ。いいか、俺たちを追いかけている組織はヘリまで飛ばしてきた。ヤツらは本気で『万能ワクチン』を手に入れるつもりだ。もし本当にCIAが相手なら、ここもいずれバレるだろう。それとな、街の様子が何かおかしくなってきている。感染者はどんどん増えているようだ」

 あずさに冷たいにレモネードを渡され、一気に飲むとやっと人心地ついた。

「一刻も早くここから逃げないとだね。ところで謙介さん、あずさが話したい事があるってさ」

 黄色い花が飾られた高いテーブルの周りに、三人が集まる。

「実はあたしね、紫苑にはもう話したんだけれど……」

 ここであずさは、チームJACKPOTとのやり取りを全て話しだした。それを聞いている俺の顔はたぶん複雑な表情をしていたと思う。(やはりあつしたちだったか)と怒りがふつふつと湧いてきたが、今は冷静にならなければと判断して、ただ黙って聞いていた。

「リーマンは拳銃を持っていたし、あずさは俺たちを助けたかったんだって。だってあの時もし犯人が分かったら、謙介さんもすぐにリベンジに行っただろ?」

 二人の視線が俺の言葉を待つように注がれている。

「――分かった。頑張ったな、あずさ」

 俯いているその頭をくしゃくしゃと撫でた。すると、誘拐事件以来、初めて彼女は自然な笑顔を見せる。

「よく考えてみればさ、俺が指名手配になったって今の状況とあんま変わらないじゃん。だから、そんな映像気にしなくてもいいよ」

 紫苑がそう言うと安心したのか、今度はタガがはずれたように大粒の涙をぼろぼろと流し始めた。誘拐依頼、無理に何でもないという顔を作っていたが本当は相当に怖い体験だったのだろう。

「もう泣くなって。美人がだいなしだぞ。ところで、紫苑。ブライアンの言ってた『万能ワクチン』の件なんだけど」

「ああ、たぶん俺の血液に保管されているんじゃない? じゃなきゃアイツらがあんなに必死に追う必要がないからね。万能ってことはつまり、『オールシーズンに対応する』って事じゃないかな」

「なるほど。おまえの血液が人類を助けるって事か。という事は――ますますこのチャレンジ自体に何か目的があるように思えてきたよ。ところで、ナンシーはどこに出かけたんだ?」

 俺は、慌ただしく出て行ったナンシーの表情も妙に気にかかっていた。

「お兄さんの職場まで行って、連れて帰ってくるそうだよ。このままだと飛行機が必要になるかもしれないからね。アイツらにいま俺が捕まったら、もう謙介さんたちに二度と会えないだろうから」

「でも今日はもう八日だよな。あと一週間以内に、ワシントンの研究所に行かなければ。とりあえずフライトプランを見直さなければならないな」

 紫苑は少し浮かない顔をしている。

「でも――逃げるのに必死で、金は全部ホテルに置いて来ちゃったからなあ。ナンシーや研究所に払う金が何にも無いよ。かと言って今ホテルに戻ったらアイツらの思うつぼだし」

「そうだな……。せっかく稼いだ金だけど諦めるしかないのか」

 そう、逃げるのに必死で、金の事は全く考えていなかった。意気消沈する中、あずさがぴっと手を上げる。

「はあい、あずさ先生どぞー」

 目を細めて煙草を吸いながら、少し投げやりに紫苑が指をさす。

「はい! みなさんは、アーノルドくんの存在をを忘れてると思います! だってあの人は浴室にいたし、ひょっとして生き残ってお金を持って逃げてるかもしれないと思いまーす」

 目をキラキラ輝かせて鼻を膨らませている。

「おいおい、俺はあいつを思いっきりブン殴っちゃったんだぜ? 持ってても返してくれるもんか」

「俺もテーブルを蹴って、痛い思いさせちゃったしなあ……。しかも、DOLLの遺体を見つけた時に、もしかして俺たちが殺したと勘違いするかもしれないしな」

 命を守るためとは言え、彼にはひどいことをしたと思う。

「ものは試し、電話してみよ!」

 あまり乗り気じゃない様子で、紫苑が携帯を取りだしアーノルドに電話をかける。出たぞ! と俺たちに目配せしてからスピーカーにする。

「俺、紫苑だけど、さっきは殴っちゃってごめんな。大丈夫だったか?」

「大丈夫です。あなたたちに対しては怒ってないですよ。浴室にいたので自分の命は助かりましたし。でも……私はDOLLを守れなかった。遺体も持ち去られたようで、最後の別れすら言えなかった! 銃声がした時には意識はもう戻っていたので、声だけは聞こえていたんです。ブライアンめ、絶対にあいつを許さない!」

 重い沈黙が部屋を支配する。鼻をすする音がどこからともなく聞こえてきた。

「――ところで何の用ですか?」

「もし知ってたらでいいんだけど、ホテルに残していた金がどうなっていたか教えてくれ」

 あの時、彼女を守ることなど誰にもできなかっただろう。俺は気まずい思いをしながら無理に声を絞り出した。

すると、しばらく電話口でごそごそという音が続く。

「これのことですか? 何かの役に立つと思って、そのまま持って帰りました。数えてませんが、三百万ドル以上ありそうですね」

 このやりとりを聞きながら、緊張からかあずさはミネラルウォーターをがぶ飲みしている。

「その通りだ。もし良かったら、それを返してくれないか?」

 また無言の時間だ。

「ええ、いいですよ。ただし条件が二つあります」

 そら来た! と紫苑が両手を広げる。

「言ってみてくれ」

「まず一つ目は、私をあなたたちのメンバーに加えて欲しい。ブライアンの敵は私の味方ですからね。DOLLのかたきを自分の手でとってやりたいんです。そして二つ目は、紫苑くんの血に流れる『万能ワクチン』を私にも分けて欲しい。正直、私は金なんていらないんです。ただ――生きたい。生きのびて私たちを裏切った組織に復讐してやりたいんです」

 しばらく俺は目をつぶって考えた。その様子を四つの目がじいっと見つめている。

「……分かった、その条件を飲もう。だが、後でその『万能ワクチン』の話をCIAの立場から詳しく聞かせて欲しい。今から住所を言うから、尾行されないように注意して来てくれ」

 ほっとした空気が部屋に流れる。

「ありがとう。でも、もうCIAがベガスに増援を送っているとの情報があります。無事にそちらに着けるか分からないので、一つだけ忠告しておきます。紫苑くんの身体に流れている万能ワクチンは、『枕元輸血』をするのが基本です。通常の手順で成分を分離して複製させるそれと違い、血液型の不一致などの危険を伴います」

「枕元輸血?」

「今は一般的には行われていない方法ですが、近親者や、同型の血液型の提供者から直接輸血をする方法です。ただしこの方法は、ドナー(提供者)の血液を取り込むことによって、GVHDなどの免疫関係の合併症を起こすリスクがあります」

アーノルドの説明は淡々と続く。

「これは推測ですが、ビッグミリオンの代表である鬼頭小次郎が、“自分に輸血できる血液型だと確認してから”紫苑くんに万能ワクチンを注射したんじゃないかと。しかも情報が漏れる事を恐れ、とっくに現物は手元に無いのかもしれません。つまり……鬼頭小次郎に紫苑くんを渡したら、万能ワクチンは世に出て来ない可能性が高いと言う事です」

「なるほど。ちょっと難しいが、大体分かった。とにかくこっちに至急向かってくれ」

 住所を知らせて電話を切ると、俺は紫苑を感慨深い目で見つめた。

「おまえは、自分の知らないうちに『人類の救世主』にされていたんだな」

 だが、紫苑は別の事を考えているのか、少し複雑な表情だ。

「今の説明によるとさ、誰かに輸血するとして……俺と血液型が合わない人はどうするんだろ?」

 困った顔をして俺たちをみまわす。

「ちなみに、紫苑って何型なの?」

 ズバッとあずさが聞きにくい質問をしてしまう。

「B型のプラスだよ。えーと、みんなは?」

「あたし、B型」

「よっしゃあああ! 俺はね、O型」

「謙介さん……。よっしゃあああ! じゃないよ。いざというとき俺から輸血できないじゃん」

 心配そうな視線を痛い程感じる。

「だってこればっかりはしょうがないし、テンション上げるしかないじゃん。実は俺、聞く前からおまえとは違うような気がしてたんだよなあ」

 がっかりした様子の二人に見つめられる中、俺は場の空気を変える必要を感じた。

「大丈夫だよ。もし発症しても、お前らの事を絶対に忘れるもんか。もし忘れたりしてたら、得意のパンチで一発ブン殴ってくれたらすぐに思い出すよ」

 そう言ってからにこっと笑ったが、逆効果だったようで俺を見つめる二人の表情はさらに暗くなっていった。


八日 同時刻


「リーマンさんよ、今の聞いたか?」

「ああ、更に上をいく『万能ワクチン』っていうのがあるんだな」

その頃チーム『JACKPOT』では、パソコンから流れる音声をリーマンとあつしが拾っていた。

「あの娘が服を着替えなくて良かったぜ」

「特別に支給された盗聴マイクだからね、襟に素早く仕込んだゴリラくんに感謝しないとな」

 あずさの襟には、拘束を解くときにこっそりと超小型マイクが仕込まれていた。虫ピンぐらいの大きさにもかかわらず彼女がセブンに戻ってからの音声を、マイクはひとつ残らず鮮明に拾っていた。

「あいつら三百万ドルも儲けやがったのか。マジでセブンに入っとけば良かったなあ」

 あつしは悔しそうに眉をしかめた。

「そんな事はもうどうでもいい。たった今、我々の目標は『万能ワクチン』を手に入れる事に変更された。もうシーズン2用ワクチンなんて必要ないからな。あの紫苑という男を何としてでも拘束して、輸血を行わなければならない。だがこれが血液型を選ぶワクチンだとすると、すぐにラボで対処法を検討しなければ間に合わなくなってしまう」

「手に入りさえすれば、あんたの組織のCDCでちゃちゃっと出来るんじゃないのか?」

「いや……どうだろう。きっと何か秘密がある。例えば、テープをコピーしても絶対にオリジナルを超えられないだろ? それと同じようにワクチンの効果も薄れてしまうかもしれない」

 パソコンの音声表示画面を見つめながら、リーマンは何かを計算しているような難しい顔を崩さなかった。

「ところで、あつしくん。いま彼らに必要なものは何だ?」

少し意地の悪い目をしてリーマンが問いかけた。

「そんなの決まってる。金だろ? 向こうも独自でコピーを作ろうとしている。こっちまでそれが回ってくるまでには、俺たちはたぶん全員死んでいるだろうな」

「と、いう事はアーノルドから金が届かなかったらどうなると思う?」

「なるほど。俺たちが交渉のステージに上がれるわけだ。金ならまだごまんとある」

 まだチャンスはあるという顔を作った後、ニヤっと笑う。

 リーマンはパソコンにハッキング用と思われる画面を呼び出した。彼の指が水を得た魚のように高速で動き出す。

「その通りだ。さっきの電話から記録を洗ってみるよ。君はこれからみんなに説明して、作戦を練ってくれ」

「わかったぜ、リーダーさんよ」

 あつしは軽く手を振ると、みんなの待つ応接室に戻って行った。


「もう行っていいぞ。これは餞別だ。ただし、このへんをうろうろしていたら命は無いと思え」

 約一時間後、ベガスの路地裏で、倒れている男に二つの札束を叩きつけるリーマンの姿があった。次にその男の携帯をポケットから取り上げ道路に叩きつけて破壊する。顔は変形するほど殴られ、シャツまで血まみれのその男は、不幸にもあつしたちに捕まってしまったアーノルドだった。

「あんた、本職の俺よりエグいことするよなあ。うちの組に来てもらいたいぐらいだよ」

 あつしも引く程の暴力をみせたリーマンの顔は、冷静そのもので汗ひとつかいていない。

「さあ、これでこいつはもう取り引き材料を失った。まあこれだけ痛めつければ、もう邪魔はしてこないだろう。ところで、携帯の番号は控えたか?」

「ああ」

 モヒカンとリンダは監視役、ゴリラは運転手、リーマンとあつしが実行役で『アーノルド捕獲作戦』はこれにて終了した。宿泊ホテルの駐車場で拉致された彼は、文字通り街から叩き出されてしまった。これは今回の生き残り競争に残れなかった事を意味していた。

 そして、いよいよJACKPOTは、『セブン』との交渉のステージに上がる。


 同時刻


「間違いないな? もしガセネタだったら刑務所にブチ込むぞ」

 ブライアンは後部座席で足を組むと、隣に座るナンシーを恫喝する。

「疑い深いわね。それよりも約束を守ってよ。兄さんと私に新しい名前と生活、それにワクチン+百万ドルね」

 黒塗りのボディに映りこむ幹線道路に、車の数は少ない。まだ夜も早いのに、みんな家に引きこもっているのだろうか。

「分かってる。私に連絡してきたのは大正解だ。そうそう、アーノルドから、君の事は聞かされていたよ。噂通りの美人ディーラーじゃないか。でも、解雇されてショックだったんじゃないか? 君はいったい何をやらかしたんだ」

 意地悪そうな顔でナンシーを見つめる。

「長いものには巻かれろって言うでしょ。紫苑には本当に惚れそうになったけど。解雇? 別にショックじゃないわよ。飲みすぎてカメラがバレちゃったの! うるさいわね」

 口を尖らせ、ぷいと窓の方に顔を背けた。紫苑という男を愛し、同時に裏切った女の顔が、同じ方向を向いて窓に映りこんでいる。

「失敗は誰にもあることさ。そうだ、ワクチンを接種したヤツは、数年は酒を飲めないみたいだぞ。残念だな」

 可笑しそうにふっと笑うと無線機を助手席の男から受け取り、各方面に指示を出し始めた。

「私だ。住所は分かるな? 慎重に周囲を包囲して、全員生きたまま捕えろ。よし、大佐に代わってくれ」

 無線の向こうからは歴戦の勇士らしい、ハスキーな太い声が聞こえて来る。

「やあ大佐。分かっていると思いますが、いつものように爆発物は使わないで下さい。この件で西側も動いているという噂もありますので、隠密作戦でお願いします。しつこい様ですが、『生きたまま』捕えてください」

 何故かブライアンは、口元を緩めながら無線を切ると、銃を取りだし弾倉を確認した。


同時刻・ナンシーの部屋


「どうも、Jです。その節は本当に申し訳ありませんでした」

 紫苑の携帯に知らない番号から着信があり、出るとJからの電話だった。今度はボイスチェンジャーを使っていないらしい。スピーカーにしてもらうと俺は代わりに話し出した。

「JACKPOTさんも暇だね。あんたリーマンさんだろ? あずさから全て聞いたよ」

「なんだ、全部バレてるのか」

「ああ、だがあずさの言っていたその映像が犯罪の証拠になることは無い。何故ならこのまま行ったら裁判官も法律を忘れちゃうだろうしな」

「このまま行ったら……か。今や世界中の人が、家族の顔や自分が何者なのかを忘れようとしているからな。そうそう、今日は残念な知らせがある。君たちが待ち望んでいる金はもう届かないよ」

「金ってなんだ?」

「トボけるなよ。アーノルドから三百万ドル受け取るつもりだっただろ? その情報は丸ごと私たちに漏れていた。そして彼には、この取り引きから“強引に”降りてもらった」

「何をしたんだ? 彼は生きているのか?」

「生きてはいるが、二度と君らの前に現れないことを約束させた。CIAにも戻れないだろうし、行くあてが無くて気の毒だが」

 その声からは微塵も気の毒というニュアンスは伝わって来ない。

「なるほど。ということは、金はあんたらの所にあるってことか」

「そうだ。奪った金に加え、こちらには一千万ドル以上の金がある。どうだ、『万能ワクチン』の為に俺たちは手を組むべきだと思うが」

「なんでおまえらを信用して、手を組まないとならないんだ?」

 なぜ、こいつらも万能ワクチンの存在を知っているんだ? それと確かに万能ワクチンを培養するには大金が必要だが、こんな野蛮なヤツらと組むリスクは大きすぎる。

「信用? この情報を提供すれば、少しは信用してくれるだろう。……そしてまた私たちは必ず話すことになる」

 声のトーンが低くなった。紫苑を見ると、目をつぶってじっと耳を澄ませている。

「その情報とは?」

「そこからすぐに逃げろ。CIAと、軍服を着た怖いお兄さんたちがそっちに向かうという情報を得た。まて、到着は……十五分後だ。その中にブライアンもいる」

「確かか?」

「ブライアンの無線を盗聴したところ、ナンシーという女が裏切ったらしい。すぐに逃げたほうがいい。ではまたこちらから連絡する」

 電話は切れた。

 俺たち三人と白いトイプードル一匹は、ガラスのテーブルを囲んで目を見合わせた。なぜか犬だけはキラキラした目で尻尾をぶんぶんと振っている。

「ナンシーだって? バカな」

 紫苑は明らかに動揺している。

「もしヤツらの情報が本物だったとしたら、逃走ルートを考え直すしかないな。そうなると当然、彼女の兄貴も信用できない。とにかく電話をかけてみてくれ」

 あずさがナンシーに電話をかけてみる。

「つながらないわ。呼び出し音は鳴ってるけど……。お兄さんの職場まではすぐって言ってたから、確かに帰りはかなり遅いわね」

 さあ、決断の時だ。俺はみんなに指示を出すと同時に、荷物をまとめ始めた。クローゼットから黒いパーカーとズボンを選ぶと、素早く着替える。時計を見ると、もうあまり時間は残されていない。ナンシーの兄貴が所有するミニクーパーの鍵を木のボードから外すと、『三人と一匹』は勢いよく部屋を飛び出した。

「こらこら、あんたは行けないのよ。連れてってあげたいけど」

 尻尾をちぎれるほど降っている白いぬいぐるみのような犬を抱き上げると、あずさだけ玄関に戻りそっと放す。悲しそうな瞳で見つめるその子に優しく声をかけながら、ドアをぱたんと閉めた。

 少し小雨がパラつく駐車場に、赤いミニクーパーが停まっていた。見た目は小さな車だが、機敏性があり今の俺たちには十分過ぎる車だ。紫苑が運転席、俺が助手席、あずさが後部座席に座る。走り出すと俺は携帯を取りだし、さっき乗せてもらったカジノのオーナーに電話をかけてみた。

「もしもし、さっきは本当に助かりました。あの、知ってたら教えて欲しいんですが、目立たない病院を知りたいんです。え? 大丈夫です。今の所ケガはしていませんし、おかげさまで捕まってもいません。はい、ストリップ地区の三ブロック先ですね。何度もありがとうございます」

 携帯を切ると、運転している紫苑が目を合わせてきた。

「いまオーナーに口の堅い病院を聞いたから、そこに向かってくれ。いいか、紫苑。このままじゃ俺たちが捕まる確率はかなり高いだろう。そこで頼みがある。……おまえが拘束されても大丈夫なように、あずさだけには今のうちに輸血をしておきたいんだが」

 紫苑は前に向き直ると、何故か無言でハンドルを握っている。代りにあずさが答えた。

「謙介さん。私の事はいいの。ワクチンを増やしたら、せーので一緒にうちましょ」

 後部座席から俺の横に顔を出してにこっと笑った。

「ダメだ! もし紫苑が捕まったら、ワクチンを打つ機会は二度と訪れないだろう。ブライアンも、このワクチンは非常に貴重なものだとはっきり言っていた。――これはリーダーとしての最後の命令だ。これを聞いてくれなかったら、俺は“紫苑を気絶させてでも”おまえに輸血するぞ」

 俺の激しい感情の変化に、二人は少し驚いた顔をしている。

「そうだな。実はずっと枕元輸血のリスクを心配していたんだけど、きっと何とかなるさ。謙介さん。実は俺も、謙介さんがそう言ってくれるのを待っていたんだ。後ろのおてんば娘を助けたいって気持ちは一緒だよ」

 しばらく無言の時間が続いた。街灯の光が三人の顔を、刹那的に何度も浮かび上がらせる。

「うう……」

 後ろの席であずさは声を殺して泣いていた。目まぐるしく変わる状況に、彼女の神経は張りつめていたのだろう。それはみるみるうちに号泣に変わっていく。

「だって……。私たちチームなのに、最強のセ、セブンなのに。謙介さんだけ、助からない、ひっく、かもしれないじゃない」

 よく聞き取れなかったが、言いたいことは大体分かった。この子は俺の事を心配して泣いてくれているんだ。

「心配しなくても大丈夫だって。俺は運がいいって言っただろ? とにかく今回だけはリーダーの命令を聞いてくれ。 あ、紫苑、その角を右だ」

 そこはまるで、小さなスナックのような場末の病院だった。オーナーの話では、ここは“ワケありの病気や怪我”で訪れる患者が多いらしい。治療費は高いが、患者を選ばないと評判のようだ。なるほど、ベガスらしい話だ。

 小さな駐車場に車を停めると、俺たちは闇に紛れるようにして中に入って行った。CIAもまさかこんな所に俺たちがいるとは思ってもいないだろう。

「紫苑くん。こいつはずいぶんと香ばしい所に来ちゃったかもね」

 扉が開きっぱなしになっている診察室の中で、初老の医師が美味そうに煙草をふかしている。その扉には昔のヌードスターらしきポスターが張り付けられ、頭上の電燈には大きな蛾が羽を休めていた。俺たちの他には、受け付けに赤毛の女の子が爪の手入れをしながら座っている他は誰もいない。

「謙介さんたちはここで待ってて。俺……勇気を出して聞いてくる」

紫苑が流暢な英語で輸血をして欲しい旨を伝えると、医師は事情も聴かずにすぐに輸血の用意を始めた。一応しっかりと消毒はしてもらっているようだが、医師の指先は細かく震えている。

「あのおじいちゃん大丈夫かしら」

「うーん、机の上にある、あのウイスキーの瓶が気になるよな」

 待合室から見えるだけに気が気では無かった。しばらくすると俺たちも診察室に入ることを許された。

 まず紫苑の血が抜かれ、透明な輸血バッグ充填されて行く。

「最初の十分から十五分は一mL/分で様子を見て、その後、五mL/分にしてみようかな」

 あずさの腕の血管を手慣れた動作で探し出すと、ゆっくりと輸血が始まった。この時複雑な表情で俺を見つめるあずさの目が忘れられない。

「何かあったら大声で呼べよ。俺たちは外にいるから」

 安心させるように言葉をかけてから紫苑と診察室を後にした。輸血を待っている間、狭い待合室のスプリングの飛び出た椅子の上で、俺たちは逃走ルートを検討する。さっき血を抜かれた紫苑は特にふらふらもせず、美味そうに煙草を吹かしながら地図にひょいひょいマーキングしていく。

「もともと砂漠だった街だからなあ。街を出たらルートはかなり限られちゃうよね」

「そうだな。検問もあるだろうし、かなり危険だと思う。ナンシーに頼んだルートはもう使えないし。ところで紫苑、今現金はいくらある? 逃走には金がいるぞ」

 まず俺がパーカーからしわくちゃの紙幣を出して確認すると、百ドル札が一枚と十ドル札が数枚入っているだけだった。

「俺もそれくらいだよ。とても遠くまでは行けそうもないね」

 両手を軽く広げ、口の端をへの字に曲げた。

「と、なるとやっぱりアイツらと手を組むしかないのか。つーか、元はと言えば俺らの金だけどな」

 二人で蜘蛛の巣が張った天井を睨みながら、腕を組んで考え込む。金が無ければ次の計画に移る事は難しい。今回は、一応ヤツらの情報は正しかったが、本当に信用してもいいのだろうか。

 しばらくすると、手袋を外しながら医師が待合室に入ってきた。

「はい、終わりましたよ。GVHDの予防の為に免疫抑制剤を出しておきます。あ、お支払いは現金でよろしく」

 くるっと背を向け診察室に戻るなり、コップにウイスキーをなみなみと注いでいる様子が見える。医師と入れ替えにあずさが注射の跡を押さえながら出てきた。

「大丈夫か? 気分はどうだ?」

 ここで万が一の事があったら……俺は強制的に輸血を勧めた責任をとる覚悟だった。

「平気よ、少しうとうとしたから前より気分がいいわ。ねえねえ……私の身体の中に、紫苑、あなたの血が流れているのね。ヘンな感じ」

 不思議そうな顔をしながら紫苑を見る。

「明日になると俺と同じ顔になってるかもね。さあ、あとは身体が耐えられるか様子を見てみよう。車で少し眠るといいよ」

 気が緩んだのか、俺はこの時眠気が急に襲って来た。そういえばしばらく睡眠をとっていない。

「よおし、出発だ! 今夜はもう遅い。どこか安いモーテルでも探そう。やつらがもしウロウロしているようだったら、人生ゲームのコマのようにみんなで行儀よく車で寝よう」

 気合いを入れるように膝を叩き、立ち上がった。

「ねえ、ちょっと! お会計!」

 そのまま立ち去ろうとしていると思ったのか、真っ赤なマニュキュアを塗った受付のお姉さんがあわててこちらに向かって声を掛けた。

俺と紫苑は、ゆっくりと振り返ってあずさを見つめ同時に口を開く。

「ところであずさ、いくら持ってる?」



 命の値段




『ワシントン・ビッグミリオン本部』 四月九日



「紫苑は、孫はまだ見つからんのか!」

 鬼頭小次郎は、額に血管を浮かせながらエリザベートを怒鳴りつけた。車椅子にふんぞり返り、杖で机をばんばんと叩く。日付が変わった深夜早々この男に呼び出された理由を、彼女は完全に理解している様子だった。

「はい。その件で非常に残念なお知らせがあります。私の部下のブライアンはCIAのスパイでした。今はビッグミリオングループを離れ、勝手にお孫さんを拘束しようとしています」

 さっき以上の厳しい叱責が来ると覚悟しているのか、首をすくめながら代表のどなり声を待つ。

「ふん、CIAだと? あいつらに一体何ができるんだ。いいか? わしが孫を探しているのは『万能ワクチン』が欲しいからじゃない」

「え? 代表はワクチンを作るために、シーズン3の実験をご指示されたんじゃ?」

 心底驚いた顔で彼女は聞き返した。

「わしは、ワクチンを作れとは一言も言ってないぞ。だが実験はしなければならない。実際に戦争で使われてはいないのだから、効果の確認は必要じゃろ? そしておまえは一つ大きな勘違いをしておる。わしの身体には八十年前からすでに“万能ワクチンが流れている”のじゃよ。わしの尊敬する父が……まあいい。見るか?」

 電動車椅子の手元にあるスイッチを押すと、だだっ広い部屋の奥の隠し扉が音もなく開いた。エリザベートもこの仕掛けを知らない様子だ。

 奥の隠し部屋の壁にはモニターが埋め込まれ、最新のハイテク機械がうなりをあげていた。部屋の中にはまだ十代と思われる青年が、ヘッドフォンをして黙々とパソコンのキーを叩いている。

 ヘッドフォンを外し振り向いたその眼と顔は“誰かにそっくり”だったが、エリザベートは気づいていないようだった。

「A-1002の映像を出せ」

「はい」

 抑揚の無い声で答えると、青年は細くしなやかな指でパソコンのキーを叩く。やがて正面のモニターに驚くべき映像が流れ出した。

「これが、万能ワクチンの『入れ物』じゃ」

 まず映像には四歳ぐらいの子供が、病院で泣きながら注射されている様子が映る。カメラが横を向くと、少し若い鬼頭小次郎が笑顔で少年を見守っている様子が見える。たぶんこの少年が紫苑なのだろう。

 次に場面が変わると、個別に水槽に入った赤ん坊が十人ほど映りこんだ。カメラの位置をずらせば、まだまだいるような部屋の広さだ。

「この子たちには、私の孫の遺伝子が使われている。つまり、『クローン』じゃ」

 古い画像なのであまり鮮明ではないが、赤ちゃんが少年まで成長する様子がダイジェストで記録されていた。

「あの、ではこの子たちは全員お孫さんの弟ということですか?」

 目を丸く開き、映像に魅入りながらも彼女は質問する。

「そうじゃ。いま紫苑が二十二歳じゃから、こいつらは十七歳ぐらいか。現在、総勢二十四名の若者が『万能ワクチン』の入れ物になっておる。数年前までは、さびれたデトロイトの地下施設で育てていたが、“ある条件を満たす者たち”に、そこにいる子以外を全員譲った」

 代表の目線の先には、きょとんとした顔をしている紫苑そっくりの青年がいた。まつ毛が長く、整った目鼻立ちをしている。

「ある条件? ですか」

「ああ。――一人だけ教えよう。ドイツ連邦共和国の連邦大統領じゃ。ちょうど血液型も一致したし、太平洋戦争の時に、ぎりぎりまで日本と共に戦ってくれた国じゃからな」

 映像はとっくに終わっていたが、鬼頭小次郎の演説はまるで自分の歴史を語るかのように滑らかな口調で延々と続いていた。

「申し訳ありませんが、一つだけ質問よろしいでしょうか。そのような手間をかけて育てたということは、まさか『万能ワクチン』の複製は……」

 彼女にとってこの質問は大事だった。複製できなければ、別の方法をとるしかない。

 演説の途中で声を掛けられ急に興が冷めた様子で、彼はくるっと車椅子を回転させた。

「どうかな。わしの父は“複製されないように鍵をかけた”とだけ言っていた。さっき言ったようにワクチンは何とかする。そんなことより、わしは早く孫に会わねばならん。どうしても……跡継ぎが必要なんじゃ」

 その様子はさっきと打って変って元気がなく、急にしょぼくれた老人の後姿になっている。反対にエリザベートの口元は、かすかに笑っていた。まるで「こんな身近なところにあったんじゃないの。もう探す必要ないわね」とでも言いたげだ。

夜の摩天楼を窓からぼーっと見つめる代表に、今度ばかりは感謝の気持ちを込めたように深々と頭を下げた。


九日 明け方


「あーあ、あっという間に九日になっちまったな。早いもんだ」

 あつしが運転する白いバンは夜の国道を疾走していた。

「そうね、ウイルス騒ぎさえ無ければ、朝の飛行機で日本に帰って、余裕でミッションクリアしていたわね。まあ、どっちにしてもその道は選ばないけれど」

 複雑な表情で助手席のリンダが答える。

「その角を左だ。信号はそこのモーテルから出ている」

 リーマンの指示に従い駐車場に車を乗り入れると、赤いミニクーパーが一台ちょこんと停まっていた。

「あいつら頭がいいかと思ったら、あの女の盗聴器にまだ気づいていないとはな」

 くっくっくと笑いながら、あつしはモーテルの目立たない駐車スペースにバンを停める。

「待て……なにかおかしいな。電波はあの車から出ている事は間違いない。だが、見たところ誰も乗っていないようだ」

 明け方の薄暗い時間だ。目をこらすリーマンの顔がだんだん厳しくなっていく。

「やられたっ! あいつらたぶん車を乗り換えてるぞ。ちょっと見てくるからここにいてくれ」

 ミニクーパーまで注意深く近づいて中を確認したリーマンが、靴音を消しながら戻ってくる。

「やはり誰もいない。盗聴器をつけた服だけが後部座席に脱ぎ捨てられている」

「なんだよ、バレてたのか。じゃあ、車中の会話も全てフェイクだったってことだな」

 あつしは少し感心したように眉間を揉むと、運転席にふんぞり返った。

「の、ようだな。しかし、逃げるのに夢中だったとは考えられる。たぶん病院までの会話は本物だったと思う。とりあえず輸血をした病院を探してみよう」

 後部座席のモヒカンはすでにいびきをかいている。その隣で耳をふさぐ格好をしながらゴリラは顔をしかめていた。

「いい気なもんだな。まあ、金を握ってるのはソイツだから文句は言わねえよ」

 あつしは煙草に火を点け横にくわえると、ギアをドライブに叩き込む。そして元来た道に向けて乱暴に発進した。


「あいつら、たぶん病院に向かったね」

 モーテルの角の部屋から、俺と紫苑は一部始終を見ていた。

「薄暗くてよく顔は見えなかったが、あいつらはCIAじゃないな。たぶんリーマンとその一味だと思う。CIAなら問答無用でまっすぐここに来るはずだ。もっとも、これさえあれば当面は大丈夫だが。しかし、簡単な仕組みの盗聴器にはまさか役に立たないとは」

 俺はアーノルドから借りっぱなしのジャミング装置をそっと撫でた。これがあるうちは、CIAの追跡からしばらくは時間が稼げるだろう。

「ところであずさは?」

 紫苑が顎で奥を示した。軽いいびきをかきながら、あずさがベッドで爆睡している。服を一枚脱いでしまったので寒いらしく、毛布を頭からつま先まで被っていた。

「さて、これからどうするかだよね。とりあえず金は無いけど、取り引きの可能性は十分にある」

「何を材料に?」

 紫苑の取り引きという言葉に、違和感を感じて俺はすぐに聞き返す。

「俺の血だよ。正確には『万能ワクチン』と言うべきだね」

「まあ確かに、その存在を知っている者がいたら、喉から手が出るほど欲しいだろうな。だが、複製が難しいワクチンって聞いただろ? 複製が出来なければ、おまえの血はどんどん抜かれていく事になる。さっきはあずさだから俺は許したんだ。おまえの命を犠牲にしてまで、そんな取り引きはしたくないよ」

 その言葉を聞いて紫苑の顔が曇った。

「もし謙介さんも俺と同じ血液型だったら、あの時、気絶させてでも輸血したよ」

「ありがとう。その気持ちは本当に嬉しいし、もし立場が逆だったら俺も同じセリフを言いそうだ」

 こいつの真剣な瞳を見ると嘘を言っているようには見えない。俺は初めて心から紫苑に頭を下げた。

「あと……もしさ、俺の血が無くなりそうになっても、母さんにも輸血してやりたいんだ。実は母さんも俺と同じ血液型なんだよ」

 遠い日本の母を思い出しているのか、紫苑の瞳はとても寂しく、悲しそうだ。

「あたしも紫苑のお母さんに輸血する!」

 振り向くと、あずさがむくりとベッドに起き上がっていた。今までの会話を聞いていたのだろうか、真剣な眼で俺たちを交互に見ている。

「あたしの血にも既にワクチンが流れているのよね? もしそれを誰かに輸血したらどうなるのかしら」 

「たぶんだけど、有効だと思う。気持ちは紫苑だって嬉しいだろうが、まだあずさ自身がワクチンと共存できるかさえも分からないんだ。もし共存できて問題が無かったら、おまえの両親や紫苑のお母さんも助けてやってくれ」

 ぺたんとベッドに座ったまま真剣な顔をしているあずさに俺は優しく答えた。髪の毛は乱れているが、今のこいつは、どんな女性よりも魅力的で可愛い。

「母さんもそうだけど、俺はまず、謙介さんに助かって欲しいんだよ。だから、やっぱり金がいる。難しいかもしれないけど、全血液型対応のワクチンを作ってもらおう。そうすれば……」

 言い終わらないうちに、突然部屋の中が昼間のように明るく照らされた。

「君たちは完全に包囲されている。両手を見えるところに挙げてゆっくりと出てきなさい!」

 せまい部屋の汚れた窓に、投光器からの強い光が降り注いだ。あまりの眩しさに、俺たちは手で顔を覆いながら目を背ける。

 カーテンの脇から少し顔を出して外をうかがってみると、例の高性能バンたちが駐車場の出口をふさぐように停まっていた。そうしているうちに夜はだんだん白み始め、周りの様子がさっきよりもはっきりと見えてくる。

 しばらく観察していると、車のドアの影からブライアンの顔がチラリとのぞいた。拡声器を口に当て、拳銃を油断なく構えている。その後ろには軍人らしき一団が、完全武装で扇型にモーテルを取り囲んでいた。

「さあてと、どうするか。裏口は……やっぱりないぞと」

 後ろを振り向いた紫苑は、不敵に笑いながらゆっくりと上着を着る。

「あずさ、これを着てベッドの影に隠れてろ」

 俺は着ていたパーカーをすばやく脱ぎ、あずさに投げる。それを着た瞬間に何か攻撃モードに入ってしまったのか、首をゆっくりと回すとサイドボードに乗っている大きな花瓶を両手で持ち上げた。たぶんそれは、あずさなりの武器のつもりなのだろう。

「一分間だけ時間をやる。抵抗しなければ、傷つけることは無いと約束する」

 まあ、これはお約束のセリフだ。このまま時間になったら、催涙弾か何かを窓からコロコロと投げ込む筋書きだろう。

「ふー。もうこの場を切り抜ける方法はひとつしかないな。紫苑、さっきの取り引きの話覚えてるか?」

 俺はポケットからバタフライナイフを取り出すと、紫苑に放った。

「うん、その作戦しか無いようだね。さあ、ショータイムだ! あ、そこのおてんば娘はその花瓶を置いてくように。届かないから。それ投げても届かないから」

 少し微笑みながら華麗な手さばきでバタフライナイフをくるくる回して鋭い刃を出すと、俺とあずさを自分の後に隠すようにしてゆっくりとドアを開けた。

 ドアを開けると、ブライアンが緊張した面持ちで拡声器を握り直すのが見える。駐車場はすでに朝日で明るく照らされ、映画でよくある犯人包囲のシーンそのままの光景がそこに広がっていた。

「やあ、シオンくん。もう一度言っておくが、君たちを傷つけるつもりは無い。だから今からこちらの指示どおりに動いて欲しい」

 肉声の届く距離までブライアンは警戒しながら歩み寄る。その言葉どおり拳銃の銃口は下に向いていた。

 だが、次に紫苑がとった行動は、現場を緊張させるにはじゅうぶんだった。鋭い刃先をためらいもせず一息に、自らの首に軽くあてる。

「おい! どういうつもりだ! そのナイフを今すぐ下ろしなさい。まて、撃つな! 大佐、待機するよう命令して下さい」

 うしろに控える軍人たちを振り返って鋭く命令する。この様子から見ると、どうやらこの作戦の責任者はブライアンのようだ。やがて軍人の中でひときわ目立つ〈大佐と呼ばれた男〉が腕を上げて軍人たちを抑えた。

 だが、黒人、白人の混成部隊は、今にもこちらに向けて自動小銃をぶっ放しそうに見える。なぜなら、彼らの眼はギラギラと光り、ガムを噛んでいる口元がかすかにニヤついていたからだ。

「二人とも俺の後から出ないでくれ。思った通り、どうやら俺の『死体』にはコイツら興味がないみたいだ」

 迫真の演技をするためか、紫苑の首筋には横一線の血の跡が見える。

「おーい、イカツイ顔のお兄さんたち。撃てるものなら撃ってみろよ。ここのアスファルトが血を全部吸っちゃうからさ。なあ、良く考えてみろ。雇い主が誰だか知らないが、俺が死んだらこの作戦は失敗なんだろ?」

 ブライアンとの距離はもう三メートルもない。緊張感がびりびりとここまで伝わってくる。俺は両手を広げあずさを背中に隠すようにして、紫苑の後に続く。

「ちょっと! 道を開けなさいよ。通れないでしょ」

 あずさのよく通る声のおかげか、道路までの道が少しずつ開いていく。しかし、ここで絶対に焦って駆け出してはいけないと本能が叫んでいた。刺激を与えて誰か一人でも発砲したら、張りつめている緊張が解けて一気に蜂の巣にされそうな雰囲気をひしひしと感じていた。まあそんな心配をしなくても、大佐と呼ばれた男の独断の一声で、事態は最悪の結末になる可能性はあったのだが。

 そろり、そろりと油断なく目を配りながら進んでいく。

少しツイてないことに、目標のミニクーパーは男たちの車に囲まれていた。刺激しないようにゆっくりとそのままのペースでまた歩きだし、やっともう少しで道路に出るところまで来た。

 あとは……走る? それとも強引に車を奪う? いずれにしても、最終判断は俺にまかされている。とにかくここからすぐに離れないと危険だった。

「なんだ?」

 ブライアンが急に振り返る。 

 俺が指示を少しためらっていると、突然目の前に猛スピードで一台の車がタイヤを軋ませ突っ込んで来た! その車は歩道を乗り越え、砂埃を巻き上げながら急停止する。場の雰囲気がさらに緊張する中、運転席の窓だけ時間が動いているようにゆっくりと下がっていく。

「やあ、何かお困りかな? 良かったら乗せてやってもいいぜ」

 ニヤニヤ笑いを浮かべ、無精ひげを生やしたあつしの顔が窓から覗いた。少し遅れて後のスライドドアが開くと、中にはモヒカンとゴリラの顔も見える。

 ブライアンと軍人たちは、少しずつだがじりじりと俺たちに迫っていた。だが、紫苑の持つナイフが邪魔で手が出せないようだ。

「病院まで行こうとしたけど、Uターンして来たよ。どうやらピンチのようだな。とりあえずここから離れよう」

 リーマンの言葉でモヒカンが動き、まずあずさを、次に俺を車内に引っ張り込んだ。最後に紫苑がゆっくりと後ろにさがりながら乗り込む。軍人たちの構えるいかつい銃と、俺たちの乗るバンの距離はもう数メートルもない。

「ダメだ、“絶対に”撃つな! 全員、車に乗って追跡しろ」

 あきらめたのか、ブライアンは部下にサインを送りながら踵を返すと、包囲していた車に乗り込んだ。

 間髪入れず、タイヤから白い煙を出しながら、俺たちの乗ったバンは急発進する。

「おいおい、後を見てみろ。まるで大名行列みたいだぜ」

 ルームミラーを見たあつしが可笑しそうに笑う。振り返ると、スモークガラスではっきりとは見えないが、先ほど包囲していた車両が続々と駐車場を飛び出して追いかけてくるのが見える。

「どこまでも追いかけて来るつもりね。さあ、こうなったからには私たちと組むしかないみたいね。そっちには万能ワクチン、こっちにはうなるほどのお金がある」

 一番後ろのシートに仲良く三人で座っている俺たちをリンダが振り返る。そのピンク色の口紅を塗った唇からさっそく交渉の言葉が飛び出してきた。

「そうだな。助けられたのもあるが、俺たちには金が必要だ。組むのはいいが、条件がみっつある」

 後の席ですばやく紫苑とあずさに相談して、俺たちは話をまとめていた。

「なんだよ。言ってみな」

 あつしがカーステレオの音量を絞りながら大声で聞いた。目は前方に向けたままだ。

「ひとつ目は、日本に帰る手助けをすること。ふたつ目は俺たちの金を返すこと。最後は万能ワクチンの複製に全力で力を貸すこと。どうだ?」

 どれも譲れないが、最悪ふたつ目さえ何とかなれば自分たちの力だけで動けるはずだった。

「分かった。ただし、万能ワクチンができた暁には、私たちに最優先で頼む」

 リーマンは親指を立てると、後部のトランクの方を差した。そこにはアーノルドから回収した、不自然に膨らんだ三百万ドル入りのスポーツバッグが置かれていた。

「ひとつ聞きたい。なぜUターンしてきたんだ?」

 俺の問いかけにモヒカンとリンダは眼を合わせてほほ笑んだ。

「ブライアンよ。包囲前に電話があったの。いろいろ話して、あの男と手を組むことにしたわ。あなたたちを傷つけず逃がすのは、もう決まったシナリオだったのよ。彼……なかなかの役者だったわよね」

「え? じゃあ、この逃走劇は仕組まれていたってことか?」

 紫苑は目を丸くしている。

「そうよ。ほら、聞こえてきたでしょ?」

 耳を澄ますと、上空からヘリの音がだんだん近づいて来る。

「車での逃走は絶対不可能だから、少し手を貸してもらったわ。もうすぐ屋根に衝撃がきて、私たちはこれから空中散歩をすることになりそうよ」

 いたずらっぽい顔をしながら、ローターの爆音がする方を見つめている。

「おいおい、あの国籍が分らないヘリは? まさかブライアンが手配したのか?」

 窓を開けて上空を見ると、黒一色に塗りつぶされているヘリが巨大磁石の様なものをぶら下げながら近づいてくるのが見える。こいつはまるでマンガじゃないか。

「あれにくっつけられて、ベガスからおさらばだよ。ブライアンって男は自分だけ助かる道を選んだらしいね。逃亡作戦+援護をするから万能ワクチンをくれってさ。さらにお金も払うそうだよ。 ――正直お金はたくさんあるから、もういらないんだけどね」

 前の席からちょっと得意げな顔でモヒカンが説明する。

 ガコンッ!

 突然耳をつんざくような金属音と、強い衝撃が頭を揺らした。強い力で上に持ち上げられて、内蔵を置いて行かれる感覚に酔いそうになる。窓から地上を見下ろすと、もう既にかなり上昇していることが分かった。相当熟練したパイロットでなければ、こんな芸当はできないだろう。察するにヘリのパイロットは、ブライアンが雇った軍関係者なのかもしれない。

「あずさ、ちゃんとドアをロックしとけよ」

 リンダとあずさは、キャッキャとはしゃぎながら窓から景色を眺めていた。気楽なものだが、もし万が一ドアが開いたら確実に落下死が待っている高度だった。

「どこまで行く気なんだ?」

 上空はかなり風が強く、車内はランダムに揺れている。少し気分が悪くなりながらも俺は問いかけた。

「パナマだよ。ブライアンが空軍をうまく抑えてくれている。たぶんスクランブルはかからないだろう。まあ、いずれCIAにもバレるだろうから、結局彼も追われる身なんだけどな」

 リーマンの計画は偶然にも俺たちと一緒だった。そう、パナマまで行けば、貨物船に潜り込んで帰国できるかもしれない。もちろん、相応の大金を積まなければならないが。

「そこまでは一緒に行動したとしても、そっちには大金があるんだろ? そのままメキシコに向かった方がいいんじゃないか?」

「ああ。俺たちのチームは、パナマで万能ワクチンを接種したら円満に解散する予定だ。そのまま日本に帰りたい奴は帰ればいいさ」 

 あつしは俺の問いにあいまいとも取れる薄笑いを浮かべながら答える。気のせいかその眼には何か邪悪な光が宿っているように見えた。

「あと、研究所も手配してある。複製に時間がかかりそうなら、しばらく休暇を楽しむんだな」

 カーステレオの音に合わせながら、機嫌良さそうにハンドルを指でとんとんと叩いている。

「うーん、そのことだけど……言いにくいんだが、即効性のある摂取方法は枕元輸血しかないんだ。しかも、同じ血液型しか輸血できない」

 この情報は着くまで言いたく無かったが、こうなったらもうしかたがない。

「はあ? それマジな話だったのかよ。おい、そこの兄ちゃんの血液型は?」

 女性たちと同じように、窓から顔を出してはしゃいでいる紫苑に顎をしゃくった。だが、ヘリの爆音と、景色に夢中で彼は聞こえていないようだ。

「B型だよ」

 代わりに俺が答える。

「おーい! うちのチームの中でB型いるかー?」

 その大声に誰も手をあげる者はいなかった。

「やれやれ、誰もいねえってよ。リーマンさんよ、どうする気だ? 俺たちはひょっとしてもう間に合わないかもしれないぜ?」

 揺れる車内で煙草を吹かしながら、リーマンをとがめるように睨んだ。

「安心しろ。これから向かう研究所のスタッフには、大金を使ってCDCを引退したプロばかりを集めた。たぶん何とかなるはずだ。そして彼らは、総じて口が固い」

「頼むぜ。俺は早く日本に帰って組をまとめなきゃなんねえ。少し留守にしているだけで、歌舞伎町って街は勢力図が簡単に変わっちまうんだ。あとな、できれば組員の分のワクチンも手にいれてえ」

「先に言っておくが――ワクチンはここにいる人数分と、CDCに持ち帰る分の数しか考えていない。余分はないよ」

「へっ。相変わらず頭がかてえな」

 ふて腐れた様子でダッシュボードにどかっと足を乗せると、あつしはそのまま不気味に黙り込んでしまった。




『ワシントン・ビッグミリオン本部』 四月九日 正午



「あなた、名前はあるの?」

 その頃、鬼頭代表の隠し部屋の前では、エリザベートが中を覗き込むように立っていた。

 動物に話すような口ぶりで、紫苑そっくりのクローンに向けて微笑みかける。だがその青年の目は、彼女の頭を通り越して部屋の外をぼーっと見つめているだけだった。

 当の代表はと言うと、ぶすっとしたような、それでいて今の状況をどこか楽しんでいるような複雑な顔をしていた。

 その何とも言えない表情の原因は……いままさに、ハイエナに拳銃をつきつけられているからであった。もちろん部屋の中にはあちこちに仕掛けられた監視カメラと警報装置があったが、今はエリザベートの昨夜からの工作によりそれらはひとつも機能していなかった。

「こんな事をしても何にもならんぞ。わしの血液は『人を選ぶ』からな」

「選ぶ? それはどういう事かしら。万能ワクチンはその名の通り万能なんでしょ?」

 この時点では、まだ余裕の表情で代表の答えを待つ。

「そこのパソコンにファイルが入っている。パスワードがかかっているが、わしの名を逆さにして入力してみろ。名前やら何やら細かいリストが出てくるはずだ」

 エリザベートは言われるままに椅子に浅く座ると、片手でパスワードを打ち込みファイルを開く。

「確かに、社員のデータが閲覧できるわね。この全ての人に〈STU〉って刺青が入っていると思うとゾッとするわ。で、いったい何が問題なの?」

 尻を噛まれたあの忌まわしい記憶が蘇ったのか、彼女は恨めしい顔をしながら銃の安全装置をイライラしながらいじっている。

「全員の血液データを調べてみろ。――どうだ? B型の者はその中にいるか?」

 そのままキーワードを変えて検索してみると、確かにB型の人間は『どこにも』いなかった。

「まさか……同じ血液型しか輸血できないとか言わないわよね。もしそうだとしたら、会社の人間さえも最初から助ける気が無かったって事?」

 代表はくっくっくと可笑しそうに笑った。頭から足元まで黒一色で固めたハイエナも、少し戸惑った顔をしている。彼も、代表の言ったようにB型では無いようだ。

「けど、手はあるはず。ワクチンから抗体を抽出して複製さえできれば問題ないはずよ」

「抽出して複製? もし簡単にそれが可能なら、クローンなど作っておらんよ。シーズン2用ワクチンまでは現代の技術で対応できるかもしれん。しかし、万能ワクチンだけはそうはいかん。『選ばれた者』だけが接種できるのじゃよ。例えば、アジアやアフリカなどはB型が多く、アメリカ、オーストラリアは極端に少ない。これがどういうことか分かるかな?」

「何よ。昔の敵国を助けない事で太平洋戦争の仇でも取るつもり?」

「さあな。じゃがこのパンデミックが終わったころ世界を見渡してみると、『生きている人はB型だけした』なんて事もありえるかもしれんぞ。当然おまえはこの中に入ってないだろうがな」

「はんっ! まあ見てなさい。……そこにいるクローンから抽出して、そんなの解決してやるわよ。あんたの若いころの時代と違って、今の最新技術を持ってしてできないわけがない」

 だが言葉とは裏腹にその顔は醜くひきつっていた。代表の話が全部本当だとしたら、たぶんB型ではないエリザベートの命が助かる選択肢は余りにも少なすぎた。近い将来、今度こそ本当に感染者の誰かに噛みつかれてしまう可能性もあるのだ。

「まあ、やるだけやってみるがいい。わしの父が仕掛けた『鍵』が外れるならばな」

 銃口を突き付けられているにもかかわらず、顔色ひとつ変えずに続ける。

「わしらは太平洋戦争の無念を忘れてはいない。父の意志は世代を超えてこれからも受け継がれていくのじゃ。A型のキリストや、アインシュタイン、エジソンたちには申し訳ないが、もし彼らが生きていてもこのワクチンを接種できるチャンスはないじゃろう。ただ、これだけは教えといてやろう。枕元輸血で強引に違う血液型に輸血しても、“ごく稀に命が助かる者”がいる。これは一九四五年に誤って感染してしまった陸軍少佐の例で証明された。彼は、今でも元気に暮らしているぞ」

「じゃあ……やっぱり731部隊では、シーズン3の感染実験を既に行っていたのね?」

「らしいな。首に噛みつかれた跡のある死体や、腕の肉を食いちぎられた死体を処理していた特別なブロックがあると聞いておる。どっちにしても、その施設は破壊されて今は跡形もないがな」

 エリザベートは思わず自分の首筋をそっと撫でた。次は我が身とでも考えているのだろうか。

「もういいわ。そのまま二人とも縛り上げてちょうだい。運び終わったら、このフロアは跡形も無く爆破するのよ」

「はい、C-4爆薬はたっぷり用意してあります。偽装のために、実験に使った遺体をここに置いておきますか?」

 少し考えてから彼女は、首を振りながらゆっくりと立ち上がった。

「どうせすぐにシーズン2が始まるから必要ないわ。空気感染が始まれば警察機能もマヒしてしまうでしょうから。とにかく、急いで研究所に運ぶのよ」

「承知しました」

 彼女は、さっきから自分を見つめる鬼頭代表の眼が気に入らない様子だった。まるで無駄なあがきをしている人間をあざ笑っているような眼をしていたからだ。

「おまえなんぞに、人類の運命は変えられんよ」

「言ってなさい。もしすぐに血液が必要になったら、あんたのを一番に抜いてやるから」

 舌打ちしてから強い眼で代表を睨み返す。そのまま銃に安全装置をかけ、ハンドバッグにしまった。

 だが、代表の薄ら笑いは、そのままついに消えることは無かった。




脱出




『パナマ共和国・コイバ島』 四月九日 



 俺たちはメキシコの山中でヘリから降ろされ、船でサンチアゴの南西、チリキ湾にあるコイバ島に上陸した。水平線に沈みつつある迫力のある太陽が、俺たちを優しく照らしながら浜辺に長い影を作っている。空には日本の海岸では見たことのない鳥がのびのびと舞い、強制的とも言える爽やかな潮の香りが鼻腔をくすぐった。

「ねえ、あれ! この島の説明みたいのが書いてあるわよ」

 ショートパンツから長い脚を覗かせたあずさが、軽やかに砂を蹴りながら看板に駆け寄って行く。 

 それによるとこの島は、海面上昇により一万数千年前にパナマ本土から切り離された島らしい事が分かった。広大なサンゴ礁に囲まれ、世界遺産にも登録されているらしい。元は流刑地であり、パナマ人から畏怖の目で見られていた歴史もあるようだった。

「それにしてもあっちーな! これで四月かよ。で、研究所はどこなんだ?」

 まだ余熱の残る夕暮れの砂浜に七人分の足跡を残しながら、北側の原生林に向かってゆっくりと歩いて行く。砂に足をとられるせいなのか、睡眠不足なのかは分からないが、皆の歩みは思いのほか重いように感じられた。

「GPSによると……。あと一キロ程歩けば、建物が見えてくるはずだ。そこは、この島の北東に位置している。まあ、表向きは自然環境保護施設になっているけどね」

 腕まくりをしてだるそうな紫苑の質問に、シャツの袖で汗を拭っているリーマンが答える。一同は申し合わせたように上着を脱ぎ捨て、ズボンを膝まで捲り上げていた。俺とあずさは並んで最後尾を歩き、沈んでいく太陽を見ながらお互い息を飲んでいた。

「ねえ、ここって旅行で来れたら最高の場所よね。透き通った海とサンゴ礁、そしてロマンティックなサンセット。謙介さん、いつか二人っきりで来ちゃおうか」

 夕日を浴びて頬を赤く染めたあずさの横顔は、冗談を言っているのか本気なのか判断がつかなかった。ただ、前髪をさらさらと潮風に揺らしながら歩くその姿は、俺に一生忘れられない程のインパクトを与えた。

「いやいや、彼氏とくれば?」

 俺は軽口を叩いたが、実はこの時、心臓がひっくり返りそうなほどに緊張していた。いつか聞こうと思っていたけれど、何故か怖くてこの答えを聞くのを先延ばしにしていた。

 さくっ、さくっ

 波の音に混じって砂を踏む足音だけが聞こえてくる。

「彼氏なんて……いないし」

 目線を砂浜に落とし俯いたその表情に、わずかな悲しみが浮かんだような気がした。過去に何か辛いことでもあったのだろうか。ここは必要以上に明るく振舞って、いつもの元気が戻るのを待つしかない。 

「おっしゃあああ! のった! 美味い魚をたらふく食べようぜ。今度はカッコいい水着を持ってくるからさ。でもなあ――その前に俺たちにはやる事がたくさんある」

「ふふ、ありがと。そうね、まず謙介さんにワクチンを打たないと安心して眠れないわ。私だけ……生き残っ」

 言葉の最後の方は波の音にかき消されてよく聞こえなかった。でも、あずさが心から心配してくれている事がその表情からじんじんと伝わってきて、俺はただ感動していた。 

 数分後――太陽は沈み、まるで紙芝居のように今度は星空がこの島を支配していた。少し迷いつつも、ついに一行は森の中にそびえ立つ建物に到着した。俺たちの靴にはまんべんなく砂が入り、皆の顔もそろって砂だらけだ。やっと辿り着いた白亜の建物は、樹木の間にひっそりと隠れるようにその姿を見せていた。

「えええ? 本当に、ここかしら」

 リンダは首を傾げている。

 潮風で錆びついた大きなドアをリーマンが代表して開けると、中は空調が効いていて意外と快適だった。無機質なリノリウムの廊下の突き当たりに応接室がある。カメラで監視していたのだろうか、そこには俺たちが来るのを前もって予測したように、研究所の所長と名乗る男が待っていた。見た目は優しそうな初老の男性で、さながらフライドチキンの有名チェーン店の人形そっくりだった。俺たちに椅子を勧めると、ゆっくりとその口を開く。

「お待ちしておりました。事情は伺っております。研究所の設備と、一流のスタッフを揃えるのに大分時間がかかってしまい申し訳ありません。この計画には、何しろ最高の研究者を揃えなければなりませんでしたので。そうそう、エドワード博士は一時間後に到着する予定です。『変異型クロイツフェルト・ヤコブ病』の権威が来て下さると聞いて、スタッフ一同もたいへん感激しております」

「こちらこそ無理を言って申し訳ありませんでした。単刀直入にお聞きしますが、完成まで大体の目安としてどれくらいの日数がかかりますか?」

 皆の意見を代表してリーマンが質問する。この質問の答えを待つ間、誰も身じろぎひとつしなかった。

「……それは、まだ何とも申し上げられません。まずはあなたたちの脳内のプリオンの状態を詳しく調べてみなければ。例えば、もしこの中の誰かが発症したとします。症状が出ている段階で、アミロイドβを除去しても神経細胞の死滅は止められません。その場合、その患者は厳重に隔離させていただきます」

 腕を組んで椅子に背中をつけると、難しい顔をしながら答えた。

 この男はさりげなく言ったが、要は“発症している人間はもう助からない”ってことだ。

「つまり、発症する可能性があるのは私たちだけということですね? ここのスタッフには感染者はいないと。分かりました。では先に検査をして下さい」

「あともう一つ。これはいい知らせです。シーズン2用のワクチンの培養は成功しましたので、あなた方のチップはもう必要ありません。というか、この場所が特定される恐れがあるので、これからすぐに取り外させていただきたい」

「え? 君たちはCDCの関係者だろ? どうやって手に入れたんだ」

 俺はふと疑問に思い、リーマンの前に出て訪ねた。

「あるルートからサンプルの提供がありました。これ以上は申し上げられません」

 口止めでもされているのか、所長は素早く目をそらした。

「では、各自与えられた部屋に入っておくつろぎ下さい。時間があまり無いので、これからすぐに処置に入ります。ところで『救世主』はどなたですか?」

「救世主?」

 片方の眉をあげながらリーマンが聞きなおす。

「失礼。万能ワクチンを持っている人間を、ここではそう呼んでいます」

 品定めをするような眼で俺たち全員をゆっくりと見廻した。

「んー、俺のことかな? はじめまして。鬼頭、いや、篠崎紫苑です」

 紫苑が手を上げると、所長の目の色が変わった。

「いやいやいや、やっぱりあなたでしたか。お父上とそっくりだ。では、こちらにどうぞ。あなたには特別室が用意されています」

「ちょ、ちょっと待って下さい! 俺の父親は離婚してから行方不明なんですよ? なんであなたが知っているんですか?」

 心底驚いた様子で叫んだ。その瞳には憎しみと、甘酸っぱいような懐かしさが同居しているように見える。

「CDCの力で突き止めました。アマゾンにご旅行された時の、疾病の記録が残っていましたので。メキシコシティで暮らしていたあなたのお父上は、私たちの呼び掛けにより進んでこの研究に力を貸したいとおっしゃっています。後ほどあなたと面会できるように手配致します」

 複雑な表情を浮かべたまま唇をかむと、紫苑は黙り込んでしまった。この父親と息子にどのような確執があったのかは、この時点で俺たちには知る由もなかった。

「所長。実はもうひとり後から到着する人物がいます。名前はブライアン。彼が着いたら私にすぐ連絡を頂きたいのですが」

 リーマンの言葉に所長は快く頷いた。

「ええ、連絡は受けています。部下の女性を一人連れてくると言っていましたが……。そうそう、大事な事を言い忘れていました。この研究が成功して満足した結果が出た場合、現金か小切手で千四百万ドルをお支払い願います。その代わり、どの血液型にでも対応するワクチンを大量に作りますので。どうです? あなたたちの命の値段と考えたら安いものでしょう?」

 所長はモヒカンとリンダを交互に見ながら、さりげなく言った。ひょっとしたらカジノでジャックポットを当てた事を、彼らはテレビで見て知っていたのかもしれない。

「おいおい、黙って聞いてりゃ随分吹っかけてきたな。どうもあの野郎は信用できねえ。俺がちょっと締め上げてこようか?」

 所長が部屋を出て行くと、あつしは肩を怒らせて立ち上がった。

「やめとけ。俺たちの命は彼らが握っている。金を払いさえすれば、最高の技術を提供してくれるはずだ。じきにエドワード博士も到着するし、騒ぎを起こしたくない」

「だけどよ、千四百万ドルってのは高すぎるだろ。足元見やがって! なあ、おまえも何か言ってやれよ」

 モヒカンはリンダの隣で靴下の砂を払いながら、疲れきった顔をしてあつしと視線を合わせた。

「そうだね。でも所長はワクチンをたくさん作るって言ってたじゃん? だったらさ、前に約束した通り香織さんの分も数に入れていいよね。なら……俺はそれでいいよ。もともと信じられない幸運で掴んだ金だしさ」

 香織という名前が出た瞬間、リンダの肩がぴくりと動いた事に彼は気づいていないようだ。

「おまえがいいなら、それでかまわねえけどよ。おーい、チームセブンさんよ、あんたらもこの話に乗れて良かったなあ」

 あつしは出された紅茶を一気に飲み干すと、にやにやしながら椅子に深々と座り直した。

「なによ。もともと紫苑がいなければ、あんたたちは助かる見込みさえ無かったくせに」

 あずさがほっぺたを膨らませたと同時に部屋のドアが開き、ぞろぞろと真面目そうなスタッフが入って来る。

「では、ご案内しますのでそれぞれの部屋にお入りください。これから順番に、感染の有無の検査とチップの摘出を行います。その際、シーズン2用のワクチンも与えます。もちろん感染していなければですが。あ、現時点で体調のすぐれない方は、いま申し出て下さい」

 スタッフの問いかけに手を上げる者はいない。例え体調が多少悪くても、自分の順番が後回しにされることを考えたら名乗らないのは当然の選択だった。

「紫苑、あずさ。俺たちは何があってもチームだからな。これをそっと隠し持ってろ。何かあったらすぐに連絡しろよ」

 あつしたちのバンに放置されていた小型の無線機を、俺は無断で拝借してきていた。それをそっと二人に手渡し親指を立てる。

返事の代わりに紫苑はぐっと親指を立てた。綺麗な爪を部屋の灯りに光らせながら、あずさも同じように俺に合図を送ってきた。


 一方、別室では……。

「所長、あの紫苑という男は本物ですかね? 父親と名乗るこの男には万能ワクチンのかけらも仕込まれて無かったので、僕にはどうにも信じられません」

 助手の一人が少し懐疑的な口調で所長にせまった。所長の視線を辿った先には、白衣を着た所長の近くにあるストレッチャーに紫苑の父親が何本ものチューブに繋がれ横たわっていた。その顔は白く、まるで死人のようだ。

「まあ、検査を行えばはっきりと分かるだろうが、たぶん本物だろう。――おっと」

 慌てた様子で所長は機械を止める。

「すこし血液を抜き過ぎてしまったかな。まあいい、もうこの男には用はない。後で例の所に運んで処理しなさい」

「分かりました。で、息子にはなんと?」

「そうだな、『会うのが怖くなったのか分からないが、部屋からいつの間にかいなくなっていた』とでも言っておけばいい。しかし、とんだ遠回りをしたもんだ。鬼頭小次郎という男、息子のこいつには万能ワクチンを仕込まないとはな。いや、この状態を見越してわざと仕込まなかったのか。もしかしたら、真の『神の鉄槌』作戦の開始時期は孫の代と決まっていたのかもしれないね。いずれにしても、あの紫苑という男を絶対に逃がすな。もし逃がしたら――我々の命も無いと思え」

 どのようなプレッシャーを抱えているのかは助手には分らないようだったが、所長のその顔は極度の緊張で醜く歪んでいた。

「もし……良かったらお聞かせください。これは大統領命令なのですか?」

「いや、彼なんかよりもっと上の、君が想像すらできない権力だよ。地球上で一番恐ろしいヤツらだ。もちろんシーズン2用のワクチンも、彼らから提供されたものだ」

 その言葉を聞いた助手の顔からはみるみる血の気が引いて行く。

「今のは聞かなかったことにしてくれよ。さて、仕事を片付るぞ。この場所はジャミング装置で守られていると言っても、大体の位置は追跡されているだろう。彼らのチップは迅速に処理したまえ」

 助手は頷くと、すぐに踵を返し紫苑の個室をモニターしている端末の前に座る。そしてキーをすばやく叩くと、その部屋に透明なガスが流れ始める。しばらく変化は無かったが、二分後のモニターには床にうつ伏せに倒れている紫苑の姿が映っていた。

「では、これよりラボに運びます。あ、エドワード博士が到着したらどうしますか?」

「血液の分析とワクチンの複製に協力してもらってくれ。全てが終わったら……この親父と同じように処理しろ。証拠は何一つ残してはいかん」

「はい。では予定どおり二十四時間後に実験を始めます」

「ああ、幸い【モルモット】はたくさん確保したからな」

 にやりと唇の端を持ち上げると、所長は部屋を出て行った。

 そう、もっとよく注意さえしていれば、謙介たちは気づいていたはずなのだ。研究者にしては目が鋭く、あまりにも体格のいいスタッフたちに。だが、彼らは今や蜘蛛の糸にからめとられるように、監禁に等しい状態で都合よく隔離されてしまっていた。

 そして『世界の人間を救う鍵』となる紫苑の肉体は、一部の権力者の命令により今まさに切り刻まれようとしていた。


 クリーンルームになっている個室に案内された俺は、今は特に何もすることも無く簡易ベッドに寝転んでいた。部屋の中に余計な装飾は一切ない。ベッドの寝心地は決して悪くないが、窓に鉄格子がはめられていてまるで刑務所にいるようだ。

 食事はドアに開いた穴から差し入れられるらしい。どんな物でも注文できるとは言っていたが、はっきり言ってこれは体のいい監禁に等しかった。

「あいつ……あの時、他に何か言いたかったのかなあ」

 白い天井を見上げながら、ポケットからそっと例の写真を取り出した。俺に肩車されたあずさが、白い歯を出して弾けるような笑顔で笑っている写真だ。これまでに何度も密かにとりだして見ていたが、写真の中のその笑顔を見ていると、「何があっても、リーダーとして必ず無事に日本に連れて帰るぞ」という気力がもりもりと湧いてくるのだ。

 しかし、仕舞い込んでいた気持ちにとうとうここで気づく。本当はリーダーとしてなんかじゃない。――今までわざと気づかないようにしていた感情が、ぶ厚い殻を破ったように噴き出してきて、胸が熱く、苦しくなる。

 今まで「おまえを必ず守る!」という言葉の中にそっと隠していたが、もう誤魔化すのはやめよう。

 俺は、あずさが好きなんだ。

 たとえ万能ワクチンが間に合わなくて俺が死ぬことになっても、この気持ちだけは伝えておきたい。このまま、この大切な記憶を無くしてしまう前に……。




『コイバ島沖二十キロ地点・海上』 四月九日 二十三時三十分



「あれは……輸送ヘリです。例のCIAのエージェントが上陸した模様。衛星から合わせて確認願います」

 隠密行動を課せられたアメリカ海軍のイージス艦から、ペンタゴンに通信が飛んだ。そのはるか頭上の宇宙空間には、世界各国の偵察衛星たちがこの島を監視している。

 ペンタゴンさえも自由に動かす権力を有するこの組織の力は強大だった。アメリカ合衆国、ロシア、アジア圏などが有する軍隊が『名目上』は全てこの島から遠ざけられた。これこそが、世界各国の最高責任者より強大な権力者が動いている証拠だった。

「『世界政府』や『戦争産業複合体』などは伝説だ」とまことしやかに今まで言われていたが、もしこの小さな島を取り囲む異様な力を知る事ができたなら、その存在を人々は認めざるを得なかったであろう。


「カエラ、準備は整っているか?」

 ヘリから降りたブライアンは、サンダルに入った砂をぱたぱたと落としているカエラを振り返った。今日の彼女はぴったりしたジーンズを身に付け、ラフなTシャツを着こなしている。

「完璧よ。ところで……あの目つきの悪い人たちも一緒に行動するの?」

 彼らの後方では大佐と呼ばれる男とその精鋭チーム八名が、きびきびとした足取りでヘリから降りていく。そして次の瞬間にはもう暗い森に素早く散らばっていった。このチームは全員が森林迷彩を纏い、赤外線スコープを装着しているようだ。全て降りたのを確認するのが早いか、すぐにヘリは爆音と砂埃をまき散らしながら飛び立っていった。

「いや、彼らはバックアップチームだ。私の指示があるまでスタンバイしてもらう。大佐ともども私に命を預けてくれたのだから信用していい。もっとも……彼ら自身もワクチン目当てなんだけどな」

 黒いスーツを闇に溶け込ませたブライアンは、サンダルを片手にぶら下げたカエラの反対の手を軽く取ると、研究所を目指してゆっくりと歩き出した。

「そうだ。さっきエリザベートから電話があった。てっきり罵倒されるかと思ったが、どうやら向こうも万能ワクチンを手に入れたらしい。協力してくれたらこちらのワクチンを譲ってもいいと自信満々で言っていたよ」

「え? どうやって手に入れたのかしら?」

 静かな海岸には、砂を踏みしめる二人の足音だけしか聞こえない。だが、月が雲に隠れたいま、暗闇に沈んだその砂浜は不気味ささえ漂っていた。海に目を向けると、遠くに船舶の小さな明かりがぼんやりと見える。

「なんでも、紫苑くんのクローンが密かに世界各地に存在しているようだ。そしてビッグミリオンの代表、鬼頭小次郎の身体にもワクチンが流れていたらしい。しかし……彼らの血液を使用する場合、輸血できるのは決まった血液型、つまりB型のみらしいんだ」

「なんですって? ちょっと、私はB型じゃないわよ。どうするのよ」

「そこでこの施設に来たわけだ。向こうには鬼頭小次郎とクローン、こちらはオリジナル。まあ、ちょっとしたギャンブルだな。ここにはワクチン関係のスペシャリストが集まっている。時間を掛ければどんな血液型にも対応するワクチンが完成するかもしれない。だが、エリザベートの方は、野球でいう二軍レベルの科学者しか今は集められないだろう。つまり、彼女が手に入れたワクチンは『融通が利かない』から一部にしか使い物にならん」

 真っ黒な森からは、動物たちの不気味なカン高い声がひっきりなしに聞こえてくる。そのまま奥へ分け入った二人の目の前に、木立の間から白い建物が現れた。

「なるほどね。じゃあ、私たちはただここで万能なワクチンの完成を待てばいいのね」

「いや、集めた情報によると、この施設には何か隠された目的があるみたいだ。最悪の場合は、篠崎紫苑の血液を一か八かまず君が輸血しろ。『違う血液型でも、まれに適合する可能性はある』とエリザベートは言っていたからな。もし適合したらそこから抗体を取り出してワクチンを作れば、君は大儲けできるじゃないか」

「まれにって……。じゃあ、ほとんどの人はダメってことじゃない」

 カエラがあきれた様子で口を開けたと同時に、建物のドアが開き白衣を着た人物が現れた。

「ようこそ、お待ちしておりました。さあ、こちらにどうぞ」

 ドアの脇には、ここのスタッフであろうか、体格のいい若者が二人立っている。案内されるまま応接室に通されると、満面の笑顔を作った所長がブライアンたちを待っていた。


 同じ頃、研究所の裏手の壁に、ゆらゆらと人影が映って動いていた。

「よいしょ! こいつガタイがいいから、重いなあ。しかし所長も残酷だよな。冷凍庫で凍らしてから、まとめてサメのえさにしろとか。第一、こいつひょっとしたらまだ生きているかもしれないのに」

 研究所の倉庫内にある巨大冷凍庫に、ひとりの男を乗せたストレッチャーが運び込まれようとしていた。白衣を着た若者は、その重いドアを開けて中の電気を点けた。冷凍庫のディスプレイの数字はマイナス十六℃を指している。

 この部屋の隅の方に、マグロの様なものが数体転がっているのが見える。それは顔に霜が降り、かちかちに凍った実験体のなれの果てだった。眠ったまま苦しまずに死んだのであろうか、遺体たちの表情は総じて穏やかだ。

「何度来ても、ここは気味が悪いな。さっさと終わらせよう」

 白い息に独り言を混ぜながら、ぐったりとした男の足を持って引きずり落とそうとする。

 と、その瞬間!

 紫苑の父、鬼頭春樹の目が「カッ!」と見開かれた。だが、若者は全くそれに気づいていないようだ。春樹は気配を消しながらむくっと起き上がると、背中を向けながら足を引っ張り続ける若者の首に、点滴のチューブを素早く二重に巻き付ける。

「ぐえええ! バカな! もう動くことはできないはず……」

 信じられない表情のまま、その目がくるりと瞼に隠れた。かまわず、力任せに失禁するまで絞め続ける。

「バカ野郎! お、じ、さ、ん、パワーをナメるんじゃねえぞ!」

 紫苑そっくりの目元をした春樹は、泡を吹いている若者の耳もとで呟く。血を大量に抜かれているにもかかわらず、その太い腕には血管がくっきりと浮き上がっていた。

 そして完全に若者が気絶したことを確かめると、ふらつきながらもしっかりした動作で地面に足をつける。

「さすがに死なれちゃ後味が悪いからなあ」

 温度計の数字を適当に上げると、分厚いドアをロックした。

「まだ頭がガンガンする。さーてと、まずどうするかって……ああ、息子を助けないとな。まったく、とんだインチキ研究所だぜ」

 壁に手をつきながらも、明かりの方向にしっかりとした足取りで歩きだす。少し背を丸めたその後ろ姿は、戦闘態勢に入った時の紫苑に瓜二つであった。倉庫から研究所の裏口に回ると守衛室があり、中では警備員がカメラのモニターを退屈した様子で見ていた。 

「はい一丁あがり、と」

 春樹は猛禽類のようにそっと部屋に忍び込むと、後ろから警備員の首に腕を回し気絶させる。

 さっきまで警備員の見ていたモニターには、スタイルの良い女性を連れたハンサムな男が、応接室で所長と話している様子がはっきりと映っている。だが春樹が興味を示したのは別のモニターだった。そこには、ストレッチャーに乗せられ、今まさに実験室に運び込まれる息子、紫苑の姿があった。

「よおし、すぐに助けてやるからな。しっかし息が上がるわ。若い頃のようにはいかんなあ」

 首をこきこき鳴らすと、息子の姿を見た喜びからか自然に彼の口元に笑みが浮かんだ。無精ひげさえ逆に似合うその整った顔は、この時はとても健康とは呼べない色をしていた。だがこの時、息子を想う強い父性が彼を強くつき動かしていたのだろう。



 警備員の服を奪い、それに着替えた春樹が守衛室を後にした三分後……。

大佐を含め四人の人影が、音もなくさっきまで春樹がいた守衛室に侵入した。大柄な男たちの顔には、森林迷彩のペイントがされたままだ。濃い緑色を塗った顔には、ギラギラとした眼が二つずつ光っている。

「大佐! ブラボーチームも配置につきました。あとはビショップからの合図を待つだけです」

 イヤホンに手を当てながら、部下が大佐に報告する。このビショップとはブライアンのことであろう。

「いいか。この建物を制圧したら、全ての研究員をひとつの部屋に集めろ。ビショップからの指示は『研究員は殺すな』とのことだ。だが、あまり時間がない。抵抗した者は片っ端から拘束しろ!」

「イエス、サー!」

 男たちは自動小銃の安全装置を一斉に外すと、うっすらと笑みを浮かべながら各部屋の制圧を開始した。



 四月十日 零時過ぎ


「聞こえるか? 紫苑、あずさ」

 日付が変わってとうとうチャレンジ最終日がやってきた。だが、いま俺たちにはやるべき事がある。

 三十分ほど経ったころ、俺は隠し持っていた小型無線機を取り出した。あらかじめ決めておいたチャンネルに合わせ、発信する。

「謙介さん? ええ、聞こえるわよ。何か……この部屋って刑務所みたい。窓に鉄格子とか普通じゃないわよね」

「なるほど。やっぱりこの部屋と同じようだな。分かった、よく聞いてくれ。その鉄格子のはまった窓から何が見える?」

「ちょっと待ってね。――えーと、直接は見えないけれど東側に海があると思う。潮の香りと、波の音が聞こえるなあ」

 と言うことは、やはり俺の部屋と同じ間取りに違いない。窓は、海岸を東に見て一列に並んでいるのだろう。

「分かった。じゃあ、そのまま待機してくれ。――おい、紫苑! 応答しろ」

 それから何度も呼びかけたが、紫苑の声はこそりとも聞こえてこない。

「なああずさ、どうもこの研究所は様子がおかしい。俺たちを案内した研究員たちの体格を見ただろ? 身体を鍛えた研究員も中には確かにいるだろうが、ほぼ全員が白衣で隠せない程の胸板を持っているのは不自然だ。しかも、俺を案内したヤツの首筋には銃創の治った跡が見えた」

「あたしも何かヘンだと思う。謙介さんの予感は当たるからね。あたしどうすればいい?」

「とにかくここから出る方法を考えるよ。もう少しそのまま待っていてくれ。検査で呼び出された時がチャンスだ。あと……あずさ、こんな時に言う事じゃないのは分かっているけど、おまえにどうしても伝えたいことがある。これは個人的なことだ。もし無事にここを出られたら聞いて欲しい」

「うん、分かった。楽しみにしてるね。じゃあ、あたしは紫苑からの連絡を待つわ」

「ああ、頼む。誰か来たみたいから一旦切るぞ」

 部屋の鍵がガチャガチャという音とともに回され、さっき俺を案内した男がひきつったような不自然な笑顔を浮かべながら入ってきた。

「あの、夜中に申し訳ありませんが、これから血液検査とチップの取り外しを行いますので、ご同行願いませんか?」

 丁寧だが、有無を言わせぬ口調だ。袖から窮屈そうに飛び出している腕には筋肉が盛り上がり、おまけにトライバルタトゥーの一部がちらりと顔を覗かせていた。

「分かりました。ところで、一緒に来た篠崎紫苑という男とは連絡がとれますか? 緊急の話があるんで」

 明るい廊下を並んで歩きながら、油断の無い目をしたその男に問いかけた。

「篠崎さん? あ、ああ、彼の順番はまだまだ後です。今部屋の前を通ったら、くつろいでテレビを見ていましたよ」

 嘘だ! この男、いや、この施設はやはり何かを隠している。俺はこの時、疑惑が確信に変わるのを感じた。



「博士、これを見て下さい。救世主の血液に含まれる抗体が、ウイルスを激しく攻撃しています。このウイルスはシーズン2のものですが、今まで見た事が無いようなスピードで死滅していきます」

 所長は口をあんぐりと開けたまま、到着したばかりのエドワード博士に顕微鏡の前を空けた。 

「これは……たぶん軍事用に作られたものじゃな。悪いが所長、次は核酸ハイブリダイゼーション検査にかけてくれたまえ」

代わりに顕微鏡を覗き込むエドワード博士の横顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。スタッフに慇懃な態度で迎えられ実験室に通されたのはいいが、彼はここ数日一睡もしていなかった。ニューハンプシャーにいる娘夫婦と、その孫の安全を確保するために奔走していたのだ。

 隣の部屋には、まだぐっすりと眠り込んでいる紫苑の姿が、ガラス越しに見えている。この時既に彼の貴重な血液は、検査用に二百五十CCほど抜かれていた。一般的に、およそ二千CCの血液を失ったら、成人の場合致命的だと言われている。

「承知しました。しかし、これの製作者は天才的な頭脳を持っていたんでしょうね。他の器官に影響を及ぼす事も無く、見事に救世主の血液と共生してますから」

「うむ、これほどまでとはな。ところで、彼の血液型は調べたのかね?」

「はい、B型のプラスです。そのまま私に輸血できればいいのですが……」

 所長も疲れているのか、片目を手でごしごし擦りながら答えた。

「なるほど、では君はB型ではないのじゃな? もしそうだとしても、おそらくGVHDのリスクは付いて回るじゃろう。しかし、B型の者がこの血液を輸血するメリットは計り知れんわな。ところで、君たちはいったい誰に輸血するつもりなのかね?」

 博士の片方の白い眉毛がくいっと上がり、瞳が怪しく光った。

「輸血先は既に決まっています。明日この島に到着する予定の、B型のVIPたちです」

「ほう。ではここでぶっちゃけた事を聞くが、仕事に対する報酬としてそれは私たちにも回ってくるのかね?」

「もちろんです。複製が成功した場合は優先的にお渡しいたします。ただ、あの男の血液はVIPたちに全て提供するので、博士にはこれを大事に使っていただきたい。これは極秘事項ですが、今日の時点で既に『空気感染らしき患者が出ている地域がある』と報告がありました。これからは一刻を争いますので、すぐに研究に入って下さい」

 紫苑からさっき採取したばかりの血液パックが、博士の手に注意深く手渡された。

「なあ――君。君はわしに何か隠してないか? 噂ではこのワクチンの複製は不可能と聞いておるぞ。何より、この若者から血を一気に抜いてしまうと、失血死してしまう危険がある。そのVIPとやらに全部輸血してしまったら、オリジナルがもう手に入らなくなってしまうんじゃないのか?」

「分かっています。しかし、我々はやらなければならないんです。じゃないと家族が……」

 この研究所の家族が人質になっているという意味だろうか、その顔は絶望と悲しみに沈んでいた。

「わしも権力者の横暴なやり方をこれまで見てきたが、この若者を殺すことには手は貸せん。この血液はこのままCDCに持ち帰って、そちらで複製を作る研究をさせてもらう。悪く思わないでくれ」

「こ、困ります。世界には万能ワクチンの順番を待っている権力者たちが、まだ沢山いるのです。あの合衆国大統領もその一人なんです!」

 ここに来てのエドワード博士の反乱に、所長の目はまるで麻薬患者のように泳いでいる。

「それはわしの知ったことではない。第一、今回アメリカ合衆国が、CDCに何を協力してくれたんじゃ? わしはわしのやり方でやらせてもらうよ」

血液パックを握りしめて後ろを向いた時、開いたドアにもたれかかった春樹が彼の進路を塞いだ。

「あー、そこのじいさんはさっさとここを出て、世界の人々の為に自分の仕事をしてくれ。だが所長さん、あんたは違う。そこを一ミリたりとも動くなよ」

「おまえは……。死んだはずじゃなかったのか?」

 目を見開いて後ろに後ずさりする。

「そうだな。軽くあの世ってやつを見てきたよ。だが、死ぬまぎわに息子に呼ばれたような気がしてね。あんたには残念だが、しぶとく戻ってきたんだ。殺したりはしないから今すぐに息子に会わせてくれ」

 春樹の手には警備員から奪った拳銃が握られている。ドアにもたれて立っているのは、決して格好をつけるためだけでは無いようだ。握った拳銃がふらふらと上下するのを、気力で無理やり安定させているようにも見える。

「わ、分かった。隣のラボにいる。だが、会えたとしても結局は引き離されてしまうぞ。あんたが戦おうとしている相手は想像以上に強大なんだ」

 この会話の途中で、博士はサンプルをポケットにねじ込むと無言で部屋から去って行った。

「忠告ありがとよ。でもな、どんな結果が待っていようと、親が子供を助けるのは動物の本能なんだよ。さあ、両手を後ろに回してくれ」

 手早く所長を縛り上げ、さるぐつわをかませる。そして隣の部屋のドアを所長から奪ったカードで開けた。

――そこには、いろいろな機械に繋がるチューブが刺さったままの紫苑が横になっていた。思ったより顔色は悪く見えない。

「おーい、紫苑。起きろ! せっかく親父が生き返って来たんだから、ほれ目を開けろっての」

 身体に繋がるチューブをゆっくりと全て外し終えると、息子の身体を揺さぶる。

「う……うーん。いててて! 頭が超いてえ! あれ、ここは?」

 目を擦りながら片手で後ろ頭をぽんぽんと叩く。

「おはよう! お父さんだよん」

 にこにこしながら春樹が顔を近づけた。

「うお! 親父じゃねえか。てっめええええ! 俺に一言もなく勝手に離婚して出て行きやがって!」

 父親と認識したと同時に、座ったまま力いっぱい親父の腹に鉄拳をめりこませた。

「ぐほうっ! こ、こらこら、いきなり親になんてことするんだ。まさか反抗期なのか? けど、その分なら心配いらねーな。しっかし、大きくなったなあ、息子よ」

 なおも殴り続けるパンチを、今度はひょいひょいと避けながら、最後には息子をがっしりと抱きしめた。

「よしよし、俺が悪かった。詳しいことは後ですべて話すが、今だけは……このままでいてくれるか?」

 記憶の中での紫苑は、きっと昔の子供のままなのだろう。もう紫苑は殴ることをやめ、懐かしい親父のぬくもりを感じたのか大声で男泣きをしていた。

「親父……元気だったんだな。俺、いままで一回だって親父のこと忘れたことなんて無かったよ。母さんは何も言わないけど、きっと今も親父の帰りをずーと待ってる」

「そうか。あいつにも悪いことをした。俺もお前たちと一緒にいたかった。だが……。まあいい、今はここから逃げることが先決だ。よし、立てるか?」

「もちろん。親父こそふらふらじゃんか。年はとりたくないねえ」

 歯並びの良い白い歯を見せて笑うと、診察台を滑り降りた。二人とも目が赤くなり、少し腫れているように見える。

「言うじゃねーか。今日はちょっとだけ血が足りてねえだけだっての」

 二人並ぶと、紫苑の方が頭一つでかい。息子はふらつく親父の肩を支え、拳銃を油断なく構えながら廊下を進んで行く。

『制御室』とプレートのかかっているドアを開けると、その中は無人だった。都合のいいことに、施設を上空から見た見取り図が大きなモニターに映しだされている。ただその画面には、侵入者を知らせるエマージェンシーシグナルが所々で忙しく点滅していた。

「なあ、親父。実は俺の大切な仲間が監禁されているんだ。すぐに助け出さないと」

 そう言うが早いか、東側の電子ロックから順番にOPENにしていく。

「ほう、おまえも友達ができたのか? 仲間ってのはいいもんだろ? よし! 急いでここを出るぞ。この島の北東に、俺を乗せてきたクルーザーがあるはずだ。足はかなり速い」

「ありがとな。あんたが来なけりゃきっと、俺の血液は大出血サービスで抜かれまくってたよ」

 小さな電燈が灯る廊下を早足で歩きながら、息子は春樹の顔をじっと見つめた。

「なんか照れんじゃねーかよ。礼は逃げ切れた時にまとめて言ってくれ」

 その時、施設中に響き渡るほどの音でサイレンが鳴り響いた。手足を縛られていた所長が、机の下まで這いずって行き非常ボタンを押したのだ。

 次の角を曲がると同時に、複数の足音が二人の耳に飛び込んできた。

「おーい、ひょっとしてそこにいるのは紫苑か?」

 声をかけてきたのは謙介だった。謙介の後ろに守られるように歩いているのは……あずさだ。

「良かったあ! 連絡がとれないから心配してたのよ。あれから謙介さんがひきょうな技を使ってスタッフをやっつけて私を助けに来てくれたの。敵はあっちの廊下でのびてるわ」

 あずさは、走って紫苑の元に駆け寄るとジャンプしながらハイタッチする。

「ひきょうってなんだよ! 聞こえが悪いな」

「おいおい、謙介さんもやるじゃないか。ところで、リーマンさんたちは?」

「さっき会ったわ。追っ手がいるらしいから、二手に分かれて中庭に集合することになってる」

「OK。じゃあ俺たちも中庭に向かおうか」

「ごほん。おい紫苑くん。俺のことをこの可愛いお嬢さんに紹介してくれないのか? おまえを助けた武勇伝とかをほどよく織り交ぜてだな」

 春樹がつんと澄ましたような顔を作りながら言った。

「これ俺の親父。みんなよろしく!」

「おまえな、俺の話の後半聞いてなかっただろ」

 謙介とあずさは、やっぱりという顔をしながら軽く頭を下げた。

「顔が似てらっしゃるから、そうじゃないかとは思っていました。俺は謙介、こっちの超絶おてんば娘があずさです。よろしくお願いします」

「はい?」

 ふくれっ面で謙介を見上げる。

「まあまあ。そうか君たちが息子の大切な友達か。こちらこそよろしく。おっと、向こうから誰か来るようだ。走ろう!」 

 四人は、姿勢を低く保ちながら音を立てない様に走り出した。だが、春樹だけは少し遅れ気味だった。電燈の光に照らされている彼の顔色もあまり良くないようだ。

「おじさん、大丈夫?」

 あずさがひそひそ声で、後ろから春樹の背中を心配そうにつっつく。

「ありがとう、お譲ちゃん優しいな。どう? 息子の嫁に」

 振り向いたその笑顔は、本当に紫苑にそっくりだった。その無理して強がる表情さえも。

 駆け足で四つほど角を曲がると、やがて中庭に出る赤いドアが見えてきた。ドアを急いでくぐると、中庭の中心に水を高々と噴き上げている噴水があった。廊下からの小さな明かりに反射して、なみなみと水が湛えられている様子が伺える。その台座に駆け寄ると、闇に潜むようにばらばらに座っていた複数の人影が、今来た四人を警戒するように一瞬身構える。

「よお、遅かったな。やっぱり俺の言った通り、この施設は胡散臭かっただろ?」

「しっ!」

 あつしの言葉を遮るように、リーマンが警告した。リーマンの見ている方向には、軍服を着た一団が乱暴に部屋のドアを蹴り破っている姿が見える。手に持っている自動小銃の影が、廊下の壁にまるで影絵のように不気味に映っていた。

「何なんだ、あいつらは。誰かを探しているようにも見えるな。まあ、敵か味方かっていうと物凄く敵っぽいけど」

 謙介の言葉に、全員が黙って頷いた。

 その時、中庭に響き渡るような雑音に続き、男の声で館内放送が流れ出した。

「あーあー、この放送を聞いている諸君。ここは私の部隊が制圧した。まだ隠れているものは、速やかに出て来るように。特に篠崎紫苑くんに聞いて欲しい。先ほど、君がある権力から狙われているという情報が入った。彼らは君の血液を独り占めする気でいる。仲間の安全は私が保障するから、安心して出てきたまえ。そうそう、ここの研究の要とも言うべきエドワード博士はこちらで拘束した。いま、切り札は私が持っているんだ。仲間を助けたかったら、我々のチームに加われ。私はブライアン。繰り返す……」

 謙介たちには聞きなれた声だった。一同は耳をこらして内容を聞き取っていたが、誰一人「出て行こう」と言うものはいない。

「何かおかしいわね。ブライアンが協力したのは、この島に私たち、いや紫苑さんを隔離するためなのは分かる。あれから何かあったのかしら。……でもエドワード博士がいないとワクチンのコピーは絶望的ね」

 リンダは深く長いため息をついた。

「お金で博士を取り戻せるなら、俺が小切手を持って行って交渉してみようかな」

 モヒカンが、噴水の台座に複雑に絡まるツタをいじりながら提案する。暗闇の中のそれは、まるで人間の血管のようでかなり不気味だ。繰り返し続く呼びかけを無視して、中庭では激しく意見が交差していた。

「紫苑は絶対出ていっちゃダメよ。ブライアンたちもあなたの血を抜いて、自分たちが助かろうと必死なんだから」

 あずさが紫苑の耳元でささやく。

「最初から信用してないよ。信用できるのは謙介さんとおまえだけだ」

 小さな声で、そっとつぶやいた。

「おいおい、俺も信用してくれよな」

 ちらっと親父を見る紫苑の眼は「あたりまえだろ」という風に笑っているように見えた。

「みんな、よく聞いてくれ。この島の北東に船があるらしい。俺がおとりになって注意を引くから、その隙に裏口から逃げろ。北に逃げれば深い森になっている。迷うかもしれないが、GPSで探せばきっとたどりつけるだろう」

 小さいがきっぱりした声で、謙介が作戦を提案する。

「ダメよ! 危険すぎるわ。あたしは断固反対よ!」

 さっき見た軍人たちの銃を見て不吉な予感がしたのか、あずさが力いっぱい叫んだ。

「しっ! 声が大きい。大丈夫だって。俺はこういう時は運がいいんだ。約束する、絶対に無理はしない。それに……まだおまえに伝えてない大事な話もあるしな」

 手を伸ばして、あずさのあたまをぽんぽんしている。

「俺もいくぜ。一人より二人の方が、何かあった時に安心だろ?」

 ゴリラが太い腕を挙げた。今まであつしに頭から押さえつけられ、自分の存在価値が見出せなかった反動なのか、その眼は死の覚悟さえできているように見えた。

「よし、じゃあ二手に分かれよう。クルーザーの操縦は俺にまかせてくれ」

「ちょっと待て。おっさん、誰だよ?」

 ここに来てあつしが、初めて春樹の存在に気付いたように質問する。

「このハンサムな息子の父親だ。よく見りゃ似てるだろ?」

 暗闇でよく分からなかったが、ウインクしながら答えた。

「似てるかどうかは知らねえけどよ、足手まといにだけはなるなよ? その時は容赦なく置いていくからな」

 ぎらついた眼で春樹を睨んだ。あつしの言うとおり、敵だらけのこの施設から逃げるのは命がけだろう。

「気をつけてね。絶対に死なないで!」

 あずさの言葉を背中に受けながら、謙介とゴリラは噴水の脇から走り出た。覚悟にじませた二つの背中はみるみる小さくなり、敵が待つ施設の中に再び吸い込まれて行った。



『ワシントン・ウイルス研究施設』 四月十日 



「そこのじじいからばんばん血を抜いちゃって。必要なら致死量ぎりぎりまでやっちゃってもかまわないわ」

 ここは、ガーフィールドパークの近くにある研究施設だ。遺伝子学研究では世界のトップクラスのスタッフを集まっているはずだったが、数名の著名な研究者には何故か連絡がとれなかった。

「しかし年齢を考慮しますと、この老人からこれ以上血を抜くのは危険です」

 縁なしの眼鏡をかけた、顎の尖ったカナダ系の研究員が忠告する。エリザベートの力により、必要のない研究所職員は全てこの部屋から追い出されていた。

 診察室の固いベッドには、鬼頭小次郎と紫苑のクローンが手足を拘束されたまま寝かされている。

「大丈夫よ。もしダメだったら若い方を使うから。まずじじいの血液を各部署に回して、全部署同時に研究を始めるのよ。分かってると思うけれど、ここであった事を口外したら……」

「それは承知しております。当施設には十分な資金を寄付して頂きましたので、あなたのご要望に添えるように全力を尽くします」

 白い手袋を嵌めた指で眼鏡をずり上げる。白衣のネームプレートにはD・トーマスと書かれている。

「う、うう」

 その時、鬼頭小次郎が苦しそうに呻いた。どうやら意識を一瞬取り戻したようだ。何か言いたげにエリザベートに焦点の定まらない目を合わせ、もぐもぐと口を動かした。

「なあに? 何か言い残すことでもあるの?」

 冷酷な笑みを浮かべ、髪の毛をかきあげなら見下ろす。その表情は、誰が見ても完全に勝ち誇っている者の顔だった。

「血を、わしの血を抜いたな? た、頼む、殺さないでくれ。わしにはまだまだやる事があるのだ」

 ビッグミリオンのトップにいた人間とは思えない、弱々しい声で訴え始めた。細い枯れ木のような腕を上げてエリザベート身体をつかもうとするが、すぐに力なくだらーんとベッドからぶら下がる。

「あら、命乞い? あなたのワンマン経営で、どれだけの人間が苦しんだと思うの? あなたを殺してやりたい人間は社内、社外含めてたっくさんいるわ。ふふ、最後は役にたって良かったじゃない。もうあきらめなさい」

 ぶら下がった小次郎のしわしわの手を持ち上げると、ベッドの上に放り投げるように乱暴に戻した。

「い、いいのか? おまえのしようとしていることは、このままでは無駄に終わる。前にわしが『鍵をかけた』と言ったのを覚えておるか?」

「だから、なに?」

「よく考えてみろ。万能ワクチン=人間の中だったじゃろ? なら、『鍵穴』は一体どこにあるのかな?」 

 クイズを出す事自体は気分がいいのか、小次郎の口もとにはうっすらと笑みが浮かんでいる。

「まさか、鍵穴も人間の中ってこと? ひょっとして、その人間の血液とワクチンを混合させることで……全ての人に使える安全な『万能ワクチン』ができるってことじゃないわよね?」

「おまえは相変わらず頭が良いのう。特に目をかけて育ててきた甲斐があった。じゃが、まさかそのわしに対してここまでするとはな。……もう気付いているだろうが、その人間はわししか知らん」

「ふうん。――取り引きしようと言うのね。その人間を教えてくれる代わりに、命を助けろと」

「あと、紫苑を保護してくれ。孫は今も狙われている。あいつにはわしの跡を継がせなければならん。これは、鬼頭家の使命なのじゃから。なにより、可愛いわしの孫なんじゃ」

 長い沈黙が流れた。エリザベートが頭の中でどんな計算をしているのかは、見た目では判断できない。

「つまり、あなたの血液と、その媒体の血液と合成した『モノ』があれば、それを複製するのは簡単ってことなのね?」

「その通り。両方とも少量の血液があれば可能だ。偉大なる父の言いつけどおりに、わしは『媒体』をある人間に隠した。ひとつ警告しよう。おまえはまだ気づいていないかもしれないが、わしが失踪したいま、世界中に散ったわしの仲間が血眼になってわしを探しているじゃろう。ここが突き止められるのも時間の問題じゃ。表をよく警戒しておいたほうがいい。彼らの私兵は手段を選ばないし、軍隊並の武装を持っているぞ」

 その言葉を聞いて、トーマスの顔はみるみる青白くなった。暴力とは無縁の世界で生きてきた彼には、少し刺激が強すぎたのかもしれない。

「ハッタリじゃなさそうね。でも、今この瞬間、あなたの命を握っているのはこの私なのよ」

「分かっとる。じゃがこの情報の価値は高いぞ」

 エリザベートは手を振ってトーマスを追い払った。そして腕を組むと、しぶしぶという感じで肩を竦める。

「いいわ、取り引き成立よ。『媒体』の人間の名前を教えて」

 老人の息のかかる距離まで耳を近づけ、一言も聞き逃すまいと目をつぶった。



『コイバ島・北東の港』 四月十日 午前四時



「あれかな? 白い船って」

 ぜいぜいと息を弾ませながら、係留されている船を指さしたあと紫苑は草むらにひっくり返った。モヒカンとリンダたちも同じく大の字でひっくり返っている。

身体に降りかかる夜露でびしょ濡れになりながらも、やっと一行は港に到着した。深夜にもかかわらず、紫苑たちが潜んでいる藪からは武装した二名の歩哨の姿が見える。

「あいつらを何としねえ事には、船に近づけないぞ。よし、俺とそこのイケメンくんでやるか」

 虫に食われた腕をぼりぼりと掻き毟りながら、あつしは紫苑に顔を向けた。

「いいけど、騒ぎを起こすのはまだ早いんじゃないかな。謙介さんたちが来るまでは動かない方がいいかもよ」

 上体をむくっと起こし、後方の暗闇にしばらく目を凝らす。しかし、聞こえて来るのは鳥と獣の不気味な鳴き声ばかりで、人間のたてる足音などは全く聞こえてこない。

「謙介さんたち大丈夫かしら。私たちが逃げたすぐ後、後ろで銃声がしたわよね。……紫苑! やっぱり私戻るよ。戻って一緒に戦ってくる!」

 唇はわなわなと震わせながら、あずさはびしょ濡れの身体で立ち上がった。もう既に泣いているのか袖で何度も目のあたりを拭っている。

「ダメだって。謙介さんの気持ちを無駄にするな。大丈夫、待っていればきっと来るよ。今まであの人は必ず戻って来たし、約束を破った事なんて一度も無かっただろ?」

 安心させるためか、あずさの肩に優しく手を置いてゆっくりとまた座らせた。

「――うん、きっと大丈夫だよね」

 ど、どすん! 

 不意に、鈍い音が暗闇に響いた。

 音のした方には桟橋があったが、何故かそこにさっきまでいた歩哨の姿が無かった。ちょうど月の明かりも手伝って桟橋から浮かび上がってきたのは、倒れている二人の歩哨の姿だった。おまけに、そこから紫苑たちに向かってぶんぶんと手を振っている人物の姿も見える。

「まさか、あれって…… うお!? いつの間にか親父がいねえし!」

 振り向いた場所には、やはり春樹の姿は無かった。

数分前、春樹は藪から抜け出して、気配を消しつつ桟橋に向かうと二人の首を絞めてちゃっかりと制圧していた。

「何か伝えてるぞ。えーと、なになに? おーいこっちこっち? 鍵も、ついて、いるから、早く?」

 どうやら身体を張った大きなゼスチャーで、何かを伝えているようだ。確かに、暗闇に他にも敵が潜んでいるかもしれない以上、まだ大声は出せないのだろう。

「なぜか分かっちゃうのが超悔しいけど、親父が勝手なことしてほんとごめん」

「……おまえの親父って、忍者か何かか? いろんな意味でただモンじゃねえな」

 呆れ顔のあつしに見つめられて、小さく首を振った。

「あの人が勝手なのは昔からだよ。とにかく今のうちにエンジンがかかるか確かめておこう。みんな、走るぞ!」

 紫苑の掛け声とともに、全員藪から一斉に飛び出した。クルーザーまでは三十メートルぐらいだ。

「親父、勝手なことすんなよ! 身体だって本調子じゃないんだろ?」

 無事に船に乗り込むと、親父の身体を心配しているのか紫苑が厳しい声で怒りだした。

「まあまあ、結果的に船が手に入ったからいいじゃないか」

 リーマンが船外機の燃料を確かめながらなだめた。燃料は十分に残っているとジェスチャーで伝える。

「悪かった。一刻でも早くこの島を出ないと、応援が来ると思ってな。レーダーよし、燃料よし。いつでも出発できるぞ」

「まだ待ってて! 出発するのは、謙介さんたちが戻って来てからよ」

 船の手すりを掴み、身を乗り出しながらあずさが鋭く叫んだ。

「別に、いいんじゃねえの?」

 その言葉を境に場の空気が凍り、一斉にあつしに視線が集まった。歪んだ光を発する眼を見て、あずさは身を固くする。

「いいよ、もう出発しちゃおうぜ。俺がこれを操縦する。みんなも銃声を聞いただろ? きっちり二発。あの時は急いで決めたけど、よく考えたらあいつらはGPSも持っていないんだぜ。たどり着けるはずがねえよ」

 煙草の煙を鼻から吐き出しながら、デッキチェアにふんぞり返っている。

刹那、口を一文字に結んだ紫苑が、あつしにまっすぐ駆け寄ると胸倉を掴み、そのまま力任せに持ち上げた。ボタンがはじけ飛んだシャツの中からは、竜の刺青がちらっと顔を出している。

「よく聞け! 謙介さんたちがいなかったら、俺たちはここに辿り着くことさえできなかったかもしれないんだぞ。ふざけたことを言ってんじゃねえ!」

 紫苑の顔は真っ赤に紅潮し、今にもこのまま殴りかかりそうだ。今までこんなに怒った彼を誰もみたことは無かった。

「やめろ、紫苑。冷静に考えれば、こいつの言う事も一理あると思う。だが、俺の息子が待つって言うんなら、俺は待つ。それが嫌なら、そこの刺青くんは先に行ってくれ。彼に着いて行きたい者はそのままこの船に残ればいい」

 紫苑はあつしの顔をもう一度自分にぐっと近づけて睨むと、押し出すように手を離した。そのまま椅子に叩きつけられた格好で、あつしは床にペッと唾を吐く。

「では他に、この船に残る者は?」

 春樹が全員をゆっくりと見廻す。リーマンが元から決まっていたかのようにさっと手を上げる。だが、彼と同じチームだったモヒカンとリンダは、デッキの隅っこで何やら相談をしているようだ。

「ちょっと聞きたいんだけど、このまま逃げてもワクチンは手に入らないよね? あつしさんたちはそれでもいいの?」

「いいも何も、このままだったら俺たちは捕まるか野たれ死ぬかだぜ? とにかくこの島から逃げて、どこか汚染された空気の入って来ねえ場所でこの騒ぎをやりすごす。おまえらには言って無かったが、どさくさに紛れて、シーズン2用のワクチンは手に入れてきたんだよ。そこのリーマンさんが素早く、ね」

「はあ? じゃあ、俺たちにもくれよ! なんで黙ってたんだよ!」

 モヒカンの小さい瞳が、一瞬で怒りの色に染まる。

「ワクチンは三人分しか無い。俺とリーマンさんは既に森の中で注射済みだ。俺たちは密かに別のチームを組んでいたんだよ。ったく間抜けどもが。でもな、おまえには金がある。その大事にしまっている小切手と引きかえに、一人分だったら売ってやってもいいぞ」

 あつしは腰からギラリと光る大型のナイフを取り出した。そして、それを目の前の丸い机にどかっと突き立てる。まさか、さっきの歩哨からこっそりと盗んだのであろうか。ひょっとしたらまだ、拳銃まで隠し持っているかもしれない。

「――いいよ、買う。だけど、俺とリンダはおまえらとは一緒に行かない。おまえはいっつも卑怯なことばかりしやがって」

「勝手にしろ。とっとと小切手を出せ」

 モヒカンは唇を噛みしめながら、ポケットから小切手を出してあつしに渡した。いつか自分が助かる切り札になるかもしれない唯一のモノを、ここで手放してしまったのだ。

「ほら、これだ。大事に使えよ」

 あつしから手渡された注射器には、うすい黄色の液体が入っていた。

「リンダ。何も言わずに、目を閉じて腕を出して」

 優しい眼をして微笑むと、リンダの血管をすばやく探して腕に突き立てた。

「ちょっと、あんた何を」

「しー! 何も言うな。勝手だけど俺は、ヒキの弱い姉さんが助かってくれればそれでいいんだ」

 中の液体がゆっくりと血管に吸い込まれていく。

「相変わらずカッコつけて……バカな人」

 その目にみるみる涙が溢れだして、頬を伝っていく。そして、涙が落ちた片方の手はモヒカンの腕を固く、固く握っていた。

「いやあ、泣かせるねえ。十四億円の愛……か。俺にはとてもマネできねえや。さて、いいモンも見せてもらったし、そろそろ船から降りてもらおうか。俺達はこの金で豪華なシェルターでも買うよ。もう日本の仲間なんてどうでもいい。美女を片っ端から集めてシェルターに詰め込んで、豪華なハーレムを作ってやる。もうこれで、てめえらの顔を見ることもねえ。あばよ」

 ナイフをテーブルから抜いてこちらに向け、威嚇するように鋭く尖った刃先を動かした。

 あずさは今のモヒカンたちのやり取りを見て、感動したのか泣きじゃくっている。紫苑がその背を優しく押しながら先に降りると、他の者も次々に下船しはじめた。結局残ったのは、紫苑、あずさ、春樹、モヒカン、リンダの五名だ。

 すぐにエンジン音が高く響き渡り、クルーザーはゆっくりと桟橋を離れ始めた。

「モヒカンさん! 超カッコ良かったわよ。感動してもらい泣きしちゃったじゃない。見直しちゃった!」

 涙でくしゃくしゃの笑顔で、あずさはその背中をぱーんと叩いた。モヒカンは照れ笑いを浮かべながら頭をかりかりと掻くと、リンダと繋いだ手を確かめるように再び握り直した。

「よーし、じゃあ次の船はあれだ。ま、動くかどうか分からないけどな。誰か手を貸してくれ」

 春樹の指し示す先には、十人乗りぐらいの古いボートが繋がれていた。所々塗装が剥げているが、どうやら船外機は新品で航行には問題無いようだ。このチームはいま、不思議な魅力を持つ春樹を中心にまとまっているようにも見える。

「あとは……待つだけね。二人とも無事だといいけど」

 あずさの言葉に全員が頷く。五人は船底の暗がりに身を潜め、これからの逃亡計画を検討し始めた。辺りには潮の香りが立ち込め、やがて打ち寄せる波の音が気怠く彼らを包んでいった。

「今、何か聞こえなかった? きっと謙介さんたちよ!」

 有効な逃亡計画も出ないまま、疲れのためか全員がうとうとしていた時だ。いきなりあずさが顔を上げてみんなを起こす。ここから森をぼんやり見通すことができたが、この深夜の暗闇では月明かりだけで人間の姿を確認することは不可能だった。

「待った、俺が見て来るよ。みんなそのまま隠れていてくれ」

 足音をたてずに紫苑が代表して森に近づいて行く。しばらくすると、また足音を殺しながら戻って来た。

「手を貸してくれ。ケガ人がいるんだ」

 それを聞いたとたんあずさは、一番に船から桟橋に飛び移ると、みんなが驚くような速さで走り出した! 森の出口にある太い木の根元になにやら人影が見える。一人は地面にうつぶせに倒れたままぴくりとも動いていない。

「うそでしょ? ねえ、謙介さんはどこ?」 

 紫苑たちもあずさに追いつき、次々に足を止める。あれは……ゴリラだろうか、大木にもたれかかりながら、ひときわデカい人影が肩を上下させていた。

「すまねえ。あれから少し経った時に、いきなり後ろから発砲されたんだ。何かに驚いてパニックになったヤツが、動くものに対して見境なく発砲した感じだった。とにかく、俺とこいつはラボに逃げこんだ。しばらくすると、ブライアンの野郎が部屋にひとりで飛び込んで来た。もちろん、片手に拳銃を構えながらな」

 月明かりに照らされて、うつ伏せに倒れている人間は……謙介だった。頭から血を流して意識を失っている。あずさは、膝をがくがくさせながら二、三歩謙介に近づいたが、そのまま声にならない叫びを上げて失神した。倒れる身体を春樹が片腕で優しく支える。そのまま謙介を仰向けにして首の脈を調べ始めた。

「大丈夫だ。まだ生きている。それから、何があった?」

「そのブライアンってヤツが、妙なことを言いだしたんだ。『こんなに早いとは。私を君たちの仲間の所に連れてってくれ』ってね。そしてまっすぐ俺に銃口を向けた。有無を言わさず俺を人質にして、コイツに案内させるつもりだったらしい」

 リンダも謙介に駆け寄り、側頭部からの出血を必死にハンカチで押さえている。

「だが、そいつの次の言葉は、ますます俺には理解不能だった。いいか? そのまま言うぞ。『鍵穴は父親だと連絡があった。息子とその父親さえ手に入れば、全てが上手くいく』と。そして……その後すぐに恐ろしい事が起こった」

「恐ろしい事って?」

 いらいらした様子で紫苑が先を促す。

「信じられないかもしれないが、部屋の外でたくさんの獣がうなるような声が聞こえたんだ。ドアは軋み、今にも破られそうだった。ブライアンは俺に拳銃を向けたまま、廊下に繋がる小さな窓を開けた。すると……」

 ゴリラの顔には恐怖の表情が浮かび、唇がわなわなと震えた。

「ドアから無数の血まみれの手が出てきて、一瞬でヤツが部屋から引きずり出されたんだ! たぶん喰われたんだよ、軍服を着たあいつの部下たちに!! 若い女も混ざっていて、そいつががっぷりとブライアンの腕に食らいついていた。あの顔……あんなの人間の顔じゃねえ!」

 頭を抱え、ゴリラはしゃがみこんだ。

「ねえ、ひょっとしてそいつらは感情むき出しで、動物の攻撃本能だけで動いてる感じじゃなかった?」

 紫苑がゴリラの襟を持って立たせながら聞いた。

「ああ。デタラメな動きだけど、ためらいも無く引っ掻いたり肉を噛みちぎったりしていたな。まるで、映画で見たゾンビのような動きそっくりだった」

「なんてことだ。それは――シーズン3だね。アーノルドから聞いていた通りの症状だよ。なぜこの島で急にウイルスが進化したかは分からないけど、ウイルスの最終形態がついに姿を現したんだ」

 紫苑はゴリラを立たせると、少しだけ距離を置いた。ゴリラからは、感染者に触ってしまったから身を引いたような感じに見えたかもしれない。

「じゃあ、俺も感染してるかもしれないってことか? 廊下の惨劇を見て、コイツがすぐにドアをロックしたけど……。おい! 汚い物を見るような眼でこっちを見るんじゃねえよ!」

 謙介を担いできた時に着いた血なのか、血まみれの手のひらを狂ったようにごしごしと擦り出した。

「そこまでは分かった。でもさ、謙介さんは何故こんなケガをしているんだよ」

 彼をこれ以上刺激しないためか、紫苑は優しくゆっくりと質問した。

「そいつは、最初の発砲の時に俺を庇ってくれた時のケガだ。どうやら俺の背中に向けて二発発射されたらしい。身体がデカいから狙いやすかったのかもな。一発目は幸運にも外れたけど、二発目は正確に俺を捉えていたと思う。その時、横にいたコイツが俺を突き飛ばした。そして代わりに……。結局、俺たちはブライアンが襲われている隙にラボの裏口のドアから逃げてきたんだが、とうとうコイツは森の中で意識を失って倒れちまった。『もうすぐだぞ、頑張れよ!』ってそれまで俺を元気づけてくれたりしてたのに、き、急に動かなくなっちまって」

 デカい図体に似合わず、顔を覆いすすり泣きを洩らし始めた。もしあつしなら絶対にそんなことはしなかっただろう。ゴリラが撃たれている隙をみて、とっとと逃げてしまうに違いない。

「耳の上を銃弾がえぐっているようだね。脳震盪を起こしているみたいけど、ここでは脳の内部までは診断できないな」

 紫苑は手で傷口を確かめると冷静に分析した。そして春樹をじっと見つめると、答えを求めるような眼で言葉を促す。

「――今まで聞いた話を総合すると、どうやら俺が『鍵穴』らしいな。俺の親父、つまり鬼頭小次郎が昔言った言葉をいま思い出したよ。『鍵と鍵穴はずっと一緒にいてはならない』ってね」

「俺が鍵で親父が鍵穴? ってことは……」

「ああ。俺の会社が不可解な力で潰されたのは、親父の圧力だったのは後から分かったことだ。あの頃、俺は一代で築いた会社が理不尽に潰され、精神的にやられていた。酒を毎日浴びるように飲み、妻にもひどいことを言ってしまった。だがな、これは決して鬼頭小次郎のせいではない。もう一度踏ん張れば良かったんだが、結局は逃げてしまった。心の中では二人とも愛していたのに。おまえにも辛い思いをさせてしまったな。許してくれ、紫苑」

 深々と頭を下げる春樹を見つめる紫苑の眼には、すでに恨みの感情など微塵もなかった。

「もういいよ、親父。こうして会えたんだし、俺も大人になったんだ。とにかく、謙介さんを船まで運んで出発しよう。感染しているかどうかは、今は判断できないんだからさ」

 気のせいかもしれないが、森の奥から多数の人間の呻き声が聞こえてくるような気がする。施設は今、どういう状態なのかここからでは知りようもない。しかし、この島でぐずぐずしていたら遅かれ早かれ感染してしまう危険がある。

「よし、おまえはそこのお嬢さんを担いでくれ。俺はケガ人を運ぶ。そこのガタイのいいヤツ! 少し手を貸してくれ」

「い、いいのか? このまま仲間でいても。俺の代わりにコイツがケガを……」

「当たり前だ。これからは『親子混合ワクチン』を作るために、君の力を貸してくれ」

 春樹のこの言葉でゴリラの表情はパッと明るくなり、バネのようにしなやかに立ち上がった。

「よーし、みんないるな? じゃあエンジンをかけるぞ!」

 春樹は船外機のエンジンをかけると、慣れた手つきでもやいを解きながら叫んだ。

「目指すはパナマだ。そこで全てに決着をつけるぞ」

 白い航跡を引きながら、意外と早いスピードでボートは桟橋を離れ滑り出した。

「なんだ? あれは……」

 十分ほど東に走ると海上に炎がもうもうと上がっているのが見えた。

なんとそれは――さっき出発したあつしたちの乗ったクルーザーだった。それは炎と黒い煙を巻き上げ、今にも海中に飲みこまれそうに傾いている。

「こりゃ普通の事故じゃないな。どてっぱらに大きな穴が開いている。ミサイルか何かかな」

 舳先から飛んでくる水しぶきを浴びながら春樹が叫んだ。この暗い海上では、もしあつしたちが生きていても救出はとても不可能だと思われた。

「逆にこれはチャンスかもしれないよ。俺たち全員が死んだと思っているかも」

「いや、俺はともかく、おまえは貴重な人間だと彼らは認識している。ジャミングの効いている島を出たからチップで個人を判断できたのかもしれないし、おまえが乗っていないと分かっていたのかもしれない。そうすると疑問がひとつ残る。あの島の人間は凶暴化しているはずだから、まともに攻撃できる状態じゃない。とすると、船を攻撃したヤツらはいったい……」

 春樹はタオルを鉢巻替わりにした頭を抱え込んだ。

「親父、今は考え込んでる場合じゃないって! とにかくフルスピードで陸地を目指そうよ」

 波頭が砕けた水しぶきを浴びて、全員がもうびしょ濡れだ。

 しばらくすると、疾走するボートの先には、黒い陸地と港の小さな灯りが見えてきた。暗く不気味な海とは対照的に、船底に寝かされた謙介とあずさの顔には、月の光が優しく降り注いでいた。



『パナマ共和国・サンチアゴ』 四月十日 早朝



「ここは?」

 俺は眩しい朝日に手をかざしながら目をあけた。頭の横の部分が、そこだけ意志を持ったようにずきずきと痛む。何故か背中には柔らかな砂の感触があり、強い潮の香りが鼻孔をくすぐった。

「おーい、お嬢ちゃんたち。謙介くんが目を覚ましたぞー」

 謙介?

 誰かが――俺の横で大声を上げている。

 霞む目を擦りながら起き上ると、逆光で見えにくいが俺の方に何人か走って来るのが見える。その顔は一様に微笑んでいるように感じられた。

「謙介さん! 心配したわよ。大丈夫?」

 魅力的な唇を持つ若い女性が目をうるませて、子犬が飛び乗るように胸にすがってくる。その女性の頭越しには顔だちの整った青年が、ほっとしたような顔を覗かせていた。

「あの、あなたたちは?」

 その言葉を聞いた若い女性の顔が、瞬時にひきつった。みるみる涙袋から光るものが溢れはじめる。

「あずさよ! 覚えてないの? あの人は紫苑。同じチームの仲間よ」

 しおん……仲間?

 紫苑と呼ばれたその青年からも微笑みがすうっと消え、眉をひそめながら一番年上と思われる男性と急に何かを話し始めた。

「お嬢ちゃん。ひょっとしてコイツ、感染したのかもしれないぞ」

 ゴツい身体をした男が低い声で女性に話しかける。その言葉を聞いた女性の肩が、電気に打たれたようにぴくっと震えた。

「違うよね? ちょっと忘れちゃってるだけだよね? 謙介さんが私たちを忘れる訳がないじゃない!」

 叫びながら身体を揺さぶり続ける。彼女の眼から零れ落ちた暖かい涙が、俺の頬を伝いながら包帯に染み込んでいく。

「ダメだって、あずさ。安静にさせとかないと。悪い、みんなちょっと集まってくれ」

 その女性は名残惜しそうな目線を俺に向けると、ふらふらと立ち上がり海岸の林の影に歩き出した。波の音で会話はよく聞き取れないが、何かモメているようにも聞こえる。

 そのまま打ち寄せる波の音に身を任せて目を閉じると、俺はすぐにまた深い暗闇に飲みこまれていった。


 ヤシの木陰には春樹、紫苑、あずさ、モヒカン、リンダが難しい顔をして集まっていた。じりじりと気温が上がりだした砂浜には、朽ち果てた船の上で羽を休める鳥以外は誰も見えない。

「感染している? バカな。だったらゴリラくんにもそれらしい症状が出ているはずだよ。同じ所にいたんだからね」

 紫苑の意見はもっともだ。だが、発症には個人差があるはずなので楽観はできない。

「たぶん頭に強いショックを受けただけだと思うよ。明るい所でよく見たら、銃弾で頭皮の肉が軽くえぐれていたからさ。もう少しだけ深かったら助からなかっただろうね」

「あたしもそう思う。一時的なものよきっと。謙介さんに限って、私たちを忘れるはずがないわ」

 モヒカンとあずさの言葉に一同は頷いた。しかし、春樹だけは厳しい顔をしている。

「万が一の事を考えて、彼とゴリラくんからは距離を置いた方がいいんだけどな。紫苑と、このお嬢ちゃんは感染の危険がないから大丈夫だが」

「え? ちょっとまてよ。そこのお嬢ちゃんは、まさかもう万能ワクチンを打っているのか?」

 目を丸くしたゴリラが、怪訝な顔をして春樹に身体を向けた。

「紫苑から直接輸血を受けたの。副作用もまだ出ていないから、このあと輸血する時、可能なら私の血液もどんどん使って欲しい」

 本当に申し訳ないという顔でみんなに頭を下げた。

「では、意見をまとめよう。俺たちは一刻も早く輸血を行わなければならない。今の状況を考えると、もしかしたらもう誰か感染している可能性はある。もちろん『鍵穴』だけじゃウイルスを防げないから、俺も含めての話だ。だが、今はその可能性を論じている時じゃない。これから車を調達してパナマに行き設備の整った病院を探して、やれるだけの事はやってみよう」

 春樹の言葉に、全員が首を縦に振った。


 数時間後


「オンボロだけど、よく走るなあ。親父、どこでこれを調達したんだ?」

 サンチアゴを抜ける〈パナメリカナ自動車道〉を走るバンの助手席から、紫苑が感心したように声を上げた。

 赤茶色に色あせた八人乗りのバンは、タイヤを軋ませながら元気に山道を登って行く。このエンジンの快調さに比べれば、ラジオは壊れておもちゃのように飛び出し、エアコンも無く、車の窓からはむっとした熱風が常に容赦なく吹き込んでくる事ぐらいは些細なことだろう。。

「コーヒー農場を偶然見つけてな、俺の指に嵌っていた金の指輪と交換した。おまえの母さんとの結婚指輪だったけど、この際しかたないだろ? 日本に帰れたら頭を下げて許してもらうよ」

 ハンドルを右へ左へ忙しく回しながら答えた。その動きに合わせてみんなの首も激しく揺れている。先が見えないようなカーブが延々と続き、車に弱い者は前のシートに爪を立てながら死んだ魚の目をしていた。

 サンタマリアの街を右手に見ながら、北東目指してひた走る。山道は緑に囲まれ、休憩で車を停めると傍らにはナマケモノやサル、アリクイなどの姿が見えた。まるでここは天然の動物園のようだ。

「ふー、やっと休憩かあ。少しだけ生き返ったわ。ねえあずさちゃん、あたしちょっと変に思うことがあるんだけど……」

 リンダは車の外で大きな背伸びをしながら、足がしびれたのか屈伸運動をしているあずさに話しかけた。

「変って?」

「こんなに走ったのに、ここまでにすれ違った車が一台も無い事に気づいた?」

「そうなの? あたし、謙介さんの頭を固定する事だけに集中してたから――でも、山肌がむき出しの岩壁に突っ込んでいる車が、何台かあったのは見たなあ」

「あたしもそれは見たわ。まさか、他の人間はすでに……」

「もう! 脅かさないでよ。あら、そろそろ出発かしら。おじさんが呼んでるわよ」

 そう、農場を出てからここまで、他の人間の姿を見たものはこのチームに一人もいなかった。

 太陽が海に隠れる頃、風に潮の香りが強く混ざってきた。ヤシの木もちらほら見えるようになり、車が海沿いを走っていることが分かる。

「よーし、パナマの街に入ったぞ。ここで病院を探そう、っておい! おまえらぐっすり寝てんじゃねえよ」

 車を公園沿いに停め、凝り固まった肩を回しながら車内を見ると、みんな仲良くまぶたを閉じていた。もう日はとっぷりと暮れ、船舶の灯りが灯る港には巨大な貨物船が停泊している。ヤシの木に囲まれた公園からはパナマ湾が一望でき、昼間の暑さの残った砂浜には人影もちらほらと見える。

 しかし、何かがおかしい。

「ふわあああ。親父、着いたの?」

「てっめえ、一番気持ちよさそうに寝やがって。子供か!」

「うん。昔、親父にドライブに連れてってもらった事を思い出しながら寝ちゃってたよ。んんん、ところで謙介さんは?」

「すやすや寝てるわよ。出血は止まったみたいだけど、山道で酔ったのかしら……私の膝の上で見事に寝ゲロしてます」

 介抱しながら、あずさも少し眠ってしまったらしい。目を擦りながら呼吸を確かめて安心した表情を浮かべると、まだ意識の無い謙介の口元をハンカチで綺麗に拭いている。

「おいおい、大丈夫なのか。気管に詰まらせるなよ。ところでみんな、そこの公園を見てみろ」

 紫苑の示す方向には、ケンカの最中なのか激しく人影が入り乱れていた。灯台の灯りに時折照らされるその現場の様子は、集団がカップルを襲っているようにも見える。まるで、飴に群がるアリのように。

「no me toques !! ayudame!!」

 突然、カップルの女性の声だろうか、闇を切り裂くような切羽詰った声が響き渡る。

「スペイン語で、『ノ メ トケス・アユダメ』って言ってるな」

「親父、意味は?」

「触らないで! 助けて! だ」

「よし、いっちょ助けに行ってくるか。親父も運転で肩が凝っただろ? 一緒に行くかい?」

 エンジンを切りドアを開け、車を降りようとした時……。

「ちょっと待て!」

 紫苑たちを手で制しながら、大声でゴリラが鋭く叫んだ。

「あれは……。研究所の時と同じだ。あいつらの顔を良く見ろ。野獣そのものじゃないか」

 カップルたちは既に砂浜に倒され、そこに数人の男たちが山のように群がっていた。すぐに耳を覆いたくなるような断末魔の叫びが聞こえてきて、そのあと静寂が訪れた。彼らはすでに噛まれるか引っかかれてしまったのだろう。

 突然、その中の一人がこちらを振り向き、唸りだした。灯台の光が当たった瞬間、恐ろしいものがくっきりと闇に浮かび上がった。その顔は憎悪に歪み、口のまわりは真っ赤な血で染まっている。おまけに、血だらけの犬歯には服の切れ端がだらーんとぶら下がっていた。その男に呼応するように、集団はこちらを見て唸りながら次々と立ち上がった! そして次の瞬間、信じられないような速さで車めがけて走ってくる!

「おっと、こいつはヤバいな。ドアを閉めろ、逃げるぞ!」

 だんだんだん!

 ドアを閉めたとたん、悪鬼のような形相の男が窓を力任せに叩きだした。

「きゃあああああ!」

 その顔をまともに見てしまったあずさとリンダの口がOの形に開き、同時に顔が恐怖に凍りついた。

「まいったな。エンジンが――かからん」

 なんと! ツイいてないことに、さっき切ったばかりのエンジンがかからない。

 だだだん だんだん!

 既に車は万遍なく取り囲まれ、叩かれるその衝撃で車内はさながらドラムの中にいるようだ。その集団の中に、さっき襲われていたカップルの女性と同じ服装の女も見える。

 ふいに、叩く音が止んだ。だがそれは、もっと悪い事態が迫っているのを意味していた。まだ知能が残っているのかは定かではないが、全員で車を倒そうと一カ所に集まり横から力を加えてきたのだ。

 やがて片側の車輪がふわっと浮いた。

「親父、俺がおとりになるから、その隙にみんなを逃がしてくれ! モヒカンくんは謙介さんを頼む」

 その思いが通じたのか、ついにエンジンが息を吹き返した。あずさとリンダは車が持ち上がらないように、座席を移動して体重をかけている。だが、あと一息で車は横に倒されて、窓ガラスを踏み壊されるのは時間の問題だった。

「みんな何かにつかまれ! 行くぞ」 

 春樹はアクセルを床までいっぱいに踏み込む。

 ごとん! とタイヤが誰かの身体を乗り越えたような音がしたが、かまわず発進する。車の助手席の窓には一番最初に襲ってきた男の手形がはっきりと残っていた。血で描かれたその手形は引っ掻いたような形を残したままぬるい風に当たり、不気味に黒く変色していった。

 施設で情報から隔離されたうえラジオも壊れていたせいもあるが、九日の時点でバンカーと呼ばれるホワイトハウスの地下核シェルター〈大統領危機管理センター〉に避難した大統領は、国民に「すぐにこの騒ぎは収束する」と宣言していた。だが残念なことに、ウイルスの突然変異が世界各地で起こっている現在、彼でさえ側近や家族にいつ襲われてもおかしくない状態である事に彼は気づいていなかった。

 インターネットの普及するこの世界でさえ、このウイルスの本質には迫れなかったようだ。その一番の理由は……『端末の前で、自分が何をしていたかを急に思い出せ無くなる』からだ。世界中の掲示板の書き込みに、ある瞬間から“まるで突然人が変わったような”意味不明な文字の羅列が並ぶことも珍しくなかった。

 今やアメリカ、メキシコ、パナマの上空警戒は穴だらけである。この二十四時間のうちに情報は入り乱れ、やがて収拾がつかない状況になっていった。政府の高官、軍の高官を含む多くの者が感染してしまったら、国の防衛が乱れるのは当たり前の話だ。


 ちょうどその頃、パナマの上空に一台の大型ヘリコプター(CH‐47・チヌーク)が超低空で接近していた。

「現在パナマシティの上空。着陸地点をマーキング願います。オーバー」

 ここパナマシティは、近代的な高層ビルやホテルが立ち並ぶパナマの中心だ。少し足を延ばすだけでヤシの木が並ぶ美しいパナマシティビーチが広がっている。この時期の昼間のビーチでは、スプリングブレイク期間中の大学生や高校生などが集まり、バカンスを謳歌する姿が見られるはずだった。

 だが……。彼らがいるはずのビーチには人の姿は見えない。

 ヘリは上空を注意深く旋回すると、指示されたパナマシティから一番近いミラフローレス水門の脇の駐車場に着陸した。ここからは水位を上げ下げして船を通過させる〈レーン〉の様子が良く見える。しかし何故か今は船の通行が停滞しているようだ。レーンの拡張工事の途中らしき現場もあるが、夜だからだろうか作業している人間の姿がひとりもいなかった。

 長い髪をなびかせ、ヘリからまず降り立ったのはエリザベートだ。次にハイエナが、そしてなんと、顔を腫らし包帯だらけのアーノルドが降りてきた。

「ねえ、この水門を通るのに、バカバカしい程のお金がかかるのを知ってる?」

 ヘリから車を降ろす作業を見守りながら、唇に張り付いた髪の毛をはらうと、彼女は二人に語りかけた。

「いえ、存じません」

 ハイエナは首を振る。

「一トンにつき数十セントって決まっているの。でもここを通るのは大型タンカーよね。つまり……数万ドルから数十万ドルのお金がかかるのよ。最高では三十万ドル(日本円で三千万円)を超えたらしいわ」

「それはすごい。これは聞きかじりの知識ですが、パナマ船籍にすると税金がかなり安くなるらしいですね。今や世界の五分の一の船がパナマ船籍になって、あつつつ」

 片手を包帯で吊り上げたアーノルドが、痛むのか口を歪めてそれ以上しゃべるのを止める。

 彼が来た理由は、復讐のためだった。自分をこんな目にあわせたリーマンたちと、権力者たちに。

「まったく。誰が決めたのか分からないけど大儲けね。もっとも、札束なんてもう何の役にも立たないかもしれないけれど」

 自嘲的に笑うと、ヘリから降ろされたハンヴィー(民間仕様名称・ハマー)の座席に乗り込む。同時に六人の私兵が素早く地上に降り立ち、乗って来たヘリの周りを武装して警戒を始めた。

「いい? この街も既に汚染されているという情報が入ったわ。その証拠に、停泊しているタンカーがバラバラに『まるで逃げ出すように』外洋に散って行く様子が見えたでしょ? 手遅れにならないうちに、紫苑の父親を捕まえるのよ。位置はこの端末で分かるわ」

 鬼頭小次郎から渡された端末には、パナマ市内を移動する光点がはっきりと映っている。そう、『鍵穴』である春樹にも、過去にしっかりとチップが埋められていたのだ。

「あのおじいちゃんとの約束は破ることになるけれど、孫の紫苑とその仲間の口は永遠に塞ぎなさい。彼らは知りすぎているし、私の計画の邪魔になるかもしれない。第一、もう用はないわ」

「承知しました。確認ですが、鬼頭春樹以外は本当に始末してよろしいのですね?」

 答える代わりに面倒くさそうに頷く彼女を横目に見ながら、ハイエナは三人を乗せたハンヴィーのアクセルを踏み込んだ。

 



 別れ




『パナマ市内』 四月十日 夕方



 俺は激しい揺れを感じて目を開けた。口の中が少し気持ち悪いが、霧が晴れたように頭の中がすっきりとしている。何よりも後頭部に妙に心地よい暖かさと柔らかさを感じた。

「何だよあずさ、また泣いたのか。目が腫れてるじゃん」

 その言葉に驚いたように、あずさは眼を丸くして口をあんぐりと開けた。

「たたた、たいへん! いま、謙介さんがあずさって呼んだ!」

 どうやらここは車の中のようだ。起き上がりまわりを見ると、運転席には春樹、そして見慣れたメンバーが優しい眼をして俺を見てきた。だが異常に揺れる車内の空気を読むと、今はそれどころじゃない様子だ。

「謙介さん、おはよう! あずさのひざまくらは快適だったかい? さっきまでトンネルの中でみんな仮眠をとってたけど、ついに見つかっちゃったよ」

 うらやましそうな顔をして紫苑が助手席から振り向いているが、その首は車の揺れに合わせて右に左に揺れている。

「何に見つかったんだ? あれ? 誰か足りなくないか? えーと……。リーマンさんとあつしがいないな」

 その言葉を聞いたモヒカンが、後ろの席から耳元まで口を近づけてきた。

「ヤツらは、もういないよ。たぶん海の底に沈んじまった。俺の小切手とともにね」

 何か複雑な事情があったのだろうか、モヒカンは言葉のあと口を一文字に結んだ。だが、その眼は「後悔していないよ」と言っているように見える。

「そうか。俺、研究施設からの事を全く覚えていないんだ。誰か説明してくれたらありがたいんだけどな」

 ゴリラが代表して、今までの時間を埋めるように簡潔かつ要領を得た説明をしてくれた。

「――で、今この街は感染者が溢れていると。記憶が無くなっちまったみたいだから、あんたも感染したかと心配したぜ。遅くなっちまったけど……俺を庇ってくれてありがとうな」

 車の天井にごつんごつんと頭をぶつけながらも、照れ臭そうにお礼の言葉を言ったあと窮屈そうに頭を下げる。

「お互いさまだって。あんたがいなけりゃ森から出られなかっただろ。俺こそ礼を言うよ。ありがとう」

 ここでタイミング悪く車が急ハンドルを切った。その結果、俺とゴリラはがっしりと抱き合う形になってしまった。いかん! このままでは妙な誤解を招きかねない。

「ち、違うんだ!」

 同時に俺とゴリラが叫んだ。案の定、あずさとリンダは怪訝な目で俺達を見ている。その間にも、車はタイヤから白い煙を上げながら赤信号を無視して左折する。

「うっわあ! こっちもダメだ! ったく、映画に出て来るゾンビだったらゆっくり歩くはずなんだがな。コイツラの中には走るヤツも平気でいるし」

 春樹の言葉通り、この街はゾンビのようになった人々があふれ、荒廃し始めていた。老若男女すべてが、動く車を見つけると轢かれる事もおかまいなしに全速力で走ってくる。白髪の老婆が、陸上選手さながらのスピードで迫ってくる様子は、恐ろしさを通り越して滑稽でもあった。恐ろしい表情とは対照的に、その眼だけは一様に感情を無くしているように見えた。

 日も暮れ街に灯りが灯るころ、猛スピードで走る車内から〈Hospital Punta Pacifica〉と書かれている看板をリンダが見つけた。警戒しながらその大きな病院の駐車場に入ると、見る限りはまだ感染者の姿は無いようだった。それでも注意深くヘッドライトで闇を照らしながら、正面玄関の見える位置に車を停める。

「よーし、みんな聞いてくれ。これからこの病院で輸血を行う。幸いこの辺には人影が見えないが、もしも病院内が感染者であふれていた場合は、輸血の道具だけゲットする。簡単だろ? 最悪、注射器だけでも手に入れよう」

「親父、まず俺が行って様子を見て来るよ。病院で全員が感染したら元も子も無いぜ」

「ひとりで大丈夫なのか?」

 春樹の不安そうな目線は、正面玄関に鼻先を突っ込んでチロチロと小さな炎ををあげている車を見ていた。その近くでは救急車が回転灯を回したまま、全てのドアが開き放たれ放置されている。外灯に照らされた運転席のシートには、黒い液体が飛び散っているようにも見える。

「大丈夫だって。まかせとけ」

 言うが早いか、車から素早く降りると玄関に向かって走り出す。

「うーん。……無鉄砲というか、勇気があるというか。全く、誰に似たんだろなあ」

 俺を含め、そこにいる全員の視線が運転席の春樹に集まった。

 ワオォォオン!

 病院の駐車場は不気味に静まり返っている。時折、野良犬が物悲しく遠吠えをする以外は全くの無音の時間が車内にも訪れていた。これからの自分たちの運命を、それぞれが頭の中で考えているのだろうか。

 紫苑が飛び込んでからもう数十分経ったが、まだ正面玄関からは誰も出て来る気配は無い。

「遅いわねえ。あの人、大丈夫かしら」

 車内の重い沈黙に耐えられなくなったのか、あずさは心配な顔で車の窓から顔をぴょこぴょこと出している。

「お嬢ちゃん。あいつなら何とかするよ。でもあと五分もしたら、おじさんも行っちゃおうかな」

「俺も行く。気絶してたぶん働かなきゃ」

 もう頭の傷の痛みも気にならない。俺はリーダーなのに迷惑ばかりかけて、足手まといになってしまった。このチームのためなら喜んで死ぬ覚悟はもうできている。

 その時……。

「だああああ!!」

「ドゥノッフォロオオオ!!」

 明るく照らされた玄関から叫び声が聞こえ、そこに全員が一斉に注目する。

 間髪入れずに、段ボール箱を抱えた紫苑と白いタンクトップを着た短髪の若者が、叫びながら正面玄関から飛び出てきた。ふたりの背中を追いかけるように悪鬼のような顔をした白衣の集団と、元患者だろうか、さらに十数人の人々が奇声を上げながらそれに続いている。エントランスの明かりに浮かび上がった彼らの顔は、もう人間ではなかった。

「あのバンまで走るんだ! ……からのトゥキーック!!」

 このままでは追いつかれると思ったのだろうか、走って追いかけてくる先頭の白衣の男にくるりと向き直ると、紫苑が華麗に飛び蹴りをかました。もちろん、段ボールを両手に抱えたままだ。その男がもんどりうって後ろに倒れると、将棋倒しのように他のヤツらもそっくり返りながら後ろにに倒れてゆく。

「うーん。……なんだろうな、あいつの余裕は。技の名前とかも言っちゃってるぜ」

 春樹は窓枠に肘を乗せ、頬杖をつきながらあきれたようにつぶやいた。

「親父、この人も乗せてやってくれ! 説明は後でするから」

 開けっ放しの助手席に乗り込むと、段ボールを後部座席の俺にそっと渡す。覗き込むと、その中には注射器が数本と、包帯、それに抗生物質と思われるオレンジ色の瓶などが入っていた。その若い男は、後部のハッチを開けると、飛び込むように転がり込む。ぜいぜいと肩で息をしているが、どうやらケガはしていないようだ。

 間髪入れず感染者たちが車を囲み、ところ構わず叩き出す。すぐに出発しなければきっと、また赤い手形が増えてしまうだけだ。

 バンは感染者を数人弾き飛ばしながら発進する。白衣を着た集団の一部がまた病院内にぞろぞろと戻る様子が、後部座席の窓からぼんやりと見えた。

「後ろのヤツは、コンテナ船の乗組員だそうだ。中で俺が後ろから襲われそうになった時、あの人が飛び込んできて俺を助けてくれたんだ。あの病院の中はもうパニックになっていて、正気の人たちはバリケードを築いてどこかに閉じこもっているらしい」

「助かった。君タチ日本人? 俺はノブ。日系アメリカ人ネ。健康診断に来てみたら、みんないきなりおかしくなっタヨ。他の仲間はこの騒ぎでどこかに消えタネ。ホントゴメンナサイけど、ライジング・サン号まで送ってクダサイ。二時間後に出港にする予定ネ。日本にも寄るから船長と交渉シロ」

 ところどころおかしい所があるが、割と流暢な日本語で話す。

「いい名前の船だな。まかせとけ。後で分かると思うが、君はかなり運がいいぞ。よーし、じゃあまずは輸血するのに安全な所を見つけよう。また少し揺れるが、我慢してくれ」


「来る。その交差点を通過するわよ。3、2、1、今よ! すぐ追いかけて!」

 エリザベートはハイエナに鋭く命令した。赤茶けた色のバンが右から左に猛スピードで通過する。

 ハンヴィーは弾かれたよう発進すると、左にハンドルを切った。その拍子に後部座席のアーノルドはごろごろと転がり、痛みに悲鳴をあげる。

「大げさに痛がってるんじゃないわよ。右手は使えるんでしょ? 銃を持ちなさい」

「はい……分かりました」

 アーノルドは床に置いた高性能アサルトライフルを右手で持ち上げ、不器用にコッキングレバーを引いて弾を薬室に送り込む。顔をしかめて痛みに耐えているようだったが、その顔にははっきりとした憎悪が浮かんでいた。

「呼びかけるわ。横につけて! もし止まらなかったらタイヤを撃って」

 車の性能差は比べようもない。あっという間に追いつくと、バンの横に並んだ。

「みんなちょっといいかな? 隣で物騒なモノを持ったお姉さんが、何かわめいてるんだが」

 風を切る音で彼女が何を言っているのか、よく聞き取れない。だが、その女性が窓から出した手には銀色の拳銃が握られているのがはっきりと見えた。

「……に寄せて……止まりなさい」

 時折街灯に照らされる真っ赤な唇が、そう叫んでいるように見える。

「止まれってよ。さて、リーダーくんならどうする?」

 その言葉は耳に入っていたが、俺はハンヴィーの後部座席に乗っている人物の顔に注意を奪われていた。あれは――アーノルドじゃないのか。

「ああ、ごめん。どうやらあの車にアーノルドが乗ってるみたいだ。ってことは、そこで叫んでる彼女と手を組んだのかな。一度だけ止まって少し様子をみてみよう」

 春樹は少しずつスピードを緩め始めた。ゆっくりと路肩に寄せると、バンの前をふさぐ格好でハンヴィーも停まる。

「私はエリザベート。もちろん、あなたたちこのアーノルドは知ってるわよね。さあ、エンジンを切って一人ずつゆっくりと降りなさい。降りたら後ろを向いて、車に手をつくのよ」

 彼らは車から一斉に飛び出すと、用心深くこちらに近づいて来る。ヘッドライトに浮かび上がる男たちの手にも銃が握られているようだ。その姿からして、とても話し合いをするという雰囲気ではない。

「鬼頭春樹という人だけに用があるの。彼を素直に渡してくれれば、他の人には危害を加えないわ」

 エリザベートは猫なで声で話しているが、その口元にはいやらしい笑みが見え隠れしている。 

「エンジンを切っちゃダメだ! コイツらは全ての事情を知ってここに来ている。親父さんが『鍵穴』だってことも承知のはず。だいいち、今までに組織の連中が約束を守ったことがあるか? 不必要な人間は冷酷に処理するだろうし、今までもそうしてきた。――親父さん頼む、俺と運転を代わってくれ」

 この場は何とか逃げないと、俺たちはたぶん殺されてしまうだろう。もう、安全な場所を見つけるなどと言ってる場合じゃない。逃げる車内で何とかしなければ!

「ってことは、あいつらわざわざ俺をさらいに来たのか。ご苦労なこった。でも、他の人に危害を加えないってのは明らかに嘘だな。あいつらが出している殺気は普通じゃない」

 俺の行動を察知したのか、とっさに春樹がライトをハイビームにした。敵がひるんだ隙に俺は運転席に滑り込むと、ギアをバックに叩き込んだ。この車内の動きを見るなり、黒服の男が躊躇なく弾をタイヤめがけて撃ちこんでくる。だが、銃弾はアスファルトで火花を散らすだけで幸運にも逸れたようだ。

 素早くUターンすると、細い路地を選びつつ決して並走されないように注意しながらアクセルを踏み込む。しかしルームミラーには、ぐんぐん近づいて来るハンヴィーの鼻面が見える。

「親父さん。大事な頼みがある。この状況じゃのんびり輸血なんて言ってられない。乱暴な方法だが、今から紫苑の血液を抜いて直接親父さんに注射してみてくれないか? 俺の考えでは、それでうまくワクチンができるはずだ。本当にあなたが『鍵穴』なら、拒否反応は出ないと思う」

「あたしからも抜いて。紫苑と同じ血が流れているはずだから」

 腕をまくりながらニッコリとあずさが笑う。

「いいよ。だが、ひとつ条件がある。――たぶん無理だと思うが、なるべく車を揺らさないでくれよ」

 すぐに春樹が紫苑の身体を後ろから固定し、リンダが血管を探し始めた。最後部座席では、モヒカンとゴリラがあずさから慎重に血を抜いている。

 車内が揺れた拍子に多少漏れてシートに血痕をつけたが、やがて注射器四本分の血液が用意できた。それを今度は春樹にすべて注射する。あまりにも大量の血液を打たれた春樹の鼻からは、じくじくと鼻血が垂れ始めた。頭痛がひどいのか、眉間にしわを寄せ顔をしかめている。

 俺はその様子を横目で見ながら、なるべく揺らさないように運転を続ける。しかし、後ろの車は離れないどころか、この時もう鼻面が当たりそうなくらいに接近していた。

「捕まってしまう前にみんなそれを打ってくれ。俺は最後でいい。親父さん、申し訳ないけどもう少し我慢して下さい」

 ふと見ると、血を抜かれたあずさの唇の色が少し白くなっているように見えた。だが今は、春樹の血管から血を抜く作業に集中している。

 その作業が終わると、リンダ、モヒカン、ゴリラ、ノブの順番で春樹の血液を注射した。応急的な方法だが、うまく行けばシーズン3に対応できるだろう。あずさ、春樹、紫苑はそのままの状態で問題はない。

「あとは、謙介さんだけよ! 誰かハンドルを持ってあげて!」

 車は荒れ果てた商店街を通り抜けようとしていた。店のガラスは粉々に割られ、そこかしこに略奪の跡が見える。

「よし、まかせろ!」

 紫苑が助手席から腰を浮かせた瞬間!


 突然強い衝撃が後ろから来て、全員が背中をシートに叩きつけられた。その拍子に万能ワクチンが入った最後の一本があずさの手から離れ、床に転がる。ついにしびれを切らしたのか、彼らが車を激しくぶつけてきたのだ。あちらは軍用車、このままぶつけられたらぺしゃんこになってしまう。

「危ない!」

 二度目の衝撃が襲って来た瞬間、バンは電信柱をなぎ倒しながら横っ飛びに吹っ飛んでいった。天と地がひっくり返り、激しい衝撃が俺たちを襲う。

――世界は溶けだし、俺は懐かしささえ感じる暗闇にまた吸い込まれていった。

 ハンヴィーのライトに照らされた事故直後の現場は、目を覆うほどであった。蜘蛛の巣のようなヒビが入ったフロントグラスは外れて、道路の真ん中に転がっている。大きくひしゃげたエンジン部分からは、黒い煙と小さな炎まで上がっていた。

「この男はもう手遅れね。息をしてないわ」

 エリザベートは気持ちの悪いものに触れるように、足元に転がるデカい男の太ももを赤いピンヒールのつま先でつつく。反応はやはり微塵も無かったが、その男は若い女性を大事に包み込むようにように腕にしっかりと抱きかかえていた。

 後ろでは、頭から血を流したまま拘束された春樹が、ハイエナの手によって車に運ばれていく。拘束を解こうと暴れている様子を見ると、どうやら命に別状はないようだ。

「あとはこのまま、放っときなさい。この様子じゃいずれ感染者たちに襲われて記憶を無くすか、勝手にくたばるでしょう。あいつらは、もう近くまで来ているわ」

 煙を上げて横転しているバンの周りには、血まみれの人間がばらばらに転がっていた。運転席していた男の頭の包帯は真っ赤に染まっていて、もう既に死んでいるように見える。そのすぐ近くでは、道路脇の花壇に覆いかぶさるようにして紫苑が倒れていた。

 モヒカン頭の男もまた女性を庇うような恰好で倒れていた。その腕の中にいる女性は痛みで意識を取り戻したのか、足を押さえながら呻き声をあげている。つぶれたトランクから這い出てきたと思われる短髪の若者は、唯一どこにもケガをしていないように見えたが、力尽きてその場で失神しているようだ。

「じゃあ出発するわよ。これで全てがうまくいくわね。万能ワクチンを世界中に販売すれば、巨万の富が築けるわ。もちろん、取り引きは貴金属のみだけど。うふふ」

 エリザベートの顔には達成感があふれ、勝者特有の笑みが浮かんだ。

 ぱぱぱぱぱんっ!

 突然アサルトライフルの乾いた音が商店街に響き渡った。ハイエナが口から血を噴きだしながら、膝から崩れ落ちる。

「な! なにを!」

 エリザベートの顔から一瞬で微笑みが消えた。少しうろたえながらも音のした方に拳銃を構える。そこには左手を包帯で吊ったアーノルドが、右手に銃を構えて仁王立ちしていた。その顔は憎悪で歪み、唇を噛みしめすぎたからだろうか赤い糸のような物があごの先まで線を引いている。

「――汚いな。お前ら汚なすぎるよ。何だよ! 結局は金もうけのためじゃないか! DOLLを殺したのはこんな結末を迎えるためだったのか!」

「ちょ、ちょっと落ち着きなさい。DOLLをブライアンに殺させたのは、私の命令じゃ……」

「同じことだ! おまえら権力者が、寄ってたかって自分たちだけが助かるためにしたことだ。あの娘には何の罪も無かったんだよ! なにより僕は……僕はDOLLを密かに愛していたんだ!」

 自分にケガを負わせたヤツらへの恨みなんかよりも、どうやらアーノルドの怒りの原点はDOLLを殺されたことにあるようだ。

「え? だってブライアンとDOLLは愛し合っていたじゃない。あなたの入る隙なんてなかったはずよ」

「そんなことは百も承知だ! DOLLは最後までブライアンを信じていた。彼の姿を見て駆け寄って行った時の! DOLLの顔が! 寝ても覚めてもずっと頭から離れないんだ! ここで『鍵穴』が消えてしまえば、助かる人はわずかになるだろう。だがそんなことは知ったこっちゃない。おまえを殺したあと、俺もすぐに彼女の元に行く」

 ケガの影響だろうか、重い銃を持つその手は次第にブルブルと震えはじめた。

「あなたがまた私の元で働きたいって頼み込んできたのは、このためなのね? この裏切り者!」

 ぐらっとバランスを崩した瞬間、、チャンスとみたのかエリザベートは勝負をかけた。

 プスッ! プスッ!

 消音器付きの銃のくぐもった発射音が二度した。

 その銃弾は、偶然なのかDOLLと同じような場所に二つの血の花を咲かせた。それに気づいたのかは定かでは無いがその傷を見下ろすアーノルドの口元は、不可解な事に少し満足したように微笑んでいた。

「これでもうすぐ君のそばに行ける。なあ、僕だって結構がんばったろ?」

 ぼそりとつぶやくと膝をついて前のめりに倒れていく。リーマンの暴力により最初から片目もろくに開けられない状態で、彼は本当に良く戦ったと言うべきか。

「あーら残念、もう一息だったわね。じゃ、さようなら」

 虫の息で倒れているアーノルドの足元から銃を回収すると、エリザベートはハンヴィーの運転席に乗り込んでエンジンをかけた。後ろの席では、春樹が猿ぐつわをされたまま激しくもがいている。ちょうどその瞬間に、横転したバンが真っ赤な炎に包まれていく様子がバックミラーに映った。

「終わったわ。今からそっちに向かう。すぐに離陸準備をしておきなさい」

 片方の頬を炎の明かりに染めながら無線機を助手席に投げると、満足したような顔で煙草に火をつけた。


 何かが燃える臭いと、下半身に強い熱を感じて俺は意識を取り戻した。乗っていたバンが足元で炎を上げて燃え始めている。頭の傷が開いて派手に包帯を赤く染めているが、実際は大したことは無いようだ。身体を少しずつ動かして骨折してないことを確かめ、よろよろと立ちあがる。後ろに視線を移すと、紫苑がちょうどうめき声を上げながら身体を起こそうとしていた。

「大丈夫か?」

 かすれた声で紫苑に声を掛けながらも、目であずさを探す。

(頼む、無事でいてくれ)

 身体に火が移りそうなほど燃え盛るバンに限界まで近づいて、誰も乗っていない事を確認する。

「とっさに受け身をとったから……。打ち身だけだと思う。謙介さんは?」

「俺も大丈夫だ。とにかく、今はみんなの無事を確かめよう」

 車の反対側に回り込むと、ゴリラに抱きかかえられるようにして倒れているあずさを見つけた。服の前部分は血まみれで、それを見た瞬間、俺の心臓は氷の手でぎゅっと掴まれたように凍った。だが、その太い腕から抜け出そうとしているように、彼女は少しずつ身をよじっている。

「良かった! おい紫苑、生きてるよ! あずさも生きてる!」

 安心感からかひざががくがくと震えて、立っているのもやっとだった。

「け、謙介さん! ケガしてない? 紫苑も無事だったのね」

 自分の事より人の心配をするその姿に、俺はぐっと言葉を詰まらせる。よく見るとガラスで切ったのだろうか、あずさのほっぺたには斜め一直線に鋭い傷が入っていた。

「ありがとう、大丈夫だ。紫苑、悪いがあずさを手当してやってくれ」

 そう言ながら脈を取るためにゴリラの手首を持ち上げる。

「あの時ね……ゴリラさんが咄嗟に私を守ってくれたの。でもね、さ、さっきから全然動かないの! だんだん身体が硬直していくのがわかるの!」

 良くみると、ゴリラの背中には大きな鉄板の破片が深く突き刺さっていた。ちょうど心臓の裏あたりだ。そこからの出血は既に止まっていたが、周りには尋常では無い量の血だまりが出来ている。

 やはり、その手首からはまったく脈は感じられなかった。短い間だったが、コイツとの出来事が瞬時に頭に蘇ってきて、何故だか視界がぼやけだした。

「おい、冗談だろ? 目を開けてくれ! 一番頑丈なお前が死んでどうすんだよ!」

 しかしいくら揺さぶっても、あのおどけた時だけに見せる愛嬌のある目が開くことは無かった。

「もう……やめろよ。残念だけど手遅れだよ」

 紫苑が俺の肩にそっと手を置く。

 涙が止まらなかった。拭いても拭いても後から溢れてくる。俺の運転がもう少し上手かったら、こいつは死ななくてすんだかもしれない。何より、身を挺してあずさを守ってくれたその男気に俺はただただ感動し、震えていた。

「なんでだよ! なんでこんなに人が死ななきゃならないんだ!」

 いつの間にか俺の周りには、傷ついた仲間たちが集まってきていた。モヒカンはリンダを支えながら、涙を流して歯をくいしばっている。しかし、前歯が二本欠けて頭にはデカいたんこぶを作っていた。後からリンダから聞いた話では、命を張って彼女を守ったらしい。そう、もう彼を〈チキン野郎〉などと呼ぶやつはいないだろうし、言ったヤツは俺が許さない。

 やがて誰が言いだしたわけでもなく、みんな静かにその場で頭を垂れた。そしてこのゴリラと呼ばれた勇敢な男に黙とうをささげる。いま、俺たちにできることはそれが精一杯だった。

 粗暴なようで意外と泣き虫で、たまに人懐っこい笑顔を見せるこの男のことを俺たちはずっと忘れないだろう。何よりもみんなの胸を打った事は、その顔が満足げに微笑んでいたことだ。その顔はまるで「どうだい? 俺もやるときは、やる男だろ?」と言っているように見えた。

 燃えさかる炎が辺りを明るく照らす中、横たわるゴリラの遺体にすがり「ごめんね、ごめんね」と泣きじゃくるあずさの声だけがいつまでも商店街にこだましていた。


「ところで、どこを探しても親父の姿が見つからないんだ。アイツらの車が無いってことはあの女に連れ去られたのかもしれない。それと……」

 少しのあいだ姿が見えなくなっていた紫苑が、眉をひそめながら近づいて来る。

「謙介さんさ、まだワクチンを打っていないだろ? それも探してみたけど、親父の血液が入った注射器は割れたか燃えちまったみたいだ。今すぐに何とかしないと」

 あずさに心配させないためか、小声で俺にささやいた。

「注射器はもうあきらめるしかないな。まあ、何とかするさ。それより今は、あの女から親父さんを取り戻すことが先決だ」

 親父さんの事が心配だろうに、俺の身体も心配してくれるこの男の力になりたいと、この時心から思った。

「ねえ、あれ見て。あそこで倒れている人って、アイツらの仲間じゃない?」

 リンダが指さす方向には、白い包帯を赤く染めたアーノルドが虫の息で倒れていた。その先にはもう一人の黒服の男も倒れていたが、こちらはもうぴくりとも動いていない。俺はアーノルドに近づくと、脈を取りつつその口元に耳を寄せた。

「ミラ……フローレス水門に行け……『鍵穴』は彼女が……たのむ、DOLLの仇を」

 確かにそう聞き取れた。そうか、この男はDOLLの仇をとろうとしていたのか。

「紫苑、GPSを貸してくれ。そこにいるノブを起こして、先に港に向かうんだ。そして何とか全員乗れるように交渉して欲しい。もし断られても無理やりにでも乗るんだぞ。俺も後から行く!」

 ノブもちょうど意識を取り戻したのか、目をこすりながらこちらをぼーっと眺めている。

「いや、俺の親父だし、俺に行かせてくれよ」

 炎に照らされたその顔には、強い決意が見えるが……。

「ダメだ。お前にはみんなを守ってもらわないとならない。分かるだろ? それに紫苑、おまえその腕じゃ運転なんてできないぞ」

 紫苑の左肘は膨れ上がり、紫色に変色していた。自分でも痛みに気づいていなかったのか、それをみて目を丸くしている。だがもしケガをしてなくても、あずさを、そして大事な仲間を安心して任せられる男は世界中を探してもコイツを置いて他にはいない。

「急いで車を探してここを出発してくれ。それと、気づいてるか? さっきから獣のような唸り声が遠くから聞こえて来るのを。やがてここも見つかるだろう。必ず親父さんを連れてくるから安心してくれ」

 さっき俺は、鍵のついたリッターバイクが、道路にそのまま放置され転がっているのを見つけていた。車は道路のあちこちにそのまま乗り捨てられているのですぐ見つかるだろう。

 返事も聞かずにバイクを起こしてまたがると、幸いな事にすぐにエンジンがかかった。このバイクの機動力とスピードなら、まだ追いつけるかもしれない。

「分かった。その代わり必ず生きて戻って来てくれよ。OKみんな、ここをすぐに出発するぞ!」

「待って!」

 荒れ果てた人気の無いレストランのドアから、大きな純白のテーブルクロスを持ってあずさが飛び出てきた。そして、しっかりとした足取りでゴリラに近づくと、それを優しくその身体にそっとかける。

「ごめんなさい。そして守ってくれてありがとう。あなたのこと、絶対に一生忘れないわ」と両手を合わせた。やがてすっくと立ち上がり、バイクにまたがったままの俺に向かって大きな声で叫ぶ。

「待ってるからね! 絶対に帰って来て! あたしにだって、伝えたい事があるんだから!」

 両手をぶんぶん振るあずさに背中を向け、俺は走り出した。そして拳を高々と振り上げる。

「まかせとけ」という言葉が風に乗って伝わるように。



「おいコラ、実はおまえ運転ヘタだろ」

「うるっさいわね、それよりあんた、いつの間に猿ぐつわを外したのよ」

 揺れるハンヴィーの後部座席には、彼女の荒い運転のせいで転がりまくっている春樹が口を尖らせていた。

「なあ、悪い事は言わないから俺を解放しろよ。『神の鉄槌』作戦を実行中らしいが、日本軍がなぜこれを第二次世界大戦の切り札にしなかったのか分かってるのか?」

「……なぜその名前を知ってるの? あんたのお父さんも口が軽いわねえ」

「知ってるさ。妻と離婚してから、親父の事をいろいろ調べたからな。親父の協力者は世界中にいるが、調べていくうちに協力者の中にも〈反対派〉がいることが分かったんだ」

「反対派ですって? それで?」

「言ーわない。車を止めなきゃもう教えねーよ。マジで気持ち悪くなってきたし」

 暫く前方を見つめたまま運転を続けたあと、エリザベートはしぶしぶと車を路肩に寄せて止めた。暗く不気味に静まり返った右手の砂浜からは波の音と、どこからかは定かでは無いが、助けを求める女性の叫び声が聞こえて来る。

「ありがとよ。でな、その反対派はこう言ったんだ。『無駄なことはしない方がいい』ってね」

「無駄な事ってなによ。実際すごいスピードでウイルスが広がっているじゃない。これを敵国にばら撒けば、日本は戦争に勝っていたでしょう?」

「それはどうかな。これは勝ち負けの話じゃないんだよ。あんたが思っているよりもワクチンとウイルスの問題は深く、複雑なんだ」

 彼女は意味が分からないという風に首をひねる。

「いいか? 分かりやすい例だと、インフルエンザがある。豚インフルエンザや鳥インフルエンザは聞いたことがあるだろ。これらのウイルスはな、実は『人間が作ってばら撒いた』んだよ。もちろんそれに対応するワクチンを用意した上でな」

「つまり、製薬会社による『自作自演』てこと?」

「そうだ。HIVウイルスの起源はカメルーンにいるチンパンジーという事になっているが、実際は人間が作ってアフリカでばら撒いたものらしい。わずかな金をエサにして、貧しい村で実験体を募ってね。今は症状を遅らせる薬を小出しに販売しているが、抗ウイルス薬なんて感染前の一九五〇年にはとっくに完成されていたんだ」

「信じられないわ。まさかエボラ出血熱や、マールブルグ出血熱とかもそうなの?」

 だんだん春樹の話にひきこまれ、首を曲げて後部座席に身を乗り出し始めた。

「たぶんな。そしてそのような製薬会社を影で牛耳っているヤツらがいる。さらにそいつらを、眉の上げ下げだけで動かせる権力者も存在しているんだ。君には想像もできないだろうけどね」

「その反対派は、その事に気付いていたからこそ『無駄だ』って言ったのね」

「そうだ。戦争の筋書きさえも最初から決めているヤツらだからな。そいつらは一九六三年のケネディ暗殺事件にも関わっているんだ。もちろん九・一一同時多発テロにもな。つまり、アメリカ合衆国大統領さえもヤツらの言いなりってこった。な、全然勝てる気しないだろ」

「勝負するつもりもないけど……。あ! って事はまさか、いまのこの状態は想定されていたってこと? 待って、ちょっと頭を整理するわね。――私たちは鬼頭小次郎が黒幕だと思っていたけれど、ひょっとして彼はただ命令にしたがっただけなの?」

「正解。本当の権力者は君たちが慌てて走り回ってるのを見て、面白がっていたのかもしれないよ。だって、このウイルスは七三一部隊が作ったんじゃないんだからな。七三一部隊はウイルスを与えられ、実験していただけにすぎないんだ。『人口を適正に保つため』にな」

「人口を適正にですって? ふうん。でも、私にはどうでもいいわ。とりあえず今回の生き残り競争には勝ったんだから。ヘリに行けば最新の輸血システムがあるし、じいさんとクローンも念のため連れて来てるから」

「なに? 親父も来ているのか。あんの野郎、俺の会社を潰した文句を言ってやる。いつもいつも逃げ回りやがって!」

「はいはい。もう、あなたに聞くことはないわ。二度と話しかけないでよ」

 エリザベートはアクセルに足を乗せた。

「ちょっと待った」

「何よ。うるさいわね」

「さっきの話の続きだが、今回のウイルスの他に、ヤツらはまだまだいろんな『ウイルスとワクチンのストック』を持っているって話だ。だから親父は絶対に殺さないでくれ。きっと孫の紫苑にその頭の中の情報を全部伝えたいと思っているはずだ。そしてその情報にはとてつもない価値がある。きっと紫苑は……その情報を使って、未来を変えてくれるだろう」

「はっ、親バカも甚だしいわね。あの子にそんな力があるとはとても思えないわ」

 呆れ顔でそう言うと、口紅のついたタバコを窓の外に弾き飛ばした。



「出港まで残り三十分か。間に合うかなあ」

 高速で流れ去る景色の中で、俺は初めて腕時計に目をやった。水門まではあと五分はかかるだろう。今までやってきたように、放置されている車を巧みに避けながらバイパスをひた走る。

 見つけた!

 はるか前方に、見慣れたハンヴィーが路肩から発進する様子が目に飛び込んでくる。

 とっさに俺はアクセルを緩め、親父さんを救うチャンスを待つことにした。このまま走っている軍用車に向かって闇雲に突撃しても勝つ見込みは薄いからだ。ここはいったん見失わない様に距離をとって、目的地に着いた所で一気に勝負をかけるしかない。

 やがて、車はミラフローレス水門の駐車場に入って行った。だが、そこには想像を絶するおぞましい光景が俺を待ち受けていた。

ぎぎぎぎ、ぎぎぎぎぎ

これは……何だ? いったい何が起こっているんだ? 

 あろうことか、人間が黒アリのように大型ヘリに群がっている。色んな所を引っ掻いているこの音から察すると、機内にまだ誰かがいるのかもしれない。地面に転々と散らばるアリ塚から突き出している銃身は、たぶん襲われた兵士のものだろう。まだ煙の立ち上る銃身が、空にそびえ立っている光景はまるで兵士の墓標のようだった。

「まさに地獄だな、これは」

 バイクをヘリから少し離れた所に停めて、ハンヴィーの様子をうかがう。車はまっすぐにヘリに近づこうとしていたが、そのあまりにも凄惨な現場の光景に恐れをなしたのか、タイヤから煙を出しながら急ブレーキをかけて止まった。その拍子に後部座席の人間が車の中で吹っ飛ぶ様子が伺える。たぶんあれが親父さんなんだろう。

「なに? これは一体何なのよ! やめてえええ!!」

 叫び声のあと、左のドアからエリザベートが飛び出てきた。そして、両手で耳をふさぎながら首を激しく振る。

「おい! あれは……いったい何が起こってるんだ?」

 車の中から低い声が響く。しかし、彼女はパニックに陥っているのか、春樹の問いかけに全く気付いていないようだ。

「せっかく、せっかくここまで計画を積み上げて来たのにいいいいい!」

 大声でわめきながら髪の毛をかきむしっている。

「今がチャンスか。悪いな、少し痛いぞ」

 俺は、後輪から煙を出しながら急発進した。運転席のドアが開きっぱなしのハンヴィーがみるみる目の前に近づいて来る。ぎりぎりエリザベートの手前で急ブレーキをかけ、後輪を滑らせながらタイヤを当てる。彼女は足を払われた格好で一瞬のけぞると、マネキンのように前に軽く吹っ飛んだ。骨は折れない程度に加減はしたが、これでしばらくは動けないだろう。俺はその隙にバイクを乗り捨て、すばやく車に滑り込む。

「お待たせ、親父さん」

 春樹は芋虫のように後部座席で身をよじっていたが、俺の姿を見て安心したのか動きを止める。身動きできないままの姿で感染者たちに襲われる恐怖は、並大抵の事では無かっただろう。

「来てくれたのか! ありがたい」

「親父さんもチームの一員でしょ? 見捨てやしない」

 だがなぜか春樹の表情は、喜びよりも悲しみに満ちているように見える。

「実はあのヘリにはな……。いや、なんでもない。おっと、あいつらこっちに気付いたようだぞ! すぐにここを離れないと!」

 ヘリの中に人が残されていたとしても、無事だとはとても思えない光景だった。それを見ながら口ごもる春樹の表情には、怒りだけではなく、葛藤と悲しみも混ざっているような気がした。

「了解。でも、ちょっとだけ待ってて下さい」

 車を少し動かし、俺は足の痛みでもがいているエリザベートを担ぐと助手席に放り込んだ。

 カタカタ、カタカタッ!

 急に車が細かく揺れ始めたのでふと前を見ると、フロントガラス越しに感染者たちがこちらめがけて雪崩のように走って来るのが見える。その数は……軽く百人を超えているようだ。

「おい、何でそんなヤツを助けるんだよ。そいつのせいで俺たちはひどい目にあっただろ?」

 春樹は訳が分からないという風に強い口調で怒りだした。しかし、縛られたその格好はちょっと間が抜けていて滑稽でもあった。早く拘束を解いてやらないと可哀想だけれど、今は時間が無い。

「ええ、確かに。けど、そのまま放っとけないでしょ?」

 あと十分ほどで船は出てしまうだろう。むすっとした顔で黙り込む春樹にかまわず、停泊しているはずの〈ライジング・サン〉号を目指してハンヴィーを発進させた。




 商店街を脱出した紫苑たちは、ノブの案内で〈ライジング・サン〉号が停泊しているブロックに向かった。数十分後、モヒカンがハンドルを握るシルバーのセダンは、港に停泊している中型のコンテナ船の脇で止まる。

 船は既にエンジンがかかり、ゴウンゴウンという音が地面を通して伝わってくる。デッキを見上げるノブの必死の大声に反応した船員が、歩み板(陸から船に渡るときに間にかけ渡す板)を降ろす。ノブは慣れた様子でひょいひょいと板を掛け登ると、甲板の奥に消えて行った。

 おなじみの赤錆色をしたドライ・コンテナのひとつに、英語で『YOKOHAMA』という文字を見つけたあずさは少しだけだが安心したような顔をみせた。

「お待たせ。船長に交渉してみたよ。キョカ取って来たよ。ただし条件をふたつ出された。いいかい?」

 船から降りると、申し訳なさそうに紫苑に近づく。

「遠慮なく言ってくれ」

「この船には船長を始め十九名が乗ってたネ。でもね、病院から六名がまだ帰って来ない。働き手が不足しているから、航海の手伝いをして欲しいヨ。君は頑丈そうなので、いなくなった甲板長の代わりになれ」

「お安い御用だ。二つ目は?」

「君たちのワクチンが欲しいそうデスネ。いいか?」

「うーん。B型の人だけは俺から輸血できるが、その他の人は親父を経由しないと安全は保障できないよ」

「分かってる。船長はB型。他は私と数人を除いて臨時の雇われ船員なので、どうでもいいんでしょう。それは問題ない」

「ならいいよ。それで、日本には行って貰えるのかい?」

 何かが気になるのか、怪訝な顔をしながら聞いた。

「正規の入国方法ではないから、我々の事は絶対に秘密にして下さい。二週間後にはヨコハマだから安心シロって」

 ノブは胸をどんっと叩き、握手をするため紫苑に手を伸ばした。

「良かった、これで契約成立だな。じゃあ、あとは謙介さんたちを待つだけだ」

 これを聞いて、ノブは伸ばしかけた手を急に引っ込めた。妙な顔をして全員がノブを見つめる。

「ダメです! すぐに出発。十五分後には出発ネ。ここにいたら襲われちゃうデショ? 上で船長から聞いた話では、他の船はどんどん逃げ出してるみたい。怖いことに、襲われて連絡が途絶えた船もいるヨ」

「はああああ!? 十五分じゃ無理だろって。ノブさん、船長にもう一度交渉してきてよ」

 あきれた顔をしたモヒカンがノブに詰め寄った。

「よせ、無理を言うんじゃない。乗せてくれるだけでも感謝しないと。でもきっと……謙介さんなら」

「そうよ。あの人なら」

 あずさも紫苑と同じ気持ちのようだ。期待を込めた目で遠くを見つめながら頷く。

「じゃあ、キマリ。時間が来たらこの板を引き上げるから、それまでに乗船してネ」

 そう言い残すと、ノブは手を振りながらまたデッキへと登って行った。



 俺は信号で一度車を停めると、グローブボックスにあった軍用ナイフで親父さんの手首と足首の拘束バンドを切り取った。血が通いだした彼の手のひらには、すぐにうっすらと赤みがさしてくる。足をくじいたエリザベートは大人しく助手席に座ってたが、子供のように口を尖らせていた。念のため、車内にあった拘束バンドを使って春樹が後部座席から彼女の手を拘束する。

「痛い! もっと優しくやれないの? ――ねえ、タバコある?」

「痛いじゃねーよ。ったく、俺の時は思いっきり絞めやがったくせに。タバコ? あってもおまえにはやらねーよ」

 さっきと立場が逆転した二人のやりとりを見ていると、何となく面白かった。

「さっき親父さんも見ましたよね。ヘリに感染者がたかっている姿を」

「ああ、あれは酷かった。シーズン2までなら、記憶を忘れて最後は眠るように死ねるのにな。他人まで襲うなんて、まったく迷惑なウイルスだぜ」

 手のひらをもみながら眉間にしわを寄せる。

「ですね。世界中にシーズン3が広がっていなければいいんですけど。日本は大丈夫だといいなあ」

 手元のGPSで位置を確認した後、すぐに出発した。そろそろ日付が変わろうとしている。

「それは帰ってみないと分からないな。……ひとつ疑問があるんだけど、謙介くんの考えを聞かせてくれ。例えば、『ワクチンを既に注射している人』を感染者は襲うと思うか?」

「うーん、分からないですね。人の攻撃本能が目覚めるって事なら無差別に襲うでしょう。けど、本能的に“襲ってもムダだ”と嗅ぎ分けられるならば、ひょっとして大丈夫かもしれませんね」

「なるほど。ひょっとしたらひょっとするのか……」

 こうつぶやき、彼は目を閉じて考え込んでしまった。

 ガラスの割れた食料店の角を曲がってしばらく走ると、港の端に停泊している〈ライジング・サン〉号の姿を見つけた。既に他の船は出港したのか港に並ぶ船の数は極端に少ない。船の脇にシルバーのセダンが止まっていたが、これは紫苑たちが乗って来たものだろうか。

「見て下さい! あれは……あずさと紫苑、そしてモヒカンたちも。みんな無事で良かった!」

 親父さんと目が合うと、彼もほっとしたのかその頬も緩んでいる。

「おーい、急いでくれー!」

 全員がこちらを見て、口に手を当てながら大きく手を振っていた。船から歩み板が渡されているところを見ると、どうやら船長ともうまく話がついたのだろう。車をセダンの隣に止めるとドアを開けるのさえもどかしく、満面の笑顔で待つ仲間の所に俺は駆け寄って行った。

「謙介さん、ギリギリだったよ! あと三分で出港する所だった。ほら、ノブがデッキの上から叫んでるだろ? あれ、親父は?」

 ふとみると親父さんが後部座席から降り、何食わぬ顔でハンヴィーの運転席に座ろうとしていた。

「親父、何やってんだよ! 船がもうすぐ出ちゃうぞ」

 聞こえなかったのか、聞こえてても無視しているのか、親父さんはそのままエンジンをかけた。

 一体何を考えているんだ? 

 俺たちは急いで車の行く手を阻むように取り囲んだ。よく聞き取れないが、ノブが甲板から叫ぶ声のトーンから判断すると、もう本当に時間が残されていないようだ。

「そこをどいてくれ。悪いが、俺は行けない。紫苑、良く聞け。この女が乗って来たヘリに、俺の親父とおまえのクローンが乗っていた。ヘリが襲われて乗組員は全員感染してしまったと思うが、ひょっとしたら親父たちは奇跡的に助かっているかもしれないんだ。その可能性がある以上、俺は……」

「さっきの話ですね? でも、襲われていない見込みはかなり薄いと思いますよ」

 この時、車の中で感じた親父さんの考え深げな表情の正体が分かった気がした。

「ダメだって! この国にいたら危険すぎる。俺たちと一緒に日本に帰ろう」

「紫苑、落ち着いて考えてみろ。もし親父である俺がヘリに残されていたらどうする? 生きてる可能性があれば必ず助けに戻るだろ?」

 落ち着いた低い声で語りかけながら息子を見つめる。

「……かもな。よし、そこをどいてくれ。俺が行くよ!」

 紫苑は春樹の腕を掴み、運転席から強引に降ろそうとする。しかし、春樹はがんとして運転席から降りない。

「まあ聞けよ。鬼頭小次郎って男はな、家に全く帰らない人だったんだ。いつも俺をほったらかしにしてた。俺とおまえの母さんの結婚式にも来なかったんだぜ。だが、たったひとつだけ思い出したんだ。子供の頃、アメリカの病院に注射を打ちに行った時、俺に付き添う親父の笑顔をな……。あんなに優しい顔をした親父を見た事は無かった。『おまえは俺の大事な子供だ』ってその時初めて言ったんだ」

「俺と全くおんなじパターンだな。あの人はその時に『鍵穴』を……。将来こうなるのを見越して」

「あと、おまえはひとつ大事な仕事を忘れているぞ」

「大事な仕事?」

 キョトンとした眼で親父を見る。

「母さんの事だ。おまえは母さんをその鬼頭の血で助けるんじゃなかったのか? もう少し経って副作用さえ無かったら、俺の血を輸血した人間からワクチンができるはずだ。そこのお嬢ちゃんたちにも家族がいるんだろ? 責任を持っておまえが日本まで守ってやってくれ」

「でもさ」

「でもじゃない。万が一の時に俺が避難できるところはちゃんと考えてある。メキシコで長く暮らしていたから、生活の基盤がそこにまだ残ってるんだ。ここからそう時間はかからないから心配するな、行けばどうとでもなる」

「じゃあ――約束するか?」

「何をだ」

「この騒ぎが鎮まったら、必ず日本に帰ってくるって。母さんに会ってくれるって」

「ああ、約束する」

 鬼頭の血を継ぐ親子は、目を少しうるませながらも固く握ったコブシをぶつけあった。


「おーい、もう待てないぞー! 今すぐに船に乗れ!」

 ノブと船員が歩み板を引き込む準備を始めた。

「ちょっと! なに謙介さんまで車に乗ってるのよ! せっかく戻ってきたのに」

 親父さんの話を聞いて、俺の気持ちも決まっていた。親父さんひとりであの危険な場所に行かせられない。これは実際にあの現場を見た人にしか分からないだろう。まだ感染者がうようよしているかもしれないのだ。

 もう、誰も死なせるもんか!

「ごめん、あずさ。行かせてくれ。俺の性格を知っているおまえなら分かってくれるはずだ」

「ちっとも分からないわよ! どうしていつもいつも謙介さんが危ない目を買って出るの!? だいいち、その頭の傷だって治ってないじゃない!」

「言っただろ? 俺たちはチームなんだ。リーダーとして放っては置けない」

「じゃあ、あたしが今からリーダーになるわよ! 命令よ、車からすぐに降りて!」

 子供みたいに泣きじゃくりながら、俺の袖をぎゅっと掴み車から降ろそうと力む。

「心配するな。紫苑が必ずみんなを守ってくれる。それにおまえにも親父とお袋がいるだろ? 日本に帰ってまず無事を確かめるんだ。もし、ヘリが飛ぶようなら俺たちもすぐに追いかけるから」

 一度言いだしたら聞かない俺の性格を思い出したのか、袖を掴む力が少しずつ緩んで行く。その代りに窓越しに俺の首に抱き着いて何度も顔を擦りつける。

「絶対に! 今度も絶対に戻って来てね。約束よ。あたしいつまでも待ってるからね」

「約束する。――紫苑! あずさを、みんなを頼むぞ!」

「まかせてくれ。謙介さん、俺の方こそ親父を頼んだよ。必ず日本でまた会おう!」

「おう! 必ず帰る。おっと、あずさ、ちょっと汗臭いかもだけどこれ餞別に持ってけ。海は冷えるから」

 唇を一文字に結びながら身体を離したあずさに、着ていたサマージャケットを丸めて手渡した。本当はもっと気の利いたものを渡したかったのだが、今は他に何も無かった。

 もしも……もしも俺が死んだら、彼女はそれを見るたびに俺を思い出してくれるだろうか。

 その時、その考えを断ち切るように、汽笛が腹に響くような音で鳴り響いた。俺のジャケットを小脇に大事そうに抱えたまま、あずさは紫苑に手を引かれうつむきながら乗船していく。モヒカンたちも、名残惜しそうに何度も振り返りながら船に乗り込む。やがて船はゆっくりと動きだし、岸から少しずつ離れ始めた。

「また会おうねー! 元気でねー!」

 デッキに上がった仲間たちが身を乗り出し、笑顔でこちらに手を振っている。袖で涙を拭いながら、あずさは無理やり笑顔を作っているように見えた。

「親父さん、ちょっとだけ時間あるかな? ひとつお願いがあるんだけど」

「いいよ、行って来いよ。俺はここで待ってるから」

 タバコを二本咥えて火を点け、一本をリザベートの唇に差し込みながらウインクする。

「ありがとう」

 車から飛び出ると、遠ざかる船に向かって走り出した。船はまだすぐそこだ。

「おーい! みんな元気でなー!」

「謙介さんたちもねー!」  

 俺は両手をちぎれるほどにぶんぶんと振って、仲間たちの旅立ちにエールを送った。自分でも気づかないうちに涙がだくだくと出て止まらなかった。



 灯台の光がゆっくりと船を舐めまわしてゆく。

「いつかまた、必ず会えるさ」

 紫苑があずさの肩に優しく手を置いた時、彼女の抱えていたジャケットから何かがひらひらと落ちた。それを拾い上げたあずさの顔に、激しい驚きの表情が浮かんだ。

 彼女が拾ったもの……それは、一枚の写真だった。

 ルクソールホテルをバックに撮ったその写真には、あずさを肩車した謙介が照れ臭そうに笑いながら写っていた。肩車をされているあずさも心から楽しそうな笑顔で、白い歯を見せてピースサインを出している。

――その写真の裏には、殴り書きのような字で何かが書かれていた。

 男らしく大きな字で……『俺の宝物』と。

「紫苑、一生のお願い! ライフジャケットを探して!」

 鋭く紫苑を見つめるその眼は、何かを決意した女の眼だった。

「おい、おまえまさか?」

 今まで見た事の無いぐらいの、あずさの強いそのまなざしに紫苑は戸惑いを隠せない。

「これでいいのかしら? 頑張るのよ」

 写真をこっそり覗き込んでいたリンダが、女にしか分からない何かを感じたのか、フックに並べられていたオレンジ色のライフジャケットをもう手に乗せていた。あずさはそれを受け取ると急いで着込み、白いペンキを塗った手すりに手を掛けて振り向く。

「泳ぎは得意だし、足からいけば楽勝よね? あたしね、ひとつ謙介さんに言い残したことがあるの」

 紫苑はまだ戸惑っているようだった。この時、彼女の身体を心配していたのか。それとも……。

 もう一度確認するようにあずさの眼を覗き込んだ瞬間、それを境に優しいまなざしに変わっていく。

「船尾からならスクリューに巻き込まれる心配は無いだろう。だが、この高さだ。着水のショックは相当なもんだぞ。それでも行くのか?」

「ごめんなさい。――私ね、日本にいた時は、恋人と会えない理由を全部仕事のせいにしてたんだ。『今日は会えない、時間がない、電話に気付かなかったの』そんないい訳ばかりの女だった。それが、私を想ってくれる人の心をどれだけ傷つけたのかも知らずに。私、今まで男の人を一度も本気で愛したことはなかったんだと思う。もし本気で愛してたなら、たとえわずかな時間でも、無理やり理由をつけてでも逢いに行くものでしょ?」 

「ああ、そうだな」

「でもね……謙介さんに会って、一緒に笑って、苦しんで、やっと気づいたの。何を置いてもずっと一緒にいたいんだって。私、彼を愛しているんだって。もう絶対に、後悔はしたくない!」

 船はゆっくりとだが、加速を始めている。飛び込むのはもう今しかない。

「わがまま言ってごめんなさい。じゃあ行くね。みんな本当にありがとう」

「向こうに着いてから怒られても、泣くんじゃねーぞー」

 感動したのか、モヒカンがまた目をうるませている。

「がんばれよ! でも、おまえが浮いてこなかったら俺もすぐ飛び込むぞ」

 紫苑は吹っ切れた様な笑顔で彼女が手すりを越えるのに手を貸した。誰も知らなかったが、あのプールサイドでサングラスに隠した眼光はもう消え去っていた。今は二人の幸せを心から願っているように見える。そう、彼は……あずさの事を本当に好きだった故に、彼女の幸せを応援したかったのかもしれない。

 ばっしゃあああん!!

 黒い水面に白い波しぶきが上がり、それはしずくは月の光を浴びてキラキラと光った。少しの間あずさは海中に沈んでいたが、すぐに浮かび上がってくる。そして「大丈夫よ!」という風にデッキに向かって手を振った。そしてスクリューの水流に押し出されるようにして岸の方へとどんどん流されていく。

「あいつ、いつも置いて行かれてたからなあ。これからは今みたいに、あずさが追いかけて行くんだな。あーあ、謙介さんもこれからたいへんだぞ」

 みんな目を見合わせながらくすくすと笑った。

「今のは何の音デスか?」

 水音を聞きつけたノブが血相を変えて走って来た。手すりにぐっと身体を乗り出し目を細める。

「OH MY GOD! あれは?」

「大丈夫、落ちたんじゃない。彼女は愛する男を追いかけて行っちゃったんだ。――あれが、日本の大和撫子さ」

「OH! ヤマトナデシコ! 日本の女性カッコいいデスね」

「だろ?」

 そろそろ向こう岸に辿り着く頃だ。デッキからは謙介の驚いたリアクションがぼんやりと見える。

「彼、驚いたでしょうね。彼女になんて言うかしら」

 リンダは足の痛みも忘れたのか、手すりに頬杖をつきながらうっとりした眼で微笑んでいた。


 俺は、紫苑があずさを気に入っている事を薄々感じていた。

「バタバタしてて、結局大事なことが言えなかったなあ。ひょっとして俺、やらかしちゃったのかも」 

 少しずつ遠ざかる船を俺は複雑な思いで見つめていた。胃のあたりがきゅっと切なくなり、何か心の大事なピースが欠けてしまったかのような喪失感に襲われる。短い間だったが、あずさたちと過ごした時間は濃密で、ラスベガスで大勝負した時の事などが目をつぶると鮮やかに蘇ってくる。

 少しして目を開けると、遠くかすむデッキの上で何かあったのか、みんなが一か所に集まっていた。そのまま、遠ざかる船を目をこらして見つめていると……。

 ばっしゃあああん!! 

 え? 何かが海に落ちたぞ。その音からしてかなり大きいものだと分かる。灯台の光が照らした瞬間に、暗い海にオレンジ色の物体が浮いているのが見えた。驚くべきことに、そこから白い腕みたいものがにょきっと伸び、今度はそれが左右に動き始めたではないか。

 あれはまさか……いや、そんなバカな。俺は口をあんぐりと開けていた。それはかなりのスピードでこちらに向かって近づいて来る。暗い夜の海、泳いでこちらに向かって来る人間。これは普通に考えたら、かなり怖い。

「おい、うそだろ? まさか……あれあずさか?」

 それが足元の近くまで来た時に、月の光で今度は顔がはっきりと見えた。頬っぺたのガーゼは剥がれて無くなっていたが、濡れた髪をかきあげる仕草が月夜にくっきりと浮かぶ。だが、俺は目の前で起こっている事がまだ信じられないでいた。

「謙介さーん。すごい勢いでお尻打っちゃったの。手を貸して」

「あ、あずさおまえ、飛び込んだのか? あの高さから?」

「うん。忘れ物を届けにきちゃった」

 岸の階段になっているところから膝を着き手を伸ばす。掴んだその手は冷たく、服のまま飛び込んだせいかその身体は恐ろしく重かった。髪の毛から水を滴らせながら地面に立つと、彼女はライフジャケットを足元に脱ぎ捨てる。

「あぶねーことすんなよ! ケガしたらどうするんだ? もしかしてサメだっているかもし……」

 この言葉は最後まで言えなかった。

 なぜなら、言葉の途中であずさがすっと近づき、つま先を上げて俺の唇を塞いだからだ。そして両手をしっかりと俺の背中に回して顔をうずめる。

「ただいま。あのね、写真見たわよ」

「写真? 何の写真だよ。あ! ――もしかして、う、裏も見たのか!?」

 しまった! ジャケットのポケットに入れたままだったのを、俺そのまま渡しちゃったのか!

「もちろん。ええとね、『俺の』……」

「うわあああああ! 言うな! やめてくれえええ!」

 顔を真っ赤にして耳を両手でふさぎ、首をぶんぶん振った。これは、俺の黒歴史になるレベルだ。

「じゃあ、もう怒らないって約束して」

「はい」

「あと、あたしに言いたいことって?」

「えー、実は。前から大好きした」

「あたしも。……ありがと、超嬉しいよ」

 もっとカッコいいセリフを、何度も頭の中で練習していたのになあ。だが「いやあ、マイッタなコリャ」と照れているあずさの幸せそうな顔を見ると、そんな事は本当にどうでも良くなってしまった。


「おーい、そろそろ行く……ってお嬢ちゃん! なんでここに?」

 車を降りて様子を見に来た親父さんが、あずさを見て驚いている。

「ただいま、春樹おじさん。あずさちゃんがまたパーティーに加わったわよ。ふふ、嬉しいでしょ?」

 彼女のびしょぬれの格好を見て、おおよその事を察したようだ。春樹おじさんと呼ばれたのがまんざらでも無いような顔をしながら、俺を肩で突っつく。

「おまえさあ、尻にしかれるなよ」

 くっくっくと口に手を当てながら車に戻って行く。

「よし、行こう!」

「うん!」

 あずさの手を取り、ハンヴィーに向かって走り出した。その手はまだ冷たかったが、その冷たさが彼女の勇気のある行動をはっきりと思い出させる。これから何があっても俺たちは絶対に離れないと、このとき心の中で誓った。

「あの、できたら写真返してください」

「だーめ、あれは一生とっとくの。額に入れて飾っとこっと」

 いたずらっぽい顔をして俺の胸をつっつく。

「コラコラ、おまえらイキナリいちゃいちゃしてんじゃねーぞ。おじさん何か寂しくなるだろうが。ったく、じゃあ出発するぞ!」

 この暗闇の中、あの周辺には何が潜んでいるのか分からない。だが、もし彼らが生きているのなら助け出さなければ。そこには輸血設備があるという話だから、うまくいけば俺もワクチンを手に入れることができるだろう。

「まさかあんたたち、本気であそこに戻るつもり? このまま逃げちゃえば楽なのに……あきれたっていうか、はっきりいってバカね」

 助手席で憎まれ口を叩くエリザベートも加え、車は真夜中のハイウェイをぐんぐんと加速していく。



血族




『日本・横浜港』 二週間後 



「まさか、帰国の日の今日襲われるとは思わなかったな。しばらくここに隠れていて、夜を待って脱出するぞ。ところでモヒカンくん、ケガは大丈夫か?」

 暗いコンテナの中に紫苑、モヒカン、リンダが息を潜めていた。まだ朝方なのでコンテナの中は熱を持っていないが、四月とはいえ日が昇るにつれ内部の気温はぐんぐん上昇してくるだろう。

「カチッ!」という音と共に、小さな懐中電灯の光によって三人の顔が暗闇にぼうっと浮かび上がる。光の加減なのか、みんな一様に疲れた顔をしていたが、モヒカンはその中でひときわ顔色が悪く見えた。今朝、刃渡り三十センチはあろうかという蛮刀を振り回されて腕を切られたのだ。よほど深く切られたのか、片口から袖まで血でぐっしょりと濡れている。

「ああ、血はまだ出てるけどたぶん大丈夫だよ。ったく、あいつら俺が寝てるところをいきなり襲ってきやがって。小切手なんてとっくに海の藻屑になったっていうのに」

 きっかけは、横浜港に入る前日に、娯楽室に埋もれていた雑誌の中から船員がある記事を見つけた事だった。その雑誌には〈カジノでジャックポットを当てた時のモヒカンと、その隣に立つリンダの写真〉が大きく載っていた。

 瞬く間に船中にうわさは広がり、「この船には億万長者が乗っているぞ。なぜ船長は報酬をとらないんだ? きっと、ヤツらと内緒でこっそり取り引きしたに違いない。俺たちにも分け前を払え!」と騒ぎ出した。ワクチンの取り引きで既に話がついている事など、彼らには知る由もない。

 これまでは船員たちとうまく溶け込み仲良くやっていたが、金が絡むと彼らは別人のように変わってしまった。咄嗟の判断で操舵室に閉じこもり難を逃れた船長は、入港を果たした後どこかに消えてしまったらしい。当然、船長を逃がした船員たちの怒りの矛先はモヒカンたちに向いた。そして入港した朝に突然、刃物を持った男たちが襲ってきたのだ。同室の紫苑がモヒカンのために戦わなかったら、ケガどころじゃ済まなかったに違いない。

「ノブさんの手引きでここに逃げ込んだのはいいけれど、今に彼も疑われるんじゃないかしら。もし見つかったら力を合わせて戦うしかないわね。その前にこの中の暑さで私たちミイラになっちゃうかも」

「こんなにたくさんのコンテナがあるんだから、時間は稼げるだろ。あとは港のガントリークレーン(積み下ろし用の木馬型クレーン)が、これを持ち上げてくれさえすれば」

「いや、紫苑さん。それはどうかな。横浜の人たちがもし感染していたら、クレーンを操作する人もいないはずだし」

 傷が痛むのか顔をしかめながら、腕のタオルを縛り直した。ぽたぽた床に落ちる血のしずくを見ると、思ったより彼の傷は深いのかもしれない。

「そうだな。クレーンが動いていない様子だったら、強行突破するしかない。そういえばリンダ、足はどう?」

「もう大丈夫、全力で走れるわよ。でも、もし日本中が感染していたらここを脱出できたとしても私、どこへ行けばいいか分からないわ」

 不安そうな顔をして目を泳がせている。紫苑には母親の所に向かうという目的があるが、彼女はこれからどうするのだろうか。

「ひとり暮らしだっけ? ご両親は?」

「二年前に交通事故で亡くしたわ」

「ごめん……」

「いいのよ」

 悪い事を聞いちゃったなという風にモヒカンは目を伏せた。そして意を決したようにリンダをまっすぐ見つめた。

「じゃあさ、一緒に来いよ。俺の両親にも紹介したいし」

「え、大丈夫? 青い目をした私なんかが突然行っても驚かないかしら」

「平気だよ。うちだって何気に外国人の血が混ざってるんだぜ?」

「ええええええ!?」

 どのパーツにその血が現れているのか全く分からないという風に二人は顔を見合わせた。しかしモヒカンの暖かい言葉にリンダの表情は徐々に明るくなっていく。

「私、料理とか全然できないんですけど」

「そんなの少しずつ覚えればいいよ。ぜひ来てくれよ。そうだ! 落ち着いたら、香織さんを探しに行くのを手伝ってくれる?」

 その名前を聞いたとたん、リンダは口をつぐみ少しの間じっと目を閉じた。

「ええ……いいわよ。こんな時に何だけど、あなた恋人はいるの?」

「目の前にいる人がそうなってくれればいいなって思ってるよ」

「え」

「ダメ?」

「喜んで!」

 その様子を見ていた紫苑はいたたまれなくなったのか、頭をカリカリと掻きながらコンテナの隅に行って寝ころんだ。

「時間はたっぷりあるから、脱出に備えて少し眠るよ」

 しかし、その言葉は手をとりあうふたりには全く聞こえていないようだった。


 数時間後、隠れているコンテナの近くで男の低い話し声がした。今まで足音はしていたが、声が聞こえたのは初めてだ。

「おいノブ。おまえひょっとして、あいつらと手を組んでるんじゃないだろうな? さっきから様子が変だぞ」

「まさか。たぶんあいつら海に飛び込んだんだよ。探してもムダだと思うぜ」

 英語の会話が耳に入って来る。ちょうどこのドアの前あたりにいるようだ。三人は息を潜め、話し声が聞こえなくなるまでじっとしていた。巡回の時間を計ってみると、彼らは一時間ごとに見回りに来ることが分かった。恐ろしい事に、一時間前にコンテナを舳先側から全て開け始めているようだ。

 深夜二時頃、少し離れた所で、殺気立った集団の声と、ドアを片っ端から開けているような音が聞こえてきた。

「今しかないな。いずれここも見つかる。俺の合図を待っててくれ」

ドアを開け忍者のように紫苑がコンテナを飛び出ると、辺りの様子を探る。万遍なく通りをチェックして誰もいない事を確認し、モヒカンたちを手招きした。

「もうあいつらは近くまで来ている。もし見つかったら今度こそ命はないな。ここから陸側に二十メートルほど行ったところに歩み板が降ろされていたけど、そこには断続的にサーチライトが当たっているから一気に走り抜けること。じゃあ音をたてずに俺についてきてくれ」

 月の綺麗な夜だった。あたりからは波の音と、男たちの怒声しか聞こえない。

傷ついたモヒカンをリンダが支えながら、一番危険な場所を一気に走り抜けると、後ろを追う人影も無く三人は無事に下船することできた。そのまま素早く埠頭を走り抜け、ゲート前で止まる。鉄の門の上にはカメラが設置されていたが、もし感染が広がっているならば、それを見る人も、後で咎める人もいないだろう。

「とりあえず病院を探そう。そのケガじゃ縫わないとダメだ」

 モヒカンの唇は紫色になり、体温が下がっているのか少し震えてるようだ。

「大丈夫だよ。紫苑さんはお袋さんの所にすぐ向かってくれ」

「ダメだって! 顔が真っ青じゃないか!」

 声を荒げながらも、冷たくなってきたモヒカンの腕を支える。誰もいない埠頭に反響して、思ったよりもその声は大きく響いた。船上から懐中電灯の光が、ちらちらとゲートの方に伸びてくる。だが、彼らがここに来るまでには余裕で逃げられるだろう。

「いいから! お袋さんにワクチンが間に合わなかったらどうするんだよ! 大丈夫、俺にはこのリンダがいる。こんなケガぐらいでくたばるもんか」

「そうよ。急いでお母さんの所に行ってあげて。病院を探してちゃんと私が手当するから心配しないで」

 眉根を寄せてしばらく紫苑は黙り込んだ。

「……分かった。ありがとな。ところでさ、世の中が落ち着いていつかまた会えたら、またみんなでラスベガスに行かないか? 同窓会をしよう」

「いいね。その時はまたジャックポットを当ててやる」

「ははは。――そうだ! さっきふと思ったんだけど、ひょっとしたら小切手って再発行できるんじゃないか?」

「マジで!?」

「たぶん。紛失扱いにすれば可能だと思う。ただ、あつしたちが万が一生きていたら、あいつらの事だから上手く換金しちゃうだろうけど。まあ、経済が完全に復旧してからの話だね」

「なるほど。いい事聞いた。もし上手く行ったら、俺たちがチャーター機を用意するよ」

「それは楽しみだな。じゃあ俺は行くよ。感染者に気を付けてな。あと、絶対に彼女を手放すなよ。……俺みたいに」

 最後の一言は呟くような声だったので、モヒカンたちには聞こえなかったようだ。

「うん、お互い元気で!」

「いろいろ助けてくれてありがとう。嬉しかったわ」

 堅く握手を交わすと、三人は深夜の闇に紛れそれぞれの目的に向かって散らばって行った。


『メキシコ・モレリア』 



「国民、いや全世界のみなさん、おはようございます。こちらはホワイトハウス内の臨時ラジオ放送局です。今回の未知のウイルス攻撃によって壊滅的な打撃を受けたここワシントンに、流出していた人々が少しずつ戻って来ているという報告がありました。現在、WHOとCDCなどからこのウイルスに非常に有効なワクチンが国民に提供されつつあります。しかし、感染してからでは効果がありませんので、この放送を聞いた方はお早めに近くの公共施設で『H・ワクチン』を接種して下さい。最後に、何度も警告をした通り『隣人が突然唸りだしたら』すぐに逃げて下さい。では臨時放送を終わります」


「へえ。『H・ワクチン』か。いい名前じゃん」

 俺は柵に掛けられたラジオを消し、太陽で小麦色に焼けた自分の腕を見つめる。あれからあっという間に二週間が経った。ラジオからは毎日悲惨なニュースが流れて来るが、最近ではそれにいいニュースもちらほらと混ざるようになってきていた。

 ここモレリアは、メキシコシティから西に百八十キロほど行った所にある。湿度が低く日中は二十六度ぐらいで非常に快適だが、朝は十度前後と少し肌寒い。少し北に行けば大きな湖もあり、週末には魚釣りなどが楽しめた。

 緑の絨毯を思わせる若草と抜けるような青空が広がる昼下がりの牧場に、いま俺たちはいた。世話になっているペドロ一家の牧場はこの辺でも一番大きく、牛の放牧のほか、オレンジ栽培なども手広くやっていた。

 牧場主のペドロはもう七十歳を超えていたが、夕食時笑顔でチーズを切り分けるその腕は青年のようにたくましい。彼は以前から春樹を実の息子のように可愛がり、二週間前の俺たちの突然の訪問にも嫌な顔ひとつ見せずに歓迎してくれた。

「ちょっとカゴ投げて紫苑! じゃなかった、クローンさん。――ねえ謙介さん、そろそろこの人にも名前つけてあげたいわよね」

 困った顔であずさは俺を振り向いた。顔かたちが紫苑と瓜二つなので、あずさも俺もこの青年をうっかり呼び間違えてしまう。

「そうだなあ。どうしても紫苑って呼んじゃうよな」

 俺たちは足元の雑草を抜きながら、一生懸命に名前を考えた。

「ぼくは……別にかまわないですよ」

 やっとみんなと普通にしゃべれるようになったクローンが、こちらを見ながら目を細めて笑っている。

「ごほん! もう、とっくに考えておる。おまえの名前は『武蔵』じゃ」

 点々と散らばる小屋からの牛の鳴き声に混ざって、しわがれた声が聞こえてきた。ぶち模様をした二匹の牧羊犬が寝そべっている横で、鬼頭小次郎が犬たちの頭を優しく撫でている。

「ええええ!? なんか、めっちゃ武士っぽいじゃん。そんなのダメよ、却下」

「ダメとはなんじゃ、バカもん! わしのセンスに文句があるのか?」

 大声とは裏腹に、その口元は少し緩んでいた。

「ただいま! あーいい汗かいた。おい親父、怒鳴る元気があるなら犬の世話係も当分大丈夫だな。しかし、若い娘と口喧嘩してるなんて、あんたもここに来て変わったな。ははは」

 収穫から帰ってきた春樹が、手ぬぐいで汗を拭きながらカゴの中のオレンジを順番に俺たちに放る。日に焼けて見事な小麦色の肌をしている。もちろん、俺たち全員もだが。

「はははじゃないわ。……まったく、ワシントンに帰れば莫大な資産があるというのに、このわしが犬の世話係とは。なあ、そろそろ向こうに戻ってもいい頃なんじゃないのか?」

「ダメだよ。ラジオ聞いただろ? 経済も政治もまだ回復していないって言ってたじゃないか。だけど、今がピークじゃないかな。もう少しの辛抱だってば」

「まだ治安も悪い事は知っとる。だがおまえたちがいれば何とかなるじゃろ」

「ちょっと、おじいちゃん! 私たちは一緒に行かないわよ。落ち着いたら日本に帰るんだもんねー」

 あずさは下唇を突きだしながら俺と春樹を見る。

「日本か……。そうそう、そのことで話がある。三人とも、夕食後わしの部屋に集まってくれ」

 午前中に草むしりと牛の世話が終わった俺とあずさは、午後からはオレンジ農園に手伝いに行くことになっていた。

「分かりました。ところでそのワンちゃんもお腹空いてるみたいですね」

 俺の言葉に後ろを振りかえると、小次郎が柵に掛けた上着を犬たちが美味しそうにかじっていた。

「こら、やめい! 全くバカ犬どもが」

「あらあら、おじいちゃん。ちゃんとしつけてよね」

 その様子が可笑しくて、つられて俺も大笑いしてしまう。

 昼食の用意をしているのか、一番大きい白い家の煙突からは煙がゆっくりと空に登って行く。あずさはくすくす笑うと、食事の手伝いをするためにペドロの奥さんとエリザベートの待つキッチンに走って行った。


 夜になり、カルネ・アサーダ(メキシコ風ステーキ)と豆料理をたらふく食べたあと、鬼頭小次郎の部屋に集合する事になった。俺、あずさ、春樹そしてエリザベートが顔を揃えている。どうやら武蔵は来ていないようだ。

 納屋を客室に改造したコテージ風の室内は、使い込まれたカントリー調の家具が置かれ、まるで古い雑貨店に迷い込んだようだった。

「さて、全員集まったな。今夜はおまえたちにぜひ話しておかねばならない事がある。だがその前に謝罪したい。そこにいるエリザベートのした事は、わしの責任と言ってもいい。彼女を許してやってくれ。亡くなった人には本当に申し訳なく思っている」

 小次郎はよろよろと椅子から立ち上がり、杖に体重をかけ深く頭を垂れた。続いてエリザベートも神妙な顔をして小次郎より深く頭を下げる。

「二人とも頭を上げてくれよ。親父や彼女を責めてもしょうがないってみんな思ってるからさ。ただ、俺の調べたことは全部謙介くんたちに話した。親父も今回は誰かの手のひらの上で踊らされただけなんだろ?」

 スプリングがかすかに軋む古ぼけたソファに座りながら、春樹がハッキリとした声で質問した。

「すまん。情けないことにわしは脅迫され、桁外れの権力に結局逆らえなかった。既に知ってると思うが、この時期にウイルスを撒くという事は、もう数十年前から決まっていたことじゃった。今回のウイルスもいわゆる出来レースじゃ。例の七三一部隊もウイルスを権力者から提供され、事前実験をしただけなんじゃ。さらに未来には、今回のパンデミックのデータを参考にして、より強力なウイルスがばら撒かれる可能性もある。裏の権力者の『人口調整』はこれからも決して止まらないじゃろう」

 小次郎の口から発せられた『人口調整』という言葉に不気味なものを感じたのか、みんな顔を見合わせたまま一斉に黙ってしまった。

「その、裏の権力者っていうのは一体誰なんですか?」

 重苦しい空気の中、俺が代表して質問する。

「ふむ。わしが密かに調べたところ、ある財閥の一族がそれにあたる。彼らはアメリカの『通貨発行権』さえ持っているのじゃ。つまり、アメリカ政府からじゃなく、彼らの命令次第でドル札をいくらでも刷れる権利を持っているということになる。だいたい、『民間企業がドル紙幣を意のままに印刷できる』って事がそもそも妙だとは思わないか? ドルを握っているということはつまり、世界経済を握っているということじゃ。過去、その発行特権を強硬な態度で糾弾したのが、あのケネディ大統領じゃった。この妙な体制を変えようとした事が暗殺された原因のひとつと言われておる。さらに彼らの強大な特権から生まれる金は、秘密結社などの資金源になっている。イルミナティ、フリーメイソンなど名前だけは聞いたことがあるな? 石油産業や武器産業と合わせ、それらの複合体が黒幕だとわしは睨んでいる」

「なるほど。アメリカ政府ですら手を出せない相手が全部仕組んだってことですね?」

「そうじゃ。そしてこれからもな」

「うーん。それを止めることはできないの? 謙介さん、ぱぱっとやっつけちゃってよ」

「いやいや、俺がスーパーマンでもたぶん無理だ」

「――そう、まさに今日はそのことで集まってもらったんじゃ」

 全員の驚いた視線が一斉に鬼頭小次郎に集まった。

「いいかな? まず、上条謙介くん。君は君の曽祖父(ひいおじいさん)と目がそっくりじゃ。そして渋谷あずさくん。そのスラッとした鼻筋はご先祖譲りじゃな」

 小次郎は、まるで懐かしい思い出を辿るような表情をしている。

「ちょ、ちょっと待ってください。あなたは何を言っているんですか?」

「ほれ、この写真をよおく見てみろ」

 手渡された白黒の写真には、軍服を着こなした三人の人物が、背筋をぴんと伸ばして写っていた。中心に立っている人物は、目の前の鬼頭小次郎に目元がそっくりだ。

「中央がわしの親父の大二郎じゃ。両脇の上条陸軍軍医中佐、渋谷陸軍薬剤中佐は、軍で親父と親友だったんじゃ。ちなみに君らの曽祖父の名は上条真樹さんと渋谷弘蔵さんじゃろ?」

「たぶんそうだと思います。陸軍にいたとは聞いていましたが……。名前は確か間違いないはずです」

「あたしも、おばあちゃんから聞いたことがあるわ。弘蔵さんで合ってると思う」

 写真を覗き込みながら二人で頷いた。

「うむ。家系図をたどって行けば、君たちは彼らの直系の子孫にあたるはずじゃ。鬼頭大二郎と君たちの曽祖父は、日本軍部よりも強大な組織から密かに命令を受けていた。だが、彼らも人並みの軍人魂を持っていた。こんなウイルスを手に入れれば、それを使ってでも戦争に勝ちたいと思うのが人情じゃないか? しかし……それは結局実行に移せなかった。なぜなら、大二郎の妻は病死したと記録にあるが、本当は権力に殺されてしまったからじゃ。『下手な考えを起こすと、こうなるぞ』という警告じゃな。

「ひどい話だな」

 紫苑は悲しそうに目を伏せる。

「ああ。そこで彼らは、せめてワクチンだけでも密かに子孫に残そうとしたのじゃ。暗号まで使ってな。さて、ここでよく思い出して欲しいが、君たちは子供の頃アメリカに旅行したことは無かったかな?」

「あ! そういえば……。一枚だけ不思議な写真がアルバムにあったわ。両親に聞いても首を傾げてた。〈あずさ・二歳〉とだけ横に書いてあって、ひいじいちゃんがあたしを白い部屋で抱っこして笑っている写真だったわ。見ても全然思い出せなかったけど」

「そうだ! 俺も子供のころ誰かに連れられて、長い時間飛行機に乗った記憶があるぞ」

 頭の中の古い引き出しが開いたように、俺たちは同時に顔を見合わせた。

「たぶん君たちはある意志のもと、紫苑と同じ病院に連れて行かれたのじゃろう。ひょっとしたら君たちの両親にも気づかれないように、軍の飛行機で連れて行かれたのかもしれん。とにかくその時に打たれていたのじゃよ、君たちは」

「打たれてたって、まさか……」

「そう、ワクチンをな。鬼頭大二郎が、わしと春樹に『鍵』と『鍵穴』を仕込んだように。彼らもまた直系の子孫に何かを仕込んだんだろう。謙介くんはO型じゃったな? ならば、『鍵穴』の方で間違いない。お嬢ちゃんがB型なら『鍵』じゃな」

「え? だったら、俺はともかくあずさは最初っから万能ワクチンを持っていたって事になりますけど」

「その通り。紫苑からの輸血は必要無かったかもしれんな。――さて、結局全員が脱落してしまったが、ビッグミリオンチャレンジは覚えているな? 実は、紫苑と謙介くん、そしてお嬢ちゃんは初めから一緒のチームになる事が決まっていたんじゃよ。これはもちろん偶然ではないぞ。言い換えれば、その三人を会わせるためだけにあの企画はあったと言っても過言ではないのじゃ」

「え? 紫苑とあずさが『鍵』、そして俺が『鍵穴』という事は……。早い段階でその事を知ってれば、この三人だけで人類を救えたんじゃないですか?」

 俺の語気が強くなったのを皆が感じたのか、部屋の中に緊張が走る。

「君が怒るのも無理はない。だが、『神の鉄槌』作戦はすでに止めようがない状態になっていた。わしはそれとは別に、親父から君たちをこの時期に必ず集めるように言われていたんじゃ」

「集める?」

「そう、たぶん――最後の砦としてな。そして唯一の希望は、もう一つ同時に知った事実の中にある。鬼頭大二郎がわしに当てた手紙の中に、複雑な暗号と思われる文字列があったんじゃ。それは日本軍の潜水艦が使った暗号を参考にしていると思われた。そしてそれが最近になってついに解けた。その内容は……」

 小次郎は懐から愛しむような手つきで手紙を取り出す。

「鍵穴は全ての疫病の受け皿になるだろう。そして子孫にその血によって受け継がれる。来たる数々の災厄の日に備え、絶対に血統が途切れる事がないよう鋭意努力せよ。――鬼頭大二郎」

 手紙を読み終わった小次郎は、偉大な父の顔を思い出したのか少し目を潤ませていた。

「簡単に言うとじゃな、わしの息子の春樹と謙介くんの子孫は、未来永劫に渡って『媒体』になるということじゃ。権力者が新たな病原菌をどんなに撒こうが、『媒体』を通せばすぐに『万能ワクチン』ができてしまう。だが、その存在は彼らにとっては目の上のたんこぶと化す」

「なるほど。さきほどあなたが話していた『まさにその事』って言うのは、つまり俺と春樹さんの血統を絶やさないって事なんですか? でも、納得いかない事がひとつあります」

「なんじゃね?」

「紫苑は春樹さんの息子だから、最初から『完全な万能ワクチン』を持っていたって事ですよね?」

「ああ、そうなるな。しかし手紙を解読するまでは、まさかワクチン自体が遺伝によって引き継げるとは考えもしなかったんじゃ」

「お話は大体分かりました。俺たちが生きること、そして子孫に『鍵穴』を引き継ぐこと。これが権力者に対する唯一の抵抗ってことですよね」

「うむ。これからは、存在が知れないように細心の注意を払っていかねばならんな」

「じゃあ、遺伝的な意味で、俺とあずさが付き合ったのも偶然じゃないってことですか?」

「いーや、それはもう偶然じゃ。たまたまじゃ。しかし……何かが引き寄せあった可能性もあるかもしれん」

「ねえ、謙介くん。たまたまですってよ。良かったわね、紫苑くんに取られなくて。あ、ひょっとしてそっくりさんの武蔵くんが彼女を狙ってるかもよ? 彼、ハンサムだし」

 エリザベートが何か吹っ切れたような顔をしながら俺を突っついた。

「だ、大丈夫ですよ。これから紫苑みたいな魅力的な男になりますから!」

 あずさとエリザベートは口を押えてくすくすと笑った。

「よーし! じゃあ難しい話はこれで終わりだ。一週間前に俺の血液を信用できるヤツらに渡した。それが培養されて『H・ワクチン』になったんだと思う。今ごろは世界中の政府機関が大量生産しているだろう。近いうちに一時的だがまた平和な世界が訪れるはずだ」

 春樹が立ち上がり、拳を握りしめて力説する。

「そうね。私たちの旅も、もうすぐ終わるね」

 少し寂しそうにあずさがつぶやく。

 やがて鬼頭小次郎以外が席を立ち、次にそれぞれの想いを胸に皆部屋から消えて行った。最後に残った俺は聞き忘れた事に気付いてふと立ち止まった。

「さっき聞き忘れたんですけど。俺たちの曽祖父とあなたの父親はひょっとして……」

「うむ。今で言う特殊工作員じゃな。日本軍部に属していながら密かに命令された実験を行ってたからの。しかし、軽蔑してはならぬぞ。彼らは最後にしっかりと権力に一矢報いた。彼らの子供、子孫を想う気持ちは他の親たちとおんなじなんじゃ」

「はい。俺をあずさという女性に巡りあわせてくれて、今は感謝しています。普通に日本で暮らしていたら、一生巡りあわなかったでしょうから。この受け皿という立場は荷が重いですが、先祖の意志はしっかりと継いで行きたいと思います」

「頼んだぞ。今だから言うが、わしは鬼頭家の血と渋谷家の血が混ざる方に期待してたんじゃがな」

「おじいさん……」

「はっはっは。結局、先にブラックジャックを作り上げたのは君じゃったな。さて、明日の朝も早いから寝るとするか」

 にこにこと笑っている彼を部屋に残し、俺は何かさっぱりとした気持ちで自分の部屋に戻って行った。

 今夜の話でこの旅の謎が全て解けていく。俺はふかふかのベッドに飛び込むと、しばらく忘れていた心地よい深い眠りに落ちて行った。



 

 

エピローグ




『横浜・海辺の教会』 二年後



「今日は、俺たちの結婚式に来てくれて本当にありがとうございます!」

 腕を組んでチャペルの階段を降りながら、俺とあずさは集まった仲間たちのフラワーシャワーをたっぷりと浴びていた。ウエディングヴェールを海辺からの風になびかせたあずさの横顔は、女神の彫刻のように美しい。

 くるりと後ろを向いた花嫁の白いレースの手袋からブーケが放たれる。大ジャンプしてそれを受け取ったリンダの顔はぱっと輝き、その隣に立つ男性の元に小走りに駆け寄って行く。そこには涙ぐんだモヒカンが立っていたが、サラサラヘアーの会社員風の髪型になっていて俺は最初は誰だか分からなかった。

 日本でのウイルスの嵐も過ぎ、一年前に俺とあずさは帰国していた。あずさの両親も避難が早かったのでなんとか無事だったようだ。山奥に自治体のコミュニティが作られ、その閉鎖された場所でひっそりと暮らしていたらしい。

 今日から俺とあずさは一緒に住むことになり、横浜に部屋を借りていた。そして、これを機に小さな結婚式をあげようと思ったのが半年前の事だ。

「謙介さん、そしてあずさ、おめでとう! 本当に良かったな。二年前はこうして結婚式ができるなんて考えもしなかったよね」

 礼服をぴしっと着こなした紫苑が、両手を広げて感慨深げに俺たちに近づいて来る。その姿は、まるでファッション誌のモデルのようだ。

「よく来てくれたな。嬉しいよ」

 差し出されたその手に二人の手を重ねた。

「ありがとう、紫苑。あなたはいつも私を守ってくれたよね。船から飛び込む時に『俺も飛び込むぞ!』って言ってくれた時は本当に嬉しかったわ。私の背中に一番の勇気を与えてくれた」

 照れて頭を掻く紫苑の後ろには、礼服姿の春樹が立っている。その隣には春樹の妻が目をうるませて手を叩いていた。二人はあれからまもなく再婚し、幸せに暮らしているようだ。その横には俺たちの両親が立ち、何か話しながら目を細めてこちらを見ている。

「あずさちゃん、超きれいだよ。今日は呼んでくれてありがとー。今度は俺たちの結婚式にもぜひ来てくれよな」

「えーと。どなたでしたっけ?」

「あずさちゃんまで……。ここをこうして――はいだーれだ? って近藤だよ! はい、近藤って誰だよって顔しない。モヒカンやめた俺を見て、ひとり一回ずつボケるのはやめてくれええ!」

 両手で頭の中心に集めていた髪の毛を直しながら、モヒカンは地団駄を踏んだ。あれから鍛えているのか、身体つきはかなり男らしくなっている。

「冗談よ、ふふ。必ず行くわ。来年やるんでしょ?」

「そうだよ。紫苑さんも来てくれるらしい。場所はやっぱラスベガスがいいかなって。その時は旅費やらなんやら全てまかせてくれよな」

「いい? リンダさんにはもう賭け事やらせちゃダメよ?」

 内緒よと唇に手を当てながら首をふる。

「大丈夫。あいつ俺と付き合ってから、ギャンブルはすっぱりとヤメたからさ」

 リンダの尻に敷かれるものと思っていたあずさは、少し意外な顔をして微笑んだ。

 プリンセスラインのウエディングドレスを纏ったあずさの周りには人だかりができ、写真のフラッシュが絶え間なく焚かれている。今は化粧で隠れているが、あの事故が原因で彼女のほっぺたには斜めに小さな傷が残ってしまった。しかし、俺も彼女もそれを全く気にしていない。なぜなら、それは生きて帰れたという『勲章』なのだから。

「ゴリラくんの分までしっかり俺たちは生きないとな。あいつも天国で今日の事、きっと喜んでるよ」と耳元でささやくと、その傷を愛しむように指先で撫でながらあずさは「うん!」と答えた。彼はペドロさんの牧場で一番見晴らしのいい丘の上で、静かに眠っている。


「あら! おじいちゃんも来てくれたのね?」

 すーっと教会の正面に黒塗りのリムジンが停まった。続いて白いオープンカーがその後ろに停車する。運転手が回り込みリムジンの後部ドアを開けると、礼服を着た武蔵を連れて鬼頭小次郎が降りてきた。次に綺麗な足に良く似合う真紅のピンヒールがコツンと地面に着くと、赤いドレス姿のエリザベートが笑いながらこちらに手を振った。

「なんとか間に合ったか。バカもん! 知らせるのが遅すぎなんじゃ!」

 杖をついた小次郎に武蔵が手を貸し、あずさの所まで連れて行く。

「ごめんなさい。今日はわざわざワシントンから来てくれたの?」

「ちょうど仕事で日本に来ていたのじゃ。しかしますます綺麗になったの。どうだ、わしの秘書にならんか?」

 眩しそうに目を細めて、花嫁にハグをする。

「お尻噛まれるみたいから遠慮しとくわ。……ねえおじいちゃん、私たち幸せになれるかしら」

「なれるとも。謙介くんが隣にいればな。彼はちょっと無鉄砲な所があるが、心配いらんよ。おっと、少し遅くなったが、わしからのご祝儀じゃ。あの車を持ってけ」

「えええええ!?」

 リムジンの後ろに止まっている車をプレゼントすると言うのだ。

「本当にいいんですか? 俺、もらっちゃいますよ?」

 思いがけないサプライズに目を丸くした。

「武士に二言はない! そしてそれに乗ってそのまま新婚旅行に行け」

「それは無理ですが、ありがとうございます」

「親父、あんた武士じゃねえじゃん。つーか俺たちにも何かくれよ、再婚したんだし」

 このやりとりを聞いていた春樹は、俺の頭に大量の花を降らせながら珍しく小次郎に甘える。この親子も今回の騒動がきっかけで長いわだかまりが解けたようだ。

「いやじゃ。二度目のヤツにはやらん」

 みんなが爆笑する中、俺たちはゆっくりと階段を降りて行った。 



「やっと見つけたぜ。あの野郎、普通の髪型しやがって」

「待て、今は人目がある。後でゆっくり捕まえればいい」

 この結婚式の様子を、向かいのビルの影から伺っている二人組がいた。一人はやくざ風で鋭い目をした男、もう一人はスーツをびしっと着こなしたサラリーマン風の男だった。

「あいつ、俺たちの金を勝手に使いやがった。絶対に許さねえからな!」

 あつしの眼は殺意を含んで暗く光っている。

「まさか私たちが生きてるとは思ってもいないだろうね。実際、あの爆発で私も大けがを負ったし」

 リーマンの首から頬に掛けて大きな火傷の跡が見える。

「そいつの慰謝料もふんだくらないとな。おっと、隠れろ。あのおっさんがこっちを見てるぞ」

 さっと頭を隠したが、ほんの少しだけ遅かったようだ。

 それとは別に、道の反対側に停まった黒塗りのセダンの脇には、イヤホンを付けスーツを着た二人の外国人が立っていた。彼らはしばらく参加者の顔ぶれを伺っていたが、やがて春樹に近づいて行った。

「鬼頭春樹さんですね? このような時に申し訳ありません。新種の致死性ウイルスがカナダで発見され、流行の兆しを見せています。よろしければお力をお貸し願いたいのですが」

 流暢な英語で春樹に話しかける。そしてポケットから政府機関のバッジを取り出して見せた。

「あのさ、見れば分かると思うけど今結婚式の最中なんだよ。もう少しだけ後にしてくれないかな? もちろん協力はするつもりだ。ただしひとつだけ条件がある」

「なんなりと。ところで、あなたの他にもう一人『鍵穴』が存在するという噂がありますが、何かご存知ですか?」

「……いや、そんなヤツいないよ。『鍵穴』は俺だけだ。あとな、条件ってのは」

 黒服の耳元で何事かをささやく。

「承知しました」

 無線機を取り出すとどこかに連絡を入れた。すぐに黒塗りのバンが通りから少し外れた所に到着し、中からバラバラと黒服たちが飛び出ると向かいのビルに走っていく。しばらくすると、顔に布を被せられた二人組が、もがきながらもバンに強制連行された。

「あれでよろしいですか?」

「ああ。新郎には言うなよ。まさかあいつらが生きているとはね。まあ、国外追放ぐらいで許してやってくれ。よおし、せっかくだから君たちもこれを持って撒いてくれよ、急いでるならな」

 手元の花びらのたくさん入ったカゴを黒服に渡す。最初は困った顔をしていた彼らだったが、とにかく時間がないのか、もしくはやけになったのか、その毛むくじゃらの手で花をつかむと盛大に空に向かって撒きはじめた。


 黒服の人たちと話していた春樹が、にこにこしながら俺に近づいて来た。

「これが終わったら俺は少しのあいだ日本を離れる。いいか、謙介くん。君はまだ表舞台に出なくてもいい。だが、万が一俺に何かあったら君に連絡が行くはずだ。その時は頼むぞ」

 誰にも聞こえない様に俺の耳元でささやいた。花嫁は親戚たちに囲まれて、こちらには気づいていないようだ。

「でも、春樹さん」

「バカ。新婚ホヤホヤなのに、花嫁を心配させる気かよ。――あとは俺にまかせとけ」

「分かりました。ありがとうございます。必要ならいつでも飛んでいきますから」

 春樹はウインクをひとつすると、手を振りながら奥さんの方へ笑顔で歩いていった。


 ビッグミリオンチャレンジはこのように奇想天外な結末を迎えたが、俺は後悔していなかった。悲しい別れや苦しい選択ばかりだったけれど、色々な人に助けられ、あずさや素晴らしい仲間たちとこうして出会うことができた。身体を壊してうじうじと悩んでいた二年前に比べると、驚くほどに自分を成長させてくれたこのチャレンジに今は感謝している。

 今後も先祖が託した『鍵穴』の血族には、ずっとこのような危険がつきまとうのだろう。だが、俺たちが存在しなければ、世界は権力者たちの実験場であり続けるのだ。

「もしもーし。謙介さん、何ぼーっとしてるのよ」

 あずさが不思議な顔で俺の顔を下から覗きこんでいる。

「ごめん、考え事してた。よーし、みんなで写真とろうぜ!」

 午後の日差しがステンドグラスを通り、仲間の笑顔の上にきらきらと多彩な彩りを持って降り注いでいる。今日出来上がった写真は、あの旅を思い出すと同時に、仲間たちの心に深く刻まれる素晴らしいものになるだろう。

「ほら、みんな笑って! チーズ!」


 そう――これからもずっと、俺たちの旅は続いて行く。




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 ビッグミリオンⅡ Moral Hazard  に続きます。(執筆中) 

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